古賀達也一覧

第2720話 2022/04/14

万葉歌の大王 (8)

 ―「遠の朝庭」と「筑紫本宮」―

 本シリーズの発端となった人麿の歌「大王の遠の朝庭(みかど)」(注①)について、わたしは次のように理解しました。

(ⅰ) 「朝庭」を筑紫の朝庭とする古田先生の理解(注②)は正しい。
(ⅱ) 「大王」は「遠の朝庭」(太宰府)から遠く離れた地にいる。
(ⅲ) 「大王の遠の朝庭」とあるからには、「遠の朝庭」は「大王」の「朝庭」である。
(ⅳ) この歌の時代が七世紀であれば、「大王」も「遠の朝庭」も九州王朝(倭国)のことと考えざるを得ない。
(ⅴ) 八世紀の歌であれば大和朝廷の「大王」(天皇)のこととなるが、筑紫(太宰府)に大和朝廷が自らの「朝庭」を置いたことはない。
(ⅵ) 従って、「遠の朝庭」は筑紫にある九州王朝の「朝庭」のことであり、「大王」は九州王朝の天子であり、このとき筑紫から遠くはなれた〝近つ朝庭(みかど)〟とでも言うべき所に九州王朝の「大王」(天子)はいたと考えられる(注③)。
(ⅶ) 以上ような、この歌の解釈に整合するのが九州王朝の両京制(注④)という概念である。

 この両京制の両京とは、筑紫太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)のことですが、朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡後は太宰府(倭京)と藤原京になるのかもしれません。ここで思い起こされるのが、「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟などで紹介(注⑤)した『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」〈古賀訳〉

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としています。
 また、ここに見える「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記であり、「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えました。しかし、「本宮」に対応するのは「新宮」とした方がよいことに気づきました。たとえば、「本薬師寺」と「新薬師寺」のようにです。七世紀前半(九州年号の倭京元年、618年)に造営された太宰府条坊都市(倭京)が「筑紫本宮」であれば、七世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)に造営された前期難波宮(難波京)を「難波新宮」とするのは極めて妥当です。
 なお、この両京制は、首都とその代替・予備都市としての副都というよりも、権威の都(倭京・筑紫本宮)と権力の都(難波京・難波新宮)のように、評制による全国統治のための機能分離によるものとわたしは理解しています。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻三 304
 大君(大王)の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
[題詞] 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文] 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」、「近つ淡海」「遠つ淡海」のように、「遠」に対応するのは「近」であることから、「遠の朝庭」に対応するのは「近つ朝庭」である。すなわち、「近つ朝庭」の存在がなければ、「遠の朝庭」という表現は成立し難いのではあるまいか。
④古賀達也「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(1)~(10)〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 同「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 同「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2719話 2022/04/13

万葉歌の大王 (7)

 ―八世紀の「大王」と「天皇」―

 万葉歌には「天皇」が使用されている歌があります。次の人麿の歌です。題詞によれば、日並皇子(草壁皇子)が亡くなったときに詠んだもので、持統三年(689)のことになります。

【『万葉集』巻二 0167】(注①)
 天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろき(天皇)の 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が君(王) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]

「すめろきの 敷きます国」の原文は「天皇之 敷座國」です。また、「飛ぶ鳥の 清御原の宮に」(飛鳥之 浄之宮尓)とありますから、大和の飛鳥が歌の舞台です。更に「高照らす 日の御子」(高照 日之皇子)や「我が大君 皇子の命」(吾王 皇子之命)、「皇子の宮人」(皇子之宮人)とあり、「飛鳥」の「浄之宮」に「天皇」や「皇子」がいたとことがわかります。この「天皇」「皇子」呼称は、飛鳥宮遺跡から出土した「天皇」「○○皇子」木簡(注②)と対応しており、七世紀後半の飛鳥宮にいた天武や持統らがナンバーツーとしての「天皇」を名のっていたことを人麿の歌も証言していたことになり、貴重です。
 ちなみに、この歌に対する古田先生の解釈は変化しています。当初、『人麿の運命』(1994年)ではこの歌の「天皇」を持統天皇とし、舞台も大和飛鳥とされていましたが、『壬申大乱』(2001年)では九州王朝の「筑紫飛鳥」での歌とし、「天皇」を「あまつ、すめろぎ」と解し、通例の用法の「天皇」ではないとされました。この古田新説も有力ですので、別途、検証したいと思います。
 そして九州王朝から大和朝廷の時代(八世紀)となり、大和朝廷は公的にはナンバーワンとしての「天皇」や「天子」「皇帝」(『養老律令』「儀制令第十八」、注③)を称します。他方、同じ八世紀成立の万葉歌には、それらナンバーワン「天皇」に対して「大王」が使用されています。

【『万葉集』巻一 0077】(注④)
 吾が大君(大王) ものな思ほし皇神の 継ぎて賜へる 我なけなくに

【『万葉集』巻六 0956】(注⑤)
やすみしし 我が大君(大王)の 食す国は 大和(日本)もここも 同じとぞ思ふ

【『万葉集』巻六 1047】(注⑥)
 やすみしし 我が大君(大王)の 高敷かす 大和(日本)の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君(皇)の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも

