九州王朝(倭国)一覧

第3344話 2024/09/11

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (1)

 「洛中洛外日記」3336~3341話(2024/08/29~09/05)〝同時代エビデンスとしての「天皇」木簡 (1)~(6)〟で紹介した飛鳥宮遺跡の木簡は、王朝交代前の七世紀第4四半期のものが中心でした。その続編として、王朝交代期(701年前後)の藤原宮木簡を紹介します。飛鳥宮遺跡よりも出土数が多いので、重要な遺構を中心に見ていくことにします。

 『日本書紀』によれば、持統八年(694年)に藤原遷都がなされていますが、藤原宮造営がいつ頃から始まったのかについてのエビデンスとして注目された干支木簡が遺構SD1901Aから出土しています。同遺構は藤原宮大極殿のすぐ北方の宮内下層から発見された大溝(運河)で、次のように説明されています。

〝大溝は幅約七メートル、深さ二メートルを越える大規模なもので、平らな底に、両岸が垂直に近い形になる人口の溝である。(中略)大溝は役割を終えてのち一気に、しかも入念、堅固に埋められており、その後に大極殿院施設の建設が行われている。〟木下正史『藤原京』58~59頁、中公新書、2003年。

 この大溝下層の粗砂層からは約130点の木簡が出土しており、その中に、「壬午年」(天武十一年・682年)「癸未年」(天武十二年・683年)「甲申年」(天武十三年・684年)の干支木簡が出土し、藤原京・宮の造営時期を判断する上でのエビデンスとして重視されました。奈良文化財研究所HPの「木簡庫」より、大溝(遺構番号SD1901A)から出土した重要な木簡を紹介します。

《藤原宮大極殿北方の下層大溝SD1901A出土木簡》
【木簡番号】522
【本文】・甲申年七月三日○□〔部ヵ〕□□\□○□・○日仕○甘於連
【遺構番号】SD1901A
【和暦】(甲申年)天武13年 【西暦】684年
【木簡説明】(前略)甲申年は天武一三年(六八四)。日仕とはその日勤務したことを示すものか。ここでは甘於連が出勤執務したことを意味する。但し律令等に日仕の用語はみえない。甘於連は『続日本紀』天平神謹二年四月丁未条にみえる甘尾氏のことか。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条に見える。

【木簡番号】528
【本文】□〔豊ヵ〕□評大伴部大忌寸廿六以白
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】摂津国豊嶋郡〈豊□評〉・遠江国豊田郡〈豊□評〉・武蔵国豊嶋郡〈豊□評〉・安芸国豊田郡〈豊□評〉・長門国豊浦郡〈豊□評〉
【木簡説明】(前略)評名と人名とが記されている。豊ではじまる郡は摂津国豊嶋郡、武蔵国豊嶋郡、安芸国豊一田郡、長門国豊浦郡、遠江国豊田郡があるが、この木簡にみえる評名との関係は確められない。末尾に「以白」と記しているところからみて文書の断片であろう。廿六は年齢か。

【木簡番号】531
【本文】□進~大~肆□□→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】進大肆は天武十四年(六八五)制定の位階で、最下位から二番目の位。上から墨繰で沫消している。

【木簡番号】544
【本文】癸未年十一月/三野大野評阿漏里/□〔阿ヵ〕漏人□□白米五斗∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】美濃国大野郡上杖郷〈三野大野評阿漏里〉・美濃国大野郡下杖郷〈三野大野評阿漏里〉
【和暦】(癸未年)天武12年 【西暦】683年
【木簡説明】(前略)癸未年は天武一二年(六八三)にあたり、今のところ里の表記をもっている最も古い史料である。阿漏里については、正倉院文書中に美濃国大野郡上荒郷に本貫をもつ阿漏人大嶋、阿漏君国麻呂の記載があって(『大日本古文書』二五-一四三・一四四)、ここからみると上、下に分かれる前の荒郷の前身が阿漏里ではないかと考えられる。『倭名鈔』には美濃国大野郡の項に上杖、下杖郷がみえる。

【木簡番号】545
【本文】・壬午年十月〈〉毛野・□〔芳ヵ〕□□〔評ヵ〕
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈□毛野芳□評〉
【和暦】(壬午年)天武11年 【西暦】682年
【木簡説明】(前略)壬午年は天武一一年(六八二)でSD1901A溝から出土した木簡の最古の紀年をもっている。

【木簡番号】546
【本文】旦波国竹野評鳥取里大贄布奈
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】丹後国竹野郡鳥取郷〈旦波国竹野評鳥取里〉
【木簡説明】贄についての貢進物の荷札。旦浪(ママ、波の誤り)国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。

