九州年号一覧

第264話 2010/05/16

「四天王寺」瓦と「天王寺」瓦

 昨日の関西例会で、わたしは谷川清隆氏らの論文「七世紀:日本天文学のはじまり」(『科学』vol.79 No.7)と「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』第11巻3・4号、2008年10月)を紹介し、『日本書紀』に記されている天文現象記事についても多元史観によらなければ正確な理解はできないことを説明しました。
 また、現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説を裏づける四天王寺出土瓦について報告しました。それは四天王寺から「四天王寺」と「天王寺」の銘文がある瓦が出土しているというものです。この考古学的事実は四天王寺が、ある時代に天王寺と呼ばれていた物的証拠と言えます。詳細は今後調査の上発表したいと考えています。
 5月の関西例会での発表は次の通りでした。竹村さんからは、古代山城などをテーマとした四つの発表がありました。配られた資料も研究に役立つものでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 屋島城をちょこっと見た・他(豊中市・木村賢司)

2). 西暦年の干支算出表(交野市・不二井伸平)

3). 古田史学の未来とインターネット(東大阪市・横田幸男)

4). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

5). 「古代天文学」の近景(京都市・古賀達也)

6). 『二中歴』教到年号の「舞遊始」(川西市・正木裕)
 『二中歴』九州年号「教到」(531〜535)細注「舞遊始」は、九州王朝が同時期、新羅討伐戦に備え全国に屯倉を設置し、これを記念し「楽を作し」た事を記すもの。
  (論拠)『日本書紀』安閑2年(535)に「駿河国稚贄屯倉」始め13国27箇所の屯倉設置記事、安閑元年に「楽を作して、治の定まることを顕す」との記事がある。
 また、本居宣長『玉勝間』に「教到六年(536)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し」これが「東遊」の起源と記す。(本会の冨川ケイ子氏・古賀達也氏指摘)。稚贄屯倉と宇戸ノ濱(宇東)は共に静岡県吉原地区にあり、これらの記事は時期も一致し、「教到」は九州年号であるから、九州王朝は稚贄屯倉設置を記念し現地で筑紫の舞楽を奏し、これが「東遊」の起源となったと考えられる。また、謡曲「羽衣」からも「東遊」が駿河外(筑紫)から持ち込まれたとすると論じた。
(「本居宣長『玉勝間』の九州年号 ーー『年代歴』細注の比較史料」古賀達也 古田史学会報64号より)

7). 前期難波宮と高安城(木津川市・竹村順弘)
8). 紀行感想文「久米評官衙を訪ねてみて(木津川市・竹村順弘)
9). 「鬼ノ城」村上論文に関して(木津川市・竹村順弘)
10).蛇足・讃岐と播磨の古代山城(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・伊勢島風土記逸文・他(奈良市・水野孝夫)
○関西例会会計報告(豊中市・大下隆司)