【『万葉集』巻六 1050】(注⑦)
 現つ神 我が大君(皇)の 天の下 八島の内に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山なみの よろしき国と 川なみの たち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺も繁に 巌には 花咲きををり あなあはれ 布当の原 いと貴 大宮所 うべしこそ 吾が大君(大王)は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも

 このように近畿天皇家が日本国のナンバーワン「天皇」や「天子」「皇帝」を称していたとき、万葉歌では伝統的な古称「大王(おおきみ)」を歌人たちは使用していることがわかります。ここには、古田先生が主張した「大王≠天子(天皇)」という〝基本ルール〟は採用されていないのです。
 万葉歌には「おおきみ」という倭語に対して「大王」という表記が使用され、その伝統は九州王朝時代に遡るものと思われます。そして八世紀の大和朝廷の歌人たちは、この古称「大王」表記の伝統を受け継いだわけです。(つづく)

(注)
①[題詞] 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
 [原文] 天地之初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
②古賀達也「洛中洛外日記」2356話(2021/01/23)〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟において、「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」と記された木簡の出土を紹介した。
③『養老律令』「儀制令第十八」に次の規定がある。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
④[題詞](和銅元年戊申 / 天皇御製)御名部皇女奉和御歌
 [原文] 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
⑤[題詞] 帥大伴卿和歌一首
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
⑥[題詞] 悲寧樂故郷作歌一首[并短歌]
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀※塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
 [左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
 ※塊の字は、元暦校本では山偏に鬼とする。
⑦[題詞] 讃久邇新京歌二首[并短歌]
 [原文] 明津神 吾皇之 天下 八嶋之中尓 國者霜 多雖有 里者霜 澤尓雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合郷跡 山代乃 鹿脊山際尓 宮柱 太敷奉 高知為 布當乃宮者 河近見 湍音叙清 山近見 鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響尓 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁尓 巌者 花開乎呼理 痛怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曽 吾大王者 君之随 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜
[左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)


第2718話 2022/04/12

『古田史学会報』169号の紹介

 『古田史学会報』169号が発行されました。一面は谷本茂さんの〝「聃牟羅国=済州島」説への疑問と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説〟です。『隋書』に見える聃牟羅国を済州島とする説に疑義を呈し、フィリピン(ルソン島)とする新説です。谷本さんはわたしの〝兄弟子〟にあたる古田学派の重鎮的研究者です。京都大学の学生時代から、古田先生のご自宅で研究成果を誰よりも早く聞いていたそうです。そうした御縁もあり、『「邪馬台国」はなかった』の発刊30周年記念講演会(2001年10月8日、朝日新聞東京本社別館小ホールにて)では、〝弟子〟らを代表して谷本さんが講演されました。演題は「史料解読方法の画期」でした。わたしも前座として、「古田史学の誕生と未来」という講演をさせていただきました。メインの古田先生の講演は「東方の史料批判 ―中国と日本―」でした。

 拙稿〝失われた飛天 ―クローン釈迦三尊像の証言―〟と〝大化改新詔の都は何処 ―歴史地理学による「畿内の四至」―〟の二編も掲載していただきました。〝失われた飛天〟は、法隆寺釈迦三尊像を三次元解析技術で造ったクローン像の写真を見てひらめいた論稿です。〝大化改新詔の都は何処〟は、古田史学の会・関西例会で発表された大化改新詔に関する主要三説を解説したものです。その中で、改新詔の畿内の四至について歴史地理学で考察した佐々木高弘さんの論文「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知」を紹介しました。

 〝大化改新詔の都は何処〟を『古田史学会報』に投稿した後、佐々木論文で難波京から紀伊国へ向かう古代官道の「最短ルート」とされた〝孝子峠・雄ノ山峠越え〟は最短距離ではないとする指摘が正木裕さんから寄せられました。もっともな指摘でしたので、調査検討の上、改めて報告する機会を得たいと思います。

 169号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』169号の内容】
○「聃牟羅国=済州島」説への疑問と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説 神戸市 谷本 茂
○失われた飛天 ―クローン釈迦三尊像の証言― 京都市 古賀達也
○「倭日子」「倭比売」と言う称号 たつの市 日野智貴
○天孫降臨の天児屋命と伽耶 京都府大山崎町 大原重雄
○大化改新詔の都は何処 ―歴史地理学による「畿内の四至」― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十五
多利思北孤の時代⑪  ——多利思北孤の「東方遷居」について― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
〇古田史学論聚第26集『古代に真実を求めて』の発刊につきまして
○古田武彦記念古代史セミナー2022のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度の会費納入のお願い


第2717話 2022/04/11

万葉歌の大王 (6)

