九州王朝(倭国)一覧

第506話 2012/12/21

九州王朝の「開戦の詔勅」

 九州王朝が同盟国の百済復興のため、唐と新羅の連合軍と戦い、白村江の海戦で大敗北を喫し、その後滅亡へと進みました。白村江戦は九州王朝史のクライマックスシーンの一つでしょう。
 この白村江戦にあたり、九州王朝では「開戦の詔勅」が出されたはずと最近考えていました。そこで、『日本書紀』にこの「開戦の詔勅」が遺されているので
はないかと、斉明紀を読みなおしたところ、やはりありました。斉明六年(660)十月条です。百済からの援軍要請と、倭国に人質となっていた百済国王子豊
璋を帰国させ王位につけたいという百済側の要請に応え、百済支援の詔勅が出されています。
 もちろん、『日本書紀』編纂時の造作かもしれませんが、『日本書紀』には九州王朝史書の盗用がかなり見られますので、この「開戦の詔勅」も同様に九州王朝史書からの盗用と思われます。
 わたしはこの「開戦の詔勅」中の次の文が気になっています。

 「将軍に分(わか)ち命(おほ)せて、百道より倶(とも)に前(すす)むべし。雲のごとく会ひ雷のごとく動きて、倶に沙喙(さたく)に集まらば、(以下略)」

 沙喙(さたく)とは新羅の「地名」(六部の一つ。行政地域名)とされており、百道からともに進み沙喙に集まれと命じているのです。沙喙が実際に新羅にあった「地名」ですから、「百道」も具体的な倭国内の地名ではないかと考えたのです。
 というのも、「百道」とは数詞としての「100の道」とは考えにくいのです。たとえば『日本書紀』では数詞の100であれば、「一百」と記すのが通例で
す。「一」がつかない「百」の場合は、国名としての百済(くだら)や人名の百足(ももたり)などのように固有名詞の一部に使用されるケースと、「百姓」
「百僚」などのような成語のケースがあります。「百道」が固有名詞(地名)か成語かはわかりませんが、もし地名だとすれば、博多湾岸にある地名「百道(も
もち)」との関係が気になるところです(早良区、福岡市立博物館などがあります)。
 斉明六年の詔勅中の「百道」を博多湾岸の「百道(ももち)」ではないかとするアイデアは、二十数年前に灰塚照明さん(故人。当時、「市民の古代研究会・
九州」の役員)からうかがった記憶があり、以来、気になり続けた問題の一つでした。今回、九州王朝の「開戦の詔勅」というテーマから再考していますが、そ
の可能性はありそうです。(つづく)


第502話 2012/12/08

『万葉集』の中の短里

 古田先生の『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)には『万葉集』の中の短里についても紹介されています。

 「筑前国怡土郡深江の村子負(こふ)の原に臨める丘の上に二つの石あり。(中略)深江の駅家(うまや)を去ること二十余里にして、路の頭(ほとり)に近く在り。」(『万葉集』巻第五、八一三、序詞。天平元=七二九年~天平二年の間)

 「二つ石」(鎮懐石八幡神社)と深江の駅家との距離を二十余里とする記事なのですが、実測値は1500~2000mの距離であり、短里(77m×20~25里=1540~1925m)でぴったりです。これが八世紀の長里(535m)であれば、短里の約7倍ですから全く当てはまりません。
 八世紀の天平年間に至っても北部九州(福岡県糸島半島)では短里表記が残存していた例として、この『万葉集』巻第五、八一三番歌の序詞は貴重です。
 『三国志』倭人伝の短里の時代(二世紀)から八世紀初頭まで同じ短里が日本列島内で使用されていたわけですから、まさに九州王朝は「短里の王朝」といえるでしょう。それが、八世紀に入ると長里に変更されていくわけですから、この史料事実こそ九州王朝から大和朝廷への列島内最高権力者の交代という、古田先生の多元史観・九州王朝説の正しさをも証明している一事例(里程論、里単位の変遷)なのです。
 他方、大和朝廷一元史観の旧説論者はこれら歴史的史料事実を学問的論理的に全く説明できていません。岩波の『日本書紀』『風土記』『万葉集』の当該箇所「解説注」を読んでみれば、このことは明白なのです。


