木簡一覧

第1753話 2018/09/19

7世紀の編年基準と方法(1)

 歴史研究において遺跡・遺物や史料の編年は不可欠の作業で、年代が不明では歴史学の対象になりにくい場合があります。わたしも九州王朝史研究において、いつも悩まされるのがその研究対象の編年の基準と編年方法についてです。そこでこの問題について、比較的研究が進んでいる7世紀について改めて論じることにしますが、一般論や抽象論ではなく、なるべく具体的事例をあげて説明します。

 最初に紹介する事例は前期難波宮です。前期難波宮の編年についてはこの10年間わたしが最も研究したテーマですから、かなり自信を持って説明できます。前期難波宮の造営年代については一元史観の古代史学界でも孝徳期か天武期かで永く論争が続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期(7世紀中頃)とすることを支持しており、事実上決着がついています。その根拠となったのが次の基準や研究結果によるものでした。私見も交えて説明します。

①宮殿に隣接した谷(ゴミ捨て場)から「戊申年」(648年)木簡が出土。
②井戸がなかった前期難波宮に水を供給したと考えられている水利施設遺構の造成時に埋められた7世紀前半から中頃に編年されている土器(須恵器坏G)が大量に出土した。
③その水利施設から出土した木樋の年輪年代測定値が634年だった。その木材には再利用の痕跡が見当たらず、伐採後それほど期間を経ずに前期難波宮の水利施設の桶に使用されたと考えられる。
④宮殿を囲んでいた塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値が583年・612年であった。
⑤出土した前期難波宮の巨大な規模と様式(日本初の朝堂院)は、『日本書紀』孝徳紀の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記されている〝言葉に表すことができないような宮殿が完成した〟という記事に対応している。
⑥天武期に造営が開始され、持統天皇が694年に遷都したと『日本書紀』に記されている藤原宮の整地層から出土した主流土器は須恵器坏Bであり、前期難波宮整地層から出土した主流土器須恵器坏Gよりも1〜2様式新しいとされている。すなわち、整地層からの出土土器は天武期造営の藤原宮より前期難波宮の方が数十年古い様相を示している。
⑦瓦葺きで礎石造りの藤原宮よりも、板葺きで掘立柱造りの前期難波宮の方が古いと考えるのが、王宮の変遷として妥当である。

 以上のような多くの根拠や論理性により前期難波宮の創建は孝徳期とする通説が成立したのですが、ここでの編年決定において重要な方法が自然科学ではクロスチェックと呼ばれる方法です。すなわち、異なる実験方法・測定方法や異なる研究者が別々に行った実験結果(再現性試験)が同じ結論を示した場合、その仮説はより確かであるとする方法です。

 今回紹介した前期難波宮の編年も、それぞれ別の根拠でありながら、いずれも天武期ではなく孝徳期を是とする、あるいはより妥当とする結論を示したことが、自然科学でのクロスチェックと同じ効果を発揮したものです。

 これが例えば根拠が①の「戊申年」木簡だけですと、〝たまたま古い木簡がどこかに保管されており、何故か30〜40年後に廃棄された〟という「屁理屈」のような反論が可能です。同様に③④の木材の年代にしても〝たまたま数十年前に伐採した木材がどこかに保管されており、なぜかそれを使用した〟というような「屁理屈」も言って言えないことはないのです。しかし、上記のように多数の根拠によるクロスチェックがなされていると、それらを否定するためには〝すべてのケースにおいて、古いものがなぜか数十年後に使用された、捨てられた結果である。『日本書紀』の記事も何かの間違い〟というような根拠を示せない「屁理屈」を連発せざるを得ません。もちろん「学問の自由」ですからどのような主張・反論・「屁理屈」でもかまいませんが、そのような研究者は自然科学の世界では、研究者生命を瞬時に失うことでしょう。ことは歴史学でも同様です。(つづく)


第1746話 2018/09/05

「船王後墓誌」の宮殿名(6)

 古田先生が晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていたことを説明しましたが、わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを2012年の「洛中洛外日記」444話に記していますので、抜粋転載します。

