九州王朝(倭国)一覧

第2707話 2022/03/26

柿本人麻呂系図の紹介 (6)

  — 人麻呂の渡唐伝承

 『柿本家系図』には不思議な記事が記されています。人麻呂が二度にわたり遣唐使として渡唐したという記事で、古田先生も注目されていました。従来の人麻呂研究ではこのような伝承を史実として取り扱ったものはなかったように思います。あるいは学問的検証の対象とはされていないのではないでしょうか。
 『柿本家系図』には次のように記されています。

 「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」

 人麻呂が二度も渡唐したとする記事は、他には見られない所伝です。渡唐したとする史料はあるのですが、それが「二度」とする史料の存在をこの系図以外にわたしは知りません。渡唐の時期は系図からはわかりません。人麻呂は九州年号の大長四年丁未(707)に没していますから(注①)、九州王朝の遣唐使であれば渡唐は七世紀後半、大和朝廷の遣唐使であれば八世紀初頭となります。
 人麻呂の渡唐を示す史料とは『拾遺和歌集』に採録された「柿本人丸」の歌とされる次の歌の題詞と頭注です(注②)。

 「もろこしにて     柿本人丸
 あまとぶや かりのつかひにいつしかも ならのみやこにことづてやらん」
 『拾遺和歌集』巻第六 別

 『拾遺和歌集』には柿本人麻呂の歌は少なからず採録されていますが、その名前は「柿本人麿」以外に、「柿本人丸」「柿本人まろ」「人麿」「人丸」「かきのもとの人まろ」「ひとまろ」と表記されています。しかし、『万葉集』に見える「柿本朝臣人麿」のような、姓(かばね)の「朝臣」は見えません。他方、『拾遺和歌集』の歌人名などには「在原業平朝臣」のように名前末尾の「朝臣」表記が散見されます(注③)。
 この「もろこしにて」との題詞を持つ柿本人丸の歌には長文の頭注があり、その中に次の記事が見えます。

 「証本云、人丸ノ入唐ノ事 此ノ歌外無シ所見。」(注④)

 しかし、これによく似た歌が『万葉集』巻第十五の天平八年の遣新羅使の「引津の亭(とまり)に船泊(は)てて作る歌七首」中にあることから、この歌の作者が『拾遺和歌集』には「柿本人丸」とされていることを頭注編者は疑っています。『万葉集』の次の歌です。

 「天飛ぶや 鴈を使に得てしかも 奈良の都を言(こと)告げ遣(や)らむ」『万葉集』巻第十五(3676)

 この歌の作者名は記されていません。同巻冒頭には「天平八年丙子夏六月、使を新羅國に遣はしし時」とあり、天平八年(736)には人麻呂は既に没しています。そのため、先の頭注編者は疑ったわけです。しかし、『万葉集』巻十五冒頭文には「所に當りて誦詠する古歌を幷せたり」ともあり、作者名が記されていないこの歌が人麻呂のものである可能性があります。
 こうした史料状況を考えると、『万葉集』では「所に當りて誦詠する古歌」とされた歌が、『拾遺和歌集』編者は「もろこしにて」「柿本人丸」が詠んだ歌であるという情報を持っていた、あるいはそう信じるに足ると認識していたと思われます。従って、柿本人麻呂は渡唐したと古代では考えられており、『柿本家系図』の二度の渡唐記事はそうした認識の反映ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
②わき書きの存在を京都府の『拾遺和歌集』歴彩館所蔵本(書写年代は不明)で確認した。
③『拾遺和歌集』には「源公忠朝臣」「藤原實方朝臣」「源延光朝臣」「藤原佐忠朝臣」「源満仲朝臣」「在原業平朝臣」「源經房朝臣」「藤原忠房朝臣」「實方朝臣」「藤原實方朝臣」「源實信朝臣」「むねかたの朝臣」「藤原忠君朝臣」「則忠朝臣女」「藤原道信朝臣」「藤原共政朝臣妻」「公忠朝臣」「源相方朝臣」「参議藤原朝臣」が見える。
④『八代集全註第一巻 八代集抄 上巻』(山岸徳平編、有精堂、1960年)によった。


第2706話 2022/03/24

下野薬師寺と観世音寺の創建年

 『柿本家系図』に見える柿本人麻呂の「実子」とある「男玉」が東大寺大仏の鋳造に関わっていたため、東大寺関連史料を精査しています。その過程でいくつもの貴重な発見が続いています。その一つに、下野薬師寺の創建年記事の発見がありました。

