日本書紀一覧

第2386話 2021/02/20

「蝦夷国」を考究する(6)

 ―蝦夷国の旧名「日高見国」―

 『日本書紀』景行紀に「蝦夷」記事が多いことを紹介しましたが、その内容について少し説明します。『日本書紀』の「蝦夷」初見は次の景行二七年二月条の記事です。

○『日本書紀』景行二七年二月条
 二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還りて奏(もう)して言う、「東夷の中に、日高見國有り。其の國の人、男女並に椎結(かみをわ)け文身し、爲人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是(これ)を總べて蝦夷と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 蝦夷の国(日高見国)が広く豊饒の地であるから、「撃ちて取りつべし」というのも露骨で非道な話ですが、『日本書紀』は武内宿禰の報告として記しています。この会話の存在が事実であれば、それは九州王朝内でのことと思われますが、これだけでは隣国侵略の大義名分にはなりません。そこで、同四十年六月条に次の記事が唐突に現れます。

○『日本書紀』景行四十年六月条
 四十年の夏六月に、東夷多いに叛(そむ)きて、邊境騒動す。

 この翌月、景行は次のように群卿に問います。

○『日本書紀』景行四十年七月条
 天皇、群卿に詔して曰く、「今東國安からずして、暴(あら)ぶる神多く起こる。亦蝦夷悉く叛きて屡(しばしば)人民を略(かす)む。誰人を遣わしてか其の亂を平らけむ。」とのたまふ。

 その結果、日本武尊が蝦夷征討に向かうことになります。ここで学問的に問題となるのが、この蝦夷征討記事の実年代はいつ頃なのかということと、本来の伝承として九州王朝の誰が蝦夷征討に向かったのかということです。景行四十年は『日本書紀』紀年では西暦110年になります。九州王朝の倭王武の伝承であるとすれば五世紀後半頃になります。このことについては後で触れます。
 この一連の『日本書紀』の記事でわたしが最も注目するのが、蝦夷の国が「日高見国」と呼ばれていることです。この国名は先の景行二七年の武内宿禰の報告と景行四十年是歳条に見えます。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 この蝦夷征討からの帰還記事によれば、日高見国は常陸の東北にあることがわかります。ただし、その領域がどの範囲に及ぶかは不明です。なお、景行紀には日本武尊の関東・東北征討譚が延々と記されるのですが、この景行四十年「是歳」条には突然のように日本武尊のことを「王」と表記する例が増えます。この傾向は日本武尊が尾張に帰還するとなくなります。恐らく、ここで日本武尊の事績として記された景行四十年是歳条の記事は、東北・関東から信濃にかけてを征討した「王」と呼ばれる人物の記事が『日本書紀』に転用されたものと思われます(注②)。
 その「王」の有力候補として、景行五五年条に東山道十五國の都督に任命された彦狭嶋王がいます。この人物であれば文字通り「王」と呼ばれるにふさわしいと思います。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 もう一つの可能性として、『常陸国風土記』に登場する「倭武天皇」がいます。古田先生もこの「倭武天皇」とは九州王朝(倭国)の倭王武のことではないかともされています。もしかすると、彦狭嶋王と倭王武の両者の征討譚が転用されたという可能性もあるかもしれません。
 以上のように、『日本書紀』景行紀の史料批判により、蝦夷国の旧名「日高見国」が歴史上に現れ、その国を征討した九州王朝(倭国)側の人物として、彦狭嶋王と倭王武が有力候補として浮上しました。
 なお、蝦夷国と関係するかはわかりませんが、祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)」に見える「日高見之国」について、古田先生は対馬北部の国名とされ、天孫降臨後は筑紫内の国名「大倭日高見之国」になったとする説を発表されています(注③)。また、「日高見国」研究史については、菊池栄吾さん(古田史学の会・仙台)の著書『日高見の源流 ―その姿を探求する』(注④)を参考にさせていただきました。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②古田先生は『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刊)において、日本武尊の関東征討譚は「常陸の王者」「関東統一の王者」「その他(九州王朝の王者など)」による事績の転用とされている。
③古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』新泉社、1988年。
④菊池栄吾『日高見の源流 ―その姿を探求する』イー・ピックス出版、2011年。


