第1886話 2019/05/06

京都市域(北山背)の古代寺院(2)

 京都市考古資料館の特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」で最も注目した遺跡が北白川廃寺跡(左京区)でした。銀閣寺の北側に位置する北白川地区から廃寺跡が発見されたのは昭和9年のことで、巨大な金堂基壇(36.1m×22.8m)や回廊が出土しました。その後、昭和50年になって金堂の西80mの地点から塔跡も発見されました。
 わたしが驚いたのはその金堂基壇の巨大さです。北白川廃寺創建は出土瓦(山田寺式)を根拠に七世紀の第三四半期の早い時期と編年されており、その時代の寺院の金堂としては奈良県桜井市から出土した吉備池廃寺(37m×約28m)に次ぐ大きさとのことです。現存する法隆寺金堂の基壇が22.1m×18.8mですから、これと比べてもかなりの規模であることがおわかりいただけるでしょう。
 ここで問題となるのが、この北白川廃寺のことは『日本書紀』にも後の史料にも見えず、山背(やましろ)国の北部にこのような巨大寺院を建立した勢力についても不明です。想定される創建時期が前期難波宮とほぼ同時期であることも見逃せません。巨大な北白川廃寺は近畿天皇家とは関係が薄い勢力、あるいはその存在を近畿天皇家が『日本書紀』には記したくなかった勢力による造営と考えるべきではないでしょうか。すなわち、九州王朝系勢力が創建に関わったのではないでしょうか。
 さらに同廃寺の南に隣接する小倉町別当町遺跡からは、「高志」「丁」の刻印をもつ無紋銀銭が出土しています(七世紀中頃と編年)。無紋銀銭は近江の崇福寺遺跡や難波から数多く出土しています。前期難波宮を九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とするわたしの説や、近江朝を九州王朝系とする正木説の立場からすれば、九州王朝と関わりが深いとされる地から無紋銀銭が出土していることとなり、小倉町別当町遺跡から出土した無紋銀銭も偶然と見るよりも、北白川廃寺を創建した勢力(九州王朝系か)との関係を検討すべきものと思われるのです。(つづく)


第1885話 2019/05/05

京都市域(北山背)の古代寺院(1)

 京都市考古資料館(上京区)で特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」(無料)が開催されていることを久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から教えていただき、昨日、見学してきました。
 わたしは古代史研究において、山背(やましろ)国、中でも京都市域についてはそれほど興味がなく不勉強でした。ところが今回の特別展示を拝見して驚きました。もしかすると古代の京都市域(北山背)は九州王朝と関係が深い地域ではないかと考えるようになりました。その理由について紹介したいと思います。もちろん、調査研究や論証はこれからですので、考古学的事実とわたしの感想を記していきます。
 最初に紹介するのが西京区の樫原廃寺です。昭和41年の発掘調査により、七世紀唯一の八角仏塔が出土しています。同時期における八角形の建造物は前期難波宮の八角殿(二基)と熊本県の鞠智城の八角鼓楼(新旧の各二基)が知られているだけですから、非常に珍しいものです。前期難波宮は九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とわたしは考えていますし、鞠智城も九州王朝による要塞的施設ですから、八角仏塔が出土した樫原廃寺も九州王朝との関係があるのではないかと推測しています。
 造営年次は前期難波宮の652年(九州年号「白雉元年」)だけが判明しており、鞠智城鼓楼や樫原廃寺との先後関係は未詳です。しかし、樫原廃寺の八角仏塔を建立した工人集団と前期難波宮の八角殿を造営した工人集団(番匠)とが全くの無関係とは考えにくいのではないでしょうか。なお、樫原廃寺からは八角仏塔を取り囲む回廊・築地塀と大形の中門が出土していますが、金堂に相応しい規模の遺構は回廊内から発見されていません。八角仏塔の北側に小規模の建築物があるだけという、不思議な遺構です。(つづく)


