木簡一覧

第923話 2015/04/15

法道仙人開基の

  朝光寺訪問

 今日は兵庫県加東市に行きました。お客様との約束時間より早く到着しましたので、昼食の休憩を兼ねて近くの朝光寺を訪問しました。大きく立派な本堂(国宝)が見事でした。
 朝光寺は法道仙人が白雉2年に開基したとする寺伝を持つ古刹ですが、観光案内パンフレットなどでは、この白雉2年を『日本書紀』の白雉2年(651年)と紹介されていますが、やはり九州年号の白雉2年(653年)と理解すべきと思われます。開基伝承の出典は『朝光寺文書』などのようですので、これから調査したいと思います。
 朝光寺の他にも播磨地方には法道開基とされる白雉年間の創建伝承を持つ寺院が多く、九州年号研究でも注目されている地域なのです。ちなみに、加西市の一乗寺も法道による白雉元年の開基とされています。
 恐らく、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」(白雉元年壬子・652年)木簡も白雉年間における播磨地方の寺院創建ラッシュと関係するのではないかと推察しています。さらにはこの白雉年間の寺院創建は、九州年号の白雉元年(652)に完成した九州王朝の副都「前期難波宮」と無関係ではないようにも思われるのです。今後の研究の深化が期待されます。


第884話 2015/02/27

「玉作五十戸俵」木簡

       の初歩的考察

 難波宮近傍から出土した「玉作五十戸俵」木簡について、初歩的な考察を試みたいと思います。調査報告書や研究論文がまだ出されていないので、新聞発表や『葦火』174号(2015年2月)に掲載された谷崎仁美さんの報告「発見!『玉作五十戸俵』木簡」を参考にしました。

 同木簡の写真を見たとき、よく読解できたものだと思いました。大阪歴博の李陽浩(り・やんほ)さんにお聞きしたところでも、「玉作」と「俵」はすぐに読めたが「五十戸」は時間がかかったとのことでした。確かに「五」と「十」は異体字とも思えるような字で、特に「十」は「T」に近い字体です。「戸」も上の「一」が一画多い字体に見えます。

 さらにその筆跡もかなりの癖字で、その特徴的な筆跡から他の木簡にも似た筆跡が見つかるかもしれません。そしてうまくいけば他の木簡との比較により、不明とされている年代推定ができる可能性も残されています。この木簡が孝徳期まで遡れるとしたら、行政単位の「五十戸(さと)」が7世紀中頃に存在したこととなり、『日本書紀』の大化改新詔の研究が前進します。それほど貴重な木簡なのです。

 次にわたしが注目しているのが「玉作」という地名です。『和名抄』に見える郷名の「たまつくり」を根拠に、いくつかの地域が候補にあがっていますが、荷札木簡にしては疑問点があります。地方から前期難波宮に供出された荷物として「出荷地」を読む人(受取人・前期難波宮の役人)に伝えるためには最小地名単位の「玉作五十戸(さと)」だけでは各地にあったどこの「玉作」なのかわかりませんから、荷札としては「役立たず」なのです。すなわち、荷札としての本来の目的を果たすためには「○○国△△評玉作五十戸」と出荷地名を特定できる表記であってほしいのです。さらに出荷時期を示す「年干支」なども必要でしょう。記す場所も十分に残されているのに、なぜ書かれなかったのでしょうか(裏面に文字はありません)。不思議です。

 そこで、この現象を説明できる仮説があります。それは国名や評名を書かなくても、書いた人にも読んだ人にも「玉作五十戸」だけで場所が共通認識として特定できるケースとして、次の状況が考えられます。それはある特定の時期に難波の地域内、あるいは近傍の「玉作」からの供出のケースです。そのようなケースとして次の状況が考えられます。すなわち、前期難波宮造営のために造営時期に近隣の地域に供出を権力者が命じた場合です。このケースであれば、国名や評名がなくても供出地域が当初から限定されていますから、「玉作五十戸」だけで十分ですし、前期難波宮造営時の供出ですから、年次の記載も不要なのです。

 この仮説によれば「玉作」という地名が前期難波宮の近傍に存在しなければなりませんが、前期難波宮のすぐ南東に玉造町(大阪市中央区)や玉造本町(大阪市天王寺区)があります。ここからの供出であれば、書いた人も受け取った役人も「玉作五十戸」で十分です。

