九州王朝(倭国)一覧

第1921話 2019/06/14

「難波複都」関連年表の作成(2)

 『日本書紀』に見える次の「大道」記事の考察により、「難波複都」関連年表の作成が可能ではないかとわたしは考えました。

○「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
○「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 詳論に入る前に、難波複都関連史を次のⅣ期に分け、その概略を押さえておきたいと思います。

Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期
Ⅱ期(七世紀初頭〜652年) 狭山池・難波天王寺(四天王寺)・難波複都造営期
Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686) 前期難波宮の時代(倭京・太宰府と難波京の両京制)
Ⅳ期(朱鳥元年・686〜) 前期難波宮焼失以後

 Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃)は多利思北孤の時代に相当し、九州王朝(倭国)が摂津・河内を制圧した時期です。冨川ケイ子さんの研究によれば、『日本書紀』に見える「河内戦争」で、河内の権力者である捕鳥部萬(ととりべのよろず)を殺し、九州王朝(倭国)が当地を直轄支配領域にしたとされます。
 Ⅱ期(七世紀初頭〜652年)は、九州王朝(倭国)が難波の都市化を進めた時期で、難波複都造営に先立ち、人口急増に備えて食糧増産のため古代では最大規模の灌漑施設として狭山池を築造し(616年、出土木樋の年輪年代測定による)、難波天王寺(四天王寺)を創建(倭京二年・619年。『二中歴』年代歴による)しています。
 九州年号(倭国年号)の白雉元年(652)には、国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮が完成します。前期難波宮で執り行われた大規模な白雉改元儀式の様子は、『日本書紀』には二年ずらされて孝徳天皇白雉元年(650)二月条に転用されています。また、前期難波宮造営のために工人(番匠)が難波に集められるのですが、その史料痕跡が「番匠の初め」「常色二年(648)」として、『伊予大三島縁起』に記されていることを正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見されています。
 Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686)は前期難波宮の時代で、九州王朝(倭国)が倭京(太宰府)と難波京の両京制を採用した時代です。全国に評制を施行し(「難波朝廷、天下立評」『皇大神宮儀式帳』による)、前期難波宮における中央集権的律令体制を構築した九州王朝最盛期から、白村江の敗戦(663年)により国力を急速に失い、近畿天皇家との力関係が劇的に変化した激動の時代です。
 また、白鳳十年(670)には全国的な戸籍である庚午年籍も造籍されていますが、この造籍を実施したのは難波京なのか近江大津宮の近江朝廷なのか、あるいは唐軍が進駐していた太宰府なのかという論争が古田学派では続いており、まだ決着を見ていません。
 そして、九州年号(倭国年号)の朱雀三年(686)正月に前期難波宮は焼失し、同年七月には朱鳥に改元されます。こうして、前期難波宮の時代と九州王朝(倭国)の両京制は終焉しました。
 Ⅳ期(朱鳥元年・686〜)は前期難波宮焼失以後の時代です。難波は歴史の表舞台から遠ざかり、『日本書紀』には断片的に登場するだけです。そして、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替がなされ、大和朝廷は大宝年号を建元(701年)します。この後、難波が脚光を浴びるのは、聖武天皇による後期難波宮の造営と難波遷都を待たなければなりません。(つづく)


第1918話 2019/06/10

対馬の「上県郡」「下県郡」逆転の謎(2)

 対馬の上県郡・下県郡とが『和名抄』では上下逆転しており、この逆転した姿が本来の地名ではないかと考えています。10世紀に成立した『和名抄』は9世紀段階の古い記録に基づいて編纂されていると考えられていますが、九州地方の地名表記が他地域とは異なっており、律令制下の大宰府の存在がそうした相違を発生させたとされ、次のように説明されています。

 「『和名抄』の記す田積は町の単位にとどまらず、段・歩に及ぶ詳細なものであり、この詳細なことは以上の七種の史料のうちでも独特のものと言うことができる。この数はおそらく架空のものではなく、しかるべき資料により記録したものと思われる。そしてこの点、九州の諸国にはまったく段・歩の記載がなく、町までで終わっているが、これは大宰府の存在を考えると、律令体制下九州だけが本州・四国の記載と相違していることは意味のあることと思われる。」『古代の日本 9 研究資料』(角川書店、昭和46年。332頁)

