史料批判一覧

第3107話 2023/09/08

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)

 今回は古代史から離れて、地震学者の羽鳥徳太郎さんについて紹介します。羽鳥徳太郎さん(1922~2015年)は東京大学地震研究所で活躍された歴史地震学者で、古田先生と同世代の方です(注①)。専門は歴史津波・津波工学とのこと。和田家文書の研究をしていて、偶然、羽鳥さんのことを知りました。
なお、東大の地震研究所とは、少々御縁があります。古田先生が立ち上げた国際人間観察学会(注②)の会報「Phoenix」No.1(2007)を、同研究所に所属する津波歴史地震研究室で発行していただいたことがあります。同誌には拙論「A study on the long lives described in the classics」を掲載していただきました。同稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する研究で、「古田史学の会」ホームページに採録されていますので、ご覧下さい。

 羽鳥徳太郎さんは、フィールドワークや地方の津波伝承などを重視するという学風で、それは古田先生の研究スタイルと同じです。その羽鳥さんの格言がWEB上の「思則有備」(同①)で紹介されていましたので、転載します。

 羽鳥徳太郎(1922~2015 / 歴史地震学者・元東京大学地震研究所)の「歴史津波に学ぶ」記事の名言 [今週の防災格言554]
「いつ起こるかわからない自然災害の備えには、まず、先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史を知り、教訓を引き出し、これを伝承することだ」(注③)

 この格言を羽鳥さんは自ら実行し、「先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史」の一つとして『東日流外三郡誌』を論文に紹介されました。(つづく)

(注)
①羽鳥徳太郎氏の研究業績と略歴(「思則有備」より。https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-715)。

 津波規模階級mを提案するなど、生涯にわたり一貫して歴史津波と津波被害の調査・研究を行った人物。特に、北海道の奥尻島に20mの大津波が襲い、対岸の渡島半島の町村にも津波が襲来し、230人が亡くなった北海道南西沖地震(1993年)の発生前となる1984(昭和59)年に、過去に日本海側で起きた津波の発生年や地理的分布や規模を元にその危険性を指摘。また、東北の太平洋沿岸を襲った歴史津波である貞観地震(869年)や慶長三陸地震(1611年)が、東日本大震災(2011年)に匹敵するほどの「最大級の大津波だった」ことを1975(昭和50)年に初めて論文で報告したことでも知られる。

 1922(大正11)年東京生まれ。

 1941(昭和16)年、東京大学地震研究所に入り、高橋竜太郎研究室で津波研究に従事。

 1944(昭和19)年、旧制東京高等工業学校機械科(夜間)を卒業。戦時召集され近衛歩兵第三連隊で終戦を迎え、戦後は地震研究所に戻り研究を続けた。昭和南海地震(1946年)、チリ地震津波(1960年)、新潟地震(1964年)、十勝沖地震(1968年)など各地をまわって津波の現地調査を行い、日本各地の津波の到達時間や波源域図をまとめた。

 1954(昭和29)年技官、1964(昭和39)年助手、1974(昭和49)年講師となり

 1983(昭和58)年東京大学地震研究所を停年退官。退官後も歴史地震の津波調査を続け、亡くなるまで研究を続けた。

 2015(平成27)年12月6日、埼玉県川口市で逝去。93歳。

②国際人間観察学会は古田先生による命名で、会長は百瀬伸夫氏、副会長は荻上紘一氏、特別顧問が都司嘉宣氏。

③「思則有備」に〝格言は読売新聞(1993(平成5)年8月7日夕刊)の記事「高角鏡:『歴史津波』に学ぶ」より〟と紹介されている。


第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3105話 2023/09/05

好太王碑文の「從抜城」の訓み (2)

 好太王碑文中の「從抜城」の訓みについて、通説では固有の城名と見られているようで、『好太王碑論争の解明』(注)でも同様の釈文が採用されています。碑文第二面の次の文です(便宜的に句読点を付し、改行しました)。

