九州王朝(倭国)一覧

第2682話 2022/02/14

『古田史学会報』168号の紹介

 『古田史学会報』168号が発行されました。一面は正木事務局長の〝「邪馬壹国九州説」を裏付ける最新のトピックス〟です。同稿は昨年12月に開催された和泉史談会(辻野安彦代表)での講演のエッセンスです。同講演内容は奈良新聞(12月28日付)の第4面(カラー)の一頁全てを使って〝「邪馬壹国九州説」有力 考古学・科学分析で確実に〟と紹介されたもので、『古田史学会報』令和四年の冒頭を飾るにふさわしいものです。

 拙稿〝失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五弦琴笛」『隋書』俀国伝―〟と〝古今東西の修学開始年齢 ―『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』―〟の二編も掲載していただきました。野田稿〝『隋書』の「水陸三千里」について〟は関西例会で論争を巻き起こした仮説です。今後の検証や展開が期待されます。吉村稿と大原稿は同じく関西例会で発表された考古学論文で、いずれも興味深いテーマを取り扱ったものです。文献史学の論稿が多い『古田史学会報』にあって、こうした考古学分野の研究は貴重です。

 168号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』168号の内容】
○「壹」から始める古田史学・三十四
「邪馬壹国九州説」を裏付ける最新のトピックス 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五弦琴笛」『隋書』俀国伝― 京都市 古賀達也
○『隋書』の「水陸三千里」について 姫路市 野田利郎
○科野と九州 ―「蕨手文様」への一考察ー 上田市 吉村八洲男
○栄山江流域の前方後円墳について 京都府大山崎町 大原重雄
○古今東西の修学開始年齢 ―『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』― 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第2681話 2022/02/11

難波宮の複都制と副都(10)

 FaceBookでの日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)のメッセージには貴重な指摘がありました。この問題が物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうという視点です。これはわたしも気になっているテーマです。『続日本紀』によれば、道鏡を皇位につけよとの宇佐八幡神の神託事件により、習宜阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷されます。次の記事です(注①)。

 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条

 この道鏡の俗名は物部系とされる弓削であり(注②)、同じく物部系の習宜阿曾麻呂との関係が疑われれるのです。九州王朝の都だった太宰府で神を祀り、皇位継承への発言をも職掌とした大宰主神を、アマテラスやニニギではなくニギハヤヒを祖神とする習宜阿曾麻呂が担っていたということになるのですが、わたしはこのことに違和感を抱くと同時に、もしかすると歴史の深層に触れたのではないかとの感触を得ました。
 実は、九州王朝(倭国)の王と考えてきた筑後国一宮の高良大社(久留米市)御祭神の高良玉垂命を物部系とする史料があります。高良玉垂命を祖神とする各家(稲員家、物部家、他)系図には初代玉垂命の名前が「玉垂命物部保連」、その孫が「物部日良仁光連」と記されています(注③)。更に高良大社文書の一つ「高良記」(注④)には次の記事が見えます。

 「高良大并ノ御記文ニモ、五姓ヲサタムルコト、神部物部ヲ ヒセンカタメナリ、天神七代 地神五代ヨリ此カタ、大祝家のケイツ アイサタマルトミエタリ」16頁
 「一、高良大善薩御氏 物部御同性(姓カ)大祝職ナリ
  (中略)
  一、大善薩御記文曰 五性(姓カ)ヲ定ムルコト、物部ヲ為秘センカ也」79頁
 「一、大并御記文 物部ヲソムキ、三所大并ノ御神秘ヲ 多生(他姓カ)エシルコトアラハ、当山メツハウタリ」80頁
 「一、同御記文之事(※) 物部ヲサツテ、肉身神秘□他ニシルコトアラハ、此山トモニモツテ我滅ハウタリ
  一、同御記文之事(※) 物部ヲ績(続カ)セスンハ、我左右エ ヨルコトナカレ」151頁
 (※)「事」の異体字で、「古」の下に「又」。

