九州年号一覧

第1470話 2017/08/05

白雉改元「難波長柄豊碕宮」説

 今日は京都市右京中央図書館で市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)を閲覧・コピーしてきました。市さんは木簡研究で優れた業績をあげられた研究者ですが、この論文では前期難波宮の造営時期についての新説を発表されました。その結論は『日本書紀』白雉元年条(650)に見える白雉改元の儀式の舞台を難波長柄豊碕宮(前期難波宮)とするものです。
 前期難波宮に関しては一元史観の学界内でもいくつかの矛盾や疑問を抱え、その解決のための緒論が発表されてきました。中でも白雉改元の大規模な儀式が行われた宮殿が難波(上町台地)のどこにあり、『日本書紀』孝徳紀に記されたどの宮殿(難波埼宮・小郡宮・大郡宮・味経宮など)とするのかが問われてきました。というのも、最も巨大な「朝庭・朝堂院」を有する前期難波宮(一元史観では長柄豊碕宮とする)の完成は孝徳紀白雉三年九月(652)であり、白雉改元の儀式が開催された孝徳紀白雉元年(650)には未完成だったからです。「洛中洛外日記」575話で白雉改元の宮殿を「小郡宮」とする説を紹介したこともあります。本稿末尾に転載します。
 このような問題に対して出されたのが市さんの「白雉改元、難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」説です。改元の年次は『日本書紀』の通り「白雉元年(650)」とされているので、前期難波宮の造営開始をそれまで有力視されていた「大化五年(649)」(吉川真司説)ではなく、「大化二年(646)」頃からとされました。その結果、「白雉元年(650)」には前期難波宮の宮殿部分は完成していたとされました。

 「大化五年三月、左大臣阿倍内倉梯麻呂の死を弔う挙哀儀礼が豊碕宮の朱雀門で実施された。この時点までに豊碕宮の内裏前殿と朱雀門がほぼ完成していたと考えられる。豊碕宮では国家的な儀礼時に国家の威容をアピールするのに必要な建物から優先的に建設していったのである。」(297頁)
 「このように⑱は豊碕宮での儀式のありようを伝えたものとみられる。そうであれば、ここに登場する「朝庭」「紫門」「中庭」「殿前」は、順に前期難波宮の朝堂院の庭、内裏南門、内裏前殿の庭、内裏前殿の前に比定できる。白雉元年二月の段階において、豊碕宮の中枢部には、内裏前殿・朱雀門に加え、少なくとも内裏南門が建設されていたと考えられる。」(299頁)
 ※⑱は孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元の儀式の記事。

 このように、それまで不明とされてきた白雉改元の儀式の舞台を前期難波宮とされました。すなわち、一元史観では解決できていなかった課題について一つの解決案を示されたのです。この市さんの説が成立可能かどうかは別の機会に論じますが、前期難波宮の存在や『日本書紀』に記された白雉改元儀式をどのように理解するのかは、一元史観でも多元史観でも解決しなければならない重要課題なのです。

【転載】
第575話 2013/07/28
白雉改元「小郡宮」説
(前略)
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。
 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117〜118頁)
 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。


第1469話 2017/08/04

『塩尻』の中の九州年号(1)

 『塩尻』は江戸中期の随筆で170巻以上が現存するといわれています。天野信景(さだかげ)(1663―1733)の著で、1697年(元禄10)ごろから1733年(享保18)に執筆され、原本は1000巻に及ぶとのこと。著者は尾張藩士で、博学の国学者として知られ、その合理主義的な学風は、平田篤胤らにも大きく影響したとされています。
 『塩尻』は著者自身が「人の見るべきにあらず、只(ただ)閑暇遺忘に備ふ」というように、その草稿は反故(ほご)紙などに書き散らしたもので、散逸が甚だしく完本はなく、1782年(天明2)名古屋の書林西村常栄が編集した百巻本のほか、数種の写本が伝わっています。今回、わたしが読んだのは国会図書館所蔵百巻本を底本とした活字本ですが、尾張地方での九州年号史料が比較的少ない理由を探るため、『塩尻』を読んでみることにしました。すなわち、当地の高名な学者である天野信景が九州年号をどのように認識していたのかを調べることにしたのです。(つづく)


