九州年号一覧

第2106話 2020/03/11

七世紀の筆法と九州年号の論理

 鬼室集斯墓碑の碑文の文字「室」の「ウ冠」第二画が、七世紀まで遡る可能性を有す筆法「撥(はね)型」であることを先の連載で説明してきました。そのとき、国内の「撥型」の例として、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『法華義疏』の「宮」をあげました。いずれも九州王朝中枢で成立した一級品の史料ですが、時代が七世紀前半であり、七世紀後半成立の鬼室集斯墓碑(朱鳥三年没、688年)とは半世紀ほどの差がありました。そこで、七世紀後半の同じ近畿地方成立の史料を探したところ、『金剛場陀羅尼経』(国宝)中に「撥型」の「常」「守」などの字がありました。
 『金剛場陀羅尼経』は「丙戌年」(朱鳥元年、686年)「川内國志貴評」などと記された、九州王朝時代のいわゆる「評制史料」です。ですから、鬼室集斯墓碑と時代も地域(近江と川内)も近接しており、その両者に古い字形「撥型」が存在することは興味深い一致点です。なお、『金剛場陀羅尼経』の末尾に記載された写経者の署名「寶林」の「寶」の字の「ウ冠」第二画は「撥型」ではなく、真下に下ろす「押型」であり、経典本文の「ウ冠」に見える「撥型」とは異なっています。この史料事実は写経元の『金剛場陀羅尼経』に「撥型」が採用されていたことをうかがわせ、その元本の成立が七世紀初頭の可能性を示すのではないでしょうか。そして、川内国での七世紀末の流行筆法は「押型」であり、写経者自らの署名には「押型」の「寶」の字形を採用したことになります。なお、『金剛場陀羅尼経』は隋代に漢訳されており、この理解と矛盾しません。
 このように成立時期や地域が近接し、共に「ウ冠」の字形に「撥型」を採用するという共通点を持つ両史料ですが、他方、大きな違いもあります。それは九州年号の「採否」です。百済渡来の官人、鬼室集斯の「庶孫」は墓碑に「撥型」の「室」を使用し、九州年号「朱鳥三年」も採用しています。これは、近江朝の官人(学職頭)であった鬼室集斯の立ち位置(九州年号影響下の官人)を示し、正木裕さんの仮説「九州王朝系近江朝」を支持する史料状況といえます。
 ところが、同じ七世紀末(評制の時代)で近隣の川内国では、仏典の書写に「撥型」の「ウ冠」の字形を使用しながらも、その年次表記には九州年号を使用せず、「丙戌年」(朱鳥元年、686年)と記しています。これは、当時の川内国は近畿天皇家の影響下にあったことを示しているのではないでしょうか。同時期の藤原宮・飛鳥池出土木簡や畿内の金石文に九州年号が記されず、干支表記されていることに対応した史料状況なのです。
 このように、七世紀後半において、九州年号使用の有無が、どの権力者の影響下にあるのかを推察するうえで、ひとつの指標となるように思われ、このことは今後の研究にも役立ちそうです。


第2105話 2020/03/07

三十年ぶりの鬼室神社訪問(10)

 残念ながら、鬼室集斯墓碑の削られた一面の碑文を解読できる技術は未だに開発されていません。従って、墓碑を対象とした実証的な研究を進めることは不可能なので、わたしは論理的に考察を進めました。それは次のような論理展開でした。

①他の三面に残された碑文は、墓の被葬者名(鬼室集斯)、その没年(朱鳥三年戊子十一月八日)、墓の造営者名(庶孫美成)である。
②もし、残る一面に記録すべき文があったとすれば、「庶孫美成」がこの墓を造った造立年と考えるのが穏当であろう。
③その時期は、「庶孫」が造ったとあることから、没年からそう遠く離れた後代ではないと思われる。「室」の字体の筆法からも七世紀末頃まで遡る可能性が高い。
④しかし、何らかの事情により、その造立年は後世のある時点で削られたこととなる。
⑤その造立年には後代の認識や利害からして、削るべき必要性があったと考えざるを得ない。
⑥この②③④⑤を説明できる仮説として、造立年が九州年号の「大化」年間(695-703年)であり、例えば「大化○年○月之建」のようなが碑文があったとするケースが想定される。
⑦すなわち、九州年号「朱鳥」(686-694年)の次の九州年号「大化」が記されていた場合、『日本書紀』成立後の後世において、「朱鳥三年戊子」(688年)に没した鬼室集斯の墓が『日本書紀』に記された大化年間(645-649年)に造られたことになる碑文の年次は「誤り」と認識されてしまう。
⑧その結果、九州年号の記憶が失われた後世において、碑文の「大化」を不審として削られたとする仮説が論理的に成立する。