 これらの物部記事は意味がわかりにくいところもありますが、その要旨は、高良大菩薩(玉垂命)は物部であり、このことを秘すべく五姓を定めた。他者に知られたら当山は滅亡すると述べています。なぜ、物部であることを隠さなければならないのかは不明ですが、よほどの事情がありそうです。それは九州王朝の末裔であることや、道鏡擁立に関わった習宜阿曾麻呂との繋がりを隠すためだったのでしょうか。
 代々の高良玉垂命が九州王朝の天子(倭国王)であれば(注⑤)、九州王朝の王族は物部系ということになります。この問題の存在については早くから指摘してきたところで、「洛中洛外日記」でも何度か触れたテーマでした。古田先生も同様の問題意識を持っておられました(注⑥)。今回、大宰主神だった習宜阿曾麻呂が筑後地方の出身で物部系とする仮説に至り、このテーマが改めて問われることになりました。(つづく)

(注)
①『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。
②『新撰姓氏録』(左京神別上)に「弓削宿禰 石上同祖」、その前に「石上朝臣 神饒賑速日命之後也」とある。
③「草壁氏系図」松延家写本による。
④『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、1972年。
⑤藤井緩子『九州ノート 神々・大王・長者』葦書房、1985年。
 同書に玉垂命の子孫を倭の五王とする説が記されている。著者は平成八年に亡くなられたが、同じ久留米出身ということもあってか、何かと励ましのお便りを頂いた。生前の御厚情が忘れ難い。
 古賀達也「玉垂命と九州王朝」『古田史学会報』24号、1998年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga24.html
 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html
⑥古賀達也「洛中洛外日記」200話(2008/12/14)〝高良玉垂命と物部氏〟
 古賀達也「洛中洛外日記」207話(2009/02/28)〝九州王朝の物部〟
 古賀達也「洛中洛外日記」275話(2010/08/08)〝『先代旧事本紀』の謎〟


第2680話 2022/02/09

難波宮の複都制と副都(9)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の出身地を筑後地方(うきは市)とする作業仮説を提起した「洛中洛外日記」2679話(2022/02/08)〝難波宮の複都制と副都(8)〟をFaceBookに掲載したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から次のご意見が寄せられました。

 「物部と杉の共通の密集地が出身地と言うのは、確かに興味深い説ですね。彼の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州ですから有り得そうです。この問題は物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうですね。」

 わたしは次のように返信しました。

 「ご指摘の通りで、岡山県でも杉さんと物部さんの地域が隣接していますし、その付近には物部神社(石上布都魂神社)もあります。杉さんと物部さんが無関係とは思えませんね。」

 杉さんと物部さんの分布が重なる地域がうきは市だけではなく、岡山県でも同様の傾向にあることは、これを偶然の一致とするよりも両者に何かしらの深い繋がりがあることを示唆しており、当仮説への実証力を強めるものです。苗字の分布データ(注①)の関連部分を再掲します。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

【物部さんの分布】
〔都道府県別〕
1 岡山県(約400人)
2 京都府(約300人)
3 福岡県(約200人)

〔市町村別〕
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)

 日野さんに次いで、西野慶龍さんからも次の情報が寄せられました。

 「高梁市に住んでいますが、近所には杉さんが住んでいたり、子供の頃のバスの運転手さんが物部さんでした。」

 こうした高梁市の西野さんからの〝現地報告〟にも接し、わたしは自説に確信を持つことができました。そして、もしやと思い、岡山県内の「杉神社」を検索したところ、やはりありました。下記の通りです(注②)。

○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡勝央町小矢田295 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町広岡647・豊沢787 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町西原1164 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 美作市安蘇686 御祭神:大己貴命,天鈿女命,少彦名命

 この最後の美作市の杉神社鎮座地名が「安蘇」であることも、習宜阿曾麻呂の名前に関係するのか気になるところです。また、勝田郡の三つの杉神社の御祭神の名前が記されていないという不思議な状況も、何か理由がありそうです(習宜阿曾麻呂との関係を憚ったためか)。なお、備前国一宮が物部氏と関係が深い石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ。赤磐市石上1448)であることも注目されます。

 日野さんのご指摘も重要な視点と論点が含まれています。なかでも、「彼(習宜阿曾麻呂)の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州」という視点は、大宰府主神と九州王朝との歴史的関係をうかがわせるものであり注目されます。『続日本紀』には次の記事が見えます(注③)。