第1447話 2017/07/09

九州年号「継躰」建元1500年記念

 昨日の久留米大学公開講座では雨の中を百名ほどのご来場者がありました。演題は「失われた倭国年号《大和朝廷以前》 日本最古の条坊都市、太宰府から難波京へ」で、今年が日本最初の年号「継躰」が建元されて1500年になること、建元したのは九州王朝の倭王で恐らく久留米出身の磐井であることを説明しました。特に建元と改元の語義から、大和朝廷の建元は「大宝」と『続日本紀』に記されており、『日本書紀』の大化・白雉・朱鳥はいずれも改元とされていることから、それらは大和朝廷の年号ではなく九州王朝により改元された九州年号であることを力説しました。そして、一元史観はこの『日本書紀』と『続日本紀』に明確に記された「改元」「建元」表記を説明できないでいると指摘しました。
 後半は、太宰府が日本最古の条坊都市であること、前期難波宮が質的にも規模的にも近畿天皇家の宮殿の発展段階とはかけ離れており、九州王朝の副都であるとする説を紹介しました。
 今回の講演では参加者からの質問のレベルが高く、しかも多元史観・古田史学の本質にもかかわるものでしたので、感心しました。それはつぎの三つの質問です。

〔質問1〕近年、箸墓古墳が卑弥呼の墓とされ、編年が古くされてきたが、従来の編年の方が妥当ではないか。
〔質問2〕九州王朝から大和朝廷への連続性はどのように考えられているのか。
〔質問3〕前期難波宮で全国に評制が敷かれたと思うが、それまでの地方豪族支配から律令官制による中央集権的な支配へは簡単には進まないと思われ、前期難波宮の時代はその中間的な支配形態と捉えた方がよいのではないか。

 これらの質問に対して、わたしからは次のように返答しました。

〔返答1〕畿内の古墳編年については詳しくないが、学問的調査の結果、箸墓の年代が変わるのであれば問題ないが、卑弥呼の墓にするために根拠もなく古く編年されているのであれば、それは学問的ではない。
 そもそも「邪馬台国」畿内説は学説の体をなしていない。学説とは学問的根拠(文献・出土物等)に基づいて、その解釈として提起される仮説のことだが、「邪馬台国」畿内説の根拠とされる『三国志』倭人伝には「邪馬台国」の場所を畿内とする記事はない。たとえば、今のソウル付近(帯方郡)から女王国まで12000余里と記されており、当時の1里が何メートルかわかれば、小学生でもかけ算で場所が推定できる。1里約76mの短里では博多湾岸付近であり、奈良県には絶対に届かない。漢代に使用された約450m(正確には約435m)の長里であれば、九州も奈良県も通り越してはるか赤道付近となってしまう。従って、「邪馬台国」を畿内とする根拠が倭人伝にはない。更に言えば原文は邪馬壹(やまい)国であり、「邪馬台(やまたい)国」ではない。邪馬壹国ではヤマトと読めないから「邪馬台国」と自説にあうようにデータ改竄するのは研究不正であり、理系では絶対に許されない方法である。だから「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説)ではない。

〔返答2〕九州王朝から大和朝廷への権力交代に関する研究は現在も続けられており、古田学派内でもまだ結論を得ていない。たとえば中国のような禅譲や放伐だったのかという論争も行われてきた。
 考古学的にわかっていることは、王朝交代が起こった701年を境に出土木簡が全国一斉に「評」から「郡」に変わっている。このことから、戦争により徐々に九州王朝の支配地域を浸食したというよりも、何らかの「合意」が両者に成立していたため全国一斉に「郡」に変更されたと考えている。『日本書紀』の記述も中国の禅譲・放伐の概念とは異なっており、前王朝の存在を伏せて、近畿天皇家は天孫降臨以来の伝統を持つ九州出身であり、神武以来日本を代表する王朝であるとしている。
 『日本書紀』成立当時、周囲の有力豪族たちは当然九州王朝のことは知っており、新たな権力者となった近畿天皇家はそうした状況下で九州王朝の権威を引き継ぎ、実は自らが昔から代表王朝だったとする歴史像を造作するため『日本書紀』を編纂・流布したものと考えられる。このテーマは引き続き論争が続けられると思うし、学問はそうした論争により発展する。

〔返答3〕ご指摘の可能性もあるが、考古学的出土事実から見ると、前期難波宮の北西側の谷から「漆」が大量に廃棄されていることが発見された。これは律令制における大蔵省配下の「漆工房」がこの付近に置かれたと推定されている。同じく律令制下の平城京にも同様の位置に「漆工房」があったことが知られており、両者の一致から前期難波宮の時代には律令制が機能していたと考えてもよいように思われる。前期難波宮と九州王朝律令については不明なことが多く、これからの研究課題である。

 以上のような質疑応答がなされ、講演したわたしもとても勉強になりました。終了後は聴講されていた犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)と吉田正一さん(久留米地名研究会・会員、久米八幡宮・宮司、菊池市)と三人で食事をご一緒し、夜遅くまで古代史談義を続けました。とても楽しく有意義な一夕でした。久留米大学の大矢野先生・福山先生をはじめ公開講座運営スタッフの皆様に御礼申し上げます。


