九州年号一覧

第2942話 2023/02/12

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (3)

 山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代が同寺ホームページにあるように、「今からおよそ1400年ほど前」「飛鳥時代の推古天皇の御代」とする史料根拠の調査を行っています。そこで、国会図書館デジタルコレクションに収録されている江戸期の史料『甲斐国志』(注①)を閲覧しました。そこに次の記事がありました。

一〔護國山國分寺〕《國分村》臨済宗妙心寺末 御朱印七石六斗餘境内貳千八百坪 時記云天平年中勅ニヨリテ建ツル所ナリ 開山行基金光明四天王護國寺ト勅號アリ事ハ歴史ニ載セテ詳カナリ 但シ一州ノ國分寺ニ限ラサレハ盡ク記スルニハ及ハス(後略)
一〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》同宗惠林寺末 御朱印九百五拾坪 本尊地蔵佛殿本尊薬師《共ニ行基ノ作、額ハ醫王殿ノ三字 聖武帝ノ勅額ヲ大覚ノ所模寫ト云》嘗テ夢想アリトテ婦人血症ノ藥五香湯ヲ出ス
『甲斐国志 下』巻之七十六 327~328頁、《》内は二行割注。

 最初の「〔護國山國分寺〕《國分村》」は、聖武天皇による八世紀創建の国分寺(笛吹市一宮町国分)のことと記されています。その次の「〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》」は現在の楽音寺(笛吹市一宮町塩田)のことで、本尊の地蔵と薬師が共に行基の作とされており、お寺そのものの創建時期については記されていません。しかし、飛鳥時代に創建されたとも記されていませんから、九州年号の告貴元年(594年)創建「国府寺」(注②)とする史料根拠にはできません。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)成立、全124巻。甲陽図書刊行会、明治44~45年刊。
②九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保二年〔1318年〕頃成立)の告貴元年甲寅(594年)に相当する「聖徳太子二三歳条」に次の記事が見える。
「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)


第2940話 2023/02/10

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)

 本日の「多元の会」リモート古代史研究会で、井上肇さん(古田史学の会・会員、山梨県北都留郡)から興味深いことを教えていただきました。これまでも井上さんからは、九州年号史料として貴重な『勝山記』のコピーを頂くなど、何かと研究を支援していただきました。

 今回、教えて頂いたのは、山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺の創建が推古二年(594年)とする見解があるということでした。わたしは、推古二年創建寺院が山梨県(甲斐国)にあることに関心を抱きました。というのも、推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、その年に九州王朝が各国に「国府寺」建立を命じたことがわかっていたからです(注①)。ですから、推古二年創建伝承を持つ醫王山楽音寺は、九州王朝時代の国府寺だったのではないかと考えたからです。

 ちなみに、甲斐国分寺跡は同じ笛吹市一宮町国分にあり、そちらは八世紀の聖武天皇による国分寺と思われます。すなわち、甲斐国には九州王朝と大和朝廷の新旧二つの国分(府)寺があったことになります。管見では摂津国と大和国も新旧二つの国分(府)寺があり、こうした現象は多元史観・九州王朝説でなければ説明がつきません(注②)。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
同「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
②古賀達也「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
同「洛中洛外日記」1676~1679話(2018/05/24~26)〝九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔(1)~(4)〟


第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

 天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。

 山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

 もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

 これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。

 更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

 九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/


第2903話 2022/12/30

蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (3)

「一つ不思議に思うのが、この伝承内容が九州王朝(倭国)時代のことであるにもかかわらず、そこに九州年号(継体元年・517年~大長九年・712年)が使用されていないことです。」と前話で述べたのには理由がありました。全国的な九州年号調査が古田学派研究者により続けられてきましたが、東北地方では福島県での九州年号史料の存在が際立っていました。管見でも次の九州年号史料と記事が知られています(注①)。

