木簡一覧

第2148話 2020/05/08

「大宝二年籍」断簡の史料批判(16)

 本シリーズも16回目になって、ようやくテーマの〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟に入ることができました。ですから、今までは〝前説〟であり、今回からが本番です。気持ちを引き締めて論じます。
 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。その前年に成立した『大宝律令』「戸令」に基づき、九州王朝(倭国)から王朝交替したばかりの大和朝廷(日本国)により、全国的に造籍されたものです。残念ながらほとんどが失われ、残っているのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけですが、古代の戸籍や家族制度を知る上で貴重な史料(重要文化財)です。なお、今回の調査は『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)によりました。
 先行研究によれば、「大宝二年籍」において西海道戸籍と御野国戸籍には大きな差異が認められ、西海道戸籍は様式や用語が高度に統一されています。通説では西海道戸籍は『大宝律令』に基づき大宰府により統一的に管理され、御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されたためと考えられています。西海道戸籍は九州王朝による造籍の伝統と優れた地方官僚組織を引き継いだため、高度で統一性を持った造籍が可能だったとわたしは推測しています。いずれにしましても、この西海道戸籍と御野国戸籍の差異は史料批判上留意すべき点です。
 ちなみに、2012年に太宰府市国分松本遺跡から出土した7世紀後半頃(「評」の時代)の「戸籍」木簡の記述様式は、どちらかというと御野国戸籍に似ており、この点について「洛中洛外日記」445話(2012/07/21)〝太宰府「戸籍」木簡の「政丁」〟で少し触れました。更に、『古田史学会報』112号(2012/10)の拙稿〝太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―〟でも詳述しましたのでご参照下さい。(つづく)


第2143話 2020/04/28

『多元』No.157のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.157が本日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「『国県制』を考える」と拙稿「前期難波宮出土『干支木簡』の考察」が掲載されていました。
拙稿では、前期難波宮出土の現存最古の干支木簡「戊申年」(648)木簡と二番目に古い芦屋市出土「元壬子年」(652)木簡の上部に空白部分があることを指摘し、本来は九州年号「常色」「白雉」が記されるべき空白部分であり、何らかの理由で木簡に九州年号を記すことが憚られたのではないかとしました。また、「戊」や「年」の字体が九州王朝系金石文などの古い字体と共通していることも指摘しました。
また、『多元』No.156に掲載された拙稿「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」を批判した、Nさんの論稿「読後感〝七世紀の「天皇」号 新・旧古田説の比較検証」〟について」が掲載されていました。その中で、わたしが紹介した古田旧説、近畿天皇家は七世紀前半頃から〝ナンバーツー〟としての「天皇」号を名乗っていた、という説明に対して、次のようなご批判をいただきました。

 〝古賀氏は、古田旧説では、例えば「天武はナンバーツーとして天皇の称号を使っていた」と述べるが、古田武彦はそのように果たして主張していたのだろうか、という疑問が生じる。〟
〝小生には古賀氏の誤認識による「古田旧説」に基づいた論難となっているのではないか、という疑念が浮かぶ。この「不正確性」については、以下の古賀氏の論述にも通じるものを感じる〟
〝今回同様の手前勝手に論点の整理をして、「古田旧説」「古田新説」などときめつけ、的外れの論述とならないように、と願うのみである。〟

 このように、わたしの古田旧説の説明に対して、「誤認識」「不正確」「手前勝手」と手厳しく論難されています。
「洛中洛外日記」読者の皆さんに古田旧説を知っていただくよい機会でもありますので、改めて七世紀における近畿天皇家の「天皇」号について、古田先生がどのように認識し、述べておられたのかを具体的にわかりやすく説明します。
「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」でも紹介したのですが、古田先生が七世紀前半において近畿天皇家が「天皇」号を称していたとされた初期の著作が『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏の光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)です。同著で古田先生は、法隆寺薬師仏の光背銘に見える「天皇」を近畿天皇家のこととされ、同仏像を「天平仏」とした福山俊男説を批判され、次のように結論づけられました。

