太宰府一覧

第259話 2010/05/04

井上信正説の運命

 先日、京都府立総合資料館に行ったとき、目にとまった本がありました。『古代文化』2010年3月VOL.61です。同誌には「日本古代山城の調査成果と研究展望(上)」が特集されており、神籠石などを含む古代山城の最新研究動向(ただし大和朝廷一元史観)を概観する上で参考になります。また、近年発見された二つの神籠石(阿志岐城跡・唐原山城跡)の解説も掲載されており史料価値が高く、古田学派・多元史観の皆さんにもご購読をすすめます(定価2500円・税込み)。わたしも四条通のジュンク堂まで行って購入しました。

 同誌の中で最も注目した論稿が赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」でした。赤司氏は論文の中で、大宰府政庁2期や観世音寺よりも条坊が先行するとした井上信正説を紹介され、「大変魅力的な説」と賞讃されています。わたしも井上説は大変魅力的と考えていますが、井上説を論理的に突き詰めると藤原京よりも太宰府条坊が先だって成立したことになり、通説(大和朝廷一元史観)にとって致命的な「毒」を井上説は含んでおり、一元史観の学界においてどのように遇されるのか興味津々と「心配」を表明したことがありました(第219話 観世音寺創建瓦「老司1式」の論理)。そうした意味では、井上説が無視されることなく、福岡県内の研究者ではありますが赤司氏に評価されていることに安堵しました。

 しかし、問題はここからです。井上説を評価する赤司氏は、条坊都市太宰府が藤原京よりも先行して成立したとはされていないのです。両都市の先後関係を直接的には断定されておられませんが、「王都(藤原宮:古賀注)の整備と併行して、大宰府の造営もなされた」という文面からして、太宰府条坊と藤原京は同時期の成立と赤司氏は考えられておられるようです。
 これまでわたしが度々指摘してきましたように、観世音寺創建瓦の老司1式は藤原宮の瓦に先行するというのが、従来の考古学土器編年だったのですから、太宰府条坊成立が観世音寺よりも早いとする井上説を認めるのなら、太宰府条坊は藤原京よりも成立が早く、日本最初の条坊都市としなければならないはずです。 土器の相対編年を得意とする日本考古学界が、大和朝廷一元史観に不都合なこの土器編年の問題から目をそらし、井上説の都合の良い部分だけを「利用」するの学問的態度とは言い難いのではないでしょうか。もっとも、それでも赤司氏は太宰府条坊と藤原京が同時期成立とされているようなので、従来の学界の態度よりも半歩前進と評価すべきなのでしょう。(つづく)


第255話 2010/05/01

『古代に真実を求めて』

   第13集発刊

 古田史学の会の論集『古代に真実を求めて』第13集が明石書店より発刊されました。古田史学の会の2009年度賛助会員には会則に従って発送しました。一般書店でもお取り寄せ、お求めできます。定価2400円+税です(257頁)。
 13集には古田先生の講演録1編(日本の未来−日本古代論-、2009年講演)の他、会員による9論文が収録されており、古田史学・多元史観による最新研究成果が報告されています。
 中でも、伊東義彰さんの「太宰府考」と拙論「太宰府条坊と宮域の考察」は九州王朝の首都太宰府研究に関する最新の考古学的知見に基づいたもので、是非、
ご一読いただければと思います。正木裕さんの「『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都」も氏の近年の研究成果がまとめられており、示唆的です。四国松山
の合田洋一さんからは2論文(「越智国の実像」考察の新展開、娜大津の長津宮考)が寄せられました。いずれも現地調査に基づかれた力作です。その他の論文
も貴重な視点や発見が含まれており、読み応えのある一冊となりました。

『古代に真実を求めて』第13集目次
○巻頭言  水野孝夫
○特別掲載 日本の未来ーー日本古代論 古田武彦講演録
○研究論文
 北部九州遠賀川系土器はロシア沿海州から伝わった  佐々木広堂
 『日本書紀』の「二国併記」と漢の里単位問題  草野善彦
 太宰府条坊と宮域の考察  古賀達也
 太宰府考  伊東義彰
不破道を塞げ 三 ーー天子宮が祀るのは、瀬田観音にいた多利思北孤  秀島哲雄
「越智国の実像」考察の新展開 ーー「温湯碑」建立の地と「にぎたつ」  合田洋一
 『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都  正木 裕
  娜大津の長津宮考 ーー斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった  合田洋一
 淡路島考 ーー国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない  野田利郎
○付録
 古田史学の会・会則
 「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
 第14集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
 編集後記