【木簡番号】547
【本文】海評佐々里/阿田矢/軍布∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】隠岐国海部郡佐作郷〈隠岐国海評佐々里〉
【木簡説明】海評佐々里は『倭名鈔』の隠岐国海部郡佐作郷にあたる。軍布の訓はメで海藻である。阿国矢は人名で、氏は欠いている(東野治之「藤原宮木簡における無姓者」『続日本紀研究』第一九九号参照)。

【木簡番号】548
【本文】・宍粟評山守里・山部赤皮□□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】播磨国宍粟郡安志郷〈播磨国宍粟評山守里〉
【木簡説明】(前略)宍粟評は『倭名鈔』の播磨国宍栗郡にあたる。

【木簡番号】552
【本文】鴨評□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】参河国賀茂郡〈鴨評〉・(伊豆国賀茂郡〈鴨評〉・美濃国賀茂郡〈鴨評〉・佐渡国賀茂郡〈鴨評〉・播磨国賀茂郡〈鴨評〉・安芸国賀茂郡〈鴨評〉
【木簡説明】(前略)鴨評は『倭名鈔』にみえる参河国賀茂郡、伊豆国賀茂郡、美濃国加茂郡、佐渡国賀茂郡、安芸国賀茂郡のいずれかに相当するか。

 これらの木簡から判断できる同遺構SD1901Aの年代観は天武期末頃とできます。干支木簡の他に天武十四年から大宝律令で新位階制が採用されるまで使用された「進大肆」(木簡番号531)、700年まで採用された行政単位「評」もその年代観と対応しています。また、飛鳥浄御原令以前の官司名とみられる「陶官」(木簡番号523)「舎人官」(木簡番号524)もこの年代観を支持しています。こうした木簡は当地近辺に官衙があったことを示唆しています(注)。
他方、出土土器編年については次のように説明されています。

〝木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原京』60~61頁、中公新書、2003年。

 以上の年代観などから、天武期末頃に大溝が掘削され、藤原宮造営のための資材運搬用の運河として使用されたとする通説が成立しました。この大溝は既にあった条坊道路を取り壊して造営されていますから、藤原京条坊は天武期末頃よりも早い段階で造営されていたことになります。その造営範囲と時期は今後の発掘調査で明らかになることと思います。
これらの出土事実から、既にあった条坊を取り壊して、運河用大溝を造り、使用後は埋め立てて、そこに藤原宮大極殿が造営されたことがわかりました。なぜこのような計画性のない王都王宮の造営がなされたのかについて、学界でも古田学派でも諸仮説が提起されており、注目されます。いずれにしましても、出土木簡というエビデンスとの整合性が重要であることは言うまでもありません。なお、木簡に記された地名(美濃国・下野国・旦波国・隠岐国・播磨国)から、天武期当時の勢力範囲がうかがえます。(つづく)

(注)七世紀(九州王朝時代)の官職名
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第3343話 2024/09/10

『魏書』の中国風一字名称への改姓記事

 ある調査のため『魏書』(注①)全巻を斜め読みしたのですが、興味深い記事がありました。「官氏志九第十九」(魏書 一百一十三)の末尾に見える「一字名称への改姓記事」の一群です(少数ですが二字の姓も見えます)。

 北魏(386~535年)は中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国ですが(注②)、国内で中国化を目指す勢力と鮮卑族の風習を守ろうとする勢力による対立が続きました。孝文帝の漢化政策により鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用などが実施されました。

 この漢族風一字姓とは異なりますが、古田先生は倭国では中国風一字名称が採用され、『宋書』倭国伝に見える倭王の名前「讃」「珍」「済」「興」「武」がそうであると指摘しました。北魏においては漢族風一字姓への改姓が強力に推し進められたことが『魏書』「官氏志九第十九」に次のように記録されています。比較しやすいように、旧姓と改姓に「 」を付しました。