【以下、転載】
第444話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 (前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。

 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)

 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】

 7世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、7世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。

 古田史学を支持する古田学派の研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたち(「弟子」)に語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。

〈注〉「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。「論証よりも実証を重んじる」という研究方法に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため繰り返し付記します。


第1744話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(1)

 現在、大型台風21号の強風に揺れる拙宅にて「洛中洛外日記」を書いています。築百年以上のおんぼろ家屋ですので、とても不安です。初めて聞くような轟音と家の振動に怯えています。なんとか無事に通り過ぎてほしいものです。

 「古田史学の会」HP読者のSさん(東京都)から九州年号に関する重要な質問をいただきました。「元壬子年」木簡になぜ九州年号が記されていないのかという質問です。この問題は以前からの検討課題ですが、よくわからないままでした。そのため、一週間ほど考えてから、「九州王朝律令に年号使用に関する規制があったのではないか」と返信しました。良い機会ですので、年号使用に関する「九州王朝律令」について考察することにします。

 木簡に関して年次表記を見てみると、701年以降は「大宝」などの年号使用が一般的ですが、700年以前は干支が使用されており、九州年号が使用されているものはありません。この史料事実から、近畿天皇家は公文書に限らず木簡も含めて広範囲での年号使用を指定していたと思われます。ちなみに『養老律令』儀制令には次のように年号使用を指定しています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」

 使い捨ての荷札木簡が「公文」に属するのかはよくわかりませんが、出土木簡には年号が記されていますから、運用上は木簡も年号使用を命じていたと考えられます。そうした近畿天皇家の時代(701年以後)とは異なり、700年以前の九州王朝時代の木簡には干支で年次が記されています。従って、九州王朝律令には年号使用範囲が指定されていたか、それとは別の「式」などの法令で年号使用範囲を制限していたのではないでしょうか。(つづく)


第1729話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(5)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の影響下にあったため、「永昌元年(689年)」という唐の年号を用いた叙位「任命書」を発行したとするわたしの仮説は、その権力者を九州王朝の天子としても近畿天皇家(持統天皇)としても、それを支持する史料根拠が見当たらず、逆に唐の影響下にはなかったと考えざるを得ないこととなりました。このままではわたしの「思考実験」は袋小路に迷い込んでしまいそうです。そこで、今回は検討の目先を変えて、「追大壹」という冠位について考察を進めてみることにします。

 『日本書紀』によれば「追大壹」という冠位は天武14年(685年)に制定記事があり、48階の33番目に相当します。従って、碑文にある「永昌元年(689年)」の年次と矛盾しません。この点についての『日本書紀』の記述は正確と言えそうです。この冠位48階制度に含まれる「進大弐」が太宰府出土「戸籍」木簡に記されています。更に河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土した「釆女氏榮域碑」(己丑年、689年)にも「直大弐」が見えます。
それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649〜685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664〜685年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 以上のような史料事実から、「追大壹」(33番目)・「進大弐」(43番目)・「直大弐」(11番目)などの冠位48階制度が7世紀後半の天武・持統期に採用されていたことは疑えず、その範囲が関東(那須)・近畿(河内・大和)・北部九州(筑前国嶋評)の広範囲であることもまた確かです。だとすると、そうした冠位制度が当時の日本列島の統一権力者により施行されていたということになります。これは九州王朝説にとって重要な問題です。なぜなら、関東の那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が、太宰府出土木簡に見える「進大弐」を北部九州(筑前国嶋評)在住の人物に叙位したことになるからです。(つづく)

《太宰府出土「戸籍」木簡》

「木簡表側」
嶋評   戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[ ? ]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[ ? ] 川ア里 占ア赤足□□□□[ ? ]
少子之母 占ア真□女   老女の子 得  [ ? ]
穴□ア加奈代 戸 附有

注記:ア=部

「木簡裏側」
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建   [ ? ]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[ ? ]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女   丁女 同里□[ ? ]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[ ? ]

