考古学一覧

第2936話 2023/02/04

富雄丸山古墳被葬者の出身地

富雄丸山古墳は、中央の主槨と盾形銅鏡などが出土した造出部の副槨からなる〝主従形古墳〟です。この被葬者たちについて、多元史観・九州王朝説の視点で考察します。
「洛中洛外日記」2995話(2023/02/03)〝富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地〟で「富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣(注①)を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要」としたように、南九州出自の有力豪族の可能性が高いように思われます。しかも同古墳が円墳としては日本最大(直径109m)ですし、出土した蛇行剣も最大(2.37m)のものですから、南九州地方トップクラスの有力家系の出身と見ることができます。
こうした南九州の豪族が畿内へ進出(恐らく銅鐸圏への侵攻)は九州王朝の指示によるものと思われますから、その侵攻ルートは瀬戸内海経由ではなく、黒潮に乗って四国南方から紀伊半島方面へと進んだ海上武装軍団だったのではないでしょうか。というのも、難所が多い豊後水道や多島海の瀬戸内を通るよりも、黒潮に乗りストレートに紀伊半島方面に進む方が圧倒的に早くて安全だと思うからです。
この理解が当たっていれば、宮崎県南部や鹿児島県志布志地方の大型古墳群(西都原古墳群、生目古墳群、唐仁古墳群など。注②)が注目されます。この地域であれば宮崎県北部地域よりも、黒潮に乗り紀伊半島方面に進出するのは容易です。
以上の考察に基づけば、富雄丸山古墳出土の「隼人の盾」に似た盾形銅鏡や南九州発祥とされる蛇行剣が出土したことを説明できるのではないでしょうか。更にこの進行方向の矢印(南九州から畿内へ)を重視すれば、従来言われてきたような西都原古墳群中の「畿内型前方後円墳」という呼称は不適切であり、逆に奈良県・大阪府の「南九州型前方後円墳」とするのが穏当となります。

(注)
①主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。
②吉村靖徳『九州の古墳』(海鳥社、2015年)による。


第2935話 2023/02/03

富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地

奈良新聞に掲載された富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡を見て、その形状と文様が平城京跡出土の「隼人の盾」(注①)に似ていることに気付きました。ともに「盾」と称されているのですから、形状が似ていることは当然ですが、盾形銅鏡の上下にある「鼉(だ)龍鏡」文様と「隼人の盾」の逆S字文様も似ています。
鼉龍鏡とは国産鏡の一種で、乳と呼ばれる突起の周りを想像上の動物「鼉龍」が巻き付いた文様のあるのが特徴です。盾形銅鏡には上下二つの鼉龍鏡文様がありますが、その「鼉龍」の巻き方向が上下で反対方向になっています。「隼人の盾」の逆S字の字体も、上と下とで文字のラインの巻き方向が異なります。   更にいえば、盾形銅鏡には鋸歯文があり、「隼人の盾」にも鋸歯文が上下にあります。このように、両者には形状と文様に共通の要素があります。もちろん、両者の年代(四世紀と八世紀)や材質(銅と木材)は異なり、偶然の類似という可能性も否定できません。
しかしながら、わたしは両者の関係は偶然ではないように思います。富雄丸山古墳からは蛇行剣も出土しているからです。この蛇行剣の出土は南九州が最も多く、当地で発祥したと考えられています。「ウィキペディア」では蛇行剣について次のように説明しています。

〝蛇行剣(だこうけん)は、古墳時代の日本の鉄剣の一つ(大きさによっては鉾と捉えられている)。文字通り剣身が蛇のように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)形状をしているため、こう名づけられている。
〔概要〕
西日本を中心に出土している鉄剣で、その形状と出土数から実用武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている。古墳や地下式横穴墓群などから出土している。九州地方発祥の鉄剣と考えられているが、5世紀初頭には近畿圏にも広がりをみせている。(後略)〟