第1443話 2017/07/05

不二井さんの「倭年号」提起

 「九州年号」のより適切な表記として「倭国年号」を位置づけられている古田先生の見解を「洛中洛外日記」1442話で紹介しましたが、「倭国年号」について、不二井伸平さん(古田史学の会・全国世話人)からメールが届きました。
 それによると、不二井さんも「倭国年号」について「最初、違和感を持ちました」が、「古田先生が『新羅年号』を語る中で『倭国年号』を用いられている資料を見て、あ、そうかと納得」されたそうです。さらに、「私も九州王朝史年表を作ったとき、『百済年号』『新羅年号』と並べたとき、『九州年号』では、『理屈』にならないと思ったりしました」と記されていました。
 そしてその「理屈」として、「新羅国の年号『新羅年号』、百済国の年号『百済年号』、ならば倭国の年号は『倭国年号』(さらに言えば、『倭年号』)」との考えが示されていたのです。わたしはこの「倭年号」という表記にまで考えが及んでいませんでしたので、「理屈」(論理性)を突き詰めれば「倭年号」まで進展せざるを得ないことに気づかされ、不二井さんのご指摘に驚きました。
 不二井さんは学問における用語使用の論理性を重視される研究者で、「倭年号」以外にも『三国志』のヒミカの漢字表記について、従来の「卑弥呼」(倭人伝)ではなく、自署名の「俾弥呼」(帝紀)を古田学派は使用すべきと訴えられてきました。このヒミカの漢字表記問題はちょっと複雑なのですが、「倭人伝」に限定して論じる場合は「卑弥呼」が妥当と思われますが、倭人伝の内容に限定するのではなく、倭国の女王ヒミカを論じる場合は自署名の「俾弥呼」を採用することが古田学派であれば妥当とする不二井さんのご指摘はよく理解できます。
 このように「理屈」(論理性)を重視すべきという不二井さんの指摘は、古田学派ならではの学問的配慮と言うことができます。


第1442話 2017/07/04

古田先生による「倭国年号」の使用例

 おかげさまで『古代に真実を求めて』20集の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は初版印刷部数も増え、「古田史学の会」で引き取った分も完売できました。「古田史学の会」会員やお買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。
 今回、今まで使い慣れていた「九州年号」という学術用語ではなく、敢えて「倭国年号」をタイトルに採用するにあたり、編集部では時間をかけて検討を続けました。その結果、先のタイトルを決定したのですが、それに至る経緯や理由について説明します。
 『古代に真実を求めて』の発行部数や販売部数が伸び悩んでいたこともあり、その打開策として特別企画を中心に編集し、タイトルもそれにあわせて個性的なものにするというリニューアルを18集(『盗まれた「聖徳太子」伝承』)から行いました。その編集方針が当たり、発行部数も販売部数も増加し、そして書店の取り扱いにも良い変化が起こりました。
 ご存じのように、近年は書籍通販が増え、多くの書店が閉鎖に追い込まれています。そして残った大型書店でも歴史や古代史コーナーの縮小が続いています。ですから、よほど売れる本か、売れ筋のテーマを取り扱った本しか棚に並べてもらえないのです。そのため、以前に発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)のような専門書的なタイトルでは書棚に並べてもらえなくなったのです。
 そうしたことも一因として、編集部ではタイトルを今まで以上に重視し、「地方史」扱いされかねない「九州年号」から、より一般的な「倭国年号」を採用することにしたのです。しかしそれでは「倭国年号」が大和朝廷の年号と受け止められますので、そうではないことを明確にするため、「大和朝廷以前」の一語を付記しました。
 もちろん「倭国年号」という用語が学術的に適切であることも十分に検討し確認しました。このことをご理解いただくために、古田先生が著作でどのように「倭国年号」という用語を理解されていたのかをご紹介しましょう。それは古田先生の初めての通史となった『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社刊。後にミネルヴァ書房から復刊)において、13回にわたり「倭国年号」という用語を使用され、中でも次のようにその妥当性を強調されています。3例のみ紹介します。

○初版本57頁 復刊本46頁
 (前略)「九州年号」、正確には「倭国年号」(あるいは「イ妥国年号」)の実在を前提にせずしては、『隋書』イ妥国伝をまともに読みこなすことは不可能だったのである。

○初版本66頁 復刊本54頁
 (前略)この点、「九州年号」とは、「九州を都とした権力のもうけた年号」の意であって、「九州だけに用いられた年号」の意ではない。この点からいえば、「倭国年号」の称が一段とふさわしいかもしれぬ。