 (□=判読不能文字、 [ ? ]=破損で欠如)

《釆女氏榮域碑》※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。

飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。


第1714話 2018/07/28

7世紀における九州王朝の勢力範囲

 多元的古代研究会主催の「万葉集と漢文を読む会」に参加させていただく機会があり、様々なテーマでディスカッションさせていただきました。そのとき7世紀における九州王朝の勢力範囲について意見交換したのですが、7世紀中頃には九州王朝は九州島と山口県程度までになっているとする見解があることを知りました。その根拠や論証内容については知りませんが、わたしの認識とはかなり異なっており、驚きました。

 九州王朝は7世紀初頭の天子多利思北孤の時代から評制を施行した中頃までは最盛期であり、黄金時代とわたしは考えています。663年の白村江戦の敗北により、急速に国力を低下させたと思われますが、それでも九州年号が筑紫から関東まで広範囲に使用されていた痕跡があり、列島の代表王朝としての権威は保っていたようです。たとえば7世紀後半の次の同時代九州年号史料の存在が知られています。

○芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「(白雉)元壬子年(六五二)」木簡
○福岡市出土「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代出土、行方不明)
○滋賀県日野町「朱鳥三年戊子(六八八)」鬼室集斯墓碑
○茨城県岩井市出土「大化五子年(六九九)」土器

 このように白雉元年から九州王朝最末期の大化五年まで、筑紫から関西・関東まで広範囲で九州年号が使用されている事実は重要です。白村江敗戦以後も九州王朝の権威(九州年号の公布と使用)が保たれていたと考えられます。

 他方、藤原宮や飛鳥宮からの出土木簡などからは、7世紀後半頃(天武期以後)になると近畿天皇家も実力的には九州王朝を凌ぎつつあると推定できます。王朝交代時の複雑な状況については史料根拠に基づいた丁寧な理解と研究が必要です。


第1587話 2018/01/25

『続日本紀』にあった「大長」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)を読んでいますが、そこに「大長」という表記があり、驚きました。

 「大長」は最後の九州年号(倭国年号。704〜712年)ですが、愛媛県松山市出土の木簡に「大長」という文字が見えることを以前に紹介したことがあります。それは「洛中洛外日記」490話(2012/11/07)「『大長』木簡を実見」の次の記事です。

【以下引用】
坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ -四国の古代-」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田Ⅱ遺跡出土)の実見です。(中略)

 さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。
あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。
「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ
これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。(後略)
【引用終わり】

 このとき見た「大長」木簡は年号としては不自然な表記で、何を意味するのか全くわかりませんでした。仮に「大長」という文字があったとしても、それだけでは「大長者」のような熟語の一部分の可能性もあるからです。

 ところが『律令時代と豊前国』には役職名らしき「大長」「小長」という表記が紹介されており、出典は『続日本紀』とのこと。そこで『続日本紀』天平12年9月条を見ると、豊前国企救郡の板櫃鎮(北九州市小倉北区。軍事基地か)の軍人と思われる人物について次のように記されていました。有名な「藤原広嗣の乱」の記事です。

「戊申(24日)、大将軍東人ら言(もう)さく『逆徒なる豊前国京都郡鎮長大宰史生従八位上小長谷常人と企救郡板櫃鎮小長凡河内田道とを殺獲す。但し、大長三田塩籠は、箭二隻を着けて野の裏に逃れ竄(かく)る。(後略)」

 このように板櫃鎮の「小長」凡河内田道と「大長」三田塩籠が広嗣側についた軍人として記されています。おそらく大長が「鎮」の長官で小長が副官といったところでしょう。なお、「京都郡鎮長」との表記も見えますが、おそらくは京都郡に複数ある「鎮」全てを統括する役職名ではないでしょうか。『続日本紀』のこの記事によれば、大宰府側の軍事基地として「鎮」があり、その役職として「大長」「小長」があったことがわかります。この役職名が他の史料にもあるのかこれから調査したいと思いますが、松山市出土「大長」木簡の「大長」もこうした役職名の可能性があるのかもしれません。


