史料批判一覧

第841話 2014/12/21

2014年の回顧

   「関西例会」

 2014年における「古田史学の会」での優れた研究は『古田史学会報』に掲載されたもの以外にも、「関西例会」で発表された研究にも少なくありません。わたしの記憶に残っている特に優れた例会発表についても解説したいと思います。
 まず発表件数ですが、毎回、古田先生近況や会務報告とご自身の研究を報告されている水野代表は別格としても、服部静尚さん(八尾市)の22件が際だっています。次いで正木裕さん(川西市)の14件で、両者の発表件数が群を抜いていますし、研究水準も高いものでした。以下、岡下英男さん(京都市)の7件、萩野秀公さん(東大阪市)・西村秀己さん(高松市)・出野正さん(奈良市)・古賀(京都市)の6件と続いています。最も遠方からの発表者は中国曲阜市の青木英利さんでした。
 皆さん研究熱心で、「古田史学の会」や古田学派の研究活動を牽引されています。いずれも甲乙つけ難い研究内容ですが、最も印象強く残っているのが安随俊昌さん(芦屋市)が7月に発表された「『唐軍進駐』への素朴な疑問」でした。「洛中洛外日記」748話で紹介しましたが、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事について、安随さんによれば、この2000人のうち1400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。すなわち、百済人1400人は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされたのです。
 この安随説は論証が成立しており、もし正しければ白村江敗戦以降の倭国(九州王朝)と唐との関係の見直しが迫られます。すなわち、数次にわたり筑紫に進駐した数千人規模の唐軍が倭国を「軍事制圧」していたという認識に基づいた諸仮説が成立困難となるかもしれないからです。
 このように、従来の研究の見直しをも迫る安随説は、2014年の関西例会で最も気になる研究発表だったのです。『古田史学会報』での発表が待たれる所以です。
 最後に、例会後の懇親会の幹事を担当していただいている西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)のご尽力にも触れなければなりません。どんなに激しい論争があっても、懇親会で酌み交わすお酒のおかげで関西例会は長く続けられています。こうしたことも「古田史学の会」の大切な目的です。


第828話 2014/11/29

地名接尾語「さ」と「言素論」

 地名接尾語としての「ま」や「の」について論じてきましたが、まだよくわからない地名接尾語に「さ」があります。宇佐・土佐・稻佐・三笠・須佐・伊佐・石原(いさ)・麻・厚狭(あさ)・安佐・小佐(おさ)・岩佐・笠・加佐・笠佐・ 吉舎(きさ)・笹・奈佐・波佐・布佐・三佐・武佐・与謝・若狭など末尾に「さ」が付く地名は多数あります。従って、共通した何らかの意味を持つと考えられ ます。
 言葉の先頭に付く「さ」は、小百合や小夜曲のように「小さな」という意味の「さ」が知られていますが、地名接尾語の場合はそれとは違うようです。このように、「さ」の音に複数の異なる意味があることになるのですから、「言素論」で言葉を分析するさいに、どちらの意味を取るのかで恣意性が発生することもあ り、こうしたケースは学問的に不安定なことがご理解いただけると思います。
 「さ」の意味を探る上で注目されるのが京都府福知山市の石原(いさ)という地名です。「原」という字に「さ」という発音はなさそうですから、音ではなく訓(字の意味)の一致から「さ」の音に当てたのではなないでしょうか。そうであれば、「さ」は「原」(フィールド)の意味を持っていたことになります。そうしますと、「ま」(一定領域の意味)と似た意味となり、「○○さ」とは「○○」のフィールドということになります。まだアイデア段階ですが、地名接尾語 「さ」の意味をこれからも考えていきます。