○初版本67頁 復刊本55頁
 (前略)この問題は、九州年号=倭国年号に関する最深の箇所へと、わたしたちを否応なくおもむかせる。

 以上のように古田先生は「倭国年号」という用語が「正確には『倭国年号』」「一段とふさわしいかもしれぬ」とまで評価されているのです。こうした古田先生による「倭国年号」の使用例も確認し、編集部はタイトルに「倭国年号」の採用を決定しました。なお、「倭国年号」の使用は、古田学派の研究者により論文などに昔から使用されており、そのことが問題視されることもありませんでした。古田先生も使用されていたのですから、当然です。
 もちろん、「九州年号」という学術用語の使用に何ら問題はありませんし、「古田史学の会」や編集部が「九州年号」の使用をやめたり、「使用禁止」などできるはずもありません。編集部は本のタイトルに「倭国年号」という用語を採用することは「適切」と判断したに過ぎないのですから。このことについては同書「巻頭言」でわたしが次のように記しており、曲解や誤解無きようお願いします。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
      古田史学の会・代表 古賀達也

(前略)
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
(後略)


第1437話 2017/06/30

続・朝代神社(舞鶴市)の白鳳元年創建

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で書いています。仕事で岐阜県養老町へ行きます。

 昨晩、帰宅してから朝代神社について調査しました。ネット検索で「朝代神社(あさしろじんじゃ)舞鶴市朝代」というサイトを見つけました。そこには朝代神社に関する史料紹介があり、参考になりました。
 先に紹介した『加佐郡誌』には創建年が「天武天皇白鳳元年」と、近畿天皇家の天皇名と九州年号が併記された史料状況を示していましたが、「白鳳元年」とのみ記された二つの史料の存在が示されていました。次の史料です。全文は本稿末尾に転載しましたので、ご参照ください。
 一つは『丹哥府志』で、「田辺府志」からの引用として次のように創建年次が記されています。
 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」
 もう一つは『京都府地誌』で、同様に「田辺府志」からの引用として「田辺府志曰朝代大明神ハ日ノ若宮ナリ白鳳元年九月三日淡路国ヨリ移?祭ル」と『丹哥府志』とほぼ同文です。
 そこで「田辺府志」をネット検索したところ、国会図書館デジタルコレクションに同名の書籍があるので、閲覧しました。国会図書館デジタルコレクション『丹後田邉府志』巻之三([5]コマ番号3)に「朝代大明神御事」の項がありましたが、そこには創建年次記事が見あたらないのです。朝代神社の創建年次に関すると思われる次の記事が見えるだけです。
 「垂迹の時代古記にあれども神道も秘伝の大事あれば今つぶさに爰にしるさず」
 「古記」に見えるがあえて記さずということのようです。九州年号「白鳳」の記載を避けたのでしょうか。同書の著者は華梁霊重[他]。宝永六年の「序」と「跋」が見えることから、江戸時代の1709年頃の出版と思われます。どうやら「白鳳元年」創建記事を持つ「田辺府志」と国会図書館本とは別物のようです。引き続き調査したいと思います。
 しかしながら、「白鳳元年」と九州年号だけで記された伝承があることから、こちらが原型ではないでしょうか。九州年号の「白鳳」の実体(実年代)が不明となった後世において、その時代を特定するために「天武天皇」が付記されたものと推定しています。この傾向は多くの寺社縁起に見られるものです。
 わたしの推論が正しければ朝代神社の創建年は白鳳元年(661年)となります。『海東諸国紀』を史料根拠とするわたしの仮説によれば「九州王朝の近江遷都」と同年になるのですが、なぜ淡路の日之少宮がこの時この地に勧請されたのかが、次のテーマとなりそうです。朝代神社の境内に「工匠神社」という摂社があることも気にかかります。時間が許せば現地調査を行いたいものです。

【ネットからの転載史料】
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/asasirojj.html
朝代神社(あさしろじんじゃ)舞鶴市朝代

《田辺府志》
朝代大明神之事
 朝代大明神は日之少宮(わかみや)なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る、地神の第五代なり、日本紀曰伊奘諾尊神功既畢霊運当遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者矣と是なり、其後また一度天に登り報命給て日之少宮に留宅とあり、往古此田辺の境に垂迹し給ふ、朝代とは日之少宮の別称なり、此社南に向へり、是を陰を背にし陽を前にし給ふ也、伊勢国にも伊奘諾宮あり、是も南に向へり。立る所の流義唯一神道といふなり、其こゝろは伊奘諾冊天より降り給ふたゞ天の一源水にして餘神の分迹化神と同じからず、なほたふとみあがむべきなり、垂迹の時代古記にあれども神道も秘伝の大事あれば今つぶさに爰にしるさず。神道伝受は吉田にあり、天神第一代国常立尊其弟天御中主尊五世の孫、天児屋根尊天照皇太神の勅をうけられ神籬正印を授り給ふを神道の組といふなり、天児屋尊十二世雷大臣命仲哀天皇の時卜部姓を給ひ、十八世にして常盤の大連中臣とあらたむ、二十一世孫大織冠中臣をあらため藤原とせり、従弟右大臣清丸に博へり、是を大中臣といふ、…