第1884話 2019/05/05

GWは考古資料館と落語会

 令和最初のゴールデンウィーク、世間では十連休などと騒がれていますが、わたしの勤務先はこの金土日の三日間だけで、明日六日から出勤です。ブラック企業のようなプチGWでした。化学会社なので化学反応などのため連続稼働が必要ですので、このような休日となりました。さすがに5月1日の新天皇即位の日だけは年休を取得し、京都御所の建礼門前で新天皇のご長寿を祈りました。御所の近くに住んでいると、こういうときは便利です。
 昨日は京都市考古資料館(上京区)で開催されていた特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」を見学した後、午後からは上七軒歌舞練場での上七軒落語会「南光 米團治 吉弥三人会」に妻と行ってきました。早めに到着して、桂米團治さんの楽屋を訪問、ご挨拶しました。
 米團治さんとは不思議なご縁で、古田先生と二人でKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に出演させていただいたことがあります。番組収録は2015年8月27日でしたが、その二ヶ月後の10月14日に古田先生が急逝され、同番組出演が先生最後の公の場となりました。それ以後も、なにかと米團治さんにはお気遣いいただいています。古田先生追悼特集の『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店)にも米團治さんの弔辞を掲載させていただきました。
 落語会の冒頭には上七軒の舞妓さんらによる踊り「三番叟(さんばそう)」が披露され、振り袖姿も艶やかな舞が落語会に花を添えました。上七軒は京都最古の花街といわれ、外国人観光客でごった返す祇園とは異なり、落ち着いた京都らしい風情が感じられるところです。踊りのあとに南光さん米團治さん吉弥さんによる掛け合い漫才のようなご挨拶があり、一気に場が和みました。さらに舞台上でお三人と舞妓さんらによる珍しい「お茶屋の遊び」がご披露されました。そして米朝一門による落語が続き、その芸の見事さに驚くとともに愉快な演目に大笑いしました。
 古田先生の奥様が桂米朝さんのファンだったこともあり、先のトーク番組の出演も「米朝さんの息子さんの番組ならお受けします」と古田先生の快諾が得られたのでした。そうしたこともあって、米團治さんと会うたびに古田先生や奥様のことを昨日のことのように思い出します。
 御前中に訪問した京都市考古資料館では貴重な知見を得ることができました。それまでは京都市の古代史は平安京のイメージが強く、それほど関心を持っていませんでしたが、実は大違いでした。もしかすると山背国と九州王朝との関係は案外深いのではないかと思いました。このときの発見については別途「洛中洛外日記」でもご紹介する予定です。


第1883話 2019/05/03

改変された『高良記』の「白鳳」

 わたしの故郷、福岡県久留米市高良山に鎮座する筑後一宮の高良大社には『高良記』という文書があります。末尾が失われており成立年次は不明ですが、中世末期から近世にかけての成立と見られています。この『高良記』には九州年号「白鳳」が記されていますが、本来型と後代改変型の二種類の「白鳳」が混載されているという珍しい九州年号史料です。たとえば次のような「白鳳」年号記事が見えます。

 「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ、大祝ニシタカイ、大菩垂亦ニテ、ソクタイヲツキシユエニ、御祭ノ時モ、御遷宮ノヲリフシモ、イツレモ大菩御トモノ人数、大祝ニシタカウナリ」
 「御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」

 このように『高良記』には高良玉垂命の御法心を「白鳳二年」と記すものと、「白鳳十三年、天武天皇即位二年癸酉」とする二例が混在しています。これは本来の九州年号の「白鳳十三年癸酉」(673年)であったものが、その年が『日本書紀』の天武二年癸酉に当たるため、「天武天皇白鳳二年」とする改変型が発生したものと思われます。そしてその両者が不統一のまま同一文書内に混在しているというケースです。
 こうした「白鳳」年号の後代改編型史料については、拙稿「盗まれた年号--白鳳年号の史料批判」(『古田史学会報』No.48 2002年2月5日)でも論じていますので、下記の「古田史学の会」HPをご参照ください。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou48/koga482.html


第1882話 2019/05/02

改変された『箕面寺秘密縁起』の「白鳳」

「洛中洛外日記」1880話で紹介した『箕面寺秘密縁起』の下記の九州年号のうち、「白鳳」がどのように改変されたのかについて改めて説明します。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)
※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

