現代一覧

第1174話 2016/04/24

日本国王子の囲碁対局

 このところ囲碁に関するビッグニュースが続いています。井山裕太さんによる史上初の七冠達成も素晴らしい偉業ですが、わたしが驚愕したのは人工知能「アルファ碁」が世界最強の棋士といわれているイ・セドルさん(韓国)と対局して4勝1敗で圧勝したことです。
 1997年にチェスの世界チャンピオンがコンピューターに敗れましたが、より複雑な囲碁ではコンピューターが人間に勝つにはまだ30年以上はかかるだろうと言われていました。ところが、グーグルが開発した人工知能「アルファ碁」がついにプロ棋士を超えたのです。このペースで人工知能が進化すると、そう遠くない時期に、人工知能は「意志」を持つのではないかとさえ専門家から指摘されています。何となく末恐ろしい気がします。
 古代史にも囲碁に関する記事がたくさんあります。中でも興味深く思ったのが、日本国の王子が中国(唐)で碁を打ったという『旧唐書』の次の記事です。

「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中2年(848) ※古賀による意訳。

 日本国の王子が唐に来て、皇帝の命により唐の囲碁の名手、顧師言と対局したという記事です。わたしは15年ほど前に『旧唐書』全巻読破に挑戦したのですが、そのときから気になって仕方がない記事でした。というのも、唐の大中2年(848)は日本では平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはないのです。そこで、もしかすると九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。もちろん九州王朝が滅びて150年近く後のことですから、いくらなんでも「日本国王子」を名乗って唐に行くことはできないし、本物の日本国王子かどうかを唐も気がつかないはずはないと考え、それ以後は研究しませんでした。しかし不思議な記事だなあという思いは持ち続けていました。
 そんなとき、井山さんの七冠達成や人工知能「アルファ碁」の出現により、この日本国王子の記事を思い出したのです。(つづく)


第1164話 2016/04/08

古田武彦初期三部作が売れ行き良好

 名古屋出張から久しぶりに帰宅すると、多くの郵便物とパソコンには数十通のメールが届いていました。ミネルヴァ書房からは「新刊案内」のパンフレットが届いており、その2月号には『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)が次のように紹介されていました。

 「古田武彦が『「邪馬台国」はなかった』を発表して四四年、この間の考古学・文献史学における新事実が、邪馬壹国が九州に存在していたことを裏付けし、その科学的研究手法の正しさが証明されている。本書では、その絶え間ない研究を集大成する。」

 そして、2015年12月の「ミネルヴァ書房の売れ行き良好書」のランキングには、「人文科学」の分野の3位に『「邪馬台国」はなかった』、4位に『失われた九州王朝』、5位に『盗まれた神話』が入っていました。古田先生の古代史初期三部作がそろって上位にランキングされていたのです。通常ですと新刊書が上位に入るのですが、この現象は珍しいことです。恐らく、10月に先生が亡くなられ、その訃報を新聞記事などで知った多くの方々がこの初期三部作を購入され、そのために書店からの在庫補充の注文が12月に集中したのではないでしょうか。古田先生の根強い人気がうかがわれました。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』も上位にランキングされるとよいのですが。「洛中洛外日記」の読者の皆さん。ぜひお買い求めください。なお、今年の夏には東京で同書の出版記念講演会を「古田史学の会」主催で行うべく、計画を立てています。詳細が決まりましたら、ご報告します。


