古田武彦一覧

第1377話 2017/04/25

『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)

 古田先生との応答で決着を見ないままとなった「論争」に「庚午年籍」問題がありました。『古田武彦の古代史百問百答』においてもこの問題が記されています。次の箇所です。

 「『続日本紀』の聖武天皇、神亀四年(七二七)に次の記事があります。
 『秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)』
 これがいわゆる『保存』の記事です。しかし、問題は『保存の目的』です。」(217頁)
 「『日本書紀』でも、六四五〜七〇一年の間がすべて『郡』とされている。
 こういう状況で『評にあふれた庚午年籍』が『公示』『公開』されたら、すべて“ぶちこわし”です。
 すなわち『評の庚午年籍』を“集め”て“封印”させるのが、この、いわゆる『保存』、この『封印』の意味とみる他ありません。(中略)
 要するに、あやまった『保存』という言葉に人々は“だまされ”てきたのです。
 『岩波日本書紀』下の『補注』巻第二十七-一四『庚午年籍』の項も、
 『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』(五八三ページ)
と結ばれています。ですから、一般の読者は、
 『本当に、保存したのだ。』
と錯覚させられる。そういう『形』を、学者たちはとってきたのです。」(218頁)

 このように、古田先生は『続日本紀』に見える、筑紫諸国の「庚午年籍」官印押印記事を「保存」記事とみなされ、その目的は評制文書である「庚午年籍」の「封印」であるとされました。そして「庚午年籍」が保存されたとするのは現代の学者の解釈に過ぎず、一般の人はそれにだまされていると主張されました。
 わたしは古代戸籍や「庚午年籍」の研究を永く続けてきましたので、古田先生のご自宅まで赴き、大和朝廷が後世にわたり「庚午年籍」の保存を命じていたことを史料根拠を示して説明しました。それは次のような史料です。

 「凡戸籍。恒留五比。其遠年者。依次除。〔近江大津宮庚午年籍。不除〕」(『養老律令』戸令 戸籍条)
【意訳】戸籍は、常に五回分(30年分)を保管すること。遠年のものは次のものを作成し次第、廃棄すること。〔近江大津宮の庚午年籍は廃棄してはならない〕。

 大和朝廷は自らの『養老律令』で戸籍の保管期間を定め、「庚午年籍」は保管期間が過ぎても廃棄してはならないと明確に定めています。この規定等を根拠に現代の学者は『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』と『岩波日本書紀』に注記したのです。
 更に『続日本後紀』には9世紀段階でも諸国に「庚午年籍」の書写保管を命じ、中務省へ写本提出を命じたことなどが記されています。
 こうした史料の存在を紹介し、「庚午年籍」の研究状況について、ご自宅まで押し掛けて説明しました。今から10年ほど前のことだった記憶しています。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』において、古田先生は『続日本紀』の「秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)」の記事を、筑紫での「庚午年籍」の「出土」と表現されています。

 「この答えは、右の『庚午年籍七百七十巻』という、大量文書の出土が、『近江』でなく『筑紫諸国』であること、この一事からハッキリわかるのではないでしょうか。」(219頁)
 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。」(233頁)

 『続日本紀』の当該記事からは、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻に(大和朝廷側の)官印を押した、ということがわかるだけで、“出土した”“発見された”というような情報は含まれていません。古田先生がどのような意図や根拠により、「出土」という表現を用いられたのかについて関心があったのですが、ついにお聞きすることができないままとなりました。先生がお元気なうちにお聞きしておけばよかったと悔やみました。(つづく)


第1376話 2017/04/24

『古田武彦の古代史百問百答』百考(1)

 古田武彦先生が亡くなられて一年半が過ぎました。わたし自身の気持ちの整理も少しずつついてきましたので、古田先生の学問学説やその基底をなしたフィロロギーなど学問の方法について振り返る時間が増えてきた昨今です。
 中でも晩年の古田先生の学説や学問的関心事などを要領よくまとめられた『古田武彦の古代史百問百答』(東京古田会編、ミネルヴァ書房刊。2015年4月)を集中して読み直しています。今回、あらためて気づいたことや懐かしく蘇った記憶についてご紹介していきたいと思います。

