現代一覧

第656話 2014/02/02

学問に対する恐怖

 最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この15年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
 良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という表現で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
 この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。 中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く 離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
 当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも、未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
 前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の2点について明確な回答を求めたいと思います。

 1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
 2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。

 この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えら れた九州王朝説論者を知りません。
 7世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実なのです。
 この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、 学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。


第654話 2014/01/31

おめでとう、小保方さん

 小保方晴子さんのSTAP細胞の研究をテレビ報道で知り、とても驚いています。ノーベル化学賞を受賞された白川先生のケミカルドーピング(ポリマーに金属の性質を発現させる技術)のとき以来の感動です。
 報道によれば、当初、小保方さんの発見は周囲から信じてもらえず、『ネーチャー』からも掲載を拒否されたとのこと。定説を覆すような発見や新たな学説が簡単には受け入れられないのは、理系も日本古代史も似たようなものかと考えさせられる反面、小保方さんの発見は5年で認められたのですから、わたしの感覚からすれば極めて早いと思うのですが、あるマスコミが「遅い」という論調で報道していることには違和感を覚えました。
 古田先生の学説は発表から40年以上もたっていますが、未だ古代史学界は無視の姿勢を貫いているのですから、このこともしっかりと報道し、「遅すぎる」と指摘するのがジャーナリズムやメディアの仕事ではないでしょうか。
 古田先生の支持者に理系の人が多いのは有名ですが、これは古田先生の学問の方法が「データ」や「再現性」「論理性」などを重視されていることにも関係すると思います。「古田史学の会」でも、水野代表とわたしは有機化学を、太田副代表は金属工学を専攻されたとうかがっています。水野さんは日本ペイントで研究開発に関わっておられたこともあり、色素の分子構造や性能についてアドバイスをいただいたこともあります。
 わたしは企業研究ですし、ノーベル賞級とも言われている小保方さんの研究とは比べものにもなりませんが、たとえばわたしが開発した近赤外線吸収染料は、 水着用途(赤外線透撮防止機能)には採用に3年、インナーウェア用途(太陽光発熱機能)には採用に7年かかりました。ですから、社会やマーケットに受け入れられるのに5年や10年かかるのは当然という感じを持っています。
 しかし、古田説が40年以上たっても学界から無視されるという現状は看過できません。もし効果的で実現可能な方法があれば「古田史学の会」としても取り組みたいと思うのですが、現実はそう簡単ではありません。そうした中で、ミネルヴァ書房から古田先生の書籍が続々と刊行されたり、大阪府立大学なんばキャンパス(I-siteなんば)に古田史学書籍コーナーができたりと、一歩一歩ではありますが、着実に前進しています。これからも皆様のご協力と効果的なアドバイスをいただければと思います。それにしても、小保方さん本当におめでとうございます。日本の若者の世界的活躍に拍手喝采です。