 以上のように、「削られた碑文」という作業仮説を説明するための論理展開(論証)は進みました。碑面そのものからの碑文復元という実証的説明(実証)は困難ですが、わたしは諦めることなく、その他の方法・分野の調査研究により、この仮説が証明できる日が来ることを願っています。(おわり)


第2104話 2020/03/06

三十年ぶりの鬼室神社訪問(9)

 鬼室集斯墓碑研究史において、誰も取り上げなかったテーマについて、本シリーズの最後に紹介します。それは「削られた碑文」というテーマです。
 古田先生と鬼室集斯墓碑の現地調査を行ったときのことです。八角柱の墓碑には一面おきで計三面に次の文字が彫られています。

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉

 一面おきですから、八面の内の四面に文字があってもよさそうなのですが、正面の裏側の面には文字が見えません。その面には大きな傷跡があり、本来は文字があったのではないかとわたしは考え、古田先生に「これだけ大きく削られていると、元の文字の復元はできませんね」と申し上げました。そうしたら先生から、「将来、復元技術が開発されるかもしれません。まだ諦めないでいましょう」と諭されました。こうした困難な調査研究であっても、簡単には諦めない研究姿勢とタフな学問精神を、わたしは古田先生から実地訓練で学んできたことを、今更ながら思い起こし、感謝の念が湧き上がってきます。(つづく)


第2102話 2020/03/06

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(4)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」が隋代史料(恐らく写経)の影響を受けた可能性について紹介してきましたが、隋代よりも前の、たとえば北魏史料からの影響ということも考えられますので、この点は今後調査したいと思います。
 今回の調査では、隋代の写経史料中にこの「撥型」が多数見受けられましたが、『隋書』国伝にもそのことを裏付けるような国交記事があります。

 「大業三年(607)、其王、多利思北孤、遣使朝貢す。使者曰く〝海西の菩薩天子、重ねて佛法を與すと聞く。故に遣朝し拜す〟。兼ねて沙門數十人來たりて佛法を學ぶ。」

 大業三年(607)に九州王朝の天子、多利思北孤は隋に沙門数十人を派遣し、仏法を学ばせています。この沙門たちにより、隋代史料(写経類)が九州王朝にもたらされ、同時に筆法も導入されたのではないでしょうか。
 他方、隋では大業年間頃(605年~)から筆法に変化が生じ、「撥型」から「押型」などに変化したとすれば、九州王朝にその変化が伝わらなかった、あるいは受容しなかったのかもしれません。そのことを示唆する次の言葉で『隋書』国は締めくくられているからです。

 「此の後、遂に絶つ。」

 このように大業年間以降に九州王朝と隋は国交断絶します。これらの記事と国内史料・隋代史料が示す「撥型」筆法変遷との対応は、偶然の一致とは考えにくいように思われるのです。(終わり)


第2101話 2020/03/05

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(3)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」は、いつ頃どこから伝わったのかを調べるために、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を見てみました。
 本調査に当たり、わたしは九州王朝は中国南朝の冊封を受けた時代が長いことから、筆法も南朝の影響を受けているのではないかと推定し、六朝時代から調査を始めたのですが、結論からいえば「撥型」は隋代に集中して出現していました。もっとも、『書道全集』という限定された史料対象から得た「結論」ですから、現時点での理解といわざるを得ませんが、とても興味深い現象でした。
 『書道全集』「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」に見える「撥型」の文字は次の史料に散見されました。JISコードにない旧字体は新字体に改めましたが、「撥型」調査結果には影響しません。

○『佛説月鐙三昧経』「大隋開皇九年」(589)
 「受」

○『大智度論 巻六十二』「開皇十三年」(593)
 「受」「帝」「當」「憂」「常」

○『大方等大集経 巻第廿』「大隋開皇十五年」(595)
 「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。

