九州年号一覧

第703話 2014/05/04

和水町での講演会、盛況!

 本日、熊本県玉名郡和水(なごみ)町で講演を行いました。当地の菊水史談会主催、和水町教育委員会後援によるもので、「『九州年号』の古代王朝」というテーマを発表しました。ゴールデンウィーク中にもかかわらず、100名以上の参加者で会場はほぼ満席でした。他府県からも参加されていたとのことで、今回発見された「納音(なっちん)」付き九州年号史料(石原家文書)への関心の深さがうかがわれました。
 和水町の福原秀治町長も見えられ、町をあげての熱意が感じられました。和水町の人口は一万人ほどとのことでしたので、100名以上の参加者はかなりのも のでしょう。久留米地名研究会の古川さんや荒川恒光さんらも見えられ、ご協力していただきました。
 わたしは昨日、当地に入ったのですが、希望していた江田船山古墳や横穴墓群の見学もできました。当地の考古学者、高木正文さんや前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)のご案内により、大変勉強になり、多くの発見にも恵まれました。
 発見された「石原家文書」も二日間にわたり拝見させていただきました。主に寶暦年間から明治時代までの文書で、一部には大正時代のものもありました。当地の有力な庄屋だった石原家の文書らしく、出納帳や証文、渡し船関係の文書などが多数ありました。他方、神仏への起請文や願文、73年分の「伊勢暦」、そ して書簡や「恋文」のようなものも見えました。変わったところでは、「砲術入門」関連書簡もありました。未整理や未発見の文書が長持一杯にあるとの情報も あり、今後の調査が期待されます。それにしても、これだけの大量の文書が、よく保管されていたものだと驚きました。
 私自身も発見の連続で、講演会でも報告させていただきました。前垣さんを始め、当地の関係者の皆様に御礼申し上げます。

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載


第702話 2014/04/30

菊水史談会「会報」19号

 熊本県玉名郡和水(なごみ)町の菊水史談会「会報」19号が、同会事務局の前垣芳郎さんから送られてきました。前垣さんは和水町の「石原家文書」の中に「納音(なっちん)」付き九州年号史料があることを発見された方です。
 同会報にはその九州年号史料発見のいきさつと、同史料が「古田史学の会」ホームページで紹介されて有名となり、全国各地から研究者の来訪ラッシュとなっていることが紹介されています。同九州年号史料の写真も掲載されており、地元でも有名になることでしょう。和水町の「宝」にしていただきたいと願っていま す。
 また、古田先生が九州年号や九州王朝説を提唱したことも紹介されています。5月3日にはわたしも当地を訪れ、「石原家文書」を見せていただけることに なっています。翌4日には菊水史談会主催・和水町教育委員会後援により、「『九州年号』の古代王朝」というテーマで講演させていただきます。和水町のみなさんに、わかりやすく古田史学・九州王朝説や九州年号を説明させていただく予定です。わたしもとても楽しみにしています。


第701話 2014/04/27

ONライン(701年)の画期

 読者の皆様やHP運営担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のおかげで、「洛中洛外日記」も701話を迎えることができました。感謝申し上げます。そこで、701話にふさわしいテーマについて触れることにします。
 ご存じのように、古田先生は九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代の画期点として、701年を重視され、「ON(オーエヌ)ライン」と 命名されました。「ON」とは「オールド・ニュー」のイニシャルです。旧王朝から新王朝への交代年をこのように表現されたのですが、その主たる根拠は次の ような点でした。

1,『二中歴』などに見える九州年号は700年(大化6年)で終わり、701年からは近畿天皇家の最初の年号「大宝」が「建元」されます。『続日本紀』には大宝を「改元」ではなく、初めての年号制定を意味する「建元」と記されており、大宝が近畿天皇家最初の年号であることは明白です。
2,藤原宮出土木簡などから、700年までは行政単位は「評」であり、701年からは一斉に「郡」に変更されています。
3,『旧唐書』に見える「倭国伝」と「日本国伝」の記事は、倭国から日本国への政権交代が701年とする古田説と整合します。

