現代一覧

第768話 2014/08/17

シュリーマンが見た日本

 お盆休みの読書の最後の一冊として『シュリーマン旅行記 清国・日本』 (1998年、講談社学術文庫・石井和子訳)を読みました。10年ほど前に読んでいた本ですが、昨今の日本社会の食品偽装とか万引き事件などのニュースに接するたびに、昔の日本社会や日本人が持っていた倫理観が、現代では大きく変わってしまったと感じ、もう一度読み直すことにしました。
 ご存じの通り、シュリーマンはトロイ遺跡を発見した考古学者として有名で、その著書『古代への情熱』は歴史研究者であれば是非とも読んでいただきたい一冊です。シュリーマンはトロイ遺跡発見の6年前(1865年)に来日しており、その旅行記が『シュリーマン旅行記 清国・日本』です。
 シュリーマンは幕末の日本について、考古学者らしい観察力と西洋人としての視点から、その国情を記しています。特に日本人の誠実な倫理観と、他方、宗教心がうすいことを矛盾と感じ、困惑しています。クリスチャンとしてのシュリーマンの持つ「宗教心」と当時の日本人特有の「宗教心」が異なっていたため、 シュリーマンには理解できなかったのかもしれません。日本人の誠実さとして、次のようなエピソードが記されています。

 「船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。労賃として四天保銭(13スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ。(中略)
 日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏がにこやかに近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。
 次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて、「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」(さ ようなら)と言った。」(第四章「江戸上陸」、78~79頁)
 「彼ら(役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。」(第六章「江戸」、146頁)

 この他にも日本のことを次のように記しています。

 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」(第四章「江戸上陸」、87頁)
 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では 女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。」(第七章「日本文明論」、167頁)

 シュリーマンが今日の日本社会を見たら、その旅行記に何と記すのでしょうか。次のように、また記してくれるでしょうか。

 「・・・・この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。」(第六章「江戸」、126頁)

 明日から、またハードワークの日々が続きます。ファンモンの「ヒーロー」を聴きながら頑張ります。


第766話 2014/08/15

終戦の日、雑感

 「終戦の日」の今日は、最近買ったばかりのファンモン(FUNKY  MONKEY BABYS)の3枚組アルバム「LAST BEST」を聴いています。昨年、惜しまれながら解散したグループで、プロ野球の田中将大選手のテーマ曲でもある「あとひとつ」やラストシングルとなった「ありがとう」、そして「サヨナラじゃなくて」「ちっぽけな勇気」「ヒーロー」などが好きな曲で、繰り返し聴いています。

 「終戦の日」のテレビの特別番組を見ると思うのですが、世界中で戦争に負けた日を「記念日」として、毎年国を挙げて「記念」している国は他にあるのでしょうか。「独立記念日」や「建国記念日」「戦勝記念日」を祝う国は多いと思うのですが、日本は特別なのでしょうか。考えてみると不思議な気持ちがします。
 先の戦争の敗戦は日本にとって初めての敗戦ではありません。みなさんはよく知っておられるように、663年の白村江戦で当時の倭国(九州王朝)は天子が捕虜となるほどの敗北を唐と新羅の連合軍に喫しました。敗戦後、唐の軍隊や使節が数千人単位で何度も筑紫に来たことが『日本書紀』に記されています。そして、倭国(九州王朝)から大和朝廷(近畿天皇家)に列島の代表者が交代しました。701年(大宝元年)のことです。
 鎌倉時代になると有名な元寇があり、対馬や博多湾岸は元軍の侵略により主戦場となりました。一般的には「神風」が吹き、博多湾で元の軍船は壊滅し、日本は救われたとされ、「神国日本」と言われるようになりましたが、だいぶ前に読んだ研究論文では、日本軍の勝利は「神風」だけではないという説が記されていました。勝因はいくつかあったようですが、一つは鎌倉武士がよく戦ったということがあります。そしてもう一つはなんと古代に築造された水城でした。
 わたしが読んだ論文によれば、博多湾の防塁は簡単に元軍に突破されてしまうのですが、鎌倉武士は苦戦しながらもよく戦い、元軍の猛攻に耐えながら水城まで撤退します。その水城で防戦し、結局、元軍は目的としていた大宰府攻略を目前にしながらも水城を突破できませんでした。そして日が暮れたのが幸いしました。元軍は敵地での野営は夜討ちの危険があるため、博多湾まで戻り、船中で夜を明かすことにしました。そのときです、博多湾に暴風雨が吹き荒れたのです。 そして、元軍の船舶は壊滅します。
 このように、研究者の論文が正しければ元寇を防いだ要因は鎌倉武士の勇敢さと古代九州王朝が築造した水城、そして「神風」だったのです。元寇ではこうした要因により奇跡的に勝利しましたが、白村江戦と先の大戦は敗北しました。これは歴史的必然だったのでしょうか。古代史研究と近代史研究はどのように結論付けるのでしょうか。こんなことを、終戦の日にファンモンを聴きながら考えています。