以上のように、「隼人の盾」と蛇行剣の発祥の地(注②)が九州地方(南九州)であることから、富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要ではないでしょうか。

(注)
①「ウィキペディア」には次の説明がある。
〝隼人の楯(はやとのたて)は、奈良県奈良市の平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾。『延喜式』に見える「隼人楯」の記述と合致する特徴を備えた奈良時代の考古資料である。
〔概要〕
飛鳥・奈良時代、南九州の薩摩・大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民(夷狄)として扱われ、「隼人」と呼ばれた。(後略)〟
②主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。


第2934話 2023/02/02

富雄丸山古墳出土「盾形銅鏡」の用途

先日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から奈良新聞(1月26日付)をいただきました。一面には、富雄丸山古墳出土の「盾形銅鏡」のカラー写真が大見出し「類例のない盾形銅鏡」「蛇行剣は国内最大」とともに掲載されていました。関連記事は2面、3面、そして8面(全面カラー写真)にもあり、さすがは地元紙。奈良県民をはじめ、古代史ファンや研究者には貴重な記事と写真が満載でした。
この大ニュースを「洛中洛外日記」で紹介したいと思いましたが、あまりに類例のない出土であり、それを古田史学・多元史観によりどのように解説してよいのかもわかりませんでした。そのため困惑してきたのですが、触れないわけにもいかず、わたしなりに感じている疑問点についてだけでも紹介することにします。
記事によれば、盾形銅鏡や蛇行剣の埋納を〝「辟邪」を期待か〟(同紙3面)との見出しで、和田晴吾さん(兵庫県立考古博物館長)や福永伸哉さん(大阪大学教授)の「辟邪」思想の現れとするコメントを掲載しています。このような捉え方も理解できますが、この「類例のない盾形銅鏡」の本来の用途は「辟邪」だったのでしょうか。橿原考古学研究所の調査によれば、「極めて細かいミクロレベルの研磨痕跡が確認され、鏡と同じ鏡面を作っていることがわかった」とあり、同品を〝鏡〟としてよいようです。しかし、わたしが知りたいのは、この鏡面が通常の銅鏡と同様の凸面なのか、それとも凹面や平面なのかという点です。もし、盾形銅鏡が埋納を前提とした「辟邪」用の特注品であれば、太陽光を拡散反射できる凸面鏡に作ると思うのですが、この大きさ(高さ64㎝、最大幅31㎝、重さ約5.7kg)ですから、日常的実用品として作ったのであれば、被葬者が生前に愛用した〝姿見〟だったととらえることもできそうです。その場合、鏡面は平面か凹面になっていると思われます。ですから、この鏡面の形式を知りたいのです。引き続き、報告書や報道に注視します。(つづく)


第2761話 2022/06/13

坪井清足氏の「鬼ノ城」六世紀築城説

 鬼ノ城や麓の五世紀の城塞跡を発見した高橋護氏は、鬼ノ城を七世紀後半の築城とし、『日本書紀』天武紀に見える吉備の大宰の山城とされました。他方、『鬼城山』(注①)に収録されている坪井清足氏(注②)の「鬼ノ城神籠石との出会い」では六世紀築城説が述べられています。鬼ノ城の築城は七世紀後半頃が穏当と、わたしは判断していますが、坪井氏の説明にも一理あると感じました。七世紀後半築城説に対して、坪井さんは次のような疑問を投げかけています。

