考古学一覧

第2539話 2021/08/15

太宰府出土、須恵器と土師器の話(4)

 七世紀における須恵器杯Bの発生と増加の背景に、机で執務・食事をする律令制官僚群の誕生があったとする作業仮説をわたしは抱いていますが、このことを九州王朝説の視点から考察すると次のようになります。

(1) 九州年号の倭京元年(618年)に筑後から太宰府に遷都した多利思北孤の時代は全国統治の初期段階と考えられ、太宰府官衙に机で執務・食事する国家官僚群が配置・増員された。
 これに対応するように牛頸窯跡群から官僚用食器として須恵器杯Bの製造と供給が開始された。同窯跡群の生産活動が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増するという考古学的出土事実がある。
 従って、杯Bの発生は七世紀中葉頃と考えている。以前、わたしは北部九州での杯B発生を七世紀初頭と考えていたが(注①)、それでは通説との乖離が大きくなり、やや早すぎると思われることもあって、「中葉頃」とする表現がより適切と現時点では考えている。七世紀中葉(約634~666年)の内のどの時期が有力かは、まだ確定できていない。

(2) 九州王朝(倭国)の律令制による全国統治が進むにつれ、七世紀中葉~後葉にかけて各地に国衙・評衙が造営され、地方官僚の配備と地方長官の派遣が始まる。それに伴って杯Bが各地に伝播し、七世紀第3四半期頃には各地で杯Bが一斉に普及し始める。その痕跡として、660~670年頃の遺跡層位から杯Bが出土し始める。なお、この出土事実と『日本書紀』に基づいて飛鳥編年は作られた。

(3) 七世紀中頃には評制による本格的な全国統治体制が確立し始める(注②)。九州年号の白雉元年(652年)には、全国統治拠点として、巨大な難波複都(前期難波宮と条坊都市)が完成する。そこで執務する数千人に及んだであろう国家官僚のために、陶邑窯跡群(堺市)でも杯Bの製造が始まり、難波京や周辺各地に供給された。
 前期難波宮整地層からは杯Bの出土は見られず(注③)、前期難波宮の活動時期の層位から杯Bの出土がみられる事実は、この仮説に対応している。すなわち、それまでの近畿地方には杯Bを必要とするような律令制国家官僚群は存在していなかった(倭国の都は近畿地方になかった)。

 九州王朝説に立てば、以上のような解釈(歴史理解)が可能です。すなわち、須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立したとする仮説です。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟において、次のように述べていた。
〝わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。〟
②古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月
③前期難波宮水利施設造成時の客土層から出土した大型の〝杯Bの蓋〟(1点)について、江浦洋氏(大阪府文化財センター次長)は「普通の杯Bよりも大きめの坏で、いわゆる杯Bの範疇外」と筆者からの質問に返答された(2017年1月、「古田史学の会」新春古代史講演会にて)。
 また、佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』(2000年3月、大阪市文化財協会)にも、前期難波宮整地層から須恵器杯Bは出土していないとされている。
 他方、小森俊寬『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 ―日本律令的土器様式の成立と展開、七~十九世紀―』(京都編集工房、2005年11月)において、前期難波宮整地層からの出土とされた杯Bは、いずれも後期難波宮整地層からの出土であり、前期難波宮整地層出土としたのは小森氏の誤認であることをわたしは次の論稿で指摘した。
○古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
○古賀達也「洛中洛外日記」1823~1839話(2019/01/12~02/17)〝難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(1)~(5)(補)〟


第2538話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(3)

