古田史学会報一覧

第2246話 2020/09/29

『東京古田会ニュース』194号の紹介

『東京古田会ニュース』194号が届きました。同号には拙稿「大化の改新詔と王朝交替」を掲載していただきました。同稿では、『続日本紀』の文武天皇「即位の宣命」や『日本書紀』の大化二年改新詔などの分析に基づいて、7世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替について考察しました。まだ初歩的な研究段階で不十分で未完成の論稿ですから、これからも修正や論究を深めたいと思います。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「継体天皇と女系天皇」も掲載されていました。現在の女系天皇反対論や容認論に継体天皇の皇位継承例が取り上げられることもあり、現代史からも興味深い研究です。なお、同稿は「古田史学の会」関西例会で口頭発表され論争となったテーマで、論点整理を含めた検証が待たれます。
 中村通敏さん(福岡市)の論稿「『史記』の『穆王即位50歳説』について」は、わたしや古田先生の古代中国や『論語』における二倍年暦説を批判したもので、なかなか興味深い内容でした。たとえば、そこで紹介された中国の国家的研究プロジェクトによる「穆王の即位年齢20歳」説は、『史記』の「50歳即位」記事との比較(2.5倍)から、周王朝の天子の年齢が二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で『史記』に記述されていたことの証明にもなりそうです。この点、稿をあらためて詳述します。


第2225話 2020/08/04

『多元』No.159の紹介

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.159が届きました。
 同号の冒頭に掲載された吉村八洲男さん(上田市)の「『坂城神社・由緒書』とその歴史」には、『発見された倭京』収録の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の論文「『東山道十五国』の比定」を紹介されながら、『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五国都督」記事が年代的に問題があるとして、疑問視されています。九州王朝が都督を任命するのは中国の冊封から抜けた六世初頭からであり、四世紀頃とされる景行の時代とは合わないという指摘はもっともです。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「天武天皇は筑紫都督倭王だった 前篇」は、まず刺激的なタイトルに驚きました。この前篇では、『日本書紀』天智紀に見える「筑紫都督府」を唐が設置したものとする仮説と壬申の乱についての分析がなされています。後篇が楽しみです。


第2202話 2020/08/11

『古田史学会報』159号の紹介

 『古田史学会報』159号が発行されましたので紹介します。わたしは、「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令『六年一造』の不成立―」を発表しました。『養老律令』戸令で戸籍は六年ごとに造ることと定められていますが、初めての全国的戸籍とされている「庚午年籍」(670年)から現存最古の戸籍「大宝二年籍」(702年)の間は32年であり、6年で割り切れません。このことから、両戸籍は異なる権力者により造籍されたと考えられ、それは九州王朝から大和朝廷への王朝交替の痕跡であると論じたものです。

 正木さんは、九州年号「大化」(元年は695年)と『日本書紀』「大化」(元年は645年)が50年ずれていることから、九州王朝史料から『日本書紀』大化年間頃へ50年ずらして転用された記事があり、それには藤原宮造営も含まれるとする論稿「移された『藤原宮』の造営記事」を発表されました。『日本書紀』の編集方法(九州王朝記事の転用方法)がまた一つ明らかになったようです。

 阿部さんの論稿「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について ―『九州倭国王権』の貨幣として―」は、従来の研究では富本銭の中でも新しいタイプに分類されていた藤原宮出土品が、その重量や銭文の字体などから判断して古いタイプであり、九州王朝により造られたとするものです。これからの多元的古代貨幣研究にとって、基本論文の一つになるのではないでしょうか。

 服部さんの「磐井の乱は南征だった」は関西例会で発表された研究で、『日本書紀』に引用された『芸文類聚』の内容分析から、『日本書紀』の「磐井の乱」記事は、九州王朝内での「南征」記事の転用とされました。『芸文類聚』の内容に立ち入って、多元的に『日本書紀』記事を検証するという新しい研究方法の提示という意味に於いても注目される論稿です。

【古田史学会報』159号の内容】
○移された「藤原宮」の造営記事 川西市 正木 裕
○造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立― 京都市 古賀達也
○「藤原宮」遺跡出土の「富本銭」について ―「九州倭国王権」の貨幣として― 札幌市 阿部周一
○「俀国=倭国」は成立する ―日野智貴氏に答える― 京都市 岡下英男
○磐井の乱は南征だった 八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学・二十五
多利思北孤の時代Ⅱ ―仏教伝来と「菩薩天子」多利思北孤の誕生― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第2190話 2020/07/27