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
朝代大明神
田辺武家町屋の産宮なり
   神主 久津見日向
   神子 坂根宮内卿
天武天皇御宇(672-686壬申の乱起る)淡路国日若宮を勧請し奉る 本社二間四方小宮八社拝殿三間四方長床五間二間 華表の額(鳥居の額)は時明院御筆なり 宮地三百拾五坪 領主代々寄附し給う 九月九日祭りなり

《丹後国加佐郡旧語集》
夫当社ハ人王十四代天武天皇御宇(御在位十四年)白鳳元年九月三日御鎮座本社淡路国日ノ若宮(伊奘諾尊ヲ祭奉ルナリ御譲位之後日之若宮ト称奉也江州多賀大明神ト同社ナリ)御祭礼九月九日(初メハ三日の由)神事之日大内町二橋西之橋詰ニ御輿ヲ鎮メ神楽祝ヲ奏シ諸芸ヲ勤仮ノ行宮トス 享保八癸卯年神職玖津見駿河守直高依願橋詰ノ家ヲ調御旅所ヲ設ケ九月朔日ヨリ燈明ヲ立ル 京極家ハ外曲輪ヲ渡リシ御家御在城以後二ノ丸ヲ渡リ於大番所祭礼御見物御輿暫輝桟鋪前ニ鎮居神職祭式ノ事有御祭礼年々賑々敷相成
小宮八社(享和元年辛酉年二月竜蛇社勧請以来九社)
松尾大明神(大酒解ノ命 子酒解ノ命 二座合テ一社)
大国天社(大己貴尊ヲ祭奉ル)
祇園牛頭天王社(素盞尊ヲ祭奉ル)
粟嶋大明神(少彦名命ヲ祭奉ル)
稲荷大明神(保食神ヲ祭奉ル)
多賀大明神(伊奘諾尊ヲ祭奉ル・朝代大明神御一体  二座相殿)
恵比須神社(事代主命命ヲ祭奉ル)
職人祖神(手置帆負ノ命彦狭知命ヲ祭奉ル二神一座に祭ル)
竜蛇社(享和元年辛酉年二月従雲州大社勧請本社之左西北之隅山ヲ平均南向之社是ナリ。

《丹哥府志》
【朝代大明神】
田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る、祭九月三日仝九月九日を用ゆ、祭日神輿を舁き出す、神輿の前後宮津祭と略相似たり、大橋の橋詰に御旅處といふ處あり、神輿を鎮座する處なり、元禄十丑年命をうけて初て城内に入る、蓋田辺の産砂なり。

(京都府地誌)
朝代神社 郷社々地東西十八間南北二十七間面積四百九十九坪半町ノ南方朝代町ニアリ伊奘諾尊ヲ祭ル祭日四月三日十一月三日田辺府志曰朝代大明神ハ日ノ若宮ナリ白鳳元年九月三日淡路国ヨリ移?祭ル祭日九月三日今九月九日ヲ用リ祭日神輿ヲ?出ス神輿ノ前後宮津祭ノト略ホ似タリ大橋ノ橋?と御旅所ト五処アリ神輿ノ鎮座スル処ナリ元禄十丁丑年命ヲ受ケテ初テ城内ニ入ル蓋田辺ノ産沙ナリ

《社前の案内》
社記
 御鎮座 舞鶴市朝代十三
 神社名 朝代神社
御祭神 朝代大神(伊奘諾尊)
御神徳 御祭神は日本民族の祖先神であり初めての夫婦神として結婚の道を開かれて人間生活に不可欠なあらゆる物をお産みになりました。また禊ぎ祓えにより罪穢を祓い清新と発展の方向を示された貴い神様であります。
御由緒 当神社の御創建は約千三百年前の天武天皇白鳳元年九月、淡路国日ノ少宮をお遷したのに始まります。近世に入り、城下町田辺(舞鶴)の氏神様として歴代藩主の崇敬篤く、神輿・鳥居などの奉納が続き、士民を挙げての秋の祭礼は大いに賑わいました。また、昭和三年には府社に昇格、「朝の参りは朝代さんよ」や「日毎夜毎の朝代参り」などと民謡にも唄われ、広く崇敬されております。
江戸期の大火に類焼し、元文四年に再建の御本殿(付・再建文書)が平成五年に舞鶴市の文化財に指定されております。
境内社 塩釜神社  祇園神社
    稲荷神社  工匠神社
    天満宮   恵比須神社 など
例祭日 お日待祭  二月二十二日
    春期例大祭 五月三日
    水無月大祓 六月三十日
    秋季例大祭 十一月三日 也