 「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 「天智天皇九年庚午」とありますから、九州年号の白鳳十年(670)に下野薬師寺が創建されたとする記事です。わたしはこの年次を見て驚きました。九州年号史料(注①)に見える太宰府の観世音寺創建と同年だったからです。しかも、両寺院は東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされています。『古代を考える 古代寺院』(注②)では次のように解説されています。

 「地方の古代寺院の中でこの両寺が特筆されるのは、後述のような戒壇が置かれたことにもよるが、その設置以前から特別な地位をあたえられていたこともみのがせない。
 例えば、天平勝宝元年(七四九)に諸寺の墾田の限度額が定められ、両寺はともに五〇〇町とされた。これは、諸国国分寺の半分にすぎないけれど、一般定額寺の一〇〇町とは比較にならないし、法隆寺や四天王寺などの大寺とも同額であった。(中略)つまり、両寺が中央の大寺に準ずる扱いを受けていたことは、遠くはなれた地方に所在しながら、中央との結びつきが強かったこと、そしてすでに特別な地位が与えられていたことをしめしている。おそらく、それは創建の由来にもとづくのであろう。」同書269頁

 観世音寺と下野薬師寺に与えられた「特別な地位」が「創建の由来」にもとづくという指摘は示唆的です。また、両寺の墾田が法隆寺や四天王寺と同額の五〇〇町であったというのも重要な指摘ではないでしょうか。再建法隆寺や四天王寺(難波天王寺)・観世音寺が九州王朝の寺院であったことが古田学派の研究により明らかとなっていることから、創建年が共に白鳳十年(670)で後に戒壇が置かれた観世音寺と下野薬師寺は九州王朝(倭国)時代の七世紀後半において、九州王朝の戒壇が置かれたのではないかとわたしは考えています。そのことが〝由来〟となって、八世紀の大和朝廷(日本国)の時代も両寺に戒壇が置かれたのではないでしょうか。
 ちなみに、下野薬師寺跡から出土した創建瓦とみられる複弁蓮華文瓦は飛鳥川原寺の系譜をひき、天武期ごろのものとされています(注③)。先の『東大寺要録』には川原寺の創建年を次のように伝えています。

 「行基之建立齊明天皇治七年辛酉建立」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 ここにみえる「齊明天皇治七年辛酉」は九州年号の白鳳元年(661)に相当し、下野薬師寺の創建瓦(複弁蓮華文瓦)が飛鳥川原寺の系譜をひくという見解は年代的にも妥当な判断です。
 以上のように、観世音寺と下野薬師寺の両寺は九州王朝の戒壇が置かれるべく、白鳳十年(670)の同時期に創建されたとする仮説が妥当であれば、大和朝廷の東大寺に相当する九州王朝の近畿における戒壇はどの寺院に置かれたのでしょうか。白鳳十年であれば前期難波宮が焼失する前ですから、難波に九州王朝の中心的戒壇が置かれたはずと思われます。その第一候補としては、やはり天王寺(後の四天王寺)ではないかと推定するのですが、今のところ史料根拠を見出せていません。
 なお、下野薬師寺の創建を大宝三年(703)とする史料(注④)もありますが、出土創建瓦の編年からは白鳳十年(670)説が有力です。

(注)
①『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」とする記事が見える。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
②狩野久編『古代を考える 古代寺院』吉川弘文館、1999年。
③『下野薬師寺跡発掘調査報告』栃木県教育委員会、1969年。
④『帝王編年記』


第2705話 2022/03/21

難波宮の複都制と副都(11)

 七世紀中頃に倭国(九州王朝)が採用した複都制は「権威の都・倭京(太宰府)」と「権力の都・難波京(前期難波宮)」の両京制であり、隋・唐の長安と洛陽の複都制に倣ったものとする仮説を本シリーズで発表しました。その痕跡が『養老律令』職員令の大宰府職員の「主神」ではないかと推定し、大宰主神の習宜阿曾麻呂が道鏡擁立に関わったことも、九州王朝の都「倭京(太宰府)」の権威に由来する事件だったように思われます。
 こうした一連の仮説とその論理を押し進めると、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから指摘されてきた〝前期難波宮は九州王朝の首都〟とする見解に至らざるを得ません(注①)。もちろん、複都制ですから太宰府(倭京)も首都に変わりはありません。「副都制」ではなく、「複都制」であればこの理解が可能であり、中国史書(『旧唐書』他)に〝倭国遷都〟記事が見えないことについても、説明が可能となります。
 前期難波宮首都説の到達点から改めて諸史料を見ると、『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・804年成立)の「難波朝廷天下立評給時」という記事が注目されます。〝難波朝廷が天下に評制を施行した〟という意味ですから、難波朝廷と言うからには難波を首都と認識した表現だったのです。すなわち「朝廷」とあるからには、そこは「首都」と考えなければならなかったのです。そして、七世紀中頃の国内最大の朝堂院様式の前期難波宮と条坊都市を持つ難波こそ、「難波朝廷」という表現がピッタリの九州王朝(倭国)の首都なのでした。また、創建当初から「難波朝廷」と呼ばれていたため、そうした呼称が後代史料に多出したのではないでしょうか。たとえば『皇太神宮儀式帳』の他にも次の史料が知られています(注②)。