1.【喜楽(貴楽)】『會津舊事雑考(1672年)』福島県河沼郡会津坂下町 恵隆寺
「邑山上且有塚昔經納經蔵云或為 喜楽元年 欽明天皇十三年壬申」
2.【喜楽(貴楽)】『新編會津風土記(1806年)』福島県大沼郡会津高田町 伊佐須美神社
「欽明帝 喜樂元年壬申 此地に遷祭れりと云」
「年代記掛幅…其中に 喜樂、弥勒 なと云」
3.【喜楽(貴楽)】『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』「須美神社年代記(1520年?)」 福島県大沼郡会津高田町 伊佐須美神社
「欽明天皇 喜樂元年 御宇十三年壬申也此時未建年号 所伝当社之古年代記載此年号故随記」
「欽明天皇 喜樂元壬申 同郡天降高田邑給也」
4.【喜楽(貴楽)】『會津鑑(1781年)』「須美神社年代記(1520年?)」
「伊佐須美記曰欽明天皇御宇 喜樂元年 也」
「欽明天皇三十代元年或作 喜樂元年」
5.【喜楽(貴楽)】『會津四家合考』「須美神社年代記(1520年?)」
「欽明天皇 喜樂元年丙申」
6.【法清】『伊佐須美神社年代記(1520年?)』福島県大沼郡会津高田町 伊佐須美神社
「欽明天皇 法清元年 御宇十五年也随当宮古年代記」
7.【蔵和】『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』「伊佐須美神社年代記(1520年?)」 福島県大沼郡 伊佐須美神社
「欽明天皇 蔵和元年 御宇二十一年也随古年代記」
8.【勝照】「黒沼大明神縁起異本」 福島県福島市森会 信夫山 信夫山黒沼神社
「崇峻天皇ノ御時 勝照三年 石比賣皇后ヲ黒沼大明神トシテ祭ル」
9.【端正(端政)】『信達二郡村誌(1977年・明治10年)』「黒沼大明神縁起」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇御時 端正二庚戌年 六月十五日黒沼大明神ト申」
10.【端正(端政)】『信夫山(1937年・昭和12年)』「羽黒神社縁起異本」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇三年 端正 …羽黒山大権現ト申奉」
11.【端正(端政)】『信達二郡村誌(1977年・明治10年)』「黒沼大明神縁起」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇御時 端正二庚戌年 六月十五日黒沼大明神ト申」
12.【端正(端政)】『信夫山(1937年・昭和12年)』「羽黒神社縁起異本」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇三年 端正 …羽黒山大権現ト申奉」
13.【貴楽・僧用(僧要)】『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』「伊佐須美神社年代記」 福島県大沼郡会津高田町
「掛幅…大事ヲ記ス其中ニ 貴楽、僧用 ナトノ年号有リ」
14.【命長】『會津正統記(1688年)~』「本朝之大祖之巻」 福島県会津 「(役小角)七歳時 命長元年庚子 母寂時」
15.【白雉】『會津鑑(1781)』『會津正統記((1688年~)』「飯豊山開基緑起」 福島県耶麻都飯豊山
「孝徳天皇 白雉三年壬子 右神霊出現有」
16.【白雉】『會津正統記((1688年~)』「本朝之大祖」
「孝徳天皇 白雉三年壬子 小角十九歳」
17.【白雉】『會津正統記(1688年~)』「金塔山恵隆寺縁起」 福島県河沼郡会津坂下町 勝常寺
「斉明天皇 白雉九年戊午 性空上人弟子」
18.【白雉】『石都々古和気神社由緒記(1895年・明治28年写本)』福島県石川郡石川町
「孝徳帝 白雉年中 中臣鋼子…当社に詣」
19.【白鳳】『會津正統記(1688年~)』「赤城大明神縁起」「法光院地臓菩薩緑起」 福島県会津若松市
「行基親王天智御字 白鳳八年戊反 …誕生九歳時 白鳳一六年丙子 二月…則號行基興照菩薩 白鳳一八年戊寅 …都尊来行基親王申 白鳳十年庚午 御誕生」
20.【白鳳】『會津正統記(1688年~)』「龍造寺薬師如米緑起」 福鳥県河沼郡 龍造寺
「天武天皇 白鳳一四年甲戌 義円僧正白智鳳法師伝授法」
「白鳳一八年戊寅 天竺仏生国奥照菩薩」
21.【白鳳】『會津鑑(1781年)』「金光山薬師寺緑起」 福島県会津
「白鳳一八年寅 天竺国より興照菩薩来朝」
22.【大化】『全国神社名鑑(1977年)』「白和瀬神社社伝」 福島県福島市大笹生折戸
「大化元年 鳥帽子嶽に鎮座」
23.【大化】『棚倉沿革私考(1987年・明治30年)』福島県東白川郡柵倉町
「孝徳帝 大化二年丙午 国造を廃し」