第1436話 2017/06/29

朝代神社(舞鶴市)の白鳳元年創建

 今日は仕事で丹後の宮津市に来ています。京都縦貫道が全線開通したので便利になりました。途中の由良PAで休憩したとき、舞鶴市の観光案内のビラをいただいたのですが、そこに舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が「西暦673年創建といわれる古社で、吉原の太刀振りが行われます。」と紹介されていました。

 この紹介文を読み、わたしにはピンとくるものがありました。西暦673年といえば「壬申の乱」の翌年にあたり、九州年号の白鳳13年に相当します。ですから、創建年次伝承の方法として、九州年号の白鳳を用いて年次を特定するか、年干支(癸酉)か『日本書紀』紀年の「天武2年」という表記が用いられたと推定されます。これまでの地方伝承・寺社縁起研究の経験から、わたしは九州年号「白鳳」が用いられて伝承された可能性が高いのではないかと考えたのです。

 そこでスマホの検索機能を用いて調査したところ、朝代神社の創建のことが『加佐郡誌』に記されていることをつきとめ、国会図書館デジタルコレクションにある『加佐郡誌』をスマホの画面で閲覧しました。その62頁に「郷社 朝代神社」の項目があり、次のように記されていました。

◎郷社 朝代神社(舞鶴町字朝代鎮座)
一、祭神 伊弉諾命
一、由緒 天武天皇白鳳(但し私年號)元年九月三日(卯ノ日)淡路國日之少宮伊弉諾命大神を當國田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に奉った。〔以下略〕
※()内は『加佐郡誌』編者の認識による付記と思われます。

 やはりわたしの推定通り九州年号「白鳳」が使用されていました。ところが、「白鳳元年」は661年で天武天皇の時代ではありません。しかし、後世において、白鳳を天武の年号とみなす傾向があり、「白鳳元年」の前に「天武天皇」と付記されたものと思われます。そのため、「白鳳元年」を「天武元年」と見なし、現代の解説文ではそれを『日本書紀』の672年とするものと、先の舞鶴市観光案内ビラのように、天武即位年に相当する673年の創建とするものが出現したのです。

 こうした考察から、本来の伝承は「白鳳元年」(661年)の創建ではないでしょうか。なお、『加佐郡誌』編者による、九月三日を「(卯ノ日)」とする記事が気になりましたので、古代の日付干支調査ソフトを持っておられる西村秀己さんに電話して、九月三日が「卯ノ日」になる年を調べてもらったところ、672年の天武元年とのこと。ですから『加佐郡誌』編者は日付干支を調査して(卯ノ日)という説明文を付記したことがわかりました。

 舞鶴市は旧加佐郡で、700年以前は加佐評であり、8世紀になり丹後国が成立するまでは丹波国に所属していました。丹波国のお隣の但馬国(元々は丹波国に所属していたとする説もあるそうです)には赤淵神社縁起(朝来市)の「常色」「朱雀」など九州年号の痕跡が色濃く残っている地域です。この朝代神社の白鳳元年創建伝承も丹波国(丹後国)と九州王朝の関係性の深さを感じさせるのです。

 さて、お昼の休憩も終わりましたので、これから仕事(近赤外線吸収発熱染料のプレゼン)です。


第1424話 2017/06/16

『令集解』「戸令」の「常色」

 九州年号「常色」(647〜651年)は「白雉」の直前の年号で、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮(難波宮・味経宮)造営時期、九州王朝による「天下立評」(評制施行)の時代です。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号、2008年4月)の時代と表現されており、九州王朝にとっても画期をなした時代と言えるかもしれません。
 わたしは九州年号研究の当初、この「常色」を「じょうしょく」と訓んでいました。ところが、九州年号をテーマとした大阪でのわたしの講演の質疑応答において、「古田史学の会」会員の加藤健さん(交野市)から、「常色」は九州王朝の年号だから呉音の「じょうしき」と訓むべきではないかとのご指摘をいただきました。なるほどもっともなご意見と思い、それ以後は「じょうしき」と訓むよう心がけました。ちなみに、正木さんは当初から「じょうしき」と訓まれています。
 この九州年号の「常色」とは直接の関係はありませんが、最近読み始めた『令集解』「戸令」の注釈にこの「常色」という用語があることが目に留まりました。次のような記事です。

 「謂。小子入中男。中男入丁。丁入老。老入耆之間。是為一定以後。若改其常色者。更須依親皃之法。故云一定以後。不須更皃也。(後略)」『令集解』(国史大系)「戸令」286頁
 ※「皃」の字は、国史大系『令集解』の活字では「只」の「口」部分が「白」。

