九州年号一覧

第1543話 2017/11/24

四国の高良神社

 今日、出張から戻ると別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)から『古田史学会報』への投稿原稿が届いていました。「四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編」という論稿で、四国各県の「高良神社」の一覧が添えられていました。それには四国四県併せて20社以上の高良神社が列記されており、四国にこれほどの高良神社があることに驚きました。
 今までの研究では、本家本元の福岡県以外では長野県に高良神社が濃密分布していることが知られていました。その後、久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)の調査により、淡路島にも複数の高良神社の存在が確認されたのですが、なぜ淡路島に分布するのかがわかりませんでした。今回の別役さんの報告により、四国と淡路島に高良神社の分布が確認されたわけで、福岡県(筑後)から四国を経由して淡路島へと高良信仰が伝わったという可能性が浮上してきました。
 別役さんの論稿は、四国の高良神社研究の初歩的ではありますが先駆をなすものですので、『古田史学会報』への採用を決めました。これからの更なる研究の進展が期待されます。


第1542話 2017/11/22

『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)

      のピンポイント古代史

 昨日からの四国出張では、行きは明石大橋を渡り、帰りは瀬戸中央自動車道から山陽道を走っています。吉備SAに置かれていたパンフレットによれば、今年は山陽道全線開通20周年の節目とのこと。現在、「古田史学の会」で編集中の『古代に真実を求めて』21集の特集の一つが「多元史観による古代官道研究」ですが、ある研究では古代官道の距離と現代の高速道路の距離が近い数字を示すようです。古代も現代も移動効率や土木工学に基づくと、似たような経路となるのかもしれません。
 吉備SAでは『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)という小冊子(86頁)をいただきました。副題が「神社仏閣を巡る」とあり、岡山県内の有名な寺社がカラー写真で紹介されているという優れものでした。山陽新聞社から本年6月に発刊されたもので、地元新聞社の強みを活かした冊子でした。
 わたしは岡山県や古代吉備の寺社に詳しくありませんので、短時間で読めて勉強になりました。一読しての感想は、8世紀創建の寺社が多く、九州王朝の時代、すなわち7世紀以前の創建寺社は年代が伝承されているものでは2件だけでした。もちろん、同冊子に掲載されていない寺社にも古い所があると思いますが、掲載されているのは千手山弘法寺遍明院(瀬戸内市、開山7世紀後半)と高野神社(津山市、安閑天皇2年〔534〕)でした。この他には有名な吉備津神社(岡山市)や吉備津彦神社(岡山市)などは創建年代不明とされています。
 千手山弘法寺遍明院の解説には「遍明院は東壽院とともに7世紀後半に天智天皇の勅願を受け、千手山弘法寺塔頭寺院として開かれた。弘法大師巡錫の地として知られる。」とありますから、もしかすると縁起書などには、創建年の表記に九州年号の「白鳳」が使用されているかもしれません。とりあえずスマホで検索調査してみると、「天智元年(662)」と紹介するサイトや「大化四年(648)、天智天皇の勅願」とするものがありました。「天智元年(662)」は白鳳2年に相当しますが、「大化四年(648)」では天智天皇の時代ではありません。九州年号の「大化4年」でも698年ですから、やはり天智期ではありませんから、不思議な表記です。やはり、縁起書など出典にあたる必要があります。ただ、いずれにしても九州王朝の時代ですから、その創建主体は天智天皇ではなく、九州王朝系の権力者の可能性がうかがわれます。
 高野神社創建年の記述として「安閑天皇2年(534)」とありますが、『日本書紀』によれば安閑天皇2年は535年なので、同冊子の誤植か、異伝なのかもしれません。仮に534年であれば、九州年号の「教到4年」に相当します。ここでも縁起書など原典にあたる必要があります。
 九州年号による岡山県の寺社伝承などを調査分析すれば、吉備の多元的古代が見えてくるかもしれません。


第1536話 2017/11/05

古代の土器リサイクル(再利用)

 ちよっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器を骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。


第1526話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(4)

 白村江戦年次に関する論争の経緯と古田先生の見解の推移についてご紹介してきましたが、最後に現在の研究状況とわたしの見解について説明することにします。
 白村江戦年次に関わる研究や論争が「古田史学の会」関西例会でも行われてきたのですが、それらを踏まえた上で、わたしは『日本書紀』にある通り、663年(天智二年・龍朔三年)でよいと考えています。それは次のような理由からです。