『東京古田会ニュース』193号の紹介

『東京古田会ニュース』193号が届きました。同号には拙稿「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」を掲載していただきました。おりからのコロナ禍もあり、古代における感染症対策としての九州王朝と大和朝廷の事績や伝承を紹介したものです。
 たとえば、聖武天皇の時代に九州方面から流行した天然痘の脅威に曝され、天平八年(七三六)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)が法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像を含む諸仏像に多くの奉納品を施入しています。この法会が「二月二二日」であることから、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したのです。
 九州王朝でも感染症の流行により九州年号を改元しています。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究によれば、金光元年(五七〇)に熱病蔓延という国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀しています。また、『王代記』金光元年条には「天下熱病起ル」との記事が見え、熱病の蔓延により九州年号が「金光」に改元されたことがわかります。
 同号に掲載された安彦克彦さんの「『和田家文書』から『日蓮聖人の母』を探る」も優れた論稿でした。安彦さんの和田家文書研究の進展にはいつも驚かされます。


第2189話 2020/07/23

『九州倭国通信』No.199のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.199を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」を掲載していただきました。
 「朱鳥三年」銘を持つ同時代九州年号金石文「鬼室集斯墓碑」を紹介した論稿で、銘文が発見された江戸時代から偽造説が発表され、後代製造のものとする説が主流を占めてきました。拙稿では、古田先生との共同調査の想い出などにも触れ、同墓碑が同時代九州年号金石文であることを説明しました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「大宮姫伝承の研究」も掲載されており、鹿児島県に伝わる「大宮姫伝承」について分析されたものです。わたしが古田史学に入門した当時の論文「最後の九州王朝―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』第10集、1988年)も紹介していただきました。
 なお、大宮姫を九州王朝の皇女で、天智の皇后「倭姫王」のこととする優れた仮説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から発表されています。


第2181話 2020/07/04

『多元』No.158のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.158が届きました。同号には拙稿「多元的『蘇我氏』研究の予察 ―九州王朝の葛城臣と蘇我臣― 《補論》湯岡碑文の『我』と『聊』の論理」「《追記》『多元』一五七号の読後感」を掲載していただきました。
 拙稿では、九州王朝の有力臣下に「蘇我氏」と「葛城臣」が存在した史料痕跡を紹介し、『日本書紀』に両者の事績が多利思北孤の事績と共に転用されている可能性を指摘しました。そして、これからの古田学派における多元的「蘇我氏」研究の一つのアプローチを提起しました。


2169話 2020/06/12

『古田史学会報』158号の紹介

『古田史学会報』158号が発行されましたので紹介します。今号には『隋書』の研究論文が集まりました。いずれも関西例会で論争となったテーマで力作です。中でも谷本稿は説得力を感じました。これからの論争や研究の深化が期待されます。
また、正木さんによる九州王朝史の連載も多利思北孤の時代に入りました。いずれ本格的な九州王朝通史として発表していただきたいと願っています。
わたしは、「都城造営尺の論理と編年」を発表しました。本年一月十九日に開催した「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)での高橋 工さん(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)の講演「難波宮・難波京の最新発掘成果」で得た新知見を取り入れたものです。これからは文献史学も考古学の安定した最新成果を意識した立論が大切と思います。少なくとも、考古学的知見との整合性が無い仮説は説得力が低下することでしょう。
158号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【古田史学会報』158号の内容】
○会員総会中止の代替措置の報告 古田史学の会・代表 古賀達也
○『隋書』国伝の「王の都(邪堆)」の位置について 神戸市 谷本 茂
○イ妥王の都への行程記事を読む ―『隋書』国伝の新解釈― 姫路市 野田利郎
○『隋書』音楽志における倭国の表記 京都市 岡下英男
○都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・二十四
多利思北孤の時代Ⅰ ―「蘇我・物部戦争」以前― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第2167話 2020/06/05

『東京古田会ニュース』192号の紹介

先日、『東京古田会ニュース』192号が届きました。本号には拙稿「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」を掲載していただきました。観世音寺の創建を七世紀後半の白鳳時代(正確には白鳳10年、670年)とする各種史料を紹介し、その結果、太宰府条坊成立が観世音寺創建に先行するという井上信正説(太宰府市教育委員会)により、九州王朝(倭国)の首都太宰府条坊都市が大和朝廷(日本国)の藤原京条坊都市よりも早く造営されたことになると指摘した論稿です。
 コロナ禍により、「東京古田会」も今年の会員総会開催を断念されたため、同会決算書や事業報告などが同封されていました。コロナ禍の中で、どのようにして研究会活動を継続するのか、わたしたち「古田史学の会」にとっても試練のときを迎えていますが、それは同時に新時代の歴史研究のあり方を他に先駆けて提案・構築できるチャンスでもあります。皆さんからの画期的な提言やアイデアを求めます。


