木簡一覧

第3037話 2023/06/09

律令制都城論と藤原京の成立(3)

 新庄宗昭さんが『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)で発表された諸仮説の大半については、わたしも同意見です。他方、新庄説のなかでも最も賛成できないテーマが、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期(新庄説)とするのか、天武期(通説)とするのかです。最大で約30年もの差異がありますので、考古学的出土物(エビデンス)により、どちらが妥当かは明らかになると思います。

 藤原宮と藤原京の造営経緯を簡単に言えば、藤原京条坊造営開始が先行し、一旦造った条坊道路や側溝などを埋め立てて、その上に藤原宮(大宮土壇)が造営されています。通説ではその年代を、天武期に条坊の造営が開始され、持統期に藤原宮が創建されたとします。

この年代観の根拠となったのが、藤原宮下層から出土した干支木簡です。「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記した木簡が三点あり、天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)に相当します。これらの木簡は藤原宮下層の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮下層条坊道路を掘削して造られたことが判明しています。従って、下層条坊の造営開始は天武十三年以前と考えることができ、更に下層遺構出土土器が藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しています。

 更に下層条坊遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されたことがわかっています。また、下層条坊の側溝出土土器(須恵器坏B)の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。考古学エビデンスである干支木簡(683~684年)や年輪年代(682年伐採)、出土土器(須恵器坏B)編年に基づけば、下層条坊の造営は天武期頃とするのが適切であり、孝徳期・斉明期とするのはさすがに無理とわたしは考えています(注③)。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
③古賀達也「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3030話 2023/06/03

九州年号「大化」「大長」の原型論 (10)

 九州王朝の記憶が失われた後代において、各史料編纂者が考えた末に、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の大宝元年に接続した各種年号立てが発生したとする作業仮説の検証過程を本シリーズで解説しました。その検証の結果、大長は701年以後に実在した九州年号であり、本来の姿は「朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)」になるとしました。これであれば、『二中歴』の年号立て「朱鳥(686~694年)→大化(695~700年)→大宝元年(701年)」を維持しながら、大長(704~712年)の存在と整合することから、基本的に論証は完成したと考えました。
一旦こうした仮説が成立すると、それまで誤記誤伝として斥けられてきた次の九州年号記事の存在がむしろ実証的根拠となり、自説は九州年号研究での有力説とされるに至りました。

○「大長四年丁未(七〇七)」『運歩色葉集』「柿本人丸」
○「大長九年壬子(七一二)」『伊予三島縁起』

 この他にも愛媛県松山市の久米窪田Ⅱ遺跡から出土した「大長」木簡も実見調査しましたが、こちらは「大長」を年号と確認するまでには至りませんでした(注①)。
そして九州年号「大長(704~712年)」実在説は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代研究に貢献することになります。直近では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による研究があり(注②)、注目されます。(おわり)

(注)
①古賀達也「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②正木裕「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐譚』」『古田史学会報』176号に掲載予定。


第2988話 2023/04/17

「九州王朝律令」復元研究の予察 (1)

 九州王朝律令についての指摘や考察は、古田先生をはじめ古田学派の研究者からも出されていました(注①)。しかしながら、それらは部分的なものであり、総体的な復元研究はなされて来なかったように思います。七世紀における律令制都城論を提起してきたことでもあり、この機会にその輪郭だけでも押さえておきたいと思います。

 残念ながら「九州王朝律令」そのものは遺っていませんから、九州王朝時代の七世紀における諸史料中に見える、律令制の断片史料を検討することにします。最初に木簡や金石文に見える官司名(官職名)を紹介します。

【七世紀(九州王朝時代)の官職名】《木簡・金石文》

○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(辛巳年・621年)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃、注②)
○「太政官兼刑部」 小野毛人墓碑(丁丑年・677年)
○「大弁官」 采女氏榮域碑(己丑年・689年)
○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「御史官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、平成五年(1993)。ミネルヴァ書房より復刻。
増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。
古賀達也「洛中洛外日記」100話(2006/09/30)〝九州王朝の「官」制〟
同「洛中洛外日記」1978話(2019/08/31)〝「九州王朝律令」による官職名〟
②古賀達也「洛中洛外日記」97話(2006/09/09)〝九州王朝の部民制〟


