現代一覧

第1213話 2016/06/19

張莉さん正木さん講演会のご報告

 本日、大阪府立大学なんばキャンパスにて「古田史学の会」定期会員総会と記念講演会を開催しました。総会に先だって、張莉さん(漢字学者、大阪教育大学特任准教授)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)が講演されました。演題は次の通り。

 張莉さん:「食」と「酒」の漢字
 正木裕さん:漢字と木簡から魏志倭人伝の短里を解明する

 張莉さんは中国天津のご出身で、天津といえば天津飯と天津甘栗が有名ですが、張莉さんは天津飯は日本に来て初めて食べたとのことです。また、天津甘栗の栗は天津産ではなく河北省産で、天津港から出荷されたため「天津甘栗」と呼ばれたようです。
 講演では「食」や「飲」の字の意味と成立過程を金文や甲骨文字にまで遡って説明していただき、初めて知ることばかりでした。他方、日本語の「うまい」の語原が「熟(う)む」、「おいしい」は「美(い)し」、「まずい」は「貧しい」が語原であることなども初めて知りました。中国ご出身の張莉さんから日本語の語原を教えていただくのも不思議な感覚でしたが、張莉さんが白川静先生のお弟子さんであることを思えば、納得がいきます。最後まで興味深く聴講しました。
 正木さんからは『三国志』の里単位が1里=75〜77mの短里であり、里程記事が実際の地図でも短里で一致することが確認できるとされ、実例をあげて説明されました。さらに古代中国の数学書『周髀算経』や竹簡(張家山漢簡、1983年出土)に記された「二年律令」などからも証明でき、そして短里の成立が殷代以前に遡ることにも言及されました。これら正木さんの研究は古代中国における短里に関する最先端研究です。
 講演会後に行われた会員総会も全ての議案が承認され、新たに冨川ケイ子さんが全国世話人に選ばれました。場所を代えて行われた懇親会も盛り上がり、夜遅くまで親睦を深めました。参加された皆さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございます。これからも「古田史学の会」へのご協力をよろしくお願い申しあげます。


第1193話 2016/05/27

別冊宝島『邪馬台国とは何か』の読み方

 別冊宝島『古代史再検証 邪馬台国とは何か』が発刊されました。今朝、京都駅で購入し、久留米に向かう新幹線の車中で読みました。わたしへのインタビュー記事「古田史学から見た『邪馬壹国』」が掲載されているので購入したのですが、現在の「邪馬台国」研究動向と学問的水準を把握するのに役立ちました。たまにはこうした一般の古代史ファン向けの雑誌を読むのもいいものだと思いました。
 わたしのインタビュー記事を担当された常井宏平(とこい・こうへい)さんは若いフリーライターですが、その卓越した理解力と文章力により、二時間に及んだ雑多なわたしの話を要領よく、かつ説得力のある見事な記事にまとめられていました。感謝したいと思います。
 またカラー写真がふんだんに掲載されており、買って損はしない一冊といえます。たとえば中国の洛陽から発見された三角縁神獣鏡や志賀島の金印、平原遺跡の漢式鏡のカラー写真などもあり、史料的にも値打ちがあります。
 他方、「邪馬台国」畿内説にとどめを刺す重要な史料が、偶然とは思えない「配慮」によるものか、掲載されていませんでした。たとえば『三国志』倭人伝の版本写真が何ページかに散見するのですが、肝心要の「南至る、邪馬壹国」という部分は見事に掲載されていないのです。わたしのインタビュー記事以外は全論者・全頁が何の説明もなく「邪馬台国」と原文改訂(研究不正)した表記となっています。この事実こそ「邪馬台国とは何か」の答えになっているのかもしれません。すなわち「邪馬台国は研究不正の所産。みんなで隠せ邪馬壹国」という「答え」です。しかしながら「古田史学・邪馬壹国説」をわたしへのインタビュー記事として掲載されたのですから、これは編集者の学問的良心と受け止めたいと思います。もちろん、古田ファンにも売れるというビジネス的判断かもしれませんが、この点は出版ビジネスですから、わたしは否定しません。
 更に巻末に綴じ込み付録「邪馬台国出土品 邪馬台国の謎を解く6つのアイテム」として、「銅鏡」「金印」「銅剣・銅矛」「銅鐸」「玉類」「骨角器」の美しい写真が掲載されているのですが、なぜ「鉄器」と「絹」がないのでしょうか。恐らくこの二つのアイテムの圧倒的濃密出土地域が福岡県であることから、この事実を掲載してしまえば、そもそも考古学的にも畿内説は存在不可能となってしまい、「邪馬台国とは何か」という「古代史再検証」企画が成立しなくなるのです。これは出版ビジネスとしては避けたいところでしょう。わたしも仕事でマーケティングに関わっていますから、ピジネスとして理解できないこともありません。なお、鉄器と絹の福岡県と奈良県の出土分布比較グラフは本文中にはあり、全く触れられていないということではありません。しかし、巻末の「謎を解くアイテム」に取り上げられていないことには、意図的なものを感じざるを得ません。あえて編集者の立場に立って考えれば、錆びてぼろぼろの鉄器や腐食寸前のシルクでは、カラーグラビアとしてはインパクトに乏しく、そのため不採用になったのかもしれません。
 最後にこの本の読み方について述べてみます。様々な説が紹介され、各論者の意見が記されているのですが、それらのほとんどは「ああも言えれば、こうも言える」「(史料・考古学)事実はともかく、わたしはこう考えてみたい」「倭人伝中の自説に不都合な記事は信用できない。しなくてよい」「その位置は永遠の謎」「むしろ、わからなくてもよい」といった類のものか、どうとでもいえる抽象論で、およそ学問的論証レベルに達しているようには思えません(少数の例外記事を除いて)。
 そして、そうした文章を延々と読まされる読者には知的フラストレーションが溜まりに溜まります。そんなときに古田史学・邪馬壹国説のページに到着し、そこで初めて、学問的論証とは何か、邪馬壹国という倭人伝原文の史料事実(真実)を知るといった演出効果が施されています。その意味では、とてもよい古代史ファン向けの一冊ではないでしょうか。わたしはお勧めします。


