九州王朝(倭国)一覧

第1586話 2018/01/23

筑前と豊前の古代寺院造営編年

 このところ、久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、各地の資料館図録をお借りすることが多くなりました。先日の「古田史学の会・関西例会」でも多数の図録を持参され、参加者に回覧されたのですが、中でも福岡県の苅田町歴史資料館が発行した『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)に貴重な情報が掲載されていましたので、お借りしました。
 最初に注目したのが、筑前と豊前の古代寺院のリストでした。それぞれ11の寺院が記載されており、その造営年が筑前よりも豊前のほうが古い寺院が多いのです。次の通りです。

《筑前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴・時期
大分廃寺 ・新羅系   ・七世紀後
観世音寺 ・老司式   ・八世紀前
般若寺  ・老司式   ・八世紀前
杉原廃寺跡・百済系   ・七世紀末
塔の原廃寺・山田寺式  ・七世紀後
三宅廃寺跡・老司式   ・八世紀前
城の原廃寺・不明    ・八世紀前
長者原廃寺・不明    ・八世紀前
御輿廃寺跡・不明    ・八世紀前
浜口廃寺跡・鴻臚館式  ・八世紀前
長安寺跡 ・鴻臚館式  ・八世紀前

《豊前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴 ・時期
天台寺跡 ・新羅百済高句麗・七世紀後
椿市廃寺 ・新羅百済高句麗・七世紀後
上坂廃寺 ・百済     ・七世紀後
木山廃寺 ・百済     ・七世紀後
垂水廃寺 ・新羅百済   ・七世紀後
相原廃寺 ・百済     ・七世紀後
塔の熊廃寺・新羅     ・八世紀前
小倉池廃寺・不明     ・七世紀後
法鏡寺跡 ・法隆寺式百済 ・七世紀後
虚空蔵寺跡・川原寺式法隆寺式・七世紀後
弥勒寺跡 ・鴻臚館式   ・八世紀前

 このリストでは、「7世紀後」とすべき「老司式」を「八世紀前」と編年されており、問題もありますが、筑前よりも豊前の寺院の方が全体として古い造営年代となっています。九州王朝説から考えると、首都(太宰府)がおかれた筑前に、古い寺院が多くあってほしいところです。このリストの当否の確認も含めて、九州王朝における豊前の位置づけを検討する必要を感じさせるものでした。


第1585話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(4)

 二つ目の史料痕跡は「大宝二年籍」です。大和朝廷は大宝2年(702)に全国的な造籍を実施しています。当時、行政上の必要から定期的に造籍が行われていたと考えられ、それは6年毎という説が有力です。
 現存する古代戸籍では「大宝二年籍」が最も古く、その様式(書式・用語)の比較研究により、西海道(九州)戸籍が最も統一され整っていることがわかっています。通説では、大宰府により九州各国の戸籍が統一されたと理解されているようですが、九州王朝説にたてば、その様式の高度な統一性は九州王朝の直轄支配領域が九州島であったためと考えられます。従って、その様式の統一性は「大宝二年籍」で初めて現れたものではなく、九州王朝の時代に淵源があり、庚午年籍でも同様の統一性が九州島内諸国では見られたはずです。他方、九州以外では様式が統一されていなかったため、その影響が「大宝二年籍」にも現れたと考えざるを得ません。
 この戸籍様式の九州島内の「統一」と九州以外の「不統一」という史料事実こそ、庚午年籍が筑紫都督府と近江朝とで別々に造籍された痕跡と思われるのです。
 以上、紹介した二つの史料痕跡から、庚午年籍造籍主体に関しても、筑紫都督府と近江朝の二重権力状態を仮定すれば、正木説は更に有力説になるのではないでしょうか。(了)


第1584話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(3)

 筑紫都督府(唐軍の支援を受けた薩夜麻)と近江朝(九州王朝家臣に擁立された天智)という二重権力状態での全国的な庚午年籍造籍(670年)が、筑紫都督府による九州地方と、近江朝による九州以外の地域で行われたとする作業仮説を支持する二つの史料的痕跡について紹介します。
 一つは「洛中洛外日記」1167話「唐軍筑紫進駐と庚午年籍」でも紹介した『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)