 以上のような、文献(九州年号)と考古学的史料事実(木簡)、そして外国史料(『旧唐書』)などの一致を根拠に、王朝交代の画期点を701年とされました。わたしもこの古田説に賛成です。
 ところが、この10年間ほどで九州王朝研究は進展し、王朝交代の実体が複雑なものであることも判明してきました。例えば、九州年号は701年以後も継続しており、「大化」は703年まで続き、その後「大長」が712年までの9年間続いていたことがわかりました。そのため、701~712年の間は近畿天皇家と九州王朝がそれぞれ年号を持って併存していた可能性が出てきました。その間の九州王朝の実体はまだよくわかりませんが、701年に単純な王朝交代が行われたのではないようです。今後の九州王朝史研究の課題です。


第687話 2014/04/01

和水(なごみ)町「石原家文書」

調査と講演案内

 納音(なっちん)付き九州年号史料が発見された熊本県玉名郡和水(なごみ)町を5月の連休に訪問することになりました。みかん箱二箱分にも及ぶという「石原家文書」を見せていただけるということで、とても楽しみにしています。40代の頃、青森県五所川原市の「和田家文書」調査以来の本格的な古文書調査となりますので、歴史研究者としての血が騒ぎます。調査結果は、6月15日(日)に開催予定の「古田史学の会」会員総会記念講演で報告させていただきます。

 5月3日に和水(なごみ)町に入り、「石原家文書」を見せていただき、翌4日(日)の午後に当地で講演させていただきます。和水町のみなさまにお会いできることも、楽しみにしています。おそらく『隋書』に記されたように、倭国を訪問した隋使の一行は、阿蘇山の噴火を見ていますから、和水町あたりまで訪れたのではないでしょうか。講演では当地のみなさんに古田先生の九州王朝説と九州年号についてご説明させていただきます。詳細は次の通りです。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

講師 古賀達也(古田史学の会・編集長)

演題 「九州年号」の古代王朝

   -阿蘇山あり、その石、火起り天に接す-『隋書』

日時 5月4日(日)13:30~

会場 和水町中央公民館

   熊本県玉名郡和水町江田3883-1

   電話 0968-86-2022

   ※九州縦貫自動車道菊水インターから車で5分

    和水町町役場南隣(駐車場無料)

主催 菊水史談会(問い合わせ先 090-3787-4460 前垣様)

参加費 100円(資料代等)

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載


第663話 2014/02/18

「納音」付・九州年号の依拠史料

 熊本県玉名郡和水町の前垣さんから送っていただいた「納音」付・九州年号史料コピーですが、そこに記されている九州年号は「善記」から始まっており、原型に近いとされる『二中歴』の九州年号とは別系統です。その依拠史料について 「洛中洛外日記」662話では『如是院年代記』の九州年号ではないかと記したのですが、精査した結果、寛政元年(1789)に成立した『和漢年契』(高昶 著)が管見では最も似ていることがわかりました。
 丸山晋司著『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』(アイピーシー刊、1992年)によれば、『和漢年契』に記された九州年号のうち、『二中歴』とは異なる「誤記・誤伝」が、「納音」付・九州年号史料と次のような一致点が見られます。

(『二中歴』)(『和漢年契』・納音付九州年号)
 「教倒」 → 「教知」
 「賢称」 → 「賢輔」
 「勝照」 → 「照勝」
 「命長」 → 「明長」

 以上のようですが、「教知」と「明長」は特に珍しい「誤記・誤伝」であり、その一致が注目されます。しかし、わたしが着目したのは、寛政元年(1789)に成立した『和漢年契』よりも「納音付九州年号」の方が寶暦四年(1754)の成立であり、古いのです。両者は恐らく共通あるいは同系列の九州年号史料に依拠して書かれた可能性が高いのです。江戸時代に、大阪で成立した『和漢年契』と遠く離れた九州で成立した史料が同系列の九州年号史料に依拠していたとすれば興味深いことです。
 江戸時代の玉名郡にどのような九州年号史料が存在していたのか、調査したいと願っています。幸い、同史料を見せていただけるとのことですので、楽しみにしています。