「洛中洛外日記」1880話では、「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とする後代改変形としたのですが、より正確に言えば本来は「白鳳元年辛酉」(661年)とあったものを天武天皇の元年壬申を意味する「天武天皇御宇、白鳳元年壬申」(672年)に改変したと考えられます。その証拠は日付干支の「春二月四日己巳」です。
『箕面寺秘密縁起』には何故かこの「白鳳元年」記事には日付干支が記されているのですが、この時期に「二月四日」の日付干支が「己巳」の年は661年「白鳳元年辛酉」だけです。このことから「天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳」の本来型は九州年号の「白鳳元年辛酉春二月四日己巳」であり、「天武天皇御宇」が付記され、「辛酉」(661年)が「壬申」(672年)に改変されていたことになります。このケースでは日付干支が書き換えられずに残っていたため、改変過程が明らかにできたものです。
実はこの『箕面寺秘密縁起』の「白鳳元年」記事の改変過程については、30年前にわたしは論文で発表していました。『市民の古代研究』35号(市民の古代研究会編、1989.09)に掲載された「平野・丸山論争への私見② 『箕面寺秘密縁起』の史料批判」です。自分が書いたこの論文のことを失念していました。まだ古田史学に入門して三年ほどのとき(34歳)の論文ですから、今よりももっと拙い文章なのですが論証方法や結論は間違っていないと思います。
更に史料批判を進めるならば、改変前の「白鳳元年辛酉春二月四日己巳」(661年)のこととして同縁起に記された元記事の信憑性は高いと判断できます。なぜなら元史料は本来の九州年号「白鳳」と正確な日付干支で記されていたわけですから。ちなみに同縁起の当該記事は次のようなものです。

「行者五十二歳、天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳、卯時出瀧本」

この記事では役行者が52歳のときを「天武天皇御宇、白鳳元年壬申」としているのですが、同縁起によれば役行者は「舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日」(634年)に生まれたとあることから、52歳のときは685年(九州年号の朱雀二年)であり、「白鳳元年」が仮に壬申(672年)でも、本来の癸酉(661年)でも一致しません。したがって、本来型の「白鳳元年辛酉(661年)春二月四日己巳」のとき52歳だった別の人物の伝承が、『箕面寺秘密縁起』に取り込まれたという可能性もありそうです。この点は同縁起全体の史料批判や関連伝承・史料などの調査研究により明らかにできるかもしれません。機会と時間があれば現地を訪問してみたいものです。


第1881話 2019/05/01

「令和」改元を祝い、「白雉」改元を論ず

 本日、新天皇が即位され、「令和」と改元されました。そこで、「令和」改元を祝い、あらためて九州年号の「白雉」改元を論じることにします。
 「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟において、「孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日」(庚戌:650年、壬子:652年)とあることを紹介しました。そして白雉元年に二つの異なる干支が記されるという不体裁の理由は、本来の九州年号の白雉元年壬子(652年)表記に、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年庚戌(650年)の影響を受け、「庚戌」が付記された結果であるとしました。
 更に、芦屋市三条九之坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡により、白雉元年の干支は壬子(652年)であり、『二中歴』などの九州年号の「白雉」(652〜660年)が正しく、『日本書紀』の「白雉」は二年ずらして転用していたことが明確となったわけですが、実は『日本書紀』そのものにも「白雉元年」を二年ずらしていた痕跡があることをわたしは発見し、「白雉改元の史料批判 -盗用された改元記事-」(『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、『古田史学会報』76号 2006年10月)として発表しました。
 その痕跡とは、『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年庚戌)二月条の白雉改元儀式の記事は、本来は白雉三年(652年壬子。九州年号の白雉元年に相当)二月条にあったものが削除され、元年(650年庚戌)二月条へ移されたことを示すある記述です。先の論文より当該部分を転載します。

【以下転載】
 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事が九州王朝史料からの盗用である可能性は極めて高いのであるが、今回新たに孝徳紀を精査したところ、同記事盗用の痕跡がまた一つ明かとなったので報告する。
 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければならない。そして、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事がある。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。
 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、二年ずらしての盗用だったのだ。