十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。

 文法的には「任那加羅の從拔城に至れば、城はすぐに歸服した。」と読めますので、「從拔城」を固有名とする理解が成立します。他方、「從」を「より」、「拔城」を「城を抜く」の意味もあり、その場合、どのように読めばよいのか難しいところです。文法的には固有名として読む方が穏当ですが、城の名前として「從拔城」などとネガティブな命名をするだろうかとの疑問も抱きました。そこで、碑文中の全ての城名を確認したところ、「敦拔城」「□拔城」(第二面)という名前の城がありました。したがって、「從拔城」も同様に固有名と考えてもよいようです。

 なお、城名にネガティブな漢字(卑字)が使用されていることについては、攻略した百済などの城に対して卑字使用が高句麗側によりなされたと考えることもできそうです。なぜなら次のように卑字の「奴」を持つ城名があり、あるいは「仇天城」などという物騒な城名も碑文にあるからです。ちなみに、碑文では百済のことを「百殘」「奴客」と記しており、あきらかに高句麗側による卑字使用(書き変え)が認められます。

○「豆奴城」(第一面)
○「閨奴城」「貫奴城」(第二面)
○「巴奴城」(第三面)
○「豆奴城」「閏奴城」(第四面) ※第一、二面の「豆奴城」「閨奴城」と同じ城と思われる。

 以上の考察から、「從拔城」は固有名と考えた方が妥当との結論に至りました。「多元の会」のリモート研究会では〝固有名とは考えにくいのではないか〟と発言しましたので、ここに訂正させていただきます。

 なお、通説の読みでも「至任那加羅從拔城」は難解です。なぜなら、「從拔城」が任那にあるのか加羅にあるのか、わかりにくいからです。この点、今後の課題です。

(注)藤田友治『好太王碑論争の解明』新泉社、1986年。314頁。


第3104話 2023/09/04

『古代に真実を求めて』CiNii認定の重み

 昨日は和田家文書研究のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)と宇治に行きました。約40年ぶりの宇治でしたので、懐かしさとともに、京阪宇治駅や宇治橋付近の光景が一変しており、時の流れを感じました。
日野さんとは、学問研究や古田史学の会についての話に終始しました。その中で日野さんから、今まで意識してこなかった重要な問題を指摘されました。それは「古田史学の会」の論集『古代に真実を求めて』が、国立情報学研究所が運営している「CiNii Research」に学術誌として認定登録されているということでした。CiNii(サイニィ)に登録されているということは、学術研究誌として日本国家の認定を受けていることを意味し、それは得がたい待遇であるとのこと。たしかに、研究者や学生が自らの研究分野の関連研究や先行論文を検索する際、CiNiiを利用するのは、そのような国立情報学研究所のお墨付きを得ている書籍・論文であるからです。

 日野さんの指摘は更に続きます。〝したがって、『古代に真実を求めて』の掲載論文はCiNiiの登録認定を維持するために、それにふさわしい学問研究水準を維持し続けなければならず、もし認定取り消しとなったら、古田学派にとって大きな損失であり、社会科学系出版社としての評価を得ている明石書店にも迷惑(ブランド毀損)をかけることになる〟とのこと。

 今まで、そのような視点や意識で『古代に真実を求めて』を編集してこなかったのですが、言われてみればそのとおりです。日野さんのような、大学で国史を専攻した研究者にとっては、そうした認識でCiNiiを利用してきたのですから、常識だったのでしょう。日野さんの指摘には、深く考えさせられました。

 ウィキペディア(Wikipedia)によれば、CiNiiには次の三つの分類があり、『古代に真実を求めて』は最も権威が高いとされる「CiNii Research」に登録されています。なお、この認定は『古代に真実を求めて』掲載論文にも適用されており、CiNii Researchにより検索できます。

【ウィキペディアから抜粋】
CiNii(サイニィ、NII学術情報ナビゲータ、Citation Information by NII)は、国立情報学研究所(NII、National institute of informatics)が運営するデータベース群。各種文献に加えて研究データやプロジェクトを検索できる「CiNii Research」、大学図書館の総合目録データベース「CiNii Books」、博士論文データベース「CiNii Dissertations」の3つからなる。
○CiNii Research 日本国内の雑誌・大学紀要の記事情報、研究データ、プロジェクト等の情報
○CiNii Books 主に日本国内の大学図書館等の蔵書の書誌情報・所蔵情報
○CiNii Dissertations 日本国内の博士論文
【転載終わり】