 「ところがどうしても納得がいかないことがある。というのは底に矩形の列石を百陳べその上を版築で築きあげる城壁構築法は韓半島の三国時代に百済にしか例がなく、高句麗、新羅にはなく、後者には城壁は石垣作りしかみられないことで、百済でも7世紀の扶余の扶蘇山城などではこの方法は用いられておらず、百済滅亡後亡命した百済人に指導されて作ったと記録され大野城以下天智築城のいずれの城壁もこの方法で築いていないこと。さらに九州では神籠石の城門は精査されていないが鬼ノ城の四門と天智築城の城門の構造の作りが異なっていることがあげられる。
 (中略)いずれにせよ韓半島で百済でしか見られない城壁構築法、しかも百済でも最後の都扶余ではその方法をやめてしまい、したがって百済からの亡命者の指導で作られた天智築城のいずれにも使用されていない城壁構築法が、天智朝に継続する天武朝の吉備の大宰の築城につかわれ、さらに岡山市東端の大廻小廻り、対岸の坂出市城山に見られ、吉備の大宰時代よりほんの三十年前に築城された屋島城には用いられていなかったのは納得ゆかない理由である。」179~180頁

 坪井さんが根拠とした、百済の六世紀以前の築城技術については今のところ当否を判断できませんが、その技術が天智期築城とされる大野城や屋島城などには見られず、岡山県の鬼ノ城・大廻小廻と坂出市の城山にのみ見られるとすれば、その理由は多元史観・九州王朝説でなければ解明できないように思います。古田学派による本格的な鬼ノ城研究が待たれます。(おわり)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②坪井清足(つぼい きよたり、1921年~2016年)は日本の考古学者。元奈良国立文化財研究所所長、元元興寺文化財研究所所長。勲三等旭日中綬章、文化功労者。大阪府出身。(ウィキペディアによる)


第2760話 2022/06/12

鬼ノ城山麓の先行(五世紀)土塁

 鬼ノ城の造営年代について、わたしは七世紀後半頃が穏当と判断していますが、城内の礎石跡や西門の造営尺が七世紀中頃以前のものと見ることもでき、悩ましいところです。それらとは別に、鬼ノ城の調査報告書(注①)には、鬼ノ城に先行する五世紀初頭の「城塞跡」が鬼城山々麓から発見されたことが報告されています。
 高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」(注②)に土塁発見の経緯が次のように紹介されています。

 「鬼ノ城を発見した当初、累線を追って何日も山頂を巡っていた。浸食の進行や、灌木の繁茂で明確に確認できない累線を追及していたのである。そんなある日、麓に目をやると不思議な光景が認められた。街道も通っていないのに、街村のように直線に谷を横断した家並みが見られたのである。不思議に思って現地を訪れてみると、周囲よりも一段高い土地が直線に伸びており、この土地を敷地として建てられた家並みであった。盛土は殆ど失われて整地されているが、東端では新池北側の丘陵の端に向かって斜面を這い上がっているのが観察された。
 その状況から基肄城の山麓などに存在している小水城と呼ばれている防塁に相当するものではないかと考えていたのである」『鬼城山』181頁。

 この土塁跡は「池ノ下散布地」と称され、鬼城山の東南1.8kmの山麓にあり、血吸川によって形成された谷部が総社平野に向かって大きく開放する位置に当たっています(総社市西阿蘇)。岡山県による発掘調査(2000年2~3月)の結果、古代の防塁であることが確認され、土塁の北にある山上からは掘立柱建物跡も発見されました。発掘調査結果は「付章 池ノ下散布地の試掘結果」(注③)に詳述されています。そして土塁基底部に敷かれた粗朶の葉の炭素年代測定値が五世紀初頭(AD410年)を示しました(注④)。
 この測定結果を受けて、高橋氏は次のように自説を表明されました。

 「5世紀の初め頃、吉備で起こった大きな出来事は、造山古墳群の築造であるが、それと並んでこの奥坂の土塁の築造があったのである。(中略)土塁から正面に見える山上に位置していることからみて、土塁と一体の遺跡である可能性を考えて良いのではないだろうか。
 年代からみても、好太王軍と戦った倭の王は、この時代では最大の大王陵を築いた造山古墳の被葬者であったと考えられる。高句麗軍と戦った経験や、半島諸国の戦いの実績から城塞の重要性を知って、谷の入り口に土塁を築く高句麗型の城塞を造ったものであろう。(中略)
 この城塞の築造が、後に足守宮の伝説を生む原因の一つになったものと考えられるが、土塁の前面に御門という字が遺されていることから、吉備太宰府や惣領所も奥坂に置かれていた可能性が考えられる。」同、185頁