第1159話 2016/03/31

小保方晴子さんがホームページ開設

 小保方晴子さんがご自身のホームページ「STAP HOPE PAGE」を開設され、STAP細胞作成の詳細なレシピを開示されました。全文英文で、分子生物学の専門用語が駆使されていますので、時間をかけて少しずつでも読んでみようと思っています。
STAP細胞製造の詳細なレシピが開示されていますので、恐らく世界中の研究者が再現性試験を開始していると思われますが、実は昨年11月にアメリカのテキサス医科大学の研究チームによる、機械的に損傷させた細胞からSTAP現象の再現に成功したとする研究論文がネイチャーの電子版に掲載されました。小保方さんのハーバード大学(バカンティー研)での研究論文も参考にしたことが同論文には記されています。
理研の発表では小保方さんは酸による刺激でSTAP細胞を作成していますが、物理的刺激でも作成可能と説明されていました。テキサス医科大学の研究チームはこの物理的刺激を機械的損傷という処方で行ったことになり、小保方さんのSTAP現象が別の方法で再現されたことになります。
残念ながら日本の大手マスコミはこの研究論文をほとんど報道しませんでした。あれほどのメディアスクラムで笹井さん(自殺)や小保方さん(NHKの取材で全治3週間の怪我、博士号の剥奪)をバッシングしてしまった手前、いまさら「アメリカでSTAP現象の再現に成功」とは報道できなかったのでしょう。
今回の小保方さんのホームページ開設をきっかけとして、世界中でSTAP現象が追試されることにより、学問研究に対するマスコミの報道姿勢や「弱いものバッシング大好き社会」が少しはまともになると良いのですが。和田家文書偽作キャンペーンによる古田バッシングを体験したわたしの切なる願いです。


第1155話 2016/03/25

「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内

 古田史学の会・事務局長の正木裕さんが主催されている「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内をいただきましたので、ご紹介します。6月のセッションにはわたしも「カタリスト」として出席予定です。少人数を対象とされており、古田史学入門編として面白いテーマが毎回取り上げられています。ふるってご参加ください。

【お知らせ】
 「誰も知らなかった古代史」セッションの第3回、第4回を事務局長の正木さんの主催で次の通り開催されます。

第3回 4月22日(金)18時30分〜20時。
「縄文・弥生人は南米に渡った」
【カタリスト】大下隆司さん(古田史学の会・会員)

下に掲載済み

第4回 5月13日(金)18時30分〜20時。
「実在したイワレヒコ(神武)」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

□会場 森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩五分)の二階「まちライブラリー」。
□定員20名(参加費ドリンク代500円)。

□申し込みは正木さんまでメールで。
 Babdc106@jttk.zaq.ne.jp


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1153話 2016/03/21

空海と「海賦」(1)

 今朝の東寺は「弘法さん」で賑わっていました。毎月の21日は空海の月命日にあたり、毎月のこの日は「弘法さん」で出店や骨董市が並び、大勢の人が東寺に集まりますが、とりわけ空海の命日の3月21日は「本弘法」と呼ばれ、特別な「弘法さん」です。
 わたしは不勉強から、空海の名前の意味を「空(sky)」と「海(sea)」だと永く漠然と思いこんでいたのですが、よくよく考えると仏教用語としての「空」に「そら(sky)」の意味はありません。般若心経などに見える「色即是空」で有名なように、「色」は「物質」、「空」は「非物質」のような概念ですから、空海の名前には「空」なる「海(sea)」ということになるのでしょうか。空海の名前の由来について、ご存じの方がおられればご教示ください。
 わたしの全くの推測ですが、空海は自らの名前を強く意識しており、『文選』にある「海賦」(海の物語)を読んでいたと思われます。というのも、空海の著作中に「海賦」に類似した記載があるのです。(つづく)


第1152話 2016/03/20

考証・和紙の古代史(2)

 日本列島での国産和紙製造は、倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)造籍に膨大な紙が必要ですから、この時期までには行われていたと思われますが、更に遡る可能性が高いのではないでしょうか。
 たとえば現在も越前和紙の産地として有名な福井県越前市今立町には、5世紀末〜6世紀初頭(継躰天皇が子供の頃)に「岡太川の女神」から製紙の技術が伝えられたという伝承があります。もちろんその伝承が歴史事実かどうかただちには判断できませんが、時代的に考えて、荒唐無稽とは言い難く、歴史事実を反映した伝承ではないかと推定しています。機会を得て、現地調査したいと考えています。
 もし越前への製紙技術伝播がこの頃だとすれば、おそらく九州王朝のお膝元である北部九州への製紙技術導入は更に遡ると考えられますから、古墳時代には伝わっていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。なお、九州最古の和紙産地とされる福岡県八女地方では、その製紙技術は文禄4年(1595)に越前からやってきた日蓮宗僧侶の日源により伝えられたとされています。これも歴史事実かどうか検証が必要ですが、日本最古の和紙製造伝承を持つ今立町と福岡県八女地方との間に和紙製造で関係があったこととなり、興味深いものと思われます。
 なお、大寶2年(702)筑前国戸籍断簡が正倉院に現存しており、これには現地の和紙が用いられていると考えられており、当時の筑前か筑後では和紙生産が行われていたことを意味しますので、16世紀に伝わった八女の和紙を「九州最古」とすることの根拠が不明です。「現存最古」という意味でしょうか。