第653話 2014/01/29

「古田史学の会」の名称

 今日は快晴の東京に来ています。今年最初の関東出張です。車窓から見える東京タワーや東京スカイツリーが青空に映えてきれいです。

 関東には「古田史学の会」の「地域の会」はありませんが、これは「古田史学の会」設立の事情から意識的にそうしたためです。「市民の古代研究会」が分裂し、「古田史学の会」は全国におられる「市民の古代研究会」会員の受け皿として、全国組織として立ち上げたのですが、関東と九州には「多元的古代研究会」がそれぞれ発足されたので、その地域では「古田史学の会」が受け皿となる必要性がなかったのです。
 また、最古参である「東京古田会」をはじめ、「多元的古代研究会」や「古田史学の会」が互いに協力しあい、切磋琢磨することで、よりよい効果が発揮できると考えていました。ですから、関東や九州に「古田史学の会」の組織を作ることは考えていませんでした。「古田史学の会」発足当時、関東にも「古田史学の会」の組織を作りたいと申し出られた方もありましたが、丁重にお断りしたほどです。
 何よりも、わたしと水野さんには「市民の古代研究会」での経験から、無理な会員拡大を行ってもろくなことにはならないという「暗黙の合意」がありまし た。「組織論」的には正しくないのかもしれませんが、その意識は今も引き継がれています。「トラウマ」と言われても仕方がないのかもしれません。マネージメント論でいうならば、「組織の規模と形態、活動方法は目的(使命・ミッション)に従う」ということにつきますが、このことについては別の機会に触れたい と思います。
 「会」設立にあたり、人事とともに「会名」を検討したのですが、「古田史学」の4文字を入れることと、「○○研究会」という名称にはしないことを、わたしは決めていました。「会」の使命(ミッション)を明確にするために「古田史学」の4文字を冠することを古田先生に御了解いただきましたが、たとえば「古田史学研究会」という名称にはせずに、「古田史学の会」としたのには理由がありました。
 「市民の古代研究会」の理事会変質の過程で、研究会なのだから「研究者」が上で、「古田ファン」は下と、主に研究者で構成されていた理事会が古田ファンの会員を無意識のうちに見下していた可能性がありました。こうしたことが、たとえ無意識であっても二度と起こらないよう、「○○研究会」という名称にはしないことにわたしはこだわり、最終的に「古田史学の会」としたのでした。
 このように、ことあるごとに「古田史学の会」の使命(ミッション)を明確にしてきたにもかかわらず、「古田史学の会」発足の数年後には、熱心に研究発表されていたある会員から、「古田武彦も会員も研究者として平等なのだから、会誌・会報に古田さんの論文を優先的に掲載するのはやめるべき」という声が出たことがありました。わたしは、「古田史学の会」の使命(古田先生や古田史学への支持協力)を説明し、その申し入れを拒絶しました。結局その方は「古田史学の会」を離れられ、別の団体で「活躍」されておられるようです。
 使命を見失った組織の末路は哀れです。「市民の古代研究会」のようになるだけです。この「使命」に関しては、わたしはこれからも微塵も妥協するつもりはありません。もちろん、時代や環境の変化にあわせて「古田史学の会」が進化することは大切ですが、使命を絶対に見失ってはならない。このことをこれからも 繰り返し言い続けていくつもりです。(つづく)


第652話 2014/01/28

「古田史学の会」の創立と使命

 わたしが「市民の古代研究会」の事務局長を辞任し、退会せざるを得なかった経緯をのべてきましたが、一連の状況を理事会の外から見てこられた山崎仁禮男さんによる「私の選択 なぜ古田史学の会に入ったか」が『古田史学会報』創刊号 (1994.06)に掲載されていますので、是非ご一読下さい。
 「市民の古代研究会」を退会するにあたり、わたしは共に戦ってくれた少数の古田支持の理事に、電話で「市民の古代研究会」を退会することと新組織を立ち 上げる決意を伝えました。中村幸雄さん(故人)からは、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人ら(反古田派理事)とは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一からやり直したらええ」と励ましていただきました。水野さんにも行動を共にしてほしいとお願いしたところ、「古賀さんと進退を共にすると、わたしは言ったはずだ」と快諾していただきました。
 そして古田先生にも会を乗っ取られたお詫びと事情を説明しました。古田先生からは「藤田さんはどうされますか」と聞かれ、「行動を共にされます」と返答したところ、「それはよかった」と安心しておられました。何故、会が変質したのか、どうすれば変質しない会を作れるのか悩んでいることを先生に打ち明けた ところ、「7回変質したら、飛び出して8回新しい会を作ったらよいのです」と叱咤激励していただき、わたしは決意を新たにしました。
 「古田史学の会」設立に当たり、最初に決めたのが水野さんを会代表とする人事と、会の目的(使命)でした。それは次の4点です。

1.古田武彦氏の研究活動を支援協力する。
2.古田史学を継承発展させる。
3.古田武彦氏の業績を後世に伝える。
4.会員相互の親睦と研鑽を深め、楽しく活動する。

 特に4番目は古田先生からのアドバイスを受けて取り入れました。先生らしい暖かいご配慮でした。そして次に取りかかったのが「会の運営方法とかたち」を決める、会則作りでした。(つづく)