 この高橋氏の見解は「倭の五王」吉備説とでも言うべきものです。この結論には賛成できませんが、吉備の大宰や鬼ノ城の先行城塞などについて、九州王朝説・多元史観による検討が必要であることを改めて認識させられました。ちなみに、高橋氏は鬼ノ城を発見した考古学者です(注⑤)。(つづく)

(注)
①管見では鬼ノ城山史跡に関する次の報告書がある。
(1)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書203 国指定史跡鬼城山』岡山県教育委員会、2006年。
(2)『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
(3)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」、①(2)所収。
③亀山行雄「付章 池ノ下散布地の試掘調査」、①(1)所収。
④「付載2 鬼城山における放射性炭素年代測定」、①(3)所収。
⑤河本清「岡山県内の史跡整備事業における鬼城山(鬼ノ城)整備の位置づけ」(①(2)所収)には、鬼ノ城発見の経緯を次のように紹介している。
 「鬼ノ城跡の発見は1970(昭和45)年であった。その発端は、発見者高橋護氏が以前から『日本書紀』に記載されている「吉備の大宰」の居場所探し、つまり吉備の大宰府の場所探しに興味を示したことによる。その探りの視点はユニークであった。九州の大宰府の後背地には大野城跡があるので、この関係を重要視して吉備中枢において古代の山城さがしを始めたことによるものであった。そして以前から起きていた鬼城山の山火事跡地を踏査して、今の西門跡の東先で神籠石系の列石を発見したことによる。」189頁。


第2759話 2022/06/11

鬼ノ城西門と北魏永寧寺九重塔の造営尺

 鬼ノ城西門の造営尺27.3cm(正確には27.333cm)に極めて近い尺として、北魏洛陽の永寧寺(えいねいじ、516年創建。注①)九重塔造営尺があるとの指摘が『鬼城山』(注②)にありましたので、調べてみました。
 奈良国立文化財研究所の調査報告書(注③)によれば、永寧寺九重塔は東西101.2m、南北97.8mの堀込地業(ほりこみじぎょう)上に一辺38.2m、高さ2.2mの基壇とあります。基壇の二つの数値(38.2mと2.2m)で完数に近くなる尺は約27.3~27.4cmで、それぞれ約140尺と約8尺になります。正確に両者を完数とできる尺はありませんので、複数の尺が併用されたのかもしれません。
 古代中国の尺に27.3cmのような尺は見当たりませんので(注④)、鬼ノ城西門の造営尺が北魏永寧寺九重塔造営尺に関係するとしても、その造営時期が六世紀まで遡るとするのは無理があるように思います。たとえば、鬼ノ城第0水門流路下流から出土した木製品(方形材、加工材)の炭素年代測定により、「伐採年代をAD680年より新しい年代とは考えにくいとし、西門の築造を680年以前と推測している。」とあります(注⑤)。これは出土土器編年とも整合し、鬼ノ城築城年代を七世紀後半頃とする説を支持しています。
 なお、永寧寺は菩提達摩が訪れた寺としても有名で、そのことが『洛陽伽藍記』(注⑥)に次のように記されています。

 「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

 なお、菩提達摩の年齢を「一百五十歳」とありますが、二倍年齢としても75歳ですから、当時のペルシアから中国まで来訪できる年齢とは考えにくく、信頼しにくい年齢記事です。