第500話 2012/12/5

『日本書紀』の中の短里

 第499話で紹介した正木裕さんとの会話で、古代貨幣以外にも『日本書紀』の中に見える「短里」についても話題に上りま
した。南嶋と九州王朝との関連記事について、下記の天武十年八月条の「五千余里」が短里表記であり、この「京」とは太宰府のことと正木さんは指摘されまし
た。

 「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」(『日本書紀』天武十年八月条)

 この記事の「五千余里」を短里表記とする見解は20年以上も前から出されていました(どなたが最初に発表されたのかは失
念しましたが)。太宰府から短里(1里約77m)であれば、五千余里は約400km弱となり、種子島までの距離としてぴったりです。これが、大和からとす
ると短里でも長里(1里約450~500m)でも種子島には着きません。すなわち、短里では種子島まで全く届きませんし、長里では行きすぎてはるか沖縄の
南方海上となってしまうからです。
 従って、この記事は「短里」存在の証明と、「京」が九州王朝の都(太宰府)であることの証拠でもあるのです。そしてこれらのことから、天武十年(681)の多禰國の記事は九州王朝史書からの盗用と考えざるを得ないのです。
 ここまでは古田学派では「常識」のことなのですが、正木さんと検討したのはこの後の問題でした。それでは日本列島ではいつ頃まで短里が使用されたのかというテーマです。(つづく)


第488話 2012/10/28

多元的木簡研究のすすめ

 第485話で紹介しました原幸子さん(古田史学の会々員)からの質問、「大化改新の宮はどこか」という問題について、昨日、正木裕さんとディスカッションしました。

 『日本書紀』大化二年条(646)に記された改新詔は九州年号の大化二年(696)に藤原宮で出されたとする説をわたしは発表していたのですが、藤原宮朝堂東側回廊の完成が大宝三年(703)以降であることが出土木簡から判明したため、696年に大極殿など主要宮殿が完成していたことが疑問視されているのです。さらに突き詰めれば、天武期(680年代)には造営が開始されていた藤原宮ですが、その回廊が703年に至っても完成していなかったということに、わたしは深い疑問を抱いたのです。

 こうした疑問もあり、正木さんと意見交換を行いました。まだ結論は出ていませんが、何か重要な視点(仮説)が抜け落ちているような気がしています。たとえば『日本書紀』で持統が694年に遷都したとされる「藤原宮」は発掘された藤原宮(鴨公村大宮土壇)と同じなのか、697年に文武が即位した宮殿はどこなのか、大宝元年(701)に文武が朝賀の儀式を行った宮はどこかといった問題を通説にとらわれず丁寧に再調査する必要を感じています。

 ちなみに、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)は文武が即位したのは(飛鳥)清原大宮とする説を発表されていますが、古田先生も同様の見解を京都で発表されました(10月21日、「森嶋学と日本古代史」京都市下京区旧・成徳中学校舎にて)。

 7~8世紀における九州王朝から近畿天皇家への権力交代を研究するうえで、同時代史料である木簡の多元史観による研究は不可欠です。このことを正木さんに提案し、「多元的木簡研究会」を立ち上げることで合意しました。具体的なことはこれから検討していきますが、将来的には研究成果を書籍として出版したいと考えています。


第477話 2012/10/02

「三経義疏」九州王朝撰述説

 今日は仕事で綿業会館(大阪市中央区)を訪問しました。同会館は旧東洋紡関係者からの寄付により建てられた歴史的建築物
です(重要文化財・昭和6年完成)。高層建築ではありませんが(6階)、内部は天井も高く、内装にも重厚感があり、わたしは気にいっています。商業ビルと
して繊維関連団体や企業が入居しており、今も現役で活躍している重要文化財です。周囲には日本毛織やトーア紡・丸紅などの繊維・アパレル関連企業のビルが
林立しており、まさに「繊維街」と呼ぶにふさわしいエリアにあります。
 さて、476話で触れました石井公成さんの論稿で、わたしが最も注目したのが「三経義疏」が「国産」であり、同一人物による撰述の可能性を指摘されたこ
とです。もしこのことが正しければ、古田説では『法華義疏』は九州王朝の天子、上宮法皇(多利思北弧)が集めた国産の本ですから、他の『勝鬘経義疏』『維
摩経義疏』も九州王朝内で集められた同一人物撰述による「国産」の本ということになります。
 そうすると、今回中国で見いだされた『維摩経義疏』残巻末尾の九州年号「定居元年」を含む二行も、定居元年(611)での加筆であれば九州年号を使用し
ている人物によるものであり、後代追記であれば、やはり九州年号を知っている人物によるものとなり、いずれにしても九州王朝内あるいは九州年号の影響下
(九州年号の歴史的実在を疑っていない)で成立したことになります。
 こうした理解から、九州年号「定居元年」を含む二行を、九州王朝の存在が忘れられた近代の中国人による追記とする韓昇さんの説は成立困難と思われるので
す。しかしながら、やはり現物を見てからしか「結論」は出せません。先走りすることなく、時間をかけて研究したいと思います。(つづく)