獻帝以兄為「紇骨」氏、後改為「胡」氏。
次兄為「普」氏、後改為「周」氏。
次兄為「拓拔」氏、後改為「長孫」氏。
弟為「達奚」氏、後改為「奚」氏。
次弟為「伊婁」氏、後改為「伊」氏。
次弟為「丘敦」氏、後改為「丘」氏。
次弟為「侯」氏、後改為「亥」氏。
七族之興、自此始也。
又命叔父之胤曰「乙旃」氏、後改為「叔孫」氏。
又命疏屬曰「車焜」氏、後改為「車」氏。
凡與帝室為十姓、百世不通婚。太和以前、國之喪葬祠禮、非十族不得與也。高祖革之、各以職司從事。
神元皇帝時、餘部諸姓内入者。
「丘穆陵」氏、後改為「穆」氏。
「步六孤」氏、後改為「陸」氏。
「賀賴」氏、後改為「賀」氏。
「獨孤」氏、後改為「劉」氏。
「賀樓」氏、後改為「樓」氏。
「勿忸于」氏、後改為「於」氏。
「是連」氏、後改為「連」氏。
「僕蘭」氏、後改為「僕」氏。
「若干」氏、後改為「茍」氏。
「拔列」氏、後改為「梁」氏。
「撥略」氏、後改為「略」氏。
「若口引」氏、後改為「寇」氏。
「叱羅」氏、後改為「羅」氏。
「普陋茹」氏、後改為「茹」氏。
「賀葛」氏、後改為「葛」氏。
「是賁」氏、後改為「封」氏。
「阿伏於」氏、後改為「阿」氏。
「可地延」氏、後改為「延」氏。
「阿鹿桓」氏、後改為「鹿」氏。
「他駱拔」氏、後改為「駱」氏。
「薄奚」氏、後改為「薄」氏。
「烏丸」氏、後改為「桓」氏。
「素和」氏、後改為「和」氏。
「吐谷渾」氏、依舊「吐谷渾」氏。
「胡古口引」氏、後改為「侯」氏。
「賀若」氏、依舊「賀若」氏。
「谷渾」氏、後改為「渾」氏。
「匹婁」氏、後改為「婁」氏。
「俟力伐」氏、後改為「鮑」氏。
「吐伏盧」氏、後改為「盧」氏。
「牒云」氏、後改為「雲」氏。
「是雲」氏、後改為「是」氏。
「叱利」氏、後改為「利」氏。
「副呂」氏、後改為「副」氏。
「那」氏、依舊「那」氏。
「如羅」氏、後改為「如]氏。
「乞扶」氏、後改為「扶」氏。
「阿單」氏、後改為「單」氏。
「俟幾」氏、後改為「幾」氏。
「賀兒」氏、後改為「兒」氏。
「吐奚」氏、後改為「古」氏。
「出連」氏、後改為「畢」氏。
「庾」氏、依舊「庾」氏。
「賀拔」氏、後改為「何」氏。
「叱呂」氏、後改為「呂」氏。
「莫那婁」氏、後改為「莫」氏。
「奚斗盧」氏、後改為「索盧」氏。
「莫蘆」氏、後改為「蘆」氏。
「出大汗」氏、後改為「韓」氏。
「沒路真」氏、後改為「路」氏。
「扈地於」氏、後改為「扈」氏。
「莫輿」氏、後改為「輿」氏。
「紇干」氏、後改為「干」氏。
「俟伏斤」氏、後改為「伏」氏。
「是樓」氏、後改為「高」氏。
「尸突」氏、後改為「屈」氏。
「沓盧」氏、後改為「沓」氏。
「嗢石蘭」氏、後改為「石」氏。
「解枇」氏、後改為「解」氏。
「奇斤」氏、後改為「奇」氏。
「須卜」氏、後改為「卜」氏。
「丘林」氏、後改為「林」氏。
「大莫干」氏、後改為「郃」氏。
「爾綿」氏、後改為「綿」氏。
「蓋樓」氏、後改為「蓋」氏。
「素黎」氏、後改為「黎」氏。
「渴單」氏、後改為「單」氏。
「壹斗眷」氏、後改為「明」氏。
「叱門」氏、後改為「門」氏。
「宿六斤」氏、後改為「宿」氏。
「馥邗」氏、後改為「邗」氏。
「土難」氏、後改為「山」氏。
「屋引」氏、後改為「房」氏。
「樹洛于」氏、後改為「樹」氏。
「乙弗」氏、後改為「乙」氏。
東方宇文、慕容氏、即宣帝時東部,此二部最為強盛,別自有傳。
南方有「茂眷」氏、後改為「茂」氏。
「宥連」氏、後改為「雲」氏。
次南有「紇豆陵」氏、後改為「竇」氏。
「侯莫陳」氏、後改為「陳」氏。
「庫狄」氏、後改為「狄」氏。
「太洛稽」氏、後改為「稽」氏。
「柯拔」氏、後改為「柯」氏。
西方「尉遲」氏、後改為「尉」氏。
「步鹿根」氏、後改為「步」氏。
「破多羅」氏、後改為「潘」氏。
「叱干」氏、後改為「薛」氏。
「俟奴」氏、後改為「俟」氏。
「輾遲」氏、後改為「展」氏。
「費連」氏、後改為「費」氏。
「其連」氏、後改為「綦」氏。
「去斤」氏、後改為「艾」氏。
「渴侯」氏、後改為「緱」氏。
「叱盧」氏、後改為「祝」氏。
「和稽」氏、後改為「緩」氏。
「冤賴」氏、後改為「就」氏。
「嗢盆」氏、後改為「溫」氏。
「達勃」氏、後改為「褒」氏。
「獨孤渾」氏、後改為「杜」氏。
凡此諸部、其渠長皆自統眾,而尉遲已下不及賀蘭諸部氏。
北方「賀蘭」、後改為「賀」氏。
「鬱都甄」氏、後改為「甄」氏。
「紇奚」氏、後改為「嵇」氏。
「越勒」氏、後改為「越」氏。
「叱奴」氏、後改為「狼」氏。
「渴燭渾」氏、後改為「味」氏。
「庫褥官」氏、後改為「庫」氏。
「烏洛蘭」氏、後為「蘭」氏。
「一那蔞」氏、後改為「蔞」氏。
「羽弗」氏、後改為「羽」氏。

