太宰府条坊の南端発見
先月の21日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から新聞の切り抜きがファックスされてきました。「大宰府南端の道路発見」「筑紫野市で奈良時代の条坊」という見出しとともに、太宰府条坊の南端が出土し、「太宰府」市街地の南北が1.7kmと確定したことが報じられていました。
この発見により、太宰府条坊が南北に22条、東西に24坊あったことが確定したようですが、このこと自体は以前から推測されてきたことなので、とりたてて驚くべきことではありません。しかし、この新聞記事にある「条坊」の説明欄に次のように記されていることに注目しました。
「大宰府の条坊は7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとみられ、(以下略)」
太宰府条坊が7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとする説は、誰の説かは知りませんが、もしそうであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京よりも早く太宰府建設が始まったことを認めたことになります。近年の説では藤原京の初期条坊工事は天武の時代、684年頃からとする見方が有力となっています(木下正史『藤原京』中公新書、p.61)。従って、太宰府条坊建設が7世紀中頃からとなれば、大和朝廷一元史観に立てば、天皇家は自らの都よりも、遠く離れた太宰府の条坊都市を先に建設し始めたということになります。こんな珍説が世界で通用するでしょうか。
わたしは年輪年代測定により「太宰府」の考古学編年が100年ほど早くなるという事実などから、九州王朝の都太宰府は通説の8世紀初頭ではなく7世紀初頭に完成したと論じたことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号)。今回の新聞記事は、ようやく「50年」ほど古田史学に追いついてきた学界の現状(ゆらぎ・とまどい)を象徴しているのかもしれません。
「考古学」一覧
第74話 2006/04/30
浮石とコウヤマキ
前回で紹介した、大野城跡から出土した木柱に「孚石都」と彫られていたというニュースですが、この「孚石」が柱の産地名だとしたら、どこかに「浮石」(うきいし)という地名が残っているのではないかと思い、インターネットで探してみました。そうしたら、ありました。場所は下関市の豊田町という所で、かなり山間部のようです。ここなら、柱になりそうな木材もありそうですし、太宰府へ運搬するにしても、そんなに遠隔地というわけでもありません。「孚石」の有力候補ではないでしょうか。他に北部九州近郊に「浮石」という地名はなさそうですので、今のところ唯一の候補地と言ってもいいでしょう。もし他にもあれば、教えて下さい。
地名の一致以外に、もう一つ候補地として欠かせない条件があります。それはこの柱の材質であるコウヤマキ(高野槙。高野山に多く自生していることからこの名前がつけられたらしい)の産地であることです。コウヤマキは日本にしか自生しておらず、東北地方から九州まで分布しているのですが、九州には熊本県や宮崎県に多く、福岡県や佐賀県には群生していないようなのです。問題の下関市の浮石にコウヤマキが群生していれば、候補地としては更に有力になります。わたしも調べていますが、下関市の浮石にコウヤマキが産出するかどうか、まだ判っていません。これもご存じの方がおられれば、是非教えて下さい。
ちなみに、コウヤマキは水に強く、古代から古墳の木棺などに使用されてきたそうです。確か百済の武寧王のお墓の棺もコウヤマキだと聞いた記憶があります。そんな丈夫な木だったからこそ、現代まで刻木が遺存したのでしょうね。なお、この刻木問題について、建築の専門家である飯田満麿さん(本会会計。平城京跡の南大門建設なども手がけられた古代建築の専門家)が5月の関西例会で発表されるそうです。楽しみです。
第73話 2006/04/23
大野城から刻木文字が出土
このところ太宰府から興味深い考古学的ニュースが続いています。その筆頭は、4月15日に新聞報道(日経、他)された、大野城跡から出土した木柱に「孚石部」と彫られていたというニュースでしょう。
日経新聞によれば木材に彫られた文字としては国内最古級のもので、年輪年代測定により648年以降に伐採されたものとされています。更に重要な指摘としては、「部」は「都」とする専門家の意見も紹介されていることです。たしかに新聞やインターネットに掲載された写真を見る限り、「部」よりは「都」という字に見えます。
そうすると、この「都」は九州王朝の都である太宰府を指し示すものと考えられます。出土した場所も大野城の正門、太宰府口門であることも示唆的です。このように今回の発見は九州王朝説にとって大変有利な内容を含んでいます。
文字の「孚石」(うきいし)については木材の産地との見方が強いようですが、九州王朝の都の名称というアイデアを私は抱いています。ただこの場合、現地に「ウキイシ」というような地名が遺存していてほしいところですが、今のところ見つけていません。やはり、産地名と考えるのが良いのかも知れません。