○「美人董氏墓誌」「開皇十七年」(597)
 「宣」「婉」

○「龍山公墓誌」「開皇二十年」(600)
 「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。

○『大般涅槃経 巻第十七』「仁寿三年」(603)
 「當」

 以上の隋代史料に集中して「撥型」が見られましたが、中には判断に迷う字形や、明らかに「撥型」とは異なる字形が混在しているケースもあります。
 他方、大業年間以降(605年~)になると「撥型」が見えなくなり、下記の例のように「押型」など他の筆法に変化しています。これも限定された史料による判断ですから、隋代の一般的字形変遷と断定できませんが、不思議な傾向です。

●『大般涅槃経 巻第卅七』「大業四年」(608)
 「蜜」「受」「割」

●『賢劫経 巻第一』「大業六年」(610)
 「宿」「常」「安」「諦」「學」「當」「家」


第2100話 2020/03/04

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(2)

 鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの指摘に基づき国内の古代史料を調査したところ、先に紹介したように法隆寺釈迦三尊像光背銘や『法華義疏』のように、九州王朝系史料に「撥(はね)型」が認められました。このことは九州王朝の時代の七世紀ではこの書体が流行だったのではないでしょうか。
 特に『法華義疏』冒頭の「上宮王」という署名の「宮」がこの「撥型」であることは、九州王朝の上宮王(多利思北孤か)自身がこの筆法を採用していたことを示します。更に、法隆寺釈迦三尊像光背銘も「上宮法皇」(多利思北孤)のためのものですから、「撥型」が当時の九州王朝公認の筆法と考えてよいと思われます。
 それではこの筆法はいつ頃どこから伝わったのでしょうか。そこで、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を調査しました。(つづく)


第2099話 2020/03/03

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)

 「洛中洛外日記」2097話(2020/03/01)「三十年ぶりの鬼室神社訪問(8)」において、鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの新説を紹介しました。それは同碑文の「室」の字のウ冠二画目が、筆を勢いよく抜き、先端が細く尖った「撥(はね)型」〔ノ〕となっており、この筆跡は古代に見られるというものでした。
 確かにウ冠の2画目やワ冠の一画目が左下へ鋭く撥ねている筆跡は珍しく、古代史料でもそれほど多くはありません。八世紀以降や中近世になれば「押(おし)型」〔丨〕が普通となり、「撥型」は更に珍しい筆跡となっています。そこで、古代の書跡が収録された『書道全集9』(平凡社、昭和46年版)を改めて精査したところ、収録された古代書跡中に、次の「撥型」の字がありましたので紹介します。

○法隆寺釈迦三尊像光背銘(国宝、623年)
 「上宮法皇」「三寶」「當」「勞」
 下に撥ねています。

○『法華義疏』(御物)
 「寶」「窮」 ※「宮」
 左下へ鋭く短く撥ねています。
※冒頭署名の「上宮王」の「宮」は同書では判別できませんが、ネット上の写真や他の本では左下へ撥ねています。

○『千手千眼陀羅尼経』(国宝)「天平十三年」(741年)
 「密」「受」
 左下へ鋭く短く撥ねています。


第2097話 2020/03/01

三十年ぶりの鬼室神社訪問(8)

 鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を見事に否定された胡口康夫さんご自身は「鬼室集斯墓碑をめぐって」(『日本書紀研究』第十一冊、1979年)において、同墓碑は「平安時代中期以降のある時期」に鬼室集斯の子孫たちにより「小野で造立された」とされ、「平安時代後期から鎌倉時代後期の可能性がかなり高いものとしてさほど誤りはないのではなかろうか」と結論付けられました。
 その根拠として、同墓碑のような八面体の造形が現れたのが平安時代後期を上限として、鎌倉時代後期には石造の八面体の造形が確立していることや、「朱鳥三年戊子」のように干支(戊子)を小文字で横書きにする最古の例が天慶九年(946)であり、鎌倉時代にもっとも多く普通になり、次の南北朝・室町時代になると少なくなることを示されました。
 ところが、『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)に収録された新しい論文「鬼室集斯墓碑再考Ⅱ―筆跡から見た墓碑―」において、造立時期が古代まで遡る可能性を示唆されたのです。墓碑造立時期が古代まで遡る可能性の根拠として、墓碑の「室」の筆跡に胡口さんは着目されました。
 碑文の「室」という字のウ冠の第二画が筆を勢いよく抜き先端が細く尖った「撥(はね)形」になっていることを指摘され、これは古代に多くみられる筆跡であることから、現地の金石文調査や古代金石文との比較調査を精力的に行われました。その結果、日野地域に存在する中近世金石文には「撥形」がほとんど見られず、逆に国内各地に存在する古代金石文に多く見られる傾向であることを確認されたのです。そしてその結論として、自説の鬼室集斯墓碑の平安後期から鎌倉後期造立説に加えて、「筆跡から考察すると造立年代を古代にまで遡らせる可能性があながち否定できない」とされるに至ったのでした。
 この新視点は画期的です。わたしは論理上から同時代金石文と見て問題ないと考えたのですが、胡口さんの筆跡研究による新視点は、同碑を古代墓碑と見るべきという積極的論点だからです。実証的研究を重視される胡口さんならではの研究成果と言えそうです。(つづく)


第2096話 2020/03/01

三十年ぶりの鬼室神社訪問(7)

 鬼室集斯墓研究の第一人者、胡口康夫さん(1996年当時、神奈川県立相模台工業高校教諭)は『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)において、鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を否定する新発見の史料を紹介されました。それは、村井古厳『古廟陵併植物図』という史料です。そこには当八角石の初見記事があり、「人魚墓 文字有不見 八角高サ墓トモ二尺二三寸」と記されています。
 『古廟陵併植物図』は『西遊旅譚』より早く成立しており(村井古厳は天明六年に没している)、司馬江漢は村井古厳の『古廟陵併植物図』を知っていた可能性が高いことも指摘されました。「八角」の「人魚墓(鬼室集斯墓碑)」に「文字有不見」とする、この新史料の発見により、同墓碑の江戸期偽造説は完全に否定されたのです。
 ところが、胡口さんの『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』には、更に驚くべき画期的な研究結果が記されていました。(つづく)


第2095話 2020/02/29

三十年ぶりの鬼室神社訪問(6)

 約三十年前、わたしが鬼室集斯墓碑の研究を始めた頃、同墓碑研究の先学の存在を知りました。胡口康夫さんという研究者です。実地調査に基づく実証的な研究を得意とされる方で、その論文「鬼室集斯墓碑をめぐって」(『日本書紀研究』第十一冊、1979年)に興味深い史料が紹介されていました。それは胡口さんが現地調査により見いだされたもので、鬼室集斯の末裔を称しておられる日野町小野の辻久太郎家に伝わる『過去帳』の次の記事です。

「鬼室集斯が庶孫ニシテ室徒中ノ
 筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士
 トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ名ハ代々
 久右衛門ト称ス
 近江国蒲生郡奥津保郷小野村
 ノ住人(略)
       辻久右衛門尉
 宝永三年(一七〇六)正月 釈 念心」

 この『過去帳』などから、小野では鬼室集斯の末裔が鬼室神社の氏子や神職として代々続いていたことが判明したのです。
 その後、わたしと胡口さんとの間で学問的交流が始まり、著書『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)を贈呈していただきました。その中に、鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を否定する新発見の史料が紹介されていました。(つづく)


第2094話 2020/02/29

三十年ぶりの鬼室神社訪問(5)

