九州年号一覧

第2510話 2021/07/04

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (6)

 『歴代三宝紀』にあった支謙訳「阿弥陀経二巻」

 九州年号の僧要年間(635~639年)に九州王朝(倭国)へ伝来したと思われる一切経『歴代三宝紀』(費長房撰述。1076部、3292巻)に鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』(402年頃訳出)を見つけることができずにいたのですが、『印度学仏教学研究』(注①)に掲載された眞野龍海氏の論文「小阿彌陀經の成立」によれば、鳩摩羅什訳よりも古い求那跋陀羅訳の「阿弥陀経」があるとのこと。そこで、『歴代三宝紀』の鳩摩羅什よりも前を重点的に探し直したところ、魏の文帝の時代(220~226年)に「阿弥陀経二巻」という記述を見つけることができました。その解説部分には「魏文帝世。月支國優婆塞支謙」とあり、月支國の僧、支謙が漢訳したとされています。同解説によれば支謙は「百二十九部百五十二巻」の経典を訳しており、その時代を代表する訳経僧だったようです。
 残念ながら、支謙訳「阿弥陀経二巻」そのものを見つけることはまだできておらず、内容を知ることができません。現存していないのかもしれません。
 九州王朝内で成立したと思われる「命長七年文書」(646年成立。注②)が「阿弥陀経」の影響を色濃く受けていることは確かですから、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』に含まれている支謙訳「阿弥陀経二巻」の影響を受けた可能性が出てきました。確かに、そう考えた方が良いと思われることがあります。それは「命長七年文書」と鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』とでは使用されている用語に異なる部分があるからです。

○「命長七年文書」
         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

○鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。」

 「命長七年文書」では「名号称揚」、『仏説阿弥陀経』では「執持名号」とあります。すなわち、「命長七年文書」では「斑鳩厩戸勝鬘」自身が七日間にわたり「名号称揚」(阿弥陀仏の名前を褒め称える)したと読めますが、『仏説阿弥陀経』では〝善男子や善女人が、阿弥陀仏を説くことを聞き、一心不乱に七日間「執持名号」すれば〟という内容であり、「執持名号」とは〝阿弥陀仏の名前を作意(思惟)する〟の意味とされています(注③)。従って『仏説阿弥陀経』の文章から、「名号称揚」という表現は生じにくいのではないでしょうか。
 こうした理由から、九州王朝に伝わった「阿弥陀経」は鳩摩羅什訳ではなく、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』に含まれた支謙訳「阿弥陀経二巻」ではないかと推定するにいたりました。もちろん、支謙訳「阿弥陀経二巻」の内容が不明ですので、断定することはできません。なお、先に『歴代三宝紀』に『仏説阿弥陀経』が見つからないとしたのは不正確でした。「鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』は見つからない」に訂正します。(つづく)

(注)
①『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。本書を京都府立洛彩館の方に紹介いただいた。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立に集録。
③ワイド版岩波文庫『浄土三部経(下)』(岩波書店、1991年)175頁の解説による。


第2508話 2021/07/02

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (5)

  僧要年間(635~639年)に伝来した一切経

 昨日、洛彩館(京都市左京区)に行き、「如意宝珠」関連経典(『大宝積宝経』『大乗理趣六波羅密多経』『雑宝蔵経』)精査のため、『大正新脩大蔵経』を閲覧しましたが、それ以外にも目的がありました。九州年号の僧要年間(635~639年)に九州王朝(倭国)へ伝来した一切経『歴代三宝紀入蔵録』(費長房撰述。1076部、3292巻)の閲覧調査です。
 『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に次の記事があります。

