九州年号一覧

第1881話 2019/05/01

「令和」改元を祝い、「白雉」改元を論ず

 本日、新天皇が即位され、「令和」と改元されました。そこで、「令和」改元を祝い、あらためて九州年号の「白雉」改元を論じることにします。
 「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟において、「孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日」(庚戌:650年、壬子:652年)とあることを紹介しました。そして白雉元年に二つの異なる干支が記されるという不体裁の理由は、本来の九州年号の白雉元年壬子(652年)表記に、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年庚戌(650年)の影響を受け、「庚戌」が付記された結果であるとしました。
 更に、芦屋市三条九之坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡により、白雉元年の干支は壬子(652年)であり、『二中歴』などの九州年号の「白雉」(652〜660年)が正しく、『日本書紀』の「白雉」は二年ずらして転用していたことが明確となったわけですが、実は『日本書紀』そのものにも「白雉元年」を二年ずらしていた痕跡があることをわたしは発見し、「白雉改元の史料批判 -盗用された改元記事-」(『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、『古田史学会報』76号 2006年10月)として発表しました。
 その痕跡とは、『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年庚戌)二月条の白雉改元儀式の記事は、本来は白雉三年(652年壬子。九州年号の白雉元年に相当)二月条にあったものが削除され、元年(650年庚戌)二月条へ移されたことを示すある記述です。先の論文より当該部分を転載します。

【以下転載】
 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事が九州王朝史料からの盗用である可能性は極めて高いのであるが、今回新たに孝徳紀を精査したところ、同記事盗用の痕跡がまた一つ明かとなったので報告する。
 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければならない。そして、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事がある。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。
 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、二年ずらしての盗用だったのだ。


第1880話 2019/04/26

『箕面寺秘密縁起』の九州年号

箕面市平尾の龍安寺が蔵する『箕面寺秘密縁起』には九州年号が記されています。『修験道史料集(Ⅱ)』によれば次のようです。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)