第2385話 2021/02/19

「蝦夷国」を考究する(5)

 ―『日本書紀』の〝蝦夷記事〟―

 〝失われた蝦夷国〟研究のために、多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないと考えていますが、『日本書紀』に見える〝蝦夷記事〟の分析やその分布調査により、蝦夷国の歴史的位置づけが見えてきます。高橋崇さんの『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』(注①)によれば、『日本書紀』中の蝦夷記事の分布は次のようです。

《『日本書紀』の蝦夷・蝦蛦の使用例》(同書13頁)
    「蝦夷」 「蝦蛦」
景行紀  14
応神紀   2
仁徳紀   4
雄略紀   3
清寧紀   1
欽明紀   1
敏達紀   3
崇峻紀   1
舒明紀   5
皇極紀       3
孝徳紀   1   2
斉明紀  25   6
天智紀       1
天武紀   1   1
持統紀   6   1

 このような分布を示しているのですが、景行紀に多いのは日本武尊による蝦夷征討譚がおかれていることによります。斉明紀に更に多いのは、遣唐使に蝦夷国使が随行した記事と阿倍比羅夫らによる日本海側の蝦夷遠征記事が多いことによります。
 ちなみに九州王朝説によれば、これらの蝦夷記事は九州王朝(倭国)と蝦夷国による外交や戦闘記事が近畿天皇家の事績として『日本書紀』に転用されたものと考えなければなりません。従って、九州王朝と蝦夷国との関係は「景行紀」の時代になって本格的に始まったと考えてもよいと思います。
 そこで思い起こされるのが、景行紀にみえる次の記事についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の研究(注②)です。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 山田さんは、「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であることを明らかにされたのですが、東山道都督として彦狭嶋王は東山道軍(九州王朝陸軍)を率いて、蝦夷国へ侵攻したのではないでしょうか。
 さらに「崇峻紀」の時代には、東山道軍だけではなく、東海道軍(九州王朝水軍・陸軍)も東へ東へと進軍し、蝦夷国へ圧力をかけ続けたものと思われます。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 このように『日本書紀』によれば、東山道・東海道は蝦夷国への国交ルートであり、侵略ルートであったわけです。この蝦夷国へ向かう両官道は、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると、さらに大規模な侵略ルートと化していきます。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)


第2384話 2021/02/18

「蝦夷国」を考究する(4)

 ―『続日本紀』〝失われた蝦夷国〟―

 新野直吉さんの論稿「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」(注①)では『続日本紀』の記事などを史料根拠として、多賀城碑に見える「蝦夷國」を〝日本の中の北方の一部族〟とされ、〝北に独立国があったということではない〟とされました。
 本シリーズの(2)「『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国」で紹介したように、『日本書紀』斉明五年条(659年)には明確に唐へ朝貢する国家としての「蝦夷国」の記事が見られます。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。……」

 この斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも「蝦夷国」のこととして記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、659年、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。

 このように斉明五年条(659年)の記事だけですが、『日本書紀』には「蝦夷国」という表記があります。この他にも、崇峻二年七月条に「蝦夷の国の境」という次の記事が見えますが、これは〝蝦夷国の境〟と理解するべきです(注②)。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 この記事によれば、東山道の先に「蝦夷国」との国境があったことがわかります。他方、東海道の「東方濱海諸国境」と北陸道方面の「越等諸国境」は「諸国」(複数国)表記であり、東山道の「蝦夷国境」が「蝦夷諸国境」とされていないことは重視すべきです。この記事は、「蝦夷」を〝日本の中の北方の一部族〟の集合体とする理解を否定するのです。
 ところが『続日本紀』になると「蝦夷」表記はあるのですが、「蝦夷国」という〝国号〟表記は見えないようです(注③)。『日本書紀』が九州王朝(倭国)の存在を隠したのと同様に、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(正確には文武以後)の歴史を記した『続日本紀』では「蝦夷国」の表記を採用せず、〝蝦夷国はなかった〟ことにしたのではないでしょうか。
 ですから、蝦夷国の〝国家〟として実態を解明するためには多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないようです。〝失われた蝦夷国〟への考究は続きます。(つづく)