(ⅰ)『日本書紀』天武十一年九月条
 「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」
(ⅱ)『類聚国史』巻十九国造、延暦十七年三月丙申条
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
(ⅲ)『日本後紀』弘仁二年二月己卯条
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
(ⅳ)『続日本紀』天平七年五月丙子条
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)びて副(そ)ふべし。」

 そして、何よりも天子列席の下で白雉改元(652年)の儀式が行われており(注③)、その前期難波宮の地が首都であったとする他なかったのです。本シリーズでの考察を経て、ようやくわたしも確信を持ってこの認識に到達することができました。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」538話(2013/03/14)〝白雉改元の宮殿(4)〟
 古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『古代に真実を求めて』(17集、2014年)に収録。
②古賀達也「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』145号、2018年。
 古賀達也「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録


第2704話 2022/03/20

柿本人麻呂系図の紹介 (5)

 『柿本家系図』と『東大寺上院修中過去帳』の「柿本男玉」と『続日本紀』叙位記事(注①)の「柿本小玉」とでは用字が異なるので、『続日本紀』以外の別系統史料を探索したところ、『朝野群載』「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」(注②)の末尾に次の「柿本男玉」記事がありました。

 「東大寺大佛殿前板文
勅曰。朕以薄徳。(中略)
大佛師従四位下國公麻呂 。大鑄師従五位下高市大國。従五位下高市眞麻呂。従五位下柿本男玉。大工従五位下猪名部百世。従五位下益田縄手。」国史大系29上『朝野群載』390~391頁

 ここには「従五位下柿本男玉」とあり、『続日本紀』の「外従五位下小玉」とは位階や名前の用字が異なります。『柿本家系図』と『東大寺上院修中過去帳』の「柿本男玉」とは、名前の用字が同じです。
 この「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」の冒頭部分は聖武天皇の詔勅であり、『続日本紀』天平十五年(743)十月条の大仏発願詔とほぼ同文です。その後の部分は太政官からの布告などで構成されています。こうした史料状況から判断すると、末尾の「柿本男玉」らの記事は東大寺に伝わった史料(『東大寺上院修中過去帳』など)に基づいている可能性が高いと思われます。このことから、『続日本紀』に見える「小玉」は朝廷側の史料に、「男玉」は東大寺側史料に基づいた用字と考えてよいようです。(つづく)

(注)
①『続日本紀』天平勝宝元年(749)十二月条、天平勝宝二年(750)十二月条。
②『朝野群載』三善為康編、永久四年(1116)成立。


第2702話 2022/03/18

柿本人麻呂系図の紹介 (4)

 『柿本家系図』に人麿の實子と記された柿本男玉は東大寺建立に関わった人物ですが、東大寺二月堂の過去帳(注①)の他、『続日本紀』にも「柿本小玉」の名が遺されています。次の記事です。

 「正六位上柿本小玉、従六位上高市連真麻呂に並に外従五位下を授く。」天平勝宝元年(749)十二月条

 「また、大納言藤原朝臣仲麻呂を遣して、東大寺に就(ゆ)きて、従五位上市原王に正五位下を授く。従五位下佐伯宿禰今毛人に正五位上。従五位下高市連大国に正五位下。外従五位下柿本小玉・高市連真麻呂に並に外従五位上。」天平勝宝二年(750)十二月条

 天平勝宝二年(750)十二月の柿本小玉ら叙位記事に対して、岩波の『続日本紀 三』(注②)の脚注11(108頁)には「大仏鋳造の巧による叙位」とあり、柿本小玉が『柿本家系図』や『東大寺上院修中過去帳』に見える柿本男玉と同一人物として問題ありません。しかし、「男玉」と「小玉」とでは用字が異なりますので、『柿本家系図』は『続日本紀』以外の別系統の史料に依ったものと思われます。また、叙位記事に見える三名のうち、柿本小玉だけが姓(かばね)を持っていません(無姓)。このことも気になるところです。
 ちなみに、東大寺大仏の開眼供養は天平勝宝四年(752)四月のことです。(つづく)