 この改姓リストを見ると、国を挙げて中国化を進めたことがわかります。北方系異民族である鮮卑族の王朝が漢民族の文化を積極的に受け入れたという事実は、歴史現象としても興味深いものです。

 この中国化という視点で日本列島の動向を考えると、『宋書』倭国伝に見える倭王が中国風一字名称を採用したことは、五世紀の倭国(九州王朝)に於いて中国化が進んでいたのかもしれません。多利思北孤の時代(七世紀初頭)になると、「阿毎多利思北孤」と倭語の名前が『隋書』俀国伝に記されていますから、中国の天子に宛てた国書の自署名に中国宇一字名称ではなく、「阿毎多利思北孤」を使用したと考えざるを得ません。従って、この時代には倭国の中国化は進まず、倭国文化(万葉仮名、舞楽など)が花開いたのではないでしょうか。

(注)
①『魏書』(一)~(三)、百衲本二十四史、台湾商務印書館。
②国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏と区別するため、通常はこの拓跋氏の魏は「北魏」と呼ばれている。


第3325話 2024/07/15

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (8)

 孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」の有力候補地として、大阪天満宮境内に鎮座する「大将軍社」に注目しています。しかし、「大将軍」とはどのような神格なのかよくわかりません。そこで、従来説にとらわれることなく、古代史研究のテーマとして考えたところ、『宋書』倭国伝に記された倭王武の称号「安東大將軍倭國王」をエビデンスとできることに気づきました。

 『宋書』倭国伝には次の記事が見え、倭王武が自称していた「安東大將軍」を宋が承認しています。

 「興死、弟武立、自稱、使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」
「詔除武、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」

 わが国の古代史において、「大将軍」を名乗った最も著名な人物こそ九州王朝(倭国)の倭王武ではないでしょうか。『宋書』倭国伝には武の上表文が掲載されており、九州を拠点として朝鮮半島(海北)や日本列島(東西)各地へ侵攻したと主張しています。それは次の有名な一文です。

 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

 このことを宋が承認した結果、自称した七国のうち、百済を除く六国の支配者であることを示す称号「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」を宋は認めたわけです。
そこで次に問題となるのが、倭王武が征服した東の「毛人五十五國」に難波が含まれているのかどうかです。結論から言えば、含まれていると考えざるを得ません。次の考古学事実がそのことを証言しています。

 「古田史学の会」が2019年6月16日に開催した古代史講演会(大阪市、i-siteなんば)で、南秀雄さん(大阪市文化財協会)により「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」という講演がなされ、古墳時代(5世紀頃)の難波について次のように紹介されました(注)。ちなみに、南さんは30年以上にわたり難波を発掘してきた考古学者で、広範な出土事実に基づく説得力ある講演でした。

《発表レジュメより転載》
❶ 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

❷ 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

❸ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

❹ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(十六棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約千二百人/年の食料備蓄が可能。(後略)

 以上の考古学的出土事実から、九州王朝(倭国)が倭王武(安東大将軍)の時代(5世紀)に難波へ進出し、博多湾岸の比恵・那珂遺跡に匹敵する規模の都市化を推し進め、列島最大の法円坂倉庫群を造営したことがうかがえます。(つづく)

(注)古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3314話 2024/06/29

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (5)