第2977話 2023/03/30

『大安寺伽藍縁起』の

  「小治田宮御宇太帝天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)に見える天皇名表記で、推古天皇だけが異質です。同縁起冒頭部分(注①)に推古を次のように記しています。

(a)小治田宮御宇太帝天皇 (b)太皇天皇 (c)天皇

 この中で(a)(b)が『日本書紀』には見えない異質の天皇名表記です。「太帝天皇」や「太皇天皇」のように同類の称号が二段になっている例は『古事記』『日本書紀』には見えない表記方法で、管見では古代の金石文や遺文には二人の人物に対して用いられています。推古天皇と九州王朝の天子、阿毎多利思北孤の二人です。後者は伊豫温湯碑に見える「法王大王」という表記です。前者の推古は当縁起の「太帝天皇」「太皇天皇」の他にもその用例が知られています。以下にそれら全てを列記します。

《阿毎多利思北孤・上宮法皇》
〔伊予温湯碑〕「法王大王」

《推古天皇》
〔大安寺伽藍縁起并流記資財帳〕「太帝天皇」「太皇天皇」
〔法隆寺薬師如来像光背銘〕「大王天皇」「小治田大宮治天下 大王天皇」
〔元興寺伽藍縁起并流記資財帳〕「大〃王天皇」
〔上宮聖徳法王帝説〕「大王天皇」「少治田大宮御宇 大王天皇」

 このように何故か近畿天皇家では推古天皇だけが二段称号表記が見られます。九州王朝の多利思北孤の場合は、出家した天子〝法王〟と倭王の通称〝大王〟を併記したものと理解できますが、近畿天皇家の場合、なぜ推古だけにこうした二段表記にされたのかが問題です。この疑問を解く鍵が他ならぬ『大安寺伽藍縁起』の田村皇子(後の舒明天皇)の発言中にあります。

「田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺」

 ここに見える「遠皇祖并大王」と「繼治天下天皇御世御世」の意味するところは、遠い皇祖の時代に並ぶ古(いにしえ)の称号は「大王」であり、それを継いで天下を治めたのが「天皇」を称号とする歴代の先祖であると、同縁起編纂者あるいは元史料の作成者が認識していたことを示しています。ですから、推古の称号「大王天皇」は、「大王」を称していた推古が「天皇」号を採用することができた〝最初の近畿天皇家の大王〟であるとする認識、あるいは歴史事実の反映ではないでしょうか。もし、初代の神武から天皇を称していたと認識していたのであれば、「遠皇祖并治天下天皇御世御世」とでも記せばよく、遠皇祖と治天下天皇の間に大王の存在を記す必要はないのですから。

 この点、『古事記』『日本書紀』は初代の神武から天皇号表記を採用していますが、今回紹介した推古の二段称号問題は『日本書紀』などの〝神武から天皇を名のった〟という大義名分が史実ではないことを間接的に証言していたことになります。

 それでは近畿天皇家がいつから天皇号を採用したのかについて、本テーマの考察が正しければ、古田先生晩年の説(王朝交代後の文武から)よりも、旧説(推古から)の方が妥当ということになります(注②)。ちなみに近畿天皇家一元史観内では、飛鳥池出土「天皇」木簡などの実証を主な根拠とする〝天皇号は天武から〟が有力になりつつあるように感じています。

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の冒頭部分は次の通り。
「大安寺三綱言上
伽藍縁起并流記資財帳
初飛鳥岡基宮御宇天皇《舒明》之未登極位、號曰田村皇子、
是時小治田宮御宇太帝天皇《推古》、召田村皇子、以遣飽浪葦墻宮、令問廐戸皇子之病、勅、病状如何、思欲事在耶、樂求事在耶、復命、蒙天皇之頼、無樂思事、唯臣〔伊〕羆凝村始在道場、仰願奉爲於古御世御世之帝皇、將來御世御世御宇帝皇、此道場〔乎〕欲成大寺營造、伏願此之一願、恐朝庭讓獻〔止〕奏〔支〕、
太皇天皇《推古》受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、愛哉善哉、汝姪男自來問吾病矣、爲吾思慶可奉財物、然財物易亡而不可永保、但三寶之法、不絶而可以永傳、故以羆凝寺付汝、宜承而可永傳三寶之法者、
田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺、仍奉將妻子、以衣齋(裹)土營成而、永興三寶、皇祚無窮白、
後時天皇《推古》臨崩日之、召田村皇子遺詔、皇孫朕病篤矣、今汝登極位、授奉寶位、與上宮皇子讓朕羆凝寺、亦於汝〔毛〕授〔祁利〕、此寺後世流傳勅〔支〕、(以下略)」
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻、東京堂、1962年。《》内と段落分けは古賀による。
②古賀達也「七世紀の「天皇」号 ー新・旧古田説の比較検証ー」『多元』155号、2020年。