 戸籍登録における年齢判断に関する規定のようですが、今のところそれ以上のことは判断できませんので、引き続き勉強します。
 ここに見える「常色」と九州年号「常色」と関係があるとは思えませんが、九州王朝が年号として「常色」の表記を選んだ理由などを考察する材料になるかもしれませんので、ご紹介することにしました。皆さんのご意見、ご批判をお待ちしています。


第1412話 2017/06/11

観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦

 「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)「塔心柱による古代寺院編年方法」において、古代寺院遺跡における塔の心柱礎石の高さや形態が大まかな編年基準として利用できることを紹介しましたが、より具体的な年代は出土した瓦や土器などの相対編年に依らざるを得ません。他方、建立年次などが記された文字史料(縁起書や年代記)などは伝承史料として有力な根拠とされます。
 礎石や瓦などの考古学的史料による相対編年と文字史料による記録年代が一致した場合はかなり有力な説とされますが、これは古田先生が“シュリーマンの法則”と呼ばれたものです。たとえば太宰府の観世音寺の創建年は“シュリーマンの法則”が発揮できた事例です。
 観世音寺の創建は通説では8世紀初頭とされていますが、文字史料としては『続日本紀』には天智天皇の命により造営されたとあり、九州年号史料の『二中歴』には「白鳳」年間(661〜683)、『勝山記』『日本帝皇年代記』には「白鳳10年(670)」の創建と記されています。
 他方、考古学的には創建瓦の老司Ⅰ式が7世紀後半と編年されてきましたので、文字史料と考古学史料が見事に一致しています。瓦の他にも国宝の銅鐘も7世紀末頃、塔心柱の形態も7世紀後半として問題ありません。これこそ古田先生のいわれる“シュリーマンの法則”の好例であり、一元史観の通説よりも「白鳳10年創建」説が有力説ということができます。更に、これとは異なる文字史料の発見(実証)や考古学史料の出土(実証)もなく、年代判定可能な根拠を有する他の有力説がない点でも安定した仮説といえるでしょう。
 このように観世音寺の創建「白鳳10年」説は比較的安定して成立しているのですが、その創建に関わる歴史的事象については、九州王朝研究においても未解明なことが多くあります。「洛中洛外日記」751話(2014/07/24)「森郁夫著『一瓦一説』を読む」で紹介したように、観世音寺創建瓦から飛鳥の川原寺、近江の崇福寺との同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土しているのです。森郁夫著『一瓦一説』には次のように記されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。あるいは近年、正木裕さんから発表された「九州王朝系近江朝」説ではどのような説明が可能となるのでしょうか。
 これら三寺院の様式は「川原寺式」あるいは「観世音寺式」に分類され、東に塔、西に金堂が配置され、しかも金堂は東面するという共通した様式を持っています。この塔堂配置の一致と同笵軒丸瓦の出土は、偶然ではなく、三寺院が密接な関係を有していたと考えざるを得ません。
 それら寺院の建立年代は、川原寺(662〜667)、崇福寺(661〜667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定され、観世音寺がやや遅れるものの、ほぼ同時期とみてよいでしょう。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係、正木説「九州王朝系近江朝」を考える上で重要な問題を提起しています。これからの研究課題です。


第1405話 2017/05/26

前期難波宮副都説反対論者への問い(8)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」への学問的に意味不明な「批判」もありましたが、他方、わたしには思いもよらなかった優れた研究が次々と発表され、前期難波宮九州王朝副都説の傍証となった例が何件もありました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見された「番匠」問題は、巨大都市造営についての重要な視点を与えてくれました。
 九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』に記されていた孝徳期の九州年号「常色」年間(647〜651)に記された「番匠初」という記事が、前期難波宮造営のために全国から「番匠」(都や宮殿の建築技術者)を動員した九州王朝系記事ではないかと、正木さんは指摘されたのです(「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年4月)。『日本書紀』には見えない、しかも九州年号により記された記事(実証)ですから、九州王朝が難波副都を造営するために全国から「番匠」の動員を開始したとする正木説に説得力を感じました。『伊予三島縁起』は九州年号研究のため何十回も読んだ史料でしたが、この「番匠初」の持つ意味に、正木さんから指摘されるまで気づかなかったのです。そして、この「番匠」問題は更に論理の展開を促しました。
 古代日本の最初の朝堂院様式の巨大宮殿や周辺の官衙群、そして条坊都市の造営に大量の「番匠」(建築技師)や建築作業者が必要なことは当然ですが、ことはそれだけには留まりません。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究(「古代の都城 宮域に官僚約八千人」『古田史学会報』136号、2016年10月)によれば、前期難波宮と周辺官衙では約8000人の官僚が働いていたとされていますから、難波京には官僚の家族と使用人、そして都市機能を支える商工業者とその家族など、少なくとも数万人、あるいはそれ以上の人々が生活していた人口密集地だと考えざるを得ません。そうすると、その巨大都市を支えるためには「番匠」の他にも食料・生活必需品の物流拠点(港)と道路など様々なインフラやシステムが構築されていたはずです。論理的にはこのように進展せざるを得ないのです。
 そうすると、8000人に及ぶ官僚群は現地採用と九州王朝の首都・太宰府からの「転勤」により確保することになります。それ以外の生活必需品の生産者も太宰府やその周辺から「転勤」させた可能性を考えなければなりませんが、そのような考古学的痕跡(実証)があるのです。
 九州王朝の首都太宰府条坊都市への土器提供を行ってきた北部九州最大規模の土器生産センターである牛頸窯跡群遺跡(大野城市・太宰府市・春日市)は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて急増しており、わたしの太宰府造営7世紀初頭説(倭京元年・618年が有力候補)に対応しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都に備えて、必需品で割れやすく消耗品でもある土器の生産が牛頸窯跡遺跡で開始されたと考えられます。
 ところが、7世紀中頃になると牛頸窯跡遺跡は急激に縮小します。この考古学的事実こそ牛頸の陶工たちが「番匠」と共に前期難波宮と条坊都市造営に伴って筑紫から難波へ移動したことを物語っているのではないでしょうか。わたしには、この牛頸窯跡群遺跡の盛衰が九州王朝の太宰府遷都(急増)と難波副都造営時期(激減)に見事に対応していることを偶然とは思えないのです。牛頸窯跡群遺跡の盛衰については「洛中洛外日記」1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」に紹介していますので、こちらもご覧ください。(つづく)