1.白村江戦を記録した現存最古の史料は『日本書紀』(720年成立)であり、この件については最も史料の信頼性が高い。その理由は次の通り。

 ①白村江戦を戦った当事者(九州王朝・倭国)の配下の勢力だった近畿天皇家により編纂されており、白村江戦の記憶も記録も存在していたと考えられる。
 ②もし白村江戦が662年であったとしたら、その記事を663年にずらさなければならない理由が近畿天皇家にはない。
 ③『日本書紀』の一連の記事において白村江戦の年次に不審とすべき点は見あたらない。
 ④白村江戦等で捕虜となった人物(大伴部博麻ら)が、敗戦の30〜40年後に帰国した記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見え、その後に『日本書紀』は成立していることから、こうした帰国者からの情報も近畿天皇家は入手可能である。

2.以上のように、『日本書紀』の白村江戦年次に関する記事を疑わなければならない理由はなく、信頼して良い。比べて海外史書も次のように白村江戦を龍朔三年(663)としている。あるいは年次を特定していない。

 ①『旧唐書』「劉仁軌列伝」(945年成立)には、顯慶五年に始まる、高宗征遼時の仁軌の一連の事績が顯慶五年(660)以下に記され、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷」とあるが年月は未記載。その次は麟徳二年(665)の封禅の儀における事績を記す。従って、白村江の年次は660〜664年の間であることはわかるが、その間のいずれであるかは特定できない。
 ②『旧唐書』「東夷・百済条」には龍朔二年(662)七月から唐への帰還までの記事中に「仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷」とあり、その次の記事は麟徳二年八月。従って白村江戦の年次は特定できない。
 ③『新唐書』(1060年成立)本紀には龍朔三年(663)に「九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。」とあり、白村江戦を龍朔三年(663)とする。
 ④『三国史記』「新羅本紀」(1145年成立)には「至龍朔三年 總管孫仁師 領兵來救府城 新羅兵馬 亦發同征 行至周留城下 此時 倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船」とあり、白村江戦は龍朔三年(663)と理解できる。
⑤『三国史記』「百済本紀」には龍朔二年(662)七月以降の記事に「遇倭人白江口 四戰皆克」とある。次の記事は麟徳二年(665)なので、白村江戦の年次を特定できない。

 以上のように、『日本書紀』も海外史料も白村江戦は663年であることを示しており、積極的に662年を指示する、あるいは確定できる史料はありません。ですから、古田先生が662年説から663年説を受容する見解に変わられたこともよく理解できるのです。


第1520話 2017/10/22

秩父神社棟札の九州年号「明要」

 先の東京講演会の前日、東京古田会の勉強会に参加させていただきました。テーマは記紀歌謡と和田家文書研究で、「古田史学の会」関西例会ではほとんど扱われないジャンルでもあり、よい勉強になりました。中でも安彦克己さん(港区)による和田家文書の記載内容を現地調査で確認するという研究報告はとても素晴らしいものでした。いつか、和田家文書をテーマとした書籍を安彦さんと共同で発行したいと強く思いました。
 その安彦さんから回覧された史料に『新編武蔵風土記稿』の「秩父神社」の棟札が記された部分があり、興味深く拝見しました。同史料に九州年号「明要」が見えることは知っていましたが、見るのは初めてでした。棟札の九州年号部分は次のような内容です。

(表)合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢[中略]

(裏)右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也[中略]當初明要六年開基以来天正弐拾年壬辰迄一千四十六年也[後略]

 この棟札は天正二十年(一五九二)に社殿を造立したときに作成されたもので、同社開基を明要六年(五四六)と記した貴重な史料です。秩父神社の創建年代については諸説ありますが、九州年号「明要」による記録は貴重です(「天武天皇白鳳四年の鎮座」とする記事も見えます)。秩父神社についての研究も機会があれば挑戦したいものです。