第2143話 2020/04/28

『多元』No.157のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.157が本日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「『国県制』を考える」と拙稿「前期難波宮出土『干支木簡』の考察」が掲載されていました。
拙稿では、前期難波宮出土の現存最古の干支木簡「戊申年」(648)木簡と二番目に古い芦屋市出土「元壬子年」(652)木簡の上部に空白部分があることを指摘し、本来は九州年号「常色」「白雉」が記されるべき空白部分であり、何らかの理由で木簡に九州年号を記すことが憚られたのではないかとしました。また、「戊」や「年」の字体が九州王朝系金石文などの古い字体と共通していることも指摘しました。
また、『多元』No.156に掲載された拙稿「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」を批判した、Nさんの論稿「読後感〝七世紀の「天皇」号 新・旧古田説の比較検証」〟について」が掲載されていました。その中で、わたしが紹介した古田旧説、近畿天皇家は七世紀前半頃から〝ナンバーツー〟としての「天皇」号を名乗っていた、という説明に対して、次のようなご批判をいただきました。

 〝古賀氏は、古田旧説では、例えば「天武はナンバーツーとして天皇の称号を使っていた」と述べるが、古田武彦はそのように果たして主張していたのだろうか、という疑問が生じる。〟
〝小生には古賀氏の誤認識による「古田旧説」に基づいた論難となっているのではないか、という疑念が浮かぶ。この「不正確性」については、以下の古賀氏の論述にも通じるものを感じる〟
〝今回同様の手前勝手に論点の整理をして、「古田旧説」「古田新説」などときめつけ、的外れの論述とならないように、と願うのみである。〟

 このように、わたしの古田旧説の説明に対して、「誤認識」「不正確」「手前勝手」と手厳しく論難されています。
「洛中洛外日記」読者の皆さんに古田旧説を知っていただくよい機会でもありますので、改めて七世紀における近畿天皇家の「天皇」号について、古田先生がどのように認識し、述べておられたのかを具体的にわかりやすく説明します。
「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」でも紹介したのですが、古田先生が七世紀前半において近畿天皇家が「天皇」号を称していたとされた初期の著作が『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏の光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)です。同著で古田先生は、法隆寺薬師仏の光背銘に見える「天皇」を近畿天皇家のこととされ、同仏像を「天平仏」とした福山俊男説を批判され、次のように結論づけられました。

 「西なる九州王朝産の釈迦三尊と東なる近畿分王朝産の薬師仏と、両々相対する金石文の存在する七世紀前半。これほど一元史観の非、多元史観の必然をあかあかと証しする世紀はない。」(278頁)

 このように、七世紀前半の金石文である法隆寺薬師仏に記された「天皇」とは近畿天皇家のことであると明確に主張されています。すなわち、古田先生が「旧説」時点では、近畿天皇家は七世紀前半から「天皇」を名乗っていた、と認識されていたのは明白です。
さらに具体的な古田先生の文章を紹介しましょう。『失われた九州王朝』(朝日文庫版、1993年)に収録されている「補章 九州王朝の検証」に、次のように古田旧説を説明されています。

 〝このことは逆に、従来「後代の追作」視されてきた、薬師如来座像こそ、本来の「推古仏」だったことを示す。その「推古仏」の中に、「天皇」の称号がくりかえし現れるのである。七世紀前半、近畿天皇家みずから、「天皇」を称したこと、明らかである。(中略)
もちろん、本書(第四章一)の「天皇の称号」でも挙列したように、中国における「天皇」称号使用のあり方は、決して単純ではない。「天子」と同意義の使用法も存在する。しかし、近畿天皇家の場合、決してそのような意義で使用したのではない、むしろ、先の「北涼」の事例のように、「ナンバー2」の座にあること、「天子ではない」ことを示す用法に立つものであった(それはかつて九州王朝がえらんだ「方法」であった)。
この点、あの「白村江の戦」は、いわば「天子(中国)と天子(筑紫)」の決戦であった。そして一方の天子が決定的な敗北を喫した結果、消滅へと向かい、代って「ナンバー2」であった、近畿の「天皇」が「国内ナンバー1」の位置へと昇格するに至った。『旧唐書』で分流(日本国)が本流(倭国)を併呑した、というのがそれである。〟(601-602頁)

 以上の通りです。わたしの古田旧説(七世紀でのナンバー2としての天皇)の説明が、「誤認識」でも「不正確」でも「手前勝手」でもないことを、読者の皆さんにもご理解いただけるものと思います。
わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えています。ですから拙論への批判を歓迎します。


第2137話 2020/04/19

『九州倭国通信』No.198のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.198を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず ―倭人伝の考古学と文献史学―」を掲載していただきました。
 その冒頭の「一、はじめに」で
 〝世にいう「邪馬台国」論争は、古田武彦先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているとわたしは考えていますが、マスコミや学界では未だに「邪馬台国」論争が続けられています。「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説・学問的方法)とは言い難いとわたしは考えていますが、本稿ではその理由を説明します。畿内説支持者は気分を害されることとは思いますが、ぜひ最後まで読んでみて下さい。その上で、ご批判・反論をいただければ幸いです。〟
 と前置きして、以下の項目で「邪馬台国」畿内説を批判しました。九州の皆様には特にご納得いただけたものと考えています。

