古田武彦一覧

第1114話 2015/12/30

2015年の回顧「古田史学の会」編

 今日は帰省の新幹線車中で書いています。2015年は激動と慟哭の年となりまし。心重いのですが、例年のように「古田史学の会」に関連した出来事について回顧します。

○古田武彦先生のご逝去(10月14日)
 古田先生のご逝去はわたしたち古田学派や読者に激震をもたらしました。10月はわたしにとって慟哭の月となりました。享年89歳ですが、古田先生が敬愛された親鸞の没年齢と奇しくも同じ年齢です(親鸞は数え年で90歳没)。

○「古田史学の会」水野代表が退任
 6月の会員総会で、「古田史学の会」創立以来20年にわたり代表を務められてきた水野孝夫さんが退任されました。後任としてわたしが代表を勤めさせていただくことになり、新たに正木裕さんが事務局長、竹村順弘さんが事務局次長に就任されました。小林副代表は留任され、新四役体制が確立しました。水野さんには顧問(全国世話人)として、引き続きご指導いただけることになりました。

○米田敏幸さんを迎え、記念講演会(6月21日)
 6月の会員総会では庄内式土器の専門家、米田敏幸さんを講師に迎え、記念講演を行いました。正木さんも狗奴国に関する講演をされました。考古学者をお招きしての講演会は「古田史学の会」としては初めての試みです。今後も、日本古代史の関連諸分野の研究者を講演会にお招きしたいと考えています。

○『古代に真実を求めて』18集をリニューアル
 明石書店より発行している会誌『古代に真実を求めて』を大幅にリニューアルし、『盗まれた「聖徳太子」伝承』として刊行しました。従来の応募原稿中心の編集から、毎号毎に特集を組み、それにふさわしい原稿を中心に編集することにしました。19集は「九州年号特集」を予定していましたが、急遽、「古田武彦先生追悼号」に変更し、編集作業中です。

○『盗まれた「聖徳太子」伝承』刊行記念東京講演会開催(9月6日)
 『盗まれた「聖徳太子」伝承』刊行を記念して、東京講演会を開催しました。会場は東京家政学院大学千代田キャンパスをお借りし、在京の友好団体「東京古田会」「多元的古代研究会」のご協力もいただき、成功裏に開催することができました。講師は正木さんとわたしが担当しました。プロジェクター映像を本格的に駆使するなど、新たな講演スタイルにも挑戦しました。

○メール配信事業「洛洛メール便」をスタート
 ネット環境を利用して、ホームページに連載している「洛中洛外日記」や、ホームページには掲載しない「洛中洛外日記【号外】」を希望される会員に配信するサービスを4月から開始しました。配信作業は竹村事務局次長に担当していただきました。

○「古田史学の会facebook」を開設
 「古田史学の会」の活動をよりビジュアルに発信するために、従来のホームページ(新・古代学の扉)とは別に「古田史学の会facebook」を開設しました。関西例会や遺跡巡りハイキングの写真や動画を掲載しています。これも竹村さんに担当していただいています。
 更に、facebookを利用している会員間で「友達」として意見交換や情報発信も始まりました。わたしや正木さん、竹村さん、横田さん(「古田史学の会」インターネット事務局)、竹内さん(「古田史学の会・東海」会長)、そして会員の冨川けい子さんらが「友達」となって活発な情報発信・意見交換を行っています。

○「愛知サマーセミナー2015」で講義(7月19日、名古屋市)
 愛知淑徳高でに開催された「愛知サマーセミナー2015」で、「古田史学の会・東海」の取り組みの一環として、わたしも講義しました(テーマ:教科書が書かない!日本古代史の真実とは!)。愛知県下の高校生だけでなく中学生も熱心に聴講されていました。子供たちに古田史学を紹介し、学問の方法を語ることは将来的にも貴重な取り組みです。