第651話 2014/01/26

「古田史学の会」誕生前夜

 「市民の古代研究会」理事会の中で少数派で孤軍奮闘していたわたしを支えていたのは、古田支持を明確にしていた関東支部と九州支部からの応援でした。しかし、状況を打開するために理事会や臨時会員総会を開催したものの、「市民の古代研究会」を古田支持の本来の姿に戻すことは絶望的と思われ、両支部は「市民の古代研究会」からの離脱の方向に進んでいました。藤田会長からは、関西と並んで多数の会員がいる関東支部の離脱だけは思いとどまらせるよう指示されていました。しかし、それはもはや不可能でした。反古田派の理事からも「事務局長として、関東と九州の離脱を止めろ」という何とも無責任で身勝手な電話もかかってきました。
 そして、関東支部からのただ一人の理事だった高田かつ子さん(故人)から一枚のファックスが届きました。それには、理事会が反古田派に牛耳られていることは明らかで、なまじ古賀さんが理事会に残ることにより、古田先生は講演に行かなければならず、「人寄せパンダ」として利用されるだけの古田先生のことを思うと胸がつぶれそうです、という高田さんの切々たる心情が吐露されていました。
 その夜、わたしは一晩中考え続けました。そして、「市民の古代研究会」を退会し、古田先生と古田史学を支持支援する新組織を創立することを決意しました。翌日、藤田会長に事務局長の辞任と退会の意志を告げ、行動を共にするよう要請し、一緒に新組織を創立することにしました。その後、関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」を離脱し、「多元的古代研究会・関東」「多元的古代研究会・九州」として再出発されました。
 理事会を頂点とする「市民の古代研究会」という組織の中枢を反古田派に乗っ取られ、変質していく過程を内部から見てきたわたしは、責任を痛感し、自らの非力を悔やみ、何が間違っていたのか、どうすれば変質しない会にできるのかを「市民の古代研究会」退会後も考え続けました。(つづく)


第650話 2014/01/25

「市民の古代研究会」の分裂

 反古田派と古田支持派が対立を深める「市民の古代研究会」理事会の「融和」に腐心されていた藤田友治会長に、このままでは関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」から離脱すると、わたしは反古田派と断固として戦う決意を求めてきましたが、事態は悪化の一途をたどりまし た。
 理事会では、「古田支持で会員を募集しておきながら、『古田離れ』を会員にわからないように画策するのは会と会員に対する背信行為である」と孤軍奮闘するわたしに対して、反古田派の理事からは「病院に行ってはどうか」とまで言われました。わたしは少数派に陥ったこと、もはや形勢を挽回できないことを悟りました。しかも、会の機関紙『市民の古代ニュース』の編集部は反古田派理事に握られており、こうした理事会の内情を全国の会員に知らせることもできませ ん。
 そして勢いにのった「多数派」理事から、わたしの事務局長解任動議が出されました。解任の理由は、わたしが地方支部に対して「多数派工作」をしたことでした。ある地方支部選出の理事が「反古田派」だったため、わたしからの古田支持協力要請が筒抜けになっていたのでした。事務局長解任動議に対して、「わたしは会員総会で事務局長に選ばれたのであり、理事会の決議で解任することはできない」と抵抗しました。そしてこうも付け加えました。「わたしは藤田会長に請われて事務局長を引き受けたのであり、もし藤田会長が古賀は事務局長にふさわしくないと言われるのであれば、会員総会の決議を待つまでもなく辞任する」 と述べました。この発言の真意は、古田支持のわたしと反古田の「多数派理事」のどちらをとるのかの決断を藤田会長に迫ったものでした。その結果、藤田会長は最後までわたしの解任に同意されず、わたしは事務局長のまま「会長預かり」という訳の分からない「処分」となりました。この「処分」は親しかった中間派理事から出された妥協案でした。「会長預かり」でも従来通り事務局長の仕事は続けるとわたしは宣言したものの、もはや少数派になった事務局長にできることは限られており、敗北を痛感しました。
 ちょうどそのときです。それまで沈黙を守っておられた水野さん(現「古田史学の会」代表)がすくっと立ち上がり、「わたしは古賀さんと進退を共にする」 と言われたのです。この水野さんの発言に、それまで騒然としていた理事会が静まりかえりました。わたしと水野さんとは研究分野が異なることもあって(わた しは九州年号研究、水野さんは中国古典研究)、それほど親しいおつきあいはなかったのですが、このときわたしは水野さんを深く信頼するに至り、その関係は20年たった今日まで続いています。こうして、「市民の古代研究会」は分裂に向けて決定的な瞬間を迎えることとなります。(つづく)