 以上、「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察でしたが、同木簡を実見できましたら更に論究したいと思います(現在は調査中のため同木簡は公開されていまん)。


第871話 2015/02/14

難波宮遺構から「五十戸」木簡出土

 出張を終え、週末に帰宅したら古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人、枚方市)からお手紙が届いており、2月4日付「日経新聞」のコピーが入っていました。それほど大きな記事ではありませんが、「『五十戸』記す木簡出土」「改新の詔の『幻の単位』」という見出しがあり、木簡の写真と共に次のような記事が記されていました。

 大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。
日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。
しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。
同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。(以下略)

 そして、この「玉作」という地名が陸奥や土佐にあったと紹介され、ゴミ捨て場とされる谷からの出土とのことで、そこからは古墳時代から平安時代までの出土品があり、木簡の正確な年代決定は難しいようです。

 写真で見る限り、肉眼による文字の判読は難しく、「作」「戸」「俵」は比較的はっきりと読めますが、他の文字は実物と赤外線写真で判読しなければ読めないように思われました。記事で紹介されていた高橋さんの見解のように、簡単に説明はしにくいのですが、その書式や字体は確かに古いように感じました。

 「洛中洛外日記」552話、553話、554話で紹介しましたように、「五十戸」は後の「里」にあたり、「さと」と訓まれている古代の行政単位です。すなわち、「○○国□□評△△五十戸」のように表記されることが多く、後に「○○国□□評△△里」と変更され、701年以後は「○○国□□郡△△里」となります。

 今回の「五十戸」木簡が注目される理由は、この「五十戸」制が孝徳期まで遡る可能性を指し示すものであることです。わたしは「洛中洛外日記」553話で次のように指摘し、「五十戸」制の開始は評制と同時期で、前期難波宮造営と同年で九州年号の白雉元年(652)ではないかとしました。

 わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目しています。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないようですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(「洛中洛外日記」553話より抜粋)

 この「五十戸」木簡を自分の目で見て、更に論究したいと思います。それにしても難波宮遺跡や上町台地からの近年の出土品や研究は通説を覆すようなものが多く、目が離せません。


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第789話 2014/09/22

所功『年号の歴史』を読んで(1)

「洛中洛外日記」775話で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、 古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・1990年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。

 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当 然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(26頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(1983年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(699)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(688)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。

 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見に より、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史 観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。

 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。


第785話 2014/09/14

倭国(九州王朝)遺産

・文字史料編

前話に続いて「倭国(九州王朝)遺産」です。今回は文字史料について「認定」します。もちろんわたしの個人的見解であることは、前話と同様です。九州王朝の実体を知る上で、文字史料はとても貴重です。それではご紹介します。

〔第1〕法隆寺釈迦三尊像・後背銘
九州王朝の天子、阿毎多利思北孤がモデルとされる「飛鳥仏」を代表する仏像です。従来は大和朝廷の聖徳太子のこととされてきましたが、古田先生の研究により九州王朝の天子の仏像であることが判明しました。後背銘にある「法興」が九州年号(正木裕説では多利思北孤の法号)であることも注目されています。

〔第2〕法華義疏
皇室御物である「法華義疏」を古田先生は京都御所で実見し、調査されました。その結果、九州王朝の上宮王が収集した文書であることをつきとめられました。冒頭部分に記された「大委国上宮王」は多利思北孤であるとされ、本来所蔵されていた寺院名が書かれていた箇所が切り取られていることも発見されていま す。

〔第3〕「十七条憲法」(『日本書紀』所収)
古田先生の研究によれば、『日本書紀』に聖徳太子によるとされている「十七条憲法」は九州王朝史書からの盗作とされています。『日本書紀』には九州王朝の事績が盗用されていることは知られていましたが、「十七条憲法」も九州王朝の「憲法」であれば、その研究により九州王朝の政治体制や実体解明にとって有効な史料となります。