 以上、2015年の「古田史学の会」の取り組みを思いつくままに記しました。


第1112話 2015/12/28

古田先生追悼会での紹介書籍

 来年1月17日に開催します古田武彦先生追悼講演会(大阪府立大学なんばサテライトにて)で、わたしは古田先生の代表的著作の紹介と解説を行いますが、そのとき紹介する著作が決まりました。
 これから解説内容の検討に入ります。プロジェクター映写用のパワーポイントのファイル作成は茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)にご協力いただきます。東京で開催される追悼会でも同様の発表をすることになりました。
 紹介し解説する書籍は次の通りです。多くの皆さんの御臨席をお待ちしています。

1.『親鸞思想』『親鸞』『神の運命』
2.『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』
3.『邪馬壹国の論理』『倭人も太平洋を渡った』『海の古代史』
4.『古代は輝いていた1』『古代は輝いていた2』『古代は輝いていた3』
5.『人麿の運命』『古代史の十字路』『壬申大乱』
6.『ここに古代王朝ありき』『関東に大王あり』『真実の東北王朝』
7.『イ卑弥呼』『真実に悔いなし』  『邪馬壹国の歴史学』(近刊)


第1111話 2015/12/24

KBS京都「本日、米團治日和。」総集編のご案内

 先日、KBS京都放送の伊藤ディレクターからお電話をいただき、「本日、米團治日和。」2015年総集編が12月30日午後5時からオンエアーされることをお知らせいただきました。わたしと桂米團治さんとの出会いから始まった、この番組への古田先生の出演には、不思議なご縁を感じられてなりません。
 8月に収録し、9月に三回に分けてオンエアされたのですが、先生のお体を心配し、収録は1時間程度でとお願いしていたのですが、その日の先生はとてもお元気で、結局収録は2時間にも及びました。その後、説明などを補うため、先生が退席された後でわたしと米團治さんとで1時間ほど追加収録しました。
 総集編ではごく短時間とは思いますが、生前の先生の声をお聞きすることができるでしょう。思えばこのラジオ番組が先生にとって最後の公の場でのお話となりました。学恩に報いるためにも、追悼講演会をしっかりと成功させ、立派な『古代に真実を求めて』追悼号を発行したいと願っています。全国のファンや会員のみなさんのお力添えを心からお願いいたします。


第1108話 2015/12/20

『朝日ジャーナル』に家永三郎さんの古田評

 八王子市の前田嘉彦さんから1973年12月21日付『朝日ジャーナル』のコピーが送られてきました。家永三郎さんによる「日本古代史研究に投じた一石」という古田先生著『「邪馬台国」はなかった』の書評のコピーです。それは単なる書評にとどまらず、古田史学の学問の方法にまで踏み込んで論じたものです。さらには、読売新聞紙上で行われた古田先生と東京大学教授の榎一雄さんとの計25回にも及んだ「邪馬台国」論争や、第二著『失われた九州王朝』などでの李進煕さんとの好太王碑論争にも触れておられます。
 家永さんと古田先生とのご縁は深く長いものがあり、わたしが先生からお聞きしただけでも、東北大学での古田先生の卒論査読をされたのが家永さんであり、法蔵館から出版直前に刊行拒否された『親鸞思想』を冨山房から発行できるように尽力されたのも家永さんでした。また、家永さんの「教科書裁判」では古田先生が家永さん側の証人になられました。
 わたしが関わったこととしては、家永さんとの書簡による「聖徳太子論争」が思い出されます。かなり激しい論争となり、一時は家永さんが論争の継続を拒否されるという事態になったこともありました。両者の論争は『市民の古代』別冊として、『聖徳太子論争』(1989年)『法隆寺論争』(1993年)の二冊となって結実しました(新泉社)。
 今頃お二人は天国で論争の続きをされているのでしょうか。