一見してわかるように、会津地方に分布が集中しており、同地域で成立した地誌・縁起類(注②)が九州年号を採録しています。おそらく、九州年号が古代に実用されていたと編者たちは理解していたようですが、それが近畿天皇家以外の王朝によるものとの認識はうかがえません。
他方、同じ会津地方にある高寺(恵隆寺)の「創建伝承」記事(注③)には「欽明天皇即位元年庚申(540年)」とあるだけで、九州年号(僧聴五年に当たる)が使用されていない理由は不明です。後代の地誌・縁起編纂時において、九州年号が忌避され(注④)、意図的に削除されたとも考えにくく、不思議な史料情況です。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」HP『新・古代学の扉』「九州年号総覧」による。
②『伊佐須美神社年代記(1520年?)』『會津舊事雑考(1672年)』『會津正統記(1688年~)』『會津鑑(1781年)』『新編會津風土記(1806年)』『会津温故拾要抄(1889年・明治22年)』『棚倉沿革私考(1987年・明治30年)』『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』。
③国会図書館デジタルコレクション『会津温故拾要抄 四、五』(454~455頁)に次の記事が見える。
「高寺恵隆寺千手観音縁起
一 茲ニ奥州大會津郡〔今、川沼ト云〕蜷河荘〔今、稲川ト云〕根岸村ト〔今、宇内ト云〕山ノ上草庵結〔昔、高寺、今、恵隆寺〕。人皇三十代欽明天皇即位元年庚申、唐梁國青岩ト云僧結庵。其頃日本ニテ寺ト云事ヲ不知、唯高處有故名高寺。自是百二十餘年過、人皇三十八代齊明天皇四年戊午、性空上人弟子蓮空上人、爰來、舊庵改大伽藍草創、號石塔山恵隆寺。本尊観音像(後略)」※〔 〕内は割注。句読点は古賀による。
④九州年号僧侶偽作説に立つ貝原益軒は、筑前の地誌や縁起から九州年号を意図的に削除したと思われる。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)の拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」を参照されたい。


第2865話 2022/10/28

後代史料中の干支がずれた九州年号

 干支が一年ずれた九州年号が後代史料中にも散見され、これが異干支暦によるものか、誤記誤伝の結果なのかの判断は難しいところです。管見によれば、『肥前叢書 第一輯』(注)収録の史書に次の異干支九州年号が見えます。

 「遊方名所略曰、卅二代用明天皇、勝照二年丁未(後略)」
 「日本略記曰、(中略)其後人王卅四代ノ帝敏達天皇ノ御宇ニ、聖徳太子ノ御異見ニテ、鏡帝(當)二年癸卯 增――癸卯ハ敏達天皇ノ十二年ニテ聖徳太子十一歳ノ時 六十六ケ國ニ被割ケリ」
 『肥前舊事 巻之一』南里居易編・糸山貞幹增訂、明治三六年。