(注)
①北魏の孝明帝熙平元年(516年)に霊太后胡氏(宣武帝の妃)が、当時の都の洛陽城内に建立した寺。高さ「千尺」の九重塔があったと『洛陽伽藍記』にある。永寧寺の伽藍配置は日本の四天王寺の祖形とされる。
②『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
③『北魏洛陽永寧寺 中国社会科学院考古研究所発掘報告』奈良国立文化財研究所、1998年。
④山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に掲載された「古代尺の分類図」には27.3cm尺に近い尺は見えない。山田氏に鬼ノ城西門造営尺についての調査協力を要請した。
⑤『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。177頁。
⑥『洛陽伽藍記』全五巻。六世紀、東魏の楊衒之の撰。


第2758話 2022/06/10

鬼ノ城の造営年代と造営尺の謎

 鬼ノ城のビジターセンターで購入した報告書『鬼城山』(注①)を何度も読んでいるのですが、従来の認識ではうまく説明できないことがいくつもありました。その一つが、鬼ノ城の造営年代と造営尺です。わたしはいわゆる神籠石山城の造営年代を多くは七世紀後半と考えてきました。その根拠を「洛中洛外日記」(注②)で次のように説明しました。一部転載します。

【以下、転載】
 古代山城研究に於いて、わたしが最も注目しているのが向井一雄さんの諸研究です。向井さんの著書『よみがえる古代山城』(注③)から関連部分を下記に要約紹介します。

(1) 1990年代に入ると史跡整備のために各地の古代山城で継続的な調査が開始され、新しい遺跡・遺構の発見も相次いだ(注④)。
(2) 鬼ノ城(岡山県総社市)の発掘調査がすすみ、築城年代や城内での活動の様子が明らかになった。土器など500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のもので、大野城などの築城記事より明らかに新しい年代を示している。鬼ノ城からは宝珠つまみを持った「杯G」は出土するが、古墳時代的な古い器形である「杯H」がこれまで出土したことはない。
(3) その後の調査によって、鬼ノ城以外の文献に記録のない山城からも7世紀後半~8世紀初め頃の土器が出土している。
(4) 最近の調査で、鬼ノ城以外の山城からも年代を示す資料が増加してきている。御所ヶ谷城―7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城―8世紀初めの須恵器水瓶、永納山城―8世紀前半の畿内系土師器と7世紀末~8世紀初頭の須恵器杯蓋などが出土している。
(5) 2010年、永納山城では三年がかりの城内遺構探索の結果、城の東南隅の比較的広い緩やかな谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器などが出土している。
【転載終わり】

 以上の見解は今でも変わっていませんが、鬼ノ城については七世紀前半以前まで遡る可能性も考える必要がありそうです。確かに鬼ノ城から出土した土器は七世紀の第4四半期頃の須恵器杯Bが多く、その期間に鬼ノ城が機能していたことがわかります。
 他方、城内の倉庫跡の柱間距離から、その造営尺が前期難波宮(652年創建)と同じ29.2cm尺が採用されていることから、倉庫群の造営が七世紀中頃まで遡る可能性がありました。更に倉庫群よりも先に造営されたと考えられる外郭(城壁・城門など)の造営尺は更に短い27.3cmの可能性が指摘されており、時代と共に長くなるという尺の一般的変遷を重視するのであれば、外郭の造営は七世紀前半以前まで遡ると考えることもできます。
 この27.3cm尺は鬼ノ城西門の次の柱間距離から導き出されたものです。
 「(西門の)柱間寸法は桁行・梁間とも4.1mが基準とみられ、前面(外側)の中柱二本のみ両端柱筋より0.55m後退している(棟通り柱筋との寸法3.55m)。」『鬼城山』211頁
 この4.1mと3.55mに完数となる一尺の長さを計算すると、27.3cmが得られ、それぞれ15尺と13尺となります。その他の尺では両寸法に完数が得られません。この短い27.3cm尺について『鬼城山』では、北魏の永寧寺九重塔(516年)の使用尺に極めて近いとしています。今のところ、27.3cm尺がいつの時代のものか判断できませんが、鬼ノ城外郭の造営は七世紀前半か場合によっては六世紀まで遡るのかもしれません。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
③向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
④播磨城山城(1987年)、屋島城南嶺石塁(1998年)、阿志岐山城(1999年)、唐原山城(1999年)など。