《参考資料》
 新編武蔵風土記稿 巻之二百五十五 秩父郡之十
大宮郷
妙見社
下町続にあり、 当社は【延喜式】神名帳に載たる、本郡二座の一秩父神社なり、 人皇四十代天武天皇白鳳四年の鎮座にして、 祭神は当国国造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云、 又当社天正二十年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要六年丙寅鎮座とあり、明要は逸号なれば、丙寅は即位より七年に当れり、 当今の縁起には、大和国三輪大明神を写など記して、其説定かならず、按に【国造本紀】瑞籬朝御世八意思兼命十世孫知々夫彦命、定賜国造拝詞大神と據れば、崇神の朝国造を置玉ひし時より、国神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑ひなかるべし、 然に後年知々夫彦命の霊をも配せ祀りしかば、両説となりしにあらずや、 三輪を写せしと云は、いかなる據にや詳ならず、又当今妙見社と号するものは、後年社内に北辰妙見社を勧請して、霊験著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の旧号は失ひしなるべし、
[中略]
神体白幣を置、社伝云、中古までは末社も七十五宇建てたりしに、兵乱の為に焼亡せられ、神田も掠め奪はれ、神殿瑞籬のみ纔に存せしを、五十七石の神領を御寄附ありしより、神事祭礼旧に復すと云、毎年二月三日祈年の祀り、八月二十三日年穀の祭、十一月三日麦穀の祀りにて、近郷つどひてことに賑はへり、
按に当所へ妙見を勧請せしことは、千葉系譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の国香、下野国染谷川の辺にて、平将門と合戦の時、国香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此辺に霊験の神社ありやと問ひければ、里老答て上野国群馬郡花園村に、妙見菩薩の霊場ありと云、夫より良文同国緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移しせし時、彼花園の妙見を当地へ勧請し、其後又良文下総国千葉へ転ぜし時、当所の妙見を彼国へ勧請すといへり、
[中略]
本社 南向一丈七尺余に一丈九尺余、高二丈七尺八寸、前に幣殿り、一丈二尺に一丈八尺、高一丈八尺五寸、拝殿三丈六尺に一丈八尺余、高二丈三尺余唐破風作なり、
鳥居 木にて造る、南向柱間二丈、拝殿距ること四十三間程、此間切石を敷けり、社地には檜・杉生茂り、又大樫など若干株あり、此鳥居内にある末社下に記す、当社棟札左の如し、

合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢
[中略]
右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也
[中略]
御本事 薬師如来 脇持多門天座像一尊者、甚秘故不顕之、

東照宮御社 本社東南隅にあり
知々夫彦社 天照太神社 日御崎社 豊受太神社
七十五末社 本社の後ろより、少し左右へ折廻し、一棟にて七十五座区別す、片倉明神社 由留伎明神社 伊雑波明神社 羽野明神社 阿野権現社 多戸明神社 中原明神社 多賀明神社 枚岡明神社 大鳥明神社 住吉明神社 敢国明神社 都波岐明神社 伊射波明神社 熱田明神社 事麻知明神社 浅間明神社 三島明神社 寒川明神社 洲崎明神社 玉前明神社 香取大神宮 鹿島大神宮 南宮明神社 水無明神社 諏訪明神社 抜鉾明神社 二荒山明神社 都々古和気明神社 大物忌明神社 遠敷明神社 気比明神社 白山明神社 気多明神社 伊夜彦明神社 渡津明神社 天神地祇社 出雲明神社 籠守明神社 宇倍明神社 倭文明神社 物部明神社 由良姫明神社 仲山明神社 吉備明神社 厳島明神社 玉裡明神社 日前明神社 大麻彦明神社 田村明神社  都佐明神社 筥崎明神社 高良玉垂明神社 西寒田明神社 淀姫明神社  阿蘇明神社 和多積明神社 松尾明神社 吉田明神社 戸隠明神社 丹生明神社 貴布禰明神社 広瀬明神社 龍田明神社 正八幡宮  粟島明神社 恩智明神社 斯香明神社 熊野権現社 水尾明神社 白鬚明神社 御崎明神社 石出明神社 賀茂明神社 許波明神社


第1518話 2017/10/16

九州年号「大化」の原型論(3)