第2975話 2023/03/27

『大安寺伽藍縁起』の

  「飛鳥浄御原宮御宇天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)の正式名称は『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』と言い、冒頭に大安寺建立に関わる縁起が記され、その後に資財帳部分が続きます。資財帳部分には大安寺に奉納された仏具仏像などが、いつ誰から奉納されたのか列記されており、言わば大安寺の財産・不動産目録のようなものです。その資財帳部分を熟読したところ、ここにも興味深い記事がありましたので紹介します。それは天武天皇が〝壬申の乱〟の翌年(673年)に大安寺に奉納したとする下記の記事です(注①)。※()内の番号は、「洛中洛外日記」前話で付した番号。《》内は古賀による比定。

(26)漆佰戸
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(27)合論定出擧本稻參拾万束
在 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相摸 常陸等國
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(28)合墾田地玖佰參拾貳町
在紀伊國海部郡木本郷佰漆拾町
四至〔東百姓宅并道 北山 西牧 南海〕
若狹國乎入郡嶋山佰町
四至〔四面海〕
伊勢國陸佰陸拾貳町
員辨郡宿野原伍佰町
開田卅町 未開田代四百七十町
四至〔東鴨社 南坂河 西山 北丹生河〕
三重郡宮原肆拾町
開十三町 未開田代廿七町
四至〔東賀保社 南峯河 北大河 西山限〕
奄藝郡城上原四十二町
開十五町 未開田代三十七町
四至〔東濱 南加和良社并百姓田 西同田 北濱道道之限〕
飯野郡中村野八十町
開三十町 未開田代五十町
四至〔東南大河 西横河 北百姓家并道〕
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

 上記の記事が史実とすれば、〝壬申の乱〟に勝利した天武は関東・関西の広範囲を自らの支配下に置いたことになります。具体的には、「遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・常陸」から「本稻參拾万束」(30万束)を大安寺に送り、「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」の「墾田地、玖佰參拾貳町」(932町)を寄進していることから、少なくともそれらの国々を支配下に収めたと考えざるを得ません。なお、「紀伊國海部郡」「若狹國乎入郡」「伊勢國 員辨郡・三重郡・奄藝郡・飯野郡」とあるように、七世紀後半の行政単位「評」を縁起成立時(天平十九年・747年)の行政単位「郡」に書き変えています。

 この記事と対応するのが、飛鳥宮跡地域から出土した七世紀(評制期)の荷札木簡です(注②)。中でも墾田を寄進した「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」からの荷札木簡が紀伊國(1点)、若狹國(5点)、伊勢國(6点)出土しており、資財帳の記事と整合しています。こうしたことから、同資財帳の「飛鳥浄御原宮御宇天皇」記事は信頼してもよいように思います。

 そうすると、天武は〝壬申の乱〟の勝利後に「飛鳥浄御原宮御宇天皇」と称するにふさわしい権力者になったと思われます。その実証的根拠として、飛鳥池出土の「天皇」木簡や「皇子」木簡(注③)、「詔」木簡の存在がクローズアップされるのです。(つづく)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)による。
②市大樹『飛鳥藤原木簡の研究』収録「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別木簡の点数。「飛鳥宮」とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他、「藤原宮(京)」とは藤原宮跡・藤原京跡のこと。
【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350
③同遺跡の天武期の層位から、『日本書紀』に見える天武の子供たちの名前を記した「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」木簡が出土している。従って、同じく出土した「天皇」木簡は天武天皇のことと考えるのが妥当である。


第2955話 2023/03/01

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)