第2756話 2022/06/08

鬼ノ城の列石と積石遺構

 今回の鬼ノ城訪問と『鬼城山』(注①)の読書により、わたしの認識は大きく改まりました。そのことについて紹介します。
 古代山城には朝鮮式山城と神籠石山城とに分けられることが多く、『日本書紀』などに記されているものを朝鮮式山城、文献に見えない山城を神籠石山城とする区別が一般的になりました。また、その特徴から、一段列石が山を取り囲むタイプを神籠石山城、積石で囲むタイプを朝鮮式山城とする場合もありました。近年ではより学術的な呼称として、『日本書紀』天智紀に見える山城を「天智期の古代山城」とする表記も目立ってきました。また、「○○神籠石」をやめて、「○○山城」というように、「山名・地名」+「城」という表記にすべきとする意見も出されています。例えば「阿志岐城」(筑紫野市)のように、旧称の「宮地岳古代山城」に替えて、「地名」+「城」に変更した例もあります(注②)。
 文献に見えない場合は、この表記方法(「山名・地名」+「城」)がよいように思いますが、「鬼ノ城」(きのじょう)のような著名な通称もありますので、とりあえず「鬼ノ城」という表記をわたしは使用しています。他方、行政的な山名は「鬼城山」(きのじょうざん)とされており、遺跡名は「史跡鬼城山」と表記されています。
 これまで、鬼ノ城は一段列石(神籠石タイプ)と積石(朝鮮式山城)の両者が混在したタイプとわたしは認識していたのですが、今回の訪問により、それほど単純なものではないことを知りました。鬼ノ城は一段列石であれ、積石であれ、その上部に版築土塁が築かれています。これらの防塁・防壁(高さ5~6m)により、鬼ノ城は強力な防御施設になっているのです。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②『阿志岐城跡 阿志岐城跡確認調査報告書(旧称 宮地岳古代山城跡) 筑紫野市文化財調査報告書第92集』筑紫野市教育委員会、2008年。


第2755話 2022/06/07

鬼ノ城を初訪問

 先月、四国ドライブの帰途に、念願だった鬼ノ城(岡山県総社市)を初訪問しました。期待に違わず、九州の大野城や基肄城に並ぶ見事な巨大山城でした。山頂にある鬼ノ城遺跡近くまで道路が舗装されており、クルマで行けたのは有難いことでした。道幅が狭く、対向車があれば離合が難しい所が何カ所もありましたが、幸いにも、すれ違ったのは一台だけで、なんとか無事に往復できました。トヨタのハイブリッドカー、アクア(1500cc)をレンタルしたのですが、車種的にはこのくらいのサイズまでがよいと思います。
 鬼城山上には駐車場と鬼城山ビジターセンターがあり、その展示室は必見です。ガイドブックや報告書も販売されており、中でも『鬼城山』(注①)は研究者には特にお勧めです。拙稿「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」(注②)などで紹介した『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』(注③)はweb上で閲覧できますので、こちらと併せて読むことにより、鬼ノ城への理解が深まります。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。
 同「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 同「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
③『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。