第827話 2014/11/23

「言素論」の可能性

 「言素論」は日本古代史研究に新たな可能性を秘めているのですが、古代中国の音韻研究にも寄与できる可能性もあります。たとえば音韻復元が未だ困難とされている『三国志』時代の音韻研究ですが、倭人伝の国名分析により解明できるケースがあります。たとえば、「奴国」などの「奴」の音韻が、通説の「な」や「ど」ではなく、「ぬ」あるいは「の」の可能性が最も高いということがわかっ てきました。
 『三国志』倭人伝に記された倭国内の国名に「奴」の字がよく使われています(奴国・彌奴国・姐国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・狗奴国)。現在では「ぬ」「ど」とわたしたちは発音しますが、志賀島金印の「漢委奴国王」の場合は通説では「な」と訓まれています。倭人伝国名の末尾に「奴」が使用されていることが注目されますが、おそらく倭人の発音に基づき漢字を当てたものと思われますから、この「奴」が地名接尾語の可能性をまず考えるべきです。そうしますと、日本列島内の地名接尾語として多用されているのが、「ま」の他には「の」「さ」「な」などがあり、この中から「奴」の音の可能性があるのは 「の」と「な」です。しかし、地名としては「の」が圧倒的に多いことから、「の」の可能性が最も高いと思われます。
 たとえば思いつくだけでも、昨晩地震があった長野をはじめ、吉野・熊野・日野・信濃・星野・茅野・真野・高野・美濃・小野・遠野・角野・中野などいくらでもあります。したがって日本列島内に多数ある「○○の」という国名が倭人伝に無いと言うことは考えにくいので、「奴」を「の」と訓むのは合理的な選択肢となります。ただし、古代から現代までの音韻変化という問題がありますので、ここでは「の」あるいは「ぬ」に近い音という程度にとどめておくほうが学問的には安心です。中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)も著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社、2014年)で同様の考えを発表され ています。好著ですので、ご一読をお勧めします。
 「奴」の発音を「の」「ぬ」と考えた場合、次に問題となるのが、その意味です。地名接尾語として何らかの共通した意味があったはずですから、「言素論」 としてこの考察を避けて通れません。これまでは何となく「野原の野(の)」のことで、野原や広原の多い地名に接尾語の「の」が付けられたと考えていました。現に「○○野」という地名が数多くあります。もちろんこうした意味で「○○の」という地名が付けられたケースも少なくないと思われますが、倭人伝の 「奴国」や志賀島の金印の「委奴国」の場合、かなり大きな領域の国名と思われますから、古代においては「の」「ぬ」に単に「野原」ではなく何か特別な意味があったのではないかと考えています。残念ながら今のところ良いアイデアはありません。
 古田先生が提唱された「言素論」は発展途上の先駆的学問領域であるがゆえの限界や欠陥、想定できない問題の発生を避けられませんが、同時に大きな可能性も秘めています。古田学派内での活発な論議や仮説発表を通して発展させていきたいと思います。


第826話 2014/11/22

「言素論」の方法論

 「洛中洛外日記」824話などで、地名接尾語「ま」について紹介しましたが、 西村秀己さんから、「ま」が一定領域をあらわす言葉なら、なぜ「ま」が地名に付いたり付かなかったりするのか、地名そのものが一定領域を表しているのに、 なぜ更に一定領域を意味する「ま」が付く必要性があるのかという鋭いご質問をいただきました。そこで、今回はこの地名接尾語「ま」についてわたしの考えを説明し、「言素論」の方法論について触れることにします。
 まず、「ま」を地名接尾語とするための条件としては、末尾に「ま」を持つ多数の地名の存在が必要です。数が少なければ、偶然の一致かもしれないという批判をクリアできないからです。すでに何度も紹介しましたように、日本列島にはかなり多くの末尾に「ま」がつく地名があり、これを偶然とするよりも、何らかの必要性があり、地名の末尾に「ま」を付けた文明や集団が存在したと理解する方が合理的なのです。
 次に、「ま」が付いたり付かなかったりする理由ですが、幸いにも末尾に「ま」が付いたり付かなかったりする例が現在もあります。「床の間」「土間」「居間」「客間」「応接間」というように「ま」が付くケースと、「玄関」「便所」「台所」のように「ま」が付かない場所が家の中にあります。前者は「間」が付くことにより一定領域(空間)であることと、それがどのような目的の領域であるかがわかる仕組みになっています。後者は「間」の代わりに「所」という一定 領域(空間)であることを示す言葉が付加されています。あるいは漢語として目的と一定空間であることが明らかな「玄関」のような言葉には「ま」が不要であ り、付加されていません。
 おそらく、これと同様に末尾に「ま」を付加することにより、ある集団などの一定領域を意味するケースとしての地名接尾語「ま」が付けられたのではないで しょうか。すなわち古代日本列島において、特定集団の領域を表す言葉として「ま」があり、その集団名などの末尾に「ま」を付ける慣習があり、その結果、末尾に「ま」を持つ地名が多数成立したのではないでしょうか。
 実はこれと同様の地名領域表現として、中国風の「国(くに)」「県(あがた)」「里(さと)」名称などが導入され、後には「評」「郡」「郷」が国家権力の行政単位として採用されます。このように、より古い時代に一定領域をあらわす言葉として地名接尾語「ま」などが発生したと、わたしは考えています。
 以上、地名接尾語「ま」の成立を「言素論」の視点から考察したのですが、もちろん他に有力で合理的な説明や仮説があれば、比較検証し、どの仮説が最も妥当かを判断すればよいと思います。「言素論」を古代史研究に使用する場合は、少なくともこの程度の学問的手続きと用心深さは必要でしょう。(つづく)