 ―万葉仮名「キミ」の変遷―

 万葉歌に見える「オオキミ」表記に次いで、今回は「キミ」について考察します。キミが倭王やその妃の呼称とされていたことが『隋書』俀国伝に見えます。
多利思北孤のことを「號阿輩雞彌」(阿輩のキミ=わが君)、妻を「王妻號雞彌」(雞彌=キミ)としており、王や妃をキミと呼んでいたことがわかります。すなわち、倭国では高貴な人物をキミと呼んでいたわけです。その中でも最高権力者にはオオを付してオオキミと呼び、その漢字表記として「於富吉美」「大王」が万葉歌に見えることを紹介してきました。キミも同様で、一字一音表記として次の用例が『万葉集』にあります。

【『万葉集』巻五 0860】
 「松浦川 七瀬の淀は淀むとも 我れは淀まず 君をし待たむ」
[題詞] (娘等更報歌三首)
[原文] 麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武

【『万葉集』巻五 0865】
 「君を待つ 松浦の浦の娘子らは 常世の国の 海人娘子かも」
[題詞] 和松浦仙媛歌一首
[原文] 伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可忘

【『万葉集』巻五 0867】
 「君が行き 日長くなりぬ奈良道なる 山斎の木立も 神さびにけり」
[題詞] (思君未盡重題二首)
[原文] 枳美可由伎 氣那我久奈理奴 奈良遅那留 志満乃己太知母 可牟佐飛仁家里
[左注] 天平二年七月十日

このようにキミに、「吉美」「伎弥」「枳美」の字をあてています。訓読みとしては「君」が多く使用されていますが、「公」も見えます。他方、オオキミのキミ部分に「皇」を使った「大皇」という表記も見えます。

【『万葉集』巻三 0441】
 「大君の 命畏み大殯の 時にはあらねど 雲隠ります」
[題詞] 神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首
[原文] 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座

【『万葉集』巻三 0460】
「栲づのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り来まして 大君の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして 敷栲の 家をも作り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに たもとほり ただひとりして 白栲の 衣袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや」
[題詞] 七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首[并短歌]
[原文] 栲角乃 新羅國従 人事乎 吉跡所聞而 問放流 親族兄弟 無國尓 渡来座而 大皇之 敷座國尓 内日指 京思美弥尓 里家者 左波尓雖在 何方尓 念鷄目鴨 都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓 哭兒成 慕来座而 布細乃 宅乎毛造 荒玉乃 年緒長久 住乍 座之物乎 生者 死云事尓 不免 物尓之有者 憑有之 人乃盡 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山邊乎指而 晩闇跡 隠益去礼 将言為便 将為須敝不知尓 徘徊 直獨而 白細之 衣袖不干 嘆乍 吾泣涙 有間山 雲居軽引 雨尓零寸八
[左注] (右新羅國尼名曰理願也 遠感王徳歸化聖朝 於時寄住大納言大将軍大伴卿家 既逕數紀焉 惟以天平七年乙亥忽沈運病既趣泉界 於是大家石川命婦 依餌藥事 徃有間温泉而不會此喪 但郎女獨留葬送屍柩既訖 仍作此歌贈入温泉)

この二首はいずれも八世紀の大和朝廷の時代(神亀六年、天平七年)に詠まれた歌ですが、近畿天皇家が「天皇」を称していたこともあって、オオキミのキミの字に「皇」の字を使用したのかもしれません。(つづく)


第2716話 2022/04/10

万葉歌の大王 (5)

 ―万葉仮名「オオキミ」の変遷―

 万葉歌に見える「大王」を今回は別の視点から考察します。それはオオキミという倭語にどのような漢字が当てられたのか、その変遷についての検討です。
 倭国には漢字が伝来する前から歌謡があり、人々が口承で伝えていたものと思われます。漢字伝来後は、倭語に対応した音の漢字を一字一音で表記し、後に音だけではなく倭語の意味に対応する漢字や漢単語をいわゆる訓読みとして倭語表記しています。そうして成立した万葉仮名で記録された和歌により、『万葉集』などの歌集が編纂されます。
 今回のテーマである万葉歌の「大王」も倭語のオオキミの意味に対応する漢単語の訓読み表記です。従って、原初形は一字一音の漢字表記であり、その痕跡が『万葉集』にも遺っており、次の万葉歌に採用されています。

【巻三 0239】
[題詞] 長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
[原文] 八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
[訓読] やすみしし 我が大君 高照らす 我が日の御子の 馬並めて 御狩り立たせる 若薦を 狩路の小野に 獣こそば い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ 獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて ひさかたの 天見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君かも

【巻三 0240】
[題詞] 反歌一首
[原文] 久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓為有
[訓読] ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり

長歌末尾の「我が大君かも」(吾於富吉美可聞)の「於富吉美」がそれです。冒頭の「やすみしし 我が大君」には「大王」が採用されており、音読み表記(於富吉美)と訓読み表記(大王)が混在した珍しい例です。ちなみに、この歌の「大王」「於富吉美」を古田先生は「甘木(天歸)の大王」とされました(注①)。そして、この「甘木の大王」を「九州王朝の王者」と表現されたのですが、「九州王朝の天子」とはされていないようです。先生の〝基本ルール〟「天子≠大王」によれば「甘木の大王」は九州王朝の天子ではなく、その下にいた複数の大王の一人ということになるからです。
 この歌は人麿が九州王朝の宮廷歌人として作歌したものと思われますが、古田説に従えば、当時(七世紀後半)の「九州王朝の大王」の子供の称号を「皇子」と人麿は表記したことになります。しかし、九州王朝の天子「中皇命」が「大王」と表記(注②)されていたことを考えれば、この「甘木の大王」も九州王朝の天子としてよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001)、「《特論二》甘木の人麿挽歌」277頁。
②「やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり」『万葉集』巻一 3
[題詞] 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
[原文] 八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里


第2715話 2022/04/09

万葉歌の大王 (4)

 ―「大王≠天子」説批判の先行説―

 「洛中洛外日記」2714話(2022/04/08)〝万葉歌の大王 (3) ―中皇命への献歌「やすみしし我が大王」―〟での拙論、『万葉集』3番歌(注)に見える「我が大王」を九州王朝の天子「中皇命」とする見解には先行説がありました。それは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が2013年に関西例会で発表された〝万葉三番歌と「大王≠天子」について〟です。そのときのレジュメを正木さんからいただきましたので紹介します。
 正木さんは古田万葉論について「画期的な古田氏の万葉三番歌の解釈」と高く評価された上で、「九州王朝の天子は大王と呼ばれていた」とされました。そしてその理由として次のように指摘されています。

〝中国の名分では天子は唯一の存在で、夷蛮の王は高々大王だが、九州王朝の天子多利思北孤は自ら「天子」を称していた。また伊予温湯碑では「法王大王」とある。また、『後漢書』では「大倭王」とされているから天子=大王だ。
 そして「大王≠天子」なら、万葉歌には「大王」「王」「皇」などはあっても「天子」は存在しないから、九州王朝の天子を歌った万葉歌は存在しないこととなる。〟

 この指摘には説得力があります。そして結論として正木さんは次のように述べられました。

〝万葉三番歌は、九州王朝の天子「中皇命」が大宰府近郊の「内野」で猟を行った時に臣下の「間人連老」が奉った歌となるのだ。〟

 この結論にわたしも賛成です。なお、正木さんは「朝庭」と「夕庭」は通説通り、「あしたには」「ゆうべには」と訓むべきとされました。この点については必ずしも反対ではありませんが、古田説のように「みかどには」「きさきには」と訓んでもよいと思います。ただし、その場合の「朝(みかど)」「夕(きさき)」は人の呼称とするよりも、本来は天子と皇后の居所の名称とわたしは考えています。たとえば「お殿様」「御屋形(親方)様」「東宮様(皇太子のこと)」などが、権力者の居所名をその権力者の呼称とした用例です。ですから、「きさき」の語源も皇后の居所に由来するのではないかとわたしは推測しています。
 いずれにしても、この歌の「大王」を舒明とする古田先生の解釈は、題詞に見える「天皇」を舒明としたことによるもので、歌そのものからの解釈とは言い難いという点で、正木説は拙論の先行説ということができます。(つづく)

(注)『万葉集』三番歌
 「やすみしし 我が大王の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり」
〔題詞〕天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
〔原文〕八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里


第2714話 2022/04/08

万葉歌の大王 (3)

 ―中皇命への献歌「やすみしし我が大王」―

 『万葉集』の人麿歌(注①)に見える「大君の遠の朝庭」の「大君」(原文は大王)を近畿天皇家の持統としたため、古田先生の万葉歌の「大王」解釈は、今のわたしから見ると悩み抜かれたもののように思えます。その最たるものが〝中皇命への献歌〟とされた次の歌でした。

 「やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり」『万葉集』巻一 3
[題詞] 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
[原文] 八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里

 万葉歌研究には思い出があります。古田先生が『万葉集』を検討するときは、ご自宅では岩波の日本古典文学大系本、外では岩波文庫本を使用されるのが常でした。二十数年ほど前のことです。先生と二人で万葉歌の原文の訓みについて検討したことがありました。たとえば「大王」「王」「皇」を通説では全て「おおきみ」と訓まれていますが、先生はそのことに疑問を抱いておられ、特に「皇」の訓みについて意見を求められました。わたしは「すめみま」を提案しましたが、先生は思案された結果、「すめろぎ」がよいとされたようでした。
 また、ある日、外出先の喫茶店で、中皇命が間人連老に作らせたと題詞にあるこの歌を岩波文庫本で検討していたとき、次のやりとりがありました。

古賀 「〝朝(あした)には〟と読まれている『朝庭』は、〝遠の朝廷(みかど)〟と同様に〝みかど〟と訓むのはどうでしょうか。ただし、〝みかど〟では5字になりませんが。」
先生 「なるほど、『朝庭』という原文に意味があると考えるべきですね。そうすると〝夕(ゆうべ)には〟とされる『夕庭』も『朝庭(みかど)』の対句と考える必要がありそうです。」