第2733話 2022/04/30

高知県四万十市(侏儒国)から弥生の硯が出土

 昨日の「多元の会」リモート発表会では吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)が「『ねずみ・鼠』について」を発表されました。高知県の別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)が初めて参加され、最後にご挨拶をされました。そのとき、高知県から弥生時代の硯(すずり)が発見されたとの報告がありました。わたしからお願いして、別役さんに地元での報道記事をメールで送っていただきました。
 というのも、高知県から弥生時代の硯が出土したと聞いて、これは倭人伝に見える侏儒国(足摺岬方面)での硯使用、すなわち文字が使用されていた痕跡ではないかと考えたからです。そうであれば、古田先生の倭人伝の里程記事解釈(注①)が正しかったことの証明にもなるからです。そこで、送っていただいたデータやweb上の報道を調べたところ、硯出土が確認された県内3箇所の遺跡(注②)の内、最も古いのが四万十市の古津賀遺跡群で、弥生時代中期末から後期初頭にかけての遺跡とされています。古田先生が侏儒国に比定された足摺岬方面(土佐清水市)の北側に四万十市がありますから、位置も時代も倭人伝に記された侏儒国領域と見ることができます。
 同硯発見の詳細な続報と調査報告書の発行が期待されます。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古津賀遺跡群(四万十市)、祈年遺跡(南国市)、伏原遺跡(香美市)。

【転載】〈読売オンライン 2022/04/27〉
弥生期の硯片発見
弥生時代の硯の一部を示す柳田客員教授(南国市で)
四万十市など3遺跡 県内初
文字が使われた可能性

 四万十市の古津賀遺跡群から、弥生時代中期末から後期初頭にかけてのものとみられる硯(すずり)の一部が出土していたことが確認され、県立埋蔵文化財センター(南国市)と四万十市教育委員会が26日発表した。県内で弥生時代の硯が見つかるのは初めてで、紀元前後に県内に文字を理解できる人がいた可能性を示す。同センターは「この地域の弥生時代像を見直すきっかけになる」としている。(飯田拓)

 古津賀遺跡群の弥生時代の竪穴住居跡から硯の一部が四つ出土した。一つの遺構から見つかった数としては国内最多という。サイズはそれぞれ縦横数センチ程度、厚さ数ミリ~1センチ程度。ほかに祈年遺跡(南国市)の弥生時代の遺構と、伏原遺跡(香美市)の弥生から古墳時代にかけての遺構からも硯の一部が一つずつ出土していた。
 この時代の硯は平たい形をしており、墨をする「陸」と墨汁をためる「海」が分かれた現在の硯とは異なる。硯の上で墨を潰し、水を加えて使っていたとされ、ここ数年は九州北部などで同様の確認例が増加している。政治的な交流や荷札に文字を書く際などに使われたとみられる。
 今回の硯が見つかった三つの遺構の中では、古津賀遺跡群のものが時代的に最も古く、地理的にも九州北部に近いことから、県西部から中部に向けて、少しずつ文字使用が広がった様子も想像できる。他の遺跡や出土品を調べれば、同様の硯が出てくることも考えられるという。
 同センターは2021年11月に弥生時代の硯に関する研修を開催し、専門家として招いた国学院大学の柳田康雄・客員教授が、 砥石(といし)などとして保管していた県内の出土品を分析。今回の六つの出土品は、中央部がわずかにくぼんでいたり、角の部分を滑らかに加工していたり、特有の特徴が見られたことから硯と判断したという。
 現物は28日~5月8日に同センターで展示し、4月29日と5月5日に調査員が説明会を実施する(土曜休館)。また5月10~29日には四万十市郷土博物館に場所を移して展示する(水曜、5月18~20日休館)。問い合わせは同センター(088-864-0671)へ。

【写真】出土した硯。関西例会(2018年3月)で別役さんと。


第2695話 2022/03/06

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (5)

 須恵器セリエーションの分類作業におけるハードル(d)は考古学者でなければ判断を誤りかねないケースで、文献史学の研究者にはかなり難しいものです。

(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 出土土器型式の地域差や定義の違いにより、分類を間違えそうになったという、わたしの体験を紹介します。「洛中洛外日記」〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟(注①)で紹介しましたが、牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注②)に掲載された須恵器坏に次のような説明があり、わたしは途方に暮れました。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋に「つまみ」はないが、説明ではそれらを「坏G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、説明ではでは「坏B」とする。