第825話 2014/11/21

「言素論」の困難性

 今回は「言素論」の学問としての困難性について説明します。それは古代における発音・音韻が現在のわたしたちにはわからないことが多いことと、残されている史料の文字表記と古代の音韻とが正確に対応しているかどうか、これもわからないケースがあるという点です。
 このことを具体例(わたしの失敗)で説明しますと、たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介した「○○じ(ぢ)」地名の音韻における、「じ」と「ぢ」の 違いです。姫路や淡路、庵治、但馬、味野は「ぢ」と思われますが、「吉備の児島」の場合は普通「こじま」であり、「じ」です。わたしはこの「児島」も「こじ(ぢ)+ま」とするアイデア(思いつき)として述べたのですが、この点、倉敷市の「味野」地名を教えていただいた安田さんからメールをいただき、「ぢ」 ではなく「じ」ではないかとのご指摘をいただきました。『古事記』の国生み神話に見える「吉備児嶋」は「嶋」ですから「こじま」と発音され、安田さんのご指摘はもっともなものでした。
 ただ、わたしには思い当たることがあり、あえて「吉備の児島」の「児島」を「こじ(ぢ)+ま」とするアイデアを述べました。それは『古事記』の国生み神 話の「大八島国」の次に登場する六つの「嶋」(吉備児嶋・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・両児嶋)のうち、「吉備児嶋」だけは「嶋」(アイランド)ではなく半島で、しかも「吉備」という地名表記つきで、他の五つの「嶋」とは表記方法が異なっています。そこで、この「児嶋」は「嶋」と表記されていますが、本来 は「こぢ+ま」という領域名であり、それを『古事記』編者は「こじま」として他の五つの「嶋」と同様に「児嶋」と表記したのではないかと考えたのです。
 しかし、わたしのこのアイデア(思いつき)に対して、西村秀己(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、会計。高松市)さんから「児島半島は昔は島で、戦国時代以降の干拓により半島になった」とのご指摘があり、わたしの思いつきは成立困難であることがわかりました。
 「じ」と「ぢ」に限らず、古代日本語の発音は現代の五十音よりも多く(たとえば万葉仮名の甲類・乙類など)、今のわたしたちの発音・音韻感覚によって十把一絡げに同音だから同じ意味とすることはかなり危険が伴うのです。ここに「言素論」を利用するさいの難しさの一つがあります。(つづく)


第824話 2014/11/20

「言素論」の応用例

 「言素論」の学問的性格や方法論について説明したいと思いますが、抽象論ではわかりにくいので、なるべく具体論をあげるようにします。今回は応用例として「松」地名分析での経験を紹介します。
 語尾に「松(まつ)」がつく地名は全国にたくさんあります。たとえば有名な都市では浜松(静岡県)・高松(香川県)・小松(石川県)などです。いずれも海岸付近にあることから、何となく海岸に松林が多い所なのだろうと思っていたのですが、古田先生の「言素論」を知ってからは、考えを改めました。「松(ま つ)」の「ま」は地名接尾語の「ま」、「つ」は港を意味する「津」のことと理解できたのです。従って、地名の語幹部分は「はま(浜)」「たか(高)」「こ (小)」となります。
 「ま」が末尾につく地名は、薩摩・播磨・須磨・有馬・球磨・三潴・朝妻・鞍馬・宇摩・但馬・生駒・門真・筑摩・詫間・群馬・多摩・浅間・中間・置賜・埼玉・大間など数多くあり、これらは偶然ではなく、地名の末尾に付くべき何らかの意味を持つ言葉であることは間違いないでしょう。現在でも、土間・床の間・ 応接間・居間・隙間などのように、一定の空間・領域を意味する言葉として「ま」が使用されています。従って地名接尾語の「ま」も同様に一定領域や空間を意味すると考えられます。さらに敷衍すれば、山(やま)・島(しま)・浜(はま)・沼(ぬま)などの基本的一般名詞末尾の「ま」も語原が共通している可能性 があります。
 「つ」は現在でも大津(滋賀県)のように、港を意味する言葉として使用されています。以上の理解から、地名の末尾につく「松(まつ)」は、「ある一定領域にある港」とする理解でその多くは説明可能です。その証拠に、浜松・高松・小松の他、末尾に「松」を持つ地名の多くは海岸・湖岸・川岸付近にあり、この理解が正当であることを裏付けています。
 以上のように、「松」地名を松林が多い所とする浅薄な理解から、「言素論」により本来の意味に肉薄する深い理解が可能となるのです。これは「言素論」の応用例でも比較的成功した事例です。(つづく)