 「西なる九州王朝産の釈迦三尊と東なる近畿分王朝産の薬師仏と、両々相対する金石文の存在する七世紀前半。これほど一元史観の非、多元史観の必然をあかあかと証しする世紀はない。」(278頁)

 このように、七世紀前半の金石文である法隆寺薬師仏に記された「天皇」とは近畿天皇家のことであると明確に主張されています。すなわち、古田先生が「旧説」時点では、近畿天皇家は七世紀前半から「天皇」を名乗っていた、と認識されていたのは明白です。
さらに具体的な古田先生の文章を紹介しましょう。『失われた九州王朝』(朝日文庫版、1993年)に収録されている「補章 九州王朝の検証」に、次のように古田旧説を説明されています。

 〝このことは逆に、従来「後代の追作」視されてきた、薬師如来座像こそ、本来の「推古仏」だったことを示す。その「推古仏」の中に、「天皇」の称号がくりかえし現れるのである。七世紀前半、近畿天皇家みずから、「天皇」を称したこと、明らかである。(中略)
もちろん、本書(第四章一)の「天皇の称号」でも挙列したように、中国における「天皇」称号使用のあり方は、決して単純ではない。「天子」と同意義の使用法も存在する。しかし、近畿天皇家の場合、決してそのような意義で使用したのではない、むしろ、先の「北涼」の事例のように、「ナンバー2」の座にあること、「天子ではない」ことを示す用法に立つものであった(それはかつて九州王朝がえらんだ「方法」であった)。
この点、あの「白村江の戦」は、いわば「天子(中国)と天子(筑紫)」の決戦であった。そして一方の天子が決定的な敗北を喫した結果、消滅へと向かい、代って「ナンバー2」であった、近畿の「天皇」が「国内ナンバー1」の位置へと昇格するに至った。『旧唐書』で分流(日本国)が本流(倭国)を併呑した、というのがそれである。〟(601-602頁)

 以上の通りです。わたしの古田旧説(七世紀でのナンバー2としての天皇)の説明が、「誤認識」でも「不正確」でも「手前勝手」でもないことを、読者の皆さんにもご理解いただけるものと思います。
わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えています。ですから拙論への批判を歓迎します。


第2075話 2020/02/05

松江市出土の硯に「文字」発見(1)

 報道によれば、島根県松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」の痕跡が発見されたとのことです。その写真を見たところ、わたしも文字(漢字)のように思われましたが、松江市埋蔵文化財調査室による「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある」とする見解もありますので、今後の科学的分析が待たれます。

 墨(カーボンブラック:煤)の他にも黒色無機顔料(鉱石)や天然タンニン(ポリフェノール)の鉄錯体、アスファルトなども黒色色素として使用可能ですので、赤外線撮影だけで「墨書ではなく汚れ」と判断するのはあまり科学的判断とは言えません。

 もしこれが文字だとしたら、メディアで紹介された学者の見解にとどまらず、もっと重要なテーマへと進展します。(つづく)

【毎日新聞WEB版から転載】
毎日新聞2020年2月1日 17時53分(最終更新 2月2日 01時18分)
弥生時代「すずり」に最古の文字か
松江の田和山遺跡から 慎重な意見も

 松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200〜300年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らのグループ。岐阜県大垣市で1日にあった学会で久住氏が発表した。
田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。
さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。
これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも2〜3世紀だった。
九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。
一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。【大森顕浩】

 岡村秀典・京都大教授の話 実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の2文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。

 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の話 これまで見つかった3世紀ごろの文字はいずれも1文字で、記号かもしれない。しかし、2文字なら名前やえとなどの意味を持つ。中国からの文化伝来が予想以上に早いことになる。

 武末純一・福岡大教授(考古学)の話 私自身も弥生時代に外交文書や交易で文字が使われた可能性があると考えている。ただ、赤外線撮影の結果などから、今回は文字かどうか決めがたい。判断は慎重であるべきだ。