第662話 2014/02/15

「納音(なっちん)」付
・九州年号史料の紹介

 本日の関西例会で、わたしは熊本県玉名郡和水町で発見された「納音(なっち ん)」付・九州年号史料を紹介しました。九州年号の善記元年(622)から始まる納音付きの不思議な九州年号史料ですので、そのコピーを例会参加者に配り、何のために作られた史料かわからないので、是非、皆さんのご協力を得たいとお願いしました。
 同史料は30種の「納音」が上段に記されているのですが、五行説の「木・火・土・金・水」の順番も乱れており、インターネットなどで出ている「納音」とも文字や順番も一致しておらず、とても理解に苦しむ史料状況を見せています。記されている九州年号も、最も原型に近いと考えている『二中歴』とは異なり、 わたしの知見の範囲では『如是院年代記』に記されている九州年号の内容に近いように思われました。引き続き検討したいと思います。
 例会後の懇親会には張莉さんも参加され、白川漢字学など興味深い研究をお聞かせいただけました。関西例会は研究発表だけでなく、二次会でも学問的に触発される貴重な一日となっています。2月例会の報告は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
1). 天之日矛と秋山之下氷壯夫、春山之霞壯夫(高松市・西村秀己)
2). 孔子の弟子の倭人の概論(中国曲阜市・青木英利、代読:竹村順弘)
3). 内倉武久著『熊襲は列島を席巻していた』を読んで(木津川市・竹村順弘)
4). 「納音」付・九州年号史料の紹介(京都市・古賀達也)
5). 万葉集九番歌の解読の紹介(京都市・岡下英男)
6). 「東京新聞文化部御中」(「東京新聞」1月14日付「名著の衝撃」への批判文)安彦克彦(代読:明石市・不二井伸平)
7). 白村江の大義名分(八尾市・服部静尚)
8). 亡国の天子薩夜麻(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・奈良市奈良豆彦神社に伝わる「翁舞」・昭和初期に宮地岳で舞った「乙訓の伊東さん」調査・神宮文庫で『太神宮諸雑事記』古写本の閲覧・大下氏による古賀説への反論・その他


第660話 2014/02/11

納音(なっちん)と九州年号

「洛中洛外日記」658話で紹介しました、熊本県玉名郡和水(なごみ)町の旧家で発見された九州年号史料のコピーが、前垣芳郎さん(菊水史談会)から送られてきました。それは今まで見たこともないような不思議な九州年号史料でした。
前垣さんによると、当地の庄屋だった旧家からミカン箱二つに約200点の古文書が入っていることが発見され、そのうちの一点が今回送られてきた九州年号史料とのこと。その史料はA2サイズほどの1枚もので、縦横に升目が引かれ、最上段には「納音」(なっちん)と呼ばれる占いに使われる用語が30個並び、 2段目には五行説の「木・火・土・金・水」が繰り返して並んでいます。その下に、九州年号「善記」から始まる年号と年を示す数字が右から左へ、そして下段へと、江戸時代の年号「寶暦二年」(1752)まで同筆で書かれ、その後は別筆で「天明元年」(1781)まで記されています。左側には「寶暦四甲戌盃春 上浣」と成立年(1754)が記されています。
納音(なっちん)というものをわたしはこの史料で初めて知ったのですが、たとえば「山頭・火」という納音は、有名な種田山頭火の俳号の出典とのことです。生年の納音を根拠に占いに使用するらしいのですが、そのためにこの史料が作られたのであれば、寶暦四年よりも約1200年も昔の九州年号から始める必要はないように思います。大昔に亡くなった人を占う必要が理解できません。
しかも、五行説に基づいて年代を列記するのであれば、最初は「木」から始まってほしいところですが、九州年号の善記元年(522)は「金」です。干支に基づくのであれば「甲子」からですが、善記元年の干支は「壬寅」であり、これも違います。このように何とも史料性格(使用目的など)がわからない不思議な九州年号史料なのです。ただ、九州年号の「善記元年」からスタートしていることから、年号を強烈に意識して書かれたことは確かでしょう。
届いたばかりですので、これからしっかりと時間をかけて研究しようと思います。今回、この九州年号史料のコピーをご送付いただいた前垣さんに、発見された史料を見せていただけないかとお願いしたところ、ご承諾いただけました。5月の連休にでも当地を訪問したいと考えています。
納音についてインターネット上に次の解説がありましたので、転載します。ご参考まで。