第1561話 2017/12/27

「天武朝」に律令はあったのか(4)

 前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする考古学的痕跡について、更に説明を加えます。

 2017年1月に大阪府文化財センターの江浦洋さんの講演会を「古田史学の会」で開催したのですが、そこで前期難波宮の西方官衙の北側にある「谷2」(13層)から大量の漆容器が出土していたことを説明されました。その出土層位は「戊申年」(648年)木簡が出土した「谷1」(16層)に対応するもので、前期難波宮存続期間に相当する堆積地層です。この漆容器は各地から前期難波宮に納められたと思われ、その数は三千個にも及んでいます。

 江浦さんが特に着目されたのが、その出土位置でした。前期難波宮の北西に位置する出土地(谷2)は前期難波宮の宮域に接しており、ゴミ捨て場として利用されたと推定されています。前期難波宮の周囲にはいくつもの谷筋が入り込んでいますが、宮域北西の谷に漆容器が大量廃棄されていることから、その付近に漆を取り扱う「役所」が存在していたと考えられます。
江浦洋さんの論文「難波宮出土の漆容器に関する予察」(『大阪城址Ⅲ』大阪府文化財センター、2006年3月)によれば、漆部司について次のように説明されています。

 「奈良時代には令制官司の一つとして『漆部司』の存在が知られている。漆部司は大蔵省の被官であり、漆塗り全般を担当している。」522頁
「今回の調査地から本町通を挟んだ南側の市立中央体育館の跡地では、(財)大阪市文化財協会による数次の発掘調査が行われている。この一連の調査では、前期難波宮段階に帰属する建物群が検出されている。建物群は塀によって区画されており、その中から整然と配置された総柱の堀立柱建物群が検出されている。

 この一画は内裏西方倉庫群、内裏西方官衙と仮称されており、すでに多くの研究者が注目し、呂大防の『長安城図』の対応する位置に『大倉』という記載とともに描かれた建物群との関連が注目され、『大蔵』に関連する施設である可能性が指摘されている。」524頁

「また、これも後の史料であるが、『陽明文庫』の平安京宮城図には宮城の北西隅に『漆室』と書かれた区画がある(図329)。これをそのまま対応させることには異論があろうが、今回の調査地が難波宮の北西隅近くに該当することは明らかであり、ここに漆を保管する『漆室』との記載がある点は看過しがたい事実であるといえる。」525頁

 このように前期難波宮宮域北西隅の谷から大量出土した漆容器と、律令官制の大蔵省下にある漆部司、そして唐の長安城図の「大倉」や平安京宮城図の「漆室」との位置の一致は、前期難波宮が律令官制による宮殿・官衙とする有力な考古学的事実・史料事実なのです。(つづく)


第1408話 2017/05/30

佐藤論文に見える飛鳥編年の脆弱性

 土器の相対編年(様式変遷)などにより10年単位で暦年(絶対編年)が可能とする飛鳥編年(白石説)が、その根拠とした基礎データや『日本書紀』の暦年記事の信頼性が学問的に脆弱であることを、これまでも繰り返し指摘してきました。たとえば「洛中洛外日記」1387話「服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を」においても、次の服部さんのメッセージを転載しました。

【服部さんのメッセージの転載】
飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。

 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。

 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 ※服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)

 前期難波宮孝徳期造営説に対して飛鳥編年を根拠に批判される論者からは、残念ながらまだ服部説への応答がないようです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させるとわたしは考えていますので、服部説への真摯なご批判を期待しています。

