九州年号一覧

第1705話 2018/07/14

年号候補になっていた「大長」

 暑さと体調不良により、この一週間ほど古代史の勉強や研究が進みません。仕事の方も、中国の原材料メーカーの操業停止続発により、製品在庫が無くなり、対策検討とお客様への釈明に追われる日々が続いています。悪いときには悪いことが重なるものです。
 そんな中で少しずつ読んでいるのが所功さんらが書かれた『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)です。古代から現代までの日本の年号の歴史を解説した好著ですが、7世紀の古代年号部分の解説は、執筆された所さんには失礼ですが、かなり「残念」な内容でした。ただ、九州年号について後代偽作とされながらも『二中歴』なども紹介されており、古田説を無視する他の一元史観論者とは異なり、誠実な学者と思いました。
 九州年号の説明について次のような表現があり、これはわたしたち古田学派のことを言っておられると思われます。

 「一部の論者が“古代年号”とか“九州年号”と呼んで、実在したに違いないと熱烈に主張する年号らしきもの」(33頁)

 熱烈に九州年号や九州王朝の実在を主張する「一部の論者」とは、おそらくわたしたちのことに違いないと、思わずにやりとしました(この一節があったので、同書を購入しました)。昨年、発行した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店)には所さんの著書を批判した拙稿「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」が掲載されていますから、もしかするとわたしからの批判を意識して書かれたのではないかと思われる箇所もありました。
 このことについては別途紹介する予定ですが、今回、紹介するのは同書末尾に付されている「日本の年号候補・未採用文字案」です。古代から現代までの改元時に提案された未採用年号候補の一覧なのですが、その中に最後の九州年号「大長」(704〜712年)があり、1回だけ候補に挙がっているとされています。候補になった時代など詳細はわかりません。他の九州年号は未採用候補には見あたりませんでした。
 この「大長」を年号候補とした学者は九州年号の存在を知らなかったか、偽作として実在していなかったと考えていたものと思われます。古代における国内の別王朝(九州王朝)の年号と知っていたら、絶対に候補には挙げなかったはずだからです。(つづく)


第1701話 2018/06/29

『風土記』の中の利歌彌多弗利(聖徳王)

 九州年号研究の進展により、『二中歴』には見えない「聖徳(629〜634年)」という九州年号は利歌彌多弗利の「法号」とする説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より発表されました。今のところ、この正木説が最有力とわたしは考えていますが、この正木説に立つと新たな展開が見えてきます。今回、ご紹介する『播磨風土記』に見える「聖徳王」を九州王朝の利歌彌多弗利(多利思北孤の太子)とする理解です。
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)所収「播磨風土記」には次のような「聖徳王」という表記が見えます。

(印南郡)
 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」(265頁)
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 有名な「石の宝殿」のことを記した記事ですが、ここに見える「聖徳王」や「弓削大連」について、岩波の頭注では次のように解説されています。

 頭注二五「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう。太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」(265頁)
 頭注二六「物部守屋。排仏を主張して聖徳太子に攻め滅ぼされた(五八七没)。」(265頁)

 ここでは「聖徳の王の御世」の説明として「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう」とされていますが、本当でしょうか。『播磨風土記』では時代を特定する記述方法としては次のように近畿天皇家の「○○天皇の御世」という表記が採用されています。同じ「印南郡」に見える三例を紹介します。

 「難波の高津の御宮の天皇の御世(仁徳天皇)」
 「大帯日子の天皇の御世(景行天皇)」
 「志我の高穴穂の宮に御宇しめし天皇の御世(成務天皇)」
 ※( )内は古賀による付記。

 これらと比較しても「聖徳の王の御世」という表記は異質です。いわゆる聖徳太子の摂政時代であれば推古天皇が存在するのですから、例えば「飛鳥の治田宮の天皇の御世」という表記が可能であるにもかかわらず「聖徳の王の御世」とあるのは不審です。しかも、頭注で指摘されているように、「太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」であり、『日本書紀』の内容と一致しません。
 ところがこの記事を多元史観・九州王朝説で解釈すれば、先の正木説に基づき「聖徳王の御世」とは九州王朝の利歌彌多弗利の時代となり、それは前代の多利思北孤崩御後の九州年号「仁王元年(623)」から恐らく「命長七年(646)」の頃を意味します。
 さらに、同記事に見える「弓削の大連」も、物部守屋とは別人となります。ですから、時代もいわゆる聖徳太子よりも後となり、「弓削の大連の造れる石」とされた「石の宝殿」も当地の有力者と思われる「弓削の大連」が造らせたものと理解すべきでしょう。
 わたしはこの「石の宝殿」がある生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問したことがあり、そのときに九州年号「白雉」が案内板の御由緒に使用されていることを知りました。そのことを「洛中洛外日記」1348話(2017/03/07)で次のように記しました。