(注)
①新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。
②『日本書紀索引』(吉川弘文館、1969年)は、崇峻二年条の「蝦夷国境」を「蝦夷国」(地名)の項目ではなく、「蝦夷」(件名)に入れている。これは、〝蝦夷は国に非ず〟とする通説に基づいた分類ではあるまいか。
③『続日本紀索引』(吉川弘文館、1967年)によれば、『続日本紀』中に「蝦夷国」(地名)はみえない。この点、『日本書紀索引』と同様の分類がなされていないか、精査が必要と考えている。


第2382話 2021/02/16

「蝦夷国」を考究する(2)

―『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国―

 古田先生は九州王朝説の提起と共に、近畿の王権(近畿天皇家)と更に東に位置した蝦夷国も日本列島に存在した国家であるとの「日本列島内の多元的国家の共存状況」を論証されました(注①)。そしてその史料根拠として『日本書紀』斉明紀の「蝦夷国」記事をあげられました。関係部分を抜粋します。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
(A)秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
(B)伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」
(C)難波吉士男人書に曰はく、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に触(つ)きて覆(くつがへ)る。副使、親(みずか)ら天子に覲(まみ)えて、蝦夷を示し奉る。是に、蝦夷、白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十を、天子に献る」と。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版414頁)

 これら『日本書紀』斉明紀に記された「蝦夷国」という表記は、「蝦夷」が国家を形成していたことを現しており、中国の天子も「蝦夷国」という東夷の「国」からの朝貢(白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十)と認識していたことを示しています。
 蝦夷国の使者二名を随行させた倭国の使者も、唐の天子の質問「此等の蝦夷国は、何の方に有りや」に対して、「国は東北に有り」と答えており、蝦夷を「国」と認識していたことがわかります。更に、蝦夷国が倭国に「歳毎に、本国の朝に入貢」しているとも述べているのです。この朝貢(外交)記事は、倭国と蝦夷国が国家と国家の関係にあったことを如実に証言しているのではないでしょうか。
 これらの斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版415頁)

 この記事は斉明五年条の記事と対応しており、蝦夷国と倭国(九州王朝)が別々の国として明確に記されています。これらの史料を明示して、古田先生は次のように結論づけられました。

 『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。(中略)
 以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写の対照が鮮やかである。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版417頁)

 以上のように、古田史学初期三部作の一つ『失われた九州王朝』の時代(1973年)から、『真実の東北王朝』(注②)で多賀城碑を論じられた時代(1991年)まで、古田先生は一貫して多元的古代像の一つとして「蝦夷国」を捉えておられたわけです。その学問的意義を、わたしは今回の多賀城碑研究により、深く認識することができました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。


第2349話 2021/01/14

斉明紀の「宮」と「難波朝」記事の不思議

 昨年末から『史記』を始め、中国古典を集中的に読んできたのですが、今日は久しぶりに『日本書紀』を読みました。その為か、とても新鮮な感覚で新たな発見が続きました。とりわけ、斉明紀に今まで気づかなかった面白い記事が見つかりましたので、その概要だけをいくつか紹介します。その一つは、斉明元年(655)十月条の次の記事です。

 「小墾田(おはりだ)に、宮闕(おほみや)を造り起(た)てて、瓦覆(かはらぶき)に擬將(せむ)とす。又、深山廣谷にして、宮殿に造らむと擬(す)る材、朽ち爛(ただ)れたる者多し。遂に止めて作らず。」『日本書紀』斉明元年十月条