第1150話 2016/03/15

上田正昭著『東アジアと海上の道』の思い出

 古代史研究者の上田正昭さんが3月13日に亡くなられました。享年88歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。昨年の古田先生のご逝去に続いて、古代史学界の重鎮が相次いでお隠れになり、新時代の到来を感じざるを得ません。
 古田先生も上田さんの著書『日本の神話を考える』の書評を産経新聞(1995.2.14、夕刊)に書かれたことがあります。『古田史学会報』6号(1995.4)に転載していますので、ご覧ください。
 わたしも上田さんの著書『東アジアと海上の道』(明石書店、1997,4)を持っていますが、発刊の年に明石書店の石井社長(現会長)からいただいたものです。その中に興味深い内容がありました。皇位継承のシンボルとして「三種の神器」の他に、百済国からもらった「大刀契(たいとけい)」という剣の存在が紹介されているのですが、百済国から献じられたということですから、本来は九州王朝がもらったことになります。
 百済国からの献上物として有名なものは石上神社の七支刀がありますが、これ以外にもこの「大刀契」というものがあったことが様々な史料に残されています。とても興味深いテーマだと思いますが、九州王朝研究としてまだ誰も取り上げていないのではないでしょうか。わたしも取り組んでみたいテーマです。


第1149話 2016/03/12

考証・和紙の古代史(1)

 世界の四大発明は火薬・羅針盤・活版印刷・紙とされています。紙は中国(後漢時代)の蔡倫により発明されたと伝えられてきましたが、紀元前2世紀(前漢)の遺跡からも出土していることから、その発明時期は更に遡ることになりました。
 日本列島への伝来の時期は不明ですが、最近、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡から硯(すずり)が出土したことから、弥生後期(2世紀後半〜3世紀前半頃)には糸島博多湾岸(邪馬壹国・九州王朝)は他地域に先駆けて文字文化を受容したと見られます。『三国志』倭人伝によれば、中国(魏王朝)と倭国(邪馬壹国)は国書を交換しており、弥生時代の倭国に文字官僚がいたことを疑えません。今回の硯の出土により、倭人伝の記事の信頼性が増したといえるでしょう。ただし、この時代、紙は貴重なので、一般的には木簡が使用されていたと思われ、中国から輸入した紙は国書などの重要書類に限定して使用していたのではないでしょうか。
 他方、わが国での現存最古の書籍は『法華義疏』(皇室御物)で、600年頃の倭国内での成立とされていますが、使用された紙が国産和紙か中国製かは諸説あり、和紙と断定するに至っていないようです。正倉院には大寶2年(702)戸籍(筑前・豊前・美濃)が現存しており、これらは国産和紙と見られています。倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)はその膨大な使用量からみて、国産和紙が使用されたと思われます。
 概観すれば、弥生時代に中国から文字文化とともに紙が伝来し、どんなに遅くとも6〜7世紀には倭国でも写経や造籍事業のために国産和紙を製造していたとしても、大過ないでしょう。ヨーロッパに中国の製紙技術が伝わったのは12世紀頃とされていることから、日本への伝来はかなり早いといえます。そして中国から伝わった紙や製紙技術は日本で独自の発展を遂げ、文字通りの「和紙」が生まれます。(つづく)


第1142話 2016/02/27

大宅健一郎「STAP騒動の真相」

 「古田史学の会」会員で、多元的「国分寺」研究サークルのサイトを開設され、わたしと共同研究されている東京都の肥沼孝治さんから、ネットサイト「ビジネスジャーナル」に大宅健一郎さんの「STAP騒動の真相」という記事が掲載されていることを教えていただきました。わたしが「洛中洛外日記」で連載した「小保方晴子著『あの日』を再読」と同じ主張が述べられており、意を強くしました。冒頭部分を転載し、ご紹介します。