 国立情報学研究所(NII)のサイトには、CiNiiについて次の解説があります。

〝CiNiiについて
CiNii(NII学術情報ナビゲータ[サイニィ])は、論文、図書・雑誌や博士論文などの学術情報で検索できるデータベース・サービスです。どなたでもご利用いただけます。
「CiNii Research」では、文献だけでなく研究データやプロジェクト情報など、研究活動に関わる多くの情報を検索できます。
「CiNii Articles – 日本の論文をさがす」は、2022/4/18にCiNii Researchに統合されました。
「CiNii Books – 大学図書館の本をさがす」では、全国の大学図書館等が所蔵する本(図書・雑誌)の情報を検索できます。
「CiNii Dissertations – 日本の博士論文をさがす」では、国内の大学および独立行政法人大学評価・学位授与機構が授与した博士論文の情報を検索できます。〟【転載終わり】

 わたしの学生時代とは比較にならないほど、研究環境が進化しています。企業研究時代(化学分野)でも、30年ほど前は紙の特許明細や先行論文を書庫から引っ張り出して、人海戦術で読んだものです。

 近年は、古代史研究に〝素人〟でも参入しやすくなったと同時に、市場にあふれ出した玉石混淆の書籍や論文を見極める力量も必要となりました。そうした中で、古田史学・古田学派を代表する論文集『古代に真実を求めて』を編集・発行したいと思います。


第3103話 2023/09/02

好太王碑文の「從抜城」の訓み (1)

 昨日、リモート参加した多元的古代研究会主催の研究会で、高句麗好太王碑(注①)碑文中の「從抜城」の訓みについて議論が交わされました。同碑文には多くの城名が記されていますが、『好太王碑論争の解明』(注②)によれば、碑文中の頻出文字は次のようです。

  文字 出現数 全文字中の率
1  城  108 6.61%
2  烟   71 4.35%
3  看   47 2.88%
4  王   32 1.96%
5  國   27 1.65%

 出現数の根拠や計算方法について、著者(藤田友治さん・故人)が次のように説明しています。

 「王健軍氏の釈文を基にすれば、全文字は一七七五文字である。そのうち欠け落ちてしまって判読できない文字一四一を引いた文字中に占める頻出文字」

 著者の藤田さんは、1985年に吉林省集安の好太王碑を古田先生らとともに現地調査しており、この数値の信頼性は高いと思います。その碑文の第二面末に次の文があります。便宜的に句読点を付し、改行しました。

十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。

 この部分は、通常、次のように読まれています。

 「十年庚子(340年)。のりて、步騎五萬を遣わし、往って新羅を救わせる。男居城より新羅城に至る。倭はその中に満ちていた。官軍(步騎五萬)がまさに至ると、倭賊は退いた。[□□□□□□□□□背急追]任那加羅の從拔城に至れば、城はすぐに歸服した。」

 同碑文の用例としては、「從」は「~より」の意味で使用されており、「抜城」は『三国史記』では「城を抜く」(城を攻略する)の意味で使用されています。例えば次の用例があります。

○跪王、自誓、從今以後、永為奴客 (王にひざまずき、みずから「今より以後、永く奴客となる」と誓う)《碑文第一面》
○從男居城至新羅城 (男居城より新羅城に至る)《碑文第二面》

○南伐百済抜十城 (南、百済を伐ち、十城を抜く)『三国史記』高句麗本紀第六 広開土王

 しかし、通説ではこの記事中の「從拔城」を城の固有名としているようです。(つづく)

(注)
①好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑。広開土王碑とも言われる。中国吉林省集安市に存在し、高さ約6.3m・幅約1.5mの石碑で、四面に計1802文字が刻まれている。
②藤田友治『好太王碑論争の解明』新泉社、1986年。291頁


第3102話 2023/09/01

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (6)

 喜田貞吉の、明治から昭和にかけての次の三大論争は、その当否とは別に重要な学問的意義を持っています。

Ⅰ《明治~昭和の論争》 法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》    「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》 藤原宮「長谷田土壇」説