第760話 2014/08/06

研究者、受難の時代

 昨日、理研の笹井副センター長が自殺するという痛ましい事件が、とうとう発生してしまいました。「とうとう」と記したのは、こうした事態がいずれ引き起こされるのではないかと、わたしは危惧していたからです。いったい笹井さんは死ななければならないようなことをしたのでしょうか。たかだかイギリスの商業誌(「ネイチャー」は学会誌ではありません)に論文を一つ発表しただけで、なぜあそこまで叩きに叩き、死ぬまで追いつめる必要があったのでしょう か。いつから日本社会は法治国家ではなく「集団でリンチ」する国になったのでしょうか。
 NHKは小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し、全治二週間の傷害を負わせ、小保方さん笹井さんを特別番組(クローズアップ現代)で犯人扱いし、死ぬまでバッシングを続けたのです。この際、NHKは「日本犯罪者協会」と名称を変えるべきでしょう。
 例によってNHKの意に添ったテレビに出たがる御用学者を使い、一方的な「解説」をさせ、学問的に決着が付いていない研究(STAP細胞・現象)に対して非中立的な報道を続けました。これは明らかに放送法第4条違反です。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも何度も放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。
 今回は、優秀な研究者を自殺するまで、半年間にわたり叩き続けたのです。小保方さんにしても発表した論文中の80枚近くの写真うち、3枚に悪意のない過誤があったにすぎず、しかも正しい写真は存在し、結論にも影響しないというものでした。それを「研究不正」などと称してバッシングを続け、女子トイレまで追いかけ回しました。その論文を指導した笹井さんを死ぬまで追いつめ続けました。
 日本社会は放送局(特にNHK)や新聞社(特に毎日新聞)、週刊誌、御用評論家らが白昼堂々と何も犯罪を犯していない個人を「集団でリンチ」する社会になってしまいました。研究者受難の国、受難の時代です。安倍総理の言う「法による支配」はウソだったのでしょうか。「技術立国」など今後は望むべくもない でしょう。


第746話 2014/07/16

「二倍年暦」論争勃発

 今、「古田史学の会」の役員間でeメールによる論争が活発になされています。通常、「古田史学の会」役員間ではeメールで連絡や確認をとりあっているのですが、そのメールのやりとりで「二倍年暦」論争が勃発しましたので、ちょっとだけご紹介します。
 当初は服部静尚さん(『古代に真実を求めて』次期編集担当者)が仕掛け人で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当、『古田史学会報』編集 担当)が応戦されていましたが、今や正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)らも巻き込んでの活発で学問的な論争が続けられています。恐らくは、今月19 日の関西例会でリアルな論争へと発展するものと期待しています。
 主な論点は『古事記』『日本書紀』や倭人伝の年齢や年次記事が、「二倍年暦」によるものか、年齢だけが二倍と計算される「二倍年齢」なのかという問題 や、そもそも「二倍年暦」の実体はどのようなものなのかという、極めて本質に迫る、かつ古田学派内でも見解が分かれる難しいテーマです。
 こうした論争がメールで自由闊達に行えるのも、なかなかよいものです。「古田史学の会」会員のみが参加できるネット(SNS)なども面白い試みかもしれ ません。ただ、学問は時間をかけてしっかりと丁寧に行うのが基本ですので、ネットのような素早いレスポンスが要求されるツールが本当に適切なのかは、もう 少し検討が必要でしょう。
 かなり以前のことですが、パソコン通信で「古田史学研究会」というサイトがあり、わたしも参加したのですが、結論としては問題の多い試みでした。わたし は学問研究には適していないと判断し、最終的には離れましたが、その理由は「ハンドルネーム」を使った匿名による応酬は無責任発言を誘発助長することと、 返事が遅いと、そのことをとがめられるということでした(わたしは実名で参加しました)。学問論争の基本は、やはり口頭発表と論文発表がよいと思います。 自らの見解を正確に表現できますし、相手の主張も正確に確認できますから。その上でメールを補助的な意見交換のツールとして使用するのが良いのではないで しょうか。
 それにしても、関西例会での「二倍年暦」「二倍年齢」論争が、今から楽しみです。