大宅健一郎「STAP騒動の真相」 2016.02.26

STAP問題の元凶は若山教授だと判明…恣意的な研究を主導、全責任を小保方氏に背負わせ

 「私は、STAP細胞が正しいと確信したまま、墓場に行くだろう」
 STAP論文の共著者であるチャールズ・バカンティ博士は、米国誌「ニューヨーカー」(2月22日付電子版)の取材に対して、こう答えた。2015年にもSTAP細胞の研究を続け、万能性を示す遺伝子の働きを確認したという。
 また、「週刊新潮」(新潮社/2月11日号)では、理化学研究所・CDB(発生・再生科学総合研究センター)副センター長だった故・笹井芳樹博士の夫人が、インタビューにおいて次のように発言している。

「ただ、主人はSTAP現象そのものについては、最後まで『ある』と思っていたと思います。確かに主人の生前から『ES細胞が混入した』という疑惑が指摘され始めていました。しかし、主人はそれこそ山のようにES細胞を見てきていた。その目から見て、『あの細胞はESとは明らかに形が異なる』という話を、家でもよくしていました」

 ES細胞に関する世界トップクラスの科学者である2人が、ES細胞とは明らかに異なるSTAP細胞の存在を確信していたのだ。
 一体、あのSTAP騒動とはなんだったのだろうか――。

ファクトベースで書かれた手記

 小保方晴子氏が書いた手記『あの日』(講談社)が1月29日に発刊され、この騒動の原因が明らかになってきた。時系列に出来事が綴られて、その裏には、関係者間でやりとりされた膨大なメールが存在していることがわかる。さらに関係者の重要な発言は、今でもインターネットで確認できるものが多く、ファクトベースで手記が書かれたことが理解できた。いかにも科学者らしいロジカルな構成だと筆者は感じた。
 しかし、本書に対しては「感情的だ」「手記でなく論文で主張すべき」などの批判的な論調が多い。特にテレビのコメンテーターなどの批判では、「本は読みません。だって言い訳なんでしょ」などと呆れるものが多かった。
 手記とは、著者が体験したことを著者の目で書いたものである。出来事の記述以外に、著者の心象風景も描かれる。それは当然のことだ。特に小保方氏のように、過剰な偏向報道に晒された人物が書く手記に、感情面が書かれないことはあり得ないだろう。それでも本書では、可能な限りファクトベースで書くことを守ろうとした小保方氏の信念を垣間見ることができる。 また、「手記でなく論文で主張すべき」と批判する人は、小保方氏が早稲田大学から博士号を剥奪され、研究する環境も失った現実を知らないのだろうか。小保方氏は騒動の渦中でも自由に発言する権限もなく、わずかな反論さえもマスコミの圧倒的な個人攻撃の波でかき消された過去を忘れたのだろうか。このようないい加減な批判がまかり通るところに、そもそものSTAP騒動の根幹があると筆者はみている。

小保方氏が担当した実験は一部

 STAP騒動を解明するために、基礎的な事実を整理しておこう。
 小保方氏が「STAP細胞」実験の一部だけを担当していたという事実、さらに論文撤回の理由は小保方氏が「担当していない」実験の部分であったという事実は、しばしば忘れられがちである。いわゆるSTAP細胞をつくる工程は、細胞を酸処理して培養し、細胞塊(スフェア)が多能性(多様な細胞になる可能性)を示すOct4陽性(のちに「STAP現象」と呼ばれる)になるところまでと、その細胞塊を初期胚に注入しキメラマウスをつくるまでの、大きく分けて2つの工程がある。
 小保方氏が担当していたのは前半部分の細胞塊をつくるまでである。後半のキメラマウスをつくる工程は、当時小保方氏の上司であった若山照彦氏(現山梨大学教授)が行っていた。
 もう少し厳密にいえば、小保方氏が作製した細胞塊は増殖力が弱いという特徴を持っているが、若山氏は増殖力のないそれから増殖するように変化させ幹細胞株化(後に「STAP幹細胞」と呼ばれる)させるのが仕事だった。つまり、「STAP現象」が小保方氏、「STAP幹細胞」が若山氏、という分担だが、マスコミにより、「STAP現象」も「STAP幹細胞」も「STAP細胞」と呼ばれるという混乱が発生する。
 本書によれば、若山氏はキメラマウスをつくる技術を小保方氏に教えなかった。小保方氏の要請に対して、「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と答えたという。
 この若山氏の言葉は見逃すことはできない。なぜなら、STAP細胞実験を行っていた当時、小保方氏はCDB内の若山研究室(以下、若山研)の一客員研究員にすぎなかったからである。小保方氏の当時の所属は米ハーバード大学バカンティ研究室(以下、バカンティ研)であり、若山氏は小保方氏の上司であり指導者という立場であった。
 当時の小保方氏は、博士課程終了後に任期付きで研究員として働くいわゆるポスドク、ポストドクターという身分だった。不安定な身分であることが多く、日本国内には1万人以上いるといわれ、当時の小保方氏もそのひとりであり、所属する研究室の上司に逆らうことはできなかったのだ。
 この弱い立場が、のちに巻き起こるマスコミのメディアスクラムに対抗できなかった最大の理由である。メディアがつくり上げた虚像によって、まるで小保方氏が若山氏と同じ立場で力を持っていたかのように印象づけられていた。