第649話 2014/01/24

「市民の古代研究会」の変質

 「市民の古代研究会」は「古田武彦と共に」という会の性格を表した「サブネーム」を持って創立されたことからも明らかなように、会の目的は古田先生と共に古田史学により日本古代史を研究する団体でした。少なくともわたしやほとんどの会員はそう信じて入会し、会費を支払っていました。従って、会の中枢である理事会はそうした志を持った「同志」により運営されていました。ところが、会員の増加、会組織の急拡大により、この根幹が揺らぎだしたのです。
 拡大した組織を維持運営するため、役員(世話役)を増やさざるを得ない状況が生じました。例会や勉強会に熱心に参加される会員から理事を補充することになったのですが、わたしより年輩でもある先輩理事が推薦する会員を理事に迎えました。そのときわたしは「嫌な予感」がしたことを覚えています。というのも本当にその人が古田説支持者かどうか、わたしにはよくわからなかったのです。しかし、年少のわたしに先輩理事の推薦や判断に根拠もなく異を唱えることはできませんでした。
 その後、わたしの「嫌な予感」は的中しました。理事会の「古田離れ」が急速に進んだのです。「市民の古代研究会」は市民の自立した古代史研究団体であるから、古田武彦だけを講演会に呼ぶのはおかしい、「学問の自由」を守るべきだ、というのが「古田離れ」を主張する理事の意見でした。この一見もっともらし い「学問の自由」という主張に、わたしは苦しみました。そしてそれに対して、一般会員が預かり知らぬところで理事会が「古田離れ」を画策するのは、会と会員に対する背信行為だとわたしは反論し続けたのですが、気づいてみると理事会で古田支持派は少数になっていました。反古田派理事の中心人物が、当初わたしを支持してくれていた中間派理事を一人また一人と切り崩していたのでした。
 当時の理事会は本当にひどい状態で、「反古田・非古田」の理事からは、「安本美典を講演会に呼べ」とか「会は古田説支持団体ではないが古田説支持者がいるのはかまわない」とかが公然と主張されるまでになっていました。さすがに安本氏を呼ぶことに対しては、水野さん(当時「市民の古代研究会」理事、現「古田史学の会」代表)が反対され実現することはありませんでしたが、一元史観の学者を講演会に呼ぶことは進められました。しかも、その段取りを事務局長のわたしがやれと言われました(わたしは、しませんでしたが)。
 こうした理事会変質の背景には、会の拡大のためには「非古田説」の古代史ファンを勧誘すべきという理事の意見や、おりから発生していた和田家文書偽作キャンペーンにより、古田古代史は支持するが和田家文書は偽作であり古田先生はだまされているとする中間派理事の増加がありました。後に、偽作キャンペーンの中心人物が「市民の古代研究会」中枢に電話などで様々なはたらきかけをしていたことをわたしは知りましたが、そのころは思いもよりませんでした。わた し自身もまだまだ世間知らずの未熟者で「甘ちゃん」だったのです。「市民の古代研究会」理事会は古田ファンの善意の人々ばかりであると信じていたのですから。(つづく)


第648話 2014/01/23

「市民の古代研究会」の拡大路線

 わたしは仕事で愛知県一宮市に行くことが多いのですが、時間待ちの際に利用するのが、真新しい一宮駅ビルの5~7階にある市立図書館です。お気に入りの図書館の一つなのですが、その理由は交通の便が良いこと、新しくきれいなこと、そして何よりもミネルヴァ書房から刊行されている古田武彦シリーズが全冊並べられていることです。そうしたこともあり、『古代に真実を求めて』16集を寄贈させていただきました。一宮市民の皆さんの目に留まれば幸いです。