(注)
①『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、3月5日夜とお水取りの行事が行われる3月12日夜に読み上げられる。
②『続日本紀 三』新日本古典文学大系、岩波書店、1992年。


第2701話 2022/03/16

柿本人麻呂系図の紹介 (3)

 「柿本人麻呂系図」には人麻呂の伝承に続いて「實子」の「男玉」の事績が記されています。次の通りです。

(e) 「人麿ノ 實子 柿本男玉 三條? 鍛冶師トナリ 聖武天皇奈良大佛建立ノ 際 鍛頭トナリ 之レ 則チ 三條小鍛冶ナリ」

 ここに記された「柿本男玉」は東大寺二月堂の過去帳(注①)にも見え、実在の人物です。東大寺のホームページ(注②)には次の記事があり、柿本男玉が大仏建立に鍛冶師ではなく鋳師(※印を付した。古賀)として参画しています。

 「お松明で有名な東大寺の修二会(しゅにえ)で読み上げられる過去帳の初めの部分を紹介しましょう。ここには大仏さまと大仏殿の造営に関わった人々の名前が挙げられています。
(中略)
 大伽藍本願 聖武皇帝
 聖母皇大后宮 光明皇后
 行基菩薩
 本願孝謙天皇
 不比等右大臣 諸兄左大臣
 根本良弁僧正 当院本願 実忠和尚
 大仏開眼導師天竺菩提僧正 供養講師隆尊律師
 大仏脇士観音願主尼信勝 同脇士虚空蔵願主尼善光

 造寺知識功課人
 大仏師 国公麻呂(だいぶっし くにのきみまろ)
 大鋳師 真国(おおいもじ さねくに)
 高市真麿(たけちのさねまろ)
※鋳師 柿本男玉(いもじ かきのもとのおだま)
 大工 猪名部百世(だいく いなべのももよ)
 小工 益田縄手(しょうく ますだのただて)
 材木知識(ざいもくのちしき)五万一千五百九十人
 役夫知識(やくぶのちしき)一百六十六万五千七十一人
 金知識(こがねのちしき)三十七万二千七十五人
 役夫(やくぶ)五十一万四千九百二人」

 『柿本家系図』に人麿の實子と記された柿本男玉は東大寺建立に関わった人物のようですが、同系図には「三條」の「鍛冶師」であり、大仏建立には「鍛頭」として参画したとしています。他方、東大寺二月堂の「過去帳」には「鋳師柿本男玉」とあり、鍛冶師ではありません。また、「大鋳師真国」という人物名もあることから、「大」が付かない「鋳師」である「柿本男玉」と系図の「鋳頭」という職掌についても対応が不明です。この不一致がいずれかの誤記誤伝なのか、祖先の格を上げるための系図編纂者の作意なのか、慎重な検討が必要ですが、著名な東大寺の過去帳に見える「鋳師柿本男玉」に基づいて系図を作成したとするのであれば、それとは異なる「鍛冶師」と記すことも考えにくいものです。
 また、系図に見える「三條小鍛冶」は奈良市に企業(注③)として現存していますが、それは「鍛冶」であり、東大寺建立に関わった「鋳師柿本男玉」との関係は今のところ見当たりません。この点も調査検証が必要なようです。
 希代の歌人であり晩年は石見國(注④)の官吏でもあった人麿と、奈良の鋳物師の男玉との関係性にも違和感がありますが、系図では「實子」とわざわざ記しており、系図編纂者としては両者の〝親子関係〟こそ最も強調したかったことではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、3月5日夜とお水取りの行事が行われる3月12日夜に読み上げられる。
②http://www.todaiji.or.jp/contents/qa/qa.html
③三條小鍛冶宗近本店(奈良市雑司町)。同社ホームページに「明治初期まで現奈良市尼ヶ辻町にて作刀す。右、記念碑現存す。」とある。
https://www.sanjyokokajimunechika.com/
④通説では人麿は石見で没したとされており、『柿本家系図』の記事「後 伯耆國ニ 閉居シ」とは異なる。この点も留意が必要である。


第2700話 2022/03/15

柿本人麻呂系図の紹介 (2)