第263話 2010/05/09

「古代天文学」の近景

 今日は岡崎にある京都府立図書館に行って来ました。東山の新緑が間近にせまり、朱色の平安神宮とのコントラストが一番美しい季節です。今回の目的は岩波書店から出されている雑誌『科学』vol.79 No.7(2009.7)の閲覧とコピーでした。一年近く前の発行ですが、そこに掲載されている谷川清隆氏・相馬充氏(国立天文台)の論文「七世紀:日本天文学のはじまり」を再確認しておきたかったのです。
 以前、同論文の原稿を紹介され読んでいたのですが、恥ずかしながらその時は同論文の持つ重要性をわたしは理解できていませんでした。今回、読み直してみて、同論文の持つ真の意味と、著者の意味深長なメッセージにやっと気づいたのです。
 谷川氏らの主張は、現代天文学の成果により、古代の天文現象の再確認精度が向上し、『日本書紀』見える日食・月食・彗星などの天文現象記事が実際の観測
に基づいたものかどうか再検証が可能となったが、その結果、次のことが明確になったとされています。
 1). 『日本書紀』によれば天文観測が実際に開始されたのは推古紀の途中(620年)記事からであり、日本の天文観測はこの頃に開始されたと認められる。
 2). 森博達氏の研究により『日本書紀』は正統漢文で記されたα群と倭習漢文で記されたβ群、それとどちらかわからない持統紀に分けられるが、α群には観測記事がなく、β群の記録は観測に基づいている。
 このような指摘を行い、谷川氏らは次のように締めくくられます。
 『隋書』に見える倭国の天子、多利思北孤の記事から、この時、倭国は中国の冊封体制から独立し、その代わり自前の暦を作る必要から(中国から暦を貰えなくなるため)、天文官を置き、天体観測を開始したのではないか。
 α群に天文観測記録がないのはなぜか。α群に属する皇極・孝徳・斉明・天智の時代30年間は観測しなかったのか。天文官はその間何をしていたのか。
 α群β群はもともと言語学的分類だったが、天文観測の有無がこの分類に合致した。この現象は著述者の違い(中国人か日本人か)にだけに押し込めておくには問題が大きすぎる。
 持統天皇になると日食観測をしなくなる。なぜか。
 日本の律令制度は701年の大宝律令に始まると習ったが、620年に始まる天文観測と律令制度との関係はどうか。
 このように谷川氏らは『日本書紀』の天文観測記事から導かれた諸疑問を列挙され、「謎はふかまった?」と同論文を終えられるのです。
 もう、おわかりでしょう。『日本書紀』の天文観測記事は大和朝廷一元史観では謎だらけであると、暗に指摘されているのです。もはや、私には疑うことがで
きません。谷川氏らは古田史学九州王朝説をご存じであることを。そして、多元史観・九州王朝説でしかこの謎は解けませんよと、読者に意味深長なメッセージ
を送られているのではないでしょうか。
 古田史学支持者に自然科学系の人が多いことは著名です。天文学の分野でも、オランダのユトレヒト天文台に勤務されていた難波収さんもそのお一人です。自
然科学(天文学)の人間が文献史学との接点ともいえる「古代天文学」に於いて、新たなメッセージを発信し始める。そのような時代となったのです。なお、わ
たしは門外漢のため天文学界のことは存じませんが、谷川氏は高名な天文学者とのことです


第257話 2010/05/03

盗まれた弔問記事

 九州王朝の難波天王寺が、後に近畿天皇家により聖徳太子が建立した四天王寺のことにされたとする仮説を発表してきましたが、この仮説は更に『日本書紀』 に記された四天王寺関連記事中にもまた、九州王朝の難波天王寺の記事を盗用したものがあるのではないかという新たな史料批判の可能性をうかがわせてくれま す。
 こうした視点で『日本書紀』を精査したところ、推古31年(623)条に新羅と任那からの使者が来朝し、仏像一具と金塔・舎利などを貢献してきたので、仏像を葛野の秦寺に置き、その他の金塔・舎利などを四天王寺に納めたという記事があることに注目しました。この四天王寺は九州王朝の難波天王寺のことではないかと考えたのです。
 難波天王寺は九州年号の倭京2年(619)に完成していますから、その4年後に新羅と任那は九州王朝に仏像や舎利を贈り、難波天王寺に金塔・舎利を納めたものと思われます。何故なら推古31年(623)は九州年号の仁王元年にあたり、その前年に日出ずる処の天子である多利思北孤が没しているからです。隣国の天子が亡くなった翌年に仏像や舎利を贈るという、この使節の目的は弔問以外に考えられません。しかも多利思北孤は篤く仏教を崇敬した菩薩天子なのですから、それに相応しい贈り物ではないでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にも、新羅や百済がイ妥国が大国で珍しい物が多く、これを敬迎したと記されています。また、常に通使が往来するとも記されており、関係が緊密であったことがうかがえます。こうした関係から考えても、多利思北孤が亡くなった翌年に遣使が来るとすれば、弔問と考える他ありません。まかり間違っても、九州王朝を素通りして近畿の推古に贈り物をすることなど、九州王朝説に立つ限り考えられないのです。
 従って、弔問使節が持参した仏像や舎利などが納められた寺院は九州王朝の寺院であり、推古31年条に見える四天王寺は九州王朝の難波天王寺と考えざるを得ません。この時の奉納品が四天王寺に存在していたことは、「太子伝古今目録抄所引大同縁起延暦二十二年四天王寺資財帳逸文」にも記されていますから、まちがいなく現四天王寺=九州王朝難波天王寺に納められたのです。
 このように、現四天王寺を九州王朝の難波天王寺と考えると、『日本書紀』に盗用された九州王朝の事績を洗い出すことが可能となるケースがあります。『日本書紀』以外の四天王寺関連史料も同様の視点で史料批判することにより、九州王朝史の復原が進むのではないかと期待されるのです。