 こうした史料事実から、対馬の上下逆転現象は九州王朝にその淵源があるのではないでしょうか。そのため、『和名抄』の九州地方の地名表記が他地域と異なっているのではないでしょうか。
 それでは次に問題となるのが、この逆転現象がいつ頃発生したのかという点です。九世紀に編纂された『延喜式』では既に上島を上県郡、下島を下県郡と記録されており、従って上下逆転現象の発生は九世紀よりも前のこととなります。(つづく)


第1917話 2019/06/09

対馬の「上県郡」「下県郡」逆転の謎(1)

 天道法師研究のため、対馬関連史料を改めて読み直していて、以前から疑問に思っていたテーマを思い出しましたので紹介します。それは対馬の上県郡と下県郡という地名が逆転した古代史料の存在です。現在の行政地名では対馬の北側を上島、南側を下島と称されていますが、以前は「上県郡」「下県郡」と呼ばれていました。この地名は六世紀以前にまで遡る古代の行政単位「県(あがた)」に由来するものと考えられます。ところが、『和名抄』ではこの「上」と「下」が逆転して記されているのです。
 『和名抄』は源順(911〜983)が904〜938年頃に編纂した「辞書」で、その中には当時の地名が国・郡・郷まで記されており、古代地名研究における第一級史料とされているものです。その『和名抄』に記された各郡内の郷名が、対馬の上県郡・下県郡にもあるのですが、現在の上県郡・下県郡とは逆転して記載されているのです。すなわち、北側の上島を「下県郡」、南にある下島を「上県郡」とされています。
 この『和名抄』の対馬上下逆転現象は江戸時代には問題視されており、たとえば『太宰管内志』(伊東常足著。歴史図書社、昭和44年)もこの事実を指摘しています。

 「○豆酘郷 今ノ下縣
 〔和名抄〕に上縣郡豆酘郷あり豆酘は都々とよむべし」(下巻117頁)
 「常足今按ずるに今の上縣を以て古の下縣とし今の下縣を以て古の上縣と定むる説はなかなかひがことなるべし」(下巻136頁)

 現在の研究者は『和名抄』の〝単純ミス〟と捉えているようで、この問題を深く追究した研究をわたしは知りません。しかし、この『和名抄』の上下逆転現象は編者の誤りではなく、源順が依拠した元史料にそのようにあったのではないかと考えています。それは次のような理由からです。

① 古代対馬国の国府や国分寺は南の厳原(いずはら)にあり、権力所在地の関係からすれば、南の下島が「上」であり、北の上島は「下」となる。
② 九州王朝時代の太宰府を起点とした古代官道「北海道」の行路(朝鮮半島南岸→対馬〔上島→下島〕→壱岐→筑紫。西村秀己説)からみれば、上島から下島に〝上る〟ということになる。
③ 日本海へ流れる海流の流れからも、南側が〝上流〟である。

 以上の地理的事実は『和名抄』の上下逆転状況こそ本来の地名と考えざるを得ないのです。(つづく)


第1916話 2019/06/08

天道法師の従者、「主藤」「本石」姓の分布

 中川延良著『楽郊紀聞』に、天道法師が都から帰るときに同行した従者として主藤氏と本石氏のことが記されていました。そこで、両家が現在でも当地(対馬市豆酘)に残っているのかをインターネットで調査してみました。その分布状況は次の通りでした。

「本石」姓の分布
1 長崎県 対馬市 豆酘(約110人)
2 福岡県 朝倉市 堤(約30人)
2 鹿児島県 伊佐市 宮人(約30人)
4 宮崎県 えびの市 末永(約20人)
5 長崎県 東彼杵郡波佐見町 皿山郷(約20人)
5 山形県 長井市 九野本(約20人)
7 佐賀県 武雄市 志久(約10人)
8 広島県 神石郡神石高原町 時安(約10人)
8 福岡県 福岡市博多区 吉塚(約10人)
8 神奈川県 横須賀市 森崎(約10人)