 小墾田に宮殿を作ろうとしたが材木が朽ちていて遂に造れなかったという、どうということのない記事ですが、よく考えると通説では説明しにくい記事ではないでしょうか。というのも、この三年前の652年には巨大な前期難波宮がそれこそ大量の木材を使って造営されており、約四十年後の694年には更に巨大な瓦葺きの藤原宮を造営し、持統がそこに遷都しています。ですから、なぜか655年には材木がなかったので小墾田に宮を造れなかったなどということは、一元史観の通説や従来の古田説では説明できないのです。
 この記事を合理的に説明できる仮説は、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説だけではないでしょうか。九州王朝が前期難波宮とその関連施設造営用に各地から材木などの大量の資材を調達したため、斉明は自らの宮をすぐには新築できなかったのではないでしょうか。
 このように斉明紀の中の些細な記事ですが、よくよく考えると前期難波宮九州王朝説を指し示すものだったことに、今回、気づくことができました。
 ちなみに、この記事と同年の七月条にも前期難波宮九州王朝複都説を指示する次の記事が見えます。

 「難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。」『日本書紀』斉明元年七月条 ※〈〉内は細注。

 難波朝とありますから、前期難波宮で各地の蝦夷と百済からの使者を饗応したという記事です。この記事も九州王朝説に立つのであれば、九州王朝が前期難波宮で蝦夷国と百済国の使者をもてなしたと考える他ありません。従って、前期難波宮は九州王朝の宮殿と解さざるを得ないのです。
 久しぶりに『日本書紀』を読んだのですが、全集中して取り組んだ中国古典の猛勉強の成果が、思わぬところに発揮できたと、新年そうそうから喜んでいます。


第2318話 2020/12/12

改暦と王朝交替、水野説の紹介

 魏朝における短里制度開始が、明帝の景初元年(237)に行われた改暦と同時期とする西村秀己説を「洛中洛外日記」〝明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介〟で解説しました。そのとき、ある論文を思い出しました。水野孝夫さん(注①)の「正朔を改めた?」です。同論文は安田陽介編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(注②)に掲載されたものですが、同書は安田さんによる自家版の少部数発行だったこともあり、この水野論文の存在はあまり知られていないのではないでしょうか。改暦を多元史観・九州王朝説の視点で論じた好論ですので紹介します。
 わたしも以前から気になっていたのですが、文武が持統からの禅譲により天皇に即位した日付の干支が『日本書紀』と『続日本紀』で一日ずれています。両書の当該記事は次のようです。

○八月乙丑の朔(ついたち)に、天皇、策を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禅(ゆづり)りたまふ。『日本書紀』持統十一年(701)条
○八月甲子の朔、禅を受けて位に即(つ)きたまふ。『続日本紀』文武元年(701)条

 このように文武即位日の日付干支が『日本書紀』では乙丑ですが、『続日本紀』はその前日の甲子とされています。この一日の差について、日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)の脚注には次の解説があります。

 「続紀、文武元年条に『八月甲子朔、受禅即位』とある。朔日干支が異なるのは、書紀が元嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によって七月を小の月としたためといわれる。八月一日践祚は確実であろう。」下巻、534頁

 すなわち、大和朝廷内での使用暦の変更(元嘉暦→儀鳳暦)と説明していますが、水野さんは王朝交替による改暦とされ、次のように説明されました。

 「中国で天子が代替わりしたから暦を改めるとは限られていないが、王朝の交代があったときには暦を改めるのが伝統である。日本列島に九州王朝があって、権力中心が近畿天皇家へ交代したとすれば、それは文武天皇時代であろうから、このあたりの時代に改暦の記事とか、詔勅とかがありそうなものなのにそれはなくて、ただ計算結果が改暦を示すのみである。『続日本紀』の編者たち(のすくなくとも一部)は、『書紀』との矛盾に気づかなかったのではなくて、理由は示せないが、ここで改暦があったと強烈に主張しているのだと私は考える。」56頁

 『日本書紀』と『続日本紀』の日付干支一日のずれを、王朝交替による改暦が原因とする水野説は、多元史観・九州王朝説ならではの仮説であり、貴重です。
 なお、水野稿では触れられていませんが、元嘉暦は南朝宋の元嘉22年(445)に施行されたもので、その当時の九州王朝が中国南朝の冊封を受けていた歴史背景と対応しています。他方、儀鳳暦は北朝唐の麟徳2年(665)に施行された麟徳暦のことです(注③)。近畿天皇家が唐の影響を受けたこと、あるいは白村江戦(663年)敗戦後の九州王朝が唐の暦を受け入れたのかもしれません。この点、今後の研究課題です。