〔第4〕芦屋市出土「元壬子年」木簡
芦屋市三条九の坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、当初「三壬子年」と判読され、『日本書紀』に見える「白雉三年壬子」(652年)のことと理解されてきました。ところがわたしたちの調査(赤外線撮影、光学顕微鏡観察)により、「元壬子年」であることが確認され、『二中歴』などに見える九州年号の 「白雉元年壬子」(652年)を示していることが明らかとなりました。この発見により、九州年号実在の直接的な証拠となる同時代の木簡であることがわかりました。この史料事実に対して、大和朝廷一元史観の学界や九州王朝説反対論者は今も沈黙を続けています。卑怯というほかありません。

〔第5〕「年代歴」(『二中歴』所収)
九州年号群史料として最も原型に近いとされているのが、『二中歴』に収録されている「年代歴」です。特にその細注に記された記事は九州王朝系史料に基づいていることが判明しており、とても貴重な史料です。

〔第6〕太宰府市出土「嶋評戸籍木簡」
2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域であるこの地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせるもので、その内容は九州王朝の実体解明を進める上で貴重なものでした。正倉院文書の大宝二年『筑前国川辺里戸籍断簡』などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていましたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなりました。

〔第7〕倭王武の「上表文」(『宋書』倭国伝所収)
九州王朝(倭国)と中国南朝との交流において、『宋書』に収録された貴重な倭王武の「上表文」は倭国の歴史や文化、文字使用の伝統などを知る上で貴重な史料です。史料そのものは中国史書ですが、その「上表文」部分は倭国遺産に認定したいと思います。

〔第8〕「君が代」(『古今和歌集』他所収)
日本国国歌「君が代」の歌詞も「文化遺産」として認定したいと思います。古田先生の研究により、その歌詞には糸島博多湾岸の地名・神名などが読み込まれており、同地域で弥生時代に成立したとされています。ちなみに、次の地名・神名などが読み込まれています。
「千代」福岡市千代
「さざれいし」糸島市細石神社
「いわお(ほ)」糸島市井原(いわら)山水無鍾乳洞
「こけのむすまで」糸島市志摩町桜谷神社祭神「古計牟須姫命」「苔牟須売神」

〔第9〕祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓」
「六月の晦(つごもり)の大祓」の祝詞も文化遺産として認定したいと思います。古田先生の著書『まぼろしの祝詞誕生』(古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、1988年)によれば、「六月の晦(つごもり)の大祓」は「天孫降臨」当時(弥生時代前半期)に糸島博多湾岸(高祖山連峰近辺)で成立したとされています。

〔第10〕稻員家系図(福岡県八女市、広川町、他)
筑後国一宮である高良大社の神官であり、同社祭神の高良玉垂命を祖先とする稻員氏が九州王朝の王族の末裔であることが、古田先生の研究で明らかとなりました。同家の系図には7世紀以前の人物に「天皇」や「天子」の称号を持つものがあり、同系図が九州王朝系図であることもわかってきました。九州王朝王族にはいくつもの支流があるようで、その全体像はまだ不明ですが、稻員家系図や他家の系図の史料批判により、今後解明が進むことと思います。

以上の史料を「倭国(九州王朝)遺産」に認定したいと思います。いずれも、九州王朝研究にとって貴重な史料です。(つづく)


第753話 2014/07/27

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(3)

 森郁夫さんの『一瓦一説』は一元史観による理解や解説に立ってはいますが、「瓦」という考古学事実についてはとても勉強になります。たとえば「わが国最古の瓦」(200ページ)では、昭和53年(1978)に福岡県の神ノ前窯(太宰府市吉松字神ノ前)から、日本最古の瓦が出土したことが次のように 紹介されています。

 「その瓦が出土した窯は須恵器生産の窯であり、軒丸瓦や丸瓦、平瓦が出土したというのである。軒丸瓦の瓦当面には文様が施されていない。無文なのである。(中略)
 瓦とともに出土した須恵器の年代から六世紀末葉を若干さかのぼる、飛鳥寺に先行する時期であるとのことであった。」
 「神ノ前で生産された瓦の供給先は当初はっきりしなかったのだが、県内の発掘調査が進んだ結果、那珂遺跡(福岡市博多区那珂)から同様の瓦が出土したことによってそこで使用されたことが分かった。」