 同書223頁に次のような記述があります。わたしはここを読んで、当時の情景をはっきりと思い出しました。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。改めて、詳述の機を得たいと思います。」(223頁)

 古田先生のいう(論争的)応答とは、藤原宮の中心部を神社(鴨公神社が鎮座)と見るのか、王宮(701年以後は大極殿)と見るのかという数回にわたる応答でした。双方相譲らず、という結果だったと記憶しています。古田先生が亡くなられる10年ほど前から、わたしは様々なテーマで先生と意見交換を行いました。ときに激しい論争となったことも何回かありました。もちろん、先生に対して礼儀正しく応答したつもりですが、うるさがられたことでしょう。今となっては懐かしい思い出であり、得難い経験でした。
 古田先生は藤原宮の考古学的復元図に対して、大極殿は現代の学者による作図であり、現地にあるのは鴨公神社だと考えておられました。そのことが314頁に次のように記されています。

 「藤原京、難波京、近江京には大極殿はありません。藤原京、難波京共にあるべきであろうと思われる位置に、学者が作図して公にされています。藤原京はその位置には鴨公神社があります。大極殿の記録伝承はありません。近江京も当然無いと考えています。」(314頁)

 これに対して、藤原宮は発掘調査が行われており、その出土事実に基づいて復元図が作成されているとわたしは反論し、中公新書『藤原京』(木下正史著、2003年)を紹介しました。その後、古田先生との応答で、701年以降であれば文武天皇等が藤原宮の宮殿を「大極殿」と呼んだ可能性もあるということで、両者納得するに至りました。
 こうした古田先生との(論争的)応答の詳細については、わたしは今まで文章にすることはほとんどありませんでした。もし公にしたら、「古田と古賀が対立している」などとネットなどで反古田派による古田バッシングの材料に悪用されるのは目に見えていたからです。また、古田先生と異なる意見をわたしが発表すると、本来であれば純粋な学問論争ですので何の問題もないはずなのですが、非難される懸念もありましたので、こうしたテーマは慎重に取り扱ってきました。
 『古田武彦の古代史百問百答』でも次のように古田先生は記されています。

 「なかでも、印象に残ったのは、村岡さんの敬愛した本居宣長について、
 『本居さんは言っています。「師の説に、な、なづみそ。」と。自分の先生の説に“こだわる”な、と言うのです。それが学問なんですね。』
という言葉は、くりかえし聞きました。
 これが、わたしの村岡さんから学んだ『学問の精神』です。昨年(二〇〇五年)『新・古代学』(新泉社)の第八集(最終号)に載せた『村岡学批判』は、その表現です。
 もっとも、『師の意見』(A)と『師に反した自分の意見』(B)と、いずれが是か。それは後代の研究史が明らかにすることでしょう。
 慎重に、心をこめて、これをなすべきこと、それは当然のことです。」(344〜345頁)

 『古田武彦の古代史百問百答』百考をこれから連載するにあたり、慎重に、心をこめて、これをなしたいと思います。(つづく)


第1333話 2017/02/11

同人誌『飛行船』に古田説登場

 徳島市の「飛行船の会」(代表:竹内菊世さん)が発行されている同人誌『飛行船』第20号(平成28年11月)のコピーが合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、「古田史学の会・四国」事務局長)から送られてきました。古田史学の会・四国の白石恭子さんから頂いたものとのこと。
 同誌に掲載されている大北恭宏さんの「大知識人・坂口安吾」というエッセイ中に古田先生の九州王朝説が紹介されていました。そこには「ここで登場していただく先生がいる。古田武彦先生だ。古田先生は、日本の古代史の大学者だ。私は、今も、古田先生の本を、貪るように読み続けている。」と紹介され、多元史観・九州王朝説を正しく説明されています。
 日本各地の様々な分野で活躍されている人々の間に古田説が静かに確実に広がっていることが見てとれました。