第823話 2014/11/19

「言素論」の基本前提

 古田先生が提唱され古代史研究において援用展開されている「言素論」について、古田学派内では様々な論議がなされています。特に「古田史学の会」関西例会では、その使用方法や理解をめぐって激しい論争が今も続けられています。わたし自身も「言素論」を利用して多くの仮説やアイデアを述べてきたこともあり、この「言素論」について整理する必要を感じています。そこでわたしの理解もまだ不十分ですが、「言素論」について見解をのべてみたいと思います。
 まず「言素論」成立のための基本的前提として、古代日本語の単語や文字表記において、一般的には「一字・一音節・一義」がより古い形態と考えることがあります。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。この fishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」 が「な」なのです。
 この基本前提に基づき、「一音節」ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味の構成を明らかにするのですが、同時に「どうとでも言える」という恣意性に対する批判を避けられないのです。その「どうとでも言える」という恣意性に基づいて立てられた「仮説」は危ういという批判が西村秀己さんらから出されており、それに対して「言素論」の持つ先駆性による限界をわきまえた上で、その学問的可能性を追求すべきという反論があり、わたしはこの立場に立っています。
 この対立は、賛成反対を問わず、「言素論」を古代史研究に利用しようとする論者にとって重要な問題なのですが、残念ながら十分な理解がなされないまま、 論文に「言素論」が使用されるケースが散見されます。こうした感想はわたしも西村さんも同様に抱いており、そこにおいてお互いの意見の違いはありません。 誤解を恐れず単純化すれば、「言素論」使用に対して厳格な条件を要求する西村さんと、とりあえず作業仮説(思いつき)として利用する分には、あまり厳しいことは言わないでもよいのでは、とするのがわたしです。
 もっとも西村さんが指摘されるように、「一音節」に複数の意味があるケースでは、どの意味とするのかは個人の勝手な判断となりかねず、論証抜きの恣意的な判断となる、という批判はわたしも認めるところです。たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介しました瀬戸内海地方に散見される「○○じ(ぢ)」という 地名の「じ(ぢ)」には共通した意味があるのではないかとする、わたしのアイデア(思いつき)においても、「ぢ」を神の古名である「ち」が濁音化したものとする理解もあれば、「道」を意味する「ぢ」かもしれず、どちらが妥当かは論証の対象であり、個人の勝手な判断で論を進めるのはあまり学問的態度とは言え ません。(つづく)


第820話 2014/11/13

瀬戸内海地域の

「じ(ぢ)」地名の考察

 「洛中洛外日記」817話「姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)」で紹介しました瀬戸内海地域の「じ(ぢ)」地名のアイデア(思いつき)ですが、それを読まれた神戸市にお住まいの安田さんという方から、倉敷市に味野(あじの) という地名があることを教えていただきました。安田さんのご意見では「あじ」が語幹で、高松市の庵治(あじ)と同じではないかとのこと。わたしもそう思います。こうした、情報を読者からお知らせいただくことが多く、ありがたいことです。
 安田さんの味野のご指摘により、「○○じ(ぢ)+地名接尾語」という地名がありうることに気づきました。その視点から、改めて「じ(ぢ)」地名を探索し てみますと、たとえば但馬や田島は「たじ(ぢ)+ま」ということになり、地名接尾語の「ま」が付いた形ではないかと思われます。薩摩・須磨・播磨などの地名接尾語の「ま」です。
 この考え方が正しければ、もしかすると味野と同じ倉敷市にある児島も、「こ+島(アイランド)」ではなく、「こじ(ぢ)+ま」ではないかというアイデア (思いつき)も浮かんできました。まだ、無責任な思いつきのレベルですが、これからよく考えてみたいと思います。
 更に敷衍すれば、『日本書紀』(孝徳紀)に見える難波の「味経の宮」の「あじふ」も、「あじ+ふ」かもしれません。ただしこの場合、「ふ」の意味がまだわかりません。
 以上、「じ(ぢ)」地名の思いつきでしたが、いかがでしょうか。

〔追記〕今朝は仕事で名古屋市に来ていますが、地下鉄の路線図を見ていますと、名鉄小牧線の駅名に、味鋺(あじま)・味美(あじよし)・味岡(あじおか)と、三つも「あじ」がつく駅名がありました。この地域も「じ(ぢ)」地名が多いのでしょうか。
 大分県豊後高田市にも香々地(かかぢ)という地名があります。いかにも古く謂われがありそうな地名です。