 『肥前舊事 巻之一』に引用された「遊方名所略」「日本略記」の記事に見える九州年号「勝照二年(586年)丁未」と「鏡帝(當)二年(582年)癸卯」の干支が『二中歴』などの九州年号の干支と一年ずれています。両記事とも翌年干支が付記されており、先に紹介した武寧王墓誌や『万葉集』左注の「朱鳥」と同じ方向の一年のずれです。この後代史料中の異干支九州年号記事を、古代の異干支暦存在の痕跡とすることには慎重にならざるを得ませんが、皆さんに紹介しておきたいと思います。

【九州年号「鏡當」「勝照」干支と一年ずれた異干支】
西暦 九州年号 干支 異干支 天皇 年
581 鏡當元年 辛丑 壬寅 敏達 10
582 鏡當二年 壬寅 癸卯 敏達 11
583 鏡當三年 癸卯 甲辰 敏達 12
584 鏡當四年 甲辰 乙巳 敏達 13
585 勝照元年 乙巳 丙午 敏達 14
586 勝照二年 丙午 丁未 用明 1
587 勝照三年 丁未 戊申 用明 2
588 勝照四年 戊申 己酉 崇峻 1

(注)『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、1973年。


第2864話 2022/10/27

没年干支が改刻された百済武寧王墓誌

 九州年号史料以外にも、干支が一年ずれた痕跡を持つ著名な同時代金石文があります。百済武寧王墓誌に見える武寧王の没年干支です。

 寧東大将軍百済斯
 麻王年六十二歳癸
 卯年五月丙戌朔七
 日壬辰崩到乙巳年八月
 癸酉朔十二日甲申安暦
 登冠大墓立志如左

 1998年9月、古田先生は韓国の武寧王陵碑を見学され(注①)、その碑面の字を調査しました。そして、武寧王没年干支「癸卯」(523年)の部分が改刻されており、原刻はその翌年に当たる「甲辰」であったことが確認できたのです(注②)。
 武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』(1145年成立)には「癸卯」とされていますが、墓誌にはその翌年にあたる「甲辰」とあったのです。国王の墓誌という史料性格から、誤刻を訂正した痕跡とは考えにくいため、古田先生は、干支が一年引き上がった暦が当時の百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされました。そして、その改刻時期は同陵に合葬された王妃の埋葬時(529年己酉。王妃没年は526年丙午)の可能性が高いと指摘しました。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行干支暦に変更されたと考えられるのです。
 このように、六世紀の九州年号の時代、百済の王権内で干支が一年ずれた暦(ずれの方向も『万葉集』左注の朱鳥と同じ)を採用していたことは興味深いことです。

 「武寧王」新旧暦対応表
西暦 干支  記事・出典
501  辛巳 武寧王即位・『三国史記』
502  壬午 武寧王即位・『日本書紀』
521  辛丑 武寧王朝貢・『三国史記』武寧王二十一年条
522  壬寅 武寧王朝貢・『冊府元亀』普通三年条
523  癸卯 武寧王没・墓誌改刻、『日本書紀』『三国史記』
524  甲辰 武寧王没・墓誌原刻、『梁書』普通五年条
525  乙巳 武寧王埋葬・墓誌

(注)
①古田武彦「虹の光輪」『多元』28号、1998年。
②古賀達也「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」『古田史学会報』31号、1999年。
 同「洛中洛外日記」845話(2015/01/01)〝百済武寧王陵墓碑が出展〟


第2863話 2022/10/26

干支が一年ずれた九州年号史料

 「洛中洛外日記」2862話(2022/10/22)〝『日本霊異記』に「朱鳥日本紀(記)」の痕跡〟で紹介した干支が一年ずれた九州年号史料ですが、『万葉集』左注の「朱鳥」も茨城県岩井市出土(冨山家蔵)「大化五子年」(699年)土器(注①)も、ずれている方向が同じで、いずれも当該年号の翌年の干支になっています。具体的には次の通りです。

〔『万葉集』左注の「朱鳥」年号〕(注②)
○歌番号34
 日本紀曰、朱鳥四年(689)庚寅(690)秋九月、天皇幸紀伊国也。

○歌番号195
 右、或本曰、葬河島皇子越智野之時、献泊瀬部天皇皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年(690)辛卯(691)秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川島薨。