 須恵器杯の様式が大きく変化する七世紀ですが、その変化の概要は次のようにとらえられています。古墳時代から長く続いた杯Hの様式に重なるように、七世紀中葉に杯Gが発生します。そして、後葉になって杯Bが出現し、杯Hは激減します。しかも、この変化はほぼ全国的に一斉に進みます。わたしはこうした須恵器杯の様式変化は、九州王朝の全国統治の歴史に連動しているという作業仮説を持っています。このことについて説明します。
 七世紀の須恵器杯様相変化で、わたしがもっとも注目するのが杯Bの発生理由で、その機能性が変化の主要因と考えています。既に指摘されてきたことでもありますが(注)、杯身の底に足が付いた杯Bの最大の機能は、平たい机や台の上に安定して置くことができるということであり、食事の容器と考えられる須恵器杯ですから、机の上に食器を並べて食事するという習慣が生まれたことが、杯B発生の背景にあったと考えられます。しかも、三大窯跡群の一つである牛頸窯跡で大量の土器が六世紀末から七世紀初頭に製造され始めるのですから、杯Bも大量に太宰府条坊都市に供給されたことを疑えません。
 そのことから、机の上に食器を置いて食事する大勢の人々が発生したと考えざるを得ず、結論を言えば、机の上で執務する多くの文書官僚が誕生したことが杯B発生の主要因と思われます。たとえば律令制により全国統治するためには行政文書(命令書、報告書、戸籍類、役務や徴税、徴兵などの記録、他)の作成管理が不可欠です。その際、官僚たちが毎日床に這いつくばって行政文書を書いたとは考えられず、やはり机の上で執務したと思います。そして、食事もその机で、あるいは執務とは別の机で取るようになったと思われます。
 そうした多くの中央官僚たちが執務・食事する所こそ、権力中枢の地、すなわち「都(みやこ)」ではないでしょうか。ですから、杯Bの発生とその大量消費は、多くの律令制中央官僚の誕生、すなわち王朝による建都や遷都に連動した動きとわたしは考えています。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟で、小田裕樹さん(奈良文化財研究所研究委員)へのインタビューコラム「土器が語る食卓の『近代化』」(2016年6月1日・朝日新聞夕刊)の次の記事を紹介した。
 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」


第2537話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)

 牛頸(うしくび)窯跡群から太宰府条坊都市に供給された食器(土器)は須恵器と土師器です。土師器は淡いオレンジ色がかった土器で、主に煮炊き用に使用されたと考えられています。須恵器は青みがかった灰色の土器で、こちらは食事用の容器、今でいえばお茶碗として使用されていたようです。須恵器の方が高温の還元炎で焼成するため、堅くて丈夫です。五世紀初頭頃に朝鮮半島から九州王朝(倭国)に伝わったようで、わが国最古の須恵器窯跡遺跡は福岡県筑前町(小隈・山隈・八並窯跡群等)から発見されています(注)。
 この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。それについては専門的になりますので、ここでは説明を省きます。
 これら須恵器杯の中で、わたしが最も注目しているのが杯Bです。その様式変化の理由と背景、その発生時期が九州王朝史と密接な関係があると考えています。なぜなら、その様式変化には必ず理由(歴史的必要性)があったはずだからです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1488~1494話(2017/08/26~09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(1)~(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。


第2536話 2021/08/13

太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)

 九州王朝の都、太宰府条坊都市に消耗品である食器(土器)を供給したのが牛頸(うしくび)窯跡群です。同窯跡群は水城の西側、大野城市南端の牛頸山からその周囲へと広がる、古代の三大須恵器窯跡群(注①)の一つとされています。六世紀中頃から九世紀中頃まで操業していますが、六世紀末から七世紀初頭に急拡大したことが明らかにされています。その後、七世紀中頃に縮小し、八世紀になるとまた生産活動が増えます。この牛頸窯跡群の活動規模の変遷が、九州王朝の歴史に対応していることをわたしは発表しました(注②)。
 文献史学の研究により、九州年号の倭京元年(618年)に九州王朝の天子、阿毎多利思北孤は筑後から太宰府(倭京)に遷都したと考えられていますが(注③)、それに対応する考古学的出土事実が、六世紀末から七世紀初頭にかけての牛頸窯跡群の急拡大です。九州王朝の全国支配のため、数千人の官僚群が執務し(注④)、その家族が生活する太宰府条坊都市へ、消耗品である食器(土器)供給のために牛頸窯跡群が造営されたと思われます。
 ですから、太宰府条坊は七世紀前半には造営されていたとしたのですが、現地の複数の考古学者にたずねても、太宰府条坊は七世紀前半には遡らないとのことなのです。わたし自身も発掘調査報告書を調べましたが、その通りでした。そこから、わたしの苦難の研究調査が始まりました。(つづく)

(注)
①堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)とともに牛頸は三大須恵器窯跡群遺跡と称されており、古代(古墳時代~)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させる。
②古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
 古賀達也「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2017年7月。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④律令制による全国支配に必要な官僚の人数は約八千人であり、その家族の生活のための巨大条坊都市の必要性を指摘した次の論稿がある。
 服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『発見された倭京』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2535話 2021/08/12