第1106話 2015/12/13

『壬申大乱』に古田先生のサイン

 来年1月17日の古田先生の追悼講演会で、わたしは古田先生の学問業績について解説することになっています。そのとき使用するプロジェクター映写に使用する先生の著作の写真撮影を行いました。限られた短時間での発表ですから、学問的に特に重要な著作を選んだのですが、いずれも重要な先生の多くの著作群から抜粋する作業は大変でした。
 その一冊に『壬申大乱』(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)を選んだのですが、そこに先生のサインがあることに気づきました。次のようなサインです。

 「三十周年の日に
      東京 朝日ホールにて
  古賀達也 様
   若々しく充実したお志と
   お力によって 求めつづけます。
   二〇〇一、 十月八日  古田武彦」

 このサインを、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念講演会のときにいただいたことを思い出しました。東京古田会・多元的古代研究会・古田史学の会の三団体の主催で東京の朝日ホールで行われた記念行事ですが、このときわたしは「古田史学の過去・現在・未来」という演題で古田先生のご略歴や学問業績について講演しました。当初、「古田史学を学ぶ覚悟」という演題を申し入れていたのですが、実行委員会の事務局をされていた東京古田会の高木事務局長(故人)から、刺激的すぎるので演題を変更してほしいといわれました。わたしとしてはその理由がわからず納得できなかったのですが、何か事情があるのだろうと演題の変更に応じました。ただし、講演内容は変更せず、古田学派の研究者に対して「古田史学を学ぶ覚悟」を訴えました。
 おそらく来年の追悼講演会でも「古田先生亡き後の古田史学を学ぶ覚悟」を訴えることでしょう。


第1105話 2015/12/11

中山千夏さんからの追悼文

 古田先生の追悼文が「古田史学の会」へ続々と届いていますが、古くからの古田ファンの中山千夏さんからも追悼文をいただきました。古田先生との出会いから綴られた心温まる内容でした。
 わたしは中山さんと一度だけお会いしたことがあります。それは信州白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争のシンポジウム(1991年)のときでした。わたしは事務方を担当していましたので、御来賓の方のお世話もしていたのですが、そのシンポジウムのトークセッションに中山さんが参加されたのです。直接にはそれほど中山さんとお話しする機会は無かったように記憶していますが、中山さんのお付きの若い女性(マネージャーさんかも)がなかなかの美人で驚きました。
 その後、中山さんは『新古事記伝』という初心者にもわかりやすい『古事記』の解説本を出されたのですが、当時、「市民の古代研究会」にその出版記念パーティーの招待状をいただきました。会場が東京だったことと勤務の都合で出席できなかったので、かわりに関東の安藤哲朗さん(現・多元的古代研究会会長)に代理で出席していただきました。
 後日、パーティーの様子を録音したテープが届いたのですが、詩人で作家の辻井喬さん(つじい・たかし。1927-2013年)が出席され、お祝いのスピーチをされていたのです。わたしは大の辻井喬ファンでしたので、「しまった。無理してでも行けばよかった」と後悔したものです。
 辻井喬さんは詩集『異邦人』で室生犀星賞(1961年)、自伝的小説『いつもと同じ春』で平林たい子賞(1984年)、『虹の岬』で谷崎潤一郎賞(1994年)を受賞された優れた作家であると同時に、本名は堤清二という当時脚光を浴びていた経営者でした。西武セゾングループの代表で、バルコなど若者文化の最先端を切り開く文化人でもありました。とりわけ新進のコピーライター糸井重里さんを起用して「おいしい生活」(西武百貨店)という、その後の日本語にも影響を与えた名コピーを世に広めたことは有名です。
 出版記念バーティーに辻井喬さんが出席されたほどですから、中山千夏さんの交友関係の広さやお人柄がよくうかがえました。古田先生との出会いも、『「邪馬台国」はなかった』に対する質問のお手紙を先生に出されたことがきっかけでした。そうした経緯が追悼文には記されており、追悼会でご披露し『古代に真実を求めて』19集に掲載させていただきます。