第456話 2012/08/21

古田武彦コレクション『壬申大乱』復刻

 ミネルヴァ書房より古田武彦古代史コレクション『壬申大乱』が復刻されました。既に復刻された『人麿の運命』『古代史の十字路』とともに、古田万
葉論三部作がそろいました。『壬申大乱』は万葉論にとどまらず、『日本書紀』の「壬申の乱」(天武紀上巻)の史料批判としても画期的な一冊です。
 天武紀の「壬申の乱」については、これまで多くの歴史研究者や作家により、さまざまな研究や解釈が重ねられてきました。それは、『日本書紀』の中で他に
類を見ないほど「壬申の乱」が日付入りで詳細な「記録」が記されていることもあり、様々な論者の注目を浴びやすかったことも一因としてあります。
 他方、古田先生はこの「壬申の乱」については著書や講演会でふれられることはありませんでした。15年以上も昔のことになりますが、なぜ「壬申の乱」に
ついて触れられないのか、古田先生に直接おたずねしたことがあります。そのとき、古田先生の返答は次のようなものでした。
 「『日本書紀』天武紀の壬申の乱の記述は詳しすぎます。これは逆に真実かどうか怪しい証拠です。そのような記述を信用して論をなすことは危ない。」
 というものでした。この先生の言葉に、歴史研究とはかくあらねばならないのか、と深く感銘したものです。今回の『壬申大乱』には、こうした学問の方法に
貫かれた、まったく新たな「壬申大乱」像を読者は見ることができるでしょう。古田ファンには是非読んでいただきたい、珠玉の一冊です。
 また、巻末に新たに書き下ろされた「日本の生きた歴史」では、最新の研究成果が記されています。中でもわたしが注目したのが、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄
剣銘の新理解でした。同銘文にある人名「乎獲居臣」の「臣」は「豆」とする新説や、「左治天下」の「天下」をアマ族が天下った支配領域とする新解釈などで
す。こうした古代金石文の新理解は、他の金石文、たとえば出雲の岡田山1号墳出土の「各田ア臣(ぬかたべのおみ)」銘鉄刀の「臣」や、江田船山古墳出土鉄
剣銘の「治天下」などについても、波及しそうで楽しみです。


第454話 2012/08/12

久留米は日本の首都だった

 9月1日(土)に久留米大学の公開講座で講演します。テーマは九州王朝史概論で「久留米は日本の首都だった」という内容です。15日には正木裕さんも講演されます。詳細は久留米大学ホームページをご覧ください。故郷の馴染み深い久留米大学御井キャンパスでの講演をとても楽しみにしています。ちなみに、わたしは同大学の近隣にある御井小学校を卒業しています。
 同公開講座てで配布されるパンフレットに掲載されるレジュメを下記に転載します。