 古田先生からいただいた「柿本人麻呂系図」コピーには、人麻呂の伝承について次の興味深い記事が見えます。

(a) 「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」
(b) 「柿本人麿ノ 祖ハ 日本足彦國押人尊 又一名ヲ 天足彦國押人尊ト 奉穪ス」
(c) 「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」
(d) 「後 伯耆國ニ 閉居シ 専ラ 和歌ニ 力ヲ 盡シ 世ニ 和歌聖人? 穪セリ」

 コピーが不鮮明なため、文字の誤読はあるかもしれませんが、大意に相違はないと思います(「?」は判読不明の文字)。特に注目したのが人麿が「真人」姓を賜ったとする(a)の記事です。『万葉集』では「柿本朝臣人麿」(注①)とあり、その姓(かばね)は朝臣とされています。「朝臣」は天武紀に見える八色姓の第二位であり、系図に見える一位の「真人」よりも下位です。この差異の理由は不明ですが、同系図が著名な『万葉集』とは異なった伝承を伝えていることに興味を覚えます。
 更に注目したのが、遣唐使として二度も唐に渡ったという初めて目にした(c)の記事です。恐らくは九州王朝(倭国)が派遣した遣唐使ではないでしょうか。そうであれば、「真人」という臣下第一位の姓(かばね)も九州王朝から賜った可能性が高いように思われます。
 このような従来の史料には見えない伝承が記された「柿本人麻呂系図」は貴重です。なお、同系図には人麻呂の生没年や出身地については記されていません。従来説でも生没年未詳とされているようです。他方、わたしの研究(注②)によれば、『運歩色葉集』は人麻呂の没年を九州年号の大長四年丁未(707)と伝えており(注③)、人麻呂が九州王朝の宮廷歌人であったとする古田説(注④)を支持しているように思います。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻一、29番歌題詞に「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」とある。
②古賀達也「洛中洛外日記」600話(2013/09/28)〝九州年号「大長」史料の性格〟
 同「九州年号『大長』の考察」『古田史学会報』120号、2014年2月。
 同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
③『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
④古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2699話 2022/03/14

柿本人麻呂系図の紹介 (1)

25年ほど前のことですが、古田先生から「柿本人麻呂系図」のコピーをいただきました。この度、必要があって同系図コピーを書架の中からようやく探し出すことができましたので、紹介します。
 古田先生から聞いた話では、佐賀県に柿本人麻呂の御子孫がおられ、就職で実家を離れるときに同家系図を親御さんから受け継いだとのことでした。その方は、祖母から「もし火事にあったら、系図を持って逃げるように」と子供の頃から言われてきたそうです。
 コピーによれば同系図は巻物二巻からなっており、一つは柿本家に伝わった人麻呂の伝承と同家の由来が書かれており、もう一つが系図です。どちらにも「柿本家系圖」と表記され、系図末尾には「柿本毅 書」とあり、柿本毅さんが書写したことがわかります。系図の最後の人物が「毅」さんと「妻 淑子」さんであることから、毅さんのご子息が実家を離れるときに、ご子息のために書写されたものではないでしょうか。そうであれば、佐賀県のご実家には書写原本があるはずです。毅さんの母、「良重」さんの旁書に「昭和五十九年九月/享年六十四才」とあることから、系図の作成(書写)時期は昭和59(1984)年以後で、古田先生が写真撮影された1995年までのこととなります(注①)。
 webサイト「日本姓氏語源辞典」(注②)で「柿本」さんの分布を調べたところ、次の通りでした。「顕著に見られる市区町村」には佐賀県神埼郡吉野ヶ里町もありますので、この系図の柿本さんは同地域の住民の可能性があります。また、久留米市に柿本さんが多いことも、注目されます。(つづく)

【都道府県順位】
1 大阪府(約2,000人)
2 兵庫県(約1,400人)
3 福岡県(約1,000人)
4 広島県(約800人)
5 長崎県(約600人)
6 京都府(約600人)
7 熊本県(約600人)
8 北海道(約600人)
9 岡山県(約500人)
10 東京都(約500人)

【市区町村順位】
1 兵庫県 加古川市(約200人)
2 石川県 金沢市(約200人)
3 福岡県 久留米市(約200人)
4 岡山県 備前市(約200人)
5 広島県 尾道市(約200人)
6 鹿児島県 鹿児島市(約200人)
7 大阪府 吹田市(約200人)
7 長崎県 長崎市(約200人)
9 大阪府 堺市(約200人)
10 高知県 高知市(約140人)