 九州王朝研究に残された大きな課題に、大宰府政庁Ⅰ期の造営年代がありました。政庁Ⅲ期は藤原純友の乱(天慶四年、941年)で政庁Ⅱ期が焼亡した後に再建された礎石造りの朝堂院様式の宮殿です。Ⅱ期も礎石造りの建造物で、ほぼⅢ期と同規模同様式です。言わば、Ⅱ期の真上にⅢ期が再建されたことが調査により判明しています。Ⅱ期造営年代は通説では八世紀初頭とされ、その根拠はⅡ期築地塀の下層から出土した木簡が八世紀初頭前後のものと判断されたことによります(注①)。次の通りです。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀初頭頃とする通説に対して、わたしは観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学の研究結果を重視し、観世音寺の創建瓦(老司Ⅰ式)と同時期の創建瓦(老司Ⅱ式)を持つ政庁Ⅱ期も670年頃としました(注②)。

 掘立柱建造物の政庁Ⅰ期については七世紀前半であり、九州年号「倭京元年(618年)」頃が有力とわたしは考えてきましたが(注③)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟(注④)を発表し、より踏み込んだ理解を示しました。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「太宰府条坊と宮域の考察」(『古代に真実を求めて』第十三集、明石書店、2010年)。
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2669話(2022/01/27)〝政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)〟
同「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
④正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。


第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

 天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。

 山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

 もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

 これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。

 更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

 九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/


第2924話 2023/01/22

多元史観から見た飛鳥池出土「富夲銭」

 「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』では和同開珎が大和朝廷(日本国)最初の貨幣と主張しています(注①)。ですから、七世紀以前の貨幣として出土が知られている無文銀銭と富夲銅銭(注②)は九州王朝(倭国)の貨幣と考えざるを得ません。
このことは史料事実に基づいた論理的帰結(論証)ですが、他方、出土事実を子細に見ますと、富夲銭の出土中心が飛鳥池遺跡であることが着目されます。同遺跡は、後の大和朝廷となる近畿天皇家の中枢領域ですから、当地を出土中心とする富夲銭を九州王朝貨幣と見る、先の論証結果とは整合していません。学問研究では、自説に最も不利な史料事実を真正面から受け止めることが大切ですので、この飛鳥池出土の富夲銭について考察を続けています。

フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば、飛鳥池出土「富本銭」について次の解説(一部要約しました)があります。

 〝1999年(平成11年)1月、飛鳥池工房遺跡から33点の富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成品に近いものには、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した鋳張りなどが残っている。

 富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、「丁亥年」(687年)と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』天武12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあることなどから、奈良国立文化財研究所は、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表した。
その後の調査では、不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。〟

この解説で示された重要な事実は次の4点です。

(1) 七世紀頃の近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から富夲銭が最多出土している。
(2) その出土層位は687~700年とされ、富夲銭鋳造が天武期末頃から持統期にかけてなされている。これは藤原宮(新益京)の造営期~完成期に相当する。
(3) 当遺跡での富夲銭鋳造推定量は9000枚とされており、この推定値が正しければ、富夲銭を貨幣として流通させることを意図していたと考えることができる。
(4) 富夲銭のアンチモン含有率が初期の和同開珎とほぼ同じである。

以上の出土事実と、そこから導き出される事象は次のようなものです。

(a) 七世紀第4四半期(恐らく680年代から)の飛鳥では、当地の権力者により本格的な貨幣(富夲銭)鋳造が進められていた。
(b) 富夲銭とその鋳造跡が出土した飛鳥池遺跡からは、「天皇」木簡とともに「大津皇子」「穂積皇子」「舎人皇子」「大伯皇子」「大友」など天武の子供達の名前を記した木簡が出土していることから、富夲銭鋳造は「天武天皇」とその「皇子」らにより主導されたと考えざるを得ない。
(c) 同時期に、律令による全国統治のための朝堂院様式の藤原宮(朝廷)と、その中央官僚群(約八千人。注③)の受け入れが可能な巨大条坊都市(新益京)の造営を飛鳥の近傍で進め、701年の王朝交代の準備を行っている。

 このような天武らによる〝国家的事業〟が七世紀の第4四半期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に行われていることは、701年の王朝交代の実像に迫る上で重視すべき現象です。(つづく)