 久留米は日本の首都だった
     -九州王朝史概論-
    古賀達也(古田史学の会・編集長)
 古田武彦氏が『失われた九州王朝』(朝日新聞社・1973)において、古代中国史書などで「倭国」と記されてきた日本列島の中心王朝は近畿天皇家(大和朝廷)ではなく、太宰府を首都(7世紀)とした九州王朝であることを明らかにされた。すなわち、志賀島の金印を授与された委奴国(1世紀頃)を縁源とする、後に三国志魏志倭人伝に邪馬壱国と称された王朝である(2~3世紀。「邪馬台国」とするのは「ヤマト国」と訓みたいための原文改訂であり、学問的には誤った手法である。)。
 6~7世紀、隋書によれば倭国(「イ妥国」と記されている)には阿蘇山があることも記されており、引き続いて北部九州に都をおいていたことがわかっている。7世紀初頭には、その王「阿毎の多利思北弧」が隋の皇帝に国書を出し、それには「日出ずるところの天子」と自称されている。旧来の日本古代史学界では、この国書を近畿天皇家の聖徳太子によるものとしてきた。しかしそれは誤りであり、古田武彦氏が指摘するように、阿蘇山がある国、九州王朝の国書であることは自明といえよう。
 九州王朝(倭国)は白村江敗戦後の7世紀末には衰退し、701年には倭国の分家筋に当たる近畿の大和朝廷が列島の代表王朝となった。旧唐書に「日本国」と記されているのが大和朝廷である。旧唐書には「日本国は倭国の別種」と記されていることからも、このことは明らかである。
 古田武彦氏による九州王朝説は多くの支持者を得た反面、旧来の日本古代史学界はこれに有効な反論をなし得ず、あろうことか無視を続け、今日に至っている。他方、九州王朝研究の進展に伴い、九州王朝の年号が記された木簡「(白雉)元壬子年(652年)」(芦屋市出土)などが発見された。それら九州年号研究は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2011)などで発表され、反響をよんでいる。
 このように古田武彦氏の九州王朝説は「多元的歴史観」として、歴史の真実を求める心ある人々からは学問的に正当に評価されているのである。今回の公開講座では、こうした九州王朝史を概説し、7世紀初頭に九州王朝が太宰府を首都としたこと、4~6世紀には筑後地方(中心は現・久留米市)に首都をおいていたことを、文献史学などの成果により明らかにする。さらには、今も筑後地方に九州王朝の末裔の家系が続いていることも紹介する。


第451話 2012/08/08

藤原宮時代の国名は「日本」?

 今日は名古屋から東京に来ています。東京も暑いですが、京都や名古屋よりはまだましなようです。その暑い最中、新日本橋からJR神田駅まで歩いたのですが、道を間違って随分遠回りしてしまいました。今は神田駅近くのスタバでアイスコーヒーブレークしています。
 第447話で、藤原宮出土「倭国所布評」木簡についてご紹介したのですが、わたしはこの木簡にかなり衝撃を受けました。この木簡に記された「倭国」につ いて、7世紀末の王朝交代時期に、近畿天皇家が九州王朝の国名「倭国」を自らの中枢の一地域名(現・奈良県)に盗用したものと推察したのですが、より深い疑問はここから発生します。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。この疑問です。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた7世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。先の木簡の例でいえば「倭国所布評」は、「日本国倭国所布評」ということです。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、今までは701年以後とわたしは何となく考えていたのですが、今回の論理展開が正しけれ ば、701年よりも前からということになるのです。
 このような論理展開の当否を含めて、7世紀末の王朝交代時期にどのような経緯でこうした国名自称がなされたのか、九州王朝説の立場から、よく考えてみる必要がありそうです。
 さて、ようやく身体が冷えてきましたので、これからもう一仕事(近赤外線吸収染料のプレゼン)します。今晩は東京泊で、明日はまた名古屋に向かいます。


第447話 2012/07/22

藤原宮出土「倭国所布評」木簡

 このところ毎日のように奈良文化財研究所HPの木簡データベースを閲覧しています。いくつかは「洛中洛外日記」でも紹介してきましたが、特に注目した木簡が藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。データベース によれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。

 これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(701年)よりも前で、藤原宮から出土していますから、7世紀末頃のものと推測できます。まさに、近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡といえます。中でも驚いたのが「倭国」という表記です。

 『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名として「倭国」と記されているのですが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)」国を「倭」国と表記されています。すなわち、九州王朝の国名「倭国」を、701年の王朝交代に伴って、近畿天皇家は自らの中枢領域の「やまと」に「倭」という表記を採用し、上代の時代から、あるいは中国史書に記された「倭」は自分たちのことであると、歴史改竄と国名盗用を行ったと、わたしたち多元史観・九州王朝説論者は考えてきました。

 ところが、この木簡の示すところでは、評制時代の7世紀末頃には、既に大和国(奈良県)を近畿天皇家は「倭国」と表記していたことになるのです。この史料事実は、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代が7世紀末頃から複雑な過程を経て行われたことをうかがわせます。古田学派の研究者も、こうした出土木簡が示す史料事実をより重視して、更なる研究を深めなければならないと思います。