「文字使用の起源」数百年さかのぼるか

 松江市の田和山遺跡で出土した紀元前後の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが「文字の可能性がある」と発表。国内の文字使用の起源が数百年さかのぼるという驚くべき内容で、波紋を呼ぶだろう。
出土遺物などから文字の本格的使用は3世紀ごろの古墳時代以降というのが定説だが、弥生時代から文字が使われていた可能性は以前から指摘されていた。紀元57年に中国から贈られたとされ、福岡市・志賀島で出土した「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」金印をはじめ、銘文のある中国・前漢の銅鏡など漢字が記された中国製の遺物は倭国内に存在した。また、中国の史書「魏志倭人伝」では倭国に外交文書を点検する部署があったという記述がある。研究者の中には「日常的な交易の記録にも用いられた」という見方もある
もある。
しかし、国内で書かれた文字史料はこれまで、大城(だいしろ)遺跡(津市)で出土した「奉」とみられる字が刻まれた土器など2〜3世紀以降にしか確認できなかった。
このギャップを埋めたのが、筆記用具のすずりに着目した近年の調査研究だ。端緒は大陸への「玄関口」である北部九州に位置する福岡県糸島市の三雲・井原遺跡。2016年に1〜2世紀のすずりとみられる破片が確認され、文字使用との関連で一気に注目された。
福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らによるグループはこれを受け、全国の遺跡の出土品を精査。従来砥石(といし)や用途不明などとされていた石製品のうち、墨をすり潰すために研石で擦った痕跡などから北部九州を中心に山陰、近畿などの100点以上がすずりで、最古は紀元前1世紀と判断した。
ただ、すずりは筆記用具に過ぎず、文字使用の確実な証拠とするには異論もあった。
研究者グループは、今回確認されたのが2文字である点も強調する。漢字が記されていても、人々が具体的な意味を示すものと認識しなければ「文字」とは言えない。この点で「子」「戊」などの連なった字とすれば「えとや人名など意味があるもの」(柳田氏)になる可能性がある。
一方、今回発表された内容について、文字かどうか慎重な意見が出ている。
石製品を発掘した松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの指摘を受け、「文字ならば大ごとになる」として赤外線撮影を実施。ただ、肉眼で見えた文様は、赤外線写真で鮮明に写らなかった。同室は「墨ならば赤外線でよりはっきり写る。墨以外なのか、そもそも文字なのか分からない」とする。
久住氏は「墨が剥落して赤外線で見えにくい可能性がある」などと反論するが、松江市側はあくまで一研究者グループの見解として「今後の議論を待つ」姿勢だ。2〜3世紀よりさかのぼる文字の直接的な痕跡が、他にも今後確認されるかが焦点となる。
倭国に文字(漢字)をもたらしたのが渡来人だった可能性は高いが、伝来はいつまでさかのぼり、倭人にどのように受容されていったのか。文明の礎である文字の起源を巡る論争は尽きそうにない。【大森顕浩】


第1998話 2019/09/23

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(10)

 飛鳥(飛鳥池遺跡・石神遺跡等)からの出土木簡に「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」とあることから、そのような職掌が飛鳥浄御原宮にあったことは明らかですが、通説のように「浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたとするには、その「官」はいわゆる上級官省(大蔵省・中務省・民部省・宮内省・刑部省・兵部省・治部省などに相当する官省)とはいえず、その下部官庁ばかりです。もちろん、たまたま「下部官庁」木簡だけが遺存し出土した可能性も否定できませんが、それにしても不自然な出土状況とわたしは感じていました。たとえば藤原宮や平城宮からは上級官省を記した木簡も出土しているからです。

 前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかとわたしは推定しています。従って、藤原宮(京)が完成するまでは、前期難波宮か近江大津宮にそれら上級官省が残っていたと思われます。例えば『日本書紀』に見える次の記事などはその痕跡ではないでしょうか。