(注)
①新日本古典文学大系『続日本紀 一』(岩波書店、1989年)に次の記事が見え、「和同開珎」(銀銭・銅銭)のことと見られる。
「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。
②「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
③服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2845話 2022/09/27

九州王朝説に三本の矢を放った人々(5)

 通説側からの「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)への反論として考えた前期難波宮九州王朝複都説でしたが、通説側でも論争が続いていました。それは、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかというものでした。それぞれに根拠を持った見解でしたので簡単に決着が付きそうもありませんでした。文献史学では、孝徳紀の大化改新詔などの文言が七世紀中頃のものではなく、孝徳紀の記事が疑わしく、出土した前期難波宮も規模や様式が七世紀中頃の宮殿にふさわしくないとする見解が出されていました。

 他方、考古学者からは出土土器編年や宮殿の北西部の谷から出土した干支木簡(「戊申年」648年)を根拠に、孝徳期とする見解が優勢でした。しかし、少数ですが天武期ではないかと考える考古学者もいました。たとえば難波の発掘に携わってこられた大阪歴博の考古学者、伊藤純さんもそのお一人でした。2012年9月、大阪歴博で伊藤さんに前期難波宮についてのご意見をうかがったところ、次のように答えられました(注②)。

「わたしは少数派(天武朝説)です。90数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。しかし、学問は多数決ではありませんから。」

 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学出土物(土器編年・634年伐採木樋年輪年代・「戊申年」648年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。

 伊藤さんの答えは明瞭でした。「もし、宮殿平面の編年というものがあるとすれば、前期難波宮の規模・様式は孝徳朝では不適切であり、天武朝にこそふさわしい。」というものでした。すなわち、孝徳期では大和朝廷の王宮の発展史から前期難波宮は外れてしまい、天武期と考えると適切ということなのです。それと同時に、出土した土器の編年からみると、「孝徳期説の方がすわりが良い」とも正直に述べられました。この発言を聞いて、自説に不利なことも隠さずに述べられる伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。

 この伊藤さんの〝前期難波宮の規模・様式は大和朝廷の王宮の発展史と整合しない〟とする見解こそ、前期難波宮は近畿天皇家(後の大和朝廷)の宮殿ではないとする、九州王朝複都説の根拠の一つでしたので、伊藤さんの見解を知り、わたしは自説への確信を深めました。(つづく)

(注)
①九州王朝説への《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」
②古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟


第2669話 2022/01/27

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)

 通古賀(とおのこが)地区以外に政庁地区にもⅠ期の掘立柱建物がありますが、正殿後方の東北側にある後殿地区建物(SB500a、SB500b)の下層から政庁Ⅰ期当時の木簡が出土しています。調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には次のように紹介されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする根拠とされた次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 ここに見える「竺志前」が「筑前」の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された八世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝により行われたことが、わたしたちの研究(注②)で判明しています。ですから「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀第3四半期以前まで遡るとしても問題ありません。
この政庁東北部地区からは八世紀初頭頃に至る多くの木簡やその削り屑が出土しており、当地に木簡を取り扱う役所があったのではないかと考えられています。しかし、政庁Ⅰ期時代の中心地と思われる通古賀地区(字扇屋敷)からは離れていますので、どのような役所があったのか未詳です。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」同前。
正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2500話 2021/06/23

関川尚功さんとの古代史談義(3)