第738話 2014/07/05

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(1)

 今日は早朝の新幹線と特急を乗り継いでで松山市へ向かっています。「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演するためです。移動時間を利用して、前々から書きたかったテーマ、「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」の執筆を始めたいと思います。

 世にいう「邪馬台国」論争は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているはずですが、マスコミや一元史観の学者・研究者では、あいもかわらず「邪馬台国」論争が続けられています。中でも困ったものが「邪馬台国」畿内説という非学問的な「臆説」「珍説」です。そもそも畿内説というものが学問的仮説、すなわち「学説」と言うに値するでしょうか。わたしは畿内説は学説ではないと考えていますが、なぜ学説ではないかということを「洛中洛外日記」で数回に分けて説明することにします。
 たとえば理系の新発見や研究について、新たな仮説を発表する場合、実験データや観測データ、測定データ等の提示が不可欠です。さらにそれらの再現性を担保するために、実験方法や測定・分析方法も開示します。
 企業研究の場合は、それらデータも含めて「発見・発明」そのものを隠します。そもそも企業が自らの経営資源(ヒト・モノ・カネ)を投入して得た新知見を発表(無償で教える)して公知にすることは普通しません(特許出願は例外)。
 しかし、学者や研究者は人類の幸福や社会の発展のために自らの発見や仮説・アイデアを公知(論文発表など)にします。そしてその仮説が他の研究者による追試や利用(コピペもOKです。理系論文には著作権が発生しません)されながら、広く公知となり、真理であればやがて安定した学説として認められます。
 その際、各種データの改竄や捏造は「研究不正」としてやがては明らかとなり、そのような学者・研究者は省みられなくなり学界から淘汰されます。意図的な改竄や捏造ではなく、単純ミスやデータの取り違えは、残念ながら完全には無くなりませんので、その場合は訂正するか、訂正により仮説そのものが成立しなくなった場合は仮説が撤回されます。悪意のないミスであれば、信頼感は揺らぎますが、学界はそのこと自体をそれほど神経質にとがめることはありませんでし た。それよりも、少々不完全・未熟であっても様々な仮説やアイデアを自由に発表しあえる環境のほうが科学の発展にプラスと受け止められてきたものです。で すから、学生や若い研究者の不慣れで未熟な発表でも、温かい目で許容し、ほめたり、励ましたり、助言を与えたりしたものです。こうした研究環境の中で、若 い研究者は成長し、荒削りだけども若さゆえの既成概念にとらわれない画期的な仮説が発表され、そうした青年からの刺激を受けて科学は発展してきたのです。ノーベル賞受賞研究の多くが20代30代の頃の研究成果であることも、このこと裏付けています。
 ところが、近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究するという変な時代になってしまいましたので、「お金」「出世」「地位」に目がくらんで、研究不正(悪意のある意図的なデータ改竄・捏造)を行うケースが発生するようになりました。その結果、科学や研究は大きく傷つきまし た。それに追い打ちをかけたのがマスコミによる無分別なバッシング報道です。悪意のない単純ミスまでもを「研究不正」としてバッシングし始めたのです。小保方さんはその犠牲者だと、わたしは思います。先日も、ある化学系学会の集まりでご年輩の化学者(その分野では日本を代表する方。わたしは若い頃、その方が書いた本や論文で有機合成化学を学びました)が、「あんなにマスコミや理研がバッシングしたら、若い研究者が育たない。才能を潰してしまう」と嘆いておられました。わたしも同感です。
 それでは「邪馬台国」論争のような文献史学ではどうでしょうか。『三国志』倭人伝を基礎史料(データ)として仮説や論理を組み立て、その優劣を競うわけですが、その場合でも学問としては理系と同様ですから、必要にして十分な調査・証明なしでの史料(データ)の意図的な改竄・捏造は許されません。結論その ものに影響する改竄などもってのほかです。このことは容易にご理解いただけることでしょう。
 ところが、「邪馬台国」畿内説はこのデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。たとえば、 倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即アウト、レッドカード(退場)です。それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか「不思議」ですね。(つづく)