 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻には大和朝廷の官印が押されていなかったことがわかります。それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられます。この管理の差が、筑紫都督府と近江朝の二重権力構造によりもたらされたと考えることができます。
 更に深く考えると、筑紫都督府には九州王朝(倭国)の「官印」が無かったということも言えるかもしれません。白村江戦をひかえて九州王朝官僚群が近江朝に「遷都」していたとすれば、「官印」も近江朝が所持していたことになるからです。もちろん、太宰府(筑紫都督府)に戻った薩夜麻が新たに「官印」を作製したことも考えられますが、その場合の印文は「倭国王之御璽」、あるいは「筑紫都督倭王之印」のような内容ではないでしょうか。そうすると、既に「日本国」に国号を変更していた大和朝廷の立場からは、それらを「官印」とは認められなかったものと推察します。
 この点、近江朝は670年に国号を「日本国」に変更していたとする史料(『三国史記』新羅本記)があり、そうであれば近江朝の官印は「日本国天皇之印」のような印文と考えられますから、神亀四年(727)の日本国の時代においては、そのままで問題なく、新たに「官印を以てこれに印す」必要はありません。
 このように『続日本紀』のこの記事は、庚午年籍が筑紫都督府(九州地方)と近江朝(九州以外)で別々に造籍されたとする作業仮説を支持するものと理解できるのです。(つづく)


第1583話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(2)

 九州王朝系「近江朝」という正木説は魅力的な仮説とわたしは考えていますが、先に指摘したように庚午年籍(670年籍)の全国的造籍の主体についての疑問点があります。この問題点を解決するために次のような可能性を考えてみました。論点整理を兼ねて箇条書きにします。

①正木説によれば、筑紫君薩夜麻は唐に捕らえられ、唐の配下の筑紫都督として唐軍と共に帰国(667年とされる)した。
②そうであれば、唐軍は筑紫の宮殿や墳墓を破壊する必要はない。
③現に大宰府政庁も観世音寺も破壊されずに8世紀以後も残っている。観世音寺の創建を670年(白鳳10年)とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)もあり、そうであれば唐軍進駐時での造営となる。防衛施設の水城にも破壊の痕跡はなく、8世紀以後も整備補修されていたことが考古学的にも明らかとなっている。
④筑紫都督(薩夜麻)を介して倭国を間接支配しようとする唐軍にとって、その造籍事業に反対する必要はなく、むしろ近江朝と対抗するためにも薩夜麻の筑紫支配強化に協力する必要がある。大宰府政庁Ⅱ期(筑紫都督府)の造営もその一貫か。
⑤以上の理解から、正木説が正しければ、白村江戦後の倭国には近江朝(反唐の天智)と筑紫都督府(親唐の薩夜麻)との二重権力状態が発生していたと考えられる。
⑥他方、庚午年籍が筑紫を含め全国で造籍されていたことは、『続日本紀』など後代史料により明らか。
⑦二重権力状態での全国的造籍を説明できる作業仮説として、筑紫都督府による九州地方の造籍と近江朝による九州以外の地域での造籍事業が同時期に行われたと考えざるを得ない。

 以上のように、①〜⑥の論理展開により、作業仮説⑦に至りました。次回は、この作業仮説を支持する史料的痕跡を紹介します。(つづく)


第1582話 2018/01/22

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝庭か(1)

 昨日の新春古代史講演会(古田史学の会主催)では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が最新の研究成果を発表されました。どちらも刺激的な仮説が発表されましたが、正木さんの「九州王朝の近江朝」という新仮説は様々な問題の解明に役立つ反面、新たな疑問も生まれるものでした。
 正木説によれば、白村江戦など唐や新羅との決戦に備え、九州王朝(倭国)は難波宮より安全な近江大津宮へ「遷都」したとされ、唐に捕らえられ、その配下の筑紫都督として帰国した薩夜麻に対して、近江朝廷の九州王朝の家臣たちは留守役の天智を天皇に擁立し、九州王朝の皇女だった「倭姫王」を天智は皇后に迎え、九州王朝の権威を継承したとされました。
 この正木説によれば、庚午年籍の造籍を全国に命じたのは近江朝廷(天智)となります。他方、従来の古田旧説によれば庚午年籍は筑紫の九州王朝による造籍とされてきました。ところが晩年の古田新説では、筑紫太宰府は唐の軍隊に制圧され、宮殿や陵墓は破壊され、九州王朝(倭王・斉明)は伊予の「紫宸殿」に逃れたとされました。この古田新説では筑紫での庚午年籍造籍は不可能となりますし、正木説でも唐と対立した近江朝は、少なくとも唐軍が進駐している九州地方の造籍はできないことになります。しかし、庚午年籍が筑紫や全国で造籍されたことは明らかです。このことは古田先生も正木さんも認めておられます。
 庚午年籍を全国的に造籍させた権力主体について、正木説でも古田新説でもうまく説明できないと思われるのです。(つづく)


