『大安寺伽藍縁起』の
「小治田宮御宇太帝天皇」
『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)に見える天皇名表記で、推古天皇だけが異質です。同縁起冒頭部分(注①)に推古を次のように記しています。
(a)小治田宮御宇太帝天皇 (b)太皇天皇 (c)天皇
この中で(a)(b)が『日本書紀』には見えない異質の天皇名表記です。「太帝天皇」や「太皇天皇」のように同類の称号が二段になっている例は『古事記』『日本書紀』には見えない表記方法で、管見では古代の金石文や遺文には二人の人物に対して用いられています。推古天皇と九州王朝の天子、阿毎多利思北孤の二人です。後者は伊豫温湯碑に見える「法王大王」という表記です。前者の推古は当縁起の「太帝天皇」「太皇天皇」の他にもその用例が知られています。以下にそれら全てを列記します。
《阿毎多利思北孤・上宮法皇》
〔伊予温湯碑〕「法王大王」
《推古天皇》
〔大安寺伽藍縁起并流記資財帳〕「太帝天皇」「太皇天皇」
〔法隆寺薬師如来像光背銘〕「大王天皇」「小治田大宮治天下 大王天皇」
〔元興寺伽藍縁起并流記資財帳〕「大〃王天皇」
〔上宮聖徳法王帝説〕「大王天皇」「少治田大宮御宇 大王天皇」
このように何故か近畿天皇家では推古天皇だけが二段称号表記が見られます。九州王朝の多利思北孤の場合は、出家した天子〝法王〟と倭王の通称〝大王〟を併記したものと理解できますが、近畿天皇家の場合、なぜ推古だけにこうした二段表記にされたのかが問題です。この疑問を解く鍵が他ならぬ『大安寺伽藍縁起』の田村皇子(後の舒明天皇)の発言中にあります。
「田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺」
ここに見える「遠皇祖并大王」と「繼治天下天皇御世御世」の意味するところは、遠い皇祖の時代に並ぶ古(いにしえ)の称号は「大王」であり、それを継いで天下を治めたのが「天皇」を称号とする歴代の先祖であると、同縁起編纂者あるいは元史料の作成者が認識していたことを示しています。ですから、推古の称号「大王天皇」は、「大王」を称していた推古が「天皇」号を採用することができた〝最初の近畿天皇家の大王〟であるとする認識、あるいは歴史事実の反映ではないでしょうか。もし、初代の神武から天皇を称していたと認識していたのであれば、「遠皇祖并治天下天皇御世御世」とでも記せばよく、遠皇祖と治天下天皇の間に大王の存在を記す必要はないのですから。
この点、『古事記』『日本書紀』は初代の神武から天皇号表記を採用していますが、今回紹介した推古の二段称号問題は『日本書紀』などの〝神武から天皇を名のった〟という大義名分が史実ではないことを間接的に証言していたことになります。
それでは近畿天皇家がいつから天皇号を採用したのかについて、本テーマの考察が正しければ、古田先生晩年の説(王朝交代後の文武から)よりも、旧説(推古から)の方が妥当ということになります(注②)。ちなみに近畿天皇家一元史観内では、飛鳥池出土「天皇」木簡などの実証を主な根拠とする〝天皇号は天武から〟が有力になりつつあるように感じています。
(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の冒頭部分は次の通り。
「大安寺三綱言上
伽藍縁起并流記資財帳
初飛鳥岡基宮御宇天皇《舒明》之未登極位、號曰田村皇子、
是時小治田宮御宇太帝天皇《推古》、召田村皇子、以遣飽浪葦墻宮、令問廐戸皇子之病、勅、病状如何、思欲事在耶、樂求事在耶、復命、蒙天皇之頼、無樂思事、唯臣〔伊〕羆凝村始在道場、仰願奉爲於古御世御世之帝皇、將來御世御世御宇帝皇、此道場〔乎〕欲成大寺營造、伏願此之一願、恐朝庭讓獻〔止〕奏〔支〕、
太皇天皇《推古》受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、愛哉善哉、汝姪男自來問吾病矣、爲吾思慶可奉財物、然財物易亡而不可永保、但三寶之法、不絶而可以永傳、故以羆凝寺付汝、宜承而可永傳三寶之法者、
田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺、仍奉將妻子、以衣齋(裹)土營成而、永興三寶、皇祚無窮白、
後時天皇《推古》臨崩日之、召田村皇子遺詔、皇孫朕病篤矣、今汝登極位、授奉寶位、與上宮皇子讓朕羆凝寺、亦於汝〔毛〕授〔祁利〕、此寺後世流傳勅〔支〕、(以下略)」
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻、東京堂、1962年。《》内と段落分けは古賀による。
②古賀達也「七世紀の「天皇」号 ー新・旧古田説の比較検証ー」『多元』155号、2020年。