第1104話 2015/12/10

佐藤弘夫先生からの追悼文

 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。

 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」

 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。その佐藤先生からいただいた追悼文を来年1月17日の古田先生追悼講演会でご披露し、『古代に真実を求めて』19集に掲載します。ご期待ください。佐藤先生、立派な追悼文をありがとうございました。


第1102話 2015/12/06

『古田史学会報』131号のご紹介

 『古田史学会報』131号が発行されましたのでご紹介します。今号は古田先生の訃報に始まる「追悼号」となりました。正木事務局長は先生の学問業績を振り返り、わたしは「追憶・古田武彦先生」の連載を開始しました。また、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけられた読売新聞の昭和44年11月12日の古田先生の「邪馬壹国」説の紹介解説記事を転載しました。この二年後に歴史的名著『「邪馬台国」はなかった』が朝日新聞社から出されますが、それよりも早く「邪馬壹国」説に着目し、記事にした読売新聞の担当記者の学識がうかがわれます。
 前号に続いて北海道2名(今井・阿部)、四国2名(合田・西村)が活躍しています。桂米團治さんのオフィシャルブログからも、古田先生の追悼文を転載させていただきました。正木さんの連載「『壹』から始める古田史学」も快調です。
 掲載稿は下記の通りです。

『古田史学会報』131号の内容
○古田武彦先生ご逝去の報告  古田史学の会・代表 古賀達也
○古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦先生  古田史学の会・事務局長 正木裕
○追憶・古田武彦先生(1)
 蓮如生誕六百年に思う  古田史学の会・代表 古賀達也
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
 「古田武彦先生、逝去」
○昭和44年11月12日 読売新聞第二社会面
 邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国
○「みょう」地名について -「斉明」と「才明」-  松山市 合田洋一
○垂仁紀の謎  千歳市 今井俊國
○「熟田津」の歌の別解釈(二)  札幌市 阿部周一
○「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」  八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学3
 古代日本では「二倍年暦」が用いられていた  古田史学の会・事務局長 正木裕
○割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎  高松市 西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1101話 2015/12/01

東京新聞に古田先生の記事掲載

 本日付け東京新聞の「こちら編集委員室」というコラム(小寺勝美記者)に古田先生のことが紹介されていました。
 「邪馬『壹』国の人」と題された同コラムは、小寺さんが学生時代に読まれた『「邪馬台国」はなかった』に衝撃を受けたと、古田先生の邪馬壹国説を簡潔にかつ見事に要約して紹介されています。敏腕記者の文章力はすごいものです。感心しました。理系のわたしは、この歳になっても文章や文法の誤りが多く、「洛中洛外日記」も友人からいつも指摘訂正をいただいていますので、うらやましい限りです。
 コラムの最後に次のように古田先生の学問の姿勢についても記されており、古田先生の支持者・理解者が各界に数多くおられることを改めて実感しました。機会があれば上京のおり、小寺さんにお会いしたいと思います。

 「数々の例証を挙げ、権威にとらわれず論理の赴くままに歩むその手法に思わずうなってしまう。古田さんは生前の講演で「子どもにもよく分かる簡明さで論証する」と話していた。至言であろう。」

 なお、同記事の全文は「古田史学の会」、わたしや正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のfacebookに掲載されていますので、ご参照ください。


第1100話 2015/11/30

高島忠平先生からのメール

 「洛中洛外日記」第1099話で高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が「西日本新聞」11月4日朝刊に掲載されていることをご紹介しました。とても誠実な追悼文でしたので、高島先生にメールでお礼を申し上げ、『古代に真実を求めて』古田先生追悼特集号への転載許可をお願いしたところ、ご了解のメールをいただきました。大変有り難いことと感謝しています。機会があれば、佐賀市の旭学園を訪問し、お礼を申し上げたいと思います。
 11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com )まで、メールでお申し込みください。(「洛洛メール便」は当会会員向けのサービスです。)