(注)
①「古田史学の会」前会長、現顧問。
②『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)は、安田陽介氏が京都大学学生時代(国史専攻)に主宰した「続日本紀を読む会」(京都市)から発行された。
③元嘉暦・儀鳳暦については、岩波書店の新日本古典文学大系『続日本紀』第1巻(242頁)の補注による。


第2302話 2020/11/22

『日本書紀』の「称制」記事を疑う

 昨日、福島区民センターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回12/19(土)はドーンセンターで開催します。
 今回の研究発表で最も興味深かったのが服部さんの『日本書紀』に見える「称制」の研究でした。『日本書紀』には神功と天智、持統による称制記事がありますが、中国史書に見える「称制」とは、まだ幼い天子の代理として母親(皇太后)などが政治を行うことを意味しています。他方、『日本書紀』では、天智や持統は前の天皇(斉明、天武)が亡くなってから「称制」しており、本来の意味での「称制」ではないことを疑問視され、持統は九州王朝の天子との関係における「称制」であったことを『日本書紀』は隠したとされました。「称制」の定義などについて反対意見も出されましたが、服部説はするどい着眼点であり、『古田史学会報』での発表が待たれます。
 例会後の懇親会では、関西例会をズームやスカイプにより配信することについて、意見交換がなされました。こちらも、実施に向けて検討を続けます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①海女の玉取伝説(高松市・西村秀己)
②古事記・日本書紀の編纂に関する一考察(茨木市・満田正賢)
③元号の始まり(八尾市・服部静尚)
④称制とは何か(八尾市・服部静尚)
⑤昔話の主役の老人の意味と古代の家族構成について(大山崎町・大原重雄)
⑥書紀に探る蘇我氏東漸の痕跡(大阪市・西井健一郎)
⑦九州王朝の国号(京都市・岡下英男)
⑧『古事記』に見える「驛」記事(東大阪市・萩野秀公)
⑨『隋書』と俀国・多利思北孤・端政(川西市・正木 裕)

◎事務局長報告(正木事務局長)
(1)例会初参加者(2名)の自己紹介
(2)新入会員の報告
(3)八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の報告(古賀・久冨さん)
(4)関西各地の講演会の報告と紹介
(5)南秀雄「古墳時代における都市化の実証的研究」(大阪市文化財協会のweb版紹介)
(6)福岡県古賀市船原古墳出土「玉虫入り馬具」、京都府与謝野町大風呂南1号墳出土「ガラス釧(くしろ)」報道の紹介
(7)五尺刀と糸島の宇陀(宇田川原)の紹介

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用のため)
 12/19(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 01/16(土) 10:00~12:00 会場:i-siteなんば ※午後は新春古代史講演会
02/20(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

◆新春古代史講演会 2021年1月16日(土) 13:30~17:00 (受付開始13:00) 会場:i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス) 参加費1,000円 ※午前は関西例会。午前・午後通しの参加費も1,000円です。
 ①「道行き読法」と投馬国・狗奴国の位置〈仮題〉
  講師:谷本 茂さん(古田史学の会・会員)
 ②裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」〈仮題〉
  講師:正木 裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)
 ③古代戸籍に遺された二倍年暦の痕跡 ―『大宝二年籍』『延喜二年籍』の史料批判―〈仮題〉
  講師:古賀達也(古田史学の会・代表)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 12/22(火) 18:30~20:00 「古代戸籍に記された超・長寿社会の謎 ―『大宝二年籍』『延喜二年籍』の真相―」 講師:古賀達也

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 12/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館交流ホールBC室
    「多利思北孤の時代⑤」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール 参加費500円
 01/09(土) 14:00~16:30 「白村江での敗戦と唐からやってきた進駐軍」「筑紫都督府と壬申の乱」 講師:服部静尚さん
 03/13(土) 14:00~16:30 「天皇と三種の神器」「王朝交代」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター
 12/08(火) 14:00~16:00 「未定」 講師:未定