 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麿を豊前介と為す。」神護景雲元年(767年)九月条
 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を大隅守と為す。」宝亀三年(772年)六月条

 日野さんのご指摘の通り、習宜阿曾麻呂の左遷や転任は九州内であることから、その出自も九州内とする方がより妥当と思われます。以上のことから習宜阿曾麻呂の出自を筑後地方(うきは市)とする仮説は最有力ではないでしょうか。更に、習宜の訓みは「すげ」ではなく、「すぎ」とした方がよいことも明らかになったと思われます。(つづく)

(注)
①「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
②岡山県神社庁のホームページによる。
③『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。


第2679話 2022/02/08

難波宮の複都制と副都(8)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の習宜の本籍地を調査していて気づいたことがありました。そもそも、習宜を「すげ」と訓むのは正しいのだろうか、「すげ」と訓むことは学問的検証を経たものだろうか。このような疑問を抱いたのです。
 普通に訓めば、習宜は「しゅうぎ」「しゅぎ」か「すぎ」です(注①)。「宜」の字に「げ」の音は無いように思われるからです。従って、現代の苗字であれば、「すぎ」に「杉」の字を当てるのが一般的でしょう。そこで、「杉」姓の分布をweb(注②)で調べると次のようでした。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)
3 東京都(約500人)
3 大阪府(約500人)
5 愛知県(約400人)
6 兵庫県(約400人)
7 山口県(約400人)
8 神奈川県(約400人)
8 埼玉県(約400人)
10 福島県(約300人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
2 福島県 南相馬市(約200人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
4 山口県 山口市(約130人)
4 愛媛県 西条市(約130人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
8 愛知県 稲沢市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

 この分布データによれば、福岡県の筑後地方(うきは市、久留米市、三潴郡)が最濃密地域であることがわかります。筑後地方であれば太宰府に近く、大宰府主神の出身地としても違和感はありませんし、阿曾麻呂という名前の「阿曾」も阿蘇山を連想させます。そして、阿蘇神社は筑後地方にも散見します(注③)。
 また、『新撰姓氏録』(右京神別上)によれば「中臣習宜朝臣」の祖先を「味瓊杵田命」(うましにぎたのみこと)としており、これは『先代旧事本紀』によれば饒速日命(にぎはやひのみこと)の孫に当たる物部系の神様です。あるいは『新撰姓氏録』(右京神別上)の「采女朝臣」に「神饒速日命六世孫大水口宿禰之後也」とあり、それに続く「中臣習宜朝臣」に「同神孫味瓊杵田命之後也」とあることからも、物部系の氏族であることがわかります。そして、うきは市(旧浮羽郡)には物部郷があったことが知られており(注④)、今でも物部さんが多数分布しています。次の通りです(注②)。

【物部さんの分布】
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
4 京都府 京都市左京区(約80人)
5 京都府 京都市北区(約50人)
6 京都府 京都市西京区(約50人)
7 島根県 松江市(約40人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)
9 兵庫県 洲本市(約30人)
10 静岡県 浜松市(約30人)

 以上のように、いずれも傍証の域を出ませんが、習宜阿曾麻呂の出身地を現うきは市付近とすることは、「大和国添下郡」説よりも有力ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①わたしが子供の頃、「せ」を「しぇ」と発音する地域(主に佐賀県)があった。古くは、「す」も「しゅ」と訛ることがあったのではあるまいか。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
③管見では次の阿蘇神社がある。
 阿蘇神社 久留米市田主丸町(旧浮羽郡田主丸町)
 阿蘇神社 八女市立花町
 干潟阿蘇神社 小郡市干潟(旧三井郡立石村)
 筑後乃国阿蘇神社 みやま市高田町
④『和名抄』「筑後国生葉郡」に「物部郷」が見える。


第2678話 2022/02/07

難波宮の複都制と副都(7)

 大宰府主神、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)の習宜について、「大和国添下郡の地名」とする解説が岩波書店『続日本紀』の補注で紹介されています(注①)。この解説によれば習宜氏は大和国出身のように思われますが、webで「習宜」姓の分布を調査したところ、現在は存在していないようで検索できません。そこで、「すげ」の訓みも持つ「菅」「管」を検索したところ、次のようになりました(注②)。