○歌番号44
 右、日本紀曰、朱鳥六年(691)壬辰(692)春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠掲上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未、天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。

○歌番号50
 右、日本紀曰、朱鳥七年(692)癸巳(693)秋八月、幸藤原宮地。八年(693)甲午(694)春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。

 686年 朱鳥元年 丙戌 (天武15年)
 687年 朱鳥二年 丁亥 (持統1年)
 688年 朱鳥三年 戊子 (持統2年)
 689年 朱鳥四年 己丑 (持統3年)
 690年 朱鳥五年 庚寅 (持統4年)
 691年 朱鳥六年 辛卯 (持統5年)
 692年 朱鳥七年 壬辰 (持統6年)
 693年 朱鳥八年 癸巳 (持統7年)
 694年 朱鳥九年 甲午 (持統8年)

〔「大化五子年」(699年)土器〕
 699年 大化五年 己亥 (文武3年)
 700年 大化六年 庚子 (文武4年)

 これまでわたしは『万葉集』左注に見える「朱鳥」の干支が一年遅れていることについて、同編者が『日本書紀』天武末年(686年)に見える朱鳥改元を持統天皇の元年へとイデオロギーに基づいて操作したのではないかと考えてきました。すなわち、天武崩御後の持統元年(687年)を「朱鳥」改元年とすることにより、持統天皇の年号にふさわしい位置に九州年号「朱鳥」を移動させたと理解してきました。
 他方、「大化五子年」(699年)土器の場合は、当地(関東)では干支が一年ずれた暦法が採用されていたためとしてきました(注③)。しかし、両者のずれの方向が一致していることを重視すれば、『万葉集』左注の「朱鳥」も、干支が一年ずれた暦法で編纂された「朱鳥日本紀」が存在しており、それに依っていたとする可能性も考慮しなければならないのではないかと考えるようになりました。

(注)
①茨城県岩井市出土(冨山家蔵)。
②『万葉集 一』日本古典文学大系、岩波書店。
③古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。


第2862話 2022/10/22

『日本霊異記』に「朱鳥日本紀(記)」の痕跡

 古代日本(倭国・日本国)が仏教を受容するとき、王家や個々人がどのような動機や目的により仏教を信仰したのだろうかと考えています。これは服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の論稿「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」(注①)に触発されたことによります。特に女性たちの動機は何だろうかと考えるようになり、『今昔物語集』や『日本霊異記』を読み直しています。今回は『日本霊異記』に九州年号の朱鳥が記されていることを紹介します。
 『日本霊異記』は八世紀末から九世紀初頭頃に撰述された仏教説話集ですが、その上巻の「忠臣、欲小(すく)なく、足るを知りて諸天に感ぜられ、報を得て、奇事を示す緣 第二十五」に次の記事が見えます。

〝故(もと)の中納言従三位大神高市萬侶の卿は、大后の天皇(持統)の時の忠臣なり。記有りて曰はく、「朱鳥七年壬辰の二月、諸司に詔して、三月三(日)に當りて伊勢に行幸(いでま)さ將(む)とす、此の意を知りて設備(まう)く宜(べ)し」とのたまふ。時に中納言、農務を妨げむことを恐り、上表して諫を立つ。(後略)〟(注②)

 ここに見える「朱鳥七年壬辰の二月、諸司に詔して、三月三(日)に當りて伊勢に行幸(いでま)さ將(む)とす、此の意を知りて設備(まう)く宜(べ)し」の記事は『日本書紀』持統六年条(692年)に見え、「記有りて曰はく」の「記」について、日本古典文学大系本の頭注には次の解説があります。