 九州年号原型論に関する『二中歴』と「丸山モデル」との論争において、丸山さんの主張は次のようなものでした。

(a)『二中歴』以外の九州年号群史料には「大長」があり、「大長」がない『二中歴』は孤立している。従って、「大長」は実在したと考えるべき。
(b)六八六年(丙戌)を「朱鳥元年」とする『二中歴』に対して、同年を「大化元年」とする諸史料がある。後代の九州年号群史料編纂時において、『日本書紀』で公認されている「朱鳥」が消される理由はない。しかし「朱鳥」がない史料があることから、元々「朱鳥」は九州年号ではないと考えるのが論理的である。従って「朱鳥」がある『二中歴』は『日本書紀』の影響を受けて「朱鳥」が追記されたものと考えられ、その史料としての信頼性は劣る。
(c)『二中歴』には最初の年号として「継躰」がある。これは近畿天皇家の天皇の諡号「継躰」が年号と誤解されたもので、『二中歴』は信頼性が劣る。
(d)『二中歴』以外の多くの九州年号群史料を総合的に比較検討して作成した「丸山モデル」に比べて、史料的に孤立している『二中歴』一つだけを史料根拠とする方法は不適切であり、説得力がない。
(e)鎌倉時代初頭に成立した『二中歴』が九州年号群史料としては現存最古だが、室町時代に成立した他の九州年号群史料(「丸山モデル」型)もあり、両者はそれほど時代的に離れてない。従って、成立が早いという理由で『二中歴』が優れるというのはそれほど説得力はない。

 以上のような点を上げられて、丸山さんは自説の正当性を主張されました。わたしも(b)の理由から、当初はこの「丸山モデル」が妥当と考えていました。(つづく)


第1517話 2017/10/14

九州年号「大化」の原型論(2)

 古田先生を始め、従来の九州年号研究では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国・注②)への王朝交代(七〇一年)に伴って、九州年号(倭国年号)も大化六年(七〇〇)で終わり、大和朝廷の「大寶」年号建元(七〇一)に至ったと理解されてきました。他方、最後の九州年号を『二中歴』にあるように「大化」とするのか、『二中歴』以外の史料にある「大長」とするのかで、長く論争が続いてきました。九州年号原型論に関する『二中歴』と「丸山モデル」との論争でした。
 古田先生が名著『失われた九州王朝』で九州年号の存在を明らかにされ、その後、陸続と九州年号研究者が生まれ(注③)、各地の九州年号史料の発掘が行われました。そして、初期の九州年号研究を牽引されたのが丸山晋司さん(市民の古代研究会、八尾市)でした。丸山さんは現存する年代記などに残された九州年号群史料を収集され、その最大公約数的な九州年号原型案「丸山モデル」を提唱されました(注④)。わたしも三十代の頃、丸山さんの研究に触発され、九州年号研究を自らの古代史研究テーマの一つとしました。
 その丸山モデルの特徴は次のような点でした。

(1)最後の九州年号を「大長」(六九二〜七〇〇年)とする。
(2)その直前を「大化」(六八六〜六九一年)とする。
(3)『二中歴』に見える「朱鳥」(六八六〜六九四年)はなかったとする。あるいは九州年号ではないとする。
(4)最初の九州年号を「善記」(五二二〜五二五年)とする。
(5)『二中歴』には見えず、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(六二九〜六三四年)を九州年号とする。

 この丸山モデルと『二中歴』のどちらを九州年号の原型とするのかの論争が始まりました。(つづく)

(注)
②七〇一年以後の列島の代表者となった近畿天皇家を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であり、「近畿天皇家」と呼ぶべきとする意見があります。
 この件については別途詳述する予定ですが、「九州王朝(倭国)」の対語として「近畿天皇家(日本国)」ではバランスがとれません。何故なら、片や倭国の学術名「九州王朝」(古田先生命名)、片や日本国の「王族」の学術名「近畿天皇家」なのですから。もし、「近畿天皇家」と表記するのなら、「九州王朝(倭国)」側の対語は「筑紫王家」のようなものになります。
 本稿のケースでは、「大和朝廷」以外では「近畿王朝」という表記が適切かもしれません。「大和朝廷」では長岡京や平安遷都した時代が含まれませんから。他方、近畿天皇家が大和の「朝廷(朝堂院を有す宮殿)」に居して全国統治した藤原京・平城京の時代に限定する用語としては「大和朝廷」が明確です。その認識に立った場合、「大和朝廷以前」という表記が七〇〇年以前の九州王朝(倭国)の時代を表すことになります。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』という書名に用いた「大和朝廷以前」はこの認識に立ったものです。
 これまでわたし自身もそれほど深く考えることなく慣習として使用してきた学術用語について、多元史観・九州王朝説に立った厳密な理解や選考を古田学派で検討すべき時期が来ているのかもしれません。もちろん、どの学術用語を使用するかは研究者個人の学問の自由です。そして、その選択を支持するか否かも読者個々人の学問の自由です。
③『市民の古代』十一集(市民の古代研究会編、新泉社刊。一九八九年)は九州年号が特集され、各地で発見された「九州年号史料」の一覧等が掲載されている。
④丸山晋司『古代逸年号の研究 古写本「九州年号」の原像を求めて』アイビーシー出版、一九九二年。