 前期難波宮造営時期について、飛鳥編年と難波編年の対立が考古学者間でも続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持するに至っていると聞いています。もちろん、学問は「多数決」ではありませんから、その当否・優劣は論証そのものにより決まります。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判においても、飛鳥編年を根拠に否定するという論者が見られますが、どちらの編年がより正しいのかが考古学的に論争されてきたのであり、“飛鳥編年によれば難波編年が間違っている”“飛鳥編年によれば660年代となる土器が前期難波宮整地層から出土している”というレベルの批判(循環論法)では、およそ学問論争の体をなしません。
その点、難波編年の妥当性を証明するために、出土「戊申年」木簡(648年)や出土木材の年輪年代測定値(634年)、出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)を根拠(実証)に、孝徳期造営説が妥当としてきた大阪歴博や大阪府埋蔵文化財センターの考古学者の説明(論証)の方が合理的で説得力があります。他方、孝徳期造営説を批判する側からは、自説の根拠となる前期難波宮出土物の理化学的年代測定値の提示(実証)は全くありません。こうした両者の提示した実証や論証を冷静に比較したとき、そこには質・量ともに明確な差があり、従って大多数の考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持していることも当然であり、既に「勝負はついている」と、わたしには思われるのです。
今回、読んだ大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」でも、直接的な表現ではありませんが、随所に飛鳥編年の問題点が指摘されています。たとえば、土器の「法量変化」に関する指摘です。土器の径が時代とともに小さくなることを前提に成立していた飛鳥編年(白石説)に対しては、先に紹介したように服部さんも批判されていますが、佐藤論文にも同様の指摘がなされています。

 「筆者は飛鳥Ⅲを細分する必要性は感じていないが、たしかに飛鳥Ⅱの資料や飛鳥Ⅳの代表例である雷丘東方遺跡SD110などの資料と比べると、後者との様相差がより小さく見える(図4)。その内容としては、飛鳥Ⅲ・Ⅳでは土師器・須恵器ともに坏A・Bが定型化すること、土師器坏Cの器高がこの間に低下していくこと、いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなることなどである。」(8頁)

 わたしは「いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなる」という部分を読み、図4を確認したところ、佐藤さんの指摘通り、より新しく編年されている飛鳥Ⅲ・Ⅳの須恵器の方が飛鳥Ⅱよりもかなり大きいのです。わたしも、土器(主に須恵器)の径は時代が下がるとともに小型化するという飛鳥編年の基本テーゼは信用していましたので、佐藤論文の指摘にとても驚きました。考古学の土器編年を、もっと勉強しなければならないと深く反省しました。


第1385話 2017/05/06

九州年号の空白木簡の疑問

 ずっと気になっていて未だ解決できない問題があります。それは700年以前の干支木簡に九州年号が記されていないという問題です。701年(大宝元年)以降の紀年木簡には基本的に大和朝廷の年号が記されているのですが、九州王朝の時代の木簡にはなぜか九州年号が記されていません。この疑問をずっと抱いているのですが、解決のための良いアイデアがでないのです。学問研究ですから、わからないことが多いのは当たり前なのですが、九州王朝と大和朝廷の関係から考えても、この現象は不思議なことなのです。
大和朝廷の「大宝律令」(逸文による復元)や『養老律令』には次のように年次記載には年号を用いよと明確に規定しています。

 「凡公文応記年者、皆用年号。」(おおよそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用いよ。)『養老律令』儀制令

 荷札木簡は公文書とは言えませんが、九州王朝も同様の律令を持っていたと思われますので、700年以前の木簡には干支が書かれるだけで九州年号がないのは不思議です。
今回は、もう一つのわたしの疑問を紹介します。それは前期難波宮出土の「戊申年」(648)木簡と、芦屋市出土の「元壬子年」(652)木簡についての謎です。
最初に不思議に感じたのが「元壬子年」木簡でした。この木簡については既に論文(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)などで発表していますが、九州年号の「白雉元年壬子」の木簡で、「白雉」が記されていないタイプです。というのも、この木簡の「元壬子年」の文字の上部にかなりのスペースがあり、意図的に空けたとしか思えないほどなのです。従って、後から「白雉」を書き入れる予定だったのか、あるいはあえて「白雉」を書かずに九州年号のスペース分を空けたのではないかと考えたりしました。すなわち、年号を神聖なものとして木簡に書くということがはばかられたとする理解です。もちろん根拠はなく、推定(思いつき)に過ぎません。
次に気づいたのが「戊申年」木簡です。この木簡は「戊申年」という文字を書いた後、空いたスペースを文字の練習に使用したと思われる「習字木簡」と考えられています。すなわち、本来の形としては「元壬子年」木簡同様に、九州年号(常色二年)が記入されるべき上部を空けているのです。
この二例だけですが、「九州年号空白木簡」とも称すべき木簡があるのです。しかしなぜ空白とされたのかはよくわかりません。どなたか良いアイデア(作業仮説)があれば、ご呈示ください。