第733話 2014/06/21

「亀卜」「骨卜」

本日の関西例会では、服部さんから『三国志』倭人伝に見える「令亀の法」を根拠に、倭国では日付干支が使用されていたとする発表をされました。亀甲を用いた占いを亀卜(きぼく)といいますが、それよりも古い時代は獣骨を用いた骨卜(こつぼく)が広く世界的に行われていたようです。質疑応答のおり、 出野さんから急遽、古代中国における「亀卜」や「骨卜」について解説していただきました。
それによると、亀の甲羅に穴をあけて、そこに焼け火箸のようなもので熱を加え、それでできた「ひび」により占うのですが、その「ひび」ができるときに 「ボク」という音がするそうで、その「ひび」の形の「卜」が字形となり、その音(おん)が「ボク」になったとのことでした。漢字の成立も面白いものですね。
次回の関西例会では、出野さんから本格的な「亀卜」について発表していただけるとのこと。中国で購入した「亀卜」のレプリカも持参されるとのことで、楽しみです。
関西例会での発表テーマは次の通りでした。時間が余りましたので、正木さんから、百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産にするための大阪府の取り組みなどがビデオで上映され、いつも以上に楽しく有意義な例会でした。

〔6月度関西例会の内容〕
1). 〔討論会〕倭国に対する唐の影響について(高松市・西村秀己)
2). 推古天皇の二倍年暦の百歳・続編(八尾市・服部静尚)
3). 令亀の法(八尾市・服部静尚)
4). 「亀卜」「骨卜」の解説(奈良市・出野正)
5). 「景初」鏡の銘文の流れ ー「魏年号銘」鏡(その2)ー(京都市・岡下英男)
6). 『日本書紀』と『海東諸国記』に見る「常色の改革」(川西市・正木裕)
7). 〔ビデオ上映〕百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産に(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(モンテーニュ『エセー』の読み直し。A.ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』安酸敏眞訳の贈呈を受ける)・大越邦生氏による中国古典文献中の二倍年暦例悉皆調査・木村賢司氏 大下隆司氏による少年向け古代史『多利思北孤』発刊(注) ・ 会務報告(会計監査、会員論集編集状況、他)・「古田史学の会」総会と記念講演会開催・高槻市しろあと歴史館訪問、高山右近像・大山誠一著『天孫降臨の 夢』を読む・テレビ視聴「江戸の瓦」「長屋王と観音寺」・明治37年、第一回東京小豆島会の写真に水野氏の祖父、邦次郎氏・その他

お詫び

(木村賢司氏 大下隆司氏による少年向け古代史『多利思北孤』発刊)(注)
木村賢司様よりのご指摘によれば、同書籍はまだ発刊されておらず、書名等の説明も不正確・不適切とのことでした。
木村様大下様をはじめ関係者の皆様にお詫び申し上げ、当該記事部分(下線部分)を撤回いたします。(古賀達也)