※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

『箕面寺秘密縁起』は箕面寺草創の歴史と役行者について記したもので、江戸時代初期以前の成立と見られています。そこに記された九州年号は「不正確」であり、編纂時に「九州年号」年代記などを参照して改変付記されたものと思われます。
たとえば⑤の「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とした後代改変された「白鳳」です。⑥の「朱鳥八年歳次甲午」も本来の九州年号「朱鳥八年(693年)」とは一年ずれており、持統天皇元年を「朱鳥元年」とした改変型です。『万葉集』に見える「朱鳥」も同様の改変型です。
⑦の「大化九秊乙未」は改変型というよりも、本来の九州年号「大化元年乙未」の誤写(元→九)の可能性があります。なお、本稿で示した「本来の九州年号」とは最も史料価値が高い『二中歴』系の九州年号です。
『箕面寺秘密縁起』の九州年号で最も興味深いのが②③④の「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」という表記です。これでは「白雉元年」が庚戌(650年)なのか、壬子(652年)なのかわかりません。この意味不明な表記に同縁起編者の苦悩の跡が見て取れます。元史料には「白雉元年歳次壬子」(652年)とあったが、『日本書紀』の孝徳紀「白雉元年」は庚戌(650年)であるため、『日本書紀』との「整合性」を保つために細注で「庚戌」と付記したことにより、この意味不明の表記「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」になったのです。このとき、更に「歳次壬子」の部分を削除していれば「白雉元年〈庚戌〉」となり、『日本書紀』と矛盾しないのですが、なぜか編者はそれをしていません。その結果、同縁起に九州年号「白雉元年」の本来の姿(歳次壬子)を留めたわけです。このように、九州年号には本来型と『日本書紀』の内容に整合させるための後代改変型が各史料に散見します(例えば『高良記』の「白鳳」など)。
この「白雉」年号の二年のずれについては、三十年前にも古田学派内で論争がありました。「市民の古代研究会」時代に、九州年号研究で先駆的研究をされた丸山晋司さんは、本来の九州年号「白雉」が『日本書紀』孝徳紀に二年ずらして転用されたとする立場に立たれていました。わたしもこの意見に賛成です。
他方、熊本市の平野雅曠さんは、干支が二年ずれた暦法によるもので、共に同年のこととする説を発表され、丸山さんと激しい論争が続きました。その後、平野さんは亡くなられ、丸山さんも「市民の古代研究会」の分裂を機に九州年号研究から離れられ、この論争自体は「未決着」となりました。
この白雉元年が『二中歴』などの九州年号史料に見える「壬子(652年)」なのか、『日本書紀』孝徳紀の「庚戌(650年)」なのかについて決着をつけたのが芦屋市三条九之坪遺跡から出土した一枚の木簡でした。この木簡について、『木簡研究』には「三壬子年」と発表され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年(652年)」のことと解説されていました。しかし、この報告に疑問を感じたわたしは、古田先生等と共に兵庫県教育委員会の許可を得て同木簡を精査したところ、「三」と読まれていた文字が「元」であることを確認しました。すなわち、「(白雉)元壬子年(652年)」という九州年号木簡だったのです。調査には光学顕微鏡や赤外線カメラ(大下隆司さん撮影)を持ち込み、二時間にわたりわたしは同木簡を観察し、「元壬子年」と書かれていることを確認しました。
同木簡は出土当時は紀年銘木簡としては国内最古であり、研究者から注目されました。ところが、わたしや古田先生が九州年号「(白雉)元壬子年」木簡であることを論文や書籍(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)で発表したとたんに、古代史学界でのこの木簡に対する取り扱いが〝冷淡〟になりました。すなわち、この木簡が九州年号や九州王朝の実在を直接的に示す同時代史料であるため、大和朝廷一元史観の学界はこの木簡の存在に触れることは〝やばい〟と判断したかのようでした。その結果、従来は「三壬子年」と紹介されていたのが、紹介しないか、紹介しても「壬子年」木簡という表記で紹介するようになり、「三」とも「元」とも触れない傾向が今も続いています。
この「元壬子年」木簡の発見は、「白雉」年号の本来型論争に決着をつけただけではなく、九州年号や九州王朝説についてもそれが真実であったことを白日の下に晒すこととなりました。もし、今回の「令和」改元ブームの中で、マスコミがこの「元壬子年」木簡の存在と意義を広く国民に知らせたなら、日本古代史はパラダイムシフトを起こすことでしょう。しかしながら、権威への忖度を旨とする現代日本のメディアにそれを期待することはできないでしょう。わたしたち古田学派は学問そのものが持つ〝真実を追究する力〟により、パラダイムシフトを起こさなければならないのです。そしてそれは可能です。あのベルリンの壁が壊れたように、人間が造った壁(歴史観)は人間によって変革することもできるのです。わたしはこのことを一瞬たりとも疑ったことはありません。


第1877話 2019/04/17

米沢の古代史

 昨晩、山形新幹線で米沢市に到着しました。米沢は初めてでしたので、駅の観光案内所で観光マップをいただき、米沢で最も古い寺社はどこかとたずねたところ、上杉神社と白子(しろこ)神社とのことでした。スマホで調べてみると、白子神社の創建は和銅5年(712)、ご祭神は火産霊命と埴山姫命とありました。
 山形市まで北上すれば羽黒山修験道関連の伝承(「洛中洛外日記」266話「東北の九州年号」を参照)に九州年号「端政」(589〜593年)が見えるのですが、米沢市には九州年号は未発見です。本格的調査ではありませんから断定はできませんが、山形県地方への九州王朝の影響や九州年号の伝播は日本海側ルートだったのかもしれません。そのため、米沢市を経由せずに越後から日本海沿いに山形方面に伝わった可能性があるようです。
 ただ、米沢市内には前方後円墳が散見されますので、遅くとも古墳時代には前方後円墳を築造する勢力や文明が伝わっていたわけですから、この勢力と九州王朝との関係などがこれからの多元的米沢市(置賜地方)古代史研究の課題です。


第1822話 2019/01/12

臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)

 鶴峯戊申の『臼杵小鑑』の「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」との記事を信用するなら、次のような二つのケースを推論することができると考えました。