―なぜ古墳から木簡が出土しないのか―

関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は様々な問題意識をお持ちで、その中に〝なぜ古墳から木簡が出土しないのか〟というものがあり、わたしも同様の疑問を抱いていたので、意見交換を行いました。
国内で出土した木簡は7世紀中頃のものが最古で、紀年が記されたものでは、前期難波宮址の「戊申年」(648年)木簡が最も古く(注①)、次いで芦屋市の三条九之坪遺跡からの「元壬子年」(652年、九州年号の白雉元年)木簡があります(注②)。
一般的には水分を多く含んだ地層から出土しており、普通の地層では木簡は腐食し、残りにくいとされています。古墳石室内の環境では腐食が進み、木簡が遺らないのではないかと推定しています。あるいは木簡を埋納する習慣そのものがなかったのかもしれません。
他方、中国では漢代の竹簡が出土しており、油分を含む竹であれば材質的に遺存しやすいようにも思います。ところが、関川さんによれば、古墳時代の日本には竹簡に使用できるような竹がなかったとのことでした。孟宗竹のわが国への伝来は遅かったということを聞いたことはありますが、竹取物語など竹に関する古い説話(注③)があるので、古代から竹は日本列島にあったのではないかと文献を根拠に反論すると、「古墳から出土しない以上、古墳時代の日本には竹は伝来していなかったと判断せざるをえない」と、関川さんは考古学者らしく、出土事実に基づいて説明されました。しかし、鏃が出土しているので、細い〝矢竹〟はあったはずとのことでした。
古代の日本と中国における木簡と竹簡の採用事情が、情報記録文化の差によるものか、湿度などの自然環境の差によるものなのか、興味深い研究テーマです。先行研究論文などを読んでみることにします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」419話(2012/05/30)〝前期難波宮の「戊申年」木簡〟
古賀達也「洛中洛外日記」1984~1985話(2019/09/07-08)〝難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)~(2)〟
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 ―「三壬子年」木簡の史料批判―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」同上。
③『万葉集』(巻十六、3791番長歌の詞書)に「竹取の翁」の説話が見える。


第2413話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(3)

 九州王朝官道が再編され、名称変更がなされるとすれば、そのタイミングは二回あったように思われます。一つは、九州王朝が難波に複都(前期難波宮)を置いたとき。もう一つは、大和朝廷へと王朝交替(701年、九州年号から大宝元年へ「建元」)したときです。

 前者の場合は同一王朝内での複都造営時(652年、九州年号の白雉元年「改元」)ですから、必ずしも官道名称の変更が必要なわけではありません。しかも、首都の太宰府はその後も継続したと思われますから。
後者は王朝交替に伴う首都の移動ですから、この時点では官道名称変更が大義名分の上からも必要となります。なぜなら、大和朝廷の「七道」のうち「山陽道」「山陰道」は九州王朝官道の「東山道」「北陸道」の前半部分に当たりますから、大和に都(藤原京)を置いた大和朝廷としては、都から南西へ向かう道が「東山道」「北陸道」では不都合なわけです。そのため、「東山道」「北陸道」を分割再編し、大和より西は「山陽道」「山陰道」、東はそれまで通り「東山道」「北陸道」としたのです。また、九州王朝官道の「東海道」も、その前半は大和よりも西の四国地方(海路)を通りますから、これも「南海道」に変更されました。
そこでこうした官道再編や名称変更の痕跡が『日本書紀』や『続日本紀』などに遺されてはいないか、その視点で史料調査したところ、『日本書紀』天武十四年(685)九月条に、次の記事がありました。

「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 この記事に見える、使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」は、「七道」から「北陸道」をなぜか除いた各地域のことで、これらは天武の宮殿(飛鳥宮)がある「大和国」(注①)に起点を置いたことを前提とする名称です。この記事が事実であれば、天武十四年(685年)時点では既に九州王朝官道の再編と名称変更が行われていたことになります。これは701年の王朝交替の16年前、持統の藤原宮(京)遷都の9年前のことです。従って、この記事の信憑性が問われるのですが、従来のわたしの研究や知識レベルでは判断できませんでした。しかし、今は違います。この10年での飛鳥・藤原木簡の研究成果があるからです。

 飛鳥遺跡からは九州諸国と陸奥国を除く各地から産物が献上されたことを示す評制下(七世紀後半)荷札木簡が出土しています。「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟で次の出土状況を紹介したところです(注②)。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

 七世紀当時、他地域からは類例を見ない大量の荷札木簡が飛鳥から出土しており、当地に列島を代表する権力者(実力者)がいたことを疑えません(注③)。従って、各地へ巡察使を派遣したという天武十四年条記事の史実としての信憑性は高くなります。同時代史料の木簡、しかも大量出土による実証力は否定(拒否)し難いのです。(つづく)

(注)
①藤原宮北辺地区から出土した「倭国所布評大野里」木簡によれば、七世紀末当時の「大和国」の表記は「倭国」である。このことを「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟などで紹介した。
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
③飛鳥池遺跡北地区からは「天皇」(木簡番号224)「○○皇子」(木簡番号64、同92、他)木簡の他に「詔」木簡(木簡番号63、同669)も出土しており、最高権力者が当地から詔勅を発していたことを示している。