第242話 2010/01/31

太宰府と前期難波宮

フレーム版 古賀達也の洛中洛外日記へリンクしました。

2月27日、東京で講演しました(多元的古代研究会主催・文京区民センター)。「太宰府と前期難波宮 ーー九州年号と考古学による九州王朝 史復原の研究」というテーマで、7世紀段階の九州王朝研究の成果をまとめた内容です。更には関西例会で報告された各氏の説も紹介させていただきます。これを期に、関西と関東の研究交流が進むことを願っています。
講演内容の項目は次の通りです。関東の皆さんのご参加をお待ちしております。

太宰府と前期難波宮
九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究
2010/02/27
古賀達也
1.白雉改元と前期難波宮
1).大和朝廷王宮編年の矛盾
2).『日本書紀』白雉改元記事の2年移動 652年→650年
3).史料と考古学の一致 「天下立評」「律令体制」と7世紀中頃の「朝堂院」

2.九州年号と遷都遷宮
【資料】正木 裕 九州王朝の改元と『書紀』等の遷都遷宮関連記事の対応
2009/11/21 古田史学の会・関西例会

3.前期難波宮の土器
【資料】寺井 誠 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会
4.前期難波宮と藤原宮木簡
【資料】田中 卓 「古事記における国名とその表記」
『古典籍と資料 田中卓著作集10』国書刊行会 平成5年
5.太宰府条坊と政庁
【資料】井上信正 「大宰府条坊区画の成立」
『考古学ジャーナル』No.588 平成21年7月号
6.九州王朝王宮・王都の変遷
古賀旧説:太宰府政庁第II期(条坊都市・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)
古賀新説:太宰府条坊(通古賀王城宮・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)→太宰府政庁第II期(条坊拡張)
7.「白雉二年九月吉日」奉納面の発見(西条市丹原町福岡八幡神社蔵)
【資料】大下隆司 「白雉二年銘奉納面」について
2009/08/15 古田史学の会・関西例会
8.九州王朝王族の探索
【資料】西村秀己 「橘諸兄・考」 2009/12/19 古田史学の会・関西例会


第232話 2009/10/26

太宰府の蔵司(くらのつかさ)

  第229話「太宰府の内裏」で紹介しました『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著に記されている、大宰府の蔵司(くらのつかさ)の北側にある「内裏」地名について御教示を乞うたと ころ、早速、福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から当地の字地名を記した地図がファックスで届きました。こうした素早い対応は本当に有り難い限りですし、全国組織の強みでもあります。その地図によれば、大宰府政庁跡の字地名は「大裏」とされ、問題の蔵司の北側は、残念ながら字地名が記されていませんでした。
 上城さんからは更に福岡県教委と九州歴史資料館による蔵司調査のニュース記事(2009/10/22)も送られてきましたので、インターネットで関連記事を検索したところ、蔵司の建物跡が奈良時代平安時代において九州最大規模の建物であり、奈良の正倉院よりも大きいという内容でした。いずれの記事もこのことを「特筆大書」していたのですが、正直に申して「なんで今頃大騒ぎするのだろう」とわたしは思いました。
 既に鏡山猛氏が『大宰府都城の研究』において、正倉院よりも古く大規模な建築物が存在していたとする調査結果を発表されており、古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社刊、昭和54年)で、そのことを紹介され、大和朝廷の正倉院よりも古く大規模な倉庫群が太宰府にあったことは九州王朝存在の証拠であるとされていたからです。
 いずれにしても、蔵司遺跡が注目され発掘調査されることは大歓迎です。ここでも九州王朝の痕跡が一段と明かとなることでしょう。わたしも蔵司には引き続き注目していきたいと思います。


第229話 2009/10/10

太宰府の内裏

 先日、木村賢司さん(古田史学の会会員)の釣り小屋「大湖望」に行ってきました。古田史学の会林間雑論会などが開催されている、関西の会員の間では有名な所です。大湖望からは琵琶湖を一望でき、木村さんご自慢の別荘です。
  その日は、木村さんに預かってもらっていた丸山晋司さんからいただいた書籍を受け取りに行ったのですが、その書籍の中に『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著(昭和46年、青雲書房刊)の一冊があり、そこに次のような興味深い記述がありました。