①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 ②のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石像に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
 臼杵石仏に関する研究論文を全て精査したわけではありませんが、今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。やはり多元史観の視点による現地調査が必要と思われますし、6世紀の中国や朝鮮半島の石仏の様式研究も必要です。
 更に、6世紀の倭国において「卯月」という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に「うつき(卯月)」という言葉が見え、この例が国内史料では最も古いようですので、これを根拠に6世紀にも使用されていたとすることはできません。石仏の様式と「卯月」という表記例の調査も史料批判上不可欠なのです。
 以上のような考察の結果、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは困難と判断しました。どれほど自説に有利で魅力的な史料や他者の仮説であっても、必要にして十分な史料批判や検証を抜きに採用してはならないと実感できたテーマでした。こうした研究姿勢は歴史学における基本的なものです。


第1821話 2019/01/11

臼杵石仏の「九州年号」の検証(4)

 『臼杵小鑑』の「正和四年」を九州年号史料とすることをわたしは一旦は断念したのですが、その後も気にかかっていましたので、他の可能性についても考察を続けました。幸いにも、『臼杵小鑑』の国会図書館本のコピーを冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)からいただいていたので、何度も精査することができました。
 その結果、鶴峯が「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」と記したことを信用するなら、五重石塔とは別の石仏(十三佛の石像)に彫られた「正和四年卯月五日」の文字を鶴峯は見たことになり、そこには年干支がありませんから九州年号の「正和四年」と理解したと考えることも可能であることに気づいたのです。また、『臼杵小鑑』の「満月寺」の次に「古石佛」の項があり、満月寺の近くに点在する石仏群のことが記されています。そこには「二十五菩薩十三佛」という記事が見え、「満月寺」の項の「十三佛の石像」の「十三佛」という表現と一致します。
 こうした考察が正しければ、鶴峯の時代(江戸時代後期)には臼杵の満月寺近辺には「正和四年乙卯夘月五日」と記された五重石塔と「正和四年卯月五日」の銘文を持った石仏が併存していたことになります。五重石塔の「正和」はその年干支「乙卯」の存在により鎌倉時代の「正和四年(一三一五)」と判断可能ですが、石仏の「正和四年卯月五日」は年干支がなく判断ができません。しかし、次のようなケースを推論することができます。

①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 このような二つのケースが推定できるのですが、②のケースの場合に石仏の「正和四年」は九州年号となります。それでは②のケースが成立するためにはどのような学問的根拠や論証が必要でしょうか。考察を続けます。(つづく)


第1820話 2019/01/10

臼杵石仏の「九州年号」の検証(3)

 『臼杵小鑑』で紹介された「正和四年卯月五日」が同時代九州年号金石文であることを証明するために、わたしは同石仏が現存するか史料やインターネットで調査しました。江戸時代の九州地方の地史である『太宰管内志』には同石仏の記事は見えなかったのですが、ネット上に次のサイトがありました。

「石仏と石塔」
http://www.geocities.jp/kawai24jp/ooita-usuki-mangetuji.htm
(現在は、このホームページはありません。)

 「満月寺(まんげつじ)(大分県臼杵市深田963)
 満月寺五重石塔(市指定文化財、鎌倉時代後期 正和四年 1315年、凝灰岩、塔身までの高さ90cm)」

 臼杵市の満月寺に現存する「五重石塔(五輪塔)」下部に次の刻銘(縦書き)があると紹介され、掲載された写真もそのように読めました。

【五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 同刻銘を紹介した他のサイトには「阿闍梨圓秀」の「圓」を「日」とする見解もあります。上記サイト内にも「日秀」とする下記の解説もあり、混乱しているようです。写真を見ると「圓」のように読めますが、「日」の可能性もありますので、現地で実物を確認したいと考えています。ただし、どちらであっても本稿の論旨には影響しません。同サイトでは更に次の説明がなされています。

 「塔の銘文から(阿)闍梨隆尊が先師尊全及び自分の亡き父母ために造立した。作者は日秀という阿闍梨。
 相輪は、宝珠に火焔が付くなど国東式相輪で、昭和46〜47年の発掘調査の際、新たに取り付けられた。
 満月寺境内には明治初年まで二基の石造層塔があった。一基は、洪水により河岸が崩壊した時、石塔を壊して河岸の修理をした。昭和の発掘調査の時、その残欠を使用し、現在の石造五重塔を修理した。」 ※(阿)の字は古賀が付記した。