第819話 2014/11/09

八王子セミナーの余韻・余話

 今朝の八王子は曇り空(小雨)です。わたしの部屋はベッドが四つもありますが一人で使っています。ちなみにテレビはありません。目覚めてから朝食の時間までには余裕がありましたので、前日の「洛中洛外日記」の校正を行いました。
 八王子は初めて訪れましたが、わたしが好きなグループ、ファンモン(ファンキー・モンキー・ベイビーズ)の出身地なので、なんとなく愛着が感じられま す。昨日、JR八王子駅の改札を抜けるとき、思わずファンモンの「ヒーロー」を口ずさんでしまいました(最寄り駅の改札抜けると、いつもよりちょと勇敢な お父さん、Daddy! その背中に愛する人のぉ~声がするぅ~)。
 東京古田会の藤沢会長と朝食をご一緒し、多くの方と歓談したり記念写真を撮ったりと忙しくしていますと、古田先生が登壇され短い講話をされました。
 内容は画家セザンヌの遠近法の話からから切り出され、『隋書』「イ妥国伝」の「無故火起」について昨日に続いて説明されました。その要旨は、自然現象の 場合の表記は「火」ではなく、「災」であるとするもので、従来、阿蘇山の噴火の「火」と理解していたのは誤りであると繰り返し説明されました。そして、漢代の成語としての「無故○○」という禁止事項を示すものと同様に「無故火起」を理解すべきであり、人による「火」の使用を禁止したものとされました。この説に対して反対意見があることから、先生も丁寧に繰り返し説明されているようでした。
 そして、荻上さんの閉会の挨拶で、セミナーは終了しました。最後に古田先生を囲み、全員で記念写真を撮りました。
 帰る方向が同じということもあり、多元的古代研究会の安藤会長・和田事務局長・宮崎宇史さん・西坂久和さん、そして関西から来た横田幸男さん(古田史学の会・インターネット担当)・服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者)・中本賢治さん(古田史学の会・会員)、林信禧さん(古田史学の会・東海、全国世話人)とJR八王子駅でコーヒーを飲み、昼食をとりました。
 その席上で、これからも全国の古田ファンや研究者が一堂に会する機会が持てないものかということになり、たとえば年に一度、研究発表会を各地の団体が持ち回りで主催するというアイデアをわたしから提案しました。実現できればよいと思います。
 こうして、怒濤の二日間が幕を閉じ、今は新幹線で京都に向かっています。とてもよい思い出となりました。荻上さんはじめ主催者のみなさん、古田先生、そして参加された全国の皆さんにお礼を申し上げます。


第818話 2014/11/08

初参加、八王子セミナー(実況同時記録)

 今日は八王子大学セミナーハウスでの「第11回古代史セミナー・古田武彦先生 を囲んで」に初参加しました。久しぶりにお会いする懐かしい方々と旧交を暖めることができました。古田先生のご子息の古田光河さん(ふるたこうが)や主催されている荻上紘一さん(大妻女子大学・学長)ともご挨拶することができました。ちなみに、光河さんは一目見て、先生のご子息とわかりました。参加者も 100名を超え、盛況です。
 古田先生の講演は「日本古代史新考自由自在・その七」と銘打たれ、資料に記された講演テーマは次の通りです。

(一)松本深志講演(十月四日)の展開
  「深志から始まった九州王朝」
(二)日本考古学界の「通説」について
  福永伸哉講演(2014.4.12)
  『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会刊(2005.8.10)(大冊)
(三)トマス・ペインの『コモンセンス』(1776)と“A serious thought ”(1775)辛辣な思想
(四)秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)
(五)宗教と国家の死滅 — 表裏一体の「天国と地獄」「神と悪魔」論
(六)真実と人間の誕生