〝「記」は、書紀編纂に使用された一本か。前段(行幸を諫止する話)は、書紀所収。〟

 『日本書紀』には朱鳥は元年(686年)の天武の末年の一年で終わっており、「朱鳥七年壬辰」という年号は使用されていません。従って、ここに見える「記」は『日本書紀』編纂に使用された一史料と見なされているわけです。この解説に基づけば、『日本書紀』編纂時に参照された史料に、九州年号の朱鳥で年次が記された持統天皇の記録、いわば「朱鳥日本紀(記)」があったことになります。そしてそれは『日本霊異記』編纂時に遺っていたことになり、さらには近畿天皇家がみずからの天皇の事績を九州年号を用いて記していたということにもなるのです。この理解が正しければ、王朝交代直前の近畿天皇家の実態研究にも影響を与えそうです。
 このような「朱鳥」年号入りの記事が「雷山千如寺縁起」にも見え、古田先生はその元史料を「朱鳥日本紀」とネーミングされました。『万葉集』左注にも「朱鳥」年号が散見されるのですが、それらは持統元年(687年)を朱鳥元年とする年次表記であり、本来の九州年号「朱鳥」とは干支が一年ずれています(注③)。その点、今回紹介した『日本霊異記』の「朱鳥七年壬辰」は九州年号「朱鳥」と干支が一致しており、「朱鳥日本紀」のネーミングにふさわしいものです。

(注)
①服部静尚「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」『古田史学会報』172号、2022年10月。
②『日本霊異記』日本古典文学大系、岩波書店。129頁。
③干支が一年ずれている九州年号には、『万葉集』左注の「朱鳥」の他に、茨城県岩井市出土(冨山家蔵)「大化五子年」(699年)土器がある。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。


第2838話 2022/09/17

九州年号関連研究三件の発表

 本日はドーンセンター(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会もドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会では、珍しいことに九州年号関連の研究が三件発表されました。特に興味深く拝聴したのが、萩野さんの発表で、白雉開元の儀式が行われたのは前期難波宮ではなく、太宰府とするものでした。古田先生がご健在の時、先生(太宰府説)とわたし(前期難波宮説)とで厳しく論争したテーマでしたので、当時のことを思い出し、懐かしい気分になりました。このときのことを拙稿「古田先生との論争的対話 ―『都城論』の論理構造―」(『古田史学会報』147号、2018年)で紹介していますので、ご参照ください。
 正木さんからは九州年号の訓みについての試案が発表されました。基本的には日本呉音と思われるが、途中から日本漢音に変化した可能性についても言及されました。難しいテーマなので例会参加者を交えて検討が行われました。従来「ぜんき」と訓まれていた善記は、日本呉音では「ぜんこ」になり、白雉・白鳳は「びゃくち」「びゃくほう」、大化に至っては「たいけ」になるとのことで、ちょっと驚きました。『古代に真実を求めて』26集に大原重雄さん作成の「九州年号年表」を掲載しますので、そこに九州年号の訓みが付記される予定です。
 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

 なお、例会後の懇親会では、関西例会のリモート参加について役員とネット配信担当者とで検討を続けました。希望される「古田史学の会」会員に参加登録費(初回のみ)をお支払いいただいて、関西例会へのリモート参加を認める方向で話しがまとまりました。これから、具体的な検討に入ります。

〔9月度関西例会の内容〕
①日本書紀に出現する九州年号の成立に関する作業仮説(茨木市・満田正賢)
②白雉開元式は本拠地で(東大阪市・萩野秀公)
③神代七代の神(三)(大阪市・西井健一郎)
④『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について(神戸市・谷本 茂)
⑤『隋書』俀国伝の「此後遂絶」の解釈(京都市・岡下英男)
⑥装飾古墳絵画の馬に乗る小さな子(大山崎町・大原重雄)
⑦倭国にあった二つの王家 ―海幸山幸説話―(八尾市・服部静尚)
⑧不改常典とは(八尾市・服部静尚)
⑨九州年号の訓み(川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 10/15(土) 会場:ドーンセンター(大阪市中央区)
 11/19(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)
12/17(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)