○「丁巳(二十四日)に、近江宮に災(ひつ)けり。大蔵省の第三倉より出でたり。」天智十年(671)十一月条
○「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉く焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」朱鳥元年(686)正月条

 この「大蔵省」が7世紀当時の名称なのか、『日本書紀』編纂時の名称なのかという問題はありますが、「大蔵省」に相当する官庁が近江宮や難波宮にあったとする史料根拠と思われます。7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交替の経緯を考察する上で、こうした推測は重要な視点と思われます。考古学的にも、孝徳天皇没後も白村江戦の頃までは、飛鳥よりも難波の方が出土土器の量は多く、遺構の拡張なども活発であることが明らかにされており、わたしの推測と整合しているのです。
大阪歴博の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号、2017年3月)に次の指摘があり、注目しています。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)


第1985話 2019/09/08

難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(2)

 前期難波宮の北西の谷から出土した「戊申年」木簡(648年)の文字の字形も特徴的で注目されてきました。『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)の解説でも指摘されていますが、特に「戊」の字体は「代」の字形に近く、七世紀前半に遡る古い字体であるとされています。たとえば、法隆寺の釈迦如来及脇侍像光背銘にある「戊子年」(628年)の「戊」と共通する字形とされています。

 「年」の字形も上半分に「上」、下半分に「丰」を書く字体で、木簡では九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」(652年)木簡の「年」と同じです。金石文では野中寺の彌勒菩薩像台座に掘られた「丙寅年」の「年」と同じです。

 九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と「戊申年」木簡の「年」の字体が共通していることは興味深いことです。また、「中宮天皇」銘を持つ野中寺の彌勒菩薩像は、九州王朝の「中宮天皇」(筑紫君薩野馬の皇后か)の為に造られたものではないかとわたしは推測しています。

 以上のように、九州王朝の複都・前期難波宮から出土した「戊申年」木簡が、九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と同類の〝上部空白型干支木簡〟であり、「年」の字体も一致していることは、「戊申年」木簡と九州王朝との関係をうかがわせるものと思われるのです。

 なお付言しますと、九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には、「孝徳天皇のとき番匠の初め」という記事の直後に「常色二年戊申、日本国を巡礼したまう」と記されています。おそらくは前期難波宮を造営するために各地から宮大工らが集められたのが「番匠」の「初」とする記事や九州年号の常色二戊申年(648年)に巡礼するという記事と、前期難波宮から出土した「戊申年」木簡との年次の一致は偶然ではなく、何らかの関係があったのではないでしょうか。「戊申年」木簡に記された他の文字の研究により、何か判明するかもしれません。今後の研究課題です。


第1984話 2019/09/07

難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)

 前期難波宮の造営年代論争(孝徳期か天武期か)に決着をつけた史料(エビデンス)の一つが、前期難波宮の北西の谷から出土した現存最古の干支木簡「戊申年」木簡(648年)でした。この他にも難波宮水利施設から大量出土した須恵器(七世紀前半〜中頃の坏G。七世紀後半と編年されている坏Bは皆無)や同遺構の桶枠に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が、ほとんどの考古学者の支持を得て通説となりました。

 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を提起して以来、「戊申年」木簡に注目し、調査研究を進めてきたのですが、この木簡に九州王朝との関係を感じさせるいくつかの事実があることに気づきましたので、本シリーズで紹介することにします。
まず最初に紹介するのが、木簡に記された「戊申年」の文字の位置の特徴についてです。「洛中洛外日記」1961話(2019/08/12)〝飛鳥池「庚午年」木簡と芦屋市「元壬子年」木簡の類似〟でも紹介したことですが、七世紀の干支木簡(荷札木簡)では通常木簡最上部から干支が書かれるのですが、九州年号木簡である「元壬子年」木簡(文書木簡。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)は上部に数字分の空白を有し、本来その空白部分には九州年号(この場合は「白雉」)が入るべきだが、何らかの理由で九州年号を木簡に記すことが憚られたのではないかと考えました。憚られた理由については拙論「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」(『東京古田会ニュース』184号、2019年1月)で論じました。