第1579話 2018/01/18

「都督歴」と評制開始時期

 3月発行予定の『古代に真実を求めて』21集のゲラ校正を行っています。掲載される拙稿「都督府の多元的考察」を読み直していて、『二中歴』の「都督歴」が評制開始時期を示唆していることに改めて気づきました。というのも、「洛中洛外日記」655話“『二中歴』の「都督」”において、わたしは次のように述べていたからです。

 “鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されており、その冒頭には「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)とあり、この文によれば、「都督歴」に列挙されている64人よりも前に、蘇我臣日向を最初に藤原元名まで104人の「都督」が歴任していたことになります(藤原元名の次の「都督」が藤原国風のようです)。もちろんそれらのうち、701年以降は近畿天皇家により任命された「都督」と考えられますが、『養老律令』には「都督」という官職名は見えませんので、なぜ「都督歴」として編集されたのか不思議です。
 しかし、大宰帥である蘇我臣日向を「都督」の最初としていることと、それ以降の「都督」の「名簿」104人分が「都督歴」編纂時には存在し、知られていたことは重要です。すなわち、「孝徳天皇大化五年(649年、九州王朝の時代)」に九州王朝で「都督」の任命が開始されたことと、それ以後の九州王朝「都督」たちの名前もわかっていたことになります。しかし「都督歴」には、なぜか「具(つぶさ)には之を記さず」とされており、蘇我臣日向以外の九州王朝「都督」の人物名が伏せられています。
 こうした九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。”

 更に、777話“大宰帥蘇我臣日向”でも、次のように述べました。

 “九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
 蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。”

 「藤原元名以前は総じて百四人なり」と記された藤原元名は平安時代の官人で、天暦8年(954)に大宰大弐に任じられています。従って蘇我日向が都督に任じられたとされる「孝徳天皇大化5年(649)」から「天暦8年(954)」まで305年間に103人の都督がいたと「都督暦」では記されていることから、単純計算すると九州王朝の時代(700年以前)には約17名の都督がいたことになります。もちろんこれは計算上の数値ですから、約17名という数字に大きな意味があるわけではありません。「都督暦」の記事で注視すべきは次の点です。

①『二中歴』編者が藤原元名より前の「都督」103名の存在を知っていた。
②その103名中、九州王朝時代の「都督」(計算上では約17名)の存在も知っていた。すなわち、九州王朝系「都督名簿」(九州王朝系史料)が存在していた。
③九州王朝系「都督名簿」を参考にして「都督暦」は記されており、そのうえで「都督」の最初を蘇我日向とした。
④従って、九州王朝系「都督名簿」にも最初の都督を「蘇我日向」と記されていたと考えるべきである。
⑤従って、九州王朝(倭国)が都督を任命したのは7世紀中頃(孝徳天皇大化五年)となり、「都督」の下位職(地方職)の「評督」も同時期に任命されたと理解するのが穏当である。
⑥古代諸史料では評制開始が7世紀中頃とされていることは、「都督」「評督」任命時期と対応しており、史料性格や成立時代の異なる『二中歴』(鎌倉初頭成立)や評制開始時期を記した古代諸史料の主張が一致することは、評制開始時期を7世紀中頃とする論証力を強めている。

 『古代に真実を求めて』21集のゲラ校正により、以上のように評制開始時期に関する論理性を更に深めることができました。


第1578話 2018/01/17

任那の国県制

 「洛中洛外日記」1572話「評制施行時期、古田先生の認識(8)」で、不用意にもわたしは「残念ながら当時の任那の『行政区画』が『国・県』制だったのか『国・郡』制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された『国・評・里(五十戸)』制(評制)だったのかは不明です。」としましたが、古田先生が任那が「国県制」であったことを論証されていたこと思い出しましたので紹介します。
 『古代は輝いていた3』(1985年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」に次のように記されています。