第1140話 2016/02/16

小保方晴子著『あの日』を再読(3)

 運命の日、2014年1月28日のマスコミ発表から1週間もたたないうちにネット上で小保方バッシングが始まります。理研関係者でなければ知ることもできないような内部情報も毎日新聞などにリークされ、そのすべては「小保方がES細胞を混入させた」というシナリオに収斂するという、かなり意図的(悪意と予見に満ちた)であり共同謀議(綿密な連携)を感じさせるものでした。そして、小保方さんにとって悪夢のような四つの悲劇が連続して起こりました。
 一つは、小保方さん等が作ったSTAP細胞でキメラマウスの作製を担当した若山さんが、ネイチャーに発表した論文を否定し、小保方さんがES細胞を混入させたかのようなマウスのDNA鑑定をマスコミに発表しました。後にこの鑑定が誤りであったことが理研の検証により明らかとなるのですが、既に毎日新聞やNHKが大量に報道していたため、小保方さんがES細胞を混入したとするシナリオが日本中に拡散され、一人歩きしていました。
 二つめは、小保方さんを擁護していた笹井さんが半年間に及ぶマスコミからの執拗なバッシングにより自殺に追い込まれたことです。これはわたしの想像ですが、小保方バッシングの真の目的は「笹井潰し」ではなかったかと思っています。なぜなら理研の内部情報を毎日新聞などにリークした人物にとって、若い小保方さんを叩かなければならない理由もメリットも考えにくいからです。しかし、世界的研究者で理研の副センター長だった笹井さんを追い落としたいという人物であれば、動機もわかりますし、実際に笹井さんを自殺にまで追い込めたのですから。
 三つ目は、理研によるSTAP細胞の再現性検証実験のハードルが「キメラマウスの作製」と決められたことです。バカンティ研や若山研で小保方さんが行ったのは、多能性を指示する緑色に発色したSTAP細胞の作製までで、そのSTAP細胞によりキメラマウスを作製したのは若山さんでした。その両者による研究成果がネイチャーに採用され、特許出願したものがSTAP細胞研究ですから、小保方さんの責任範囲はSTAP細胞の作製までです。ところが、理研が小保方さんに課した検証実験のハードルは小保方さんが担当していなかった「キメラマウスの作製」までとしたのです。
 そして四つめの学問的には最大の悲劇が、若山さんが検証実験の協力を拒否したことです。そもそもキメラマウスの作製は難しく、その分野でもっとも腕がよいという理由から、早稲田大学はSTAP細胞からのキメラマウス製造の協力を当時理研にいた若山さんに依頼したのです。検証実験にそのキメラマウス作製担当責任者であった若山さんが協力を拒否するということは、小保方さんにしてみれば梯子を外されたも同然でした。若山研で無給研究員の小保方さんがSTAP細胞を作り、若山さんがキメラマウスを作製するという分担で発表した論文の検証実験に、当事者の若山さんが参加を拒否し、小保方さんにすべての責任を負わせるかたちで理研の検証実験は仕組まれたのです。
 このような悲劇が続き、半年間にわたるマスコミからのバッシングで心身ともにボロボロになっていた小保方さんでしたが、それでも再現実験に取り組みました。そして緑色に発色するSTAP細胞を作り上げました。小保方さんとは別に独立して検証実験を行った丹羽さんもこのSTAP細胞の作製に成功し、その結果は理研のホームページに掲載されました。しかし、若山さんとは別のスタッフが担当したキメラマウスの作製は成功しませんでした。若山研でキメラマウスが作製されていたとき、小保方さんは若山さんに、自分にもキメラマウスの作り方を教えてほしいと申し入れましたが、拒否されたとのことで、検証実験でも小保方さんはキメラマウス作製にはかかわれませんでした。いわば、当初から再現困難な状況におかれて、小保方さんは検証実験を強いられたのでした。
 そしてその結果を理研やマスコミは予定通り、「STAP細胞は再現できなかった」と発表しました。そして小保方バッシングは更にヒートアップし、「STAP細胞はなかった」「小保方がES細胞を混入させた」とのキャンペーンが繰り広げられたのです。
 しかし、小保方さんの手記『あの日』が刊行され、一連の事実関係が明らかとなりました。この手記に対するマスコミの姿勢を観察していますが、バッシングを続けたNHKはほぼ「沈黙」、毎日新聞やその系列テレビ局は『あの日』の内容を歪曲してバッシングを続けるという往生際の悪さを露呈しているようです。他方、『あの日』を読んだ人々の反響は、内容に触れずに(読まずに)バッシングするという当初の風潮から、バッシング報道はおかしいのではないかという意見が表明されはじめ、徐々に変化の兆しを見せています。
 日本社会や学界が、真実と「お金」のどちらを大切にするのかという大きな岐路に立たされている、小保方さんの『あの日』を読んでそのように感じました。