 「蔵司の丘陵の北、大宰府庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」同書33頁

 この記述通りとすれば、大宰府政庁跡の北西で、蔵司(くらのつかさ)の北側に内裏とよばれる地があったとのことですが、従来は大宰府政庁の北部に字地名 「大裏」があり、ここが九州王朝の天子の居住地「内裏」だと想定していたのです。しかし、そことは別の場所にも「内裏」地名があるということに、わたしにはピンとくるものがありました。
 というのも、大宰府政庁第2期遺構を7世紀段階における九州王朝の天子の宮殿とするわたしの説に対して、伊東義彰さん(古田史学の会会計監査)より、天子の居住区としての内裏にしては狭すぎるという鋭い反論が、関西例会で出されていたからです。確かに、前期難波宮や藤原宮などと比較しても、大宰府政庁跡は規模が小さく、政治の場所と居住区の両方が併存していたとするには、伊東さんの指摘通り、ちょっと苦しいかなという思いがあったのでした。
 そうしたこともあって、政治の場所は大宰府政庁跡で、居住区は通古賀(とおのこが)地区ではなかったかなどとも考えていたのですが、そのようなときに 『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』の記述を読んだのです。現段階では一つのアイデアに過ぎませんが、この蔵司丘陵の北部に位置する「内裏」地名こそが、九州王朝天子の「内裏」がそこにあった痕跡ではないでしょうか。考古学調査報告や現在でも同地が「内裏」と呼ばれているのかを調べなければと考えています。ご当地の方の御教示を賜れば幸いです。


第221話 2009/08/11

条坊と宮域

 古代日本における王都や王宮は、それぞれ目的や設計思想に基づいて造られていますが、中でも代表的な様式として、『周礼』考工記に基づく正方形の条坊都市 の中央に王宮があるタイプと、「天子は南面する」という思想に基づく条坊都市中央北部に王宮があるタイプが著名です。なお、後者を古田先生は「北朝様式」 とされています。

 今回、井上氏の研究成果に基づいて提案した九州王朝の宮殿の変遷をこの様式から見ますと、初期太宰府の「王城」宮は『周礼』様式、前期難波宮は「天子南面」様式、そして太宰府政庁(2期)は「天子南面」様式となり、九州王朝は前期難波宮から「天子南面」様式という設計思想を採用したことになります(ただし、前期難波宮は条坊が無かったようです)。すなわち、九州王朝は七世紀中頃から「天子南面」思想を、その副都に採用したことになるのです。その事情についてはこれからの研究課題ですが、重要で興味深いテーマです。
 九州王朝に対して、大和朝廷の王都を見ますと、大和朝廷にとって最初の条坊都市である藤原京(新益京)は『周礼』様式で、平城京からは「天子南面」様式となります。これも九州王朝との関係で考察する必要がありそうですが、特に藤原京完成時はまだ九州王朝が健在なので、太宰府政庁(2期)や前期難波宮と同 じ「天子南面」様式の採用を憚ったのではないでしょうか。
 実は藤原京の宮域については、一旦造った条坊と側溝を埋め立てて宮域にしたということが発掘調査でわかっており、初めから条坊と同時に宮域ができたのではないのです。これは、もしかすると藤原宮の建築にあたって、条坊区画のどの部分を宮域にするのか、九州王朝に遠慮してなかなか決められなかった痕跡かもしれませんね。(つづく)


第220話 2009/08/10

条坊都市太宰府と前期難波宮

 九州王朝の首都太宰府に対して、前期難波宮を九州王朝の副都とする仮説をわたしは提案していますが、実はこの仮説にも弱点がありました。それは、礎石を持つ瓦葺きの太宰府政庁(2期)に対して、その後(九州年号の白雉元年、652年)に造られたとした前期難波宮が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きであるという点でした。これは宮殿様式の発展から見て、ちょっとアンバランスかなという思いがあったのです。

 しかしこの問題も井上氏の研究成果により発展解消できそうなのです。新たな仮説によれば、九州王朝の宮殿様式の発展が次のような順序になるからです。まず、7世紀初頭(九州王朝の倭京元年、618年)に、通古賀地区の字扇屋敷を宮域とする初期太宰府の宮殿、仮に同地にある王城神社にちなんで「王城」宮と呼んでおきますが、この「王城」宮を中心とする条坊都市初期太宰府が建都され、九州年号の白雉元年(652年)に前期難波宮(朝堂院様式・堀立柱)を副都として創設、その後に太宰府政庁(2期、朝堂院様式・礎石造り)が新設されるという順序です。