第732話 2014/06/20

現代と古代の幹線道路

 今朝は山形新幹線で東京に向かっています。午後、東京で仕事をした後に京都に帰ります。早朝の山形駅新幹線ホームで、山形出張の度に気になっていたある疑問を若い車掌さんにお聞きしました。
 それは、山形新幹線は在来線に乗り入れていますが、線路の幅はどちらに合わせたのですか、という質問でした。若い車掌さんの返答は「新幹線が在来線に乗り入れたのではなく、在来線が新幹線に乗り入れたのです」とのこと。従って、レールの幅は新幹線用の広い幅で、在来線車両の台車を改良して、新幹線用レー ルの幅にしたとのことでした。
 しかし、わたしはこの回答に納得できませんでした。それならなぜ山形新幹線の車幅は在来線並に狭い(4列シート)のかという疑問を解決できないからで す。やはり、狭い在来線に新幹線を乗り入れるために、線路の幅と在来線列車の車輪幅は新幹線仕様に広げ、新幹線車両の幅は在来線乗り入れに支障をきたさな いよう、通常の新幹線(5列シート)よりも狭くしたのではないでしょうか。そうしないと、在来線の線路だけではなく、トンネルや駅のホームの幅も全て新幹 線仕様に拡張しなければなりません。それでは大工事となるので、在来線の駅やトンネルをそのまま利用するために、線路の幅と在来線車両の車軸幅のみを広げ ることにしたと思われます。その結果、山形新幹線の車両は他の新幹線よりも狭くなったのでしょう。おそらく地元の人や鉄道マニアにはご承知のことと思いま すが。
 若い車掌さんとの会話は面白い問題に発展しました。その車掌さんいわく、「お客様から同様の質問をよくされるのですが、わたしたちからすれば線路の幅など何故気にされるのか不思議です」とのこと。そこでわたしは次のように説明しました。
 わたしの年代は子供の頃に東海道新幹線が開業した世代なので、「夢の超特急ひかり号」はとても鮮烈な思い出なのです。その頃、小学校で新幹線の線路の幅 は高速走行のために欧米並の広い幅にしたと習いました。ですから、在来線と同じ線路を新幹線が走るということに違和感が強く、線路の幅はどうなっているの だろうか。それとも線路にレールが3本あり、どちらの車両も走れるような工夫がされているのだろうか。あるいは山形新幹線車両だけは車輪が4列あり、どち らの線路でも脱線せずに走れる構造か、車軸幅が自動制御で広がったり狭めたりできるのだろうかと、ずっと気になっていたのです。
 と説明したところ、若い車掌さんは「なるほどよくわかりました。ありがとうございます。」と深く納得されたようでした。本当に世代間の差は、意識や知識、認識の差を生むものだと、今更ながら感じた一幕でした(単なるわたしの不勉強だけなのかも知れませんが)。ちなみに、応答していただいた若い車掌さんは終始丁寧な物腰で、とても好感が持てました。
 新幹線は現代日本の幹線道路ですが、古代においても九州王朝による幹線道路(官道)があったことが知られています。たとえば、九州王朝の首都太宰府から 佐賀県吉野ヶ里を結ぶ幹線道路(軍事用か)の痕跡が遺存していますし、関東や関西にも同様の幹線道路があり、それらは九州王朝が建造したとする仮説が肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から発表されています。『古田史学会報』108号に、肥沼さんの論稿「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した 軍用道路か?」が掲載されていますのでご参照ください。
 こうした研究テーマは関西の古田学派ではなされていませんので、「古田史学の会」役員会でも肥沼さんを「古田史学の会」記念講演会の講師として招聘してはどうかと何度か検討されているのですが、日程の都合などでまだ実現できていません。面白そうなテーマですので、関西の会員にもお聞かせいただきたいと願っています。

 車窓から東京スカイツリーが見えてきました。もうすぐ列車は東京駅に到着します。雨はふっていないようですので、助かります。


第730話 2014/06/18

シルクの国、邪馬壹国

 今日は新幹線「つばめ」で東京から山形市に向かっています。車中においてある無料の雑誌「トランヴェール」6月号の特集記事は「山形発! Japanese Silk 新時代」というもので、山形県各地の養蚕業や絹織物の歴史や新商品について解説されていました。

 「江戸中期、藩の財政再建策として始めた置賜地方。
  紅花を京へ送り、紅花染の絹織物を得ていた村山地方。
  廃藩置県で失業した旧藩士の救済から出発した庄内地方。
  山形の絹産業の歴史を地域の特徴と共にひもとく。」