第1880話 2019/04/26

『箕面寺秘密縁起』の九州年号

箕面市平尾の龍安寺が蔵する『箕面寺秘密縁起』には九州年号が記されています。『修験道史料集(Ⅱ)』によれば次のようです。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)

※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

『箕面寺秘密縁起』は箕面寺草創の歴史と役行者について記したもので、江戸時代初期以前の成立と見られています。そこに記された九州年号は「不正確」であり、編纂時に「九州年号」年代記などを参照して改変付記されたものと思われます。
たとえば⑤の「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とした後代改変された「白鳳」です。⑥の「朱鳥八年歳次甲午」も本来の九州年号「朱鳥八年(693年)」とは一年ずれており、持統天皇元年を「朱鳥元年」とした改変型です。『万葉集』に見える「朱鳥」も同様の改変型です。
⑦の「大化九秊乙未」は改変型というよりも、本来の九州年号「大化元年乙未」の誤写(元→九)の可能性があります。なお、本稿で示した「本来の九州年号」とは最も史料価値が高い『二中歴』系の九州年号です。
『箕面寺秘密縁起』の九州年号で最も興味深いのが②③④の「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」という表記です。これでは「白雉元年」が庚戌(650年)なのか、壬子(652年)なのかわかりません。この意味不明な表記に同縁起編者の苦悩の跡が見て取れます。元史料には「白雉元年歳次壬子」(652年)とあったが、『日本書紀』の孝徳紀「白雉元年」は庚戌(650年)であるため、『日本書紀』との「整合性」を保つために細注で「庚戌」と付記したことにより、この意味不明の表記「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」になったのです。このとき、更に「歳次壬子」の部分を削除していれば「白雉元年〈庚戌〉」となり、『日本書紀』と矛盾しないのですが、なぜか編者はそれをしていません。その結果、同縁起に九州年号「白雉元年」の本来の姿(歳次壬子)を留めたわけです。このように、九州年号には本来型と『日本書紀』の内容に整合させるための後代改変型が各史料に散見します(例えば『高良記』の「白鳳」など)。
この「白雉」年号の二年のずれについては、三十年前にも古田学派内で論争がありました。「市民の古代研究会」時代に、九州年号研究で先駆的研究をされた丸山晋司さんは、本来の九州年号「白雉」が『日本書紀』孝徳紀に二年ずらして転用されたとする立場に立たれていました。わたしもこの意見に賛成です。
他方、熊本市の平野雅曠さんは、干支が二年ずれた暦法によるもので、共に同年のこととする説を発表され、丸山さんと激しい論争が続きました。その後、平野さんは亡くなられ、丸山さんも「市民の古代研究会」の分裂を機に九州年号研究から離れられ、この論争自体は「未決着」となりました。
この白雉元年が『二中歴』などの九州年号史料に見える「壬子(652年)」なのか、『日本書紀』孝徳紀の「庚戌(650年)」なのかについて決着をつけたのが芦屋市三条九之坪遺跡から出土した一枚の木簡でした。この木簡について、『木簡研究』には「三壬子年」と発表され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年(652年)」のことと解説されていました。しかし、この報告に疑問を感じたわたしは、古田先生等と共に兵庫県教育委員会の許可を得て同木簡を精査したところ、「三」と読まれていた文字が「元」であることを確認しました。すなわち、「(白雉)元壬子年(652年)」という九州年号木簡だったのです。調査には光学顕微鏡や赤外線カメラ(大下隆司さん撮影)を持ち込み、二時間にわたりわたしは同木簡を観察し、「元壬子年」と書かれていることを確認しました。
同木簡は出土当時は紀年銘木簡としては国内最古であり、研究者から注目されました。ところが、わたしや古田先生が九州年号「(白雉)元壬子年」木簡であることを論文や書籍(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)で発表したとたんに、古代史学界でのこの木簡に対する取り扱いが〝冷淡〟になりました。すなわち、この木簡が九州年号や九州王朝の実在を直接的に示す同時代史料であるため、大和朝廷一元史観の学界はこの木簡の存在に触れることは〝やばい〟と判断したかのようでした。その結果、従来は「三壬子年」と紹介されていたのが、紹介しないか、紹介しても「壬子年」木簡という表記で紹介するようになり、「三」とも「元」とも触れない傾向が今も続いています。
この「元壬子年」木簡の発見は、「白雉」年号の本来型論争に決着をつけただけではなく、九州年号や九州王朝説についてもそれが真実であったことを白日の下に晒すこととなりました。もし、今回の「令和」改元ブームの中で、マスコミがこの「元壬子年」木簡の存在と意義を広く国民に知らせたなら、日本古代史はパラダイムシフトを起こすことでしょう。しかしながら、権威への忖度を旨とする現代日本のメディアにそれを期待することはできないでしょう。わたしたち古田学派は学問そのものが持つ〝真実を追究する力〟により、パラダイムシフトを起こさなければならないのです。そしてそれは可能です。あのベルリンの壁が壊れたように、人間が造った壁(歴史観)は人間によって変革することもできるのです。わたしはこのことを一瞬たりとも疑ったことはありません。