 今日は博多に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。二十数年ぶりに開催される久留米高専化学科11期(昭和51年卒)の同窓会に参加することと、明日、久留米大学公開講座で講演するため(注①)、帰郷します。わたしが久留米大学講演のために帰郷することを知った旧友が、地元の同窓生に呼びかけて、博多で同窓会を開催することになりました。聞けば、全国各地に散らばった同窓生も幾人か出席するようで、ありがたいことです。

 織田信長と摂津石山本願寺との合戦布陣図『石山古城図』(注②)に見える、長柄地域の天満山に置かれた「織田信長本陣」の文字にわたしは注目しました。織田軍の本陣が置かれた地ですから、周囲を見渡すことができる高台であり、川を距てた南の上町台地にある摂津石山本願寺を展望でき、かつ、距離も遠からず、近からずという地勢的に絶妙な場所であったことがうかがえます。そこで、天満山があったと思われる位置を現代の地図と比較したところ、大阪天満宮が鎮座している所のようです。大阪を代表する神社の一つであり、それに相応しい選地がなされたものと思われますから、織田軍本陣が置かれた地と考えてよいでしょう。
そこで、大阪天満宮のホームページを調べたところ、もともと当地には孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を守護するため、白雉元年(650)に大将軍社が創建され、平安時代には菅原道真が大宰府下向の途中、当神社に参詣したと伝わっています(注③)。

 この伝承で注目されるのが、白雉元年に大将軍社が創建されたという部分です。白雉元年とありますから、本来は九州年号の白雉元年(652年)のときと思われ、前期難波宮の創建時に、〝北の守り〟として、「大将軍」と呼ばれた有力者がこの地(難波長柄)に居館を構えたものと思われます。すなわち、九州王朝の〝東の都〟難波京(前期難波宮)北方の防衛を命じられた九州王朝(倭国)の配下の「大将軍」の居館が天満山に造営され、後に大将軍社として祀られたのではないでしょうか。従って、この難波長柄の「大将軍」の居館こそ、今の大阪天満宮の地にあった、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないでしょうか。

 しかしながらこの仮説には、当地が「天満山」と呼ばれるに相応しい高台なのか今のところ不明ですし、また、現在の「豊崎」地名の場所とは異なるという弱点があります。梅雨があけたら現地調査します。(つづく)

(注)
①久留米大学公開講座2024年。【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 正木裕 氏 王朝交代と隼人
□会場 久留米大学御井キャンパス
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③大阪天満宮のHPには次のように説明されている。
https://osakatemmangu.or.jp/about
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

 平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。

 これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。

 大将軍社

 菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。


第3312話 2024/06/27

関川尚巧(元橿原考古学研究所)さん

           との考古談義

 一昨日、奈良市で関川尚巧(せきかわ ひさよし)さんと長時間考古学・古代史談義をしました。関川さんは元橿原考古学研究所の考古学者で、学生時代から40年近く大和・飛鳥を発掘されてきた方です。今でも、発掘の現地指導をしているそうです。そうした永年の経験に基づいた〝大和に邪馬台国はなかった〟とする『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(注①)の著者でもあります。「古田史学の会」でも講演していただきました。

 今回の面談では、「多元的古代研究会」「古田史学の会」創立30周年記念東京講演会(日程・会場は未定)での講演依頼とその打ち合わせを行いました。「古田史学の会」からは正木事務局長・竹村事務局次長・上田事務局員とわたしが出席し、打ち合わせ後は三時間にわたり考古学や古代史について歓談が続きました。

 関川さんの遺跡発掘体験談の数々をお聞きしましたが、なかでも太安萬侶墓発掘時(注②)のエピソードはとても興味深いものでした。同墓は茶畑開墾中に発見されたとのことで、そのとき墓誌が移動したため、墓誌本来の位置が不明だったのですが、墓誌の破片の一部が本来の場所に残っていることを関川さんが発見され、その破片の場所が本来の墓誌の位置であることを確定できたとのことでした。この他にも、飛鳥や奈良県から出土した多くの有名な遺跡発掘調査に関川さんが携わられていることをうかがうことができました。

 ちなみに、「邪馬台国」畿内説は全く成立せず、北部九州であるという点は、わたしたちと完全に意見が一致したことは言うまでもありません。氏の考古学に対する情熱や真摯な学問精神は共感するところ大でした。関東の皆さんにも関川さんの講演を聴いて頂きたいと願っています。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②1979年(昭和54年)、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土した。


第3293話 2024/05/29

『東京古田会ニュース』216号の紹介

『東京古田会ニュース』216号が届きました。拙稿「古代都市成立の指標 ―都城論争の収斂を求めて―」を掲載していただきました。同稿では、昨年11月の八王子セミナーで発表した律令制都城の〝絶対条件〟として次の5点を示し、少なくともこれら全てを満たす七世紀の都城は難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけと結論づけました(注①)。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