【小地域順位】
1 広島県 尾道市 向東町(約110人)
1 岡山県 備前市 日生(約110人)
3 鹿児島県 日置市 伊作田(約90人)
4 高知県 室戸市 羽根町乙(約70人)
4 大阪府 吹田市 垂水町(約70人)
4 福井県 大飯郡おおい町 久保(約70人)
7 鹿児島県 鹿児島市 上福元町(約60人)
7 大分県 日田市 山田町(約60人)
9 大阪府 守口市 梶町(約50人)
9 長崎県 五島市 岳郷(約50人)

(注)
①コピーには撮影年月日を示す「95.3.5」のデジタル文字が映っている。
②「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/fn/%E6%9F%BF%E6%9C%AC.html


第2689話 2022/02/26

東宮聖徳と利歌彌多弗利

 本日は東京古田会の月例会にリモート参加させていただきました。今回は、同会々員の新保高之さん(調布市)による、『日本書紀』に記された「聖徳太子」の名称についての研究発表がありました。同研究は「聖徳太子は異名王」(注①)として『東京古田会ニュース』に発表されていたもので、発表当初から注目していた論考でした。
 新保稿では、『日本書紀』に見える「聖徳太子」を指す多くの異名を抽出し、その中のキーワードから見えてきた〝「東宮聖徳」「厩戸皇子」「上宮太子」という、三つの人物像の重ね合わせ〟が「聖徳太子」記事であるとされました。簡明な方法論から導かれた穏当な仮説と思います。新保さんの発表を聴講して、「東宮聖徳」という名称とその人物像について次のような見通し(史料根拠に基づく論理展開)を抱きました。

(1) 九州年号史料に見える「聖徳」年号は利歌彌多弗利の法号とする正木裕説(注②)が有力であり、『日本書紀』に見える「東宮聖徳」は、利歌彌多弗利の呼称や伝承を転用した可能性がある。
(2) 「東宮」は皇太子を指す言葉であることから、「東宮聖徳」は皇太子時代の利歌彌多弗利の呼称だったのではあるまいか。
(3) 『二中歴』「年代歴」の「倭京」年号の細注にある「倭京二年(619) 難波天王寺を聖徳が造る」の「聖徳」も皇太子時代の利歌彌多弗利の事績と考えられる(注③)。「倭京」年間(618~622年)は多利思北孤(上宮法皇)の治世期であるため。
(4) 多利思北孤が「上宮法皇」であり、利歌彌多弗利が「東宮聖徳」であれば、「上宮」「東宮」は両者が居住した宮殿名ではあるまいか。
(5) そうであれば、「東宮」とは九州王朝の都(太宰府、倭京)に対して、その東の難波(大阪市上町台地)にあった利歌彌多弗利の宮殿名とする理解も可能。
(6) 『二中歴』「年代歴」の「白鳳」(661~683年)年号の細注「観世音寺東院造」(注④)も、太宰府の観世音寺を東院が造ったと解すれば、この「東院」も当時の皇太子が居た宮殿名に由来する呼称とできそうである。

 以上のような見通しを持っていますが、本格的な検証や論証はこれからの仕事です。

(注)
①新保高之「聖徳太子は異名王」『東京古田会ニュース』201号、2021年。
②正木裕「利歌彌多弗利の法号『聖徳』の意味と由来」古田史学の会・関西例会で発表、2014年12月。
 正木裕「盗まれた『聖徳』」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1391話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(4)〟
 古賀達也「『二中歴』九州年号研究の紹介 ―九州王朝史復元研究の成果―」『東京古田会ニュース』183号、2018年。
④古賀達也「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1392話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(5)〟


第2688話 2022/02/24

九州王朝(倭国)の「社稷」

 「洛中洛外日記」26632676話(2022/01/16~02/05)〝難波宮の複都制と副都(1)~(5)〟において、九州王朝(倭国)が採用した複都制は、権威の都(太宰府・倭京)と権力の都(前期難波宮・難波京)の両京制とする仮説を提起しました。この拙稿を読まれた山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)から、権威の都・太宰府を指し示す記事が『日本書紀』に見えることを過日のリモート勉強会で教えていただきました。
 「壬申の乱」での筑紫大宰府・栗隈王の発言中に「社稷(しゃしょく)」という言葉があり、これは九州王朝の社稷であり、その地が「権威の都」であることを示しているというご指摘です。このことが山田さんのブログ「sanmaoの暦歴徒然草」にて詳述されましたので、一部省略して転載させていただきました。山田さんに指摘されるまで、この「社稷」の持つ深い意味に気づきませんでした。ご教示に感謝します。