第251話 2010/03/28

『古田史学会報』97号の紹介

 『古田史学会報』97号の編集が完了しました。今号には正木さんによる九州年号「端政」の意味と出典に関する貴重な発見が報告されています。その正木説を受けて、わたしも「法隆寺の菩薩天子」を執筆できました。
 会員以外では、東北大学名誉教授の吉原賢二さんから「東日流外三郡誌」真作説に立った玉稿をいただきました。著名な化学者でもある吉原さんによる
自然科学の立場からの優れた論文です。和田家文書真偽論争へ新たな一石を投じられたものといえます。

 『古田史学会報』97号の内容
○九州年号「端政」と多利思北孤の事績 川西市 正木 裕
○天孫降臨の「笠沙」の所在地ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である 姫路市 野田利郎
○法隆寺の菩薩天子 京都市 古賀達也
○東日流外三郡誌の科学史的記述についての考察 いわき市 吉原賢二(東北大学名誉教授)
○纒向遺跡 第一六六次調査について 生駒市 伊東義彰
○「葦牙彦舅は彦島(下関市)の初現神」 大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング
○関西例会のご案内
○2010年度会費納入のお願い


第250話 2010/03/27

天王寺と四天王寺

 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」の細注にある「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事中の難波が、摂津難波
と博多湾岸にあったと考えられている「難波」のいずれなのかというテーマを検討し始めた当初から、わたしには気にかかっていたことがありました。現在の
「結論」は摂津難波と考えていますが、その場合、大阪に今もある四天王寺と『二中歴』の天王寺がはたして同じ寺かという問題でした。もっとはっきり言え
ば、四天王寺と天王寺とどちらが本来の名称なのかという疑問でした。
 関西の方なら特にご存じのはずですが、お寺の名前は四天王寺ですが、現地名は天王寺(大阪市天王寺区)なのです。古い地図でも「天王寺村」と記されてい
ますから、地名が天王寺であることは間違いありません。考えてみれば、これは大変不可解な現象です。
 四天王寺というお寺は聖徳太子が建立したと『日本書紀』にも記されており、古代からあった名称であることは確かと思いますが、それならその四天王寺が建
てられた場所としての地名も「四天王寺村」であるはずで、寺名とは異なる「天王寺村」とはしないはずです。しかし、事実は「天王寺村」であり「四天王寺
村」ではないのです。
 また、もともと「四天王寺村」であったのが、いつのまにか「天王寺村」に変わったということも考えられません。何故なら、お寺の四天王寺は現在まで立て
替えはあっても、当地に存続しているのですから、勝手に寺名とは異なる村名に変えることなどできないのではないでしょうか。また、する必要もありません。
 そうすると、考えられるケースはただ一つ。天王寺村の由来となった本来の寺名は「天王寺」だった。このケースです。すなわち『二中歴』に記された「天王
寺」が正しく、『日本書紀』の四天王寺は別の場所に建てられた別のお寺だった。あるいは、本来「天王寺」という名前のお寺が、九州王朝滅亡後に大和朝廷に
より四天王寺と名称変更されたのではないでしょうか。現存地名「天王寺」の存在が、この論理性を支持する動かぬ証拠なのです。
 この論理性の帰結からも、『二中歴』の「倭京二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」という記事が正しかったこととなります。すなわち、この難
波は摂津難波であり、天王寺は大阪市天王寺区にあった「天王寺」のことだったのです。『二中歴』編者は『日本書紀』に影響されて「難波四天王寺」とはせず
に、原史料に忠実に「難波天王寺」と記したのです。更には、九州年号と共に記されたこの記事は、九州王朝の事績であり、この時代の摂津難波は九州王朝の直
轄支配領域だったのです。


第249話 2010/03/21

九州年号と大正新脩大蔵経

 昨日の関西例会では九州王朝研究に大変役に立つ基礎研究ともいうべき、二つのデータベースが発表されました。
 一つは竹村さんによる「評・郡」別、地名別、紀年別の木簡データベースで、奈良文化財研究所の大量の木簡データベースから検索分類グラフ化したものです。これにより、藤原宮や飛鳥池・石神遺跡などからの出土木簡にどのような傾向があるのか、多元史観の視点から把握できるようになりました。これは九州王朝滅亡過程の研究に有効なツールとなりそうです。
 二つ目は、西村さんによる膨大な大正新脩大蔵経からの「九州年号」検索データベースです。これも、九州年号が仏教経典との関係が深いことを指し示しただけでなく、九州王朝がどのような経典を重視したのかを研究する上で、大変便利なデータベースです。