第1516話 2017/10/13

九州年号「大化」の原型論(1)

 わたしは九州年号の「大化」が、古田先生のいうONライン(西暦七〇一年)をまたいで存在し、「大長」がそれに続いたとする説を発表してきました。「大化」年間を六九五〜七〇三年の九年間、「大長」年間を七〇四〜七一二年の九年間とする仮説です。更に「大長」年号を最後の九州年号とする論稿も発表してきました(注①)。それらに対して、谷本茂さんより「古田史学の会」関西例会(二〇一七年六月)や『古田史学会報』一四一号(二〇一七年八月)掲載の「倭国年号の史料批判・展開方法について」にて、「大化」「大長」の年次や期間について古賀説とは異なるものが諸史料中にあることから、古賀説の根拠に対して疑義が示されました。
 これは文献史学における史料批判と学問の方法に関わる重要なテーマを含んでいますので、谷本さんからの疑問に答えながら、改めて拙論を説明したいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「最後の九州年号 『大長』年号の史料批判」『古田史学会報』七七号所収、二〇〇六年十二月(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房〔二〇一二年一月〕に収録)。
 古賀達也「続・最後の九州年号 消された隼人征討記事」『古田史学会報』七八号所収、二〇〇七年二月(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房〔二〇一二年一月〕に収録)。
 古賀達也「九州年号『大長』の考察」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房所収。


第1486話 2017/08/24

大阪歴博で市大樹さんの講演会

 木簡研究で優れた業績を発表された市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)について、「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」にて紹介しました。
 『日本書紀』孝徳紀の白雉改元(650年2月)の儀式が行われた宮殿を前期難波宮とする新説を市さんは発表されたのですが、そのことを講演されるようです。前期難波宮(通説では難波長柄豊碕宮)の完成は孝徳紀白雉三年(652年9月)と記されており、その二年以上前に白雉改元の儀式が前期難波宮で行われるとは考えにくいと思うのですが、上町台地で大規模な改元儀式が行える場所は前期難波宮(法円坂)以外にはありません。そのため、市さんは650年には改元儀式が行える程度には工事が進んでいたとされました。
 わたしは『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉は2年のずれがあり、九州年号の白雉元年(652年)であれば、その年に完成した前期難波宮での改元儀式は可能と考えています。すなわち、九州王朝説と九州年号の実在を認めれば、前期難波宮の完成と白雉改元儀式の年が一致し、市さんのように完成の2年前に改元儀式を行ったという無理な解釈にはしらなくてもすむのです。講演会で質疑応答ができれば、この点をお聞きしたいと思います。
 最後に大阪歴博ホームページの講演会の案内を転載します。前期難波宮が一元史観の通説ではどのように位置づけられているのかがよくわかりますので、ご参照ください。