 このときの会話に基づいた、次の現代語訳を古田先生は発表されました(注②)。

 「八方の領土を支配されるわが大王の(お仕えになっている)その天子様は、弓を愛し、とり撫でていらっしゃる。その皇后さまは、天子さまにより添って立っていらっしゃる。
 その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。
 朝の狩りに、今立たれるらしい、夕の狩りに今立たれるらしい、その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。」『古代史の十字路』190頁

 古田先生は「わが大王」を舒明天皇とされ、「朝庭」を「朝(みかど)にわ」、「夕庭」を「夕(きさき)にわ」と訓まれ、中皇命を九州王朝(倭国)の天子とされました。中皇命を九州王朝の天子とすることには賛成ですが、その天子の面前で舒明天皇のことを「やすみしし 我が大君」(八方の領土を支配されるわが大王)と歌で表現することには疑問を覚えざるを得ません。というのも、八方の領土を支配しているのは九州王朝天子の中皇命であり、大和の一豪族である舒明ではないからです。ここでも、「大王」は「天子(朝廷)」ではないとする〝基本ルール〟により、古田先生はこうした解釈に至らざるを得なかったのです。
 わたしには、やはり、歌そのものに見える語句(原文)の読解を優先し、「やすみしし 我が大君(中皇命)の 朝(みかど)には」とする解釈が穏当と思われるのです。すなわち、九州王朝の中皇命(天子)が間人連老(宮廷歌人か)に献上させた歌に、近畿の舒明天皇の存在を読み込む必要はないからです。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻三 304
[原文]大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
[訓読]大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
②古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2713話 2022/04/05

万葉歌の大王 (2)

 ―人麿の「大君の遠の朝庭」―

 『万葉集』には「遠の朝庭」という表現を持つ歌が、人麿歌を含めて6作品(注①)収録されています。人麿歌に見える「大君の遠の朝庭」の「遠の朝庭」が筑紫なる九州王朝の都(太宰府)であることを古田先生は明らかにされており(注②)、わたしもこの見解に賛成です。
 通説では「大王」を近畿天皇家の天皇、「遠の朝庭」を地方の役所と理解し、筑紫も地方の役所の一つとします。従って、一応は両者の関係に矛盾は生じません。近畿なる天皇から見て、遠方の役所とできますから。しかし、古田先生が指摘されたように、もしそうであれば『万葉集』に全国各地の役所が「遠の朝庭」という表現で現れなければなりませんが、そうではありません。従って、通説の解釈は不適切であり、やはり「大王」から見て遠方(筑紫)なる「遠の朝庭」(太宰府)と解するのが妥当です。
 しかし、そうすると「大王」は「遠の朝庭」(太宰府)から遠く離れた地(大和)におり、従来の九州王朝説では両者の位置関係が説明困難でした。従って、古田先生は「大王」を大和の持統と解するほかなかったと思われます。古田万葉三部作が発表された当時(1994~2001年)における、古田学派の研究状況ではこう考えるほか仕方がなかったのです。
 ところが、前期難波宮九州王朝複都説や九州王朝系近江朝説、そして近年では藤原京に九州王朝の天子がいたとする仮説までが登場し、事態は一変しました。拙論である太宰府(倭京)と難波京の両京制によれば、難波京に居た九州王朝の天子「大王」の「遠の朝庭」(倭京)という理解が無理なく成立するからです。更に、前期難波宮焼失(朱鳥元年、686年)以降は、藤原京に居た九州王朝の天子「大王」の「遠の朝庭」(倭京)とする理解が引き続き可能となります。
 このような仮説に立てば、「大王の遠の朝庭」に書かれてもいない解釈〝持統(大王)が仕えた筑紫の天子〟を付加することなく、そのまま普通に読んで歌の意味を理解することができるのです。(つづく)

(注)
①『万葉集』に次の歌が見える。
【巻三 304】
[題詞]柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文]大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
[訓読]大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ

【巻五 794】
[題詞]盖聞 四生起滅方夢皆空 三界漂流喩環不息 所以維摩大士在于方丈 有懐染疾之患 釋迦能仁坐於雙林 無免泥洹之苦 故知 二聖至極不能拂力負之尋至 三千世界誰能逃黒闇之捜来 二鼠<競>走而度目之鳥旦飛 四蛇争侵而過隙之駒夕走 嗟乎痛哉 紅顏共三従長逝 素質与四徳永滅 何圖偕老違於要期 獨飛生於半路 蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛 枕頭明鏡空懸 染筠之涙逾落 泉門一掩 無由再見 嗚呼哀哉 / 愛河波浪已先滅 苦海煩悩亦無結 従来厭離此穢土 本願託生彼浄刹 / 日本挽歌一首
[原文]大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國尓 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀<尓>母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀尓 宇知那i枳 許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尓 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 尓保鳥能 布多利那良i為 加多良比斯 許々呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須
[訓読]大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます
[左注]神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上