古墳時代の太宰府条坊遺構
(左郭、十四条一~二坊)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2021〟(注①)のテーマは〝「倭の五王」の時代〟です。聞くところでは、「倭の五王」の都が筑前太宰府だったのか、筑後だったのか、という都城所在地が主要課題とのことですので、考古学的出土事実に基づいて論点を明確にできればと考えています。
 わたしの調査した範囲では、残念ながら五世紀「倭の五王」時代の倭国の王都にふさわしい遺跡(王宮・都市)は見つかっていません。もちろん大宰府政庁付近にも、そうした遺跡の出土報告はありません。これまでも指摘したのですが、大宰府政庁跡(東北回廊基壇下層)の〝政庁Ⅰ期の整地層〟からは「七世紀第3四半期以後」に編年されている須恵器杯Bが出土し(注②)、政庁Ⅱ期基壇積土下層からも杯Bが出土していることから(注③)、政庁Ⅰ期の時代を五世紀まで遡らせるのは無茶というものです。
 もちろん、政庁Ⅰ期遺構の下に四世紀の王宮があったはずと主張するのは自由ですが、それを学問的仮説として提起したい場合は、その根拠となる出土事実を明示する必要があります。もし、八王子セミナーでそのような主張がなされれば、わたしはエビデンス(発掘調査報告書等)の明示を求めるつもりです。
 今回は新たに、政庁地区の南に広がる条坊地区の中心部分、朱雀大路跡付近の発掘調査報告を紹介します。八王子セミナーに備えて、わたしは連日のように太宰府関連遺跡の発掘調査報告書を読んでいますが、次の重要な報告書に行き当たりました。それは『大宰府条坊跡 44』(注④)です。同報告書は井上信正さん(太宰府市教育委員会、注⑤)により執筆編集されたもので、末尾に「Ⅵ.特論 大宰府条坊研究の現状」という優れた論文が掲載されていることから、以前から重宝していた一冊でした。この論文については、別途詳述しますが、今回は同報告書に収録されている第168次調査(平成7~8年、1995~1996年)の概要に着目しました。
 第168次調査の位置は西鉄二日市駅の北方で、大宰府条坊のほぼ中心地(左郭、十四条一~二坊)に相当します。概要解説によれば、「東西に幅8m、長さ200mに亘ってトレンチを入れるというこれまでにない規模の調査」であり、「本調査により、条坊復原研究も新たな段階に入った」とされています。そして、同トレンチの北西端からは朱雀大路東側溝が出土しました。今回、わたしが着目したのは次の記述でした。

 「ここでは最古期の遺構として弥生時代後期の溝などを確認はしているが、古墳時代にはほとんど活動がみられない。7世紀末頃から広い範囲にわたって整地(茶灰色粘土層)が行われ、すぐに掘立柱建物(SB305)が建築されるなど、土地利用の大きな画期があったことを窺うことができる。このころ畿内系土師器(飛鳥Ⅳ期の杯AⅢが多い)が散見され、産地は特定できていないがおそらく中国系とみられる施釉陶器も茶灰色粘土層から出土している。奈良時代になると、掘建柱建物・区画溝・整地といった遺構が広がる。調査区北西端で検出した朱雀大路東側溝もこのころ設けられたとみられる。」14頁

 第168次調査ではかなり丁寧に四面の層位を検出しており、最下層(地山基盤)の第4調査面までの各調査面が図示されています。ここにあるように、弥生時代の遺構が検出されていますが、古墳時代の遺構はほとんど検出されず、第三調査面(七世紀後期~八世紀前期)になって、七世紀後期から末の遺物が多く出土します。
 このように、大宰府条坊中心部での大規模な発掘調査の結果に基づく、「古墳時代にはほとんど活動がみられない」という指摘は重要です。すなわち、太宰府北部地区の政庁からも、南部地区の条坊中心地からも、古墳時代の倭国の王都の痕跡は出土していないのです。
 なお、大宰府政庁や条坊の七世紀における土器編年について、わたしは通説を見直す必要があると感じていますが、まずは既存の報告書や研究書を精査したいと思います。九州王朝説が正しければ、太宰府編年のどこかに矛盾や問題があるはずですから。

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代―。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。開催日:2021年11月13日~14日。共催:多元的古代研究会・東京古田会・古田史学の会・古田史学の会・東海。
②藤井功・亀井明徳『西都大宰府』NHKブックス、昭和52年(1977年)。228~230頁
③『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。233~234頁
④『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
⑤「古田史学の会」記念講演会(2017年6月18日、大阪市)で、太宰府条坊の最新研究について講演された。講演後の懇親会では、太宰府条坊遺構の考古学編年についてご教示を得た。


第2532話 2021/08/05

土器編年による水城造営時期の考察(3)