【転載】
特集展示「新発見!なにわの考古学2017」関連行事
「大阪の歴史を掘る2017」講演会
 市 大樹氏講演
孝徳朝における難波の諸宮

 特集展示「新発見!なにわの考古学2017」の関連行事の一つとして9月23日(土・祝)に「大阪の歴史を掘る2017」講演会を開催します。
 今回は、大阪大学大学院文学研究科 准教授の市 大樹氏にご講演いただきます。前期難波宮が孝徳天皇の造営した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に相当することは、現在ほぼ受け入れられています。しかし『日本書紀』をひもとくと、孝徳朝には難波の諸宮として、子代離宮(こしろのかりみや)・蝦蟇行宮(かわずのかりみや)・小郡宮(おごおりのみや)・難波碕宮(なにわさきのみや)・味経宮(あじふのみや)・大郡宮(おおごおりのみや)なども登場し、問題はかなり複雑です。この講演では、難波長柄豊碕宮に軸を据え、他の諸宮との関係を探ります。
 また、当館の村元健一が、特集展示「新発見!なにわの考古学2017」で展示する大阪市内の発掘調査の成果を紹介します。注目される調査には喜連西(きれにし)遺跡の古墳時代初頭の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、後期難波宮の官衙(かんが)、住吉行宮(すみよしあんぐう)跡の堀と思われる中世の大規模な溝があります。昨年の発掘調査から何が明らかになったのかを考えます。

主催 大阪歴史博物館
日時 平成29年9月23日(土・祝)
   午後1時30分〜4時30分(午後1時より受付)
会場 大阪歴史博物館 4階 講堂
内容
「平成28年度 大阪市内の発掘調査」
     村元健一(当館学芸員)
「孝徳朝における難波の諸宮」
     市大樹 氏(大阪大学大学院文学研究科 准教授)

定員 250名(当日先着順)
参加費 500円
参加方法 当日直接会場にお越しください


第1475話 2017/08/09

『塩尻』の中の九州年号(4)

 わたしが天野信景(あまの・さだかげ)の随筆『塩尻』における九州年号認識を調べてみようと思ったのは、九州年号群史料として『塩尻』が研究書(久保常晴著『日本私年号の研究』など)に紹介されていたことによります。ですから、『塩尻』の書名だけは20年以上前から知っていたのですが、今まで読むことがありませんでした。今回、東海地方史学協会により昭和59年に発行された『塩尻』(明治40年、国学院大学出版部刊行の復刻版)を閲覧する機会があり、調べてみることにしました。
 『塩尻』が九州年号群史料とされたのは、その中に引用された「皇年代記」に九州年号が記されているためです。同書「巻二十四」に、「皇年代記は中世の作といへとも不稽の書といふへし。但し其中、考に備ふへき事、一二を抄す。」(句読点は古賀による)と述べ、その後に「皇年代記」からの転載と思われる記事が続きます。そして継躰天皇の項から九州年号が登場し、文武天皇の「大長」まで記されています。その一部を紹介します。

 「継體天皇日本年號善記始也云々〔是継體帝即位十六年を善記元年とす〕」(中略)
 「持統天皇 朱雀二甲申 大化六丙戌 大長九壬辰」
 「文武天皇大長六年即位 大寶三辛丑 慶雲四甲辰」
 ※〔〕内は二行の細注。

 このように九州年号が歴代天皇の名前と共に付記されています。その年号立ては、九州年号の原型と思われる『二中歴』タイプではなく、「朱鳥」の9年間がカットされ、「大化」「大長」が701年の大寶の直前にはめ込まれた、後世による改竄タイプです。その末尾には天野信景の見解が記されています。

 「是より末元明帝の和銅以来諸記の如し。上の二十餘の年號、正史に見えす。夫、我國年號のはしめは孝徳帝元年を大化と號したまひし。其六年を白雉と改め、白鳳は天武即位の元年壬申より乙酉迄。十四年丙戌は朱雀元年なり。持統は年號を立玉はす。文武の即位五年辛丑大寶と號せられし後、綿々として改元あり。皇年代記の年號、前後いふかしき事ともなり。」
 ※句読点は古賀による。

 この記述から、いわゆる九州年号の内、『日本書紀』孝徳紀の大化・白雉、天武元年壬申白鳳、丙戌朱雀は大和朝廷の年号であると天野信景は理解していることがわかります。そして、「皇年代記の年號、前後いふかしき事ともなり。」と締めくくっていることから、九州年号に対して疑念を抱いています。従って、先に紹介した『塩尻』巻十九の次の記述とは微妙に認識が変化しているように思われます。