 さて、1990年代に急拡大した「市民の古代研究会」でしたが、組織拡大のため、わたしはマーケティング論でいうところ の、STP戦略をフル活用しました。セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニングというもので、活動領域は主に「日本古代史」、獲得すべきター ゲットは「古田ファン・読者」、ポジショニングは多元史観・古田説による旧来の一元史観古代史との「差別化」でした。
 こうした基本戦略は、古田先生の人間的魅力と古田史学が持つ圧倒的な論理性・説得力を背景に、極めて有効にはたらき、期待した通りの成果を達成できました。このときわたしは会員拡大のスピードをあげるために、少し危険な方法を採らざるをえませんでした。それはターゲットを「古田ファン・読者」を中心とし ながらも、「古田史学に関心のある一般の古代史ファン」にも広げたのです。そうすることにより、ターゲットが広がり、会員拡大の成果を出しやすくなりま す。
 そうしたもう一つ理由に、何年も200人程度で推移していた会員数が急速に増えたことに「目がくらんだ」一部の理事から、古田説支持・不支持とは無関係にもっと会員を増やせという声が出始め、そうした意見にわたしは苦慮し、その妥協策として「古田ファン・読者」を中心に「古田説に関心を持つ古代史ファン」というターゲット層の拡大案を出すことにより、組織の「古田離れ」をくい止めようとしたのです。今から思えば、こうした会員数急拡大が一部理事の錯覚 (思い上がり)「古田武彦なしでも会員は増える」をもたらしたのかもしれません。
 しかし、このターゲット層の拡大が「市民の古代研究会」失敗の直接の原因ではありませんでした。より決定的な原因は理事会の「変質」にありました。(つづく)


第645話 2014/01/19

「市民の古代研究会」の失敗の教訓

 「古田史学の会」を「地域の会」等とのネットワーク型の組織と運営体制にしたのは、「市民の古代研究会」の失敗の教訓からでした。1980年代、古田先生と古田史学を支持支援する団体として、関東の「古田武彦と古代史を研究する会 (東京古田会)」があり、その後、関西に「市民の古代研究会」が発足し、両団体は活発に活動していました。
 1986年にわたしは古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を読み、古田史学に感激して「市民の古代研究会」に入会しました。ちょうど古田先生が還暦を迎えられた年でもあり、茨木市で開催された講演会で初めて先生にお会いしました。わたしが31歳のときでした。懇親会では先生の還暦のお祝いがなされ、赤いちゃんちゃんこが先生にプレゼントされたことを、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。
 わたしは古代史研究だけではなく「市民の古代研究会」の活動のお手伝い(遺跡巡りの担当)も積極的に行っていました。当時、わたしは勤務先の労組委員長 や上部団体の中央委員、そして会社の経営計画作成プロジェクトなどを手がけていたこともあって、その組織運営の経験を評価していただき、「市民の古代研究会」の理事(最年少)に選ばれました。その後、事務局長の藤田友治さんが会長に就任されることになり、藤田さんから請われて後任の事務局長をお引き受けしました。
 「市民の古代研究会」事務局長の活動に専念するため、わたしは十数年続けてきた全ての労組役職を退任し、労働運動の第一線から退くことにしました。当時就任していた化学関連労組上部団体の副執行委員長を退任するにあたり、同組織の執行委員長だった前川重信さん(現・日本新薬社長)に釈明とお詫びにうかがったのですが、わたしが古代史研究の世界に入ることを快くご承諾いただき、励ましていただきました。
 それからは文字通り寝食を忘れて、「市民の古代研究会」の組織拡大に取り組みました。会員数が増えれば影響力も増し、古田史学が世に受け入れられると考え、それまで200人ほどで推移していた会員数を数年で1000人に手が届くというところまできたのです。
 これは計画通りで、「市民の古代研究会」理事会を頂点として、関西・関東・九州・東海・仙台に会員組織が発足し、広島などその他の地域にも支部結成を目指していました。しかし、この組織の急拡大に大きな失敗の原因が潜んでいました。このことを後にわたしは思い知らされることになります。(つづく)