第1384話 2017/05/06

飛鳥編年と難波編年の原点と論争

 このところ太宰府や北部九州の土器編年の勉強を続けていますが、それらが飛鳥編年に準拠しており、同編年の影響力の大きさを改めて感じています。
飛鳥編年の方法論と原点は、畿内の遺跡から出土した土器の相対編年を『日本書紀』の記事の暦年とリンクするというものです。それを基点に藤原京から出土した干支木簡などで追認されています。特に七世紀については須恵器の詳細な様式編年がなされており、土器により正確な暦年特定が可能と断定する論者もいます。すなわち、『日本書紀』の暦年記事は正しいとする立場(一元史観)です。

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を提起した後、難波編年について集中して勉強しました。特に大阪歴博の考古学者からは何度もご教示いただき、難波編年が文献(『日本書紀』孝徳紀、『二中歴』年代歴)との整合性もとれており、当初思っていた以上に正確であるとの印象を抱いたものです。その過程で、難波編年と飛鳥編年の考古学者間で激しい論争が続けられていることを知ったのです。

 それは前期難波宮整地層から極少数出土した須恵器(坏B)を根拠に、前期難波宮は天武期に造営された『日本書紀』に記録されていない宮殿であると、飛鳥編年に立つ研究者から批判が出され、それに対して難波編年に立つ研究者が出土事実(整地層や前期難波宮造営期の主要土器〔坏H、G〕、戊申年木簡〔648年〕の出土、前期難波宮水利施設からの出土木材の年輪年代〔634年〕、前期難波宮外周木柵の年輪セルロース酸素同位体比測定〔583年、612年〕など)を根拠に反論するという論争です。

 この論争経緯と内容を知ったとき、飛鳥編年により難波編年を批判する論者のご都合主義に驚きました。『日本書紀』の暦年記事を「是」として自らの飛鳥編年の正当性を主張しながら、前期難波宮整地層から自説に不都合な土器が出土したら、『日本書紀』孝徳紀の難波宮造営(652年)記事は誤りとするのです。理不尽(ダブルスタンダード)と言うほかありません。

 こうした理不尽な批判に対して、難波宮発掘を担当した考古学者は、『日本書紀』孝徳紀の記事を根拠に反論するのではなく、考古学者らしく出土事実と理化学的年代測定で反論を続けました。“孝徳紀の記事は間違っている”とする批判者に対して、“孝徳紀の記事は正しい”という反論では学問論争の体をなしませんから、考古学的事実の提示をもって反論するという大阪歴博等の考古学者の対応は真っ当なものです。ですから、わたしは彼らの方法や主張こそが学問的だと思いました。

 この論争はまだ水面下で続いているようですが、ほとんどの考古学者は大阪歴博が示した難波編年(前期難波宮の造営を7世紀中頃とする)を支持しているとのことです。もちろん、学問は多数決ではありませんが、この論争はどう贔屓目にみても難波編年がより正しいと言わざるを得ないのです。もし、難波編年が間違っているといいはりたいのなら、干支木簡でも年輪年代でも何でもいいですから、前期難波宮整地層や造営期の地層から明確に天武期とわかる遺物が出土したことを事実でもって示す必要があるでしょう。さらに指摘するなら、自らの飛鳥編年の根拠とした『日本書紀』の暦年記事は正しいが、孝徳紀の難波宮造営記事は誤りとする史料批判の根拠も示していただきたいものです。