 「自唐一切経三千余巻渡」

 僧要年間(635~639年)に「唐より、一切経三千余巻が渡った」とあり、この一切経は隋代(開皇十七年、597年)に成立した『歴代三宝紀』(費長房撰述。1076部、3292巻)に時代も巻数も対応しています。ありがたいことに、この『歴代三宝紀』は現存しており、『大正新脩大蔵経』に収録されています。ですから、同書を調べれば、そのときに九州王朝にもたらされた経典を明らかにできるわけです。
 この大量の経典名が記された『歴代三宝紀』を精査したのですが、当然、あるはずと考えていた経典が見つかりません。「洛中洛外日記」2506話(2021/06/30)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3) ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―〟で論じた『仏説阿弥陀経』が見あたらないのです。九州王朝内で成立したと思われる「命長七年文書」は『仏説阿弥陀経』の影響を色濃く受けていることから、命長七年(九州年号、646年)までには九州王朝へ伝わっていたはずです。恐らくは『二中歴』「年代歴」に記されているように、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経に含まれている可能性が高いと判断していたのです。
 『歴代三宝紀』全十五巻は、一巻から三巻までは年表になっており、周代から隋代まで各王朝の年表(干支・年号・王名)に経典関連記事などが付されています。『仏説阿弥陀経』は鳩摩羅什(注①)により漢訳されていますので、その時代が含まれる巻三「帝年下魏晋宋齊梁周大隋」の鳩摩羅什関連記事や、後秦(姚秦)時代の経典名が集録された巻八「譯経苻秦姚秦」、更には大乗仏典の総目録である巻十三「大乗録入蔵目」も探しましたが、みつかりませんでした。もちろん、僧要年間の一切経伝来とは別に『仏説阿弥陀経』が伝わっていたという可能性もありますが、それにしても著名な経典『仏説阿弥陀経』が『歴代三宝紀』に見えないことを不思議に思いました。
 そのようなとき、洛彩館の方に紹介された『印度学仏教学研究』(注②)が思わぬ視点と知見を与えてくれました。(つづく)

(注)
①ウィキペディアによれば、鳩摩羅什(くまらじゅう。344~413年、一説に350~409年)は、亀茲国(きじこく。新疆ウイグル自治区クチャ市)出身の西域僧。後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した。玄奘と共に二大訳聖と言われ、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
②『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。


第2358話 2021/01/25

『嘉穂郡誌』の「天智天皇」伝承

 兵庫県立図書館から取り寄せていただいた『嘉穂郡誌』(注①)を拝読しています。同書中の同郡各村の沿革や寺社紹介を一読して、同地方は神功皇后伝承と八幡宮が多いことを知りました。神武天皇が同郡を通ったという神武伝承も散見されます。他方、九州王朝の痕跡は表面的にはほとんど見当たらず、「白鳳三甲戌年三月」(注②)開基とする同郡頴田村の郷社多賀神社が見えるくらいでした。引用されている『嘉穂郡神社明細帳』によれば次のようです。

 「(由緒)當社は白鳳三甲戌年三月若木連と云、(ママ)人下舛村上ノ山に勧請し北斗宮とす、其後八百五十有餘年を経て、天文元壬辰年仲秋當地に遷す、天正六年社殿兵焚に罹り神體を裏田に遷す、天正八年迄三ヶ年大楠の空洞に鎮座せしむ、同九年再び社殿を建築して當地に遷す、秋月孫右衛門大蔵種眞、神器祭田等寄附す、明治五年十一月三日村社に定めらる、下益神社と稱し本郡下益村々社なりしを、同十五年九月八日該村を廢し大隈町に合併す。(嘉穂郡神社明細帳)」『嘉穂郡誌』780頁

 ここに秋月孫右衛門大蔵種眞という人名がみえますが、この「大蔵種眞」は、七世紀中頃(孝徳の時代)に百済から渡来した高貴王(阿多倍)の末裔で注目されます。同じく、桂川村々社老松神社の社殿再興を記した棟札に「大願主太宰大監大蔵朝臣種貞」の名前が見えます。この棟札には「暦應元年」(1338年)と年次も記されており、大蔵氏は十四世紀に太宰大監の官位を称していたことがわかります。
 大蔵氏の同族の千手(せんず)氏は、「天智天皇」の家臣という伝承を持っており(注③)、今回の『嘉穂郡誌』閲覧もその調査が目的でした。しかしながら、既に調べていた『筑前国続風土記』以上に詳しい伝承はあまり見当たりませんでした。

 「千手
 村中に千手寺あり。これに依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有。里民は天智天皇の陵なり。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜りし事あり。其人天皇の崩し玉ふ後に、是を立給ふといふ。然れども梵字なと猶(なお)さたかに見ゆ。さのみ久しき物には非ず。いかなる人の墓所にや。いふかし。(後略)」貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十二 嘉麻郡(昭和60年版)