 喜田の三大論争のうち、真の意味で決着がついたのは、古田先生が参画したⅡ「教行信証」論争だけのように、わたしには見えます。それらの概略は次の通りです。

Ⅰ. 法隆寺論争は、昭和14年の若草伽藍の発掘調査で火災跡が発見されて、喜田の再建説が通説となった。再建問題では喜田指摘の「勝利」だが、西院伽藍が古いとする建築史学の指摘は、五重塔心柱の年輪年代で復活。真の決着はついていない。米田説(移築説)が有力。

Ⅱ.『教行信証』は親鸞自筆坂東本(東本願寺蔵)の筆跡調査により、親鸞真作が確かめられた。「今上」問題での喜田指摘は有効だったが、古田先生の科学的筆跡調査(デンシトメーター)により、親鸞〝無学の坊主〟説は「惨敗」。

Ⅲ. 藤原宮論争は大宮土壇説(出土事実)で決着したわけではない。真の論争はこれから。なぜなら〝大宮土壇では京域の南東部が大きく香久山丘陵に重なり、条坊都市がいびつな形となる〟とする喜田の指摘は今でも合理的だからだ。

 それぞれの論争に深い学問的意義、特に「学問の方法」において示唆や教訓が含まれています。何よりも喜田の文献(執筆者の意図・認識)を尊重する史学者の良心と、文献を軽視する姿勢(注)への批判精神は、古田先生の学問精神に通じるものを感じます。(つづく)

(注)たとえば「偽書説」など、その主観的な定義を含めて〝文献を軽視する姿勢〟の一種と見なしうる。これは文献史学における重要な問題であり、別に詳述する機会を得たい。


第3101話 2023/08/31

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (5)

 〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田の指摘を受けて、『教行信証』成立時代やその前後の文献の悉皆調査により、「今上」とはその記事が書かれたときの天皇であることを実証的に古田先生は確認しました。続いて、親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の科学的調査を実施。それは、墨の濃淡をデンシトメーター(Multiplier Photometer)で数値化し、筆圧曲線による筆跡の異同や、同一人物の年齢による筆跡変化をも確認するという、当時としては画期的な手法でした(注①)。

 この科学的な筆跡調査の結果、『教行信証』が撰述されたのは元仁元年(1224)、親鸞五二歳のとき。総序中の「今上」記事は、土御門天皇の承元元年(1207)~承元五年(1211)、親鸞が三五歳から三九歳に当る越後流罪中に書いた自らの文書を『教行信証』撰述時に書き写したとする結論に至りました。

 古田先生による、「今上」の〝悉皆調査〟と、デンシトメーターを用いた筆跡の科学的調査により、大正時代から続いた『教行信証』論争に終止符を打つことができたのでした。この古田先生の学問の方法や著作は、日本思想史学における研究レベルを異次元の高みに引き揚げたもので、後継の若い研究者にも大きな影響を与えました(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦「第二節 坂東本の史料科学的研究」『親鸞思想 その史料批判』冨山房、1975年。
②佐藤弘夫(東北大学教授)「古田先生を悼む」『古田武彦は死なず』(明石書店、2016年)に次の記事が見える。佐藤氏は日本思想史学会々長(当時)で東北大学の古田氏の後輩にあたる。
〝私が古田武彦先生のお仕事に初めて接したのは、一九七五年五月に刊行されたご著書『親鸞思想 その史料批判』(冨山房)を通じてでした。当時、私は東北大学文学部日本思想史研究室の四年生で、翌年の卒業を控えて卒業論文の準備に取り組んでいました。テーマが日蓮を中心とする鎌倉仏教であったため、関係ありそうな文献を乱読しているなかで『親鸞思想』に巡り合ったのです。(中略)
ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈着していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。――『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこのご本を通じて知ることができたのです。〟


第3100話 2023/08/29

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (4)

 親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の研究により、「教行信証は親鸞の真作ではない」とした喜田の仮説(親鸞「無学の坊主」説)は否定されました。しかし、〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田指摘の論理性は有効です。この「今上」問題に決着をつけたのが、古田先生の論証と実証的研究方法でした。

 「何代も前の天皇を、今上などと呼ぶはずはない」の当否を検証するために、古田先生は『教行信証』成立時代やその前後の文献を片っ端から調査され、「今上」や「今」という言葉がどのような意味で当時の人々が使用していたのかを確認されたのです。そのときの様子を次のように述懐しています。