【以下転載】
石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味が引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。
【転載終わり】

 九州王朝が難波副都(前期難波宮)を造営した時代の白雉五年の伝承ということですから、利歌彌多弗利の次の時代です(正木説では「伊勢王」の時代)。従って『播磨国風土記』に記された「弓削の大連」も社領地千石が与えらるほどの九州王朝系の有力氏族であったと考えるべきでしょう。
 以上のように、『播磨国風土記』に見える「聖徳王」を利歌彌多弗利のこととする仮説(やや思いつき)を提起しましたが、いかがでしょうか。


第1679話 2018/05/26

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(4)

 九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」ですが、その寺院の名称が「国府寺」として諸国に統一されていたのかという問題について、説明します。

 九州王朝が告貴元年(594)に建立させた寺院の名称については、既に紹介したように次の二史料の存在がわかっています。

 一つは『聖徳太子伝記』に見える「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」の記事にある「国府寺」です。「国府寺と名付ける」と明確に記されていますから、実証的にはこの記事を根拠に「国府寺」と理解する他ありません。しかし、論理的に考証(論証)しますと、各国にある「国府寺」が同名だと、諸国間の連絡や中央での管理記録において区別がつかず不便な統一名称となります。従って、もし「国府寺」と名付けられたとしても「正式名称」としては冒頭に国名が付されたのではないでしょうか。たとえば大和国府寺とか肥前国府寺のようにです。

 二つ目の史料が『日本書紀』推古2年条の「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」という記事です。ここでは「寺」という一般名ですが、「即ち、是を寺という」という記事は不思議です。それまで倭国には「寺」と呼ばれるものが無かったかのような記事だからです。また「諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る」ということであれば、この「佛舎」は諸国に一つずつの「国府寺」とは異なります。他方、「みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ」とありますから、詔勅による「国家事業」と解さざるをえません。おそらく、『日本書紀』編纂者は、九州王朝による「国府寺」建立をこのような表現にして、九州王朝や九州王朝による「国府寺」建立詔の存在を伏せたと思われます。

 以上の史料事実から、九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」は少なくとも通称として「国府寺」と呼ばれていたのではないかと推定できます。(つづく)


第1678話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(3)

 九州王朝が6世紀末頃には全国を66国に「分国」していたことを説明しましたが、次いで「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとする理由(論理展開、史料根拠)を改めて説明します。

①九州年号「告貴」の字義は「貴きを告げる」ですから、海東の菩薩天子、多利思北孤にとって「貴い」詔勅が出されたことによる改元と考えるべきである。

②九州王朝系史料に基づいて編纂されたと思われる、九州年号(金光、勝照、端政)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」という記事がある。近畿天皇家側史料『日本書紀』などに見えない記事であり、九州王朝系史料に基づくと考えざるを得ない。

③この告貴元年甲寅(594)と同年に当たる『日本書紀』推古2年条に次の記事がある。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

④『聖徳太子伝記』に見える「国府寺」建立記事と『日本書紀』推古紀の「三宝興隆・造佛舎」詔勅記事が同年(594年)であることを偶然の一致と考えるよりも、共に九州王朝(多利思北孤)による「国府寺」建立を命じた詔勅に基づいたものと理解するほうが合理的である。

⑤『隋書』国傳に見える国の使者(大業三年、607年)の言葉として、煬帝に対し「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」とあり、古田先生の理解によれば、「重ねて」とは海東(倭国)において仏法を興した多利思北孤に次いで隋の天子が重ねて仏法を興した意味とされている。そうであれば、このとき既に「国府寺」建立を命じており、そのことをもって「仏法を興した」と多利思北孤は自負していたとしても不思議ではない。

⑥多利思北孤が隋よりも先に「仏法を興した」とする根拠として「法興」年号(591〜622年)がある。「法興」とは「仏法を興す」という意味で、「法興寺」と呼ばれる寺院もこの時代に創建されている。なお、正木裕さんによれば、「法興」は多利思北孤の法号であり、それが「年号的」に使用(法隆寺釈迦三尊像光背銘、伊予温湯碑)されたとされる。