第2812話 2022/08/21

九州年号「白鳳十二(三カ)年 輝月妙鏡律尼」石碑

 おそらくは後代成立と思われる「白鳳十二(三カ)年」の九州年号を持つ石碑を紹介します。「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟で触れましたが、愛媛県越智郡朝倉村(現、今治市)にある「樹の本古墳」(円墳か)の墳頂に江戸時代作製と見られる石碑があり、これが白鳳時代開基とされる浄禄寺の輝月妙鏡律尼の没年を記した石碑で、九州年号「白鳳」が記されています。
 十年ほど前に合田洋一さんのご案内で現地を訪問し、この石碑を実見したところ、「白鳳十二年七月十五日」と没年月日が彫られていました。年号だけで干支はなく、その風化状態から判断して、後代成立と思います。当地の『朝倉村誌』(注①)には輝月妙鏡律尼の没年を「白鳳十三年七月十五日」と紹介していますので、わたしの見間違いかもしれず、再確認の必要があります。輝月妙鏡律尼のことは白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)が「斉明天皇と『狂心の渠』」(注②)で紹介していますので、ご参照ください。後代成立とはいえ、「九州年号」金石文は希少です。

(注)
①『朝倉村誌』1986年。
②白石恭子「斉明天皇と『狂心の渠』」『古田史学会報』164号、2021年。『朝倉村誌』から次の記事を引用している。
 「人皇三十八代斉明天皇、当国の当所御下向の時(西暦六六一年)浅地に車無寺を建立し、その末寺尼坊として、朝倉下村原見の下より岡の保田の下通りの水無之所に、小千玉興の助力によって建立し、樹之本山浄禄寺といい、本尊は阿弥陀如来、後には薬師如来を生木に彫刻し、併せて本尊とする。この浄禄寺尼坊の住持が、車無寺の無量上人の弟子である輝月妙鏡律尼であった。この尼は原見の下に井出二筋を掘り、水を渡して、この水で山口村下まで、田地を開き、作物よくみのり、二筋の井手の間へ家多く立って、在家の者が栄えた。それでこの所を尼ヶ井手と言い伝えた。また浄禄寺本尊である、生木の薬師如来の仏徳によって、祭礼や祝儀の時は、前日に家具を、この本尊に頼みおくと、入用の品物を必要な数だけそろえてくださるので、附近の村人は大変ありがたく、その恩恵に浴していた。(中略)この生木の薬師如来は六八四年(天武天皇白鳳十三年)の大地震によって枯れ、白鳳十三年七月十五日をもって尼僧輝月妙鏡律尼も遷化した。」


第2811話 2022/08/18

九州年号金石文「朱鳥三年 鬼室王女」石碑

 将来の九州王朝や九州年号研究者のための資料作成を続けてきました。一応、知見の範囲の資料が完成しましたので、過日の多元的古代研究会リモート勉強会や、わたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」で紹介させていただきました。しかし、未検討の九州年号金石文が残っていることに気づきましたので、逐次追加しています。
 その追加資料の一つが、「朱鳥三年 鬼室王女」石碑です。数少ない同時代九州年号金石文である「朱鳥三年 鬼室集斯」墓碑はこれまでも度々紹介してきましたが(注①)、百済人官人として近江朝に仕えた鬼室集斯の娘の石碑が滋賀県蒲生郡の山中にあるという記事や伝承が平野雅曠さん(古田史学の会・会員、故人、熊本市)から報告されています。それは「市民の古代研究会」の研究紙(隔月刊)『市民の古代研究』21号に発表された論稿「鬼室集斯の墓」(注②)です。それによれば、次の銘文を持つ石碑が蒲生郡の山中にあるという記事を紹介されています。