※納音とは・・・六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生まれ年の納音によってその人の運命を判断する。
井泉水=明治17年生まれ。
甲申(きのえさる)で、納音は井泉水(せいせんのみず)である。
山頭火=明治15年生まれ。
壬午(みずのえうま)で、納音は楊柳木(ようりゅうのき)である。

納音(なっちん)付き九州年号

納音(なっちん)付き九州年号

「九州年号」を記す一覧表を発見 — 和水町前原の石原家文書 熊本県玉名市和水町 前垣芳郎
(古田史学会報 122号)


第658話 2014/02/09

熊本県の旧家から九州年号史料発見

 先週、熊本県玉名郡和水(なごみ)町の前垣さんという方から拙宅にお電話があり、地元の庄屋だった家から大量の古文書が見つかり、その中に「九州年号」が記されたものがあるとのことでした。前垣さんは当地の菊水史談会の方で、『「九州年号」の研究』を図書館で読み、九州年号やわたしのことを知ったとのことでした。それでその九州年号史料のことをわたしに知らせるために、わざわざ連絡先を調べてお電話をくださったのでした。
 前垣さんのお話によると、大量の古文書の中で、九州年号が記されているのは一点だけのようで、「善記」「正和」「朱雀」「大化」「大長」などの九州年号が記されているそうです。成立は江戸時代のようでした。同九州年号史料のコピーを送っていただけることになりましたので、楽しみにしています。
 和水町には有名な江田船山古墳があります。そのような地で発見された九州年号史料ですから、とても興味深いものです。コピーが届きましたら、改めて御報告します。それにしても、『「九州年号」の研究』がいろんなところで読まれ、発見された九州年号史料のことをご連絡いただける時代になったようで、大変ありがたいことです。


第655話 2014/02/02

『二中歴』の「都督」

 「洛中洛外日記」641話・ 642話で江戸時代や戦国時代の「都督」史料を紹介しましたが、わたしが「都督」史料として最も注目してきたのが『二中歴』に収録されている「都督歴」でした。鎌倉時代初期に成立した『二中歴』ですが、その中の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されています。
 「都督歴」冒頭には「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)
 この冒頭の文によれば、「都督歴」に列挙されている64人よりも前に、蘇我臣日向を最初に藤原元名まで104人の「都督」が歴任していたことになります (藤原元名の次の「都督」が藤原国風のようです)。もちろんそれらのうち、701年以降は近畿天皇家により任命された「都督」と考えられますが、『養老律令』には「都督」という官職名は見えませんので、なぜ「都督歴」として編集されたのか不思議です。
 しかし、大宰帥である蘇我臣日向を「都督」の最初としていることと、それ以降の「都督」の「名簿」104人分が「都督歴」編纂時には存在し、知られてい たことは重要です。すなわち、「孝徳天皇大化五年(649年、九州王朝の時代)」に九州王朝で「都督」の任命が開始されたことと、それ以後の九州王朝「都督」たちの名前もわかっていたことになります。しかし「都督歴」には、なぜか「具(つぶさ)には之を記さず」とされており、蘇我臣日向以外の九州王朝「都 督」の人物名が伏せられています。
 こうした九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。この「都督」は中国の天子から任命された「倭の五王」時代の「都督」とは異なり、九州王朝の天子のもとで任命された「都督」です。
 また、「都督歴」に見える「筑紫本宮」という名称も気になりますが、まだよくわかりません。引き続き、検討します。


第631話 2013/12/08

『通典』の「賀正礼」
(元日朝賀儀)