 このように、わが国最古の瓦は九州王朝の中枢である太宰府で生産され、同じく中枢の博多湾岸で使用されていたのです。この考古学的事実も九州王朝説にとって有利な事実です。瓦の受容と生産が九州王朝で6世紀末頃に開始されたということになりますが、北部九州の須恵器編年が通説よりも50~100年ほど遡る可能性がありますので、実際はもう少し早い時期に九州王朝は瓦の生産を開始したのではないでしょうか。更に、瓦は主に寺院建築に使用されていますから、仏教の伝来も仏寺の建築も北部九州が先行したことを、この最古の瓦は示唆しているように思われます。


第752話 2014/07/26

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(2)

 太宰府の観世音寺創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)や、『勝山記』(鎮西観音寺造)『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳十年(六七〇)の創建とする記事が発見され、観世音寺創建が白鳳十年(六七〇)であることが史料的に明らかになってい ました。
 森郁夫著『一瓦一説』では、観世音寺創建瓦の同笵品瓦の発見により、観世音寺の創建が川原寺や崇福寺と同時期(7世紀後半頃)と見なしうることが示唆されています(瓦当文様の比較から、大和の本薬師寺創建と同時期とされています。この点、別に論じます)。したがって文献と考古学の一致(シュリーマンの法則)からしても、ほぼ確実に観世音寺創建年を白鳳10年(670)と見なして良いと思います。
 ところが、この観世音寺創建年を認めてしまうと、近畿天皇家一元史観にとって耐え難い大問題が発生します。それは太宰府の地元の考古学者、井上信正さんの調査研究により、観世音寺よりも太宰府条坊都市の成立の方が早いことが明らかとなっていることから、日本初の条坊都市とされている藤原京(694年遷都)よりも太宰府の条坊成立の方が先となってしまうからなのです。このことは九州王朝説の立場からは当然ですが、「九州王朝や古田説はなかった」とする一 元史観論者や学界にとっては大問題なのです。すなわち、大和朝廷の都(藤原京)よりも、「地方都市」太宰府の方が先に条坊が造営されたこととなり、我が国 初の条坊都市が太宰府になってしまうからです。
 このことを「洛中洛外日記」などで何度もわたしは指摘してきましたが、一元史観論者や学界は無視を決め込んでいます。この「洛中洛外日記」を見ておられる一元史観論者の皆さんに敢えて申し上げます。どの一元史観論者よりも早く、最初に「古田説・九州王朝は正しい」と言った学者は研究史や後世に名を残せますよ。よくよくお考えください。(つづく)


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)


第674話 2014/03/08

前期難波宮の

  考古学的「実証」と「論証」

 「洛中洛外日記」667話で紹介しました、難波宮跡出土の木柱が7世紀前半(最も外側の年輪が612年、583年)のものとした「年輪セルロース酸素同位体比法」の結果が何を意味するのか、どのような展開を見せるのかを考えてきました。その結果、前期難波宮の考古学的「実証」により、次のような「論証」が成立することを改めて確信しました。

 大阪市中央区法円坂から出土した巨大宮殿遺構は主に前期と後期の二層からなっており、下層の前期難波宮は一元史観の通説では孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」とされています。少数意見として、天武朝の宮殿とする論者もありますが、今回の出土木柱の年代が酸素同位体比法により、7世紀前半のものとされたことから、前期難波宮造営を7世紀中頃(孝徳期)とする説が更に有力になったと思われます。

 これまでも紹介してきたことですが、前期難波宮の造営年代の考古学的根拠とされてきたものに、今回の木柱を含めて次の出土物があります。

1.「戊申」年木簡(648年)
2.水利施設木枠の年輪年代測定(634年伐採)
3.木柱の酸素同位体比法年代測定(612年、583年)
4,前期難波宮整地層出土主要須恵器(杯H・G)が藤原宮整地層出土主要須恵器(杯B)よりも1~2様式古く、天武期に造営開始された藤原宮よりも前期難波宮の方が古い様相を示している。

 以上のように少なくともこれら4件の考古学的事実からなる「実証」が、いずれも前期難波宮造営を7世紀中頃とする説が有力であることを指示しています。それでも天武期造営説を唱える人は、

(1)「戊申」年木簡は偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(2)木枠の年輪年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(3)木柱の酸素同位体比法年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(4)整地層須恵器も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。

