九州王朝(倭国)一覧

第998話 2015/07/10

祇園山鉾、昔は66基

 京都の町も祇園祭の準備が本格的に始まり、鉾町では鉾の組立が進められています。今日乗ったMKタクシーのドライバーの方は観光課所属とのことで、祇園祭についてかなり詳しく解説していただきました。さすがは京都を代表するタクシー会社らしく、博学な方でした。
 そのお話しによれば、現在の山鉾は33基ですが、本来は66基とのこと。そこで、わたしは「66基とは日本国内の国の数ですか」とたずねると、「その通りです」とのご返事。「聖徳太子」が分国して66国になったとする論文「『聖徳太子』による九州の分国」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』収録)で、九州王朝の天子、多利思北孤が66国に分国したと書きましたので、それが京都の祇園祭にも影響を及ぼしていたことを知り、感慨深く思いました。
 祇園祭のクライマックス「山鉾巡行」は毎年7月17日に執り行われますが、鉾町に転居した新参者が商売の売り上げが増えるよう、土日に開催してはどうかと意見したところ、「祇園祭の伝統を何と心得る」と厳しい叱責を受けたとのエピソードもあったそうです。伝統文化を護る京都らしい話しです。
 なお、山鉾巡行が最も有名な行事ですが、一番重要な行事は御神体を乗せた3基の御神輿による八坂神社から御旅所への往復です。スサノオの命と奥さんと子供を乗せた3基の御神輿が祇園祭の「主人公」なのです。この御神輿の行列には厳しいしきたりがあり、少なくとも三年は参加しないと、担がせてもらえないと聞いたことがあります。
 祇園祭が終わると京都も梅雨明けします。そして本格的な夏を迎えるのですが、体調管理に気を付けて、今年も乗り切りたいと思います。


第993話 2015/07/04

「肥人の字」「肥人書」のこと

 このところ、鞠智城や「肥後の翁」など肥後の古代史を集中して研究しているのですが、古代において「肥人の字」「肥人書」というものが存在していたことを思い出しました。
 平安時代(10世紀)の『日本書紀』の解説書ともいえる『日本書紀私記』(丁本)に、大蔵省御書所(皇室の蔵書を保管する機関)にある「肥人之字」について次のような「問答」が記されています。

「問ふ、假名の字、誰人の作る所か、と。
師説、大蔵省御書所の中、肥人の字六七板許ある也。先帝(醍醐天皇)、御書所において之を写さしめ給ふ。その字、皆な假名用ふ。或いは「乃」「川」等の字は明らかにこれ見ゆ。若しくは彼を以て始めと為すべきか。」

 大蔵省御書所に「肥人の字」が所蔵されており、それは「仮名」で書かれてあり、「乃(の)」や「川(つ)」などと読める字もあり、これが仮名の始めではないかと説明しています。すなわち、「肥人の字」と記していることから、この謎の「仮名」は肥後か肥前の人の字であるとの認識が示されているのです。同時に「仮名」は大和朝廷(近畿天皇家)で作られたのではないという、平安時代の知識人の認識をも示しており、とても興味深い史料です。
 わたしは、この『日本書紀私記』の記事を20年以上も前に旧友の安田陽介さんの論文「日本書紀私記と『肥人の字』」(『「続日本紀を読む会」論集』創刊号、1993年。非売品)で知りました。当時、わたしは京大で日本史を専攻していた安田さんらと、「続日本紀を読む会」を京都で開催しており、年下の安田さんから多くのことを教えていただきました。「肥人の字」もその勉強会で教えていただいたものです。
 今回、肥後の古代史を研究することになり、20年以上昔のことを思い出しました。更に「肥人書」「薩人書」という史料も御書所にあったと、『本朝書籍目録』(鎌倉時代後期の図書目録)に見えます。おそらくは、これら「肥人の字」や「肥人書」「薩人書」とは九州王朝に淵源する史料であり、近畿天皇家はそれを入手(没収か)し、大蔵省御書所に保管したものと思われます。これらの史料についても九州王朝説による研究が望まれます。どなたか、取り組まれませんか。