 拙論「白雉改元の宮殿」 において、前期難波宮(九州王朝副都)での「賀正礼」について触れましたが、九州王朝における「賀正礼」について更に詳しく研究する必要を感じていまし た。近畿天皇家の『養老律令』などにも九州王朝律令の影響を受けている可能性がありますので、引き続き国内史料の調査分析を進めていますが、他方、中国からの影響についても先行論文などの勉強をしています。
 その過程で、唐代の史料『通典』(801年成立)に中国歴代王朝の「元日朝賀儀」(賀正礼)について記されていることを知りました。それによると「元日朝賀儀」は漢の高祖が最初とされているようです。
 『通典』はインターネットでも読むことができますが、学問研究に使用するには不安ですので、史料批判が可能な良い活字本か善本を探していました。メール で「古田史学の会」の役員や研究仲間に『通典』の情報提供協力を依頼したところ、すぐに数名の方から貴重な情報をいただくことができました。こうしたこと はインターネット時代の良さですね。
 中でも冨川ケイ子さん(「古田史学の会」会員、横浜市)から寄せられた情報によれば、宮内庁書陵部の『通典』が最も良い写本のようです。同写本の印影本も発刊されているとのことですから、ぜひ閲覧したいと思います。研究が進みましたら、ご報告します。


第630話 2013/12/07

「学問は実証よりも論証を重んじる」(8)

 最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号群史料の二種類の九州年号史料が存在することを説明できる唯一の仮説として、「大長」が704~712年に存在した最後の九州年号とする仮説を発見したとき、それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証が完了したと、わたしは考えました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉通りに、九州年号史料の状況を論証できたので、次に九州年号史料を精査して、この「論証」を支持する「実証」作業へと進みました。
 その結果、『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項に「大長四年丁未(707)」、『伊予三島縁起』に「天長九年壬子(712)」の二例を見い出したのです。 ただ、『伊予三島縁起』活字本には「大長」ではなく「天長」とあったため、「天」は「大」の誤写か活字本の誤植ではないかと考えていました。そこで何とか 原本を確認したいと思っていたところ、齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して提供していただいたのです(「洛中洛外日記」第599話で紹介)。その写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には「大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。
 「論証」が先行して成立し、それを支持する「実証」が「後追い」して明らかとなり、更に「大長」と記された新たな写本までが発見されるという、得難い学問的経験ができたのです。こうして村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を深く理解でき、学問の方法というものがようやく身についてきたのかなと感慨深く思えたのでした。(つづく)


第629話 2013/12/04

「学問は実証よりも論証を重んじる」(7)

 今日、午前中は名古屋で商談を行い、今は東京九段のホテルにいます。夕方、少し時間ができましたので、久しぶりに靖国神社を訪れました。名古屋駅前の桜通りの銀杏並木と同様に、靖国神社の銀杏も黄葉がきれいでした。

 九州年号研究の結果、『二中歴』に見える「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする結論に達していたのですが、わたしには解決しなければならない残された問題がありました。それは『二中歴』以外の九州年号群史料にある「大長」という年号の存在でした。
 『二中歴』には「大長」はなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』 以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が700年以前に「入り込む」形となったため、その 年数分だけ、たとえば「朱鳥」(686~694)などの他の九州年号が消えたり、短縮されていたりしているのです。
 こうした九州年号史料群の状況から、『二中歴』が原型に最も近いとしながらも、「大長」が後代に偽作されたとも考えにくく、二種類の対立する九州年号群史料が後代史料に現れている状況をうまく説明できる仮説を、わたしは何年も考え続けました。その結果、「大長」は701年以後に実在した最後の九州年号とする仮説に至りました。その詳細については「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収)をご覧ください。具体的には「大長」 が704~712年の9年間続いていたことを、後代成立の九州年号史料の分析から論証したのですが、この論証に成功したときは、まだ「実証(史料根拠)」 の「発見」には至ってなく、まさに「論証」のみが先行したのでした。そこで、わたしは「論証」による仮説をより決定的なものとするために、史料(実証)探索を行いました。(つづく)