【菅(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 愛媛県 今治市(約3,300人)
2 愛媛県 松山市(約1,900人)
3 秋田県 湯沢市(約1,700人)
4 山形県 最上郡最上町(約1,000人)
5 愛媛県 西条市(約1,000人)
6 大分県 佐伯市(約600人)
7 愛媛県 上浮穴郡久万高原町(約600人)
8 大分県 大分市(約500人)
9 愛媛県 新居浜市(約400人)
10 長崎県 島原市(約400人)

【管(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 大分県 佐伯市(約200人)
2 福島県 会津若松市(約110人)
2 大分県 大分市(約110人)
4 山形県 西村山郡河北町(約90人)
5 熊本県 菊池市(約70人)
6 熊本県 熊本市(約60人)
7 愛媛県 松山市(約50人)
8 長崎県 長崎市(約30人)
9 山形県 山形市(約30人)
9 宮崎県 延岡市(約30人)

 「菅」「管」姓は豊予海峡を挟んで愛媛県と大分県、特に愛媛県に最濃密分布があります。しかし、その訓みの大半は「かん」であり、「すげ」は極めて少数と説明されていることから、「すげ」姓分布のエビデンスに採用するのには不適切なデータのようです。他方、「大和国添下郡」の出身と推定し得る分布も示していませんので、習宜阿曾麻呂の本籍地について、「菅」「管」姓の分布データからは推定できそうにありません。(つづく)

(注)
①『続日本紀 二』岩波書店、新日本古典文学大系、465頁。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。


第2676話 2022/02/05

難波宮の複都制と副都(5)

 村元健一さんの次の指摘は、前期難波宮複都説にとって貴重なものでした。

 「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(注①)

 この視点を太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)に当てはめれば、権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」となります。その痕跡が『養老律令』職員令に残っています。職員令に規定された大宰府職員冒頭は「主神」であり、他には見えません。

 「主神一人。掌らむこと、諸の祭祀の事。」『養老律令』職員令

 主神は大宰府職員の筆頭に記されてはいるものの、官位令によれば正七位下であり、高官とは言い難いものです。このやや不可解な史料事実について「洛中洛外日記」(注②)で次のように論じました。

〝おそらく、九州王朝大宰府の権威が「主神」が祭る神々(天神か)に基づいていたことによるのではないでしょうか。大和朝廷も九州島9国を大宰府による間接統治をする上で、「主神」の職掌が必要だったと考えられます。第二次世界大戦後の日本に、マッカーサーが天皇制を残したことと似ているかもしれません。
 同様に、大和朝廷も自らが祭祀する神々により、その権威が保証されていたのでしょう。こうした王朝の権威の淵源をそれぞれの「祖神」とするのは、古代世界ではある意味において当然のことと思われます。したがって、『養老律令』の大宰府に「主神」があることは、九州大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡ともいうべき史料事実なのです。〟

 ここで述べていたように、大宰府に主神があることは、大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡であり、九州王朝(倭国)の複都制(両京制)時代において、太宰府「倭京」が〝権威の都〟であったことの史料根拠ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年。
②古賀達也「洛中洛外日記」521話(2013/02/03)〝大宰府の「主神」〟


第2675話 2022/02/04

難波宮の複都制と副都(4)

 村元健一さんの論文「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」(注①)には隋唐時代の複都制についての考察があり、長安(京師、大興)と洛陽(東京、東都)の二つの大都市が「京」や「都」として並立(両京制、複都制)したり、単独の都(単都制)になったりした経緯が詳述されています。なかでもわたしが注目したのが次の解説でした。

 「隋から唐の高宗期にかけて、制度として複都制を取り入れたのは隋の煬帝と唐の高宗のみである。」
 「当然ながら、正統な皇帝であることを明示するための祭祀施設である太廟、郊壇はすべて大興に所在している。
 煬帝期のこのような両都城の在り方を見れば、政治的、経済的、文化的な「京」は東京であるものの、京師大興には宗廟、郊壇といった中華皇帝としての正統性を示す礼制施設が存在しており、この点に両京が並び立った原因を求めることができよう。」
 「隋の文帝期、唐の高祖・太宗期では、洛陽が東方経営の拠点であるものの、都城を置くまでには至らず、大興・長安だけを都城とする単都制であった。隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」