第992話 2015/07/03

九州王朝の家紋「十三弁の菊」説

 現在の皇室の御紋は「菊(十六八重表菊)」とされています。それでは九州王朝の家紋は何だったのかというのが、今日のテーマです。もっとも、九州王朝の時代に「家紋」などというものがあったのかも、はなはだ疑問ではありますが、「十三弁の菊」が九州王朝の「家紋」だという「説」があります。
 九州王朝の子孫で、高良玉垂命の末裔である稲員(いなかず)家では江戸時代に「菊」を家紋としていましたが、「上に差し障りがある」としてやめたと稲員家文書『家訓記得集』に記されています。また、稲員家墓地の墓石の上部の、家紋が彫られていたと思われる箇所が、現在では削られているのを随分昔に見たのですが、おそらくはその部分に「菊の紋」があったのではないでしょうか。
 こうした知見から、九州王朝の末裔は「菊の紋」を家紋としていたことは確かなのですが、それが古代の九州王朝の時代まで遡れるのだろうかと漠然と考えていました。そのようなとき、稲員家の分家筋にあたる松延さん(八女市在住)から次のような話をうかがいました。

「九州王朝の家紋は十三弁の菊で、筑後国府から出土した軒丸瓦に十三弁のものがある。弁の数は少ない方が偉い。」
(わたしはこの瓦は未見です。報告書を調査中)

 というものです。松延さんが何を根拠にそのように話されたのかはわかりませんが、不思議な「伝承」だなあと聞いていました。
 その後、筑後の浮羽郡にある「天の長者」伝承の現地調査を行ったとき、「天の長者」を現在も祀っておられる家(後藤家)が偶然見つかり、その家の近くに祀られていた石祀(「御大師様」と呼ばれていた)に彫られていた紋が「十三弁の菊」でした。しかも、均等に13分割されたものではなく、不均等に強引に13弁にしたものでした。12分割は簡単ですが、13分割は困難なため、無理に十三弁にしたと考えざるを得ない彫り方だったのです。
 この偶然とは思えないような「十三弁」が筑後国府出土軒丸瓦や「天の長者」伝説の地にあったことから、松延さんの「十三弁の菊」九州王朝家紋説もあながち荒唐無稽とは言いにくいと考えるようになりました。(拙稿「天の長者伝説と狂心の渠」を参照下さい)
 まだ学問的仮説と言えるレベルではありませんが、ちょっと気になったまま十数年たっていますので、このまま埋もれさせるにはもったいないと思い、今回、書いておくことにしました。将来の研究の進展や新たな発見を待ちたいと思います。


第989話 2015/06/28

九州王朝の「集団的自衛権」

 連日のように国会やマスコミの集団的自衛権や憲法解釈、安保法制の論議や報道が続いています。この問題は、不幸なことに好戦的な国々に囲まれている日本を今後どのような形にして子供たちや子孫に残してあげるのかという歴史的課題ですから、小さなお子さんをお持ちの若いお父さんやお母さんが国会議員以上に真剣に考えるときではないでしょうか。わたしもそのような問題意識を持ちながら、遠回りではありますが、クラウゼヴィツの『戦争論』を再読しています。
 『戦争論』などでも指摘されているように、「好戦的」というのは国際政治における国家戦略の一つですから、いわゆる「善悪」の問題ではありません。その国が、「好戦的」で「軍事的」「威圧的」であることが自国の国益(自国民の幸福)に適うと考え、あるいは結果として国家間秩序(戦争ではない状態)を維持できると考えているということです。そこにおいては「善悪」の議論は残念ながらほとんど意味がありません。「好戦的」であることが自国にとって「善」と考えている国々なのですから。
 そこで、九州王朝の「集団的自衛権」について考えてみました。「洛中洛外日記」980話で、「九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。(中略)九州州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。」と記しましたが、九州王朝(倭国)が九州本土決戦による防御ではなく、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦を選んだ理由を考えてみました。
 一つは唐や新羅との対抗上から百済との同盟(集団的自衛)を自国防衛の基本政策としていたことです。朝鮮半島南部に親倭国政権(百済)の存在が不可欠と判断したのです。これには理由があります。倭国は新羅などからの侵攻をたびたび受けており、朝鮮半島南部たとえば釜山付近に新羅の軍事拠点ができると、倭国(特に都がある博多湾岸や太宰府)は軍事的脅威にさらされるからです。
 たとえば『二中歴』年代歴の九州年号「鏡當」(581〜584年)の細注に「新羅人来りて、筑紫より播磨に至り、之を焼く」とあるように、新羅など異敵からの攻撃を受けたことが多くの史料に見えます(『伊予大三島縁起』『八幡愚童訓』など)。ですから、九州王朝(倭国)にとって、朝鮮半島南部に親倭政権(同盟関係)があること、更には朝鮮半島に複数の国があり互いに牽制しあっている状態を維持することが自国の安全保障上の国家戦略であったと思われます。中国の冊封体制から離脱したからには、当然の「集団的自衛権」の行使として、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済再興を目指して、白村江戦まで突入せざるを得なかったのではないでしょうか。
 ところが思わぬ誤算が続きました。一つは倭王と思われる筑紫君薩夜麻が捕らえられ唐の捕虜となったこと。二つ目は国内の有力豪族であった近畿天皇家の戦線離脱です。おそらく唐と内通した上での離脱と思われますが、その内通の成功を受けて、唐は薩夜麻を殺さずに帰国させ、壬申の大乱を経て、日本列島に大和朝廷(日本国)という親唐政権の樹立に成功しました。こうして唐は戦争においても外交においても成功を収めます。
 現代も古代も国際政治における外交と戦争に関しては、人類はあまり成長することなく似たようなことを繰り返しているようです。歴史を学ぶことは未来のためですから、現在の安保法制問題も日本人は歴史に学んで意志決定をしなければならないと思います。