 今回の『嘉穂郡誌』調査では、千手寺の項の次の解説に興味を引かれました。

 「(前略)現在の本尊は千手氏の安置するものにて、天智帝より賜りたるものは、千手氏日向の國高鍋に持参せるものと傅ふ。(嘉穂郡寺院明細帳)」『嘉穂郡誌』932頁

 豊臣秀吉の九州征伐に敗れた秋月氏に随って千手氏は日向国高鍋に移封されますが、そのときに「天智天皇」から賜った仏像を持参したとあります。九州王朝説に立てば、九州王朝の天子筑紫君薩野馬からもらった仏像という可能性もあり、今も宮崎県の千手家に伝わるのであれば、是非、拝見させていただきたいものです。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②「白鳳三年甲戌」は天武元年(672年)を「白鳳元年」とした後代改変型の九州年号である。本来の九州年号の白鳳三年の干支は癸亥(663年)であり、甲戌(674年)は白鳳十四年である。本来の開基伝承がどちらであるのかは未詳とせざるを得ない。
③古賀達也「洛中洛外日記」2326話(2020/12/18)〝九州王朝の家臣「千手氏」調査〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟


第2323話 2020/12/16

新井白石の学問(1)

 小林秀雄さんの『本居宣長』を読んでいますと、段の「三十一」に新井白石(1657~1725年)について紹介されていました。そこには安積澹泊(あさか たんぱく、1656~1738年)や佐久間洞巌(さくま どうがん、1653~1736年)の名前が見え、懐かしく思いました。二十年ほど前に九州年号研究史の調査をしていたとき、京都大学文学部図書館で新井白石全集を読んだのですが、そのときに知った名前です。その調査に基づいて〝「九州年号」真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって〟(注①)を発表しました。
 白石は九州年号真作説ですが、九州年号を『日本書紀』から漏れた大和朝廷の年号と理解していました。ちなみに、偽作説の急先鋒だったのが筑前黒田藩の儒家、貝原益軒(1630~1714年)でした。江戸時代の方が九州年号について自由に学問的に論議しており、現在の学界とは大違いです。
 白石は九州年号について、水戸藩の知人、安積澹泊宛書簡で次のように問い合わせています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』(注②)という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻、284頁。古賀による現代語訳)

 このように、九州年号を偽作として無視する現代の日本古代史学界よりも、江戸時代の白石の姿勢の方が学問的態度ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『九州年号』真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって」(『古田史学会報』60号、2004年2月5日)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、2012年、ミネルヴァ書房)に転載。
②『海東諸国紀』(申叔舟著、1471年)には次の九州年号が記されている。
 「善化」「発倒」「僧聴」「同要」「貴楽」「結清」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴」「煩転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」(『海東諸国紀』岩波文庫)


第2213話 2020/08/25

アマビエ伝承と九州王朝(2)

 流行病を防ぐというアマビエ伝承に、わたしが関心を持ったのは九州王朝史研究において古代の感染症(天然痘など)記事が見出されたことによります。たとえば、九州年号史料に「老人死す」という記事が見え、それがどのような事件を意味するのか不明だったのですが、新型コロナウィルスによる高齢者の死亡や重症化が多いことから、同記事は感染症発生の痕跡ではないかと考えました。

①『二中歴』「年代歴」
 「蔵和」(559~563年)「此年老人死」

②『田代之宝光寺古年代記』
 「戊刀兄弟 天下芒鐃ト言 健軍社作始也 老人皆死去云々」
 ※「戊刀」は「戊寅」(558年)のこと。

 ①『二中歴』の九州年号「蔵和」の細注に「此年老人死」とあります。しかし、「此年」が「蔵和」年間(559~563年)のどの年のことか不明ですし、「老人」は特定の人物なのか、老人一般のことなのかもこの記事からはわかりません 。
 他方、②『田代之宝光寺古年代記』には九州年号「兄弟」(558年)の年の記事中に「老人皆死去」があり、「皆」とありますから、「老人」は特定の人物ではなく、やはり新型コロナの様な伝染病が発生し、「老人が皆死去した」と理解するのが穏当のように思われます。
 更にこの記事の前半部分「天下芒鐃ト言 健軍社作始也」は熊本市の健軍神社創建記事であることから、この「老人皆死去」という記事の場所も肥後地方のことと考えるべきでしょう。ちなみに、「田代之宝光寺」は鹿児島県肝属郡田代村にあったお寺のようですから、『田代之宝光寺古年代記』に記された同記事の舞台は肥後地方とする理解が支持されています。
 この記事以外にも、九州年号「金光」(570~575年)のときにも天下に熱病が流行ったため、仏像(善光寺如来)が百済から贈られてきたり、厄除けのために九州王朝で四寅剣(福岡市元岡遺跡出土)が作刀されたことが、正木裕さんの研究により明らかとなっています(注)。
 この肥後国を舞台とした健軍神社創建や流行病発生の記憶が、今回のアマビコ(アマビエ)伝承の淵源にあるのではないかと、わたしは考えたのです。(つづく)