この柱の伐採年代が年輪年代測定によれば648年以降とされている点も要注意です。『日本書紀』の記述から、通説では大野城の完成を665年、すなわち白村江以後とされているからです。普通、木材は有効利用するためにそんなに外部を削ることはしないと思われるので、665年の伐採とすれば、この柱は17年分の年輪部分を削ったことになり、ちょっと不自然なように思います。やはり、古田説のように大野城や水城は白村江戦以前に太宰府防衛の為に築造されたと考えるべきです。そして、そう考えると、通説のように太宰府の成立を八世紀初頭としたのでは、大野城や水城は何を防衛したのか全く意味不明となってしまいます。太宰府もそれ以前(7世紀初頭)に作られたとするべきです。この点、拙論「よみがえる倭京(太宰府)」(『古田史学会報』50号)を参照下さい。
それにしても、すごい刻木文字が発見されたものですね。6月25日まで太宰府市の九州歴史資料館で公開されるそうです。
第66話 2006/03/11
多元史観の木簡研究
金石文や文献など、古田史学は多方面にわたり、多元史観による新たな歴史学を展開してきました。しかし未だほとんど手つかずの領域があります。その一つが木簡研究です。
すでに古田先生により、伊場木簡の「若倭」の多元史観的読解などが提起されていますが(『倭人伝を徹底して読む』)、本格的で総合的な研究は古田学派内部でもまだ行われていません。そうした中で、「古田史学の会・東海」の林俊彦さんによる論稿「呪符の証言」(「東海の古代」69号、『古田史学会報』73号転載予定)などは、多元史観による新たな木簡研究であり、注目されるところです。
木簡は記紀などのように近畿天皇家により政治的に改竄編集された史料ではなく、文字通りの同時代史料であるため、史料批判などが行いやすく、史料として扱いやすいのですが、他方、断片的文字史料であり、主に「荷札」として使用されたケースが多いため、歴史事実全般を解明する上では多くの限界もかかえています。
そのような木簡研究を、わたしは今年のメイン研究テーマとしました。そして、その成果報告の第一段として、「木簡のONライン−九州年号の不在−」を3月18日の関西例会にて発表します。多くの皆さんに聞いていただき、批評していただきたいと願っています
第60話2006/01/28
鶴見山古墳出土毛髪、DNA分析へ
今日は朝から一日、ベートーヴェンの第九(フルトヴェングラー指揮・バイロイト祝祭管弦楽団、1951年)を繰り返し聴いていました。合唱の部分では、フロイデ・シェーネル・ゲッテルフンケンと鼻歌混じりで『古田史学会報』72号の校正と編集の仕上げを行い、ようやく完成させました。後は印刷所へ郵送するだけです。それにしても、ベートーヴェンの第九を聴くと、元気が出てくるから不思議です。
話は変わりまして、今月の21日、福岡市の上城誠さん(本会・全国世話人)から同日付けの西日本新聞がファックスされてきました。見出しには「磐井一族の毛髪初出土」「市教委DNA分析へ」の文字が。
「洛中洛外日記」第21話で紹介した、八女市鶴見山古墳出土の銅鏡片に付着していた毛髪のDNA分析が行政により行われることになったようです。別にわたしの提言が受け入れられたというけではないでしょうが、磐井一族の毛髪が注目され、科学的に分析されることは大変よいことです。歓迎したいと思います。
記事によれば、「DNAが分析できれば、被葬者の性別が特定されるほか、出自が在地系か渡来系か、病気の有無などから死因の解明にもつながる」とありますが、どうせやるのなら、地元の協力も得て、御子孫がいないかどうかも調べて欲しいものです。わたしたちの調査では九州王朝の御子孫の家系が一部明らかになっていますから、是非、ご協力の下、調査してもらいたいものです。
フランスでは氷河に閉じこめられたかなり大昔のミイラ化した遺体のDNA鑑定を行い、その御子孫を発見したという話を聞いた記憶があります。日本でも同様の分析調査は可能だと思います。御子孫のプライバシー尊重を前提としながらも、取り組んでもらいたいと思いますが、いかがでしょうか。
第52話 2005/12/10
石走る淡海
『万葉集』などの歌枕には意味不明のものが少なくありません。「石走る淡海」もその一つです。淡海などの歌枕とされる「いわはしる」と言われても、琵琶湖を岩が走るのを見たことも聞いたこともありません。ところが、最近ちょっと面白いアイデアがひらめきましたので、ご披露したいと思います。
淡海は本来は琵琶湖ではないという問題については、既にこのコーナーでも紹介しましたが(第17話)、現在の所、熊本県の球磨川河口とする西村・水野説が有力です。この説に従えば、もう一つ注目すべきことがあります。それは球磨川河口の北部に位置する宇土半島から阿蘇ピンク石が産出するという事実です。このことも、以前に触れたことがありますね(第25話)。本年この阿蘇ピンク石の巨岩を復原された古代船で近畿まで運ぶプロジェクトがありましたが、これこそ「淡海」を「石走る」にピッタリではないでしょうか。
古代において、遠く近畿まで阿蘇ピンク石を船で運ぶ姿を見た歌人達が「石走る淡海」と詠んだ、そのように思うのです。それは、勇壮かつかなり異様な印象深い光景に違いありません。もしかすると柿本人麿も、球磨川河口の海を阿蘇ピンク石を積んだ船が滑るように走る情景を見たのかも知れません(『万葉集』29番歌に「石走る淡海」が見える)。
いかがでしょうか、このアイデア。かなりいけそうな気がするのですか。もし当たっていれば、「石走る」という枕詞も九州産ということになり、最初に九州王朝下で作歌されたことになります。
第25話 2005/08/26
阿蘇ピンク石は『大王のひつぎ』か?