第1320話 2017/01/10

中国北朝(北魏)の大義名分

 中国南朝に臣従してきた九州王朝(倭国)でしたが、梁の時代に入ると九州年号「継躰」を建元し、冊封から外れ天子を自称するに至ります。同時に北朝(北魏)との交流が始まった痕跡もあります。
 たとえば北部九州を代表する山でもある英彦山は北魏僧善正が九州年号の教到元年(531)に開基したとされていますし、雷山千如寺の国宝千手観音像の体内仏はその様式が北魏時代の仏像によく似ています。更に『隋書』には九州王朝の天子、多利思北孤と隋との交流が記録されています。このように、九州王朝は南朝梁の冊封から抜けてからは、むしろ北朝との関係を図っているように見えるのです。
 その北朝(北魏)が南朝をどのように認識(表現)していたのかが『北魏書』に記されています。

「(太和三年、479年)是年、島夷粛道成、其の主の劉準を廃し、僭わって自ら立ち、号して斉と曰う。」(『魏書 七上』高祖紀第七上)

 このように南朝斉の天子を「島夷」という蔑称で表記しているのです。この後も南朝の天子は「島夷」と表記されているのですが、南朝は「大陸国家」であり、「島夷」という表現はいくら蔑称とはいえ、地勢的に妥当ではありません。むしろ倭国(九州王朝)こそ「島夷」という表現が妥当でしょう。ちなみに、高句麗などについては「東夷」という伝統的な表記を用いています。

「(太延二年、436)高麗東夷諸国」(『魏書 四上』世祖紀第四上)

 この他にも『魏書』(『北魏書』)には「雑夷」「海夷」という表記も見え、北朝にとっての大義名分による蔑称が散見されるのです。
 なお、南朝に対してなぜ「島夷」という蔑称が用いられのかという面白い問題もあるのですが、古田先生との検討会では、文字通りの「島夷」である倭国と同列視して蔑んだのではないかとする見解(アイデア)で一致しました。もちろん、論証は今後の課題です。


第1314話 2016/12/30

「戦後型皇国史観」に抗する学問

 藤田友治さん(故人、旧・市民の古代研究会々長)が参加されていた『唯物論研究』編集部からの依頼原稿をこの年末に集中して書き上げました。市民の日本古代史研究の「中間総括」を特集したいとのことで、「古田史学の会」代表のわたしにも執筆を依頼されたようです。
 今日が原稿の締切日で、最後のチェックを行っています。論文の項目と最終章「古田学派の運命と使命」の一部を転載しました。ご参考まで。

「戦後型皇国史観」に抗する学問
-古田学派の運命と使命-
一.日本古代史学の宿痾
二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇
三.邪馬壹国説の登場
四.九州王朝説の登場
五.市民運動と古田史学
六,学界からの無視と「古田外し」
七.「古田史学の会」の創立と発展
八.古田学派の運命と使命
(前略)
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。(中略)
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
(二〇一六年十二月三十日記)


第1313話 2016/12/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」の出典

 古田先生が亡くなられて1年を過ぎました。亡師孤独の道をわたしたち古田学派は必死になって歩んだ一年だったように思います。これからも様々な迫害や困難が待ち受けていると思いますが、臆することなく前進する覚悟です。
 わたしが古田先生の門を叩いてから30年の月日が流れました。その間、先生から多くのことを学びましたが、今でも印象深く覚えている言葉の一つに「学問は実証よりも論証を重んじる」があります。古田史学や学問にとって神髄ともいえる言葉で、古田先生から何度も聞いたものです。この言葉の持つ意味については、『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に「学問は実証よりも論証を重んじる」という拙稿を掲載しましたので、ぜひご覧ください。
 この言葉は古田先生の恩師村岡典嗣先生の言葉とうかがっています。そのことにふれた古田先生自らの文章が『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)に収録された「日本の生きた歴史(十八)」に次のようにありますのでご紹介します。