 こうした労作により、九州王朝研究が加速することは間違い有りません。お二人に感謝したいと思います。なお、今回も遠方(埼玉県)からの初参加者があったり、久々に冨川さんの参加発表もあり、盛会でした。発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「南九州一元史観・神話の旅」・「リコール」(豊中市・木村賢司)
2). 日本(倭)年号の大蔵経における出現回数(向日市市・西村秀己)
3). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)
4). 評木簡と藤原宮(木津川市・竹村順弘)
5). 夢殿救世観音と法華経(川西市・正木裕)
6). 藤原宮(相模原市・冨川ケイ子)
7). 纏向遺跡・第166次調査について(生駒市・伊東義彰)
8). 『海東諸国紀』中の「太子を殺す」記事について(川西市・正木裕)
9). 『二中歴』鏡當「新羅人来従筑紫至播磨焼之」(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・神武を祀る神社(熊本県最多。天草に多い)・他(奈良市・水野孝夫)


第246話 2010/03/06

法隆寺の本尊と菩薩天子

 二月の関西例会で正木さんから発表された、九州年号「端政」(589〜593)の語源と出典に関する発見はわたしに新たな視点と示唆を指し示してくれました。それは法隆寺の最初の本尊についての問題でした。
 今でこそ法隆寺の本尊は釈迦三尊像ですが、この釈迦像は倭国の天子、多利思北孤(上宮法皇)が没した翌年(癸未年:623年)に造られたと、その光背銘に記されています。他方、近年の年輪年代測定の成果により法隆寺五重塔の心柱の伐採年が594年であったことが判明し、五重塔や金堂が七世紀初頭に建立さ
れた可能性が高くなっています(その後、和銅年間に現在地に移築)。そうしますと、法隆寺建立から釈迦像が造られた623年までの期間は別に本尊があった
ことになり、その元の本尊は何だったのだろうか。このような問題意識を漠然と持ち続けていたのですが、正木さんの研究によりこの問題が一気に発展したので
す。
 九州年号「端政」が菩薩の顔の様相を表現した仏教用語であったとする正木さんの発見は、端政年号の時の倭国の天子、多利思北孤が『隋書』にあるように隋
の天子を海西の菩薩天子と呼び、同時に自らを「海東の菩薩天子」と認識していたとする古田先生の指摘とも見事な一致を示します。菩薩の顔の様相である「端
政」という年号に、自らを菩薩天子とする多利思北孤の強い意志が感じられるのです。
 こうした視点に立ったとき、法隆寺建立当初の本尊は菩薩像ではなかったのか。もしそうであれば、法隆寺夢殿に長く秘仏として蔵されていた救世観音菩薩像こそ本尊に最もふさわしく、その可能性が最も高いことに気づいたのです。
  釈迦三尊像が上宮法皇の「尺寸の王身」と光背銘に記されているように、そのモデルは倭国の菩薩天子、多利思北孤です。そして、釈迦像と顔がそっくりの
夢殿の救世観音菩薩も、天平宝字五年(761)の『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩像」と記されているように、やはりモデルは多利思北孤と考えられ
るのです。これらのことから、法隆寺建立当初の本尊は、夢殿の救世観音像との考えに到達したのです。(つづく)


第245話 2010/02/21

九州年号「端政」 と菩薩天子

 昨日の関西例会では、姫路市の野田さんから天孫降臨の「笠沙」を御笠郡ではなく、クシフル岳の北側に位置する今宿の「笠掛」とする新説を発表されました。有力な仮説だと思いました。更なる証拠堅めが期待されます。
 正木さんからは今回も素晴らしい発見が報告されました。九州年号「端政」の出典が、中国南北朝時代の僧、曇鸞(467〜542)の著『讃阿弥陀仏偈』に ある「願容端正(政)」(菩薩の顔の相)ではなかったかというものです。隋書イ妥国伝の「海西の菩薩天子」の菩薩に対応しており、なるほどと思わせる発見でした。この多利思北孤と「菩薩天子」というテーマは法隆寺の本尊の変遷にも関わってきそうで、楽しみなテーマです。
 2月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「栗隈王」など知らない・他(豊中市・木村賢司)

2). 天孫降臨の「笠沙」の所在地   ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である(姫路市・野田利郎)
 「笠沙」は「今宿」/古事記の「笠沙」/日本書紀の「笠狭の岬」/分散としての降臨/不可解なニニギノ命の行動/「既而」/「天浮橋」の用途/宗像から来たニニギノ命の行動/今宿に留まる、ニニギノ命