【以下、関係部分を要約転載】
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/
sanmaoの暦歴徒然草
社稷、権威の都 ―副都「倭京(太宰府)」

 ブログ記事「両京制」への疑問―いつから「太宰府」になったか―(2022年1月25日(火))で、古賀達也さまに次のような疑問(要旨)を提出させていただきました。
………………………………………
 「牛頸窯跡群の操業」が、「六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し」「七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少する」ということが、「太宰府条坊都市造営の開始時期」と「前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)」の考古学的痕跡であるならば、これは九州王朝が難波に「遷都」したといえるのではないでしょうか。
………………………………………
 この批判に対して、古賀さんはご自身のブログ「古賀達也の洛中洛外日記」で「難波宮の複都制と副都」と題するシリーズでお答えいただきました。なかでも2676話 2022/02/05難波宮の複都制と副都(5)において、村元健一さんの指摘「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」)を引用され、「権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」」という都の性格付けには、先に提示した疑問が見事に解消されました。ありがとうございました。
 そこで、私も納得したことを確かめようと『日本書紀』にあたってみました。すると古賀さんの見解を見事に裏付ける記事が、天武天皇元年(六七二)六月丙戌(26日)条にありました。「壬申の乱」の記事です。
 筑紫大宰の栗隈王に対して、「近江朝側に立って大宰帥麾下の軍を発動しろ」との命令を受けた時、栗隈王が拒絶する返答です。

《天武天皇元年(六七二)六月》
 男(※)、筑紫に至る、時に栗隈王、苻(おしてのふみ)を承(う)けて對(こた)へて曰(まう)さく、「筑紫國は、元より邊賊(ほか)の難を戍(まも)る。其れ城を峻(たか)くし隍(みぞ)を深くして、海に臨みて守らするは、豈(あに)内賊(うちのあた)の爲(ため)ならむや。今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を發(おこ)さば、國空(むなし)けむ。若し不意之外(おもひのほか)に、倉卒(にはか)なる事有らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾きなむ。(後略)

 ※この「男」というのは、大友皇子の命令書を持って筑紫大宰府にやって来た「佐伯連男(さへきのむらじをとこ)」。
………………………………………
 筑紫大宰の栗隈王は「社稷」という言葉を用いています。

 「社」も「稷」も祭祀に関わる字であることがわかります。「社稷」を古代では「国家」を指すともありますが、この「国家」は近代でいう「国家」(主権・領域・領民をもつ)ではありません。近代でいう「国家」は領域や領民を拡大していくこともできる「権力機構」のことですが、「社稷」は限られた人達だけが衛守する祭祀の領域(祖先を祀る宗廟のある地とも言える)です。つまり「社稷」は支配を正当化する祭祀権(古代の権威)です(それが存在する地域のことでもあります)。
 筑紫大宰の栗隈王は、「筑紫国」は九州王朝の「社稷」があり、それを守るのが大宰帥(大宰府に常駐する軍隊)であるから、近江朝のために大宰府の兵を動かすことはできないという理由で命令を拒否したのです。(以下、略)


第2685話 2022/02/17

古田先生の「紀尺」論の想い出 (3)

古田先生が「紀尺(きしゃく)」を採用して論証に成功された高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)を始め高良玉垂命系図である「稲員家系図(松延本)」や「物部家系図」(明暦・文久本、古系図)についての論考があります。それは「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」という論文(注②)で、次のような書き出しで始まります。

〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。
この古系図は、すでに久しく、貴重な文書としてわたしたちの認識してきていた「古系図」(稲員・松延本)と、多くの共通点をもつ。特に、今回の主たる考察対象となった前半部に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができよう。
しかしながら、古文書研究、歴史学研究にとって「同型・異類」写本の出現は重大だ。ことに当本のように、従来の古代史研究において、正面から採り上げられることの少なかった当本のような場合、このような別系統本の入手の意義はまことに決定的だ。しかも、当本は「高良山の大祝家」の中の伝承本であるから、先の「稲員・松延本」と共に、その史料価値のすぐれていること、言うまでもない。〟

そして、「紀尺」による論証結果が次に示されています。

〝第二、〈その二〉の高良玉垂命神は、この「古系図」内の注記に
「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」
とあるように、「仁徳五十五(三六七)」に当山(高良山)に来臨した、という所伝が有名である。(高良大社の「高良社大祝旧記抜書」〈元禄十五年壬午十一月日〉によって分析。古田『九州の真実 六〇の証言』かたりべ文庫。のち、駸々堂刊。注③)
中国の南北朝分立(三一六)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳五十五〈皇暦〉」(三六七)だ。
それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。〟