8月20日、古田史学の会関西例会が行われました。今回も研究報告が目白押しで、来月回しになったものもありました。珍しく考古学関連の報告が三つもありましたが、中でも伊東義彰さん(本会会計監査・生駒市)の『「大王のひつぎ」に一言 ─読売新聞七月二五日・八月三日の記事について─』はタイムリーでもあり面白い内容でした。
熊本県宇土市から産出する阿蘇ピンク石が近畿などの古墳の石棺に使用されていることは有名ですが、読売新聞社などが主催して、そのピンク石を古代船で大阪府高槻市の今城塚古墳まで運搬するという試みが行われています。伊東さんはこのプロジェクトには大賛成だが、阿蘇ピンク石が近畿の大王(天皇)の石棺に使用されているかの様な新聞記事の取り扱いは、誤解をまねくとして、苦言を呈されました。
伊東さんの調査によれば、5世紀後半から6世紀前半の古墳ではピンク石使用石棺の古墳は12例確認されています。ところがそのほとんどが比較的小規模な古墳であり、大王級の古墳は今城塚古墳だけなのです。従って、阿蘇ピンク石を「大王のひつぎ」とする表現は不適当ということになります。この事実には、わたしも少し驚きましたが、更に驚いたのが、九州の古墳では阿蘇ピンク石が石棺に使われた例はないということです(現時点では未発見)。
考古学に疎いわたしは、九州王朝で使用されていたピンク石石棺の伝統が近畿にも伝播したものと、今まで何となく思っていたのですが、それが間違っていたことを伊東さんの報告で知ったのでした。こうした意味でも関西例会は貴重な場です。関西例会には参加費500円で、どなたでも聴講できます(今回も一名初参加の方がおられました)。たくさんの資料ももらえて有意義な一日が過ごせます。皆さんも是非一度のぞいてみてください。
〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・古墳時代1」
○研究発表
(1)王維の九州はすべて中国(豊中市・木村賢司)
(2)「唐詩一万首」の中の日本(豊中市・木村賢司)
(3)安倍仲麻呂「天の原ふりさけみれば…」を考える(岐阜市・竹内強)
(4)「大王のひつぎ」に一言
─読売新聞七月二五日・八月三日の記事について─(生駒市・伊東義彰)
(5)「親王」と「皇子」と「王」の間2(相模原市・冨川ケイ子)
(6)風土記の「○○天皇の御世」と放射能年代測定(東大阪市・横田幸男)
(7)鶴見山古墳出土石人の証言(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・王維の詩序文訳・他(奈良市・水野孝夫)
第21話 2005/08/13
鶴見山古墳出土の毛髪付着銅鏡片
鶴見山古墳からは今回の石人以外にも極めて興味深いものが出土していました。岩戸山歴史資料館(2015.11 八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷(さと)」に移転)のホームページによれば、鶴見山古墳から毛髪が付着した銅鏡片が出土しており、筑紫君一族の唯一の遺髪と紹介されています。毛髪が付着した銅鏡が出土するのも大変珍しいことのように思いますが、鶴見山古墳の場合、筑紫君磐井一族の墳墓である可能性が高いため、その価値ははかり知れません。というのも、毛髪のDNA鑑定によりその御子孫を発見できる可能性があるからです。
古田学派内では九州王朝の末裔調査をこれまでも進めてきましたが、八女市やその近郊にその御子孫であるI家やM家が現在もおられることを確認しています(系図が存在。古田武彦「高良山の『古系図』」『古田史学会報』35号参照)。プライバシー保護や皇国史観による思想的物理的圧力など、いろいろと困難な問題もありますが、DNA鑑定により筑紫君磐井の御子孫と確認できれば、歴史学的にも素晴らしい成果となるでしょう。岩戸山古墳石室の学術発掘とならんで、是非実現させたいテーマの一つです。
九州王朝は六世紀中葉の磐井とその子供達の時代から、六世紀末から七世紀初頭にかけての輝ける天子(日出ずる処の天子)多利思北孤(タリシホコ)の時代へと移ります。この時代は本格的に倭国王家が仏教を受容(倭国王の仏教信仰、出家)し始めた時代ですが、これと対応するように、八女丘陵から前方後円墳が姿を消していきます。恐らく、倭国王家で火葬と薄葬が流行したものと推測されます。そうした視点からも、鶴見山古墳が八女丘陵最後期の前方後円墳であり、そこから石人や毛髪が出土したことは興味深いことと言えるでしょう。
関連する報告として古賀氏の
玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)