「第一 『論証と実証』論

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
  『実証より論証の方が重要です。』
と。けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 『広島滞在』の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで『亡師孤独』の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
助手の梅沢伊勢三さんも、『そう言っておられましたよ』と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その『真意』については、『判りません』とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

 今のわたしから見ると、これは『大切な言葉』です。ここで先生が『実証』と呼んでおられたのは『これこれの文献に、こう書いてあるから』という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して『論証』の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき“必然の帰結”です。
(中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは『論証』、この二文字だったようです。」

 このように古田先生は、わたしが何度もお聞きした「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉についてはっきりと自著にも残されています。もしこの言葉が古田先生の著書には書かれていないという方がおられれば、それは事実とは異なります。


第1267話 2016/09/05

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)

 古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』によれば、三角縁神獣鏡の成立時期を古田先生は「景初三年(239)・正始元年(240)」前後とされました(「序章」2014年執筆)。当初は4世紀以降の古墳から出土する三角縁神獣鏡は古墳期の成立とされていたのですが、この古田説の変化についてわたしには心当たりがありました。それは1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」主催の古代史講演会のときで、テーマは「古代王朝と近世の文書 ーそして景初四年鏡をめぐってー」でした。
 この講演録は『市民の古代』九集(1987年)に講演録「景初四年鏡をめぐって」として収録されており、「古田史学の会」ホームページにも掲載しています。当該部分を略載します。なお、この講演録が『鏡が映す真実の古代』に収録されなかった理由は不明です。平松さんにお聞きしようと思います。

〔以下、転載〕
 今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。(中略)いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。
(中略)そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
〔転載終わり〕

 この講演を聴いたとき、わたしは驚きました。「景初四年鏡」を景初四年に国内で作られたとされたので、従来の三角縁神獣鏡伝世理論を批判されてきた理由との整合性はどうなるのだろうかとの疑問をいだいたのですが、わたしは「市民の古代研究会」に入会したばかりの初心者の頃でしたから、恐れ多くてとても質問などできないでいました。今、考えると、この頃から古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期について見解を新たにされていたのではないかと思います。このことを、わたしよりも古くから先生とおつき合いされていた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)にお聞きしたところ、わたしと同見解でした。谷本さんも「景初四年鏡」の出現により古田先生は見解を変えられたと思うとのことでした。(つづく)


第1265話 2016/09/01

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(1)

 平松健さん(東京古田会)が編集された古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』(ミネルヴァ書房)を読んでいますが、三角縁神獣鏡に対する古田先生の見解の進展や変化が読みとれて、あらためてよい本だなあとの思いを強くしています。
 特に驚いたのが、同書冒頭の書き下ろし論文「序章 毎日が新しい発見 -三角縁神獣鏡の真実-」に記された次の一文でした。

 次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四〜六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇〜二六五)と西晋朝(二六五〜三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。 (同書10ページ、2014年執筆)

 古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(二三九)・正始元年(二四〇)」前後とされているのです。すなわち、「景初三年鏡」や「正始元年鏡」という三角縁神獣鏡(金石文)を根拠に弥生時代の成立とされたのです。古くからの古田ファンや古田学派研究者はよくご存じのことですが、古田先生は三角縁神獣鏡は国産鏡であり、俾弥呼が魏からもらった鏡ではないとされ、次のように繰り返し主張されてきました。

 以上、古鏡の問題は、従来、「邪馬台国」近畿大和説のバックボーンをなすものと思われてきた。しかし、意外にも、それらの鏡群(三角縁神獣鏡。古賀注)は、三世紀とは別の時代の太陽を反射して、この世に生まれたようである。 (同書37ページ、初出『失われた九州王朝』1973年刊)

 最後に問題の三角縁神獣鏡の史的性格について、二・三の問題点をのべておこう。
(一)当鏡が四〜六世紀の古墳から出土している以上、その時代(古墳期)の文明の所産と見るべきであること。  (同書313ページ、初出『多元的古代の成立(下)』1983年刊)