 水城の土器編年について、山村信榮さん(太宰府市教育委員会)は次のように説明されています。

 「〔フェイズ4〕須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期で、大宰府羅城(水城、大野城他)、鞠智城等が成立。」(注①)

 この須恵器Ⅳ(九州編年)は「須恵器杯H」、Ⅴは「須恵器杯G」と呼ばれているものです。杯Hは碁石の容器のようなもので、丸底の杯身に同じく丸い蓋を持ち、杯Gは杯Hの蓋の中央につまみが付いたものです。杯Hは古墳時代からある古いタイプで、その改良型が杯Gと考えてもよいと思います。この杯Hと杯Gが水城堤体中(木樋周辺)から出土することから、これらの使用時期が水城造営の頃と判断されたわけです。
 具体的には水城の第5次調査で出土したSX050 SX051の土器とされているのですが、同調査報告書にはSX050 SX051から杯Hの出土は報告されていますが、杯Gは見えません。このSX050 SX051の土器とは、水城跡第5次調査(昭和50年、1975年。注②)で、東門地区西側から木樋(全長79.5m)とともに出土したもので、水城造営年代の根拠になるものです。そこで、他の木樋遺構の報告書を精査したところ、JR水城駅西南側から出土した木樋抜き取り跡の調査(水城跡第32次調査。注③)で杯Gが出土していました。
 水城の木樋遺構は4カ所発見されていますが、木樋そのものが出土したのは東門地区西側だけのようで、その他は木樋が抜き取られた痕跡が出土しています。その抜き取られた木樋跡の最下層(7層)から杯G(蓋)が出土しており、同報告書はこの土器を「七世紀の資料」と説明しています。これら水城堤体内からの出土土器が根拠となり、「須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期」を水城成立時期と判断したと思われます。
 しかし、より厳密に言うならば、「須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期」以後に水城が造営された根拠にはなりますが、それだけでは不十分です。なぜなら、水城造営時期の下限も押さえる必要があるからです(注④)。この下限の根拠となるのが水城築造後の遺物・遺跡に含まれる土器です。幸い、水城土塁の周囲や濠からは少なからず土器が出土しており、その中に須恵器杯Bと呼ばれるものがあります。杯Bは杯Gの底に「足」が付いたもので、今のお茶碗のようなスタイルです。これは平坦な机の上に杯を安定して置けるようにした進化形です。この杯Bの出土により、水城の造営時期は杯Gが使用された七世紀中頃と、杯Bが発生した七世紀第3四半期後半以降の間と考えることができます。すなわち、七世紀第3四半期頃を水城造営時期とする判断が最有力であると、土器編年からは導き出されるのです。
 通説に立てば『日本書紀』天智三年条(664年)の水城築造記事を史料根拠とでき、考古学による土器編年と文献史学による『日本書紀』のダブルチェックにより、水城造営を664年とする説が成立しています(注⑤)。
 更に、基底部出土敷粗朶の炭素同位体比年代測定値(注⑥)の多くが七世紀第3四半期頃造営説と対応しており、水城の年代判定に大きな矛盾も無く整合しています。
 なお、付言すれば杯Gの年代については、難波編年(難波Ⅲ中段階~新段階に出土)でも飛鳥編年(飛鳥Ⅱ~Ⅲに出土)でも「七世紀中葉~後葉」とされており(注⑦)、九州編年とも対応しています。
 こうしたエビデンスがあるので、わたしは太宰府関連遺跡の土器編年と、九州王朝説による文献史学の編年との齟齬に長く悩んできたのです。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。192頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅰ』九州歴史資料館、2001年。
④遺構の年代を決めるためには、遺構の層を挟む上下の層からの出土土器が必要と、わたしは大阪歴博の考古学者から教えていただいた。このことを「洛中洛外日記」1764話(2018/09/30)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)〟で紹介した。
⑤天智三年条の水城築造記事は、九州年号「白雉四年(655年)」の記事を「白鳳四年(664年)」に相当する天智三年条に移動したものではないかとする正木裕氏の見解がある。この見解は、土器編年(七世紀第3四半期頃)と対応しており、敷粗朶の炭素同位体比年代測定値とも大きな齟齬はないため、注目される。
⑥水城遺物の炭素同位体比年代測定値には、東土塁基底部(第35次調査)から出土した最上層(全11層)敷粗朶600~770年、第38次調査時に追加測定した第35次調査出土の粗朶540~600年・葉653~760年・葉658~765年、西門付近北東側(第40次調査)出土の敷粗朶と炭化物の測定値675~769年などがある。
⑦『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。255頁。