高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)があります。
第20話 2005/08/12
続・鶴見山古墳出土の石人の証言
鶴見山古墳から今回出土した石人は、鼻と両腕の一部が削られていたとのこと。ここにも重要な問題が含まれています。
今までは磐井の墓の石人などは、「磐井の乱」で大和朝廷軍により破壊されたと理解されてきました。しかし、息子の葛子がその後も健在なのに、父親の墳墓の破壊を修復しなかったと考えるのも変なものです。ましてや、今回の発見により磐井の後継者(葛子か)の墓にも石人があったとなると、ますますおかしなことになります。父親の墓の石人は破壊されたままにしておいて、葛子は自らの墓の石人を造ったとなるからです。一般庶民の墓の話ではありません。筑紫の王者の墓なのです。当然、破壊されていれば修復するのが当たり前です。このように、従来の理解はおかしかったのです。そして、今回の発見は更に矛盾を増大させます。
磐井の後継者の墓の石人も削られていたという事実は、「磐井の乱」とは無関係な、もっと後の時代に何者かが削ったと考えざるを得ないのですが、通説ではこの点をうまく説明できません。ところが、古田説では簡単に説明ができるのです。
古田先生の最近の説(「講演録・『磐井の乱』はなかった」『古代に真実を求めて』8集所収)では、岩戸山古墳の石人などを破壊したのは、白村江で勝利した唐の筑紫進駐軍が行ったものとされました。七世紀後半のことです。ですから、破壊は岩戸山古墳にとどまらず、鶴見山古墳を含む九州王朝の王者の墳墓全体に及んだ可能性があります。この時の破壊の痕跡が、今回発掘された石人の傷跡だったと理解すれば、一連の考古学的事実を無理なく説明できます。
中国では南朝の陵墓が徹底的に北朝により破壊されています。南朝に臣従していた磐井ら倭王の墳墓も、唐の軍隊に破壊されたという古田説は説得力がありますが、わたしはもう一つの可能性にも留意しておきたいと考えています。それは、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交代に伴う、大和朝廷側による破壊という可能性です。『古事記』『日本書紀』では、磐井は大和朝廷に逆らった反逆者として記されています。こうした主客転倒させたイデオロギーを『日本書紀』により流布させた大和朝廷により、岩戸山古墳や鶴見山古墳の石人は壊された可能性はないでしょうか。(つづく)
第19話 2005/08/11
鶴見山古墳出土の石人の証言
先日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)からお電話があり、八女古墳群の鶴見山古墳からほぼ完全な石人が出土したことを知らせていただきました。さっそくインターネットで各新聞の記事などを見ましたところ、いろいろと面白い問題があることに気づきました。
それぞれの記事に共通した論調として、鶴見山古墳が磐井の息子の葛子の墓である可能性が高まったこと、「磐井の乱」以後も磐井の後継者の影響力が続いていたこと、などが見受けられました。通説では「磐井の乱」で磐井が滅んだ後は大和朝廷の勢力下に筑紫がおかれたと見られていたのですが、磐井の墓の岩戸山古墳と同様の石人が八女古墳群最後期の前方後円墳である鶴見山古墳からも出土したことにより、こうした考えを見直さざるを得なくなったようです。
しかし、古田説に立てば事は明快です。磐井は九州王朝の王、すなわち倭王であり、近畿なる継体のほうが倭王磐井に対して起こしたのが「磐井の乱」の真相です。ですから、「継体の反乱」と読んだ方が正確です。しかも、この反乱は磐井当人を倒しはしたものの最後まで勝つ事(筑紫の制圧と実効支配)は出来ずに、事実上の継体側の敗北で終わっています。これらについては、古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日文庫、ミネルヴァ書房から復刻の計画があります)をご参照下さい。なお、最新の古田説では「磐井の乱」「継体の反乱」というものは、そもそも無かった、という方向に展開しています。このことについては別の機会に触れたいと思います。
「継体の反乱」以後も九州王朝は健在(たとえば、その後も九州年号は連綿と続いている)ですから、磐井の後継者の墳墓に石人が存在していても、何ら不思議とするところではなく、むしろ当然といった感じです。こうした点からも、今回の石人発見は古田説に有利な考古学的事実と言えるでしょう。