 「朱鳥三年戊子三月十七日
  鬼室王女 施主国房敬白」

 平野稿より関係部分を転載します。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍に朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
 続いて、(要旨)………
「集斯が近江に来た頃、娘は十七才位だったらしい。四十才に近かった集斯は大学寮の長官になり、娘を秘書役として補佐させた。
 二年余りの頃、役所の少壮学士と恋愛問題が噂され、父の耳に入った。父は娘を厳しく戒めると共に解雇した。
 鬼室集斯は、白村江敗戦の百済王族の出身であり、娘の相手は、敵に当たる新羅の出でもあったからであろう。
 鬼室王女のことは、それからの消息がと切れている。そして忽然としてあるとき、日野川上流の熊野に現れる。ある日百姓の若者が吊り橋を渡ろうとしたところ、その吊り橋が真中から切れていた。その垂れ下がった片方に、えもいわれぬ美しい女が、ぶら下がったまま眠り込んでいるのを見た。若者は助ける。その若者が実は都で噂のあったあの少壮学士だったという。
 二人は百姓をしながら幸せに暮らしたが、やがて父の鬼室集斯の追手に知られてしまう。王女は逃れて竜王山に深く入り、五大の滝に立った。現在石碑の建っているところは、この滝からさらに登った台地にあった。すると飛瀑の中の王女は、三日三晩目に黒髪が白髪となっていた。それを見定めた追手は引揚げた。ところが、おさまらないのは若者の夫で、妻をもとの姿にかえそうとして禁を破ってしまった。若者はそれが祟って悶絶して死んだ。王女はしかし、白髪をそりおとすと、若い尼僧になっていた。死んだ夫の供養のため仏門に入り、後年蒲生郡の平林で入寂した。平林から近いあの石塔寺は、王女を慕った百済系の氏族が、王女の菩提寺として建てたものだろう、という。
 竜王山にある鬼室王女の石碑には、『朱鳥三年戊子三月十七日』と彫ってあるから、父の鬼室集斯が死ぬ七ヶ月前である。四十七、八才くらいで亡くなったらしい。」(後略)

 この印象に残る秘話がどのように伝承されてきたのか、鬼室王女の石碑がどこにあるのか、わたしはこれまで三回ほど現地調査に赴きましたが、未発見のままです。もし実見できれば、同時代九州年号金石文かどうかの調査を行いたいと願っています。

(注)
①古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第二集(明石書店、1998年)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)収録。
 同「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
 同「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」『九州倭国通信』199号、2020年。
②平野雅曠「鬼室集斯の墓」『市民の古代研究』21号、1987年。


第2807話 2022/08/11

ポアンカレ予想と古田先生からの宿題

 昨晩のNHK番組「笑わない数学」は〝ポアンカレ予想〟がテーマでした。世紀の天才数学者アンリ・ポアンカレ(1854~1912)により提起された「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相と言えるか?」という問題です。番組では、「宇宙の外に出ずに、宇宙の形がざっくり丸いか丸くないか、確かめる方法はあるか?」とも説明されましたが、わたしの数学力ではチンプンカンプンでした。
 「洛中洛外日記」(注①)で紹介したこともありますが、ポアンカレの名前を聞くたびに古田先生からいただいた二冊の本のことを思い出します。それはポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』(岩波文庫)で、古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの学力では難しくて、少ししか読めていません。
 それは十五年ほど前だったと記憶していますが、九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注②)という名称について、科学や物理学での「モデル」という概念と比べて使用方法が間違っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できずにいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。それがポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』だったのです。
 この二冊は昭和36年版で、紙は黄変していますが、傍線や書き込みが一切なく、わたしは違和感を抱きました。古田先生からは多くの書籍をいただきましたが、新品のものはともかく、古い本には先生による書き込みや傍線が引いてあるのが常でしたので、この二冊だけは異質だったのです。それでも今回よく見ると、『科学と方法』の238~244頁の部分の上部の角が折り曲げられており、これも古田先生の蔵書によく見られたもので、その部分は特に留意されていたと思われます。それは第三篇「新力學」の第二章「力學と光學」に相当する部分です。なぜ古田先生がそこに興味を持たれたのかはわかりませんが、先生の勉強や学問の幅の広さに改めて驚いています。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、理解はできなくても、せめて完読だけはしておきたいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1977話(2019/08/31)〝古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」〟
②「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。