(注)
 正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」(『古田史学会報』一〇七号、二〇一一年十二月)
 古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(同上)
 古賀達也「金光元年(五七〇)の『天下熱病』」(「洛中洛外日記」八四八話 二〇一五年一月三日)
 正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」(『古田史学会報』一五七号、二〇二〇年四月)
 古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」(『東京古田会ニュース』一九三号、二〇二〇年七月)


第2206話 2020/08/18

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(4)

 本シリーズ〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承〟では近江における九州王朝との関係を示唆する同時代の遺物・遺構を紹介してきました。今回は後代成立史料を根拠とする考察を紹介します。
 滋賀県湖東における九州王朝の影響について、「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の『聖徳太子』伝説〟で触れたことがあります。湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、現在の研究状況、たとえば九州王朝による倭京二年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝複都説、白鳳元年(661)の近江遷都説、正木裕さんの九州王朝系近江朝説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。
 中でも注目されるのが、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)です。石馬寺には国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、山中のお寺にこれほどの仏像があるのは驚きです。同寺のパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟に記しました。
 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古二年条の次の記事も九州王朝による「国分寺(国府寺)」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」『日本書紀』推古二年(594)条

 この告貴元年(594)の「国分寺」創建の一つの事例が石馬寺ではないかと考えています。本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されています。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額が六世紀末頃のものである可能性もありそうです。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤の命により建立された「国分寺」の一つとすることもできます。ただし、近江国府跡(大津市)と離れていることが難題です。


第2204話 2020/08/15

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(2)

 滋賀県甲良町の西明寺から飛鳥時代の絵画が「発見」されたことにより、湖東における九州王朝(多利思北孤)との関係やその痕跡の存在についてわたしは確信を深めました。
 『蒲生郡志』などに記された記事だけでは、後世における造作や誤伝の可能性を払拭できず、仮説の根拠としては不安定ではないかと危惧していました。しかし、今回のように飛鳥時代に遡る遺物や遺跡が確認できたことにより、仮説の信頼性を高めることが期待できます。そこで、近江における九州王朝との関係を示唆する遺物などの実証的データをまとめてみました。管見では下記の通りです。

(1)近江の崇福寺と太宰府の観世音寺、飛鳥の川原寺から七世紀後半の同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土している。

(2)滋賀県栗東市の蜂屋遺跡から法隆寺式瓦が大量出土した。
 創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認された。現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦も50点以上確認された。

(3)甲良町西明寺本堂内陣の柱から飛鳥時代の仏画(菩薩立像)を発見。

(4)九州王朝の複都と見られる前期難波宮には、東西二カ所に方形区画があり、その中から八角堂跡が出土している。近江大津宮遺跡からも東西二カ所に方形区画が出土している。この東西二つの方形区画を配置するという両者の平面図は似ており、これは他の王宮には見られない特徴である。

(5)日野町の鬼室集斯神社に九州年号「朱鳥三年戊子」(688年)銘を持つ「鬼室集斯墓碑」が現存する。


第2203話 2020/08/14

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(1)

 「洛中洛外日記」2201話(2020/08/10)〝滋賀県甲良町西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」〟で、滋賀県湖東には九州王朝との関係をうかがわせる旧跡や伝承が多いことを紹介しました。そこで、「市民の古代研究会」時代に行った滋賀県での九州年号調査の報告を紹介します。それは、わたしが同会に入会して間もない頃、『市民の古代研究』(市民の古代研究会編、隔月発行)で発表した「九州年号を求めて」という論稿です。
 同稿は31歳のときに書いたもので、研究レベルも文章も稚拙ですがそのまま転載します。当時は全国の「市民の古代研究会」会員が各地の九州年号を探して報告し、その原型や年号立てについて論争が行われていた、とても牧歌的な時代でした。その数年後、和田家文書偽作キャンペーンが勃発し、古田先生や「市民の古代研究会」が激しいバッシングに曝されることになります。その結果、同会が分裂に至るなどとは当時のわたしは思いもしませんでした。言わば、古代史研究初心者のときに書いた、懐かしい論稿です。なお、末尾にある『市民の古代』は市民の古代研究会の機関誌(新泉社)です。