第988話 2015/06/27

「鞠智城九州内第二拠点」説の考察

 未完成古代山城「見せる城」説を提起された向井一雄さんが、「西日本の古代山城遺跡 -類型化と編年についての試論-」(1991年、『古代学研究』第125号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しを示されていることを「洛中洛外日記」985話で紹介しました。もちろん向井さんは大和朝廷一元史観に立っておられますが、このご意見はとても興味深く思いました。今回はこの「鞠智城九州内第二拠点」説ともいうべきテーマについて考えてみます。
 鞠智城を大宰府陥落後の九州内第二拠点とみなす前提は、大宰府陥落後に南にある鞠智城へ逃げるということですから、想定される敵国は北から侵攻してくることが前提でしょう。この点を九州王朝説に立って理解すれば、豊前・豊後・日向ではなく、肥後に第二拠点を置くということですから、仮装敵国として北方の朝鮮半島諸国だけでなく、東の大和に割拠する近畿天皇家も入っていたのかもしれません。そうでなければ、朝鮮半島からはより遠く、大和には近い豊後・日向か瀬戸内海方面に第二拠点を置くなり、逃げればよいはずだからです。この点、大和朝廷一元史観では肥後に第二拠点を置くという発想はちょっと微妙な感じがします。
 更に大和朝廷一元史観では決定的に説明困難な問題があります。それは南九州にいたとする「隼人」と8世紀初頭に何度も大和朝廷は戦っていることから、周囲に神籠石山城群や「水城」のような防衛ラインが皆無の鞠智城が、はたして「大宰府陥落後の九州内拠点」にふさわしいのかという問題を説明できないのです。すなわち、ポツンと肥後に孤立している鞠智城は南側からの「隼人」の攻撃を想定しているとは考えられないのです。むしろ南九州は安定した味方の領域という大前提があって初めて鞠智城の「孤立」は理解しうるのです。ですから、「隼人」と敵対している大和朝廷による「鞠智城九州内第二拠点」説は成立困難と言わざるを得ません。
 それでは九州王朝説の場合はどうでしょうか。九州王朝内の徹底抗戦派が南九州で最後まで抵抗したとする論稿をわたしは発表していますのでご参照いただきたいのですが、九州王朝と南九州の勢力(「隼人」と表現されている)と九州王朝は友好関係あるいは同盟関係にあったと考えられます。ですから、太宰府の南方の肥後に鞠智城を築くことは不思議ではありません。こうした九州王朝説によって鞠智城の位置づけが可能となるのではないでしょうか。
 なお、『続日本紀』の文武2年五月条(698)に見える大野城・基肄城・鞠智城の繕治記事と、文武4年六月条(700)に見える「肥人」に従った薩末比売らの「反乱」記事も、7世紀最末期の王朝交替時の対立事件として、九州王朝説による検討が必要です。

〔次の拙稿をご参照ください〕
○「最後の九州王朝 -鹿児島県「大宮姫伝説」の分析-」(『市民の古代』第10集所収。1988年、新泉社)
「続・最後の九州年号 -消された隼人征討記事-」(『「九州年号」の研究』所収。2012年、ミネルヴァ書房)