「主藤」姓の分布
1 長崎県 対馬市 豆酘(約200人)
2 宮城県 登米市 桜岡鈴根(約30人)
3 宮城県 登米市 桜岡大又(約30人)
4 長崎県 対馬市 厳原東里(約20人)
5 宮城県 登米市 錦織石倉(約10人)
6 千葉県 松戸市 上本郷(約10人)
6 宮城県 仙台市宮城野区 鶴ケ谷(約10人)
6 北海道 函館市 港町(約10人)
6 千葉県 白井市 大山口(約10人)
6 宮城県 登米市 鰐丸(約10人)
 ※対馬市の主藤さんは「すとう」、その他は「しゅとう」と訓むようです。

 このデータから、本石さんも主藤さんも圧倒的に対馬の豆酘に濃密分布していることがわかります。この現代までも続く両家が天道法師との関係を伝承していることは、天道法師の実在とその伝承を史実の反映とするわたしの理解を支持するものではないでしょうか。
 さらにわたしが注目したのが、福岡県朝倉市が本石姓の二番目の濃密分布を示していることです。朝倉市といえば太宰府市の南方にあり、九州王朝の中枢領域の地です。『楽郊紀聞』には「本石氏は、二度目の上京の時に、一軒従ひ来る。夫より段々分家したると也。」とあるように、対馬と太宰府を行き来していることです。その太宰府の近傍にある朝倉市に本石姓の濃密分布があるという事実も、天道法師が行った都が奈良の藤原宮ではなく、九州王朝の都である太宰府とするわたしの理解を支持しているのです。


第1915話 2019/06/07

天道法師の従者の子孫

 天道法師伝承の文献調査を進めています。江戸時代末期(安政六年・1859年)に成立した聞書集、対馬の人、中川延良著の『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)を久しぶりに精読したところ、天道法師が都から帰るときに同行した従者の家系についての次の記述がありました。

 「同村(豆酘郷)、観音住持が家は、主藤氏也。外の供僧の内に、本石氏あり。此両氏は、天童法師京より帰る時随ひ来りし家なりと云。年代詳(つまびらか)ならずといへ共、天智天皇といへば、先(まづ)格別の違ひなし、と住持申せしと也。此住持が家は、佐護村の観音住持が家と、両家は寺社奉行支配の由也。」(東洋文庫『楽郊紀聞』2、平凡社。110頁)

 天道法師出身地の豆酘で「観音住持」する主藤家と本石家が、天道法師帰郷時に都(太宰府)から随った従者(僧か)の末裔とされています。幕末頃の記録『楽郊紀聞』に記されているのですから、現在も両家の御子孫が当地におられるのではないでしょうか。
 なお、「年代詳(つまびらか)ならずといへ共、天智天皇といへば、先(まづ)格別の違ひなし」とあることから、天智天皇の頃というだけで、詳細な帰郷年次などは既に両家にも伝わっていないようです。
 更に次の記事が続きます。

 「同じ住持は、天童最初上京の時に従ひ来る。本石氏は、二度目の上京の時に、一軒従ひ来る。夫より段々分家したると也。」(同、110頁)

 天道法師伝承では上京は一回だけですが、ここでは「二度」と記されています。やはり現地調査が必要なようです。


第1914話 2019/06/04

天道法師、天皇病気平癒祈祷の年次

 天道法師伝承を記した「天道法師縁起」と『対州神社誌』ですが、そのハイライトシーンともいうべき天皇の病気平癒祈祷の年次について、異なった所伝を記しています。対馬藩の命により編纂された「天道法師縁起」では「大宝三年癸卯」(703年)、『対州神社誌』では元正天皇の「霊亀二丙辰年」(716年)としています。いずれも大和朝廷の年号表記ですから、先に行った「白鳳」「朱鳥」のように九州年号の本来型と後代改変型との比較による史料批判という方法がとれません。そのため、どちらがより妥当かという相対評価しかできません。そのことを前提に考察を加えてみます。
 結論から言いますと、「大宝三年」(703年)説がより妥当とわたしは考えていますが、その理由は次の通りです。