〝それでは、事実で確かめてみよう。わたしはたくさんの文書や文献にとりくんだ。そこに「今、今、今……」。「今」という文字を、ことばを、際限もなく追いつづけた。しかし、そのおびただしい用例のすべて、「今」とは、何の疑いもなく、「現在」のことだった。その文章を書いているときの「現在」、そのことばをいっているときの「現在」。それ以外の「今」は、ついにどこにも発見できなかったのである。

 この点、宗教家でも同じだった。親鸞とほぼ同時代の道元の場合もそうだ。かれの代表作『正法眼蔵』をしらべると、かれのことを「今の思想家」といいたくなるほど、「今」ということばを、たくさん使っている。全部で四九五個もあった。しかし、その全部が、文字通りの「現在」のことなのである。具体的な「今」の行為、生活にうちこむ人間の姿。それが、実は永遠の意義を帯びているのだ。この当然の道理を、道元は、くりかえしくりかえし説ききたり、説き去って、あきることがないのである。

 親鸞の場合もそうだ。手紙全部の中で、二十二個。和文著述の中で十九個。漢文著述(『教行信証』をのぞく)の中で七個。和讃の中で十個。『教行信証』の中に一二七個の「今」が使われている。そのすべてを一つ一つ確かめていったところ、その全部が「現在」のことなのである。もちろん、その「今」がどれぐらいの長さの時間をさしているかは、まちまちだ。「末法」にはいってからの、六百年以上の年月をふくむことも、できるのである。しかし、それもズバリ「現在」を起点(中心)にしてのことである。二十年前の、過去のある年を起点にした「今」などという用法は、親鸞以前にも親鸞以後にも、親鸞自身にも、まったくないのである。

 わたしの気の遠くなるような大量の「今」の探索の結果、「今とは現在のことである。」という単純明快な真理に到達した。わたしが疲れたあまり、多生いまいましい気持ちになったとしても、きみたちは同情してくれるだろうか。〟(注①)

 〝この疑問をいだいたわたしは、親鸞以前、親鸞と同時代、親鸞以後、そして親鸞の全文献の中から、極力「今上」の話を渉猟した。六国史、皇代記類、史論類、歴史物語類である。そしてその結果は、単純な帰結をしめした。(歴史物語類の「歴史的現在」の事例を除き)、“「今上」とは、「執筆時の現在の天皇」を指す”という一事である。〟(注②)

 ここに見える古田先生の文字や熟語の〝悉皆調査〟こそ、後の『「邪馬台国」はなかった』で駆使した、『三国志』全文からの「壹」と「臺」の全調査という、当時の古代史学界を驚愕させた学問の方法の先行例だったのです。この親鸞研究における「今」「今上」の〝悉皆調査〟の経験こそが、古田史学を創立せしめた一つの重要な要因だったと思われます。そしてこれは、批判精神の塊であった喜田でさえも執り得なかった、あるいは思いもよらなかった学問の方法です。まさに、古田先生が喜田を越えた瞬間、といっては、天才歴史家喜田貞吉に失礼でしょうか。

 しかし、『教行信証』論争における、古田先生の先進的な学問の方法は、これにとどまりませんでした。(つづく)

(注)
①古田武彦『親鸞 人と思想』清水書院、1970年。130~131頁。
②古田武彦「家永第三次訴訟と親鸞の奏状」『市民の古代』増補版 第2集、市民の古代研究会編、1984年。『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)に収録。


第3099話 2023/08/24

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (3)

 喜田貞吉のショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説)は、親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の研究により葬り去られました。しかし、〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田指摘の論理性は有効です(注①)。この喜田の学問の方法は、後の法隆寺再建論争のときの主張と同類のものです。

 『日本書紀』天智十九年条(670年)に、「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」と書かれていることを根拠に、喜田は〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟と主張しました。文献史学の視点からは、この意見はもっともなものです。しかし当時は、現存する法隆寺(西院伽藍)の建築様式や佛像などが古い時代のものであるとする、建築史や仏教美術史の立場による実証的な非再建説が有力で、『日本書紀』の記事は干支一巡(670年→610年)間違っているのではないかと反論されました。すなわち、720年に成立した『日本書紀』に記された、その50年前の火災記事よりも、現存する法隆寺という物証が優先するという反対論が説得力を有していたのです。ところが若草伽藍の火災跡出土により、同論争の趨勢は逆転し、喜田の再建説が通説となりました。これは文献史学による論証が、建築史などによる実証的な根拠(西院伽藍の年代)を覆したケースです(注②)。