【巻六 973】
[題詞]天皇賜酒節度使卿等御歌一首[并短歌]
[原文]食國 遠乃御朝庭尓 汝等之 如是退去者 平久 吾者将遊 手抱而 我者将御在 天皇朕 宇頭乃御手以 掻撫曽 祢宜賜 打撫曽 祢宜賜 将還来日 相飲酒曽 此豊御酒者
[訓読]食す国の 遠の朝廷に 汝らが かく罷りなば 平けく 我れは遊ばむ 手抱きて 我れはいまさむ 天皇我れ うづの御手もち かき撫でぞ ねぎたまふ うち撫でぞ ねぎたまふ 帰り来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は
[左注]右御歌者或云太上天皇御製也

【巻十五 3668】
[題詞]到筑前國志麻郡之韓亭舶泊經三日於時夜月之光皎々流照奄對此<華>旅情悽噎各陳心緒聊以裁歌六首
[原文]於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼 氣奈我久之安礼婆 古非尓家流可母
[訓読]大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも
[左注]右一首大使

【巻十五 3688】
[題詞]到壹岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首[并短歌]
[原文]須賣呂伎能 等保能朝庭等 可良國尓 和多流和我世波 伊敝妣等能 伊波比麻多祢可 多太<未>可母 安夜麻知之家牟 安吉佐良婆 可敝里麻左牟等 多良知祢能 波々尓麻乎之弖 等伎毛須疑 都奇母倍奴礼婆 今日可許牟 明日可蒙許武登 伊敝<妣>等波 麻知故布良牟尓 等保能久尓 伊麻太毛都可受 也麻等乎毛 登保久左可里弖 伊波我祢乃 安良伎之麻祢尓 夜杼理須流君
[訓読]天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋去らば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君
[左注]右三首挽歌

【巻二十 4331】
[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)追痛防人悲別之心作歌一首[并短歌]
[原文]天皇乃 等保能朝<廷>等 之良奴日 筑紫國波 安多麻毛流 於佐倍乃城曽等 聞食 四方國尓波 比等佐波尓 美知弖波安礼杼 登利我奈久 安豆麻乎能故波 伊田牟可比 加敝里見世受弖 伊佐美多流 多家吉軍卒等 祢疑多麻比 麻氣乃麻尓々々 多良知祢乃 波々我目可礼弖 若草能 都麻乎母麻可受 安良多麻能 月日餘美都々 安之我知流 難波能美津尓 大船尓 末加伊之自奴伎 安佐奈藝尓 可故等登能倍 由布思保尓 可知比伎乎里 安騰母比弖 許藝由久伎美波 奈美乃間乎 伊由伎佐具久美 麻佐吉久母 波夜久伊多里弖 大王乃 美許等能麻尓末 麻須良男乃 許己呂乎母知弖 安里米具<理> 事之乎波良<婆> 都々麻波受 可敝理伎麻勢登 伊波比倍乎 等許敝尓須恵弖 之路多倍能 蘇田遠利加敝之 奴婆多麻乃 久路加美之伎弖 奈我伎氣遠 麻知可母戀牟 波之伎都麻良波
[訓読]大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国は 敵守る おさへの城ぞと 聞こし食す 四方の国には 人さはに 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 出で向ひ かへり見せずて 勇みたる 猛き軍士と ねぎたまひ 任けのまにまに たらちねの 母が目離れて 若草の 妻をも巻かず あらたまの 月日数みつつ 葦が散る 難波の御津に 大船に ま櫂しじ貫き 朝なぎに 水手ととのへ 夕潮に 楫引き折り 率ひて 漕ぎ行く君は 波の間を い行きさぐくみ ま幸くも 早く至りて 大君の 命のまにま 大夫の 心を持ちて あり廻り 事し終らば つつまはず 帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて 白栲の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは
[左注]右二月八日兵部少輔大伴宿祢家持
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2712話 2022/04/04

万葉歌の大王 (1)

 ―はじめに―

 『柿本家系図』研究のために古田先生の万葉三部作(注①)を改めて読み直しました。特に人麿の歌の史料批判について精読したところ、古田万葉論の〝基本ルール〟とも言える「大王」の解釈や方法論は適切ではないかもしれないという疑問を抱きました。
 〝「師の説にななづみそ」(本居宣長)は学問の金言〟と古田先生から学んできたとはいえ、恩師の説に異を唱えたり、突拍子もない新説を提起するのはとても勇気がいることです。20年ほど前に前期難波宮九州王朝副都説(後に複都説とした)を発表したときも怖くてたまりませんでした。しかし、そうした新仮説の発表が学問を前進させますので、今回も思い切って発表することにしました。もちろん、間違っていると気づけば、撤回します。
 今回、『万葉集』のなかの柿本人麿の歌を検討したところ、たとえば著名な次の歌の大君(原文は「大王」)は、古田説では近畿天皇家の持統のこととされてきました(注②)。

巻三 304
[題詞]柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文]大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
[訓読]大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ

 その理由は次のようなことでした。

(1) 「遠(とお)の朝廷(みかど)」とは筑紫の九州王朝(倭国)の都(太宰府)のことであり、そこにいるのは「大王」ではなく、天子である。
(2) 従って、この歌の「大王」は九州王朝の天子ではなく、近畿の持統のことである。
(3) 中国の歴史では朝廷に居するのは天子であり、大王はその下位にある。このことからも(1)(2)の理解は妥当である。

 こうした〝基本ルール〟に基づいて、古田先生は『万葉集』に見える「大王(おおきみ)」を近畿天皇家の天皇のこととして万葉歌を解釈されてきました。古田先生の万葉三部作はこの〝基本ルール〟で貫かれています。そのため、人麿歌の「大王の遠の朝廷」の読解は「大王である持統が仕えた筑紫の天子の遠の朝廷」と解釈されたわけです。しかしながら、この「持統が仕えた筑紫の天子」部分は歌自身にはなく、九州王朝説に基づく解釈なのです。
 大和から「遠くはなれた筑紫の朝廷」(遠の朝廷)と人麿が歌う限り、冒頭の「大王」は大和の「大王」(持統)とするほかありません。もし、この「大王」を九州王朝の天子とするのであれば、「遠の」という言葉は全く不要で、「大王の朝廷」で充分だからです。恐らく古田先生もこうした事情から、「大王」(近畿)と「遠の朝廷」(筑紫)を切り離して理解されたものと思います。そして、その根拠とされたのが中国史書での「天子」と「大王」の区別だったのです。
 しかし、文献史学の方法として、万葉歌で「大王」という言葉がどのような意味で使用されているのかは、『万葉集』そのものの用例に従って理解するべきです。これは古田先生から学んだ〝文献史学の常道〟です。(つづく)

(注)
①古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。
 古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001)。ミネルヴァ書房より復刻。
 古田武彦『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(2001)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『人麿の運命』ミネルヴァ書房版「消えゆく『遠の朝庭』」229~231頁。


第2711話 2022/04/03

柿本人麻呂系図の紹介 (8)

 ―石見国益田家の「柿本朝臣系図」―

 『柿本家系図』の史料批判の一環として、石見国益田家の「柿本朝臣系図」と比較調査しました。「柿本朝臣系図」は「石州益田家系圖 柿本朝臣」として鈴木真年氏(注①)により筆写収集されたもので、尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)で紹介されています。それによれば、「石州益田家系圖 柿本朝臣」と表記された同系図には「柿本朝臣系図(筑波大学図書館所蔵)」のタイトルが冒頭に付されており、鈴木真年氏による筆写本は筑波大学図書館にあるようです。
 系図の筆頭には「孝昭天皇」があり、次いで「天足彦國押人命 一云天押帯日子命」・「和尓彦押人命 一云若押彦命 居倭国丸迩里」へと続きます。そして十五代目の「猨(さる)」と「人麿」兄弟に至ります。わたしが持っている同系図コピーは文字が潰れているため判読が難しく、誤読しているかもしれませんが、「人麿」の左右細注に次の記事が見えます。

 右注 「石見掾 正八上」 ※「正八上」は正八位上の略。
 左注 「初日並知皇子舎人
後高市皇子舎人
     下向石見国住美乃郡○田里
     藤原朝廷三月十八日死」
 ※○は判読困難な字。「戸田里」か。

 「人麿」の兄とされる「猨」の細注は次のように読めます。

 右注 「彳四下」 ※従四位下の略か。
    小錦下」
 左注 「天武天皇白鳳十年二月癸巳○小錦下任
    同十三年十一月戊申朔改賜朝臣姓
    和銅元年四月壬午卆」
 ※「同十三年十一月戊申朔」は天武十三年(684)十一月朔戊申の日と思われる。従って、ここでの「白鳳」は天武元年(672)を白鳳元年とした後代に於ける改変型「白鳳」であり、本来の九州年号「白鳳」(661~683年)とは異なる。和銅元年の死亡記事は『続日本紀』和銅元年四月条に見える。

 「人麿」の子供は「蓑麿」とあり、その細注は次のようです。

 右注 「彳六下
    美乃郡少領」
 左注 「母 依羅衣屋郎子」

 『柿本家系図』に見える人麿の実子とされた男玉は人麿の前妻との子供と思われ、「石州益田家系圖 柿本朝臣」によれば「石見国美乃郡」への「下向」に男玉は同行せず、都(藤原京)に留まり、後に東大寺大仏の鋳造に関わったこととなります。「蓑麿」は後妻「依羅衣屋郎子」(注②)との子供で、石見国で生まれた末子ではないでしょうか。
 また、「石見掾 正八上」という人麿の官位「正八位上」は、「中国」(注③)と指定された石見国の官職「掾(じょう)」に対応しているようです。「藤原朝廷三月十八日死」とする具体的年次不明の没年記事も、九州年号の大長四年丁未(707)に没したとする『運歩色葉集』の「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」と整合しており、注目されます(注④)。両書の記事が正しければ、人麿の没年月日は大長四年(慶雲四年、707年)三月十八日ということになります。
 なお、「石州益田家系圖 柿本朝臣」と表記されていますが、天武十三年の八色姓制定時に「朝臣」の姓(かばね)を賜った記事は兄の「猨」の左注にあり、弟の「人麿」やその子孫の細注に「朝臣」記事はありません。これは「柿本」氏(柿本臣)に朝臣姓を賜ったことによります。(つづく)