 【以下、転載】『市民の古代研究』19号(1987年1月)
「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号②(吉貴・法興編)」
                京都市南区 古賀達也
 (前略)
 さて、私は次の目的地近江八幡市の長命寺にむかった。動機は長命寺の「長命」が九州年号の「命長」一説には「長命」と関係があるかもしれないので調べてみようということだった。長命寺は西国第三十一番札所として有名で、聖徳太子の創立とされ太子自作の千手十一面観音がまつられている。寺のパンフレットには九州年号との関係は見られなかったので蒲生郡志を調べてみたが、わからなかった。ただ、この地方に聖徳太子の建立とされる寺院が多いことに驚いた。郡志に見えるだけでも二十以上あり、「願成就寺」の項には全部で四十九寺建立し、当寺がその四十九番目に当たるとあった。更に驚いたことに四十九寺の一つ「長光寺」の縁起には法興元廿一年壬子の年二月十八日に太子が后と共にこの地に来て長光寺を建立したと記されている。更に『箱石山雲冠寺御縁起』には推古天皇六年(吉貴五年と記す)に太子創建とあることを郡志は記している。思わぬ所から二つの九州年号を見い出したが、「法興元廿一年壬子」については本来の九州年号ではなさそうだ。何故なら「法興元世」という年号は法隆寺釈迦三尊の光背銘にある「法興元卅一年」を「法興元世一年」と読みちがえたことから生じた誤年号とも言うべきものと考えられるからだ。しかもこの縁起の作者は「法興元世」を太子の年令を表す年号として使用していると思われる。ちなみに太子二十一才(注1)の干支は壬子であり「法興元廿一年壬子」と一致する。『雲冠寺縁起』の「吉貴五年」については郡志の内容からは判断しかねる。縁起そのものを実見したいものだ。
 以上の様に滋賀県の湖東には聖徳太子創建あるいは太子自作の仏像と言われるものが存在し、しかも九州年号まで見られる。しかしそれが歴史事実とは言いがたいようだ。たとえば長命寺の太子自作とされている千手十一面観音も『滋賀県文化財目録』によると平安期の作となっている。
 このことと関連して、以前平野雅曠氏が季刊『邪馬台国』六号で出された「聖徳太子は熊本の近くに都した倭国王の別名だった」という説も、太子創建の寺院、自作の仏像があり九州年号もあることを根拠とされていたが、そうすると滋賀も同様となってしまう。やはり後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げる為に縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。少なくとも滋賀の場合はそう思っている。引き続き検討してみたい課題だ。
(注1)ここでの太子の年令は『市民の古代』第四集の小山正文氏の論文「真宗と九州年号」を参照した。それによると太子二十一才壬子は太子の生没年を五七二~六二二とする資料を基にした場合に当てはまるケースとなる。


第2191話 2020/07/31

九州王朝の国号(13)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に国号を「倭国」から「大委国」に変更したと、同時代の史料(『法華義疏』)に見える「大委国」などを根拠に考えたのですが、事実はそれほど単純ではないことに気づきました。というのも、九州年号「倭京」(618~622年)の存在が問題を複雑にするからです。
 この九州年号「倭京」は九州王朝が太宰府条坊都市を都(京)にしたことによる年号と解されます。その字義から、「倭国」の「京(みやこ)」を意味すると考える他ありません。従って、倭京元年(618)時点の国号表記に「倭」の字が使用されていたことになります。このときは多利思北孤の治世ですから(多利思北孤の没年は法興32年、622年)、先に示した国号表記「大委国」の「委」とは異なります。
 この矛盾を解決するために、考察を続けた結果、次のような理解に至りました。