第1175話 2016/04/29

日本国王子の囲碁対局の勝敗

 『旧唐書』には日本国王子の囲碁対局の勝敗については記されていませんが、『杜陽雑編』(9世紀末成立)などに次のような逸話が残されています。

「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」(古賀による要約)

 この逸話が史実かどうかはわかりませんが、それほどの妙手で顧師言が勝ったのなら、『旧唐書』にそのことが記されてもいいように思いますので、後世に潤色されたものかもしれません。
 日本列島に囲碁が伝来したのがいつ頃かはわかりませんが、『隋書』「イ妥国伝」には「棋博を好む]との記事が見えますから、その頃には九州王朝では囲碁が盛んだったと思われます。   『万葉集』(巻9、1732番・1733番)にも題詞に「碁師の歌二首」が見えます。ただしこの「碁師」の解釈については諸説あり、棋士のこととする見解は定説にはなっていないようですが、わたしは字義通り棋士とするのが真っ当な理解と考えています。(つづく)


第1174話 2016/04/24

日本国王子の囲碁対局

 このところ囲碁に関するビッグニュースが続いています。井山裕太さんによる史上初の七冠達成も素晴らしい偉業ですが、わたしが驚愕したのは人工知能「アルファ碁」が世界最強の棋士といわれているイ・セドルさん(韓国)と対局して4勝1敗で圧勝したことです。
 1997年にチェスの世界チャンピオンがコンピューターに敗れましたが、より複雑な囲碁ではコンピューターが人間に勝つにはまだ30年以上はかかるだろうと言われていました。ところが、グーグルが開発した人工知能「アルファ碁」がついにプロ棋士を超えたのです。このペースで人工知能が進化すると、そう遠くない時期に、人工知能は「意志」を持つのではないかとさえ専門家から指摘されています。何となく末恐ろしい気がします。
 古代史にも囲碁に関する記事がたくさんあります。中でも興味深く思ったのが、日本国の王子が中国(唐)で碁を打ったという『旧唐書』の次の記事です。

「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中2年(848) ※古賀による意訳。

 日本国の王子が唐に来て、皇帝の命により唐の囲碁の名手、顧師言と対局したという記事です。わたしは15年ほど前に『旧唐書』全巻読破に挑戦したのですが、そのときから気になって仕方がない記事でした。というのも、唐の大中2年(848)は日本では平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはないのです。そこで、もしかすると九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。もちろん九州王朝が滅びて150年近く後のことですから、いくらなんでも「日本国王子」を名乗って唐に行くことはできないし、本物の日本国王子かどうかを唐も気がつかないはずはないと考え、それ以後は研究しませんでした。しかし不思議な記事だなあという思いは持ち続けていました。
 そんなとき、井山さんの七冠達成や人工知能「アルファ碁」の出現により、この日本国王子の記事を思い出したのです。(つづく)


第1164話 2016/04/08

古田武彦初期三部作が売れ行き良好

 名古屋出張から久しぶりに帰宅すると、多くの郵便物とパソコンには数十通のメールが届いていました。ミネルヴァ書房からは「新刊案内」のパンフレットが届いており、その2月号には『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)が次のように紹介されていました。

 「古田武彦が『「邪馬台国」はなかった』を発表して四四年、この間の考古学・文献史学における新事実が、邪馬壹国が九州に存在していたことを裏付けし、その科学的研究手法の正しさが証明されている。本書では、その絶え間ない研究を集大成する。」