 というリード文で始まる解説は、とても勉強になりました。わたしも色素・染料メーカーのケミストですので、シルクの古代染色技法の復元研究など思い出深い経験があります。機会があれば紹介していきたいと思います。
 いわゆる「邪馬台国」論争で畿内説というものがありますが、実は畿内説は学問的仮説、すなわち「学説」としての体をなしていません。せいぜい珍説か臆説に過ぎないのです。何故なら、文献史学における学説や仮説として成立する上での必須条件である史料根拠が畿内説にはないからです。『三国志』倭人伝のどこをどう読んでも畿内説の史料根拠といえる記事はありません。あるのなら指摘してみてください。
 もし原文にある邪馬壹国と畿内「大和」の最初の二音が「やま」で共通するということが史料根拠と言うのなら、山形市の「やま」を「根拠」にした「邪馬台国」山形説のほうがよっぽど畿内説よりも合理的です。このことは別の機会に詳論しますが、倭人伝には邪馬壹国を畿内と特定できる根拠、たとえば位置(方角や距離による地域特定)、たとえば文物(考古学的出土物による地域特定)など皆無です。ですから畿内説論者は倭人伝の原文を都合のいいように改訂しまくって(文献史学の「禁じ手」である史料改竄を行って「史料根拠」にするという)、珍論・奇論をくりかえしているのです。
 倭人伝に見える倭国や邪馬壹国の象徴的文物にシルク(絹)があります。倭人伝には「蚕桑絹績」という記事があり、「倭錦」「異文雑錦」など「錦」と記されているのがシルクの織物ですが、弥生時代の遺跡からシルクが出土するのは博多湾岸を中心に吉野ヶ里遺跡を含む北部九州で、畿内の弥生時代の遺跡からは出土が知られていません。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説など成立しようがないのです。
 考古学が学問であり、倭人伝研究の文献史学が学問であるのならば、倭国の中心地、邪馬壹国の候補地は博多湾岸しかありえません。畿内説など仮説としてさえも成立しません。従って、「邪馬台国」畿内説などをまじめに唱えている論者は、いくら「学問の自由」とは言え、全く学問的でなければ、「学者」とよぶことさえもはばかれると言わざるを得ません。この問題、「畿内説は学説ではない」ということについて、これからも引き続き論じます。


第729話 2014/06/17

7月5日(土)、
松山市で講演します済み

 今朝は新幹線で東京に向かっています。今週は週末まで東京と山形で仕事です。

 往復の車中の読書用に京都駅構内の本屋さんで『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」』(安宅和人著)を買い、読んでいます。最新 のビジネス理論などを勉強するのに、東京行き新幹線は時間的にピッタリです。名古屋出張では京都から36分で到着しますので、読書には短すぎて不適です。 うっかりして名古屋で下車せずに、新横浜駅まで行ってしまいそうですから。
 著者の安宅和人さんはマッキンゼーで消費者マーケティングを担当されたコンサルタントであると同時に、脳神経科学の学位も持つという、珍しい経歴の持ち 主です。ですから、同書には脳神経科学の知見も紹介しながら「問題解決力」について記されており、読者を飽きさせない工夫をこらした、なかなかの好著で す。
 本書は「イシュー」の定義として、

(A)2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
(B)根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題

 この両方の条件を満たすものと定義付け、まず最初にこのイシューを見つけることがビジネス速度(知的生産性)をあげるための要点であることが繰り返し強調されています。
 わたしもこの意見に共感できます。ビジネスでもそうですが、古代史研究においても研究テーマを設定する際に、わたしは上記のABを意識してきました。た とえば、前期難波宮遺構について一元史観内でも決着が付いていませんし、九州王朝説の立場からも解決できない問題(なぜ大宰府政庁よりもはるかに大規模な のか)を含んでいました。しかも枝葉末節ではなく、九州王朝の宮殿か孝徳天皇の宮殿かという根本的な対立点となるテーマでした。
 九州年号の「大長」についても同様で、『二中歴』のように「大長」がなく「大化」を最後の九州年号とする史料と、「大長」を最後の九州年号とする史料が対立しており、古田学派内でも決着がついていませんでした。
 二倍年暦もそうです。釈迦や弟子等の超高齢、ギリシア哲学者の超高齢、エジプトのファラオの超高齢、周王朝の天子の超高齢など、古代人は長生きだったとか、古代文献の年齢は信用できないという安直な「判断」で済まされ、本質的な解決に至っていないテーマでした。
 このように、わたしは「より本質的な選択肢=カギとなる疑問」を研究テーマにしたいと願ってきましたし、現実にそうしました。ですから、著者の安宅さんのご意見には共感するところが多いのです。
 ということで、7月5日(土)に松山市で行う講演(「古田史学の会・四国」主催)では、こうした本質的テーマを中心に、わかりやすく九州年号史料についてお話しする予定です。演題は「九州年号史料の出現と展望」です。ぜひ、お越しください。

 ようやく東京駅に着きました。これから八重洲のブリジストン美術館に併設されているティールーム・ジョルジェットでランチにします。


第725話 2014/06/12

古田先生から「中国人へのメッセージ」

 すでにお知らせしていましたが、「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」の中国語版HPに古田先生からのメッセージを中国語で掲載する企画 を進めていました。一昨日、古田先生からその原稿が送られてきました。お願いしてからわずか2~3日で書き上げていただき、先生の熱意に改めて驚かされま した。
 「古田史学の会」編集部(古賀達也さん)から、この表題をお聞きしたとき、即刻「諾(イエス)」のお答えをした。まさに、語りたかったテーマだったからである。
 中国の人々に対する、わたしの思いは、遠く、かつ深い。いつも連綿とわたしの心の奥底に低音として流れているのだ。