 この〝上部空白型干支木簡〟とでも称すべき木簡分類に難波宮出土の「戊申年」木簡も該当することにわたしは気づいたのです。そのことについて「洛中洛外日記」1358話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟で紹介しました。通常、同木簡の文字は「□稲稲 戊申年□□□」と紹介されるため、わたしは〝上部空白型干支木簡〟であるとは思わなかったのですが、報告書には次のように記されており、本来は〝上部空白型干支木簡〟であったことに気づいたのでした。

 【以下、転載】
(前略)墨書は表裏両面に確認でき、他の木簡とは異なり、異筆による書き込みがある。表面側の墨書は上端から約7cmの位置から「戊申年」ではじまる文字が書かれており、以下、現存部分のみで3文字が後続していることがわかる。また、欠損した左側面には「戊申年□□□」文字に対応するように墨痕や文字の一部が残っており、本来は同じ字配りで最低でも2行以上の墨書があったことになる。「戊申年」上方の異筆3文字を除いた場合、書き出し位置が低いようにみえるが、これについては栄原永遠男氏が指摘するように、大型の木簡におおぶりの文字で書かれていたと推察される点を勘案するならば、さほど不自然であるとはいえない。(後略)
『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)25〜26頁
【転載おわり】

 このように報告書には、「戊申年」の文字の「書き出し位置が低いようにみえる」と指摘されているのです。ですから「元壬子年」木簡と同様に、七世紀(九州年号の時代)の干支を伴う文書木簡の場合、本来であれば九州年号が記される干支部分の上部が意図的に空白にされていることがわかるのです。ちなみに、「元壬子年」木簡の場合は九州年号「白雉(元年)」(652年)が、「戊申年」木簡の場合は「常色二(年)」(648年)があってしかるべき〝空白〟ということになります。

 以上のように、九州王朝の複都・前期難波宮から出土した「戊申年」木簡が、九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と同類の〝上部空白型干支木簡〟であったことがわかり、この〝上部空白〟現象を説明できる仮説としても九州年号説が重視されるのです。(つづく)


第1983話 2019/09/06

難波宮から「己酉年(649)」木簡

       が出土していた?

 大阪歴博が発行した『難波宮 百花斉放』という「難波宮大極殿発見50周年記念」(平成24年〔2012〕発行)パンフレットを見ていて、驚きの発見をしました。このパンフレットは平成24年2月25日に大阪市中央公会堂で開催されたシンポジウムのレジュメとして作成されたもので、それこそ百花斉放の名前に恥じない内容です。プログラムには次のように講演者と演題が記されています。

【プログラム】
第1部(午前) 発掘成果による『最新報告 難波宮』
1. 再見!難波宮の建築 大阪歴史博物館学芸員 李陽浩
2. 続々新知見!難波宮の官衙と難波京 大阪文化財研究所難波宮調査事務所長 高橋 工
3. 新発見!木簡が語る難波宮-戊申年木簡と万葉仮名木簡- 大阪府文化財センター調査課長 江浦 洋

第2部(午後) 講演『日本の古代史と難波宮』
1. 聖武天皇の時代と難波宮 大阪市立大学名誉教授 栄原永遠男
2. 高津宮から難波宮へ 大阪府文化財センター理事長 水野正好