第445話 2012/07/21

太宰府「戸籍」木簡の「政丁」

 太宰府市出土「戸籍」木簡の文字で、ずっと気にかかっていたものがありました。「政丁」という記載です。通常、木簡や大 宝二年西海道戸籍などでは、「正丁」という表記なのですが、大宰府出土の「戸籍」木簡には「政丁」とあり、意味は共に徴税の対象となる成人男子 (20~60歳)のことと思われるのですが、なぜ表記面積が紙よりも狭い木簡に、より画数の多い「政丁」が使用されるのかがわかりませんでした。

 ところが木簡の勉強を進めているうちに、同じ福岡県の福岡市西区元岡遺跡から出土していた木簡にも、「政丁」と記載されているものがあることを知ったの です。同遺跡からは、「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡も出土しており、この「壬辰年」は692年のこととされていますので、これら元岡遺跡出土の木簡は7世紀末頃のもののようです。

 この元岡遺跡出土の木簡によれば、7世紀末の筑紫では「政丁」という文字使いがなされていたと考えられ、大宰府「戸籍」木簡の「政丁」と一致しますから、九州王朝では「政丁」という表記が正字として採用されていたと考えていいようです。

 ONライン(701年)を越えた8世紀以降は、大宝二年西海道戸籍にある「正丁」に変更されていますから、ここでも九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の影響が見られるのです。

 なお、大宝二年御野国戸籍(美濃国。岐阜県)では、徴税対象となる「戸」を「政戸」と表記していますから、太宰府市や元岡遺跡から出土した木簡の「政丁」という表記との関係がうかがえます。通説では、大宝二年の御野国戸籍の様式は古い浄御原令によっており、西海道戸籍は新しい大宝律令によっていると見 られていますので、「政丁」「政戸」という表記は701年以前の古い様式であったとしてよいようです。

 このように木簡研究により、7世紀末の九州王朝や近畿天皇家の様子がリアルに復元できそうで、木簡研究の重要性を再認識しています。


第444話 2012/07/20

飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 昨日は関東から多元的古代研究会の皆さんが来阪され、難波宮跡などの見学をされ、夕方は「古田史学の会」のメンバーと研修会・懇親会が行われました。わたしも研修会で前期難波宮九州王朝副都説について説明させていただきました。これを機に、関東と関西の古田学派の交流が更に深まるものと期待しています。

 古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。

 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。

 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。この点、市大樹著『飛鳥の木簡 — 古代史の新たな解明』(146頁)では、この「天皇」木簡に対して、「現在、『天皇』と書かれた日本最古の木簡である。この『天皇』 が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い。」と されています。専門家らしく慎重な解説がなされており、ひとつの見識ではあると思いました。

 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。

 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。


第443話 2012/07/16

木簡に記された七世紀の位階

今日は祇園祭の宵山です。一年中で京都が最もにぎやかな夜。そして、明日はクライマックスの山鉾巡行です。今朝から御池 通には観覧客用の大量のイスが、車道二車線にびっしりと並べられています。これだけのイスをどこに保管していたのだろうと、疑問に思うほどの数のイスが河 原町通から新町通までの間に並べられるのですが、これも京都の風物詩一つです。

その一方で、北部九州を襲っている記録的豪雨。わたしの久留米市の実家や、うきは市の親戚の安否が心配で、毎日のように電話しています。ところが、京都市も北区で川が氾濫し、驚いています。拙宅は御所の近くですので、地形的にやや高台になっており、雨水が溢れる心配はないようです。さすがは「千年の都」 だけに、御所のある場所は歩いていても気づかないのですが、微妙に「高台」になっているのです。

さて、「戸籍」木簡に記されていた「進大弐」という位階の研究を続けていますが、『日本書紀』には、「進大弐」などが制定された天武14年条(685) 以外にも、大化期や天智紀にも位階制定・改訂記事がみえます。それらの位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかは実証的な研究が必要です が、その実在の当否は同時代金石文や木簡などによる検証が可能なケースがあります。

たとえば、『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる位階「大乙下」「小乙下」などは、「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されて おり、一緒に出土した「辛巳年」(681年)と記された木簡から、時代的にも『日本書紀』の記述と一致しており、これらの位階記事が歴史事実であったと考えられるのです。

したがって残された問題は、これら位階制度が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるのかという点なのですが、これも歴史学という学問の問題ですから、 史料根拠に基づいた実証的な研究と、論理的な検証が不可欠であることは言うまでもありません。もっと出土木簡の勉強を続けたいと思います。