 権威の都である大興(長安)と権力の都である東都(洛陽)の分立という指摘は示唆的です。この視点を太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)に当てはめれば、権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」と言えそうです。
 評制による全国支配(注②)のために列島の中心に近い難波に難波京を造営したと考えられることから、そこを権力の都と称するにぴったりです。他方、倭京(太宰府)は天孫降臨以来の倭国の中枢領域であった筑紫の宗廟の地として、権威の都の地位を維持したと思われます。たとえば、『二中歴』都督歴の冒頭部分に筑紫本宮という表記が見えますが、これは難波別宮(前期難波宮)に対応した呼称ではないでしょうか(注③)。(つづく)

(注)
①村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』2017年。
②『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷、天下立評」とある。評制開始時期については次の拙稿で詳述した。
 古賀達也「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』145号、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年。
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2674話 2022/02/03

難波宮の複都制と副都(3)

 栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)によれば、古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとのこと。しかし、唯一の例外が前期難波宮で、その史料根拠が天武12年(683年)の複都詔でした。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波を都にせむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 わたしが前期難波宮九州王朝「副都」説を提起したとき、副都ではなく首都とすべきという積極的な批判が出され、その後に前期難波宮を複都制による複都の一つとする見解に至りました。そして、九州王朝(倭国)は7世紀前半(倭京元年、618年)に倭京(太宰府)を造営・遷都し、7世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)には難波京(前期難波宮)を造営し、両京制を採用したと考えました。その上で、倭京と難波京間を「遷都」し、ときの天子が居るところがその時点の「都」となり、留守にしたところには「留守官」を置いたとしました(注②)。
 すなわち、前期難波宮を副都ではなく複都の一つであり、太宰府と前期難波宮の二つの都(京)を九州王朝は必要に応じて使い分けたと考え、七世紀後半の九州王朝は前期難波宮が完成した白雉元年(652年)から焼亡する朱鳥元年(686年)までの間、二つの都(複都)を有する両京制の採用に至ったと自説を修正しました(注③)。
 九州王朝が必要に応じて二つの都を使い分けたとしたのには根拠がありました。村元健一さんの論文「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」です(注④)。(つづく)

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③古賀達也「洛中洛外日記」2663話(2022/01/16)〝難波宮の複都制と副都(1)〟
④村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』2017年。


第2671話 2022/01/31

ミニ講演会「化学者が語る古代史」

 先週、上京区の喫茶店「うらのつき」さんで古代史のミニ講演会を行いました。妻が懇意にしているお店で、以前からご要請いただいていたこともあり、一念発起して「化学者が語る古代史」として話させていただきました。
 それほど広いお店ではないためやや密になりましたが、参加者には医療関係者もおられ、コロナ対策は万全でした。参加者からは古代史以外に化学や政治についても質問や意見がだされ、「元気が出た」と好評だったようです。毎月行ってほしいとのことでしたので、参加者と話題が続く限り行うことにしました。
 当日、使用したレジュメを転載します。

令和四年(2022年)1月26日
うらのつき古代塾
―化学者が語る日本古代史―
         講師 古賀達也
《講師紹介》
福岡県久留米市出身
京都の化学会社に45年間勤務(色素化学・染色化学)
古田武彦氏(1926-2015年 日本古代史・親鸞研究)に師事
古田史学の会・代表(全国組織、会員約400名)
著書(共著) 『「九州年号」の研究』、『邪馬壹国の歴史学』、『九州王朝の論理』、他

《前話》 理系のわたしの歴史研究
(1)歴史学は犯罪捜査と共通する性格を持つ
 ①どちらも過去に起こった事件の真実(真相)を解明する。
 ②証拠と動機(なぜ?)の解明が必要。
 ③ただし弁護士がつかない⇒冤罪発生のリスクが伴う。
(2)最新科学は正しいのか
〈アポロ計画〉実績がある旧技術を採用し、人類を月面に送った。
〈足利事件〉当時、最先端の科学技術DNA鑑定で有罪⇒悲劇的な冤罪が発生した。
〈和歌山カレー毒物事件〉最新科学装置によるヒ素の分析により有罪判決⇒因果関係が非論理的で冤罪の可能性がある。
(3)教科書に書かれている日本古代史は前提から間違っている。
〈日本古代史の前提〉大和朝廷が日本列島の唯一の卓越した王朝である。⇒この『古事記』『日本書紀』の記述は信用してもよいのか。