第3部
1. 難波宮復元AR披露
2. 対談『難波宮-半世紀の調査から未来に向けて』
水野正好、栄原永遠男、長山雅一
司会:朝日新聞社記者 大脇和明

 以上のように大阪の考古学界と歴史学界を代表する研究者によるシンポジウムです。わたしは参加していませんが、このパンフレットを読んだだけでもその学問的意義は感じ取れました。そのパンフレット中に驚きの資料があったのです。
収録されている水野正好さんのレジュメに難波宮出土木簡を紹介した「12.大阪府警本部用地の木簡、大化4・5年のエト、王母 赤糸・・木簡」があり、そこに有名な最古の干支木簡「戊申年」(648年)木簡とともに「己酉年」(649年)木簡の図(「六号木簡」)が記されていたのです。わたしは難波宮から「己酉年」木簡が出土したという報告を全く知りませんでしたので、とても驚きました。「戊申年」木簡に次いで古い干支木簡は芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す「元壬子年」(652年)木簡だとされていますので、もし難波宮から「己酉年」木簡が出土していたのなら、それが二番目に古い干支木簡となります。
レジュメの図によれば、「己」の下部分と「酉」と読めそうな文字、そして「年」のような字形をしているが明確には断定しにくい文字が記された木簡でした。そこで真偽を確かめるために大阪歴博を訪問し、同遺跡の発掘調査報告書『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)を閲覧させていただきました。そこには「図版47 古代 木簡」(谷部16層出土木簡)に同木簡の赤外線写真が掲載され、[本文編」23頁では次のように解説されていました。

 【以下、転載】
(6)6号木簡(図11-6、写47-6・53-2)
(64)・23・4 スギ 板目
上部は折れているが、下端は方頭で端部が遺存している。上端は表面側の右斜め上から切り込みを入れて、その後に上部を折り取っている。下半部にも同様の切り込みが裏面から行われており、文字の部分を切っていることなどから廃棄作業に伴うものである可能性が高い。
左右の側面は両面とも整形面が残っている。文字は表面には3文字が確認できる。第1文字目はオレのために末画しか残っておらず、判読しがたい。第2文字目は「面」の可能性が高いが、「酉」の可能性もわずかに残す。ただし、第3文字目については、判読は難しいが「年」の可能性は乏しく、「子」などの可能性も指摘されている。裏面に墨痕はない。
【転載おわり】

 以上のように2002年発行の報告書の解説からは「己酉年」とは判読できないようで、この見解が〝公式見解〟となって、今日まで流布しています。ところが、平成24年〔2012〕シンポジウムのパンフレットでは、大阪府文化財センター理事長の水野正好さんにより、「己酉年」と判読され、「大化五年(649年)」のこととされているのです。大阪歴博の学芸員の村元健一さんにこの件についておたずねしたところ、経緯についてはご存じなく、公式見解は報告書の方とのこと。そこで、水野さんに直接お会いしてお聞きしようと思い、水野さんの所在を教えてほしいとお願いしたのですが、残念ながら水野さんは既に亡くなられているとのことでした(2015年没)。ご冥福をお祈りします。
確かに大阪府文化財調査研究センターの報告書が公式見解ということは理解できるのですが、その10年後に大阪府文化財センター理事長の水野正好さんが公の学術的なシンポジウムのパンフレットに掲載されているのですから、その10年間に公式見解が変更されている可能性もあるのではないでしょうか。同シンポジウムで水野さんがどのように説明されたのか、ご存じの方があればご教示ください。
なお、同シンポジウムで講演された江浦さんのレジュメでも難波宮出土木簡のことが紹介されており、当該木簡などについての報告書を転載されており、そこには「□面□」とありました。なお、江浦さんはレジュメの末尾を次の感動的な言葉で締め括られています。

 「『地下の正倉院』。
これは平城宮跡から掘り出される木簡群を東大寺の正倉院宝物になぞらえた呼称である。
難波宮跡では、高燥な上町台地ゆえに木簡の出土はさほど期待されていなかったが、近年の調査によって、谷部の湿潤な地層では木簡が腐朽せずに残っていることが明らかとなっている。
難波宮跡の周辺においても、未だ多くの谷が木簡を抱いて埋もれている。」

 近い将来、難波宮跡から九州年号木簡などが出土することも夢ではないかもしれません。それまで、わたしは前期難波宮九州王朝複都説の研究を続けたいと思います。


第1978話 2019/08/31

「九州王朝律令」による官職名

「洛中洛外日記」1974話(2019/08/27)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)〟において、7世紀後半の王朝交替前の飛鳥の近畿天皇家が、「九州王朝」律令による官職名を使用していたのではないかと推定しました。この指摘が正しければ、藤原宮などから出土した木簡に見える『大宝律令』以前の官職名は「九州王朝律令」によるものとなり、その記事から「九州王朝律令」の「職員令」復元が一部可能となるかもしれません。そこで、そうした官職名をピックアップしてみました。