第986話 2015/06/23

「肥後の翁」と「加賀の翁」の特産品

 筑紫舞を代表する翁の舞で最も古いタイプとされる「三人立」は「都の翁」(都は筑紫)と「肥後の翁」「加賀の翁」により舞われます。筑紫舞ですから「都の翁」(筑紫)は当然ですが、何故「肥後」と「加賀」から翁が来たのでしょうか。あるいは選ばれたのでしょうか。その理由がようやくわかりかけてきました。
 まず「肥後の翁」ですが、「洛中洛外日記」第948話「肥後の翁」の考古学で紹介しましたように、弥生時代の後期・末期になると福岡県を抜いて、熊本県の鉄器出土点数がダントツで一位になります。これは阿蘇山付近から「鉄」が産出されるようになったことが背景にあります。従って、それまで主に朝鮮半島から鉄を得ていた倭国は自前の鉄供給が可能になったと思われます。すなわち、「肥後の翁」の特産品「鉄」が「都」に献上されたのでしょう。
 次に「加賀の翁」ですが、これも「洛中洛外日記」第942話の筑紫舞「加賀の翁」考で紹介しましたように、米田敏幸さんの研究により、古墳時代初頭を代表する布留式土器の産地が加賀(小松市近辺)であることと関係していると思われます。しかし、土器であれば布留式土器よりも古い庄内式土器の発生地である播磨地方などもありますから、よく考えると今一つ「加賀の土器」では、「翁の舞」に選ばれるにしてはインパクトに欠けるのです。
ところがこの疑問が晴れたのです。先日の「古田史学の会」記念講演会で講演していただいた米田さんと懇親会で隣席になりましたので、そこでしつこくお聞きしたことが、加賀の土器が全国各地や韓国の釜山まで運ばれているとのことだが、中には何が入っていたのですかという質問です。
 わたしはてっきり土器だから液体を入れて運んだと考えていたのですが、米田さんはきっぱりと否定され、布留式甕(かめ)では液体は漏れるので運べないとされ、液体を入れるのは甕ではなく壷(つぼ)だが、壷はそれほど移動していないとのことなのです。
 そこでわたしは更に質問を続け、液体でなければ何が入っていたのですかとお聞きしたところ、麻袋ではなく、わざわざ甕に入れて運ぶのだから貴重なものと考えられるとのこと。わたしは更に食い下がり、貴重なものとは何ですかと問うたところ、「グリーンタフだと思います」とのこと。「グリーンタフ? 何ですかそれは」とお聞きしますと、緑色凝灰岩(green tuff)という緑色をした「宝石」で、小松市から産出するとのことです。
これを聞いて、「加賀の翁」が「三人立」の翁の一人に選ばれた疑問が氷解したのです。「加賀の翁」は緑色の「宝石」の原石を加賀の特産品として「都の翁」に献上したのです。
 「肥後の翁」は「鉄」を、「加賀の翁」はグリーンタフを布留式土器に詰めて都(筑紫)に上り、倭王に献上したので、その伝承が背景となり筑紫舞を代表する「翁の舞」の登場人物として現代まで舞い続けられているのです。こうなると、次なるテーマは「五人立」「七人立」に登場する他の翁についても、その特産品(献上品)が気になります。引き続き、調べてみたいと思います。とりあえずは、米田先生に感謝です。


第985話 2015/06/21

未完成山城「見せる城」説への疑問

 「洛中洛外日記」983話で紹介しました亀田修一さんの好論文「古代山城は完成していたのか」(『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』熊本県教育委員会、2014年)に、未完成に終わった神籠石山城について、未完成の理由として当初から街道などから見える部分のみの造営であったとする「見せる城」説なるものが紹介されていました。この「見せる城」説は「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」(『月刊地図中心』453、2010年)で向井一雄さんが提唱されたもので、今回はこの説について考察します。
 亀田さんは先の論文で次のような興味深い考察を示されています。

「このように神籠石系山城に未完成のものが多いという意識で古代山城全体を見てみると、以前から検討されてきた築城時期の問題に関しては、朝鮮式山城より古い城で未熟であったため工事が止まったという考えも成立するように思われるし、逆に7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止したとも考えられ、やはり答えは簡単に出そうにない。」(35頁)
「まず、完成した山城の場所はそれぞれの地域の中に重要な場所であることが改めてわかる。そしてやはり記録にもあるように古い段階から築城され始めたのではないかと推測される。
未完成の山城は、意図的な未完成なのか、それとも否応なしの未完成なのか。「見せる城」という意識は当然存在したと思われる。ただ、それによって当初から、たとえば一部しか造ることを考えていなかったのか、それとも工程の関係で停止し、そのままになったのか、などによって築城時の様子が推測できそうである。そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」(37頁)