①「大宝三年」(703年)であれば、九州王朝の都、太宰府に筑紫君薩野馬がいたとする研究(正木裕説)があり、その病気平癒祈祷が可能な時代である。
②「霊亀二年」(716年)では九州王朝は滅びており(最後の九州年号「大長」の終わりが同九年で西暦712年)、太宰府に九州王朝の天子はいない。
③「霊亀二年」(716年)であれば元正天皇は大和の藤原宮におり、対馬の天道法師が招聘されたということは考えにくい。この時代、大和には高名な僧侶は多数いるので。

 以上のような理由により、天道法師の平癒祈祷は大宝三年とするのが穏当です。そうすると、『対州神社誌』に記された朱鳥六年の天道童子上洛記事と大宝三年の対馬帰郷記事はどのように考えるべきでしょうか。
 わたしは「天道法師縁起」と『対州神社誌』に記された天道法師伝承を次のように復元してみました。

○白鳳十三年(673年) 天道法師誕生
○朱鳥六年(691年) 天道法師19歳のとき、宝満山で仏道修行のため九州王朝の都、太宰府へ行く。
○大宝三年(703年、九州年号の大化九年) 天道法師31歳のとき、九州王朝の天子・薩野馬の病気平癒祈祷を行う。この年、対馬に帰郷。

 おおよそ以上のような生涯ではないでしょうか。ただ、没年伝承が遺されていない点が不思議です。古代対馬を代表するような僧侶、天道法師であれば、その没年伝承は残りそうなものです。子孫や弟子がいなかったためかもしれません。
 これまで天道法師伝承は、たとえば対馬研究の第一人者である永留久恵氏の名著『海神と天神 対馬の風土と神々』(白水社、1988年)には次のように説明されています。

 「対馬神道の強烈な個性を示した天道信仰は、中世の神仏習合によって形成されたものであって、その内容にはいろいろの要素が混交している。」(104頁)
 「これらは本来神話として祭祀の起源を説いたものと思われるが、仏教との習合によって変化し、人間臭い縁起物になったのである。天道法師縁起が作られたのはおそらく中世のことと思われるが、その根底には古い神話があったはずである。」(367頁)

 このように天道法師伝承は神話を淵源として中世に成立したものとされ、史実の反映とはとらえられていません。しかし、今回の史料批判により、九州王朝末期の対馬出身で宝満山で修行した僧侶「天道」の伝承と見ることができるのです。現地調査や史料探索により、更に詳しい天道法師伝承を復元することもできるのではないでしょうか。


第1911話 2019/06/01

対馬の天道法師伝承は史実か

 7月14日(日)に行う久留米大学での公開講座の準備のため、九州地方の寺社縁起調査として『修験道史料集Ⅱ』(五来重編)に収録されている対馬の「天道法師縁起」を三十年ぶりに読みました。当時はその荒唐無稽な事績や後代改変型の九州年号(白鳳二年癸酉・673年)などが記されていることから史実と見なせず、深く研究することはありませんでした。ところが、今回読み直してみると「天道法師縁起」は歴史事実を反映していることに気づきました。
 「天道法師縁起」に見える天道法師の生涯で特筆された記事は、「天武天皇白鳳二年癸酉」(673年)に「対馬豆酘郡内院村」(長崎県対馬市厳原町豆酘)で生まれ、「大宝三年癸卯」(703年)に天皇の病気平癒祈祷のため都に上り、その成功により褒美(対馬島民の貢献免除など)をもらったという事などです。この中でわたしが注目したのが、天道法師の都へ向う道程でした。
 「天皇不予(病気)」により朝廷から要請されて、天道法師は対馬から都に上るのですが、その行程は対馬「内院浮津浦之坂上」から壱岐「壹州小城山」へ、そして筑前「筑州寳満嶽」、「帝都金門(禁門)」へと記されています。わたしはこの「筑州寳満嶽」からいきなり「帝都金門(禁門)」、すなわち大和の藤原宮まで途中経過無しで向かう行程記事に疑問を感じ、この「帝都金門(禁門)」とは九州王朝の帝都「太宰府」のことではないかと気づいたのです。そうであれば、対馬→壱岐→宝満山→太宰府となり、行程に無理はありません。
 更に近年の正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究により、九州王朝最後の天子・筑紫君薩野馬は大宝三年(703年、九州年号の大化九年)頃には太宰府にいたとされています。従って、大宝三年の「天皇不予」とは大和朝廷の文武天皇のことではなく、九州王朝の天子・薩野馬のこととなるのです。ちなみに、『続日本紀』大宝三年条には文武天皇が病気になったという記事はありません。
 このように、対馬の「天道法師」伝承は史実の反映である可能性が高いことにわたしは気づいたのです。(つづく)