第1139話 2016/02/14

小保方晴子著『あの日』を再読(2)

 小保方晴子著『あの日』を読めば読むほど、若い無給研究員の小保方さんが、「大人の事情」や「組織のエゴ」に翻弄されていたことがわかります。STAP細胞の発見者として小保方さんの所属や特許権報酬の配分などを巡っての対立が、同書には赤裸々に記されています。
 たとえば若山さんは小保方さんを新たな勤務先の山梨大学に連れて行きたかったようですが、理研がユニットリーダーのポストを用意して、無給研究員の小保方さんを採用しました。ハーバードはSTAP細胞研究がバカンティ研で行われたことを理由に特許の共同出願権などを主張しました。論文のオーサーシップ(共著者としての権利)についても誰がシニアオーサー(ラストオーサーが最も権威がある)となるか、更には特許の権利比率(若山さんは51%の権利を主張されたとのこと)の争いなど、小保方さんの目指した純粋な学問研究とは別次元の問題が渦巻いていました。
 本来は真実のみを求める学問研究の世界に、「お金」という価値基準が跋扈したことが今回のSTAP報道事件を引き起こした原因の本質のように思います。大学を出てからは研究生活に没頭したため、真実よりも「お金」が大切という学界の実状に疎かったことが小保方さんにとって「不幸」だったのかもしれません。著書中にもこうしたトラブルに巻き込まれて困惑する様子が記されています。
 それでも何とかネイチャーの論文を完成させ、マスコミへの発表もすませたのですが、その1週間もたたないうちにネット上で論文の不備(約80枚の写真の内、3枚ほど別の写真と間違っていた、など)を「研究不正」としてバッシングが始まります。そのタイミングの早さから考えて、リークは事前に論文の内容を知っていた理研内部の者でなければ不可能と思われますが、こともあろうに理研は小保方さん一人に責任を負わせて逃げ切ろうとしました。小保方さんがES細胞とすり替えたかのようなシナリオを作ったのですが、無給研究員(ポスドク)にそのようなことができるはずもありません。笹井さんも記者会見で、STAP細胞とES細胞は大きさが全く異なり、間違うことはあり得ないと説明されました。また、若山研では他の研究者も小保方さんからSTAP細胞の作り方を習って一緒に作製していますし、若山さん自身も海外メディアに対しては、自分もSTAP細胞の作製に成功したと語っていました。
 理研内での小保方さんへの査問委員会でも、取り調べ側委員は小保方さんが無給研究員だったことさえも知らなかったとのことです。こうした実状についてマスコミからはほとんど報道されず、NHKと毎日新聞を中心とする小保方バッシングが延々と続きました。しかし、小保方さんにとって決定的な悲劇はこの後に起こりました。(つづく)