①九州王朝は国名を「wi」と称し、南朝系音(日本呉音)で「wi」と発音する「委」「倭」の字を当てた(委奴国、倭国)。
②中国での北朝の勃興により、北方系音(日本漢音)への音韻変化が発生し、「倭」字は「wa」と発音するようになった。
③その結果、九州王朝は北朝系中国人から「倭:wa」と呼ばれるようになった。
④自らを「倭:wi」と称していた九州王朝は、音韻変化していない「委:wi」の字を国号表記として採用することによって、北朝系中国人からも「wi」と呼んでもらえるようにした。その痕跡が『法華義疏』に見える「大委国」である。
⑤他方、国内では伝統的日本呉音により「倭:wi」と発音されており、従来の国号の「倭」字使用を変更する必要はなかった。その根拠が「倭京」(618~622年)という九州年号である。
⑥わたしたちは九州年号の「倭京」を「わきょう」と呼んでいたが、公布当時(七世紀前半頃)は「ゐきょう」(日本呉音)と発音していたと考えられる。

 以上の理解により、九州王朝が多利思北孤の時代に北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたと、わたしは考えるようになりました。(つづく)


第2189話 2020/07/23

『九州倭国通信』No.199のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.199を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」を掲載していただきました。
 「朱鳥三年」銘を持つ同時代九州年号金石文「鬼室集斯墓碑」を紹介した論稿で、銘文が発見された江戸時代から偽造説が発表され、後代製造のものとする説が主流を占めてきました。拙稿では、古田先生との共同調査の想い出などにも触れ、同墓碑が同時代九州年号金石文であることを説明しました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「大宮姫伝承の研究」も掲載されており、鹿児島県に伝わる「大宮姫伝承」について分析されたものです。わたしが古田史学に入門した当時の論文「最後の九州王朝―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』第10集、1988年)も紹介していただきました。
 なお、大宮姫を九州王朝の皇女で、天智の皇后「倭姫王」のこととする優れた仮説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から発表されています。


第2109話 2020/03/13

「鬼室集斯の娘」逸話(2)

 安田陽介さんやわたしが「鬼室集斯の娘の石碑」なるものの存在を知ったのは、『市民の古代研究』(21号、1987年5月)に掲載された平野雅※廣さん(熊本市、故人)の論稿「鬼室集斯の墓」で紹介された次の記事でした。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで、綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍らに朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
【転載おわり】

 この記事によれば、鬼室集斯の娘(鬼室王女)の石碑が蒲生郡の山中にあり、九州年号の「朱鳥三年戊子三月十七日」と刻されているとのこと。これが同時代(七世紀末)の金石文であれば九州年号史料として貴重ですし、後代に造立されたものであっても、「朱鳥三年戊子三月十七日」に「鬼室王女」が没したと思われる伝承が当地に残っていたこととなります。(おわり)
※廣:日偏に「廣」


第2107話 2020/03/12

「鬼室集斯の娘」逸話(1)

 わたしが古田先生の著書(※初期三部作)に出会い、いたく感銘し、どうしても著者に会いたいと、「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」に入会したのは1986年のことでした。当時のわたしの研究テーマは九州年号と古代貨幣で、特に九州年号は多くの会員が研究しておられ、その後を追うように、わたしも先輩に教えを請いながら手探りで研究を進めたものです。
 そのようなとき、一緒に調査研究を行ってくれたのが、当時、京都大学生だった安田陽介さんでした。安田さんは京大で国史(日本古代史)を専攻されており、国史大系本『続日本紀』の漢文をすらすらと読み下せるほどの俊英で、わたしは多くのことを教えていただいたものです。その安田さんと鬼室集斯墓碑研究のため二度ほど現地調査を行いました。初めて鬼室神社を訪問したとき、途中でレンタカーがパンクするというアクシデントが発生したのですが、安田さんはあわてることもなく、備え付け工具を使用して短時間でスペアタイヤと交換してしまいました。安田さんは頭が良いだけではなく、まさに歴史を足で知るアウトドア派でもあり、それは見事な手際だったことを記憶しています。
 そのときの調査目的は鬼室神社にある鬼室集斯墓碑の実見と、鬼室集斯の娘の石碑調査でした。鬼室神社の氏子さんのご協力により、墓碑調査は行えたのですが、娘の石碑については所在も不明で、何の手がかりも得ることができませんでした。それは今も手つかずのままで、三十年近く経ってしまいました。どなたか現地調査を手伝っていただける方はおられないでしょうか。(つづく)

※古田武彦「初期三部作」 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』朝日新聞社刊。現在はミネルヴァ書房より復刊されています。