さらに「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の十基準〟(注②)などを紹介しました。そして、日本古代史が空理空論でなければ、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と、誰もが知りうる「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るべきと主張しました。
『東京古田会ニュース』216号掲載記事で注目したのが、つぎの遺跡巡り旅行記でした。

○大宮姫伝承を訪ねて 東久留米市 村田智加子
○和田家文書をみちづれに「和田家文書と国東半島」の旅行に参加して 白井市 讃井優子

当地の状況が目に浮かぶような旅行記です。なかでも村田さんが紹介された鹿児島県の大宮姫伝承の報告は懐かしく拝読しました。わたしは学生時代に指宿市や枕崎市を旅行した経験もあり、初めて書いた長文の論文が「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(注③)だったこともあり、とても印象深い旅行記でした。
会員の皆さんからの『古田史学会報』への遺跡巡り報告の投稿をお待ちしています。

(注)
①同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通り。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
②Vere Gordon Childe (1950),The Urban Revolution. The Town Planning Review 21.
③古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3282話 2024/05/07

難波宮湧水施設出土「謹啓」木簡の証言

 泉論文(注①)では、下層遺跡から出土した「贄」木簡を孝徳朝宮殿の根拠としたのですが、前期難波宮北西の湧水施設(SG301)から出土した次の「謹啓」木簡(注②)も自説(前期難波宮天武朝説)の根拠としました。

・「謹啓」 ・「*□然而」 *□[初カ](遺物番号533)

 同水利施設は、井戸がなかった前期難波宮の水利施設と見なされ、七世紀中葉の造営であることが出土土器編年(須恵器坏G、坏H)により判明しました。さらに年輪年代測定により、湧水施設の木枠の伐採年が634年であったことも、「洛中洛外日記」で紹介した通りです(注③)。

 この従来説に対して、泉論文では、「謹啓」木簡は七世紀後葉の飛鳥池や石神遺跡の天武朝の遺構から出土しており、難波宮出土の「謹啓」木簡も天武朝のものと理解できるとされました。そして、「謹啓」木簡の出土層位(第7B層)は水利施設の最下層であり、難波宮水利施設が天武朝(七世紀後葉)に造営された証拠とされました。従って、この水利施設を利用した前期難波宮は天武朝の宮殿であり、その下の下層遺跡を孝徳朝の宮殿としたわけです。

 しかしながら、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、この「謹啓」木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となります。すなわち、飛鳥に居した近畿天皇家の天武らよりもはやく九州王朝の難波宮では「謹啓」という用語が使用されていたと理解することができるからです。泉論文の「謹啓」木簡の証言は、九州王朝が採用していた「謹啓」という用語を、七世紀後葉に実力者となった天武らが飛鳥で使用開始したことに気づかせてくれたという意味で、貴重なものとわたしは評価しています。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3278話(2024/05/01)〝泉論文と前期難波宮造営時期のエビデンス〟


第3280話 2024/05/05

難波宮西側谷出土

    「贄」「戊申年」木簡の証言

 泉論文(注①)で、孝徳朝宮殿の根拠とされた「贄」木簡(前期難波宮整地層直下の土壙SK10043出土)は、その北側約450mの地点から検出された東西方向の谷からも出土しています。出土層位は前期難波宮のゴミ捨て場跡と考えられており、その第16層から33点の木簡が出土しています(注②)。その中に次の表記を持つ木簡が特に注目されました。

 「委尓ア栗□□」(4号木簡) ※「尓ア」は贄(にえ)。
「戊申年」(11号木簡) ※戊申年は648年。

 泉論文では、土壙SK10043から出土した「贄」木簡とあわせて、隣接する二地点から「贄」木簡が出土したことは、その近傍に孝徳天皇の宮殿があった根拠としました。しかも「戊申年」(648年)木簡と伴出したことにより、下層遺跡の建物の造営が孝徳朝の頃とする根拠にもなりました。こうした指摘も、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 この点も、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、これらの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証とできることは前話で述べたとおりです。また、『伊予三島縁起』に見える「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申、日本国をご巡礼したまう。)は、九州王朝による難波宮造営のための「番匠」派遣記事であり、九州年号の「常色二年戊申」と難波宮出土「戊申年」木簡との年次(648年)の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するとの正木氏の指摘もあります(注③)。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ ―大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書― 図版編』大阪府文化財調査研究センター、2002年。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第3279話 2024/05/03