第2531話 2021/08/04

土器編年による水城造営時期の考察(2)

 今までも水城の土器編年について調査検討したことはあったのですが、合理的な判断が難しく、お手上げ状態でした。その理由について説明します。
 実は水城遺跡からは少なからず土器が出土しています。しかし、そのほとんどが造営年代の〝決め手〟に使えないのです。というのも、出土位置が濠の中であったり、土塁上や堤体の周辺であるため、いずれも水城造営後の土器であり、その土器の編年がそのまま水城の造営年を示すわけではないからです。
 これが堤体中からの出土であれば、その土器は造営時に取り込まれたことになります。ですから、その土器の製造時期以後に水城が造営されたわけですから、造営時期の判断根拠として使えます。ところが、土塁の主要部分は版築工法により形成されています。そこには均質な粒径や土質を持つ複数種の土壌が選ばれ、それらが交互に敷き詰められており、そこに土器が含まれることはほとんど期待できません。
 このように造営時期の編年根拠にできる土器が、その構造上から検出しにくい水城なのですが、ある特定の部位には造営時の土器が出土していることがわかりました。それは基底部の下部に埋設された木樋(木製の暗渠)の周囲(左右・上部)と内部です。
 水城には、太宰府側の内濠から博多側の外濠に水を送るための木樋が4カ所で埋設されていた痕跡が発見されています(注①)。この送水用暗渠は、基底部をある程度造成した後に、水城を南北に直行する溝(堀形)を基底部に穿ち、その溝に木樋(ヒノキ材)を埋設するという方法で造成されています。そのため、木樋周囲の隙間を木樋埋設後に土で埋めるのですが、その埋土に含まれていた土器片が出土しています(注②)。この土器は7世紀前半頃以前と編年されている須恵器坏Hと七世紀中頃の坏Gで、水城遺構から出土した土器としては最古に属するとされています。(つづく)

(注)
①水城跡第5次調査(昭和50年、1975年)で、東門地区西側から木樋(全長79.5m)が出土した。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。192頁に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。


第2530話 2021/08/03

土器編年による水城造営時期の考察(1)

 九州王朝史研究にとって太宰府関連遺跡の造営時期や位置づけは重要課題です。しかし、文献史学によるそれらの造営年次と考古学による土器編年は整合していません。この問題についてはこれまでも論究してきましたが、残念ながら未だに解決できていないのが現状です(注①)。そのため、土器編年研究を一旦ペンディングし、炭素同位体比年代測定などの科学的年代測定からのアプローチを進めてきました。
 たとえば、水城については、東土塁基底部(第35次調査)から出土した敷粗朶工法最上層(全11層)の敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定によるAD600~770年(中央値660年)という測定値や(注②)、西門付近北東側(第40次調査)から出土した敷粗朶と炭化物の年代測定値が共にAD675~769の範囲に含まれることなどから(注③)、これら測定値は『日本書紀』に記された天智三年条(664年)の水城造営記事と整合しており、水城の造営時期は660年頃と考えて問題ないとしてきました(注④)。
 このわたしの見解に対して、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは、炭素同位体比年代測定値には測定幅の誤差が大きく、『日本書紀』天智三年条(664年)記事(注⑤)の当否や、水城完成が白村江戦の前か後かという判断の根拠に使用するのは不適切とする批判をいただいていました。確かに、この批判はもっともなものです。そこで、ペンディングしていた太宰府関連遺跡群の土器編年精査を再開することにしました。どのような結論に至るのかは今のところ不鮮明ですが、学問研究ですから、自説と土器編年との齟齬を避けては通れません。時間はかかりそうですが、真正面から挑戦してみます。(つづく)

(注)
①たとえば、拙稿「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)において、次のように述べた。〝わたしは太宰府条坊都市の造営を、九州年号「倭京」(六一八~六二二年)などを史料根拠に七世紀前半に遡ると考えているが、考古学的出土事実に基づく証明には未だ成功していない(太宰府条坊遺構からの七世紀前半に遡る土器の出土報告がない)。〟
②『大宰府史跡発掘調査報告書 Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
③『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
④古賀達也「洛中洛外日記」1627~1630話(2018/03/13~18)〝水城築造は白村江戦の前か後か(1)~(3)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2451~2454話(2021/05/07~09)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(3)〟
⑤「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)