 そして、2015年12月の「ミネルヴァ書房の売れ行き良好書」のランキングには、「人文科学」の分野の3位に『「邪馬台国」はなかった』、4位に『失われた九州王朝』、5位に『盗まれた神話』が入っていました。古田先生の古代史初期三部作がそろって上位にランキングされていたのです。通常ですと新刊書が上位に入るのですが、この現象は珍しいことです。恐らく、10月に先生が亡くなられ、その訃報を新聞記事などで知った多くの方々がこの初期三部作を購入され、そのために書店からの在庫補充の注文が12月に集中したのではないでしょうか。古田先生の根強い人気がうかがわれました。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』も上位にランキングされるとよいのですが。「洛中洛外日記」の読者の皆さん。ぜひお買い求めください。なお、今年の夏には東京で同書の出版記念講演会を「古田史学の会」主催で行うべく、計画を立てています。詳細が決まりましたら、ご報告します。


第1159話 2016/03/31

小保方晴子さんがホームページ開設

 小保方晴子さんがご自身のホームページ「STAP HOPE PAGE」を開設され、STAP細胞作成の詳細なレシピを開示されました。全文英文で、分子生物学の専門用語が駆使されていますので、時間をかけて少しずつでも読んでみようと思っています。
STAP細胞製造の詳細なレシピが開示されていますので、恐らく世界中の研究者が再現性試験を開始していると思われますが、実は昨年11月にアメリカのテキサス医科大学の研究チームによる、機械的に損傷させた細胞からSTAP現象の再現に成功したとする研究論文がネイチャーの電子版に掲載されました。小保方さんのハーバード大学(バカンティー研)での研究論文も参考にしたことが同論文には記されています。
理研の発表では小保方さんは酸による刺激でSTAP細胞を作成していますが、物理的刺激でも作成可能と説明されていました。テキサス医科大学の研究チームはこの物理的刺激を機械的損傷という処方で行ったことになり、小保方さんのSTAP現象が別の方法で再現されたことになります。
残念ながら日本の大手マスコミはこの研究論文をほとんど報道しませんでした。あれほどのメディアスクラムで笹井さん(自殺)や小保方さん(NHKの取材で全治3週間の怪我、博士号の剥奪)をバッシングしてしまった手前、いまさら「アメリカでSTAP現象の再現に成功」とは報道できなかったのでしょう。
今回の小保方さんのホームページ開設をきっかけとして、世界中でSTAP現象が追試されることにより、学問研究に対するマスコミの報道姿勢や「弱いものバッシング大好き社会」が少しはまともになると良いのですが。和田家文書偽作キャンペーンによる古田バッシングを体験したわたしの切なる願いです。


第1155話 2016/03/25

「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内

 古田史学の会・事務局長の正木裕さんが主催されている「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内をいただきましたので、ご紹介します。6月のセッションにはわたしも「カタリスト」として出席予定です。少人数を対象とされており、古田史学入門編として面白いテーマが毎回取り上げられています。ふるってご参加ください。

【お知らせ】
 「誰も知らなかった古代史」セッションの第3回、第4回を事務局長の正木さんの主催で次の通り開催されます。

第3回 4月22日(金)18時30分〜20時。
「縄文・弥生人は南米に渡った」
【カタリスト】大下隆司さん(古田史学の会・会員)

下に掲載済み

第4回 5月13日(金)18時30分〜20時。
「実在したイワレヒコ(神武)」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

□会場 森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩五分)の二階「まちライブラリー」。
□定員20名(参加費ドリンク代500円)。

□申し込みは正木さんまでメールで。
 Babdc106@jttk.zaq.ne.jp


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1153話 2016/03/21

空海と「海賦」(1)

 今朝の東寺は「弘法さん」で賑わっていました。毎月の21日は空海の月命日にあたり、毎月のこの日は「弘法さん」で出店や骨董市が並び、大勢の人が東寺に集まりますが、とりわけ空海の命日の3月21日は「本弘法」と呼ばれ、特別な「弘法さん」です。
 わたしは不勉強から、空海の名前の意味を「空(sky)」と「海(sea)」だと永く漠然と思いこんでいたのですが、よくよく考えると仏教用語としての「空」に「そら(sky)」の意味はありません。般若心経などに見える「色即是空」で有名なように、「色」は「物質」、「空」は「非物質」のような概念ですから、空海の名前には「空」なる「海(sea)」ということになるのでしょうか。空海の名前の由来について、ご存じの方がおられればご教示ください。
 わたしの全くの推測ですが、空海は自らの名前を強く意識しており、『文選』にある「海賦」(海の物語)を読んでいたと思われます。というのも、空海の著作中に「海賦」に類似した記載があるのです。(つづく)


第1152話 2016/03/20

考証・和紙の古代史(2)