第1910話 2019/05/30

「日出ずる国」の天子と大統領(2)

 トランプ大統領が言われた「日出ずる国」の出典は『隋書』国伝に記された九州王朝の天子、多利思北孤の国書の次の記事です。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 多利思北孤自らの国書の文面ですから、当時の倭国は「日出ずる處」にあると倭国側が認識していたことを示しているのですが、実はそれほど簡単な問題ではないと古田先生は考えておられました。というのも、倭国(九州島や日本列島)から太陽は昇らず、はるか東の太平洋の向こう側から昇ることは倭人であれば周知の事実ですから、ここでいう「日出ずる處」は九州島や日本列島のことではないのではないかと古田先生は考えておられました。
 『三国志』倭人伝によれば、倭人は東南へ「船行一年」(一倍年歴の半年に相当)で中南米にあった「裸国」「黒歯国」に行っていたことが記されており、太陽は「裸国」「黒歯国」の東から昇ることを倭人は知っていたはずです。従って、多利思北孤が自らの国を「日出ずる處」と言うとき、その領域は太平洋の東にある〝太陽が昇る処の「裸国」「黒歯国」〟をも含む広大なものと認識していたはずと古田先生はされました。
 そのように考えると、『隋書』に見える国の領域を表した次の記事の意味が変わるかもしれません。

 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」
【読み下し文】其の國境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。

 この「東西五月行」が日本列島から中南米の「裸国」「黒歯国」へ向かう際の所用月数かもしれません。
 今回、紹介した古田先生の考えが正しければ、トランプ大統領のアメリカ合衆国を含む北米・中南米こそが九州王朝・多利思北孤にとっての「日出ずる国」ということになりそうですが、いかがでしょうか。


第1909話 2019/05/29

「日出ずる国」の天子と大統領(1)

 アメリカ合衆国のトランプ大統領が来日され、そのスピーチで万葉集や万葉歌人、そして「日出ずる国」などの日本古代史ではお馴染みの言葉を使われました。外交交渉においても、それぞれの国のトップが互いの国の歴史や文化を尊重することは大切と改めて思いました(仮にリップサービスであったとしても)。
 この「日出ずる国」の出典は『隋書』国(たいこく)伝の次の文章です。※この「」は「大委」(たいゐ)の一字表記。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 大和朝廷一元史観による通説や歴史教科書では、聖徳太子による倭国(日本)と隋国(中国)との対等外交を著した国書とされています。現在、中国との「貿易戦争」を戦っているトランプ大統領が、古代日本の中国への対等外交の際に用いられた国書の意味や背景を理解した上で、「日出ずる国」という言葉を用いたとすれば、かなり意味深長です。
この国書をもらった隋の皇帝(煬帝)は気分を害したらしく、次のような文が続きます。

 「帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
【読み下し文】帝、これを覧(み)て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蠻夷の書に無禮あり。復(ま)た以て聞くなかれ。」と。