 「(三)『日本旧記』の記事は、『任那』に関連する史実を語っている。ところが、この『任那』とは、第二巻でのべたように、朝鮮半島における倭地だ。その倭国とは、筑紫の王者を倭王とする、その領域内をしめしていた。
 ところが、その倭地では、
 任那国の下多呼利県。(※)
とあるように、『県』という行政単位が用いられていた。そのことをしめしているのである。これが倭国の行政単位だったのだ。」(69〜70頁、ミネルヴァ書房復刻版)
 ※「多」は口偏に「多」。「利」は口偏に「利」。

 このように九州王朝(倭国)が支配していた朝鮮半島の任那国(倭地)でも、九州王朝本国と同様に「国県制」であったとされています(ここでも古田先生は行政区画名の「県」を「行政単位」と表記されています)。従って、古田先生は九州王朝(倭国)では、5〜6世紀と7世紀前半頃が「国県制」、7世紀中頃から末までが「評制」であったと理解されていたことがわかります。5世紀よりも前の倭国の行政区画については別途詳述する予定です。


第1577話 2018/01/16

九州王朝の国県制

 古田先生の評制開始時期に関する認識について説明してきましたが、その中で7世紀前半の九州王朝の行政区画について、「評」あるいは「県」とする古田先生の見解を紹介しました。そこで、古田先生が評制以前の「国県制」についてどのように考えておられたのかも紹介したいと思います。
 『古代は輝いていた3』(1985年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」に次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(70頁、ミネルヴァ書房復刻版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であった」とされています。すなわち、7世紀中頃の評制開始の前の行政区画が「国県制」であったとされているのです。
 なお、ここでは古田先生は行政区画名の「県」を「行政単位」とされています。また、「県」は普通は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。(つづく)


第1575話 2018/01/14

『早良郡志』に見える「筑紫殿塚」

 本日開催される「九州古代史の会」の正月例会を聴講するため、帰省を兼ねて福岡市早良区の藤崎駅近くのももち文化センターに来ました。1時間ほど早く到着したので、隣接する早良図書館で『早良郡志』(大正12年、早良郡役所編纂。昭和48年、名著出版復刻版)を読みました。その中で次のような記事がありましたので、紹介します。

 「大王塚 原の東方三町の所に、大王塚と謂ふのがある。長三間横一間許りで一株の松がある由来詳かでない。」(原村史跡 124頁)

 「筑紫殿塚 小田部の東二町の田間に筑紫殿の塚といふのがある。里人は又大塚とも謂つて居る。周四十間幅三間許の小丘三段に分かれ上の段には、土手が廻つて居るも何人の墓であるか詳かでない。」(原村史跡 125頁)

 この地に「筑紫殿塚」と伝承されている墳墓が存在することに興味深く思いました。墳墓の年代などこの記事からは不明ですが、九州王朝の王家「筑紫君」の一族の墓ではないかと思われます。大王塚はその「大王」という呼称から、筑紫殿塚よりも古いように思います。当地の研究者による多元史観・九州王朝説に基づいた調査研究を期待したいと思います。
 なお、当地「早良郡」には、古田先生が『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」「難波朝廷」の所在地とされた愛宕神社があります。同神社は『早良郡志』にも紹介されていますが、7世紀に遡るような宮殿伝承や遺構、王朝関連記事はありませんでした。


第1573話 2018/01/13

評制施行時期、古田先生の認識(9)

 わたしは「文字史料による『評』論 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で、史料を明示して評制施行時期について説明しました。もちろん古田先生にも『古田史学会報』を送り、拙稿を読んでいただいていました。同論稿では、孝徳期(七世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した次の史料を紹介しました。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に難波朝廷が天下に評制を施行したことが記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、7世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「行政区画」としての「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ないのです。もちろん、古田先生もこうした史料事実をご存じでしたから、評制施行時期を7世紀中頃と考えられていたのです。(つづく)


第1572話 2018/01/12

評制施行時期、古田先生の認識(8)