 『臼杵小鑑』には「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」と記されており、刻銘があるのは五重石塔ではなく「十三佛の石像」とされています。しかし、「正和四年卯月五日」とあり、これは五重石塔と類似した表記です。鶴峯は石塔と石像を間違えて『臼杵小鑑』を記したのでしょうか。
 現存する五重石塔の刻銘には「正和四年乙卯夘月五日」と年干支の「乙卯」があり、これは九州年号ではなく鎌倉時代の「正和四年(一三一五)」の年干支と一致します。ちなみに九州年号の「正和四年(五二九)」の年干支は「己酉」です。したがって、『臼杵小鑑』に紹介された「正和四年卯月五日」は九州年号ではなく、鎌倉時代の「正和」であり、鶴峯はそれを九州年号と勘違いしたと思われ、『臼杵小鑑』の「正和四年」を九州年号史料とすることをわたしは一旦は断念しました。(つづく)


第1819話 2019/01/09

臼杵石仏の「九州年号」の検証(2)

 『臼杵小鑑』の記事からだけでは、石仏に彫られているという「正和四年卯月五日」が九州年号か鎌倉時代の年号かは判断できません。鶴峯戊申は満月寺の開基を「四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり 然れば日羅が開山も此比(ママ)の事と見えたり」という現地伝承を根拠に九州年号の「正和四年(五二九)」と判断したようですが、日羅(?-583年)は『日本書紀』によれば百済王に仕えていた人物であり、敏達紀には583年に百済からの帰国記事が見えます。「正和四年(五二九)」とはちょっと離れすぎています。もちろん鶴峯もこのことに気づいており、『臼杵小鑑』ではいろいろと〝言いわけ〟を試みていますが成功していません。
 「十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。」とした鶴峯の見解は未証明の作業仮説(思いつき、意見)であり、鎌倉時代の「正和」ではないという反証(証拠を示しての反論)もできていません。従って、この鶴峯の「意見」を根拠に石仏の「正和四年卯月五日」を九州年号とすることはできないのです。どうしても鶴峯の「意見」を採用したいのであれば、その「意見」が正しい、あるいは鎌倉時代の「正和」とするよりも有力であることを史料根拠を示して論証する必要があります。(つづく)


第1818話 2019/01/08

臼杵石仏の「九州年号」の検証(1)

 わたしは三十年以上にわたり九州年号の研究を進めてきました。とりわけ、同時代史料の調査研究は最重要テーマでした。その中で、「大化五子年(六九九)」土器や「朱鳥三年戊子(六八八)」銘鬼室集斯墓碑、そして「(白雉)元壬子年(六五二)」木簡などの同時代九州年号史料について発表してきました。他方、九州年号史料として認定できずにきた史料もありました。そのひとつに大分県の「臼杵石仏」に関する「正和四年」刻銘があります。そこで、九州年号と認定できなかった理由について紹介し、史料批判という学問の基本的方法について説明します。
 比較的初期の頃の九州年号に「正和(五二六〜五三〇)」があり、九州年号史料として有名な『襲国偽僭考』を著した鶴峯戊申が十九歳のとき記した『臼杵小鑑』(国会図書館所蔵本。冨川ケイ子さん提供)にこの「正和」に関する次のような記事が見えます。

 「満月寺
 (前略)〈満月寺は宣化天皇以前の開基ときこゆ〉十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。さて其偽年号の正和ハ継体天皇廿年丙午ヲ為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり。然れば日羅が開山も此比の事と見えたり。(後略)」
 ※〈〉内は二行割注。旧字は現行の字体に改め、句読点を付した。(古賀)

 九州年号真作説に立つ鶴峯戊申のこの記事を読んで、九州年号「正和」が臼杵の満月寺の石仏に彫られていることを鶴峯は見ており、現存していれば同時代九州年号金石文になるかもしれないとわたしは期待しました。しかし、鶴峯も記しているように、「正和」は鎌倉時代にもあり、九州年号の「正和(五二六〜五三〇)」なのか、鎌倉時代の「正和(一三一二〜一三一七)」なのかを確認できなければ、九州年号史料とは断定できないと考えました。というのも、自説に都合が良くても、まずは疑ってかかるという姿勢が研究者には不可欠だからです。(つづく)


第1745話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(2)