 以上の理由から、「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとわたしは考えています。しかしながら諸国で「国府寺」が完成したのは更にその後ですから、必ずしも7世紀初頭に諸国の「国府寺」が完成したとする考えとは矛盾しません。(つづく)


第1677話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(2)

 九州王朝は6世紀末には九州島内諸国を9国に「分国」し、全国を66国に「分国」したと、わたしは考えています。このことを「続・九州を論ず 国内史料に見える『九州』の分国」(『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也、共著。明石書店、2000年)に詳述しましたので、ご参照ください。簡単にその論理性や史料根拠を説明します。

①「九州」という地名は、中国の天子が自らの直轄支配領域を九つに分けて統治したことを淵源に持ち、後に天子の支配領域全体を「九州」と称するようになったという政治用語である。九州王朝の多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自認していたと思われるため、その時代(7世紀初頭)までには中国に倣って九州王朝も九州島を九つに分国したと考えられる。その名残が「九州島」の地名「九州」として現代まで続いている。

②「聖徳太子」が日本全国を33国から66国に分国したとする次の記事が史料中に見える。
「太子十八才御時(崇峻二年、589年)
春正月参内執行國政也、(中略)太子又奏シテ分六十六ケ國玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ九ケ國、名西海道也、(後略)」『聖徳太子傳記』(文保二年頃〔1318〕成立)
「人王卅四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年(敏達十二年、583年)癸卯六十六箇國に被割けり。(中略)年號の始は善記元年」『日本略記』(文録五年〔1596〕成立)

③『日本書紀』推古紀に「火葦北国造(敏達十二年、583年)」と「肥後国の葦北(推古十七年、609年)」という記事が見え、「火国」が「肥前国」「肥後国」に分国されたのが583年から609年の間であることを示している。

④これらの史料事実は、九州王朝による66国への分国が583年あるいは589年であることを示しており、それ以外の時期の「分国」を示す史料を管見では知らない。

 以上のような論理性と史料根拠により、九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)以前になされていたとする仮説は有力であり、これ以外の「史料根拠に基づいた仮説」の存在を、今のところわたしは知りません。(つづく)


第1676話 2018/05/24

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(1)

 「洛中洛外日記」に連載した「九州王朝の『東大寺』問題(1〜3)」を「古田史学の会」会員の山田春廣さんがご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に転載されました。そうしたところ、早速、読者から反応があり、山田さんと読者の服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による応答が続けられました。学問的で真摯な応答であり、多元的「国分寺」研究の深化をもたらすものと思われました。

 同応答を読みますと、山田さんや服部さんが指摘された主たる疑問は概ね次の三点に集約できるようです。

①九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)にはなされていたとは思えない。(山田さんからの疑義)

②中国ではじめて全国に同じ寺院名の寺院を建立(あるいは既存の寺院に新たに命名する)したのは、隋もしくは唐の時代であると考えられ、告貴元年(594)に「国府寺」が建立されたとは考えにくい。7世紀以降ではないか。(服部さんからの疑義)

③中国では隋や唐になって初めで全国に同名の寺院が建立されており、倭国での同様の建立あるいは命名は、中国を習ってのこととみるのが妥当と考えられる。従って、倭国がそれよりも早く「国府寺」という名称の寺院を諸国に造らせたとは考えにくく、「国府寺」という名称にもこだわらない方がよいのではないか。(服部さんからのご意見)

 これらのご指摘・疑義に対して、わたしは告貴元年(594)までには九州王朝は全国を66国に「分国」しており、諸国に「国府寺」建立を命じたのも告貴元年とするのが最も有力な仮説であり、その通称として「国府寺」と称されていたとしても問題ないと、今のところ考えています。学問的論議が更に深化するよう、その理由について説明することにします。(つづく)


第1652話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(2)