 講演に先立ち、荻上さんのご挨拶があり、当セミナーが11回を迎えられたことは歴史的なことであり、最近、古田先生の学問が受け入れられつつあり、先生には少しでも長くご研究を続けてほしいと述べられました。司会進行も荻上さんが担当です。
 講演は朝日新聞社OBの茂山さんからのお手紙を古田先生が紹介され、戦後まもなく親鸞研究に入った理由「自分が生きていくうえで、いかに生きるべきか」の説明から始められました。
 次いで、古代史研究(『三国志』倭人伝)に入るきっかけとなった松本清張さんの『陸行水行』や『中央公論』連載の「古代史疑」との出会いを紹介されました。
 次に、大阪大学の福永伸哉さんの「三角縁神獣鏡」魏鏡説(倭国向け特鋳説。だから中国から出土しなくてもよい、とする珍説。これだとA国から出土しなくても何でもA国製とできる「万能の論理」。もちろん学問の「禁じ手」です。古田学派の皆さんは真似しないようにしてください。:古賀注)を紹介され、学問として成り立たないことを批判されました。三角縁神獣鏡は日本製であり、3世紀の日本列島を知る上で貴重な鏡てあるとされました。
 次に、『コモンセンス』の「厳粛な思い」に記された英国による残虐な植民地支配(東インド)を批判した部分を示され、トマス・ペインの思想性を評価されました。更に勝者(連合軍)が敗者(日本)を有罪にした「東京裁判」や靖国神社問題にも触れられました。あわせて、秋田孝季の素晴らしい思想性を評価さ れ、和田家文書が真作であることを強調されました。また、和田家文書の秋田孝季による天地創造についての文とその思想について紹介されました。
 最後に、京都府向日市寺戸の五塚原古墳(全長約90m、前方後円墳)の第5次発掘調査現地説明会資料を示し、古墳の下に弥生時代の何かがあり、それを壊してこの古墳が造られているとのことでした。おそらく、弥生時代の銅鐸による祭祀跡があったのではないかとされました。

 ここで先生がお疲れとのことで、一旦、休憩となりましたので、その間に懐かしい方々にご挨拶まわりしました(まるで古田学派の同窓会のようでした)。

 再開後、最初のテーマは考古学的事実(ピラミッド建設・壊された銅鐸など)の「解釈」(学問の方法)についてでした。天皇陵古墳などの下に何があったか。そこには銅鐸文化の祭祀跡・遺跡があるのではないかと、天皇陵古墳をその下まで発掘する必要性をうったえられました。そ の際、周濠の水も入れ替えて魚が住めるようにきれいにすべきとも述べられました。
 次いで、テーマは神籠石山城へと移り、神籠石山城に囲まれた地こそ、都にふさわしい場所であり、この神籠石山城の分布は九州王朝説でなければ説明できないと指摘されました。
 更にテーマはギリシア神話に及び、太陽神アポロはアテネから北西のオリンポス山に行ったのではなく、オリンポス山の真東に位置するトロイから出発したのではないかとされ、その「トロイ神話」をアテネが取り込み、ギリシア神話として書き換えたのではないかとする仮説を発表されました。これは九州王朝神話を 『日本書紀』が盗用したことと同じ現象です。なお、来年4月にはギリシア旅行が企画されており、古田先生も参加されます(別途紹介予定。平成27年4月1 日~8日、旅行費用約33万円)。
 博多と信州の地を結んでいる歌として、『古今和歌集』巻十七の次の歌を紹介されました。

 「をそくいづる 月にもある哉 あしひきの山のあなたも 惜しむべら也」(877)筑紫太宰府の歌
 「わが心なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て」(878)信州の歌

 『隋書』「イ妥国伝」の「有阿蘇山其石無故火起接天」の「火」は阿蘇山による自然の火ではなく(天然の火は「災」と表記 される)、人間が起こす「火」であり、神籠石での祭祀の場の火ではないかとされました。従って、「日出ずる処の天子」とは阿蘇山下の天子、九州王朝の天子 であると主張されました。
 「宗教と国家の死滅」のテーマでは、「天国と地獄」「神と悪魔」は相対概念であるとされ、宗教と国家には誕生と終わりがあるとする秋田孝季の思想を紹介されました。

 ここで質疑応答となり、先の『隋書』の文の後段に、その火を「俗以為異」(俗、もって異となす)と表現されているので、 人間による火ではなく、噴火の火ではないかとする質問が出されました。古田先生は噴火の火ではないと返答されました。この時点で、かなりお疲れのご様子で、心配です。
 邪馬壹国の邪馬はいわゆる「山」のことではなく、「国名」ではないかとの質問に対して、博多湾から筑後にいたる領域名と返答されました(このことは『「邪馬台国」はなかった』で、卑弥呼の居た中心領域の国名は「邪馬」国と既に説明されています:古賀注)