 九州王朝が木簡への年号使用を規制していたとわたしは推定していますが、その律令の条文は『大宝律令』に受け継がれたと考えています。従って、九州王朝律令の「儀制令」にも「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)のような条文があったのではないでしょうか。そうしますと、「公文」の範囲を「式」(条令)で指定し、そこに指定された「公文」に九州年号が使用されたと推定しています。
 それでは「九州王朝律令」で九州年号の使用が許された「公文」などの範囲について、史料事実に基づいて推定してみます。まず、後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては60年毎に廻ってくる干支表記では不適切ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠としては「白鳳壬申年(672)」骨蔵器、「大化五子年(699)」土器(骨蔵器)、「朱鳥三年(688)」鬼室集斯墓碑があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には当然と思われますが九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」『続日本紀』神亀元年(724)十月条

 これは治部省からの諸国の僧尼の名籍についての問い合わせに対して、聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(661-683年)から朱雀(684-685年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので、新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿や戸籍などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推定できるのです。
 こうした公文書には年次記録が必要ですし、60年を超える長期保管が必要な書類であれば、干支だけではなく年号表記が必要であることは当然と思われます。たとえば「庚午年籍」は『養老律令』においても永久保管が命じられていますから、いつの庚午の年かを特定できるように年号(「白鳳十年」、670年)が付記されていたと推定できるのです。
 以上のように、「九州王朝律令」には年号使用を定めた儀制令があり、その運用が「式」などで決められていたと推定できるのですが、本格的な研究はこれからです。


第1744話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(1)

 現在、大型台風21号の強風に揺れる拙宅にて「洛中洛外日記」を書いています。築百年以上のおんぼろ家屋ですので、とても不安です。初めて聞くような轟音と家の振動に怯えています。なんとか無事に通り過ぎてほしいものです。

 「古田史学の会」HP読者のSさん(東京都)から九州年号に関する重要な質問をいただきました。「元壬子年」木簡になぜ九州年号が記されていないのかという質問です。この問題は以前からの検討課題ですが、よくわからないままでした。そのため、一週間ほど考えてから、「九州王朝律令に年号使用に関する規制があったのではないか」と返信しました。良い機会ですので、年号使用に関する「九州王朝律令」について考察することにします。

 木簡に関して年次表記を見てみると、701年以降は「大宝」などの年号使用が一般的ですが、700年以前は干支が使用されており、九州年号が使用されているものはありません。この史料事実から、近畿天皇家は公文書に限らず木簡も含めて広範囲での年号使用を指定していたと思われます。ちなみに『養老律令』儀制令には次のように年号使用を指定しています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」

 使い捨ての荷札木簡が「公文」に属するのかはよくわかりませんが、出土木簡には年号が記されていますから、運用上は木簡も年号使用を命じていたと考えられます。そうした近畿天皇家の時代(701年以後)とは異なり、700年以前の九州王朝時代の木簡には干支で年次が記されています。従って、九州王朝律令には年号使用範囲が指定されていたか、それとは別の「式」などの法令で年号使用範囲を制限していたのではないでしょうか。(つづく)


第1718話 2018/08/05

大行事八幡社の「大化」書写史料

 「洛中洛外日記」1716話(2018/07/29)「大行事八幡社(豊後大野市)の『大化』」で紹介した豊後大野市の大行事八幡社の「大化元年」銘獣像ですが、久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)から貴重な情報と史料が送られてきました。今日はわたしの誕生日なのですが、素晴らしいプレゼントとなりました。
 『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)には「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」としか記されていないのですが、犬塚さんは『豊後国志』と『豊後史蹟考』を調査され、その当該部分をお知らせいただきました。いただいたメールを転載します。