(注)
①鈴木真年氏については、「洛中洛外日記」2433話(2021/04/13)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(2) ―鈴木真年氏の偉業、膨大な系図収集―〟にて詳述したので参照されたい。
②『万葉集』には「依羅郎子(よさみのおとめ)」と表記され、人麿の死を悼んだ歌などが収録されている。
③律令により諸国は大国・中国・小国に分類され、『延喜式』によれば石見国は中国とされている。
④古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟


第2710話 2022/03/31

柿本人麻呂系図の紹介 (7)

 ―『柿本家系図』の断絶―

 『柿本家系図』によれば、柿本人麿を初代として男玉(実子・二代)、直玉(男玉の曾孫・五代)へと続きます。この「曾孫」はひ孫のことですが、子孫という意味もあります(注①)。ひ孫の意味で使用されていれば三代目と四代目が不記載となり、系図に断絶が生じます。子孫の意味であればより大きな断絶の存在を意味します。この断絶の理由として次のようなケースが考えられます。

(1) 同系図は戦後に書写されたもので、書写時に簡略化された。
(2) 伝承が途切れたため、伝わっていない。
(3) 柿本人麿と実子の男玉までの伝承が伝わっており、その始祖伝承の記憶に直玉以後の系譜が継ぎ足された。
(4) 柿本人麿や男玉とは無関係の柿本氏が後世になって系図を造作した。

 どのケースの可能性が高いかを検証する必要がありますが、(1)については書写原本の調査で当否を確認できます。(2)(3)のケースは他の柿本系図との比較により、検証が可能かもしれません。この場合、柿本人麿の渡唐記事などの独自情報部分については史料価値を有すかも知れません。(4)については今のところ検証が困難です。
 以下は、『柿本家系図』〈系譜〉より、人麿~運平部分を抜き出して注記(※印)を加えたものです。同系図〈由緒〉にも同内容のは記述があり、もしかすると〈系譜(縦系図)〉はこの〈由緒(文章)〉に基づいて作成されたのかもしれません。(つづく)

【『柿本家系図』】
初代 柿本人麿眞人
二代 男玉(実子) 三条小鍛冶師 東大寺大仏鍛冶師頭
   ※「東大寺大仏大鋳造師 従五位下」『朝野群載』「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」(注②)
三代~四代 不記
五代 直玉(男玉の曾孫) 肥前国、龍造寺家政公(注③)の家臣となる。
   ※曾孫には子孫の意味もあり、その場合は直玉までの代数は不明。
六代 眞人(直玉の長男) 佐賀佐留志(杵島郡江北町)に住む。
七代 孫兵衛(眞人の長男) 龍造寺家臣の御役御免。寛文二年(1662)四月、肥前諫早の鍋島直義公(1618~1661)の家臣となる。
八代 孫六(孫兵衛の長男) 本家を相続。次男の源六は享保三年(1718)に分家する。
九代 孫兵衛(孫六の長男) 三男二女あり。
十代 運平(孫兵衛の長男) 廃藩置県明治維新まで、代々茂晴公(1680~1736)の特命にて在佐賀お目付け役を拝命。
 《後略》

(注)
①『大修館新漢和辞典』(改訂版、1984年)による。
②『朝野群載』三善為康編、永久四年(1116)成立。
③「龍造寺氏系図」によれば八代目に「家政(家昌)」が見える。
 https://office-morioka.com/myoji/genealogy/sengoku/ryuzoji.html


第2709話 2022/03/30

『東京古田会ニュース』No.203の紹介

 昨日、『東京古田会ニュース』203号が届きました。拙稿「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」を掲載していただきました。古田先生の小郡市の字地名「飛島(とびしま)」飛鳥説をはじめ、正木さんの筑前・筑後広域飛鳥説、服部さんの太宰府「飛鳥浄御原宮」説を紹介し、通説の大和飛鳥説と比較したものです。そして考古学成果と『日本書紀』の飛鳥記事との齟齬が考古学者から指摘されている近年の状況について説明しました。
 同号に掲載された皆川恵子さん(松山市)の論稿「意次と孝季in『和田家文書』その1」には、ベニョフスキー事件の紹介があり勉強になりました。1771年に起こった同事件は、ポーランド人の対ロシア抵抗組織に加わりロシアの捕虜となりカムチャッカ半島に流刑されたモーリツ・ベニョフスキーが船で脱走し、土佐で飲料水を補給し、さらに南下して奄美大島に上陸して、そこからオランダ商館長に書簡(注)を出し、ロシアの北海道(松前)攻撃計画を知らせたというものです。
 ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにしていることもあり、興味深く拝読しました。

(注)ベニョフスキー書簡 1771年7月20日付。ハーグ市の国立中央図書館蔵。