 今回紹介した『教行信証』の「今上」問題も、何代も前の天皇を「今上」とはいわない、とする喜田の主張は、燃えてもいない寺を燃えてなくなったなどと書く必要がない、とする論証方法と同じ学問の方法なのですが、その結論「教行信証は親鸞の真作ではない」は、親鸞自筆『教行信証』坂東本の筆跡調査という実証的研究により否定されました。

 喜田の批判精神は、同じ学問の方法を駆使したにもかかわらず、後の法隆寺再建論争とは真逆の結論に至ったのです。これはとても興味深い現象です。この問題に決着をつけたのが、古田先生の論証と実証的研究方法でした。(つづく)

(注)
①喜田よりも早く「今上」問題の核心を表明した論稿がある。長沼賢海氏が『史学雑誌』に連載した「親鸞聖人論」(明治43年)だ。別述したい。
②喜田の再建説で一旦は決着がついた法隆寺論争だが、その後、より根源的な問題(年輪年代測定による五重塔心柱の伐採年が594年)が発生した。この点、後述する。


第3098話 2023/08/23

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (2)

 喜田貞吉氏の研究分野は日本古代史をはじめ考古学や郷土史など広い分野に及んでいます。なかでも法隆寺の再建・非再建論争は日本古代史研究において有名な論争でした。本シリーズにおいて後述します。

 他方、親鸞研究においても喜田はショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説、注①)を提起し、大正時代に大論争を巻き起こしています。それは『教行信証』に関するもので、最終的には古田先生の研究により決着したというテーマでした。『教行信証』は親鸞の代表作の一つで、生涯にわたり手元に置いて添削し抜いた親鸞思想を表現した一書です。ところがこの『教行信証』を偽作とする説を喜田貞吉が発表し、熾烈な論争が行われたのです。この背景と当時の状況を古田先生は次のように綴っています(注②)。

 〝親鸞の主著、ライフワークをなす著述、それは「教行信証」である。その書には、三つの序文がある。総序、信巻序、後序だ。いずれにも、幾多の問題が存在したが、中でも殊に奇妙な「矛盾」があったのは、総序中の「今上」の一語である。

号土御門院
今上〈諱為仁〉聖暦承元丁卯歳仲春(下略)

 右で「今上」と呼ばれているのは、土御門天皇だ。在位期間は「一一九八(三月)~一二一〇(十一月)」である。年号は、正治・建仁・元久・建永・承元と経緯している。最後の「承元」の場合、「承元元年(一二〇七)十月二十五日~承元五年(一二一一)三月九日」の間である。したがってこの期間内であれば右の「今上――承元」の表現が成立しうるのである。

 ところが、これは親鸞三十五歳から三十九歳に当る。越後流罪中だ。だが、こんな時期に「教行信証」が撰述された、と考える論者はまずいない。江戸時代以来、元仁元年(一二二四)、親鸞五十二歳の成立とされてきた(わたしも、これを再論証した)。(中略)

 実はこの点、大正十一~十二年の間に、熾烈な論争が行われた。提起者は、のちに法隆寺再建論争で有名となった喜田貞吉。もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前(「元仁」は後堀河天皇。土御門――順徳――仲恭――後堀河。晩年は、四条、後嵯峨、後深草、亀山の各天皇)の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。したがって教行信証は親鸞の真作に非ず、という、驚くべき帰結を提示したのであった。

 これに対して本願寺系等の各学者は怒り、こぞってこれを攻撃した。その烈しい論争の中で、喜田は“親鸞は無学。代作者に依頼して本書を書いてもらったのであろう”とし、その代作候補者の名前まであげるに及んで、彼の立場は一種グロテスクな色合いさえ帯びたのであった。〟※〈〉内は細注。