 このように亀田さんは未完成山城の「未完成」理由として「見せる城」説を紹介しながら、他方、「そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」とのするどい指摘をされています。この亀田さんの指摘に答えたものが、「洛中洛外日記」983話で記した「ONライン(701年)」による未完成とする考えでした。7世紀末に発生した九州王朝から大和朝廷への列島内権力交代が、未完成山城の発生理由としたものです。これこそ、亀田さんが言われるように「7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止した」事情なのです。
 しかし大和朝廷一元史観ではこのような「政治・社会情勢」を想定しない(できない)ため、「見せる城」という「無理筋」の仮説を提起せざるをえないという状況に陥いるのではないでしょうか。
 現在わたしが再読中のクラウゼヴィッツの『戦争論』には、「第六篇 防御」で「山地防御」について次のように考察されています。
 クラウゼヴィッツによれば、山地防御は歩兵火器の進歩などにより経験的に見てもそれほど効果的な防御ではないとのこと。その理由は攻撃側が防御ラインを迂回して攻撃するので、それを防ぐために防御側は防御ラインを横へ横へと広げなければならず、その結果、防御側の兵員が分散配置で手薄になった防御ライン正面に対して、攻撃側が兵力を集中させ一点突破をはかるので、山地の地形を利用した防御ラインもそれぼと効果的ではなくなるとされています。
 そのため、山地防御をより効果的にするために要塞化するという防御思想が形成され、古代山城はまさにその典型と思われます。この要塞化とは攻撃側の迂回攻撃を無意味にするために、山の周囲に防塁を造るわけですが、これこそ神籠石山城や大野城の姿なのです。従って、街道から見えるところだけに「防塁(見せる城)」を造営するというのは、本来の意味での防御の体をなしていません。せいぜい虚仮威しの「防御施設」のようなものでしかないのです。
 このような虚仮威しに屈する侵略者がいるのかどうかは知りませんが、虚仮威しにしては神籠石山城はその巨石の運搬や築城の技術、さらにその上に盛る版築技術など、かなりの労力と高度な築城技術が必要であり、そこまで労力をつぎ込んで防御の役に立たない虚仮威しのための施設(当初から「未完成」を前提とした山城・見せる城)を造る古代権力者を、わたしにはちょっと想像できません。
 こうしたことから、未完成山城の未完成の理由は、やはり亀田さんが言われるように「途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したもの」であり、その政治・社会情勢こそ九州王朝から大和朝廷への権力交代政変「701年王朝交代(ONライン)」にあったと考えられるのです。
 なお、わたしは「見せる城」説を提起された向井一雄さんの「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」を未見ですので、拝読した上で改めて意見を述べたいと思います(インターネット上に掲載されている向井さんの説は拝見しました)。向井さんは学界を代表する古代山城の専門家にふさわしく、多くの研究論文を発表されており、それらはとても勉強になりますし、刺激も受けています。たとえば、「西日本の古代山城遺跡 -類型化と編年についての試論-」(1991年、『古代学研究』第125号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しをのべられているとのことです。非常に興味深い視点です。こちらの論文も是非拝読したいと思います。


第984話 2015/06/20

九州王朝の御子孫が例会参加

 本日の関西例会には大阪市在住の隈(くま)さんが初参加されました。そのお名前が気になり、どちらのご出身ですかとお聞きしたところ、久留米市大善寺とのこと。やはりそうだったのかと思いました。というのも、九州王朝の王族と思われる高良玉垂命の9人の皇子(九躰皇子)の「長男」シレカシ命の御子孫が大善寺玉垂宮の神官の隈家とされており、その御一族のようです。隈さんのお話でも、久留米市大善寺には隈を名乗る家が多いとのことです。
 大善寺玉垂宮の史料には端政元年(589年)に玉垂命が崩御されたとあります。その次代の天子が有名な「日出ずる処の天子」阿毎多利思北孤ですから、隈さんは九州王朝の天子の一族の御子孫ということになります。関西例会で九州王朝の御子孫にお会いでき、とても驚きました。ちなみに、隈さんは「古田史学の会」ホームページに掲載されたわたしの「九州王朝の筑後遷宮」にある大善寺玉垂宮の隈氏に関する記事を読まれ、関西例会に参加されたとのことでした。
 6月例会の発表は次の通りでした。