【犬塚さんからのメール】
古賀様
 豊後大野市緒方町の大行事八幡社の「大化」年号については、洛中洛外日記でご紹介のあった太宰管内志の他に豊後国志と豊後史蹟考に記載がありますので参考までにご紹介します。
 まず豊後国志(1803年)によれば、「社記曰。孝徳天皇大化元年八月。有降臨之徴。建祠。神前有木造獣三雙。其一雙題紀年於背。大化元年。某月日。文字漫滅。其奇古可信。」
 また豊後史蹟考(1905年)は、「大行事八幡社 緒方郷今山村に在り、孝徳天皇大化元年八月の創建にして古昔は、本郡緒方郷二十四ヶ村の鎮守とし、社坊八ヶ寺を置き、毎歳八回の大祭を行ふを例とす、乃て大行事と称すと云ふ、天正中、兵火の為め、社殿旧記悉く烏有に帰したるも、今尚ほ三雙の木造獣を存し、其中一雙の底部には『大化元十一月十八日』の文字を刻し、一雙には豊後国緒方今山大行事神前応永三十一年甲辰秋大願主云々と記し、今一雙のものには題書なし」として、底部に大化元年の文字を刻した木造獣の図を掲げています。(別添ファイル参照)
 干支がないため倭国年号であるとの判断は難しいようです。干支は最初から書かれていなかったのか消えてしまったのか、またこの図が、いつ頃誰によって描かれたのかについてはなにも記載がありません。
 ところで、「大化」年号と地名の関係ですが、「角川日本地名辞典44 大分県」に次のような記載がありました。
 「たいか 大化〈緒方町〉 大野川の支流緒方川下流右岸の丘陵地帯に位置する。地名は大行事八幡の木造獣に大化元年の銘文があることによる。」
 やはり年号と関係があったようです。
 さて、「大化」年号ですが、九州には長崎県を除く各県の史料に存在しますが、倭国年号である可能性があるのは、今のところ宮崎県日南市の駒宮神社の縁起に見えるものだけのようです。
 日向地誌(1929年)に「社記云文武天皇ノ大化元年乙未創建シテ神武天皇ヲ祭ルト」とあり干支が一致しますので、倭国年号の大化元年乙未(持統天皇十年)(695年)と考えて間違いないと思われます。
(1927年の宮崎県史蹟調査は、文武天皇の時代には大化という元号がないこと、また孝徳天皇の大化元年としても干支が合わないことから、元年とは文武天皇元年であり「最初建立者、文武天皇元年丁酉」とした元禄二年の棟札の記載が正しいとし、縁起にある大化元年乙未を誤りとしている。)
 以上、「大化」年号に関する情報です。
 久留米市 犬塚幹夫
【転載おわり】

 この報告によりますと、江戸時代には「大化元 十一月十八日」と彫られた獣像が存在していたわけですから、今も残されている可能性がありそうです。木製ですから放射性炭素同位体年代測定で分析すれば、7世紀頃のものかどうかぐらいは判明するのではないでしょうか。もし同時代のものであればこの「大化」は同時代九州年号史料とみて問題ないと思います。


第1716話 2018/07/29

大行事八幡社(豊後大野市)の「大化」

 同時代九州年号史料について「洛中洛外日記」810話(2014/10/25)「同時代『九州年号』史料の行方」という一文を書き、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店。2017年)に転載しました。その中で紹介したのが次の三つの九州年号史料で、いずれも江戸時代の地誌に記されていたものです。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年に造営する由、書付けてありしと云」

 この中で「白鳳壬申」骨蔵器については福岡市や久留米市での講演会で紹介し、地元の方々で調査してほしいと協力要請してきたところです。
 今日、たまたまこれらの九州年号史料のことが気になって、「大化元年」獣像があるとされる大野郡の大行事八幡社についてネット検索したところ、とても興味深いことがわかりましたので、ご紹介します。
 『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)「大行事八幡社」の記録を頼りに、「大分県」「大野」「大行事八幡」で検索したところ、一発で目的とする神社がヒットしました。わたしが最初に驚いたのが大行事八幡社の所在地名でした。「大分県豊後大野市緒方町大化」といい、なんと字地名が九州年号の「大化」と同じなのです。「木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見え」と『太宰管内志』には紹介されており、この銘文の「大化元年」と地名の「大化」が無関係は思われません。
 同神社を紹介した「大分県豊後大野市から気ままなblog」に掲載されている写真に神社前の石柱があり、そこには「大化創祀 大行事八幡社」と彫られています。おそらく、木製の獣に彫られた「大化元年」とは同神社創建年次のことと思われます。
 このように地名に九州年号「大化」があり、石柱には「大化創祀 大行事八幡社」とあることから、同神社が大化元年に創建され、そのことにより字地名も「大化」とされたとする理解でよいと思われますが、この「大化」が九州年号「大化」(695〜703年)なのか、『日本書紀』の「大化」(645〜649年)の影響を受けて後世に「大化元年(645)創祀」と表記されたのかという問題が残されています。引き続き調査したいと思いますが、地元の方のご協力が得られれば幸いです。