第2527話 2021/07/26

「土器編年」、関川尚功さんとの対談

 7月22日に京都市で開催された古代史講演会(市民古代史の会・京都主催)の後、講師の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)と夕食をご一緒しました。大和の発掘調査に50年近く携わってきたベテランの考古学者と意見交換できる貴重な機会でしたので、わたしからは7世紀の土器編年について質問させていただきました。その内容は次のようなものでした。

〔古賀〕7世紀での飛鳥の土器編年と北部九州(太宰府など)の土器編年とでは年代差はありますか。あるとすれば何年くらいですか。
〔関川さん〕7世紀であれば同じと考えてよい。当時の土器職人の移動や土器製造技術の伝播は速いので、飛鳥と北部九州であれば年代差はないと思う。
〔古賀〕飛鳥編年は正確で、5~10年ほどの精度で編年できるとする考古学者の見解もありますが、±10年の幅はあるのではないでしょうか。
〔関川さん〕飛鳥編年は『日本書紀』(文献史学の判断)に基づいており、考古学的に土器様式で判断するのであれば25年の幅はあると思う。土器は長期間使用されるので、新様式の土器が発生したからといって、旧様式の土器がなくなるわけではない。

 以上のような対話が続きました。わたしも関川さんの見解(25年ほどの幅)に賛成です。以前にも、「洛中洛外日記」で土器や瓦の編年の難しさについて論じたことがあるのですが(注①)、土器編年には次のような難しさがついてまわるからです。

(a)土器の様式差や法量の違いによる相対編年にとどまる。
(b)土器による相対編年を暦年とリンクさせて絶対編年にするためには土器編年以外の方法に依らねばならないが、同一遺跡の同一層位とリンクできる他の暦年判定方法があることは極めて希である。
(c)同一層位から年代が異なる土器が共伴することはよくあることで、その場合、どの土器を重視するのかという判断が恣意的になる可能性がある。

 こうした問題点を理解した上で、なるべく客観的な手法や判断で出土物や遺構の編年がなされます。しかし、それでも同一遺跡に対する編年が考古学者間で異なる例は少なくありません。
 わたしたち古田学派には考古学を専門分野とする研究者が極めて少ないこともあり、遺跡に対して恣意的な判断がなされるケースが散見されます。わたし自身もそうだったのですが、太宰府関連遺跡の従来の土器編年は誤りであり、実際は百年ほど古くなるとする見解を漠然と信じていたこともありました。しかし、この10年間ほど、7世紀の須恵器編年の勉強を続けた結果、7世紀の土器編年はそれほど間違ってはいないことを知りました。たとえば大阪歴博などの考古学者による難波編年は、九州年号や多元史観による文献史学の成果とも見事に整合していました(注②)。
 他方、未だに解決できていない太宰府関連遺跡(政庁、条坊、水城、他)の造営年代には、九州王朝説に基づく文献史学と、出土土器による考古学編年とが整合しないケースがあります。一例として、大宰府政庁の造営年代があります。文献史学によれば白鳳十年(670年)創建と記されている観世音寺と同一尺が採用され、同じ老司式瓦で造営された政庁Ⅱ期遺構は同時期の造営とわたしは考えています。しかし、政庁Ⅰ期(新段階)やⅡ期の整地層からは7世紀第4四半期頃に編年されている須恵器坏Bが出土していることから(注③)、通説では土器編年により、観世音寺や政庁Ⅱ期の造営を8世紀第1四半期中頃とする見解が有力視されています(注④)。
 なお、政庁Ⅰ期・Ⅱ期の整地層からは古墳時代と見られる土器片や6世紀から7世紀前半に編年される須恵器坏Hなども出土しており、通説では整地に使用した土壌に古墳時代の土器が含まれていたと理解されているようです。同様の現象は前期難波宮整地層でも見られており、より新しい須恵器坏Bを重視した編年そのものは妥当と思われます。しかし、政庁Ⅱ期の成立について、文献史学(九州王朝説)の成果とは30~40年ほどの齟齬があるため、北部九州の須恵器坏Bの年代観の再検討が必要とわたしは考えています。残念ながら、考古学者を説得できるほどのエビデンスに基づく編年研究はまだできていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1764~1773話(2018/09/30~10/13)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)~(9)〟
②古賀達也「難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点―」『東京古田会ニュース』185号、2019年4月。
③『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。233~234頁
④山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2524話 2021/07/20

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(2)