 既に何度か説明してきたところですが、『日本書紀』には例外のような「評」の記事があります。継体二四年(五三〇)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背評に迎へ討つ。背評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 任那に「背評」という朝鮮半島におかれていた「行政組織」が「地名化(地名として遺存)」しており、その地を倭国は「能備己富利」と名付けたという記事です。この記事について古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、三三六頁)において、次のような説明をされています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 古田先生がどのような定義により「行政単位」と表記されたのかはわかりませんが、これまで説明しましたように、朝鮮半島には「評」という行政組織名(官庁など)があったことから、それらの一つとして「背評」という組織名が、いつの頃からかは不明ですが存在しており、磐井の時代には「地名化」していたと説明されています。ですから「背評」はもともとは地名ではなかったと古田先生は認識されていることになります。この説明は、本連載で紹介してきた古田先生の認識と異なるところはありません。
 この記事は朝鮮半島における行政組織を考える上でも興味深いものですが、残念ながら当時の任那の「行政区画」が「国・県」制だったのか「国・郡」制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された「国・評・里(五十戸)」制(評制)だったのかは不明です。
 古田先生の認識を紹介するという本稿の趣旨とは少々離れますが、この『日本書紀』の「背評」記事について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から面白いご指摘がありましたので、紹介します。
 西村さんによれば、「背評は地名」という記事部分は『日本書紀』編纂時に書かれたものではなく、原史料に記されていたものではないかというものです。なぜなら、『日本書紀』編纂時(720年頃)であれば、九州王朝による評制の存在がまだ記憶されていた時期で、「背評」とあればまずは評制による地名と理解するはず。そうであれば「背評は地名」などと『日本書紀』編者はわざわざ書かないというのです。
 この西村さんのご意見はなるほどと思われましたので、わたしも深く考えてみました。そして次のような理解に達しました。

①この記事の原史料は九州王朝によるものである。
②その史料に任那における毛野臣の交戦記事が記されていた。
③「背評」での交戦記事(九州王朝への軍事報告書か)を記すとき、「背評」が朝鮮半島内の行政組織名と勘違いされないように、「地名である」とわざわざ付記した。
④その後、九州王朝は「背評」の地を「能備己富利」と名付けた。
⑤従って、「能備己富利」は九州王朝(倭国)による倭国風地名である。訓みは「ノビコフリ」あるいは「ノビコホリ」か。(『隋書』に記された倭国の王子、利歌彌多弗利(リカミタフリ)とちょっと似ています)
⑥以上の変遷を経て、『日本書紀』編者は「背評」を九州王朝(倭国)の評制の「評」とは考えず、そのため「背郡」と書き換えることなく、そのまま「背評」として『日本書紀』に採用した。この史料事実は、「背評」が九州王朝の評制地名ではないことの根拠でもある。

 以上のように考えましたが、いかがでしょうか。(つづく)


第1571話 2018/01/11

評制施行時期、古田先生の認識(7)

 古田先生が『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)収録の古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」で、「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と述べられたことに対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より、古田先生が「行政単位」という言葉を詳細な説明なしに使われたため、「評」という言葉の淵源と「評制」の開始時期を混同するという誤解を招いているとのご意見をいただきました。その上で、評制施行が七世紀中頃とする古田先生の認識こそが重要との助言をいただきました。これはもっともなご意見ですので、古田先生が評制開始を七世紀中頃と認識されていた証拠をもう一つ紹介することにします。
 古田先生が評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)の開始時期についてどのように認識されていたのかがわかる文が『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、2001年)にあります。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(219頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かれず、「評の時代」と書かれたはずです。
 このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされてきたのは明白ですし、そうした認識を前提にして、古田先生は30年にわたってわたしとの評制に関する学問的対話や、学会発表を続けてこられたのです。
 ちなみに、古田先生が使用されていた岩波の日本古典文学大系『万葉集』の先の「讃岐国安益郡」の部分の「郡」の字に、先生は◎印をつけておられました。その「郡」の字をわたしに示し、『万葉集』も『日本書紀』と同様に「評」を「郡」に書き換えていますと、熱く語っておられたことを、本稿を書いていて思い出しました。今から20年ほど前のことでした。(つづく)