〔6月度関西例会の内容〕
①元嘉暦が11年ずれたとしたら(高松市・西村秀己)
②再び、日本列島の「倭人」国と朝鮮半島の内の「倭」について(奈良市・出野正)
③中国の王朝は二倍年暦か?(奈良市・出野正)
④再び「倭人貢暢」論議(奈良市・出野正)
⑤相撲の起源(京都市・岡下秀男)
⑥推古紀が明かす近畿朝の真統譜(大阪市・西井健一郎)
⑦大化改新の論点を整理する(八尾市・服部静尚)(八尾市・服部静尚)
⑧「神武東征譚」はリアルか、また、ニギハヤヒ王朝からの「譲位・譲国」ではなかった?(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(『三国志』短里問題の論文執筆。『古代に真実を求めて』次号に掲載予定、『隋書』「犬を跨ぐ」が原文、「志賀島の金印」出土地に疑義、神社の狛犬はライオンか犬か、来日した最初の僧はインドから?)・新年度の会役員人事・5/17会計監査実施・5/23「古田史学の会・四国」と大阪で懇親会・「船の科学館」で南極観測船宗谷を見学・テレビ視聴(NHK歴史ヒストリア「古代日本の愛の力」)・その他


第983話 2015/06/17

神籠石山城のONライン(701年)

 「洛中洛外日記」981話で鞠智城の8世紀初頭の一時廃絶とその理由について述べましたが、神籠石山城でも似たような現象があることに気づきました。
 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』(熊本県教育委員会、2014年)に掲載されている亀田修一「古代山城は完成していたのか」によれば、『日本書紀』などの史料に記されている「朝鮮式山城」6遺跡と記録に見えない「神籠石山城」16遺跡中、外壁・城門などが完成しているものは大野城・基肄城・金田城・鞠智城・鬼ノ城・御所ケ谷神籠石の6遺跡で、明確に未完成と見られるものは唐原山城跡・阿志岐城跡・鹿毛馬神籠石・女山神籠石・おつぼ山神籠石・播磨城山城跡など6遺跡以上とのことです。
 いわゆる「朝鮮式山城」に比べて「神籠石山城」の方が未完成のものが多いことがわかります。九州王朝説から見れば、首都太宰府防衛を目的とした主要山城である大野城・基肄城、そして朝鮮半島との中継基地でもある対馬の金田城が完成形であることは当然でもあります。他方、唐との戦いに備えて急いで造営されたと思われる神籠石山城に未完成のものが多いというのも、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したONライン(701年)の存在からすれば、造営主体である九州王朝の滅亡により、完成を待たずして放置されたと考えることができます。すなわち、近畿天皇家という「親唐政権」が列島の代表権力者になったため、神籠石山城の必要性も減少したのではないでしょうか。
 ここで注目されるのが鬼ノ城です。鬼ノ城は神籠石一段列石と積石タイプの石垣とが併用された山城ですが、太宰府から遠く離れているにもかかわらず、完成形の山城です。九州王朝の首都太宰府を防衛する大野城・基肄城と同様に完成した山城ということですので、太宰府に準ずるような防衛すべき都市や重要人物が近隣にいたためではないでしょうか。
 そうした視点で鬼ノ城を見たとき、『日本書紀』天武8年条(679年)に見える「吉備大宰」の石川王の記事が注目されます。九州王朝の高官と同じ「大宰」と称された石川王が吉備にいたのですから、完成した山城の鬼ノ城と無関係とは考えられません。この「吉備大宰」も九州王朝説により研究が必要です。(つづく)