 こうした論争が続き、その後、親鸞自筆の坂東本『教行信証』(東本願寺蔵)の研究が進み、喜田の憶説は葬り去られました。しかし、その立論の発起点たる「今上」問題そのものは解決されたわけではありませんでした。ここに喜田貞吉の批判精神と学問の方法が見えてきます。(つづく)

(注)
①古田武彦「現代との接点を求めて Ⅰ晩年の親鸞」『わたしひとりの親鸞』(明石書店、2012年)による。「晩年の親鸞」部分の初出は『伝統と現代』39号、1976年。
②同「家永第三次訴訟と親鸞の奏状」『市民の古代』増補版 第2集、市民の古代研究会編、1984年。『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)に収録。


第3097話 2023/08/22

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (1)

  日本古代史の研究者やファンなら、喜田貞吉の名前を聞いたり読んだことがあると思います。わたしもこの名前を何度も目にしましたし、法隆寺再建・非再建論争では、文献史学の立場から再建論を唱えたことで有名です。ちなみに、わたしは「喜田貞吉」をずっと「きだ ていきち」と読んでいたのですが、ウィキペディアによれば「きた さだきち」で、次のように紹介されています。

〝喜田貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日)~1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。
経歴
現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵(注①)や黒板勝美(注②)と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。(中略)

 その後同大学で講師を務め、1909年(明治42年)に「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得た。(中略)
1913年(大正2年)から京都帝国大学専任講師、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで教授。同年、前年に設置されたばかりの東北帝国大学国史学研究室の講師となり、古代史・考古学を担当。(中略)
仙台市にて69歳(昭和14年)で没する。〟

 この「経歴」によれば喜田は徳島県出身で、晩年は草創期の東北帝国大学(国史学研究室)でも教鞭をとったとありますので、大正13年に同大学法文学部の教授となり、日本思想史科を開設した村岡典嗣先生(1884・明治17年~1946・昭和21年、注③)の〝同僚〟ということになります。古田先生は昭和20年に東北大学に入学されたので、昭和14年に没した喜田貞吉との面識はありません。(つづく)

(注)
①内田銀蔵(1872~1919年)。日本経済史学の先駆者。古田先生らと立ち上げたプロジェクト貨幣研究(1999~2000年)では、内田銀三「日本古代の通貨史に関する研究」(『日本経済史の研究』上巻収録)を研究資料として採用した。
②黒板勝美(1874~1946年)。歴史学者で専門は日本古代史、日本古文書学。「国史大系」の編纂者として著名。
③村岡典嗣先生の略歴。
明治17年(1884)9月18日東京で誕生。
明治39年(1906)早稲田大学哲学科卒業。
明治41年(1908)独逸新教神学校卒業。
明治44年(1911)『本居宣長』上梓。
大正9年(1920)広島高等師範学校教授に就任。
大正13年(1924)東北帝国大学法文学部教授となり、日本思想史科を開設。
昭和20年(1945)古田武彦先生が東北帝国大学法文学部日本思想史科に入学(岡田甫先生の薦めによる)。
昭和21年(1946)定年退官。
昭和21年(1946)4月13日没。享年61歳。


第3082話 2023/07/28

王朝交代の痕跡《木簡編》(1)

 ―「評」木簡から「郡」木簡へ―

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』27集の特集テーマが「王朝交代」であることから、701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡を、エビデンスベースで捉え直す作業に取り組んでいます。その最初の仕事として、木簡に見える王朝交代の痕跡について改めて検討しました。

 出土木簡が決め手となり、一応の〝決着〟がついた古代史研究で著名な郡評論争ですが、一元史観の通説では、単なる行政単位の名称変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)が701年を境に大和朝廷によりなされたと説明しますが、古田先生は九州王朝から大和朝廷への王朝交代による行政単位の一斉変更としました。

 金石文や木簡などに記された行政単位の評が、701年(大宝元年)からは郡に変更されていること自体は出土木簡により実証的に証明されたものの、通説ではその理由の説明ができませんでした。ところが、古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説による王朝交代という概念の導入によって、行政単位変更の理由が説明可能となったわけです。この木簡に遺された行政単位の全国一斉変更こそ、王朝交代の代表的なエビデンスということができます。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれだけではありません。(つづく)