3). 常立神・その2ーー常根津日子とシキのハエ(大阪市・西井健一郎)

4). 謡曲と九州王朝3「多利思北孤」と『風姿花伝』(川西市・正木裕) 世阿弥著『風姿花伝』に記す、聖徳太子が秦河勝に命じた「六十六番の遊宴、六十六面製作」譚、及び法華経を六十六国の菩薩に納める「六十六部廻国」風習は、「海東の菩薩天子」たる多利思北孤の六十六国分割と、『二中歴』に記す端政元年法華経伝来の証左であり、また六十六国分割は仏教説話に由来する事を論じた。

5). 九州年号「端政(正)」改元と多利思北孤(川西市・正木裕) 多利思北孤の即位年号と考えられる「端政」(五八九〜)は、「正しい政治の始め」の意味と共に、菩薩の顔容を示す語『顔容端政』から採られた事、彼は物部討伐後、隋に備え難波・河内に進出、更に東国へ使者を派遣、全国を仏教にのっとり六十六に分国し、宗教上・政治上の権力を兼ね備えた「菩薩天子」を志向した。以上を南朝「梁」の武帝も崇拝した僧「曇鸞」の『讃阿弥陀仏偈』、端政年間の九州年号諸資料等から示した。

6). 忍熊王と両面宿儺などその他(木津川市・竹村順弘)

7). 魏志倭人伝は「漢音」で読んではいけない(京都市・古賀達也)

8). 前期難波宮と藤原宮の考古学(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「淡海」八代海説ほか、遠賀川河口説、琵琶湖説比較考察・他(奈良市・水野孝夫)


第235話 2009/11/15

難波天王寺、聖徳が造る

 現存最古の九州年号群史料である『二中歴』年代歴ですが、その九州年号の下に記された細注の記事、特に仏教関連記事が九州王朝下のものであるとする論文「九州王朝仏教史の研究−経典受容記事の史料批判」(『古代に真実を求めて』第三集、2000年)を発表したことがあります。
 その細注の中で、倭京二年(619年)「難波天王寺聖徳造」という記事の難波について、「年代歴に見える『難波天王寺』を、九州の難波とする可能性も捨て難い。この点、今後の課題として保留しておきたい。」(139頁)と態度を保留していたのですが、この問題について解決を見ました。
 結論から言えば、この難波は摂津の難波と考えざるを得ません。なぜなら、同じ『二中歴』年代歴の「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」とあり、「筑紫観世音寺」ではなく、単に「観世音寺」とだけしかないことは、この記事が筑紫で成立したからで、筑紫の読者に対してその場所を殊更に記す必要が無かったと考えられます。それに対し、天王寺には「難波天王寺」と、その場所が難波であると記す必要があったということは、この天王寺は筑紫ではないことを示します。もし筑紫にあったのであれば、筑紫で成立した細注に単に「天王寺」と記せば、読者にはわかるはずですから。したがって、「難波」とわざわざ表記したのは、筑紫ではなく、遠く摂津の難波にある天王寺であることを説明する必要があったと考えるべきなのです。
 こうした史料事実の示す論理性から、この難波天王寺は摂津難波の天王寺と理解するよう、細注筆者は読者に要求していることが明かとなったのです。そうすると、この難波天王寺は九州王朝の聖徳と呼ばれる人物が建立したことになりますが、この倭京二年(619年)が九州王朝天子・多利思北孤の晩年に当たることから、聖徳とは皇太子の利歌弥多弗利であった可能性が大きいように思います。そして、この聖徳・利歌弥多弗利の活躍記事が、『日本書紀』の「聖徳太子」記事として盗用されたのではないでしょうか。
 更にもう一つ、重要な問題があります。それは摂津難波に九州王朝が天王寺を建立したのであれば、当時、摂津難波は九州王朝の直轄支配領域であったことになります。だからこそ、九州年号の白雉元年(652年)に九州王朝は副都として前期難波宮を建設することができたと思われるのです。
 それでは、九州王朝はいつ頃摂津難波を支配領域としたのでしょうか。このテーマについては別に論じたいと思います。

参考
九州王朝への一切経伝来 ーー『二中歴』一切経伝来記事の考察(古田史学会報12号)へ
善光寺如来と聖徳太子の往復書簡ー九州年号の秘密ー (古田史学会報58号)へ