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 12/01(火) 18:30~20:00 「周王朝から邪馬壹国へ ―『倭人伝』の官名『泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚』の謎を解く」 講師:正木 裕さん
 02/02(火) 18:30~20:00


第2262話 2020/10/15

「防人」と「防」と「防所」

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟は優れたものでした。従来、『日本書紀』に記された「防人」「防」はともに「さきもり」と訓まれ、辺境防備の兵とされてきましたが、山田稿では「防」は九州王朝(倭国)防衛のために対馬・壱岐・筑紫国防衛のために建設された防衛施設(版築土塁)であり、「防人」はその「防」に配備さたれた防備兵(戍)のこととされました。『日本書紀』の用例悉皆調査に基づいて導き出された仮説であり、その結論だけではなく、方法論にも説得力を感じました。この仮説が更に検証されることを願っています。
 山田稿を読んで、以前から気になっていたことを思い出しました。佐賀県に「防所」(ぼうじょ、ぼうぜ)という地名があり、現在でも知られているのが、吉野ヶ里遺跡の東にある三養基郡上峰町坊所です。現在は「ぼうじょ」と訓むようですが、『佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告 下巻』(佐賀県・佐賀県教育委員会編、昭和51年)に収録されている昭和26年の報告書には「ぼうぜ」と記されています。「所」を「ぜ」と訓む例は、滋賀県大津市膳所(ぜぜ)や奈良県御所(ごせ)市があり、これは古い言葉(地名接尾語)ではないでしょうか。
 同書によれば、佐賀県内三カ所に「防所」地名があったとされ、先の上峰村坊所の他に、基山の東峰に「城戸ボージョ」と呼ばれている所があり、『和名抄』高山寺本「佐嘉郡」の条に「防所郷」の名前があるとのこと(地名としては現存せず、正確な所在地は未詳)。弘仁四年八月九日の太政官符により、肥前国の軍団が三団であったことは明らかと同書869頁に紹介されており、佐賀県内三カ所の「防所」の存在(数)と一致しています。
 この「防所」は、山田説とどのように整合するのでしょうか。それとも、同書の説明にあるような律令体制下の軍団の駐屯地と考えてよいのか興味があるところです。基肄城にある「城戸ボージョ」は山田説の「防」(防衛施設)に対応すると考えて問題ありませんが、上峰村の「坊所」は当地に版築土塁の防衛施設があるのかどうかが問題となります。同地は吉野ヶ里遺跡の近隣であり、古墳や廃寺跡など古代遺跡は少なくないようですので、太宰府から吉野ヶ里を結ぶ軍事道路の守備隊がいたことは間違いないように思われます。ちなみに、偶然かもしれませんが、上峰村坊所の近くには佐賀県唯一の陸上自衛隊の基地(目達原駐屯地)があります。今も昔も軍事上の要衝の地ということなのでしょう。
 更に山田説を突き詰めれば、九州王朝の首都太宰府を防衛する山城や版築土塁付近に「防」地名が遺っていてほしいところです。今のところ、佐賀県の「坊所」地名しかわたしは知りませんので、当地の皆さんの調査協力を賜りたいと願っています。


第2187話 2020/07/18

「倭」と「和」の音韻変化について(3)

 「洛中洛外日記」で連載中の拙論「九州王朝の国号」では、九州王朝の国号変化(委奴→倭→大委)の要因として、①「倭」字の中国側での音韻変化(wi→wa)の発生、②その音韻変化を九州王朝が知り、影響を受けた、という二点が基本前提となっています。この二点が認められなければ拙論の仮説は成立しませんから、この基本前提は重要です。
 そこで、読者の皆さんにこの音韻変化という通説成立の根拠として、『記紀』歌謡における「わ」表記に使用される漢字として「和」「倭」があり、『日本書紀』成立時には「倭」は「わ」表記として使用されており、八世紀初頭の大和朝廷内では「倭」の音韻変化を受容したことを説明しました。それに先立ち、中国側での「倭」の音韻変化が南朝から北朝への権力交替により発生したのではないかとも述べました(中国側での音韻変化については、古代中国の音韻史料『説文解字』『切韻』などを別途解説したいと思います)。
 『古事記』歌謡の「わ」表記には「和」が使用され、『日本書紀』歌謡では「和」と「倭」が併用されており、その巻毎の分布状況が森博達さんの仮説(α群とβ群分類。『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』中公新書)にほぼ対応していることも〝「倭」と「和」の音韻変化について(2)〟で紹介したとおりです。ただし、八世紀初頭成立の『記紀』よりも古い同時代史料でも音韻を説明したいと思案していたところ、「洛中洛外日記」802話(2014/10/15)〝「川原寺」銘土器の思想史的考察〟のことを思い出しました。改めてその要旨を紹介します。
 奈良県明日香村の「飛鳥京」苑地遺構から出土した土器(坏・つき)に次の銘文が記されています。