 「我國年號大寶を始とす。其前へ年號有といへとも一時の嘉號也。まして佛書にいへる我年號は史にのせさる所也。(後略)」巻十九

 このように巻十九では九州年号を「佛書にいへる我年號は史にのせさる所也。」と、史書には見えない「我年号」としています。
 『塩尻』は天野信景が書き残した短文を後世になって編集したものなので、巻十九と巻二十四の成立時期の関係がよくわかりません。天野信景の古代年号に関する認識の変遷については書誌学的研究成果を待たなければなりませんが、その認識が江戸時代の尾張の学者や史料に少なからぬ影響を及ぼしたことは確かですので、尾張地方に九州年号史料が比較的少ないことと関係しているのではないかと思います。
 たとえば九州王朝のお膝元の筑前の史料にも九州年号が比較的少なく、これは筑前黒田藩の学者、貝原益軒が九州年号偽作説に立っていたため、その影響を受けたためとわたしは考えています。これと同様のことが尾張藩でもあったのではないでしょうか。なお、お隣の三河地方では九州年号史料の様相がやや異なるようですが、このことは別の機会に論じたいと思います。
 なお付言しますと、九州年号史料の地域別残存状況の差異を、古代九州王朝の影響力の範囲を示すものとする論者もおられますが、ことはそれほど単純ではないことを、本稿で紹介したような事例からもご理解いただけるのではないでしょうか。


第1474話 2017/08/08

『塩尻』の中の九州年号(3)

 天野信景(あまの・さだかげ)の随筆『塩尻』には我が国の年号の始まりについて次のように記しています。

 「我國年號大寶を始とす。其前へ年號有といへとも一時の嘉號也。まして佛書にいへる我年號は史にのせさる所也。(後略)」『塩尻』巻十九
 ※句読点は古賀が付した。

 この記述について、天野信景は大寶以前の年号を九州年号と理解しており、これとは別に「佛書にいへる我年號」については九州年号かどうかは直ちには判断できないと、わたしは「洛中洛外日記」1473話で述べました。その後、それは誤読・誤解であることに気づきました。
 「其前へ年號有といへとも一時の嘉號也」とされた年号をわたしは九州年号のことと理解したのですが、よく考えるとそれは『日本書紀』に見える大化・白雉・朱鳥の三年号(九州年号を『日本書紀』編者が転用したもの)のことのようです。ですから、大宝以後のように連続した年号ではなく、「一時の嘉號」とされたのです。
 他方、「佛書にいへる我年號」こそ九州年号の可能性が高いと思います。その根拠は「佛書にいへる」という点です。九州年号には仏教と関係が深い漢字や用語があり、寺院の縁起類に九州年号が使用されている例も少なくありませんから、このような表現になったのではないでしょうか。また、「史にのせさる所也」とありますから、この年号は「史」(『日本書紀』などの正史のことか)に記載されていない九州年号のことと思われます。さらに「我年號」と表現していることから、史書に見えない九州年号も我が国の年号と認識していることがうかがえます。従って、この記事に依れば天野信景は九州年号を偽作とは考えていないこととなります。(つづく)


第1473話 2017/08/07

『塩尻』の中の九州年号(2)

 愛知県は神社が多いことでも知られており、記紀説話にも登場する有名な熱田神宮もあります。しかし、それらの由緒や縁起書に九州年号がほとんど見えないことにわたしは気づき、その理由を調べてみたいと常々考えていました。そこで、江戸中期の尾張地方で成立した随筆『塩尻』を読んでみることにしました。同書を記した当地の高名な学者である天野信景(あまの・さだかげ)が九州年号をどのように認識していたのかを調べるためです。
 わたしが読んだのは『塩尻』百巻本ですから、九州年号に関係する記述を探すのは大変でしたが、幸い目次により巻十九に「我國年號大寶を始とす」という記述を見つけましたので、その前半部分を紹介します。

 「我國年號大寶を始とす。其前へ年號有といへとも一時の嘉號也。まして佛書にいへる我年號は史にのせさる所也。(後略)」※句読点は古賀が付した。

 この記述によれば天野信景は大寶以前の年号(九州年号)の存在を知っており、「一時の嘉號」と理解していることがわかります。さらにこれとは別に「佛書にいへる我年號」の存在を記しているのですが、これが九州年号かどうかは直ちには判断できません。この記事から判断する限り、天野信景は九州年号偽作説ではないようです。しかし、「我國年號大寶を始とす」と最初に記していますから、「一時の嘉號」が大和朝廷の年号ではないと認識していることもわかります。短い文章ですから、これ以上のことは判断できません。(つづく)