11月の「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2015/11/01 角替豊さんと旧交をあたためる
2015/11/04 城南海さんの新曲「月と月」が美しい
2015/11/07 わたしが死んだら、賀茂川に入れて魚に与えよ
2015/11/10 朝来市の赤淵神社訪問
2015/11/15 中島みゆきと古田先生
2015/11/18 赤淵神社文書の撮影調査を実施
2015/11/20 最古の木造建築物、法隆寺の耐震技術
2015/11/27 大阪大学中之島センターで講演


第1099話 2015/11/29

高島忠平さんが追悼記事

 「洛中洛外日記」の読者で久留米市の犬塚幹夫さんからメールをいただき、「西日本新聞」11月4日朝刊に高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が掲載されていることを教えていただきました。
 高島さんは吉野ヶ里遺跡を発掘された著名な考古学者で、学界内では少数派の「邪馬台国」九州説に立たれています。現在は学校法人旭学園(佐賀市)の理事長をされておられますが、古田先生とは古くから親交がありました。1991年8月に昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された「古代史討論シンポジウム『邪馬台国』徹底論争 --邪馬壹国問題を起点として--」(東方史学会主催)に、七田忠昭さんとともに参加されています。そのときの発表や討論の内容は『「邪馬台国」徹底論争』1〜3巻(新泉社)に収録されています。24年前のことですが、読み返してみますと、懐かしさがこみ上げてきます。
 「西日本新聞」の追悼記事は「古田武彦さんを悼む」という表題とともに、「常識、定説、権威に対する疑問と反抗心」という見出しと先生の遺影・著作の写真が掲載されています。そして「邪馬壹国」説に始まり、「多元的古代」「九州王朝」説にもふれられ、「私は多元的古代史観に共感している。古田さんの描く九州王朝説をそのまま受け入れられないが、「地域史観」を持っている。(中略)私も邪馬台国のフォーラムに呼ばれたことがある。自説は確固として、激しく主張されるが、他説には謙虚に耳を傾けておられた姿が印象的であった。」と記されています。
 そして最後に、「古田さんは、もともとは思想史が専門で、親鸞の研究で知られている。既成の日本仏教に反旗をひるがえし、仏教に革命をもたらした親鸞と古田さんの間には、共通して常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心があったように思う。冥界で出会った2人はどんな論争をしているだろうか。ご冥福を祈ります。」と結ばれており、とても誠実な追悼文です。先生も冥界で喜んでおられることでしょう。高島さんに感謝したいと思います。なお、同記事の全文は「古田史学の会」やわたしのfacebook(Tatuya Koga)に張り付けていますので、ぜひご覧ください。


第1098話 2015/11/28

『邪馬壹国の歴史学』のゲラ校正

 本日、「古田史学の会」編集(編集長:服部静尚さん)の『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の初校用ゲラがミネルヴァ書房から送られてきました。
 同書は古田先生が亡くなられて最初に「古田史学の会」が発行する本となりました。先生が亡くなられる前に執筆していた「はじめに」を急遽書き換えて、追悼の言葉を入れました。また、巻頭には古田先生の遺影を掲載することにしました。先生からもご寄稿いただきましたが、それは「古田史学の会」として先生からの最後の原稿となりました。
 わたしの論稿からは次のものが収録されますが、中でも「『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-」は先生からお褒めいただいた自信作です。

○はじめに --追悼の辞
○『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-
○『三国志』中華書局本の原文改訂
○纒向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず

 わたしが論文を発表するとき、いつも第一読者として古田先生を意識してきました。先生から褒められた論文はそれほど多くはありませんが、これからは先生から褒められることもお叱りをうけることもなく、亡師孤独の研究の日々が続きます。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の内容は古田先生から高い評価をいただいたもので、わたしたち「古田史学の会」の総力を結集して作り上げた一冊です。来年1月17日の「古田武彦先生追悼講演会」に発刊を間に合わせたいと願っています。そして、謹んで先生の御霊前に進呈したいと思います。