第644話 2014/01/14

「古田史学の会」と「地域の会」

 先日の賀詞交換会の午前中に、「古田史学の会」全国世話人会を開催しました。 通常、年に一度開催し、「古田史学の会」の事業や課題などについて論議や意見交換を行い、会の運営に反映させています。その全国世話人会で毎回のように出される意見に、「古田史学の会」と「地域の会」との関係のあり方ついてというテーマがあります。今回の全国世話人会でも出されました。「古田史学の会」内部の問題ですので、「洛中洛外日記」で触れることでもないのかもしれませんが、「古田史学の会」創立者の一人として、この問題についての考えを述べてみたいと思います。
 現在、「地域の会」として組織されているのは「北海道」「仙台」「東海」「関西」「四国」ですが、発足の経緯、活動内容や運営などは独立した組織として、それぞれ異なっています。基本的に「地域の会」は独立した組織であり、「古田史学の会」の地方支部ではありません。同時に「古田史学の会」が「地域の会」の本部でもありません。財政的にも人事でも独立した組織です。
 「古田史学の会」は全国組織であり、会費を支払っていただいた会員からなっています。会創立の経緯から関西に本部機能がありますが、「古田史学の会・関西」とは財政的に独立しています。「地域の会」は「古田史学の会」の会員が地域ごとに任意で集まって例会活動などを自主的に行っている組織であり、「古田史学の会」とは別組織ですが、その組織は「古田史学の会」会員が中心となって運営され、目的と志は「古田史学の会」と同じです。いわば「古田史学の会」と 「地域の会」は同志的紐帯で結ばれた関係なのです。従って、本部・支部の関係ではありませんし、上下関係もありません。
 現在は関西の会員が主となって「古田史学の会」の本部機能を受け持っていますが、将来、関東地区や東海地区の会員数が増え、本部機能を東京や名古屋に移動することもあり得ます。現に、発足当初は本部機能の一つである『古代に真実を求めて』の編集部は「古田史学の会・北海道」が受け持っていました。現在も 『古田史学会報』編集と会計は香川県高松市在住の西村秀己さんが担当しておられます。このように、「古田史学の会」は「地域の会」等とピラミット型ではな く、ネットワーク型の運営体制をとっているのです。
 このような組織や運営体制にしたのには理由がありました。それは「市民の古代研究会」の失敗の教訓があったからです。(つづく)


第643話 2014/01/12

賀詞交換会の御報告

 昨日、I-siteなんばで「古田史学の会」賀詞交換会を開催し、古田先生に講演していただきました。講演要旨は『古田史学会報』に掲載しますが、項目と内容について一部御報告します。
 冒頭、「古田史学の会」水野代表よりあいさつがなされ、「古田史学の会・東海」の竹内会長、「古田史学の会・四国」の合田さんからもごあいさつをいただきました。わたしからは、今年の「古田史学の会」出版事業計画の報告をしました。
 古田先生の講演は次のような内容でした(文責・古賀達也)。

○靖国参拝問題について
 『祝詞』「六月の晦(つごもり)の大祓」に「安国」が見える。そこにある「天つ罪」「国つ罪」は具体的で、その「罪」を明確にしている。
 「戦争犯罪」を犯した人物も祀る靖国神社には、こうした「罪」の記述がない。「罪」を具体的に記した『祝詞』とは異なる。
 同時に、中国や朝鮮も日本人虐殺の歴史(元寇など)があるが、「記述」されていない。
 アメリカ軍も日本占領時に日本人婦女子を陵辱したが、このことも伏せられている。GHQが報道させなかった。古今未曾有の戦争犯罪は広島・長崎の原爆投下である。このような戦争犯罪は歴史上なかった。
 自国の悪いことも、相手国の悪いことも共に明らかにし、「罪」として述べることが大切である。これが『祝詞』の精神である。これが「安国」の本来の姿である。

○「言素論」について
 中国語の中にある「日本語」の研究は重要テーマである。たとえば、「崩」(ほう)の字は「葬(ほうむ)る」という日本語からきているのではないか。『礼 記』に見える「昧(まい)は東夷の楽なり」の「昧」は日本語の「舞(まい)」のことではないかとする結論に達していたが、最高人物に対する用語である 「崩」まで日本語であったとすれば、まだ断言はしないが、わたしとしては驚いている。

○『東日流外三郡誌』について
 日本国家が『東日流外三郡誌』記念館・秋田孝季記念館を作ることを提案する。「和田家文書」と言っているが、本来は「秋田家文書」であり、更に遡れば 「安倍家文書」である。この安倍家は安倍首相の先祖である。寛政原本だけでなく、安本美典氏らの偽作説の文献も全て記念館に保存し、将来の「証拠」として 残しておくべき。いずれ真実は明らかとなる。