難波宮下層遺構出土の「贄」木簡の証言

 前期難波宮を天武朝による造営とする泉論文(注①)では、難波宮出土木簡に記された用語を根拠とした、前期難波宮整地層の下層遺構を孝徳朝の宮殿とする見解があります。今までにはなかった視点であり、興味深いものでした。それは前期難波宮整地層の直下に掘られた土壙SK10043から出土した次の木簡です。

「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」 (木簡番号0)

 東野治之氏の釈読によれば(注②)、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄(にえ)とのこと。贄とは天皇や神に捧げる供物であることから、同木簡が出土した土壙SK10043の近傍に天皇の居所が存在していたことを示唆し、それは孝徳天皇としか考えられないことから、下層遺構の建物こそが孝徳天皇の宮殿であると泉論文は結論づけています。従って、前期難波宮整地層上に造営された巨大宮殿は天武朝のものとしたわけです。

 『日本書紀』によれば、七世紀の難波に宮殿を最初に造営したのは孝徳天皇ですから、その天皇に捧げる「贄」木簡が出土した下層遺構の建物は孝徳天皇の宮殿と理解する他ありません。この泉論文の指摘は、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 しかし、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、遅くとも五世紀の「倭の五王」時代には九州王朝は難波に進出し、七世紀前葉には難波天王寺を創建(倭京二年・619年)していますから、七世紀前葉の下層遺構から、九州王朝の有力者に捧げられた「贄」木簡が出土しても不思議ではありません。むしろこの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証ではないでしょうか。泉論文の結論には反対ですが、優れた論文であると、わたしが評価した理由は正に下層遺構から出土した「贄」木簡の指摘にありました。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②東野治之「橋脚MP-2区SK 10043出土木簡について」『難波宮址の研究 第7』大阪市文化財協会、1981年。


第3276話 2024/04/24

「天皇」地名と天子宮の分布比較

 「天皇」地名が愛媛県東部に濃密分布していることについて、古代越智氏が九州王朝(倭国)の天子から、臣下としての「天皇」号を称することを許されたことが歴史的背景にあったためとする、多元的「天皇」併存説をわたしは発表しました。古田旧説によれば、九州王朝のナンバーワン天子の下のナンバーツー天皇を近畿天皇家は名乗っていたと考えられているのに対して、多元的「天皇」併存説は、臣下としての天皇を名乗った複数の有力氏族があったとする仮説です。
その痕跡として、愛媛県を筆頭として四国地方に「天皇」地名が濃密分布することを紹介しました(注①)。次の通りです。

【国内の「天皇」地名】
※〔未確認〕とあるものは、web上の地図では確認できなかったもので、存在しないということでは無い。
《四国以外》
宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
宮城県仙台市泉区野村天皇  ※当地に須賀神社がある。
福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇 ※当地に牛頭天皇神社がある。
愛知県安城市古井町天皇
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。
《四国》
徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。
香川県高松市林町天皇
香川県仲多度郡まんのう町四條天皇
愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
愛媛県西条市明理川(天皇) ※〔未確認〕
愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
愛媛県今治市朝倉天皇
高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
高知県香南市香我美町徳王子天皇 ※〔未確認〕
高知県香南市夜須町国光天皇

 以上の「天皇」地名が見つかりましたが、他方、九州と北海道には「天皇」地名がないとする文献もあります(注②)。北海道はともかく、九州にないことを不思議に思っていました。しかし、よくよく考えてみると、九州王朝の臣下としての多元的「天皇」併存説であれば、九州王朝の天子の直轄支配領域である九州に、「天皇」地名がないのは当然であることに気づきました。あるとすれば、それは「天皇」ではなく、「天子」地名ではないでしょうか。そうであれば、「天子宮(てんしぐう)」が熊本県北部を中心に分布していることが注目されます。管見では次の通りです。

○天子宮 熊本県菊池郡大津町森223
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町大字小田浦752-1
○平国天子宮 熊本県葦北郡津奈木町平国
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町乙千屋574
○小天(こあま)天子宮 熊本県玉名市天水町小天1170
○天子宮 熊本県玉名郡玉東町大字山口
○天子宮 熊本県玉名市玉東町木葉

 他方、佐賀県には「天子社」の分布が見られます(別途、紹介します)。これらは九州王朝の天子(阿毎多利思北孤か)に淵源するのではないかと想像していますが(注③)、残念ながら未だ決定的なエビデンスの発見や論証には至っていません。しかしながらこれらの特徴的な分布事実は、九州王朝の「天子」とその臣下としての多元的「天皇」併存説に整合するように思いますので、引き続き検討します。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟
②鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
③古賀達也「洛中洛外日記」136話(2007/08/12)〝天子宮〟