 天智が「九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系」になると一旦は考えたのですが、よくよく考えてみると、そうではないことに気づきました。
 『日本書紀』によれば、そもそも近畿天皇家の祖先は天孫降臨時の天照大神や瓊瓊杵尊にまで遡るとされ、少なくとも瓊瓊杵尊まで遡れば、近畿天皇家も九州王朝王家と男系で繋がります。歴史事実か否かは別としても、『日本書紀』では自らの出自をそのように主張しています。従って、天智も九州王朝への「血統」的正当性は倭姫王を娶らなくても主張可能なのです。このことに、わたしは今朝気づきました。
 しかし現実的には、瓊瓊杵尊まで遡らなければ男系「血統」が繋がらないという主張では、さすがに周囲への説得力がないと思ったのでしょう。天智の側近たちは「定策禁中(禁中で策を定める)」して、九州王朝の皇女である倭姫王を正妃に迎えることで、遠い遠い男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で天智を九州王朝系近江朝廷の天皇として即位させたのではないでしょうか。
 この推測が正しければ、『日本書紀』編纂の主目的の一つは、天孫降臨時まで遡れば九州王朝(倭国)の天子の家系と男系により繋がるという近畿天皇家の「血統」証明とも言えそうです。なお、こうした「合わせ技」による「血統」証明の方法には先例がありました。(つづく)


第1607話 2018/02/18

九州年号「兄弟」2例めを発見

 九州年号「兄弟」(558年)は、一年しか続いていないことや、「兄弟」という言葉が年号と認識されず、書写の際に消される可能性もあり、その実用例はわたしが発見した熊本市の健軍神社の創建史料などに見えるくらいでした(「洛中洛外日記」979話「健軍神社『兄弟元年創建』史料」1215話「健軍神社縁起の九州年号『兄弟』」)。ところが、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、健軍神社とは別の新たな「兄弟」年号発見のメールが届きました。
 「熊本市史関係資料集第4集肥後古記集覧」に山鹿郡西牧村(現山鹿市西牧)の妙寛寺の釈迦堂草創を「三十代欽明天皇の御宇兄弟元戊寅年」とするものです。熊本市最古の健軍神社創建と共に、肥後(山鹿)に「兄弟」年号が残っていたことは示唆的です。九州王朝の「兄弟統治」に由来すると思われる「兄弟」年号は、筑前・筑後にいた倭王(兄・筑紫の翁)と肥後にいた弟(肥後の翁)の痕跡として、肥後地方に残っていたのではないでしょうか。
 肥後地方は古代から製鉄や馬の飼育が盛んであったことを示す考古学的遺物も数多く出土しています。その鉄と馬による軍事力・生産力を背景として、九州王朝(倭国)では倭王の弟を肥後の「国主」として配置していたのではないかと、わたしは推測しています。
 新たな「兄弟」年号を発見報告していただいた犬塚さんに感謝いたします。

【以下、犬塚さんからのメールを転載】
古賀様
 以前洛中洛外日記で熊本市の健軍神社の縁起に見える九州年号「兄弟」について紹介がありましたが、これとは別の史料に九州年号「兄弟」の記録がありましたのでお知らせします。
 「熊本市史関係資料集第4集肥後古記集覧」という史料集があります。これは熊本藩士であった大石真麿が文政四〜五年(1821-2)に、肥後に関する軍記・系図・地誌等55種を書写編集したものですが、この中に収録されている山鹿郡西牧村(現山鹿市西牧)の妙寛寺という寺院に関する記録のなかに「兄弟」年号が見られます。

 巻二十 中原雑記 山鹿郡西牧村
一、遠き事ハ委しらず近くして能知たる事計を少つゝ書記ス、西牧村小屋敷妙寛寺の釈迦堂は聞伝三十代欽明天皇の御宇兄弟元戊寅年の草創と云伝、末の世にて七十一代後三条院延久三辛亥ノ暦御再興、此時春日の作とやらん本尊釈迦像を立給ふと也(後略)
 寛文十三年癸丑年六月六日 中原氏記之

 この史料集にもう一つ、妙寛寺に関する同内容の記録が収録されています。

 巻十六 昔噺聞書
一、山鹿郡西牧村ノ妙寛寺ノ釈迦堂ハ釈迦堂は三十代欽明帝元年戊寅ノ御草創、七十一代後三条院延久三辛亥年御再興、此時春日ノ作本尊釈迦像ヲ立給ヘリ(後略)

 巻二十中原雑記と巻十六昔噺聞書の関係は不明ですが、ほぼ同内容の記録であることから共通の原史料から書写されたことが考えられます。
 同内容であるとすれば、巻十六昔噺聞書の「欽明帝元年」の干支は庚辰であって戊寅ではないことから、おそらく、この記録の書写の段階で原史料にあったと思われる「兄弟」だけが意味不明として削除され、干支がそのまま残されたのではないでしょうか。
 さらに「肥後国誌」には、西牧村の項で中原雑記を引用した形で紹介されています。しかし中原雑記を引用ているにもかかわらず、昔噺聞書と同様に九州年号「兄弟」を削除した形での表記となっています。