第982話 2015/06/16

大宰府政庁遺構の字地名「大裏」

 「洛中洛外日記」971話などで、近畿天皇家の宮殿遺構の「権力者地名」について考察しました。その結論は「大極殿」や「大宮」などの権力者に由来する地名は残っていたり無かったりと一様ではなく、他方「天皇号地名」は付けられていた痕跡がないことを述べました。それでは九州王朝ではどうだったのでしょうか。今回はこの問題について考えてみることにします。
 九州王朝の王宮として「大宰府政庁」遺構について見てみますと、その地の字名「大裏」が注目されます。このほかにも「紫宸殿」という地名があったこともわかっています。ところが、大宰府政庁Ⅱ期の遺構は朝堂院様式の「政治の場」ではありますが、天子の生活の場としての「内裏」遺構が無いのです。あるいは「貧弱」なのです。このことは伊東義彰さん(古田史学の会・前会計監査)から指摘されてきたところでした。
 他方、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されており、字地名「内裏」の位置が現在の政庁遺跡とは異なっているのです。
 この問題がずっと気になっていたのですが、改めて地図を精査すると、「大裏」という字地名はかなり広範囲に広がっており、田中政喜さんの指摘のように、蔵司の丘陵の北側もこの「大裏」に含まれているのです。しかも、発掘調査報告書によれば蔵司の北側に「政庁後背地区」遺跡があり、規模も位置も「内裏」にふさわしいものです。すなわち、字地名「大裏(内裏)」の本来の場所は「政庁後背地区」であり、後に「政庁」もこの字地名内になったのではないでしょうか。なぜなら、「政庁」は「政庁」であり、場所も規模も「内裏」とするには不適切だからです。
 以上の結論から、「大宰府政庁Ⅱ期」遺構はいわゆる「朝堂」(政治の場)であり、天子が生活していた「内裏」は蔵司丘陵の北側に広がる「政庁後背地区」(本来の字地名「内裏」の淵源の地)だったとすることが可能です。すなわち、薩夜麻が帰国後に住んだところが「政庁後背地区」であり、政治の舞台が「政庁Ⅱ期」の宮殿だったのではないでしょうか。この仮説の当否は「政庁後背地区」遺構の編年などを調査してから判断することになりますが、天子が住むには「大宰府政庁」遺跡は狭すぎると伊東さんから指摘されていた課題については、一つの解決案になるかもしれません。
 このように九州王朝の宮殿であった「大宰府政庁」には権力者に由来する地名「大裏(内裏)」などは遺存していますが、九州王朝の天子号(多利思北孤・薩夜麻、あるいは一字名称の讃・珍・済・興・武など)らしきものは見つかりません。この現象は、近畿天皇家の宮殿(藤原宮・難波宮・平城宮・長岡宮)と同様と言えそうです。


第981話 2015/06/14

鞠智城のONライン(701年)

 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集などを精読していますが、次から次へと発見があり、興味が尽きません。今回は鞠智城の編年に関して大きな問題に気づきましたので、ご紹介します。
 現在までの研究によると、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期〜7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末〜8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半〜8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期〜9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期〜10世紀第3四半期

※貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第一号』(熊本県教育委員会、2013年)による。

 貞清さんの解説によれば、Ⅰ期は鞠智城草創期にあたり、663年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
 Ⅱ期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形建物が建てられ、『続日本紀』文武2年(698)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
 Ⅲ期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。
 Ⅳ期では、Ⅱ・Ⅲ期の「管理棟的建物群」が消失しており、城の機能が大きく変容したと考えられています。礎石建物群が大型化しており、食料備蓄施設としての機能が主体になったとされています。
 Ⅴ期は終末期で、場内の建物数が減少しつつ大型礎石建物が建てられ、食料備蓄機能は維持されるが、10世紀第3四半期には城の機能が停止します。
 以上のように鞠智城の変遷が編年されていますが、土器による相対編年の暦年とのリンクが、主には『日本書紀』や『続日本紀』に依っていることがわかります。特に築城を『日本書紀』天智4年(665)条に見える大野城・基肄城築城記事と同時期とみなし、665年頃とされているようです。更に隆盛期のⅡ期を『続日本紀』文武2年(698)条の「繕治」記事の頃とリンクさせています。
 通説とは異なり、大野城築城は白村江戦以前ですし、修理が必要な時期を「隆盛期」とするのもうなづけません。既に何度も指摘してきたところですが、太宰府条坊都市や太宰府政庁Ⅰ・Ⅱ期の造営は通説より30〜50年ほど古いことが、わたしたちの研究や出土木注の年輪年代測定法により判明しています。すなわち須恵器などの7世紀の土器編年が、九州では『日本書紀』の記事などを根拠に新しく編年されているのです。この「誤差」を修正すると、先の鞠智城編年のⅠ・Ⅱ・Ⅲ期は少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなるのです。
 このように理解すると、土器の出土が皆無となるⅢ期は7世紀第4四半期後半から8世紀第2四半期となり、古田先生が指摘されたONライン(701年)の頃にピッタリと一致するのです。すなわち、九州王朝の滅亡により鞠智城は「土器無出土(無人)」の城と化したのです。これは九州王朝説であれば当然のことです。九州王朝の滅亡に伴い九州王朝の鞠智城は「開城」放棄されたのです。一元史観では、この鞠智城の「無土器化(無人化)」の理由を説明できません。
 そしてそのタイミングで大和朝廷は文武2年(698)に放棄された大野城・基肄城・鞠智城の占拠と修理を命じたのです。このように多元史観・九州王朝説による土器編年とのリンクと王朝交代という歴史背景により、鞠智城の謎の「Ⅲ期の無土器化(無人化)」現象がうまく説明できるのです。なお、鞠智城の編年問題については引き続き論じる予定です。