 中華思想により世界に天子は自分一人でなければならないと煬帝は思っていますから、「日出ずる處の天子」などと名乗る国書に激怒するのはよくわかります。
 古田説(九州王朝説)では、この「日出ずる處の天子」は聖徳太子ではなく九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のことで、その国には阿蘇山が噴火していると『隋書』には記されています。この『隋書』の記述はどう控えめに読んでも大和の聖徳太子や推古天皇のことではありません。何よりも「阿毎の多利思北孤」という名前の天皇は近畿天皇家にはいません。ちなみに、多利思北孤の奥さんの名前は「キミ」、太子は「利歌彌多弗利」と記されています。もちろんこのような名前の妻や子供を持つ天皇は近畿天皇家にはいません。
 阿蘇山の噴火を隋使は見ており、その情景が次のように記されています。

 「有阿蘇山、其石無故火起接天者」
【読み下し文】阿蘇山あり。その石、故無くして火を起こし、天に接す。

 この表現は実際に阿蘇山の噴火を見ていなければ書けないリアルなものです。そしてこの国には昔「卑彌呼」が女王として君臨したことも記されています。

 「有女子、名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王。」
【読み下し文】女子あり、名は卑彌呼。鬼道を以て能(よ)く衆を惑わす。ここに於いて國の人、共立して王と爲す。

 このように『隋書』の一連の記事は、イ妥国を女王卑彌呼(『三国志』倭人伝の邪馬壹国。博多湾岸にあった倭国の中心国)の時代から続いた、阿蘇山がある九州の国であると述べているのです。普通に文章読解力や土地勘のある日本人なら、そのようにしか読めないでしょう。ところが日本の古代史学界ではこの記事が「大和朝廷(奈良県)」の記事に見えてしまうというのですから、一元史観の宿痾は深刻です。(つづく)


第1908話 2019/05/26

「釆女氏塋域碑」の碑文「四千代」について

 今月の「古田史学の会」関西例会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より「釆女氏塋域碑」(己丑年、689年)も九州王朝系のものであり、そこに記された「飛鳥浄原大朝庭」を太宰府飛鳥とする見解が発表されました。
 河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土したとされる「釆女氏塋域碑」は行方不明となり、次のような江戸時代の碑文拓本が残されています。

《釆女氏塋域碑》
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。

※現存唯一の真拓(小杉文庫蔵拓本。現在は静岡県立美術館蔵)による。

碑文中の采女竹良の墓所「四千代」という面積は当地に隣接する用明陵、推古陵、聖徳太子陵よりも広いことから、近畿天皇家の官僚のものではないとして、采女竹良を九州王朝(飛鳥浄原大朝廷)が大弁官に任命したものであり、その「飛鳥浄原大朝廷」も太宰府のこととされました。
 「四千代」という面積は「八町」(一町は106m四方)に相当し、「四千代」という広大な墓所は従来の研究でも問題視されてきました。そのため、「四千代」とする論者は采女竹良の一族の墓所と理解してきました(注①)。
 他方、「千」の字は本来は「十」であり、墓碑表面のひびなどにより拓本では「千」に見えているとする見解も有力視されてきました。その上で、「四十代」であれば采女竹良個人の墓所として妥当な面積であるとされました(注②)。
 関西例会で服部さんにこの拓本の文字について確認したところ、「四千代」であったとのことでした。ただし、現存する真拓は小杉文庫蔵拓本だけであり、その他のものは印刷用に作成された「摺本」「版本」ですから、服部さんがどの「拓本」で確認されたのかも重要です。この点、真拓で確認された三谷芳幸さんの論文(注②)によれば、真拓には碑文表面の傷の跡が多く、問題の「千」とされた字も碑文の他の字との比較により「十」と判断されています。
 わたしも、「千」の字は「4」の字に近い字形であり、碑文にある「穢」の字の「禾」の第一画や、「代」「他」の第一画と比べて明らかに異なっていますので、表面の傷により「十」が「4」のような字になって拓出されたとする三谷さんの見解に賛成です。
 なお一言すれば、確かに「四千代」という墓所の面積は「直大弐」の官位の官僚にしては広すぎます。しかし、それは大和(近畿天皇家)であれ筑紫(九州王朝)でれ同じことですから、「四千代」という墓所の面積は九州王朝の官僚と断定する根拠にはなりません。また、同墓碑は河内国春日村の妙見寺に伝わってきたものですから、やはり近畿天皇家の官僚とする通説の方が穏当と思われます。その上で、なぜ持統天皇の時代(己丑年、689年)において、近畿天皇家が官僚任命権を持つことができたのかという視点での研究が必要なのではないでしょうか。
 本稿の是非にかかわらず、服部さんが提起された問題点や仮説は重要なテーマであり、引き続き論議検証されるべきものであることは言うまでもありません。このことを最後に強調しておきたいと思います。