 妙寛寺跡 同書(中原雑記のこと)云山鹿郡西牧村字小屋敷ニ妙寛寺ト云ル寺アリ人皇卅代 欽明天皇元年戊寅ノ御草創(後略)

 これも「兄弟」がなければ干支は戊寅になりません。こちらも単純な削除のようです。
 ところで中原雑記によれば、その後妙寛寺は戦国時代庇護者であった隈部氏が没落したことから廃寺となったとされていますが、その廃寺跡はどうなったのでしょうか。山鹿市史別巻によれば、

 肥後国山鹿郡西牧村
 古迹 妙勧寺迹 本村の東字屋敷ニアリ欽明天皇戊寅年草創ト云フ 延久三年辛亥再興春日作ノ釈迦木像ヲ安ス(中略)今畑ト成リ石祠ニ釈迦ノ石造ヲ安ス
(山鹿郡誌抄)

 西牧釈迦如来坐像 浮彫。上津留の共同墓地の一画、石祠内に祀る。台石正面に「明寛寺」と横堀する。国郡一統志の「西牧妙寛寺釈迦」と符合するものがある。凝灰岩製、全高九〇。
 (山鹿市の石造物)

と、廃寺跡には共同墓地と釈迦如来坐像を収めた石祠あるということですから場所の特定は可能かと思われます。
 最後に、「国郡一統志」を確認したところ、「国郡寺社総録名蹟附 山鹿郡」の西牧の項に次のような記事がありました。

 西牧 天子森 妙観寺釈迦 阿弥陀 蓮照寺真宗

 天子森(又は天子)は山鹿郡の項に計6カ所出てきますが、森が杜であるとすればこれは天子宮のことなのでしょうか。天子宮が同じ地域にあるというのは実に興味深いところです。
 以上、山鹿市の九州年号「兄弟」に関するとりあえずの報告です。なお、肥後古記集覧と国郡一統志の該当部分を添付ファイルとしてお送りします。
   久留米市 犬塚幹夫


第1587話 2018/01/25

『続日本紀』にあった「大長」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)を読んでいますが、そこに「大長」という表記があり、驚きました。

 「大長」は最後の九州年号(倭国年号。704〜712年)ですが、愛媛県松山市出土の木簡に「大長」という文字が見えることを以前に紹介したことがあります。それは「洛中洛外日記」490話(2012/11/07)「『大長』木簡を実見」の次の記事です。

【以下引用】
坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ -四国の古代-」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田Ⅱ遺跡出土)の実見です。(中略)

 さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。
あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。
「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ
これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。(後略)
【引用終わり】

 このとき見た「大長」木簡は年号としては不自然な表記で、何を意味するのか全くわかりませんでした。仮に「大長」という文字があったとしても、それだけでは「大長者」のような熟語の一部分の可能性もあるからです。

 ところが『律令時代と豊前国』には役職名らしき「大長」「小長」という表記が紹介されており、出典は『続日本紀』とのこと。そこで『続日本紀』天平12年9月条を見ると、豊前国企救郡の板櫃鎮(北九州市小倉北区。軍事基地か)の軍人と思われる人物について次のように記されていました。有名な「藤原広嗣の乱」の記事です。

「戊申(24日)、大将軍東人ら言(もう)さく『逆徒なる豊前国京都郡鎮長大宰史生従八位上小長谷常人と企救郡板櫃鎮小長凡河内田道とを殺獲す。但し、大長三田塩籠は、箭二隻を着けて野の裏に逃れ竄(かく)る。(後略)」

 このように板櫃鎮の「小長」凡河内田道と「大長」三田塩籠が広嗣側についた軍人として記されています。おそらく大長が「鎮」の長官で小長が副官といったところでしょう。なお、「京都郡鎮長」との表記も見えますが、おそらくは京都郡に複数ある「鎮」全てを統括する役職名ではないでしょうか。『続日本紀』のこの記事によれば、大宰府側の軍事基地として「鎮」があり、その役職として「大長」「小長」があったことがわかります。この役職名が他の史料にもあるのかこれから調査したいと思いますが、松山市出土「大長」木簡の「大長」もこうした役職名の可能性があるのかもしれません。


第1574話 2018/01/14

評制施行時期、古田先生の認識(10)