 という書き出しで始まる、古田先生の「中国人へのメッセージ」は400字詰めで7.5枚の原稿です。中国語版HPの冒頭に掲載し、同時に、日本語原文は日本語版HPに掲載する予定です。中国語訳に時間が必要ですので、楽しみにしてお待ちください。


第724話 2014/06/11

「歴史秘話ヒストリア」の中の古田先生

 「洛中洛外日記」720話や721話において、NHK「歴史秘話ヒストリア」での「邪馬台国」纒向遷都説やNHKの放送姿勢を批判しましたが、同番組に古田先生がちらっと登場されたことに気づかれたでしょうか。
 番組冒頭で「邪馬台国」所在地論争に九州説と機内説があると紹介し、それぞれの論者と思われる人物写真が瞬間でしたが一斉に掲載されました。その九州説論者と思われる写真の一枚に古田先生そっくりの写真があったのです。しかし短時間でしたのでしっかりと確認できませんでした。出張先から帰宅したら、水野代表から同番組の再放送が10日の午前0時代にあるとメールが来ていましたので、水野さんらに電話で古田先生の写真が出たように思うが、間違いないか確認しました。残念ながらどなたも気づかれていなかったので、自宅で再放送をビデオ収録し、今朝確認したところ、やはり古田先生でした。古田先生と面識がある 妻にも確認してもらったところ、間違いないとのこと。見るところ、先生50歳頃の写真と思われました。他にも森浩一さんや松本清張さんの写真も見え、いずれも若い頃の写真でしたから、NHKの意図的な写真選択と思われました。
 ということは同番組を制作したNHKスタッフは古田先生や古田説を知っていたことは確かです。とすれば、倭人伝には「邪馬台国」などという国名記事はな く、原文は「邪馬壹国」(やまいちこく)であることも知っているはずです。従って、NHKは知っていながら史料事実とは異なる虚偽説に基づいて番組を制作し放送したことは明白です。これは明らかに「放送法」第4条に違反しています。同4条は次の通りです。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 今回のNHKの「歴史秘話ヒストリア」は第四条三項と四項に違反しています。『三国志』倭人伝には「邪馬壹国」(やまいちこく)とある史料事実をまげて、「邪馬台国」と表記したり「ヤマタイコク」とナレーションしました。これは三項違反です。
 古田先生の写真まで掲載しながら、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする有名な古田説があるにもかかわらず、「なかった」ことにして番組では一切触れられませんでした。これは四項に違反しています。
 それにしてもNHKは御用学者(福島原発は安全に停止説。健康に影響ない説)や虚偽説(ヤマタイコク説)が大好きな放送局のようです。みなさんもこれからNHKの番組や報道ニュースを見るときは、放送法第四条を意識して見られてはいかがでしょうか。