 日本列島での国産和紙製造は、倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)造籍に膨大な紙が必要ですから、この時期までには行われていたと思われますが、更に遡る可能性が高いのではないでしょうか。
 たとえば現在も越前和紙の産地として有名な福井県越前市今立町には、5世紀末〜6世紀初頭(継躰天皇が子供の頃)に「岡太川の女神」から製紙の技術が伝えられたという伝承があります。もちろんその伝承が歴史事実かどうかただちには判断できませんが、時代的に考えて、荒唐無稽とは言い難く、歴史事実を反映した伝承ではないかと推定しています。機会を得て、現地調査したいと考えています。
 もし越前への製紙技術伝播がこの頃だとすれば、おそらく九州王朝のお膝元である北部九州への製紙技術導入は更に遡ると考えられますから、古墳時代には伝わっていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。なお、九州最古の和紙産地とされる福岡県八女地方では、その製紙技術は文禄4年(1595)に越前からやってきた日蓮宗僧侶の日源により伝えられたとされています。これも歴史事実かどうか検証が必要ですが、日本最古の和紙製造伝承を持つ今立町と福岡県八女地方との間に和紙製造で関係があったこととなり、興味深いものと思われます。
 なお、大寶2年(702)筑前国戸籍断簡が正倉院に現存しており、これには現地の和紙が用いられていると考えられており、当時の筑前か筑後では和紙生産が行われていたことを意味しますので、16世紀に伝わった八女の和紙を「九州最古」とすることの根拠が不明です。「現存最古」という意味でしょうか。


第1150話 2016/03/15

上田正昭著『東アジアと海上の道』の思い出

 古代史研究者の上田正昭さんが3月13日に亡くなられました。享年88歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。昨年の古田先生のご逝去に続いて、古代史学界の重鎮が相次いでお隠れになり、新時代の到来を感じざるを得ません。
 古田先生も上田さんの著書『日本の神話を考える』の書評を産経新聞(1995.2.14、夕刊)に書かれたことがあります。『古田史学会報』6号(1995.4)に転載していますので、ご覧ください。
 わたしも上田さんの著書『東アジアと海上の道』(明石書店、1997,4)を持っていますが、発刊の年に明石書店の石井社長(現会長)からいただいたものです。その中に興味深い内容がありました。皇位継承のシンボルとして「三種の神器」の他に、百済国からもらった「大刀契(たいとけい)」という剣の存在が紹介されているのですが、百済国から献じられたということですから、本来は九州王朝がもらったことになります。
 百済国からの献上物として有名なものは石上神社の七支刀がありますが、これ以外にもこの「大刀契」というものがあったことが様々な史料に残されています。とても興味深いテーマだと思いますが、九州王朝研究としてまだ誰も取り上げていないのではないでしょうか。わたしも取り組んでみたいテーマです。


第1149話 2016/03/12

考証・和紙の古代史(1)

 世界の四大発明は火薬・羅針盤・活版印刷・紙とされています。紙は中国(後漢時代)の蔡倫により発明されたと伝えられてきましたが、紀元前2世紀(前漢)の遺跡からも出土していることから、その発明時期は更に遡ることになりました。
 日本列島への伝来の時期は不明ですが、最近、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡から硯(すずり)が出土したことから、弥生後期(2世紀後半〜3世紀前半頃)には糸島博多湾岸(邪馬壹国・九州王朝)は他地域に先駆けて文字文化を受容したと見られます。『三国志』倭人伝によれば、中国(魏王朝)と倭国(邪馬壹国)は国書を交換しており、弥生時代の倭国に文字官僚がいたことを疑えません。今回の硯の出土により、倭人伝の記事の信頼性が増したといえるでしょう。ただし、この時代、紙は貴重なので、一般的には木簡が使用されていたと思われ、中国から輸入した紙は国書などの重要書類に限定して使用していたのではないでしょうか。
 他方、わが国での現存最古の書籍は『法華義疏』(皇室御物)で、600年頃の倭国内での成立とされていますが、使用された紙が国産和紙か中国製かは諸説あり、和紙と断定するに至っていないようです。正倉院には大寶2年(702)戸籍(筑前・豊前・美濃)が現存しており、これらは国産和紙と見られています。倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)はその膨大な使用量からみて、国産和紙が使用されたと思われます。
 概観すれば、弥生時代に中国から文字文化とともに紙が伝来し、どんなに遅くとも6〜7世紀には倭国でも写経や造籍事業のために国産和紙を製造していたとしても、大過ないでしょう。ヨーロッパに中国の製紙技術が伝わったのは12世紀頃とされていることから、日本への伝来はかなり早いといえます。そして中国から伝わった紙や製紙技術は日本で独自の発展を遂げ、文字通りの「和紙」が生まれます。(つづく)