 というように4回も「偶然」や「間違い(無関係)」を無理矢理想定し、「信用しない」という「論法」を用いざるを得ないのですが、およそ4回の「偶然」や「間違い(無関係)」の「同時発生」を自説の根拠とするような方法は学問的判断とは言い難いものです。

 このようにどちらの説が有力かを比較論証する「学問の方法」を、わたしは古田先生から学びました。たとえば古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、1991年)で、「君が代」が糸島・博多湾岸の地名・神名を読み込んでこの地で成立したとするのは「偶然の一致」にすぎないとする批判に対して、次のような反証を古田先生はなされています。

 第一に、博多湾岸(福岡市)の「千代」が「君が代」の「千代」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第二に、糸島郡の「細石」神社が、「君が代」の「細石」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第三に、糸島郡の「井原(岩羅)」が、「君が代」の「岩を」(或は「岩秀〈ほ〉」)の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第四に、糸島郡の桜谷神社の祭神、「苔牟須売神」が、「君が代」の「こけのむすまで」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
右のように、四種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「『君が代』を『糸島・博多湾岸の地名』と結び付けるのは、学問的論証力を欠く」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのである。

しかし、自説の立脚点を「四種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができようか。わたしには、それを決して肯定することができぬ。
右によって、反論者の立場が、論理的に極めて脆弱であることが知れよう。(同書、97ページ)

 この『「君が代」うずまく源流』は、わたしにとって初めての著作であり、尊敬する古田先生との共著でもあり(古田先生、灰塚照明さん、藤田友治さんとの共著)、この論証方法は今でも印象深く記憶に残っています。この論証方法が前期難波宮の研究に役だったことは感慨深いものです。そして結論として、前期難波宮の造営を7世紀中頃とする説は不動のものになったと思われるのです。(つづく)


第633話 2013/12/12

「はるくさ」木簡の出土層

 「洛中洛外日記」第420話で、難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡、すなわち万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土していたと述べました。

 このことについて、するどい研究を次々と発表されている阿部周一さん(「古田史学の会」会員、札幌市)からメールをいただきました。その趣旨は「はるくさ」木簡は前期難波宮整地層からではなく、その整地層の下の層から出土したのではないかというご指摘でした。私の記憶では、大阪歴史博物館の学芸員の方から、「前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土」とお聞きしていましたので、もう一度、大阪歴博の積山洋さんにおうかがいしてきました。

 積山さんの説明でも、同木簡は前期難波宮造営のために谷を埋め立てた整地層からの出土とのことでしたが、念のために発掘を担当した大阪市文化財協会の方をご紹介していただきました。大阪歴博の近くにある大阪市文化財協会を訪れ、ご紹介いただいた松本さんから詳しく同木簡の出土状況をお聞きすることができ ました。

 松本さんのお話しによると、同木簡が出土したのは第7層で、その下の第8層は谷を埋め立てた層で、埋め立て途中で水が流出したようで、その水により湿地層となったのが第7層とのことでした。水の流出により一時休止した後、続いて埋め立てられたのが第6層で、通常この層が前期難波宮「整地層」と表記されて いるようでした。しかし、第6層、第7層、第8層からは同時期(640~660年)の土師器・須恵器が出土していることから、いずれも前期難波宮造営時代 の地層とのことでした(埋め立てに何ヶ月、あるいは何年かかったかは遺構からは不明)。
松本さんからいただいた当該報告書『難波宮跡・大阪城跡発掘調査(NW06-2)報告書』にも、第6層を「整地層」、第7層を「湿地の堆積層」、第8層を「谷の埋め立て層」と表記されており、いずれも七世紀中頃の須恵器・土師器の出土が記されています。

 以上のことから、結論としては「はるくさ」木簡の出土は、前期難波宮造営の為に谷を埋め立てた整地層からとしても必ずしも間違いではなさそうですが、正確には「整地の途中に発生した湿地層からの出土」とすべきようです。この湿地層にあったおかげで同木簡は腐らずに保存されたのでした。

 阿部さんのするどいご指摘により、今回よい勉強ができました。感謝申し上げます。学術用語はもっと用心して正確に使用しなければならないと、改めて思いました。


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)