第231話 2009/10/25

九州年号改元の史料批判と仮説

 10月17日の関西例会では、正木さんより九州年号改元の理由として、天子崩御の他、遷都・遷宮・天変地異(地震)等を『日本書紀』などから推測され、九州王朝史復原案の提起をされました。論証として成立しているものや作業仮説段階のものなど、様々なケースが報告されましたが、貴重な研究内容と方法でした。会報への投稿を要請しましたので、お楽しみに。
 岡下さんは例会発表2回目でしたが、七支刀銘文の読みについて、古田説の他、代表的な説を列挙され、中でも岡田英弘氏の説(倭王旨の旨を指の略字として、 「指示」などの「指」の意味とする)が妥当とされました。もちろんこの発表に対しては厳しい批判・反論が寄せられましたが、わたしとしては七支刀銘文に関する様々な説を知ることができ、たいへん勉強になった発表でした。
 例会発表で批判反論が出されるということは、研究者として認められた「証拠」でもあります。厳しい批判や意見が出されるのは関西例会の伝統です。批判反論にめげず、例会常連発表者が増えることを期待しています。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「大湖望」雑論会・記(豊中市・木村賢司)
2). 彦島史観と神代七代神「常立神」(大阪市・西井健一郎)
3). 九州王朝の東北進出(木津川市・竹村順弘)
4). 七支刀銘文の読み方(京都市・岡下英男)
5). 古代の鉄は「西高東低」(豊中市・大下隆司)
6). 九州王朝の遷都と九州王朝の改元について(川西市・正木裕)
7). 航空写真(昭和23年米軍撮影)に見る「狂心の渠」(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・吉野井光山五臺寺の白鳳年号・他(奈良市・水野孝夫)


第227話 2009/09/23

九州王朝の建都遷都と改元

 前期難波宮九州王朝副都説の発見は、様々な問題の発展を促しました。たとえば、前期難波宮建都に伴い、九州年号が白雉に改元(652年)され、焼失により朱鳥改元(686年)された事実に気づいたことにより、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元するという認識が得られたのです。

 このテーマについて、過日、正木裕さん(古田史学の会会員)と拙宅近くの喫茶店で検討を進めました。大宰府建都(おそらく遷都も)が倭京元年(618 年)の可能性が強く、前期難波宮建都により白雉改元、近江遷都は白鳳元年(661年、『海東諸国紀』による)、そして藤原宮遷都の694年12月の翌年が大化元年と、建都遷都と九州年号の改元が偶然とは考えにくいほど「一致」していることについて、正木さんの見解をうかがったところ、それ以外の遷宮時も九州年号が改元されている可能性を指摘されました(たとえば常色元年、647年)。九州王朝の天子が即位時に遷宮し、同時に改元したというもので、この正木さんの指摘は大変興味深いものでした。
 大和朝廷の天皇も多くは即位時に「遷宮」しており、この風習は九州王朝に倣ったものではないかという問題にも発展しそうです。詳しくは正木さんが論文発表を予定されていますので、そちらをご参照いただきたいのですが、九州王朝史復原作業において、九州年号のより深い研究が重要です。正木さんとの「共同研究」はこれからも進めたいと思っています。


第215話 2009/07/12

白雉二年銘奉納面の「吉日」表記

 6月28日には名古屋で古田史学の会・東海主催の講演を行い、その後、仕事で中国上海に出張し、帰国後すぐの7月4日は古田史学の会・四国主催の講演を行うという、ハードスケジュールが続きました。やっと、一段落ついてきましたので、ちょっと気にかかっていた問題に取り組みました。
 このコラムでも紹介しました愛媛県西条市の福岡八幡神社にある白雉二年銘奉納面についてです。松山市での講演会でも質問されたのですが、奉納面に記されている「奉納 白雉二年 九月吉日」という文章の「吉日」という表記様式が、古代にまで遡れるものかどうかという問題でした。
 しかし、その心配は杞憂のようでした。例えば『日本書紀』でも「吉日を選びて齊宮に入り」「吉日をうらなへて」(神功紀)とか、「吉日を告げしめたまふ」(履中紀)などのように神事に関する記事で使用されていますし、奈良文化財研究所の木簡データベースにも、前後の文字が不明のためどのような文脈かはわかりませんが、「吉日」(平城宮出土)と記された木簡が見られます。
 このように、8世紀の文献や木簡に「吉日」という表記が使用されていることから、白雉二年(653)に「吉日」という表記様式があっても全く問題とするにあたらないでしょう。従って、同奉納面が九州年号史料としての貴重なものである可能性は十分と思われるのです。