二、畿内説は「研究不正」の所産
三、行程データの原文改定
四、国名データの原文改定
五、総里程データの無視
六、地勢データの無視
七、考古学データの無視
八、最も早く文字を受容した北部九州
九、考古学は科学か「神学」か


第2135話 2020/04/13

『古田史学会報』157号のご紹介

 『古田史学会報』157号が発行されましたので紹介します。
本号の一面は札幌市の阿部さんの論稿です。九州年号の使用が仏教関連に限定されており、九州王朝律令には政治的公文書に年号使用の規定はなかったとする研究です。わたしの説とは異なりますが、史料根拠と論理性が明確な好論です。カール・ポパーが「反証主義」で主張しているように、学問(科学)においては「反証可能性」の有無が重要で、阿部稿にはこの「反証可能性」が担保されています。
わたしは、「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」と「松江市出土の硯に『文字』発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―」の2編を発表しました。いずれも従来にはない視点で各テーマを取り上げました。ご批判をお願いします。
大原稿は三星堆の青銅立人と土偶の共通性を論じたもので、先駆的な仮説であり、説得力を感じました。好論です。
157号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。
本号は会費振込用紙を同封して会員の皆様に発送しています。2020年度会費の納入をお願いします(一般会員3,000円、賛助会員5,000円)。

『古田史学会報』157号の内容
○「倭国年号」と「仏教」の関係 札幌市 阿部周一
○九州王朝系近江朝廷の「血統」 ―「男系継承」と「不改常典」「倭根子」― 京都市 古賀達也
○七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで 八尾市 服部静尚
○松江市出土の硯に「文字」発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―
○三星堆の青銅立人と土偶の神を招く手 京都府大山崎町 大原重雄
○沖ノ島出土のカットグラスはペルシャ製 編集部
○「壹」から始める古田史学・二十三
磐井没後の九州王朝3 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西 史跡めぐりハイキング
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせと連絡先
○2020年度会費納入のお願い
○新型コロナウィルスの対策方針として 古田史学の会・代表 古賀達也
○編集後記 西村秀己


第2123話 2020/04/01

『東京古田会ニュース』191号の紹介

『東京古田会ニュース』191号が届きました。本号には拙稿「満月寺石塔『正和四年』銘の考察 ―多層石塔の年代観―」を掲載していただきました。大分県臼杵市の満月寺にある五重石塔の製造年代を、銘文にある「正和四年乙卯卯月五日」(1315年)として問題ないことを、その様式や「卯月」という表記、そして四面に彫られた梵字(六世紀頃に中央アジアで成立し、日本へは八世紀に伝来したとされる悉曇文字)の存在などを根拠に解説したものです。
 昨年11月に開催された「八王子セミナー」で、同石塔を九州年号「正和四年(529年、己酉)」の製造とする発表が林伸禧さん(愛知県瀬戸市)からありました。しかし、同石塔の様式や梵字の存在、そして1315年を示す干支「乙卯」に追刻や改竄の痕跡は認められないなど、どこをどう見ても中世の石塔であることから、拙稿を発表することにしたものです。もし、この石塔の様式や彫られている梵字が六世紀初頭のものであると主張したい場合は、そう主張する側に六世紀初頭の同様の金石文の存在を明示するなどの立証責任があることは自明でしょう。
 本号に掲載された安彦克己さん(東京古田会・副会長、港区)の「浅草キリシタン療養所の発見」は秀逸の論稿でした。和田家文書(北斗抄)に記された江戸時代初頭の浅草にあったとされる〝キリシタン療養所〟の存在を示す記録が、1924年発行の『ゾテーロ伝』(ロレンス・ペレス著)にあることをつきとめられたもので、これは和田家文書偽作説を根底から覆すものです。この新発見については、昨年の「八王子セミナー」の夜、宿泊した部屋が隣室だったご縁で、安彦さんから概要をお聞きしていました。ですから、論文発表をわたしは心待ちにしていましたが、期待に違わない驚愕の内容でした。同時に和田家文書の持つ優れた史料価値を再認識させられました。
 田島芳郎さん(川崎市)の「古田武彦先生の思い出」も興味深い内容でした。田島さんは古田史学ファン(読者・研究者)として、いわば第1世代に当たる方で、わたしが知らないような昔の古田先生との想い出が紹介されています。中でも、昭和薬科大学諏訪校舎で開催された『「邪馬台国」徹底論争』シンポジウム(1991年8月)の裏話〔藤田友治さん(当時「市民の古代研究会」会長、故人)とのトラブル〕などは初めて知ったお話しでした。わたしも記憶が鮮明な内に、こうした想い出を記しておかなければと思いました。