 ここで再度休憩となり、参加者が宿泊施設に入りました。わたしは荷物も少ないので、そのまま会場に残り、この執筆中の「洛中洛外日記」のチェック・校正を行いました。

 質疑応答が再開され、信州の八面大王の安曇野の住みかの名称が「神籠石の岩屋」とされていますが、九州と関係するのかという質問が出されました。古田先生は、九州と長野県に関連する名称と思われると返答。
 この後、以前に出されていた質問(複数)に対して回答されましたが、その中で『隋書』「イ妥国伝」に見える「秦王国」について、信濃のことではないかとする新たなアイデアを紹介されました。『日本書紀』天武紀にある「信濃遷都計画」記事について、九州王朝によるものではないかとされ、「秦王」も「シナノ」の音に近いことなどから、「秦王国」を信濃とする視点を得られたとのことでした。
 前期難波宮九州王朝副都説の是非についての質問に対し、今後検討しなければならない問題と回答されていたのが印象的でした。
 神籠石山城がいつ頃から建設が始まったのかという質問には、倭の五王の時代や多利思北孤の時代には有明海側からの防衛も必要になったと説明されました。
 平将門が神のお告げにより「新王」と称したとされていますが、これも九州王朝に淵源・関係するのではないかという質問に対し、面白いご意見なので深めてほしいと返答されました。
 その後は質問よりも「決意表明」や「意見発表」が続き、いろいろと考えさせられました。というところで、夕食の時間になりました。
 食後に古田先生の控え室にうかがい、『古代に真実を求めて』18集掲載用の古田先生へのインタビュー(古田・家永論争の思い出)の打ち合わせを行いました。光河さんや『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんも同席されました。

 午後7時からは「夜の部」の始まりです。入り口で缶酎ハイが参加者に配られ、いよいよセミナーも佳境に入るのかと思い、 気を引き締めました。各人のデスクの上にはお菓子も用意されており、初参加のわたしには驚くことばかりです。さすがに先生のお話をお酒を飲みながら聞くのは、わたしにはできませんでしたので、缶酎ハイはそのまま持ち帰ることにしました。

 「夜の部」では、倭人伝や親鸞研究についての最新情報の紹介から始められました。そして、秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)をテーマに講演され、和田家文書の寛政原本の調査発見について、現在は絶好のチャンスであると話されました。和田喜八郎さんの祖 父・長作さんが隠した寛政原本がどこかにあるはずで、それら寛政原本の本来の持ち主は総理大臣の安倍さんであると言えないこともないと指摘されました。和田家文書は秋田孝季が書いた「安倍文書」というべきものというのが、その理由です。つまり、三春藩の秋田家(安倍・安藤一族の子孫)が孝季に命じて安倍・ 安藤の歴史を綴らせた文書が「和田家文書」として現在まで伝わっているわけです。
 次のテーマは「紫宸殿」地名。「紫宸殿」「大極殿」などという地名は誰かが勝手につけられるものではないとされ、太宰府や愛媛県にある「紫宸殿」地名も歴史事実(九州王朝の実在)の痕跡とされました。
 「宗教と国家の死滅」をテーマとして、宗教にも国家にも始まりがあり、終わりがあるというのが秋田孝季の思想であり、これは正しいと思うと述べられまし た。そして、原水爆は人間が作ったものであり、国家がこれを使用できると考えられているが、これは間違っていると指摘されました。人間が作った宗教や国家に、原水爆や原発で人間を殺す権限が与えられているとは思えないとされました。もはや人類は戦争をできる時代ではないと主張され、宗教や国家が原水爆や原 発を自由に作ってもよいという思想はもはや時代遅れと述べられました。
 更に先生の思考は深く深く進まれ、地獄に落ちる方法を考えているうちに、天国と地獄、神と悪魔とかの概念は本来同じもの、表裏一体ではないかと考えるようになったとのこと。

 以上で先生の講義は終わり、質疑応答が再開されました。安藤昌益と和田家文書の思想は共通しているように思うが関係はないのかという質問が出され、両者が知り合いであったという直接的な証拠は見ていないが、関係はあると考えられると返答されました。
 炭素同位体年代測定に関する新知見はないかという質問には、稲作の年代測定で博多湾岸や松浦半島が古く、次いで高知県足摺近辺が古く、その後に大和が古いとなっていることが紹介されました。なぜ足摺近辺が古いのか不明とされているが、古田説では足摺が倭人伝に見える侏儒国とされ、このことと無関係ではないと説明されました。

 午後8時30分になり、ようやくセミナーは終了となりました。古田先生がお疲れになられたのではと心配しましたが、無事お開きです。連日の出張で、わたしも疲れましたが、ご高齢の古田先生のお姿には改めて深く感銘しました。
 その後、門限の10時までラウンジで多元的古代研究会の皆さん、古田史学の会・四国や関西の皆さんと古代史論議を続け、とても楽しく貴重な時間を過ごすことができました。文字通り「古代史自由自在」の一日でした。これから、お風呂に入り就寝します。