《第一話》 学校では教えない本当の古代史
(1)大和朝廷の最初の年号は大化か?
 ■『日本書紀』の三年号
 「大化」645~649年 「白雉」650~654年 「朱鳥」686年
 ■「改元」と「建元」 ※「建元」は王朝の最初の年号で、一回しかない。後は王朝が滅ぶまで「改元」が続く。
 大化改元(645年)、白雉改元(650年)、朱鳥改元(686年)『日本書紀』の三年号は全て「改元」とある。
 大宝建元(701年)『続日本紀』大宝以降は改元が連続して続き、令和に至る。
(2)「白鳳時代」「白鳳文化」の「白鳳」とは何か?
 「白鳳」(661~683年)は九州年号の一つ。九州年号は、「継体」元年(517年)から「大長」九年(712年)まで連続して続く。九州年号の中に「白雉」(652~660年)、「朱鳥」(686~694年)、「大化」(695~704年)がある。⇒『日本書紀』は他の王朝の年号(九州年号)を転用している。
(3)地名に遺された「九州」「太宰府」「内裏(大裏)」とは何か?
(4)金印(国宝)はなぜ志賀島(福岡市)から出土したのか?
 「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」とは読めない。⇒漢の委奴(ゐの)国王。
(5)博多湾岸に飛来する渡り鳥の名はなぜ「都鳥(ミヤコドリ)」なのか?
(6)古代中国の史書は倭国(日本国)をどのように記しているか?

〔『隋書』倭(俀)国伝の証言〕
 倭国王の名前は阿毎多利思北孤(アメ・タリシホコ)で男性(奥さんがいる)。太子の名前は利歌彌多弗利(リ・カミタフリ)。当時の大和朝廷の天皇は推古天皇で女性。隋の使者は倭国王に面会しており、倭国王が男か女かを見間違うとは考えられない。
 また、倭国には阿蘇山があり、隋使はその噴火を見ている。「阿蘇山あり。その石、故なくして火を起こし、天に接す。(有阿蘇山其石無故火起接天)」と記している。

〔『旧唐書』倭国伝・日本国伝の証言〕
 日本列島には倭国と日本国があり、両国は別の国とされている。「日本国は倭国の別種なり。(日本國者、倭國之別種也)」と記している。そして、「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あ)わす。(日本舊小國、併倭國之地)」と記し、日本国(大和朝廷)が倭国(九州王朝)を併合したとある。古代の日本列島で王朝交替があった。
(7)中国史書と『日本書紀』はどちらが信用できるのか?
 勝者が自らのために創作した歴史書(『日本書紀』)は、〝容疑者の証言〟であり、そのまま証拠として採用してはならない。〝うらどり〟が必要。
 中国史書の倭国伝・日本国伝は、隣国の観察記録であり、言わば防犯カメラの録画のようなもの。精度の差はあるが、基本的に証拠として採用できる。


第2669話 2022/01/27

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)

 通古賀(とおのこが)地区以外に政庁地区にもⅠ期の掘立柱建物がありますが、正殿後方の東北側にある後殿地区建物(SB500a、SB500b)の下層から政庁Ⅰ期当時の木簡が出土しています。調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には次のように紹介されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする根拠とされた次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 ここに見える「竺志前」が「筑前」の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された八世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝により行われたことが、わたしたちの研究(注②)で判明しています。ですから「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀第3四半期以前まで遡るとしても問題ありません。
この政庁東北部地区からは八世紀初頭頃に至る多くの木簡やその削り屑が出土しており、当地に木簡を取り扱う役所があったのではないかと考えられています。しかし、政庁Ⅰ期時代の中心地と思われる通古賀地区(字扇屋敷)からは離れていますので、どのような役所があったのか未詳です。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」同前。
正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2668話 2022/01/25

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡 (1)

 太宰府の高級官僚、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介しましたが(注①)、『日本書紀』持統天皇五年正月条(注②)によれば、その29年前の662年(白鳳二年)に筑紫大宰府典を拝命したとありますから、大宰府政庁Ⅰ期からⅡ期にかけての時代の官僚であることがわかります。
 大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。しかし、わたしの研究では大宰府政庁Ⅰ期の時代は七世紀中葉頃で、Ⅱ期の造営は観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と思われます(注③)。そこで、政庁Ⅰ期の太宰府の考古学的痕跡について調査し、その実態について考察してみます。
 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の研究(注④)によれば、太宰府条坊と政庁Ⅰ期の造営は同時期とされており、その時代の中心地は右郭12条4坊付近に位置する王城神社(小字「扇屋敷」)がある通古賀(とおのこが)地区とされています。同地区からは七世紀の土器の出土があり、条坊内では比較的古い土器とのことです。従って、朝堂院様式の政庁Ⅱ期の宮殿ができる前は通古賀に王宮があった可能性が大です。この他に政庁Ⅰ期当時の木簡が多数出土する場所があります。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2667話(2022/01/23)〝太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益〟
②「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・絁十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条
③古賀達也「洛中洛外日記」2632話(2021/12/10)〝大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)〟
④井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。


第2667話 2022/01/23

太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益

 九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府(倭京)に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も拡充され、前期難波宮(難波京)や大和朝廷の藤原京へと受け継がれたとする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で提起しました。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。その太宰府高級官僚の一人、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介します。
 『日本書紀』の持統天皇五年正月条に持統天皇による次の詔が見えます。

 「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条

 この記事によれば、持統五年(691年)の29年前に筑紫史益が筑紫大宰府典に拝命されていたのですから、662年(白鳳二年)には筑紫に大宰府があり、律令制官職(注②)と思われる大宰府の「典」があったことを示しています。これは大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市造営の時代に相当し、当時の九州王朝(倭国)に律令と律令官僚が存在していたことの史料根拠の一つになります。
 この筑紫史益についての九州王朝説の視点から論じた論文があります。下関市の前田博司さん(故人)の「九州王朝の落日」という論文(注③)が1984年に発表されています。一部引用します。

【以下、引用】
 筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、『日本書紀』天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされていることから、王族と諸臣の違いこそあれ筑紫大宰府の長官にも比すべき位階を筑紫史益が有して居ることは注目すべきことと考えられる。筑紫の大宰は次々に替っても、その下にあって、しかも位階では長官と対等のランクにあり、大宰府典として事実上九州の行政の実務に永年携わっている在地の有力な人物の像を思い浮かべていただきたい。(中略)
 典の職はのちの養老職員令によれぱ、大宰府には大典二人、少典二人を置く事になっていて、その相当の官位は大典が正七位上、少典が正八位上であり、三十年程へだたった後代に比して、大宰府典の職位がかなり高いのは何故だろうか。
【引用おわり】

 前田さんは「古田史学の会」創設時に全国世話人としてご協力いただいた恩人のお一人で、30年ほど前に古田先生と二人で長門国鋳銭司跡を訪問した時、お世話いただいたことがあります。前田さんが1984年の段階で筑紫史益に注目されていたことは驚きです。
 わたしは筑紫史益の位階「直広肆」や姓(かばね)「史」の他に「筑紫」という名前にも注目しています。九州王朝の天子が筑紫君磐井や筑紫君薩野馬のように「筑紫」を名のっていることを考えれば、同じく「筑紫」の名を持つ筑紫史益も九州王朝王族の一人ではないでしょうか。そのため、前期難波宮創建の後も高級官僚として太宰府に残ったのではないかと推定しています。なお、701年の王朝交替後も「筑紫公(ちくしのきみ)」を名のる官人の存在を紹介した論文(注④)をわたしは発表しました。引き続き、九州王朝官僚の研究を続けます。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2666話(2022/01/21)〝太宰府(倭京)「官人登用の母体」説〟
②『養老律令』職員令に「大宰府典」が見える。
③前田博司「九州王朝の落日」『市民の古代』6集、市民の古代研究会編、1984年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin06/maeda01.html
④古賀達也「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/matuei.html