 「川原寺坏莫取若取事有者??相而和豆良皮牟毛乃叙(以下略)」

 和風漢文と万葉仮名を併用した文章で、インターネット掲載写真を見たところ、杯の外側にぐるりと廻るように彫られています。文意は「川原寺の杯を取るなかれ、もし取ることあれば、患(わずら)はんものぞ(和豆良皮牟毛乃叙)~」という趣旨で、墨書ではなく、土器が焼かれる前に彫り込まれたようですから、土器職人かその関係者により記されたものと思われます。ということは、当時(七世紀)の土器職人は「漢文」と万葉仮名による読み書きができたわけですから、かなりの教養人であることがうかがわれます。
 この七世紀の銘文の「わ」表記に「和」が使用されているという史料事実から、遅くとも七世紀後半の近畿天皇家中枢の人々は万葉仮名を使用し、「わ」表記に「和」字を用いていたことがわかります。「和」を「わ」と発音するのは、南朝系音韻(日本呉音)ですから、『日本書紀』α群歌謡を「音訳」(森博達説)したとされる中国人史官(渡来唐人)による唐代北方音(「和」ka、「倭」wa)の影響を受けていないことになります。従って、『記紀』歌謡に見える「わ」表記の「和」と「倭」では、「和」字使用が倭国のより古い伝統的音韻表記であることがわかります。(つづく)


第2180話 2020/07/03

「倭」と「和」の音韻変化について(2)

 「倭」の字の音韻変化については一応の「解答」は出せたのですが、それではなぜ古くから使用された「和」の字に換わって「倭」が使用されたのかという新たな疑問がわたしの中で生まれました。その疑問解決の一助となったのが、森博達さんによる『日本書紀』研究でした。

 ご存じの方も多いと思いますが、森博達さんは、『日本書紀』は各巻ごとに正格漢文で書かれているα群と和風漢文で書かれているβ群とに分けることができ、前者は中国人史官により述作され、後者は日本人史官によって述作されたとする説を発表され、その研究は学界で高い評価を得ました。そして、一般読者向けに書かれた『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書、1999年)は古代史ジャンルでのベストセラーとなりました。

 『日本書紀』雄略紀の歌謡から、「わ」表記に「倭」の字が使用され始めていることが気になり、森説のα群β群と照合したところ、歌謡に「倭」の字が採用されている巻(雄略紀、継体紀、皇極紀、斉明紀)は全てα群でした。他方、「和」の字が採用されている巻(神武紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、允恭紀、推古紀、舒明紀)は何れもβ群に属しています。

森説では、α群の各巻は中国人史官が編纂したものであり、「α群の表記者は当時の北方音に全面的に依拠し、中国原音によって日本語の歌謡を音訳しました。」(『日本書紀の謎を解く』第二章第五節「α群歌謡中国人表記説」103頁)とされています。この「当時の北方音」とは長安を中心とする七世紀後半から八世紀初頭の唐代北方音のことです。