○アメリカは何故東京に原爆を落とさなかったか
 アメリカ軍は皇居に爆弾を落とさなかった。うっかりミスではない。毎回の爆撃で一回も皇居を意図的には爆撃しなかった。勝った後に天皇家を利用するために、皇居を爆撃しなかった。だから原爆を東京に落とさなかった。
 アメリカ軍はあらかじめ広島の地形を航空写真で完全に調べてから、人体実験として広島に原爆を落としたのである。同様にアメリカは皇居の航空写真を撮っ ていたはずである。その写真に基づいて、爆撃から皇居を外したのである。アメリカにとって、「万世一系」の天皇家は戦後統治のために必要だったのである。 九州王朝はなかったとする大嘘に基づいて、現在も「万世一系」の歴史観が利用されているのである。
 権力を握ったら自分の歴史を飾り、嘘を本当の歴史であるかのように作り直している、と秋田孝季は言っている。秋田孝季の思想からみれば、人類の歴史の中 で国家は発生し、なくなっていくものである。宗教も同様で、宗教がある時代から無い時代へと変わっていく。歴史学とはいかなる権力・宗教にも迎合すること なく、真実を明らかにする学問である。

○井上章一さんの『真実に悔いなし』書評紹介
 ロシアに「ヤナ川」がある。これは日本語であるとの指摘がロシア側の学者からも出されている。方向としてはロシアから日本へ伝播した可能性が高い。
 沿海州の「オロチ族」の「おろち」は「やまたのおろち」の「おろち」と同源である。

 ※「シベリア物語」の歌(古田先生が歌われる)
 「荒れ果てて けわしきところ イルトゥーイシの不毛の岸辺に エルマルクは座して 思いにふける」

 「イルトゥーイシ」は「イルトゥー」までがロシア語で、「イシ」は日本語ではないか。「イ」は神聖なという意味、「シ」は生き死にする場所の「シ」である。「君が代」にも「イシ」がある。「さざれいし」の「いし」とは、神聖な生き死にする場所という意味ではないか。
 日本の地名に「いし」がやたらとでてくるので、石の「いし」なのか、神聖な場所の「いし」なのかを調べてみればよい。自分で調べてから発表すればよいと 言われるかもしれないが、わたしは明日死ぬかもしれないので、今のうちに言っておきます。わたしは早晩死んでいきますが、皆さんにあとをついでほしい。

(古田先生の詩)
 偶詠(ぐうえい) 古田武彦 八十七歳
竹林の道 死の迫り来る音を聞く (12/24)
天 日本を滅ぼすべし 虚偽の歴史を公とし通すとき (12/23)


第641話 2014/01/02

黒田官兵衛と「都督」

 今年のNHK大河ドラマは黒田官兵衛を主人公とする「軍師官兵衛」です。官兵 衛役は人気グループV6の岡田准一さん。黒田官兵衛(如水)は筑前黒田家の祖(初代藩主は息子の長政)で、ドラマの後半では九州が舞台になるとのことで、 今からとても楽しみにしています(官兵衛は晩年、太宰府天満宮に隠居したとのこと)。
 ところで筑前黒田藩と九州王朝に不思議な「縁」があることをご存じでしょうか。それは「都督」という称号です。20年以上も前のことですが、『糸島郡 誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)を調べていたときのことです。雷山にある層々岐神社の項(711頁)に、「石の寶殿」と呼ばれている上宮の 祠に銘文があり、そこにこの祠を寄進した人物名を「本邦都督四位少将継高公」と記されているのです。「本邦」とは筑前国のことで、「継高公」とは、筑前黒 田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のことです。すなわち、江戸時代(同銘文には「寶暦三癸酉年三月吉日」〔1753年〕とあります) においても、筑前の国主を「都督」と称しているのです。
 ご存じのように『宋書』倭国伝には、倭(九州王朝)の五王(讃・珍・済・興・武)が「都督」を自称したり、任じられた記事が見えますが、この場合の「都 督」は中国(宋)の天子の下の「都督」です。『日本書紀』天智紀にも「筑紫都督府」が記されていることから、九州王朝には「都督」がいたことがわかりま す。
 この「都督」を歴史的淵源として、筑前黒田藩の藩主も「都督」と称してきたと思われます。黒田藩主の「都督」の称号は、恐らくは京都の天皇家か徳川幕府 を「主」とする、配下としての「都督」という位置づけになるものと思われますが、「都督」問題は古田史学において重要なテーマです。その「位置づけ」も時 代によって変化しており、古田学派内でも九州王朝史研究において様々な仮説が提起されています。(つづく )