 「つまみ」がない須恵器蓋を坏Gや坏Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、調査報告書を発行した大野城市に上記の点について質問したところ、次の回答が届きました。その要旨を転記します。

【質問1】26頁第16図73・74の「坏G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「坏G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏G」と表現しています。
【質問2】37頁第24図83の「坏B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏B蓋」には「つまみ」があり、坏身には「足=高台」を有しています。
 「坏G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏B」と表現しています。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、坏G蓋・坏B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。

 以上の回答とともに、資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋坏については、奈良文化財研究所が使用している名称坏H(古墳時代通有の合子形蓋坏)、坏G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、坏B(高台付きの坏)、坏A(無高台の坏)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 すなわち、蓋に「かえり」が付いているものは「つまみ」がなくても坏Gに分類していたのです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの坏G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、坏Gに見なすということのようです。蓋に「つまみ」がない坏Bも同様です。こうしたことから、調査報告書の須恵器を分類する際は「つまみ」の有無だけでの単純な型式判断で済ませることなく、地域差も考慮しなければならないことを知ったのです。
 以上のことから、太宰府関連遺構出土の須恵器坏セリエーション分類作業は、当地の考古学者の協力を得たり、地域差について教えを請うことから始めなければならないことに気づき、わたしは土器編年研究に一層慎重になりました。他方、土器セリエーションによる相対編年は考古学界の先進的研究者に採用されつつあります。その成果が古田史学・九州王朝説と整合する日が来ることを期待し、わたしたち古田学派研究者による精緻なセリエーションでの土器編年確立が待たれます。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2547話(2021/08/22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟
②『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。

 


2694話 2022/03/05

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (4)

 須恵器セリエーション分類作業におけるハードルとして次の四点を示しました。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 まず最初に、(c)についての体験を紹介します。水城の築造時期を探るために考古学エビデンスとできる堤体内からの出土須恵器に注目し、報告書(注①)を精査したところ、東門付近の木樋遺構SX050とその木樋付近SX051から須恵器が出土していました(第5次)。これらの土器は水城堤体内部(基底部)からの出土であり、築造当時までに使用あるいは廃棄されていたものですから、その土器年代以後に水城が築造されたことを意味します。
 『水城跡 下巻』192頁の図面(Fig156)に掲載された須恵器はSX050(坏身1点)とSX051(坏蓋5点、坏身6点、高坏の脚2点)の14点ですが、高坏の2点を除けばいずれも坏Hと呼ばれる型式の須恵器坏です。他方、山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注②)では次の説明がなされています。

 「水城跡では水処理を目的とした木製の箱型の暗渠である『木樋』が土塁の下に設置されているが、木樋の設置坑は長さ80㍍にわたって水城を縦断するように土塁の構築中に設定され、土塁の構築とともに埋められていた。5次と62次調査ではこの設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」202頁

 更に「第2表 遺跡出土遺物表」(213頁)中の「水城跡」「5次」「SX050,051」欄の坏Hと坏Gに「○」印があり、同木樋遺構から須恵器坏HとGが出土していることを指示しています。しかし、土器の図面(Fig156)には坏Gが見当たらないので、わたしは困惑しました。しかし、太宰府市教育委員会の考古学者である山村さんが、「設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」と明記していることから、少量の坏Gが伴出していることを疑えません。従って、図面(Fig156)に掲載された14点以外にも須恵器が出土していたと考えざるを得ません。更に、「短脚の高坏が一定量出土」という表記からも、図面(Fig156)に掲載されている2点以外にも「一定量」の高坏が出土したことがうかがえます。
 このことから、水城堤体内(木樋遺構SX051)から出土した須恵器の全てが報告書に掲載されているわけではないことに気づいたのです。ですから、正確な土器セリエーションを確立するためには、報告書に掲載されていない全ての出土須恵器のデータが必要となるわけです。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』192頁Fig156に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。
②山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。