第817話 2014/11/07

姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)

 昨日は仕事で高松市に行きました。よい機会でしたので、当地の会員の方と夕食をご一緒しました。古代史研究や「古田史学の会」の将来構想など、様々な話題で盛り上がりました。
 お隣の愛媛県越智郡朝倉村にある後代「九州年号(白鳳)」金石文について話していたとき、石材についても話題となり、高松市から庵治石(あじいし)とい う良質な石材が出ることを西村秀己さんから教えていただきました。その庵治(あじ)という地名を知り、わたしが気になっていた問題を開陳しました。それは、瀬戸内海地方に姫路とか淡路という「○○じ」という地名があり、もしかすると末尾の「じ(ぢ)」は共通の意味を持っているのではないかというものです。高松市にも庵治(あじ)という地名があることを知り、ますますそのことが気になったのです。
 わたしのアイデアとしては、この「じ(ぢ)」は、古い時代の神を意味する「ち」が濁音になったのではないかと考えています。ですから、大阪の河内や高知、東かがわ市の大内(おおち)の「ち」も古い時代の神のことではないかと思います。このアイデア(思いつき)が正しければ、瀬戸内海や四国に「じ」「ち」を末尾に持つ地名はもっとあるのではないかと思います。
 ただし、このアイデアは西村さんからは賛成を得られず、今後の検討テーマとなりました。それでも、とても楽しい高松市での一夕でした。


第811話 2014/10/26

山崎信二さんの「変説」(1)

 学問研究において自説を変更することは悪いことではありません。ただしその場合、何故「変説」したのかという説明責任と、「変説」の結果、より真実に近づくということが不可欠です。
 いきなりなぜこんなことを言い出すのかというと、「洛中洛外日記」808話の『「老司式瓦」から「藤原宮式瓦」へ』で山崎信二さんの『古代造瓦史 −東アジアと日本−』(2011年、雄山閣)で、次のように主張されていることを紹介しました。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突 然一斉に変化するのである。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生 じたことは間違いないところである。」
 「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。(中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」

 このように山崎さんは瓦の製作技法の突然の一斉変化の方向が「大和から筑前へ」と、根拠を示さずに断定されていました。 ところが、昨日、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)からメールが届き、山崎さんは本来「筑前から大和へ」説だったはずで、九州王朝説に有利なこのような説を発表して差し支えないのだろうかと思っていた、という趣旨が記されていました。添付されていた資料によると、たしかに以前は山崎さんは次のように発表されていました。

「藤原宮軒瓦と老司式軒瓦の年代
 それでは、藤原宮軒瓦と筑前・肥後の老司式軒瓦のどちらが古く遡るのであろうか。(中略)
 決定的な資料はないが、以上のように、一般的には老司式が藤原宮の軒瓦のうち古い様相をもつものと共通点が多いことが指摘できる。これは老司式軒瓦の最も初期のものが、藤原宮軒瓦の最も初期のものと同時期か、それより若干遡る可能性を考えさせる。
 老司式軒瓦のうち最古のものは筑前観世音寺出土のものであろうが、(中略)
 このようにみると、九州の老司式軒平瓦と藤原宮軒平瓦の文様の使い分けは、九州の老司式軒平瓦の文様(6640)がすでに存在していたので、その文様を避けて藤原宮軒平瓦の文様(6641・6642・6643)を選択したと考えた方がよいだろう。観世音寺と藤原宮の造瓦において、文様・作製技法を含む技術的な交流がなければ、以上のような相互関係は成り立ち得ないだろう。(中略)
 即ち、老司式と藤原宮の瓦の相互関係については、まず観世音寺造瓦にたずさわった工人の一部(この工人は大和を経由して招来された可能性がある)が、藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ移動した場合が想定できる。」(p.265-267)
 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『奈良国立文化財研究所創立40周年記念論集 文化財論叢II』所収(同朋舎出版、平成7年・1995年)

 このように1995年時点の論文では「藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ」と工人の移動を「筑前から大和へ」とされており、藤原宮式よりも観世音寺創建瓦(老司1式)のほうが若干古いとされていたのです。ところが2011年発刊の『古代造瓦史 −東アジアと日本−』では「大和から筑前へ」に「変説」され、「老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期」と微妙に表現が変化していたのです。1995年から 2011年の間になにがあったのでしょうか。山崎さんの論文等をすべて読んだわけではありませんが、わたしには思い当たることがありました。(つづく)