 やはりすべてが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考えるほかはない。これが縦軸の論理だ。
 以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、“三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である”--わたしにはこのように理解するほかなかったのである。  (同書327ページ、初出『よみがえる九州王朝』1987年刊)

 以上のように少なくとも1987年頃までは、古田先生は一貫して三角縁神獣鏡古墳期成立の立場をとっておられました。その理由も単純明瞭で、弥生時代の遺跡からは一面も出土せず、古墳期の遺跡から出土するのであるから、その成立を古墳期と見なさざるを得ないというものでした。これは三角縁神獣鏡を俾弥呼がもらった鏡だが、弥生時代には埋納されず、全面伝世し、古墳時代になって埋納されたという従来説(伝世理論)への批判として主張されたものです。(つづく)


第1263話 2016/08/28

古田武彦著『鏡が映す真実の古代』発刊

 今日、ミネルヴァ書房から古田先生の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』が送られてきました。これまでの古田先生の著作等から三角縁神獣鏡に関する論稿を一冊にまとめたものです。平松健さん(東京古田会)による編集で、とてもよくまとめられています。平松さんご自身も三角縁神獣鏡についての造詣が深く、その実力がいかんなく発揮されています。
 冒頭の「はしがき」は古田先生による書き下ろしで、2015年2月17日の日付がありますので、亡くなられる半年前に書かれたものです。「序章」も新たに書き下ろされており、三角縁神獣鏡に関する最新の古田先生の見解や研究テーマに触れられています。特に三角縁神獣鏡の銘文を古代日本思想史の一次史料として捉え、古代人の思想に迫るという問題を提起されています。このテーマはわたしたち古田学派の日本思想史研究者に残された課題です。
 そして、「序章」末尾の次の一文に目が止まりました。

 わたしの年来の主張は「三角縁神獣鏡そのものは、やがて中国本土から出土する。」という立場である。

 この「序章」執筆の日付は2014年8月7日とありますから、最近話題となった中国洛陽から発見された三角縁神獣のことを見事に予見(学問的推論)されていたのです。奇しくも9月3日には同鏡を中国で実見された西川寿勝さんの講演(大阪府立狭山池博物館にて。14〜16:30)をお聞きするのですが、絶妙のタイミングでの発刊と言わざるを得ません。冥界の古田先生からのプレゼントともいうべき一冊です。


第1245話 2016/08/05

「論証と実証」論の古田論文

 7月の「古田史学の会」関西例会での大下隆司さんからの「学問は実証よりも論証を重んじる」に関する発表を受けて、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)も8月の関西例会で同問題について報告されることになりました。
 わたしはこの「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉は学問の金言と理解していますが、古田先生から直接詳しい説明をお聞きしたことはありませんでした。ところが、「古田史学の会」会員で多元的「国分寺」研究サークルの肥沼さんが同サークルのホームページに、古田先生による解説文を転載されました。古田先生の「学問的遺言」とも言うべきものですので、ここに転載させていただき、ご紹介いたします(転載にあたり、若干の編集を行いました)。

多元的「国分寺」研究ホームページより転載

2016年7月29日 (金)
「論証と実証」論(古田論文を収録!)

 もしかしたら,「学問は実証より論証を重んじる」について,以下のところに書いていないでしょうか?「新古代学の扉」サイトを眺めていて,そう思いました。筑紫舞のことが載っている『よみがえる九州王朝』の復刻版で,ミネルヴァ書房のものです。
 以下,古田武彦著『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)より

日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論

          一

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

          二

 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 一例をあげましょう。
 三国志の魏志倭人伝には,直接「南米」そのものをしめす文面はありません。その点、狭い意味での「実証」では、「南米問題」は出てこないのです。
 しかし、倭人伝には次の文面があります。

①「(侏儒国)その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
②「(裸国・黒歯国)あり。またその南東にあり。船行一年にして至るべし」