 本連載において、九州王朝(倭国)における行政区画「評制」(「国・評・里(五十戸)」制)の施行時期について、古田先生が7世紀中頃と認識しておられたことが先生の著書や講演録に記されていることを紹介してきました。
 こうした古田先生の認識については、わたしにとってあまりにも当たり前のことで、これを疑う方が古田学派内におられることに驚いています。もちろん、学問研究の問題ですから、この古田先生の見解やそれを支持するわたしに反対することも学問の自由です。「師の説にななづみそ」。本居宣長のこの言葉を「学問の金言」と古田先生は仰っていましたから、師の説といえども批判し、異なる説を発表することは学問の自由ですし、学問は真摯な批判や論争により発展してきました。
 しかし、古田先生がどのように認識されていたかを正確に理解した上で批判はなされるべきです。本テーマではありませんが、わたしが書いても言ってもいないことを誤引用・誤要約され、それを古賀の意見として批判されるという経験をわたしは度々しています。学問論争は批判する相手の意見を正確に理解することが基本であり常識です。
 古田先生は亡くなられましたが、わたし以外にも古参の「弟子」はご健在です(谷本茂さんら)。そうした方々への聞き取り調査も可能ですから、古田先生の見解を正確に理解した上で、学問的批判・討議の対象とされることを訴えて、本連載の結びとします。(了)


第1563話 2017/12/31

「天武朝」に律令はあったのか(補)

 前期難波宮が律令制下の宮殿・官衙であり、九州王朝律令による「大蔵省」「兵庫職」や大蔵省配下の「漆部司」がその宮域に存在した痕跡や史料について説明してきました。こうした史料は九州王朝律令の復元研究に役立つものと思います。
 前期難波宮にあった「難波朝廷」でどのような律令が施行されていたのか、いつ施行されたのかなど、わからないことばかりです。おそらくは大和朝廷の大宝律令に内容的に近いのではないかと推定しています。というのも、王朝交代したばかりの近畿天皇家にとって、九州王朝律令は国内では唯一のお手本でもあり、おそらくは九州王朝の官僚群の一部は大和朝廷に徴用されたり、新王朝設立に参画したと思われますので、この推定はそれほど荒唐無稽ではないと考えています。
 その施行時期についても一つの試案があります。それは九州年号「常色」年間(647〜651)ではないかとするものです。九州年号研究の初期段階では、九州年号に仏教に関する文字が多いことから、この「常色」も仏教に関係する「用語」ではないかと考えていました。ところが正木裕さんの研究により、この常色年間に九州王朝(倭国)で様々な制度改革や政治的事績の痕跡が諸史料に見られることから、「常色」の「常」は「のり。典法」のことであり、法律や制度を意味するという説が有力となりました。
 評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)が全国で開始(天下立評)されたのも、現在の研究では「常色」年間頃とされていますし、常色6年は改元されて白雉元年(652)となり、この年には国内初の朝堂院様式の巨大宮殿である前期難波宮が完成しています。こうした一連の国家的事業とともに常色年間に九州王朝(倭国)は新たな律令「常色律令」を施行したのではないかと考えています。これはまだ作業仮説(思いつき)の域を出ませんが、有力な視点ではないでしょうか。引き続き、研究を深めたいと思います。


第1544話 2017/11/25

『苫田郡誌』に見える「高良神社」

 「洛中洛外日記」1542話で紹介した『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)に掲載されている高野神社(津山市、安閑天皇2年〔534〕)について調査してみました。
 津山市地方の昭和初期の記録に『苫田郡誌』(苫田郡教育委員会編集、昭和2年発行)があり、国会図書館デジタルライブラリーで同書を流し読みしたところ、高野神社の説明として次のように記されていました。

 「高野神社 所在 二宮村字高野
 彦波限建鵜草葺不合尊を祀り、大己貴命・鏡作尊を相殿となす。社傳によれば安閑天皇二年の鎮座と称せられ、(以下略)」(1004頁)

 社傳に「安閑天皇二年の鎮座」とあるとのことですから、神社には史料が残っていそうです。
 その『苫田郡誌』の神社の項目を読んでいますと、この地方にも「高良神社」「高良神」がありました。

 「田神社 所在 田邑村大字下田邑
 應神天皇・神功皇后を祀り、高良命を相殿となす。(以下略)」(1105頁)
 「高良神社 所在 高野村大字押入
 武内宿禰命を祀る。由緒不明」(1116頁)

 この他に、「高良神社」ではありませんが、欽明期創建と伝える神社が散見され、興味深い地域のように思われました。当地の研究者による多元史観での再検討が期待されます。