二つの「白雉元年」と難波宮 (2)
―「白雉改元」のエビデンス―
九州年号「白雉」には次の二種類があります。『日本書紀』型、元年は650年庚戌で五年間続く(650~654年)。『二中歴』型、元年は652年壬子で九年間続く(652~660年)。『二中歴』は鎌倉時代初頭に編纂された辞典で、歴代の年号を列記した「年代歴」冒頭に「継体」から「大化」まで31の九州年号(517~700年)が記されています(注①)。50年に及ぶ九州年号研究の結果、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用(盗用)であるとされました。その痕跡が他ならぬ『日本書紀』にあることを『古田史学会報』などで発表してきたところです(注②)。
『日本書紀』は孝徳天皇六年(650年)を白雉元年として、同年二月条には、白雉改元に関わる白雉献上の儀式が大きな宮殿で大々的に執り行われた様子が記されています。その部分を要約し紹介します。
〝二月庚午朔戊寅(9日)、穴戸國司草壁連醜經(しこぶ)、白雉を獻じて曰く、(中略)
甲申(15日)、「朝庭」の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を「殿」前に進ましむ。
時に、左右大臣就きて輿の前頭を執(か)きて、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執きて、御座の前に置く。天皇、卽ち皇太子を召して共に執(と)りて觀る。皇太子、退いて再び拜す。(中略)
又詔して曰く、四方の諸國郡等、天の委ね付(さづ)くるに由りての故に、朕總(ふさ)ね臨(のぞ)みて御寓(あめのしたしら)す。今我が親神祖の知らす所、穴戸國の中に此の嘉瑞有り。所以(このゆえ)に、天下に大赦す。改元して白雉とす。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)二月条
穴戸國(長門国、山口県の西半分)の国司が白雉を天皇に献上し、それを吉兆として年号を白雉に改元したという記事で、「朝廷」「紫門」「中庭」「殿」(紫宸殿か)がある大規模な宮殿で儀式を執り行った様子が記されています。
大阪の上町台地の七世紀中葉の地層からは、前期難波宮しかこの規模の宮殿は出土していません。『日本書紀』には、このような大規模な宮殿の創建記事が、二年後の白雉三年九月条に記されています(注③)。ですから、『日本書紀』の白雉年号は九州年号の白雉を二年ずらして転用したものとすれば、白雉三年(652年)の大規模な宮殿創建は、九州年号の白雉元年に当たりますから、先の白雉献上記事や白雉改元記事も白雉年号とともに、『日本書紀』編者により652年から650年へ二年ずらされたと考えられます。すなわち、九州年号の白雉元年(652年)であれば、完成間近の前期難波宮で白雉改元儀式を執り行うことが可能なのです。
ちなみに、「朝庭の隊仗、元會儀の如し」と二月条の記事にありますから、この白雉改元の儀式は正月の元會儀と同じ宮殿で行われたのではないでしょうか。白雉元年正月条冒頭には次の記事が見えます。
〝白雉元年春正月辛丑朔(1日)に、車駕、味經宮に幸(ゆ)きて、賀正禮を觀る。味經、これを阿膩賦(あじふ)と云う。この日に、車駕、宮に還る。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)正月条
ここでは賀正礼(元會儀の一つ)が行われた宮殿を味經宮としていますから、元會儀や白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は味經宮と呼ばれていたことになります。なお、この記事によれば、孝徳は賀正礼を観に行ったとあり、賀正礼を受けたとはされていません。その日のうちに別の宮に還ったともありますから、味經宮は孝徳の宮殿ではなかったと考えられます(注④)。この史料事実は、前期難波宮を九州王朝の王宮(複都の一つ)とするわたしの説の傍証となるものです。
こうした『日本書紀』の不自然な白雉改元記事は、九州年号「白雉」と一緒に二年ずらして『日本書紀』に転用されたものと考えざるを得ません。この点、更に詳述します。(つづく)
(注)
①九州年号リスト ※701年以降の大化と大長は古賀説による。
継体 517~521年(5年間)
善記 522~525年(4年間)
正和 526~530年(5年間)
教到 531~535年(5年間)
僧聴 536~540年(5年間)
明要 541~551年(11年間)
貴楽 552~553年(2年間)
法清 554~557年(4年間)
兄弟 558年 (1年間)
蔵和 559~563年(5年間)
師安 564年 (1年間)
和僧 565~569年(5年間)
金光 570~575年(6年間)
賢接 576~580年(5年間)
鏡当 581~584年(4年間)
勝照 585~588年(4年間)
端政 589~593年(5年間)
告貴 594~600年(7年間)
願転 601~604年(4年間)
光元 605~610年(6年間)
定居 611~617年(7年間)
倭京 618~622年(5年間)
仁王 623~634年(12年間)
僧要 635~639年(5年間)
命長 640~646年(7年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳 661~683年(23年間)
朱雀 684~685年(2年間)
朱鳥 686~694年(9年間)
大化 695~703年(9年間) ※『二中歴』は大化六年(700年)まで。
大長 704~712年(9年間)
②古賀達也「白雉改元の史料批判 ―盗用された改元記事―」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③「秋九月に、宮造ること已(すで)におわりぬ。其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年(652年)九月条。
④古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。