【『大宝律令』以前の官職名】
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半〜中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第1974話 2019/08/27

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)

 飛鳥の石神遺跡から出土した木簡の「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と同類の「舎人官(とねりのつかさ)上毛野阿曽美□」「陶官(すえのつかさ)」と記された木簡が藤原宮遺跡(大極殿北方大溝下層)からも出土しています。いずれも藤原宮完成前の「飛鳥浄御原令」に基づくものと解説されています(『藤原宮出土木簡(二)』昭和52年)。更に同木簡出土地点からは「進大肆」という、『日本書紀』によれば天武14年(685)に制定された位階が記された木簡(削りくず)や、「宍粟評(播磨国)」「海評佐々里(隠岐国)」木簡も出土していることから、それらは七世紀末頃のものと見て問題ありません。

 このように石神遺跡や藤原宮下層遺跡から出土した木簡の史料事実により、天武天皇や持統天皇らは九州王朝系の官職名「○○官」を採用し、それら官僚群により東国から西日本にかけての広域統治を飛鳥宮で行っていたことがわかります。藤原宮時代になると出土した荷札木簡から判断できる統治領域は更に広がります。

 以上のように出土木簡や『日本書紀』の記事というエビデンスに基づいて、一元史観の大和「飛鳥宮」説が強固に成立しています。(つづく)

《奈良文化財研究所「木簡データベース」》から転載

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【寸法(mm)】縦(257) 横(13) 厚さ6
【型式番号】081
【出典】藤原宮2-524(飛3-5下(33))
【文字説明】「曽」は異体字「曾」。
【形状】上欠(折れ)、下欠(折れ)、左欠(割れ)、右欠(割れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】追柾目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】上毛野阿曽美□(荒)□
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】上下折れ、両側面割れ。文書木簡の断片。舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【寸法(mm)】縦(127) 横 32 厚さ 3
【型式番号】019
【出典】藤原宮2-523(飛3-5下(34))
【文字説明】
【形状】下欠(折れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】板目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】下端折れ。陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。


第1973話 2019/08/26

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(7)

 飛鳥の石神遺跡から大量出土(約三千点)した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものがあり、この「○○官」という官職名は7世紀後半頃の律令官制のものと考えられますが、この官職名「○○官」について、詳述します。

 わたしは「○○官」という官職名は九州王朝律令官制によるものと考えています。そのことについて、「洛中洛外日記」100話で論じています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
古賀事務局長の洛中洛外日記
第100話 2006/09/30
九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
古田先生が『古代は輝いていたⅢ-法隆寺の中の九州王朝-』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房 参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。

 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが再発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。(後略)
【転載、終わり】

 『威奈大村骨蔵器』銘文によれば、「大宝元年を以て律令はじめて定まる」とあり、それ以前の律令は近畿天皇家が定めたものではないことになります。同時代金石文であるこの骨蔵器銘文の証言は重要です。従って、7世紀以前の「○○官」という官職名は九州王朝律令によるものと考えざるを得ません。
このような論理展開により、飛鳥の石神遺跡から出土した「大学官」「勢岐官」「道官」、そして「釆女氏塋域碑」(拓本)の「飛鳥浄原大朝庭大弁官」という官職名は、九州王朝律令によるものを飛鳥の天武天皇らは〝借用〟、あるいはそのまま〝転用〟したのかもしれない、という可能性を想定しなければなりません。更に考えれば、九州王朝の天子の命を受けたという形式にして、自らの臣下にこうした官職名を授与したということも検討する必要があります。(つづく)


第1972話 2019/08/24

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(6)