第1393話 2017/05/12

『二中歴』研究の思い出(6)

 『二中歴』九州年号細注には仏教に関する記事が多いのですが、その中で最も印象に残ったものが、次の一切経受容記事でした。

「僧要」自唐一切経三千余巻渡

 九州年号の僧要年間(635〜639)に唐より一切経三千余巻が渡ったという記事です。一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピタカ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を総集したものです。総集目録として最も早いものは、前秦の道安(314〜385)による『綜理衆経目録』(六三九部八八六巻)とされ、その後も漢訳仏典の訳出の増加により次々と衆経目録が編纂され、唐代以前のものだけでも二十種に及ぶといわれています。
 そこで、この細注の「三千余巻」に相当する一切経を調査したところ、隋代(開皇17年、597)に費長房により撰述された『歴代三宝紀入蔵録』(一〇七六部、三二九二巻)が時期的にも巻数においても相応していることを発見したのです。そのことを『古田史学会報』12号(1996年2月)に「九州王朝への一切経伝来 『二中歴』一切経伝来記事の考察」として発表しました(『「九州年号」の研究』に収録)。
 このことから、『二中歴』細注が九州王朝史や九州王朝仏教受容史の復元研究にとって貴重な史料であることがわかりました。細注記事にはまだ意味不明なものがあり、これからの研究が待たれています。そしてそれらが判明したとき、九州王朝研究は更に進展することを疑えません。全国の古田学派の研究者に共に『二中歴』細注記事の研究に取り組んでいただきたいと願っています。


第1392話 2017/05/11

『二中歴』研究の思い出(5)

 『二中歴』九州年号細注の二つの寺院建立記事のもう一つが太宰府の観世音寺創建です。

「白鳳」(661〜683年)「対馬銀採観世音寺東院造」

 白鳳年間に観世音寺を東院が造ったという内容ですが、倭京二年の「難波天王寺」のように地名が付けられていませんから、九州王朝の人々であれば観世音寺だけでそれとわかる有名寺院ということと解さざるを得ませんから、九州王朝の都の代表的寺院の筑紫の観世音寺と思われます。
 『続日本紀』にも天智天皇がお母さんの斉明天皇のために造らせたとありますから、天智期に建立されたという細注記事そのものに矛盾はありません。ところが、飛鳥編年に基づく一元史観の通説によれば観世音寺の創建は8世紀初頭頃とされており、細注記事とは異なっていました。
 一方、考古学的には観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、7世紀後半に編年されてきたもので、これは細注記事と整合していました。ただ、近年は、この老司Ⅰ式を藤原宮の瓦の新式と類似しており、7世紀末頃から8世紀初頭へと新しく編年する論稿が出されています。この点は当該論文を精査したうえで、別に論じたいと思います。
 白鳳は23年間続いていることもあり、『二中歴』細注記事では創建年に幅がありました。そのため、より詳しく観世音寺創建年を記した史料を探していたところ、『勝山記』『日本帝皇年代記』に「白鳳十年」(670)と具体的年次が記されていたことが発見されました。このように、『二中歴』細注による観世音寺造営記事が他の史料や考古学編年と対応していることが明らかとなったわけです。(つづく)