第723話 2014/06/09

「古田史学の会」のフリーミアム戦略

 Eテレの「辞書を編む人たち」という番組を見ました。『大辞林』の編集部の様子を紹介したもので、若者が使う新語の語釈に苦労する編集員の仕事ぶりや、電子版の普及により、紙版の発行部数が往年の二十分の一にまで減少したことによる、編集方針やビジネスモデルの変更などが紹介されていました。
 インターネット時代にあって、紙媒体(『古田史学会報』『古代に真実を求めて』)と電子媒体(HP「新古代学の扉」)をどのように位置づけて活用するのかは、わたしたち「古田史学の会」にとっても重要な課題です。そこで今回は電子媒体(HP「新古代学の扉」)のマーケティング戦略について解説したいと思 います。
 ある日の関西例会後の懇親会で、会員の伊藤隆之さん(神戸市)からHP「新古代学の扉」について、次のような質問をいただきました。
 「ホームページで『古田史学会報』等を、数年遅れで無償で公開しているが、これでは会費を支払って会員になるメリットが減り、入会者数に影響するのではないか。」というものです。
 まことにもっともなご質問でした。そこで、わたしはマーケティング論でいうところのフリーミアム戦略を採用していることを説明しました。このフリーミアムというマーケティング用語は、フリー(無料)とプレミアム(割増金)の合成語で、無料でサービスを利用できるが、より良いサービスへアップグレードした い人は課金される有料サービスを選択できるというビジネスモデルのことです。このフリーミアムというビジネスモデルはインターネットの普及により、様々な分野で採用されています。有名なものではケータイやスマホのゲームでしょう。
 このフリーミアム戦略の特長は、サービスを無料にすることでターゲット顧客を劇的に増やせることと、その無料サービス提供にかかるコストが低いことで す。そして、このビジネスモデルが成功する条件として、無料使用の顧客の中から一定の比率で有償顧客を獲得しなければならないということです。そのためには、多くの無償顧客が集まるような面白いコンテンツを用意することと、その面白さを更に上回る有償サービスを準備することが不可欠となります。業種やサー ビスの内容で異なりますが、無償顧客から有償顧客にかわる比率は2%程度が想定されているようで、それで事業継続を可能とする利益が得られるように事業設計されています。このように、フリーミアムというマーケティング戦略が飛躍的に発展したのは、インターネットの普及でターゲット顧客が劇的に増加し、無料サービス提供コストが圧倒的に少なくてすむようになったからです。
 わたしたち「古田史学の会」がホームページを開設した当初は、古田史学や「古田史学の会」を世に広く紹介するという広報宣伝活動が主目的でしたから、戦略的マーケティングの一環としてはそれほど深く意識していませんでした。わたしが会運営等にマーケティング論を意識し始めたのは、勤務先での職種を製造・ 品質管理・研究開発部門と渡り歩き、7年前に企画開発を含むマーケティング部門に異動になったことがきっかけでした。
 30代前半の頃、勤務先の中期経営計画策定プロジェクトメンバーとして経営コンサルタントから猛特訓を受けた経験がありましたから、経営戦略やマーケ ティングの初歩について少しは聞きかじっていたのですが、50代になりマーケティング部門への異動に伴って、最新の経営戦略やマーケティング理論を再勉強しました。そうしたこともあって、「古田史学の会」の運営にマーケティング理論を意識的に応用するようになりました。そして、顧客(会員)獲得のためのプ ラットホームとしてホームページを位置づけ、更にフリーミアム戦略を採用することにしたのでした。
 幸い、インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のご尽力により、HP「新古代学の扉」のコンテンツを強化し、「古田史学のことを知りたければこのHPだ」と言われるまでになりました。しかし、更にHPの知名度を上げ(検索で上位にヒットさせる)、「無償顧客」を飛躍的に増やすには十分ではなかったので、HPへのアクセス件数(来場者数)を増やすため、常にHPを更新する必要を感じました。そこで、わたしは「洛中洛外日 記」を連載することを決意し、「古田史学の会」役員会の承認を得て、連載を開始したのです。そして、この企画は予想通りの成果を上げました。HPを見て、 例会に参加したり、入会する人が増え始めたのです。
 紙媒体(『古田史学会報』『古代に真実を求めて』)は初期の古田ファンの獲得には有効でしたが、草創期会員の高齢化による退会が常に発生する時代に突入しましたから、会の財政基盤を支えるためにも会員数維持・増加が不可欠です。そうしたことから、インターネット世代の会員獲得が重要テーマとなり、フリーミアム戦略の採用は必然の流れでもありました。おそらく、無償顧客から有償顧客(会員)への変更率(入会率)は0.1%以下だと思いますが、「古田史学の会」は非営利組織ですので、その程度の変更率でも十分にビジネスモデルとして機能します。
 今後は無償顧客の満足度を高めつつ、有償顧客(会員)の満足度を更に高める施策が重要です。『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』の充実(読みやすく、面白い、役に立つ紙面作り)と同時に、記念講演会・例会・遺跡巡りなどのイベント、書籍発行事業など、課題は山積みです。これらの課題を解決し、成果を上げ続けるためには、みなさんのご支持ご協力が必要です。
 最後に一言付け加えますと、どれほど優れたマーケティング戦略を採ろうと、わたしたち「古田史学の会」のような非営利組織にとって最も大切なものはミッション(歴史的使命)です。ここがぶれたり曖昧にしたら組織の未来はありません。このことを申し述べて、これからもよろしくお願い申しあげます。