 わたしが『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、倭人伝は、「短里」(七十五〜九十メートル。七十五メートルに近い)で記されているという立場からすれば、

(その一)「侏儒国」は足摺岬(高知県)近辺である。
(その二)「裸国・黒歯国」は南米のエクアドル近辺である。

 という、二つの命題に至らざるをえません。右の(その一)は「黒潮と日本列島の接点」であり、(その二)は「黒潮とフンボルト大寒流の接点」と対応しているのです。

 幸いに、わたしの「論証」は、“裏付け”られました。

(α)マラウージョ(一九八〇年)・フェレイラ(一九八三、八八年)の論文によって、化石ならびにミイラを通して日本列島側との交流が報告された(『「邪馬台国」はなかった』「補章 二十余年の応答」。ミネルヴァ書房版では三六六ページ)。

 さらに、

(β)南米の「インディオ」のウィルスと遺伝子が日本列島(太平洋側)の住民と「同一型」であることが証明された(田島和雄氏)。
(γ)南米の地名中の「スペイン語・ポルトガル語以外の地名」に「原初日本語」の存在が「発見」された(「トリ」「ハタ」「マナビ」等)。さらに有名な南米最大の湖「チチカカ湖」は、「チ(神の古名)」と「カ(神聖な水)」のダブリ言語(日本語では、チチブ山脈など)であり、「太陽の神の作りたもうた神聖な湖」(「アイマラ語」インカ語以前の諸言語)の意義であることが判明した(藤沢徹氏の報告による)。

 ここでも、日本語と南米の「原初語(地名)」がまさに“共通”していたのです。
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは、「論証」、この二文字だったようです。


第1224話 2016/07/08

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(4)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の最後《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今から10年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が7世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積比だけでも前期難波宮は大宰府政庁の数倍は大きく、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。

  これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない普通の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実は九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。この悩みこそ、九州王朝説に突き刺さった《三の矢》なのです。

 古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は『日本書紀』に記されていない「近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。(つづく)


第1212話 2016/06/19

中国で発見された三角縁神獣鏡と古田先生の予告

 中国洛陽から三角縁神獣鏡が発見されたというニュースが流れ、その後、偽物説や本物説が発表されています。わたしは写真でしかその鏡を見ていないので、まだ何とも言えませんが、訪中して実物を観察された西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館)のご意見では日本出土のものと製造法などがよく似ており、本物とされています。
 もちろん、中国から見つかったからといって、三角縁神獣鏡中国鏡説が成立するというわけではありません。こうした事態を予測して、古田先生は30年以上前に次のように「予告」されていますので、ご紹介しましょう。

 A「そういえば、長安から和同開珎が出たりしましたね」
 古田「そうだ。だからといって、和同開珎が長安で(日本側の特注で)作られて日本へ送ってきたものだ、なんていう人はいないよね。それと同じだ。将来、必ず大陸(中国・朝鮮半島)から何面か何十面かの三角縁神獣鏡は出土する、これは予告しておいていいことだけど、だからといってすぐ『三角縁神獣鏡、中国製説の裏付け、復活』などと騒ぐのは、今から願い下げにしておいてもらいたいね。もちろん明確に日本側より早い、弥生期(魏)の古墳から出土した、というのなら、話はまた別だけどね」

 古田武彦『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房版、p.67)

 死してなお輝く、古田先生の慧眼恐るべし、です。

〔付記〕「古田史学の会・関西」では恒例の遺跡巡りハイキングに併せて、西川寿勝さんの講演「洛陽発見の三角縁神獣鏡について」をお聞きすることになりました。日時・会場は次の通りです。「古田史学の会」からの要望により特別に講演していただけることになりました。どなたでも参加できます。

○日時 2016年9月3日(土)14:00〜16:30
    博物館展示解説の後に講演(博物館会議室)
○会場 大阪府立狭山池博物館
○講師 西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館学芸員)
○参加費 無料