論文末尾は次のように締めくくられます。

〝「古系図」(稲員・松延本)に関しては、すでに古賀達也氏が貴重な研究を発表しておられる。「九州王朝の築後遷宮」(『新・古代学』第4集)がこれである(注④)。
「九躰の皇子」の理解等において、いささか本稿とは異なる点があるけれど、実はわたしも亦、本稿以前の段階では、古賀氏のように思惟していたのであった。その点、古賀論稿は、本稿にとっての貴重な先行論文と言えよう。
今、わたしは「俀国版の九州」の名称についても、この「九躰の皇子」にさかのぼるべき「歴史的名辞」ではないか、と考えはじめている。詳論の日を迎えたい。
先の稲員・松延氏と共に、今回の古賀壽氏の御好意に対し、深く感謝したい。
最後に、この「古系図」の二つの奥書を詳記し、今回の本稿を終えることとする。
(イ)明暦三丁酉年(一六五七)秋八月丁丑日
高良山大祝日往子尊百二代孫
物部安清
(ロ)文久元年(一八六一)辛酉年五月五日
物部定儀誌〟

以上のように、江戸期成立の近世文書を古代史研究の史料として採用するための方法論の一つとして、古田先生の「紀尺」論は有効性を発揮しています。江戸時代の文書や皇暦(『東方年表』)などを偽作扱い、あるいは軽視する論者があれば、この古田先生の論文を読んでいただきたいと思います。ここで示された「紀尺」を初めとする種々の方法論は和田家文書(明治・大正写本)の史料批判にも数多く採用されています。「紀尺」論は、古田先生の学問を理解する上で、不可欠のものとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年12月。
③古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
④古賀達也「九州王朝の築後遷宮–玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2684話 2022/02/16

古田先生の「紀尺」論の想い出 (2)

古田先生が提唱・命名された「紀尺(きしゃく)」という言葉をわたしなりに説明すれば、「『日本書紀』紀年に基づく暦年表記の基準尺」とでもいうべき方法と概念です。この文献史学における暦年表記の論理構造について解説します。

(1) 古代に起こった事件などを後世史料に書き留める場合、60年毎に繰り返す干支だけでは絶対年代を指定できない。
(2) そこで、年号がある時代であれば年号を用いて絶対年代を指定できる。それが六~七世紀であれば、九州王朝の時代であり、九州年号を使用することができる。八世紀以後であれば大和朝廷の年号が採用されている。
(3) 五世紀以前の九州年号がない時代の事件であれば、中国の年号を使用するか、『日本書紀』に記された近畿天皇家の紀年、いわゆる皇暦(『東方年表』等)を使用するほかない。事実、江戸時代以前の文書には皇暦が採用されるのが一般的である。明治以降は西暦や皇暦が採用されている。
(4) 以上のような時代的制約から、中近世文書に古代天皇の紀年で年代表記されている場合、記された皇暦をそのまま西暦に換算して認識することが妥当となるケースがある。
(5) こうして特定した暦年の妥当性が、他の情報により補強・証明できれば、その年次を採用することができる。

おおよそ以上のような論理構造により古田先生の「紀尺」論は成立しているのですが、この方法は皇暦を援用してはいるものの、その天皇とは、とりあえず無関係に暦年部分のみを採用することに、いわゆる「皇暦」とは決定的に異なる方法論上の特徴があります。
それではこの「紀尺」による年代判定事例を先生の著書から引用・紹介します。それは江戸期成立の高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)の史料批判と年代理解です。

〝すなわち、七支刀をたずさえた百済の国使は、当地(筑後)に来たのだ。それが、東晋の「泰和四年(三六九)」だった。
ところが、高良大明神の“当山開始(即位)”年代は、「仁徳五十五年(「皇暦」で一〇二七、西暦換算三六七)となる」。ピタリ、対応していた。平地で「こうや」、高地で「こうら」。百済・新羅に共通した、都城の在り方だったようである。〟(注②)

石上神宮(天理市)に伝わる七支刀(国宝)の銘文中に見える年代(泰和四年)と高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』に記された「仁徳五十五年」が同時期であることから、七支刀は筑後にいた九州王朝(倭国)の王「高良大明神」に百済から贈られたものであるとする仮説の証明に「紀尺」が用いられた事例です。それまで意味不明とされてきた高良大社文書中の「仁徳五十五年」という年次が、生き生きと歴史の真実(四世紀の九州王朝史)を語り始めた瞬間でした。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。