第3275話 2024/04/22

『九州倭国通信』214号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.214号が届きましたので、紹介します。同号には拙稿「筑前地誌で探る卑弥呼の墓」を掲載していただきました。古田先生は卑弥呼の墓の有力候補地として、弥生遺跡として著名な須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本)の山上にある熊野神社社殿下とされました(注①)。拙論では、この古田説を補強すべく、『筑前国続風土記拾遺』(注②)に見える次の記事を紹介しました。

 「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産神也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、三二〇~三二一頁。

 ここに記された皇后峯の山頂が現・熊野神社に当たり、卑弥呼のことが神功皇后伝承として伝えられているとしました。
同号冒頭には大宰府蔵司遺跡の写真が掲載されており、本年二月十七日に開催された発掘調査報告会(九州歴史資料館主催)について、工藤常泰さん(九州古代史の会・会長)より詳細な報告がなされており、勉強になりました。なかでも、蔵司地区から出土した大型建物(479.7㎡)が政庁正殿よりも巨大で、大宰府官衙群中最大です。その用途として、「大宰府財政を束ねた中枢施設」や「外国の使節をもてなした饗応施設」とする諸説が出されているとのことです。九州王朝説に立った場合、どのような仮説が成立するのか楽しみなテーマです。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。
②広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(一九九三年)。


第3270話 2024/04/14

九州王朝(天子)の「親藩」諸国の天皇たち

 わたしは毎月の第二土曜日に、各地の古田学派研究者とリモートで勉強会を開催しています。その三月と四月の勉強会で、九州王朝の天子の下に複数の天皇号を称した有力氏族が併存したとする仮説を恐る恐る発表し、参加した研究者にご批判を要請しました。幸いにも概ね好評でしたが、とても興味深く重要な指摘もありました。

 従来の古田旧説では、倭国のトップとしての九州王朝の天子と、ナンバーツーとしての大和の天皇がいたとされてきましたが、今回の拙論は、大和以外にも天皇号を許された有力氏族が複数併存したというものです。その候補として越智国(愛媛県)の氏族の越智氏(注①)がいます。野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」や『大安寺伽藍縁起』に見える「仲天皇」もその候補と考えています。その他に、『日本書紀』天武紀に見える「吉備大宰(石川王)」が仕えた吉備天皇がいたのではないかと推定しています。

 こうしたことを昨日のリモート勉強会で述べたところ、参加された奥田さん(古田史学の会・会員、埼玉県)から次の指摘がありました。

〝天皇号を認められたのは有力氏族というだけではなく、九州王朝の天子と血縁関係がある、言わば江戸幕府の親藩に相当するような氏族だったのではないか〟

 この指摘には、なるほどと思いました。実は越智氏は天孫降臨以来の天孫族を始祖とする伝承・系図(注②)を持つ氏族ですから、奥田さんの指摘に適っています。それでは吉備の豪族はどうでしょうか。名前に「吉備」を持つ有名な人物に吉備津彦(注③)がいますので、その先祖が天孫族かどうかを調べてみました。

 『日本書紀』孝霊紀によれば、吉備津彦命は孝霊天皇皇子の彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコノミコト)の亦の名とされていますから、天孫系の人物と見ることができますが、吉備津彦命は「亦の名」とありますから、本来は別人で、吉備の元々の王者が吉備津彦であり、それを滅ぼした天孫族の彦五十狭芹彦命と習合させたのではないかと想像しています。

 いずれにしても彦五十狭芹彦命は天孫族となりますから、九州王朝の「親藩」諸国の有力氏族として、天皇を名乗ることが許されたと考えてみたいところです。新しい仮説ですので、断定することなく、慎重に研究を進めたいと思います。

(注)
①『大安寺伽藍縁起』に「袁智天皇」が見える。愛媛県に少なからず現存する「天皇」地名なども拙論の傍証とする。次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
同「多元的『天皇』号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇―」『古代に真実を求めて』27集、明石書店、2024年。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③ウィキペディアには次の説明がある。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。
【名称】
『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。
『日本書紀』
本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)
『古事記』
本の名:比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
そのほか、文献では「キビツヒコ」を「吉備都彦」とする表記も見られる。
第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)との間に生まれた皇子である。
同母兄弟姉妹として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。
子に関して、『日本書紀』『古事記』には記載はない。

【記録】

『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。

同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺している。

『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという。崇神天皇段では派遣の説話はない。