多元史観・九州王朝説による筑紫「飛鳥」説として、新・古田説(小郡「飛島」説)が出され、その弱点を補うべく正木さんが広域筑紫「飛鳥」説(小郡・朝倉・久留米)を出され、「律令制宮都の論理」というロジックと「飛鳥浄御原令」を根拠に服部さんが太宰府「飛鳥」説を出されました。次に、通説の大和「飛鳥」説の根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)について、その要点を紹介します。

一元史観の大和「飛鳥」説は一言で言えば〝『日本書紀』の記事と考古学的出土事実、現地地名などが対応している〟という論理構造により成立しています。このロジックは単純で平明なだけに、否定しがたい説得力を有しています。それは次のようなものです。

①奈良県明日香村に七世紀後半頃の宮殿遺構が重層的に出土している。
②それら遺構の年代は出土土器や干支木簡などにより、比較的安定して編年が成立している。
③字地名「飛鳥」にある飛鳥池遺跡等から出土した七世紀後半頃の木簡の内容が『日本書紀』の記事と対応している。たとえば「飛鳥寺」「天皇」「○○皇子」など、多数。
④飛鳥寺のすぐ北西にある石神遺跡からは藤原宮の官衙域と状況が似た建物群が出土しており、同遺跡北方域から大量に(約三千点)出土した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものもあり、当地に官衙が存在したと考えられている。
⑤この「○○官」という官職名は七世紀の律令官制のものと考えられ、近畿から出土した同じく七世紀後半の金石文「釆女氏塋域碑」(拓本)に見える「飛鳥浄原大朝庭大弁官」とも対応している。

この他にも多くの論点がありますが、『日本書紀』の史料事実や考古学的出土事実の存在そのものは否定できませんし、両者の対応も複雑な解釈や屁理屈によるものではなく、単純・平明な対応に基づいています。従って、上記のロジックは強力で説得力があります。先に紹介した筑紫「飛鳥」説が九州王朝論を基盤としたやや複雑なロジックにより成立していることと比較すれば、確かなエビデンスにも支えられている大和「飛鳥」説のほうが分かりやすいことは明白です。

この大和「飛鳥」説をよく理解し、これら一元史観のエビデンスとロジックを軽視することなく、古田学派九州王朝説論者は自説を構築しなければならないのです。無視したり、解釈だけで逃げてはなりません。(つづく)


第1964話 2019/08/15

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(1)

 「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判〟で紹介した小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)は、飛鳥宮についての大和朝廷一元史観(通説)による最新の論稿が収録されており、その「飛鳥宮」論がどのような根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)により成り立っているのかを勉強する上でも好適な一冊でした。市大樹さんの名著『飛鳥の木簡 -古代史の新たな解明』(中公新書)と併せ読むことにより、更に理解が深まりました。

 晩年の古田先生は七世紀の金石文に見える「飛鳥宮」などを、小郡市の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名史料に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることなどを根拠に、小郡にあった「飛鳥宮」のこととする説を発表されました。その後、古田学派内では筑前・筑後の広域「飛鳥」説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、大宰府政庁(Ⅱ期)とする太宰府「飛鳥浄御原宮」説が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表され、今日に至っています。

 今のところ、わたしはいずれも有力としながらも賛成できないでいます。その理由は、当地に「飛鳥」地名が現存しないことなどです。他方、通説の大和「飛鳥宮」は考古学的痕跡や『日本書紀』の記事との対応など、強力なエビデンスを背景に成立しています。そこで、九州王朝説との齟齬をきたさない、大和「飛鳥宮」の位置づけが可能なのかという問題意識もあり、一度、通説をしっかりと勉強する必要を感じていました。そんなときに出会ったのが小澤さんの『古代宮都と関連遺跡の研究』でした。

 同書や市さんの『飛鳥の木簡』などを参考にしながら、大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証を試みることにします。まだ、結論には至っていません。本テーマを「洛中洛外日記」で取り上げながら、認識を深め、新たな仮説提起へと至れば幸いです。しばらく、このテーマにお付き合いください。(つづく)