 三角縁神獣鏡は古墳時代に作られた国産鏡とする古田旧説と弥生時代(景初三年・正始元年頃)の日本列島で作られ、古墳から出土する夷蛮鏡(伝世鏡)とする古田新説ですが、わたしは古田旧説の方が穏当と考えてきました。その理由は、弥生時代の遺跡から三角縁神獣鏡は出土せず、古墳時代になって現れるという考古学的事実でした。
 そして、「景初四年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡は、卑弥呼が魏から鏡を下賜されたという倭人伝にある国交記事の記憶が反映したものと考えていました。すなわち、倭国の勢力範囲が列島各地に広がった古墳時代になると、魏鏡をもらえなかった勢力がその代替品として作らせた、あるいは魏鏡を欲しがった勢力に対しての交易品(葬送用か)として作られたものが三角縁神獣鏡(中でも魏の年号を持つ紀年鏡)だったのではないかと考えていました。もちろん、その三角縁神獣鏡が本物の魏鏡とは、もらった方も考えてはいなかったはずです。古墳から出土した鏡類の中で、三角縁神獣鏡がそれほど重要視されたとは思えない埋納状況(例えば棺外からの出土など)がそのことを示しています。
 こうした、やや漠然とした理解に対して、深く疑義を示されたのが日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)でした。日野さんは、新旧の古田説が持つ克服すべき論理的課題として、次のことを指摘されました。

(1)「景初四年鏡」が古墳時代の国産鏡であれば、倭人伝に見えるような弥生時代の国交記事を知っていたはずである。従って、景初三年の翌年が正始元年に改元されていたことを知らないはずがない。その存在しなかった「景初四年」という架空の年号を造作する動機もない。

(2)この点、古田新説であれば〝中国から遠く離れた夷蛮の地で作られたため、改元を知らなかった〟とする弥生時代成立の夷蛮鏡説で説明可能だが、古墳から出土したことを説明するためには伝世鏡論を受け入れなければならず、その場合、三角縁神獣鏡が弥生時代の遺跡からは一面も出土していないという考古学的事実の説明が困難となる。

 このように鋭い指摘をされた日野さんですが、それでは「景初四年」の銘文や「景初四年鏡」の存在をどのように説明すべきかについては、まだわからないとのこと。
 なお、古墳時代の鏡作り技術者たちは「景初四年」がなかったことを知らなかったという説明もできないことはありませんが、その場合はそう言う論者自身がそのことを証明しなければなりません。「景初」という魏の年号や倭国(卑弥呼)への銅鏡下賜のことを知っている当時のエリート技術集団である鏡作り技術者や銘文作成者が、倭人伝に記された「景初二年」ではなく、なぜ「景初四年」としたのかの合理的説明が要求されます。
 この日野さんが提起された「景初四年鏡」への論理的疑義について、古田学派の研究者は真正面から取り組まなければならないと思うと同時に、このような深い問題に気づかれた日野さんに触発された懇親会でした。


第2523話 2021/07/19

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(1)

 先日の関西例会終了後の懇親会で、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から「景初四年鏡」に関する新旧の古田説について、仮説成立の当否に関わる論理構成上の重要な問題提起がありました。その紹介に先立って、「景初四年鏡」に関する古田説の変遷について説明します。
 「洛中洛外日記」1267話(2016/09/05)〝「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)〟でも紹介したのですが、当初、古田先生は「三角縁神獣鏡」は国内の古墳から出土することから、古墳時代に作られた国産鏡とされ、「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた三角縁神獣鏡伝世理論を批判されていました。
 ところが、1986年に京都府福知山市から「景初四年」(240年)の銘文を持つ三角縁神獣鏡が出土(注①)したことにより、弥生時代の日本で作られた「夷蛮鏡」説へと変わられました。すなわち、魏の年号である「景初」は三年で終わり、翌年は「正始」元年と改元されており、その改元を知らなかった夷蛮の地(日本列島)で造られたために、「景初四年」という中国では存在しない紀年(金石文)が現れることになったとされ、この「景初四年鏡」は三角縁神獣鏡が中国鏡ではないことを証明しているとされたのです。そして、そのことを意味する「夷蛮鏡」という概念を提起されました(注②)。
 そして古田先生は最晩年において、三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(239年)・正始元年(240年)」前後とされ、そのことを『鏡が映す真実の古代』の「序章」(2014年執筆。注③)で次のように記されましたが、これは「景初四年鏡」の出土に大きく影響されたためと思われます。

〝次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四~六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇~二六五)と西晋朝(二六五~三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十数年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。〟『鏡が映す真実の古代』10頁