 『日本書紀』編纂に於いて、渡来唐人がα群を著述したとする森説に従えば、それまで「和」の字で「わ」表記されていた古代歌謡が唐代北方音で書き改められたこととなるのです。唐代北方音では「和」は「ka」「kwa」ですから、そのため「わ(和)れ」「わ(和)が」という従来表記では「かれ」「かが」のような発音になり、本来の意味とは異なってしまいます。そこで、唐代北方音では「わ」の音である「倭」の字に換えたものと思われます。すなわち、一部の例外を除きα群歌謡の「わ」の音が一斉に「和」から「倭」に置き換わっているのは、それまでの南朝系音(日本呉音)から唐代北方音(日本漢音)の採用による、「和」と「倭」の音韻変化の発生が理由であると考えられるのです。

 ちなみに、現代日本でも「和尚」の訓みに、「わじょう」「かしょう」「おしょう」があり、それぞれ「呉音」「漢音」「中世唐音(十二~十六世紀頃の南方杭州音)」と森さんは説明されています(『日本書紀の謎を解く』60~61頁)。

 この森説は先に詳述したわたしの推察結果と対応しており、拙論を支持する有力説と感じました。更に、拙論では不明とした古代歌謡の「わ」表記に「倭」が採用された時期は、『日本書紀』編纂時であることになります。以上のように、古代歌謡に痕跡を残す「倭」の音韻変化について、拙論(作業仮説・思いつき)は森説という強力な援軍を得て、学問的な仮説になったのではないでしょうか。


第2164話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(2)

 「九州王朝律令」が現存しませんから、九州王朝における造籍年間隔は不明ですが、推定のためのいくつかの手がかりはあります。もちろんその代表は「庚午年籍」(670)です。この庚午年(670)を定点として、その他の造籍年がわかれば、間隔を推定する根拠になります。これまでの九州王朝史研究の成果により、『日本書紀』に九州王朝による造籍があったと考えてもよい記事があります。孝徳紀白雉三年(652)正月条に見える次の記事です。

 「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」『日本書紀』孝徳紀白雉三年正月条

 この記事は正月条でありながら、「正月よりこの月に至るまでに」とあり、不審とされてきました。わたしはこの記事を根拠に、直前にあった二月に行われた白雉改元の儀式記事が切り取られ、孝徳紀白雉元年(650)二月条に貼り付けられたとする説を発表しました(「白雉改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。ちなみに、九州年号の白雉元年は壬子(652)に当たり、孝徳紀の白雉改元記事は九州王朝史書の白雉元年(652)二月条から二年ずらされて孝徳紀白雉元年(650)二月条に移動されたともの考えられます。
 こうした史料批判の結果、「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」の記事も九州王朝史書からの転用と考えられ、この年に班田したのも九州王朝となります。そして、班田のためには直近に造籍した戸籍が必要であり、その造籍年も九州年号の白雉元年(652)と理解するのが穏当です。そして、この「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)の間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れます。この理解が正しければ、「九州王朝律令」戸令にも『養老律令』と同様に「凡戸籍六年一造」のような6年ごとの造籍規定があり、大和朝廷は「九州王朝律令」の造籍規定を受けついだことになります。(つづく)


第2114話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(4)

 『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在しており、それらを分別する学問的方法論の確立が必要と、わたしは考えているのですが、実は事態はもっと複雑です。というのも、九州王朝にも重臣としての「蘇我臣」が存在した史料痕跡があるからです。
 「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟、777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟でも紹介しましたが、『二中歴』「都督歴」に次の記事が見えます。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前にいた「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。また、この「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかとわたしは考えています。
 このように『二中歴』によれば、近畿天皇家の蘇我氏とは別に、九州王朝にも「蘇我臣」がおり、重用されていたこととなりますから、『日本書紀』には、近畿天皇家の「蘇我氏」関連記事、九州王朝の重臣「葛城臣」と「蘇我臣」の転用記事が混在している可能性があります。従って、この三者を分別する学問的方法論が必要と思われ、九州王朝説に基づく蘇我氏研究は一筋縄ではいかないと思われるのです。
 このような視点と理由により、古田学派内での従来の蘇我氏研究について、「わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば『ああも言えれば、こうも言える』といった研究段階に留(とど)まってきました。」との辛口の批評をせざるを得なかったわけです。『日本書紀』に留まることなく、九州王朝系史料に基づいた多元的「蘇我氏」研究の本格的幕開けを期待しています。(おわり)