〔参考資料〕鞠智城出土土器数の変化
年代          出土土器個体数
7世紀第2四半期    10
7世紀第3四半期    23(鞠智城の築城)
7世紀第4四半期〜8世紀第1四半期 181
8世紀第2、3四半期   0
8世紀第4四半期    40
9世紀第1四半期     5
9世紀第2四半期     4
9世紀第3四半期    88
9世紀第4四半期    30
10世紀第1四半期    0
10世紀第2四半期    0
10世紀第3四半期    8(鞠智城の終末)

出典:柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第二号』(熊本県教育委員会、2014年)による。


第980話 2015/06/13

35年ぶりに『戦争論』を読む

 先日、京都駅新幹線ホーム内にある本屋で川村康之著『60分で名著快読 クラウゼヴィッツ「戦争論」』(日経ビジネス人文庫)が目にとまり、パラパラと立ち読みしたのですが内容が良いので購入し、出張の新幹線車内などで読んでいます。著者は防衛大学を卒業され自衛隊に任官、その後、同大学教授などを歴任され、昨年亡くなられたとのこと。日本クラウゼヴィッツ学会前会長とのことですので、どうりで『戦争論』をわかりやすく解説されているわけで、納得できました。
 クラウゼヴィッツの『戦争論』は古典的名著で、わたしも20代の頃、岩波文庫(全3冊)で読みましたが、当時のわたしの学力では表面的な理解しかできず、その難解な表現に苦しんだ記憶があります。集団的自衛権や安保法制、そして中国の海洋侵略やアメリカとイスラム国との戦争など、世界は大戦前夜のような時代に突入していますから、川村さんの解説に触発されて、書棚から35年前に読んだ『戦争論』を引っ張り出し、再読しています。
若い頃読んで重要と感じた部分には傍線を引いており、当時の自分が『戦争論』のどの部分に関心を示していたのかを知ることができます。傍線は主に「第一篇 戦争の本性について」「第二篇 戦争の理論について」「第三篇 戦略一般について」の部分に集中していることから、実践的な面よりも戦争理論や哲学性に興味をもって読んでいたようです。
 今回は「第六篇 防御」を読んでいます。その理由は、古代九州王朝における水城や大野城山城・神籠石山城がどの程度対唐戦争に効果的であったのかの参考になりそうだからです。というのも「第六篇」には「要塞」「防御陣地」「山地防御」「河川防御」といった章があり、防御側と攻撃側のそれぞれのメリット・デメリットが考察されており、九州王朝の防衛戦略を考察する上でとても参考になります。
 通常、攻撃よりも防御の方が戦術的には有利で、攻撃側は防御側の3倍の戦力が必要とされています。したがって、九州王朝は九州本土決戦で防御戦略を採用していれば唐に負けていなかったと思われます。もちろん「防御」ですから、戦力の極限行使による絶対的戦争の勝利は得られませんが、とりあえず国が滅亡することは避けられます。しかし、九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。現代の経営戦略理論でも同盟(アライアンス)は重視されますが、「行動は共にするが、運命は共にしない」というのが鉄則です。九州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。この点、日露戦争や大東亜戦争の開戦動機との比較なども、今後の九州王朝研究のテーマの一つとなりそうです。
 他方、朝鮮半島で勝利をおさめた唐は賢明でした。倭国本土での絶対戦争ではなく、薩夜麻を生かして帰国させ、日本列島に「親唐政権」を樹立するという政治目的を自らの軍事力を直接的に行使することなく成功させました。やはり、軍事力でも戦争理論でも唐は九州王朝よりも一枚上手だったということでしょう。『戦争論』の再読が完了したら、これらのテーマについて深く考察したいと思います。