 これですと、最も新しい王宮となる太宰府政庁(2期)が朝堂院様式と礎石を持っていることになり、前期難波宮がまだ礎石造りでないこととうまく整合するのです。なお、初期太宰府の「王城」宮がどのような様式であったかは不明ですが、この発展史からすれば、掘立柱の板葺きであった可能性が大です。今後の考古学的調査の結果や研究を待ちたいと思います。
   さらにこの宮殿発展史にはもう一つの視点が重要です。それは、条坊都市中の宮殿の位置です。(つづく)


第219話 2009/08/09

観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を 知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていまし た。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。

 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
   ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
   通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第2期)が完成。
   もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
   九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
  このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第218話 2009/08/02

太宰府条坊の中心領域

 7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。
 この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷(王城神社がある)付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。
 しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。
 これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。
 まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。(つづく)


第216話 2009/07/19

太宰府条坊の再考

 昨日の関西例会には遠く中国は曲阜の大学に留学されている青木さんが参加されました。中国での古代日本に関する研究動向などもうかがうことができ、貴重な一日となりました。
 研究発表でも正木さんから、新聞でも報道された韓国の扶余出土「那尓波(なにわ)連公」木簡の表記時期が『日本書紀』天武10年の「難波連」賜姓記事よりも早い可能性が高いことを指摘され、この史料事実は九州王朝説に有利であるとの注目すべき見解が発表されました。詳細は会報で発表予定です。
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に作られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
 なお例会での発表は次の通りです。

〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1).「自悪其名不雅」考 再び(向日市・西村秀己)
2).月は女神、月読尊は男・他(豊中市・木村賢司)
3).韓国・扶余出土木簡の衝撃─やはり『書紀』は三四年遡上していた─(川西市・正木裕)
4).「年輪年代法」と法隆寺西院伽藍2(たつの市・永井正範)
5).淡路島考その2─国生み神話の「淡路洲」は九州にあった─(姫路市・野田利郎)
6).太宰府の条坊(生駒市・伊東義彰)
7).天武十年十月二五日、天皇は何を諸臣に聞いたか(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『二中歴』年代歴の「年始」について・他(奈良市・水野孝夫)


第106話2006/11/06

元興寺と九州王朝

  昨日の日曜日、奈良に行き、東大寺大仏殿や興福寺、そして元興寺を見学してきました。本当は正倉院展を見たかったのですが、「2時間待ち」の大行列を見て、断念しました。一般客による長蛇の列とは別に、「読売旅行」の小旗に先導された団体客が別の場所に並んでいたのには、何やら不公平感を持ちました(正倉院展の後援が読売新聞社らしい)。
 そんなわけで、正倉院展はさっさとあきらめ、まだ行ったことのなかった興福寺の国宝展で念願の阿修羅像を見学した後、奈良町界隈のおしゃれな店を横目に、元興寺へ行きました。
  受付のおじさんが、「年輪年代測定により元興寺が日本最古のお寺であることが証明されました」「法隆寺よりも古い」と熱心に説明してくれたのが印象的でした。ご存じのように、通説では元興寺は蘇我馬子が建立した飛鳥の法興寺を、平城京遷都にともなって現在の地へ移築されたものです。また、元興寺禅室の部材が年輪年代測定により582年伐採とされたことにより、法隆寺五重塔心柱の594年よりも古いことが判明しました。
  元興寺のもともとの名前が法興寺とすれば、九州年号の「法興」(591〜622)との関係が注目されます。部材の伐採年582年が法興年間の9年前という近接した年代であることも、法興寺と法興年号との関係を強めます。特に、日出ずる処の天子を名乗った多利思北孤の年号「法興」は日本列島中に鳴り響いていたものと思われますから、それとは無関係に「法興寺」などという名称を使用できたとは到底考えられません。やはり、法興寺(元興寺)は九州王朝と関係の深い寺院であったと考えるべきでしょう。
  なお、太宰府の観世音寺が九州年号の白鳳年間に建立されていますが、その頃を白鳳時代と呼ぶのならば、同様に法興寺(元興寺)や法隆寺は法興時代の寺院と呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか。飛鳥時代ではなく法興時代です。この新提案、いかがでしょうか。


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。