(注)
①近江昌司「釆女氏塋域碑について」『日本歴史』431号 1984年4月。
 近江昌司「妙見寺と釆女氏塋域碑」『古代文化』49(9) 1997年。
②三谷芳幸「釆女氏塋域碑考」『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号 1997年。


第1907話 2019/05/25

七世紀における「天皇」号と「天子」号

 「古田史学の会」関西例会では、七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟のこととする晩年の古田説に対して賛否両論が出され活発な論争が続いています。このように関西例会では、古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた「師の説にななづみそ」(本居宣長)、「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を体現した学問研究が続けられています。

 わたしは、倭国ナンバーワンの九州王朝の「天子」に対して、ナンバーツーとしての近畿天皇家の「天皇」とする古田旧説を支持しています。従って、七世紀の金石文に見える「天皇」はナンバーツーとしての近畿天皇家の天皇と考えています。そのことを論じた拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」を『古田史学会報』(152号、2019年6月)に投稿しました。同稿では船王後墓誌に見える「天皇」を近畿天皇家の天皇としましたが、さらに「天皇」号の位置づけについて、別の視点から説明することにします。それは九州王朝の「天子」号との関係についてです。

 九州王朝の多利思北孤が「天子」を名乗っていたことは『隋書』の記事「日出る処の天子」から明らかです。他方、近畿天皇家では七世紀初頭の推古から後半の天武が「天皇」を名乗っていたことは、法隆寺の薬師如来像光背銘の「大王天皇」や飛鳥池出土の「天皇」木簡から明らかです。こうした史料事実が古田旧説の根拠となっています。

 もし古田新説のように船王後墓誌などの七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟とすると、ナンバーワンの九州王朝もナンバーツーの近畿天皇家も同じ「天皇」を称していたこととなります。しかし、ナンバーツーがナンバーワンと同じ称号を名乗ることをナンバーワンが許すとは到底考えられません。こうした、称号の序列という論理から考えても、古田新説は成立困難と思われるのです。


第1906話 2019/05/24

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)

 〝七世紀後半の難波と飛鳥〟

 2017年3月、大阪歴博から驚愕すべき論文が発表されました。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)「前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」で紹介した佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号)です。
 従来、ほとんどの考古学出土報告書は『日本書紀』の記述に基づいた解釈(一元史観)を採用し、出土遺構・遺物の編年やその性格を解説するのが常でした。ところが、この佐藤論文では出土事実に基づいた解釈を優先し、それが『日本書紀』とは異なることを明示する、という考古学者としては画期的な報告を行っているのです。たとえば次のような指摘です。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。
 この考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説に見事に対応しています。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波複都は停滞を始めたと思われます。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたのです。文献史学においては古田先生が『日本書紀』の記事を絶対視しせず、中国史書(『旧唐書』「倭国伝」「日本国伝」、他)などの史料事実に基づいて多元史観・九州王朝説を提起されたように、考古学の分野にもこうした潮流が地下水脈のように流れ始めたのではないでしょうか。そしてその地下水脈が地表にあふれ出すとき、日本古代史学は大和朝廷一元史観から多元史観・九州王朝説へのパラダイムシフトを起こすのです。その日まで、わたしたち古田学派は迫害や中傷に怯まず、弛むことなく前進しようではありませんか。(つづく)