 紹介してきた瀬川欣一さんによる鬼室集斯墓碑江戸期偽造説は、坂本林平の『平安記録楓亭雑話』や司馬江漢の『江漢西遊日記』を史料根拠として実証的に成立しており、簡単には否定し難い有力なものでした。しかし、それでも古田先生とわたしは論理的考察(論証)の結果から、偽造説に納得できませんでした。それは次のような考え方によります。
 偽造説では、偽造者がわざわざ疑われるような『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記したりするだろうか、という基本的な疑問をうまく説明できない(『日本書紀』では朱鳥は元年で終わっている)。すなわち、偽造者を『日本書紀』天智紀の鬼室集斯を知っている博学な知識人とする一方で、『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記す「うかつ者」とする、矛盾した人格に仕立て上げる「無理」を偽造説では回避できません。
 従って、わたしたちは論理の上から、同墓碑は七世紀末に成立した同時代金石文と見て問題ないという立場にこだわったのです。この研究姿勢こそ、村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」ということに他なりません。そして、この論証を支持する史料根拠を探し求めました。そこで、「発見」したのが司馬江漢の『西遊旅譚』です。
 司馬江漢は『江漢西遊日記』とは別に、この時の旅行記を『西遊旅譚』として刊行しています。同書は旅行から帰った翌年の寛政二年(一七九〇)四月に出版のための原稿が成立しており、その年に出版されているようです。その『西遊旅譚』の日野に立ち寄った当該記事には、この八角石について「人魚墳八方なり文字あれども見えず」と記しているのです。すなわち、文字があったと司馬江漢は述べているわけで、「文字見えず」あるいは「文字ナシ」とした『江漢西遊日記』とは異なっています。史料の信憑性から見れば、旅行から帰った翌年に成立した『西遊旅譚』に比べ、『江漢西遊日記』の成立は文化十二年(一八一五)、『西遊旅譚』に遅れること二五年であり、司馬江漢最晩年のものです(司馬江漢の没年は文政元年、一八一八)。したがって、旅行と刊行時期が近い『西遊旅譚』の方が信頼性が高いのです。
 こうした史料成立状況から見れば、江漢晩年発刊の『江漢西遊日記』の記事をもって、八角石に文字無しと決めつけるのは不適切です(この件については、後に紹介する胡口康夫氏の『近江朝と渡来人–百済鬼室氏を中心として』雄山閣刊、一九九六年十月、にも同様の指摘がなされています)。こうして、江戸期偽造説の根拠の一つを否定できる史料事実を見つけ出したのです。(つづく)


第2093話 2020/02/28

三十年ぶりの鬼室神社訪問(4)

 瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」(『東桜谷志』日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)には、坂本林平『平安記録楓亭雑話』の記事の他にも、偽造の根拠として司馬江漢の『江漢西遊日記』も掲げられています。

〝江戸時代の洋風画家司馬江漢が、天明八年(一七八八)に江戸から長崎へ旅する途中、日野に立ち寄り、八月十二日にこの八角石を見に来ている。司馬江漢がこの旅のことを詳しく書き留めた『江漢西遊日記』という旅日記が後年刊行され、この石のことが次のように記されている。
 「夫れより田婦案内にて人魚塚を見んと行く事四五丁、路の傍に四角なる塚を指し示す。吾が聞く八角なりと云ふに、又一人の老婦来りて、此処より西の方不動堂の前に有りと教ふる。行き見るに小さき草葺きの堂あり。ガマの大樹ありて其傍ら八角の塚あり。是れ人魚塚なり。前に僅の流れあり蒲生河是れなり。人魚塚は八角にして文字見えず。高さ一尺一二寸、下の台石横一尺三寸位、また四角の塚は救世菩薩の塚といふ。」
 以上の記述が『江漢西遊日記』の本文部分であり、その時の江漢のスケッチ(別掲の図参照)にも八角石の解説として「文字ナシ」と記している。画家であり進歩的な科学者でもあった司馬江漢が、天明八年のこの時にかすかでも文字の形跡が、この珍しい八角石に彫られてあったとすれば「人魚塚は八角にして文字見えず」と日記に書くはずがなく、その文字を見落とすとは到底考えられない。
 この天明八年(一七八八)より十八年後の文化三年(一八〇六)に、西生懐忠が同輩の谷田輔長とともに、この八角石が鬼室集斯の墓であると発表するのである。しかも、この石を小野から仁正寺藩庁へ持ち運び、調査したら「鬼室集斯之墓」その他の文字が陰刻されていたとしている。現在でもそれらしく読める文字が、司馬江漢にも坂本林平にもなぜ読めなかったのか。それは仁正寺藩へ持ち帰った間に、何らかの工作がされたと考えてしかるべきではないだろうか。〟

 このように、司馬江漢と坂本林平の「証言」を根拠に、鬼室集斯墓碑は「発見者」の西生懐忠や谷田輔長による偽刻とする説が成立し、江戸時代偽造説が有力説として受け入れられました。(つづく)