 この古田新説の発表は、わたしを含め古田学派の研究者にとって衝撃的な出来事でした。それまでは古墳時代の鏡とされてきた三角縁神獣鏡を、「景初四年」の銘文を持つ、ただ1枚の鏡の出土により、弥生時代(結果として古墳から出土した「伝世鏡」となる)のものとされたのですから。(つづく)

(注)
①京都府福知山市広峯の広峯古墳群の広峯15号墳(4世紀末~5世紀初頭頃の前方後円墳)から出土。「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之母子宜孫寿如金石兮」の銘文を持つ直径16.8cmの銅鏡。
②1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」の古代史講演会で発表された。同講演録は『市民の古代』九集(新泉社、1987年)に「景初四年鏡をめぐって」として収録。
③古田武彦『鏡が映す真実の古代 ―三角縁神獣鏡をめぐって―』ミネルヴァ書房、2016年。


第2503話 2021/06/26

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (3)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘に対して、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年については妥当な年代ではないかと思うのですが、もう一つ、妥当と思われる年輪年代測定値があります。前期難波宮址水利施設から出土した木製の水溜枠です。
 『難波宮址の研究 第十一』(注①)によれば、井戸がなかった前期難波宮の水利施設(石組)が出土し、その周辺から多くの木材も出土しました。中でも大型の水溜枠の木材には樹皮が残っており、年輪年代測定により伐採年が634年とされました。『日本書紀』によれば、前期難波宮の完成年が孝徳天皇白雉三年(652年、九州年号の白雉元年)とされ、その18年前に伐採されたことになります。同水利施設からは須恵器坏Hや坏Gが多数出土しており、7世紀中頃の遺構であるとされ、出土木材の伐採年とも整合しています。ちなみに、同遺構からは7世紀後半の須恵器坏Bは出土していませんので、前期難波宮から出土した「戊申年」(648年)木簡などと共に、前期難波宮孝徳期造営説はほとんどの考古学者から支持されて定説となりました。更に前期難波宮を囲んでいだ塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値も612年、583年であり(注②)、孝徳期造営説を支持するものとされました。
 この木枠の年輪年代測定は奈良文化財研究所の光谷拓実さんによるもので、次のように解説されています。

 「(前略)№1の木枠の形状は、原材から板状に割り、若干一部分を成形しただけのもので、転用材ではない。したがって、634年と確定した年輪年代は原木の伐採年である。」『難波宮址の研究 第十一』208頁。

 そして、「年代を割り出すヒノキの暦年標準パターンには、37B.C.~845A.D.のものを使用した」と説明されています。この「ヒノキの暦年標準パターン」は、鷲崎さんが

 〝飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。〟(注③)

 と批判されたもので、この年輪年代の新旧標準パターンを鷲崎さんは次のように説明されています。

○旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
○新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。

 法隆寺五重塔心柱と同様に、前期難波宮水利施設の木枠にも旧標準パターンが採用されており(注④)、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値(634年)が、伴出した7世紀中頃の土器編年からも妥当と考えざるを得ないことから、法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値(594年)も妥当とせざるを得ません。少なくとも、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値を100年新しくすると後期難波宮の時代となり、それは極めて困難です(出土層位も出土遺物も全く異なり、まず不可能)。
 以上のように、鷲崎さんが100年古く間違っているとした遺物の中でも、法隆寺五重塔心柱と前期難波宮水利施設木枠の年輪年代測定値は妥当なものと、わたしには見えます。
 しかしながら、新旧標準パターンや測定木材の原データを公開すべきという、鷲崎さんの主張(注⑤)は正当なものです。国民の税金で運営・測定した奈良文化財研究所のデータは全国民の共有財産です。そうした国民からの(個人情報でもなく、人権や国益も損なわない)学術データの開示要請に応えない姿勢は、どのような事情があるのかはわかりませんが、学問的態度とは言い難いとする批判を避けることはできないでしょう。また、自説の根拠となる基礎データを掲載しないというのは、自然科学の研究論文ではおよそ考えられないことです。

(注)
①『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
②古賀達也「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
 古賀達也「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟
③鷲崎弘朋「年輪年代法による『弥生古墳時代の100年遡上論』は誤り」考古学を科学する会、第80回2019年5月24日、https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/。
④光谷拓実「法隆寺五重塔心柱の年輪年代」『奈良文化財研究所紀要』2001年。同報告には「前37~838年」のヒノキの暦年標準パターンを使用した旨、記されている。
⑤鷲崎氏らによる奈良文化財研究所への情報開示請求書と同不開示決定通知書が次のサイト「邪馬台国の位置と日本国家の起源」に掲載されている。http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/