 最後に、前期難波宮整地層出土の須恵器坏Bについてですが、大阪歴博の考古学者からお聞きした見解では当該須恵器は坏Bの原初的なタイプで、7世紀前半のものとみて問題ないとのことでした。報告書にもそのように記されていたと記憶しています。本年1月に開催した「古田史学の会・新春講演会」でも、講師の江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)におたずねしたところ、同須恵器は通常の坏Bよりも大型で、いわゆる坏Bとは見なせないとのご返答でした。坏Bについては大宰府政庁Ⅰ期からも出土しており、太宰府編年とも深く関わっていますので、只今、猛勉強中です。


第1205話 2016/06/07

「須恵器杯B」は畿内より筑紫が早い

 一元史観でも編年が揺らいでいる「須恵器杯B」の成立年代をなるべく正確に判断する必要があるため、比較的安定した考古学的史料事実に基づいて考察してみます。

 最も編年の信頼性が高いのが前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」です。木簡(「戊申」年、648年)や自然科学的年代測定(年輪セルロース酸素同位体測定、年輪年代測定)というクロスチェックを経ていますので、遅くとも650年頃以前の「須恵器杯B」と考えられます。しかし、前期難波宮の水利施設造営時の地層から大量に出土した須恵器は「須恵器杯G」と呼ばれるタイプで、蓋につまみがあり、底に「脚」がない須恵器杯です。これは7世紀第2四半期頃と編年されており、前期難波宮が完成した652年(『日本書紀』による)と同時期かその直前であり、大阪歴博の考古学者はこの出土事実を前期難波宮孝徳期造営説の有力根拠の一つとしています。ですから、前期難波宮での7世紀第2四半期の流行土器は「須恵器杯G」であり、それに少数の「須恵器杯B」が混在していることとなり、「須恵器杯B」の近畿での発生時期がこの頃であったとする理解を支持します。なお畿内で「須恵器杯B」が主となって出土するのが藤原宮整地層(天武期)ですから、通説通り畿内での「須恵器杯B」の興隆時期は7世紀第4四半期(天武期・持統期)となります。わたしも畿内出土の「須恵器杯B」の発生と興隆の年代観はこれでよいと思います。

 他方、大宰府政庁遺構出土の「須恵器杯B」はⅠ期の整地層やⅠ期の時代の地層から、主流土器として出土しています(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号2002年所収、Facebookの写真参照)。このⅠ期は通説の編年でも天智期(660〜670年頃)からⅡ期が造営される8世紀初頭とされ、筑紫ではこの頃に「須恵器杯B」の興隆期を迎えていたことになり、畿内よりも興隆期が約20年ほど早くなるのです。一元史観に立ってもこれだけ「須恵器杯B」興隆期が揺らぐのですが、これに九州王朝説による修正を加えれば、「須恵器杯B」の筑紫での興隆時期は更に遡ることになります。(つづく)


第1202話 2016/06/05

前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」

 「須恵器杯B」の年代観が七世紀の編年の揺らぎの一因になっているのですが、わたしがそのことを知ったのは小森俊寛さんの『京から出土する土器の編年的研究』(2005)によってでした。同書で小森さんは前期難波宮整地層から少数だが「須恵器杯B」が出土していることを根拠に、前期難波宮の創建時期を天武期とされ、孝徳期とする大阪歴博などの考古学者と論争が続けられました

 現在では戊申年(648)木簡や出土木柱のセルロース酸素同位体測定、水利施設出土木材の年輪年代測定の結果がいずれも七世紀前半を指し示すことなどから、通説通り七世紀中頃の創建とする意見が圧倒的多数意見となっています。わたしもこの科学的測定結果とクロスチェックを経た652年(九州年号の白雉元年)造営説でよいと考えています。

しかし、同時に従来は七世紀第4四半期と編年されてきた「須恵器杯B」の発生時期の編年が古くなったのですから、この事実は「須恵器杯B」が出土した他の遺跡編年にも再検討を迫ると考えています。鞠智城も例外ではなく、大宰府政庁遺跡も同様です。(つづく)