第1879話 2019/04/20

新元号「令和」に秘められた九州王朝の残影

 本日、「古田史学の会」関西例会が福島区民センターで開催されました。5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催します。6月16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です。会員の皆様のご出席をお願いします。当日は大阪文化財研究所長の南秀雄さんをお招きし、「日本列島における五〜七世紀の都市化」という演題で講演していただきます(諸団体共催、後記)。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「姫たちの古伝承」というテーマで講演されます。一般の方も参加できます(参加費無料)。
 今回の関西例会では、服部静尚さんが『続日本紀』に見える功田記事の分析について発表され、『大宝律令』や『養老律令』の編纂者への功田記事があるのに、「飛鳥浄御原律令」には功田記事がないことを示され、それは「飛鳥浄御原律令」が近畿天皇家による制定ではなかったからとされました。『続日本紀』の功田記事から九州王朝の存在を論じるという新たな研究として注目されます。このところ、服部さんは新発見続きで、絶好調です。『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 正木裕さんも、新元号「令和」の出典である『万葉集』「梅花の宴」の「序」に見える唐代の類書『翰苑(かんえん)』(著者:張楚金)に着目され、梅花宴に参加した太宰府や九州各地の役人たちは九州王朝のことを知っており、九州王朝の痕跡があることを指摘されました。新元号「令和」が九州王朝と関係していたとする正木さんのこの新説も画期的な発見です。『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①天武天皇と白鳳年号について(茨木市・満田正賢)
②地上絵の謎の直線(前回の訂正など)(京都府大山崎町・大原重雄)
③天上に浮かぶ舟(京都府大山崎町・大原重雄)
④飛ぶ鳥の「アスカ」は「安宿」(その三)-枕詞-(京都市・岡下英男)
⑤「其の人寿考」の一考察(姫路市・野田利郎)
⑥天平宝字元年の功田記事より(八尾市・服部静尚)
⑦「令和」の万葉歌と失われた倭国(九州王朝)(川西市・正木 裕)
⑧聖武天皇も知っていた失われた古代年号(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)売れ行き好調。
◆『失われた倭国年号-大和朝廷以前』増刷決定
◆新会員報告
◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会 (会場:I-siteなんば。共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、古田史学の会、他。参加費無料)
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
◆6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会(会場:I-siteなんば)
 総会終了後、希望者で懇親会開催(当日、会場で受け付け)。
◆「古田史学の会」関西例会の会場。5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催。
◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の発表者募集。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。
◆その他。

《各講演会・研究会のご案内》
◆4/26 18:45〜20:15 「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)。
 講師:細川隆雄さん(愛媛大学名誉教授)。演題:鯨から日本の古代を探る。
 5/24 18:45〜20:15 講師:高瀬裕太さん(大阪府立弥生文化博物館学芸員)。演題:鏡に施された銭文様。
◆4/24 13:00〜 「水曜研究会」(最終水曜日に開催。会場:豊中倶楽部自治会館)。連絡先:服部静尚さん。
◆5/08 10:00〜12:00 「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。会費500円)。
 講師:正木 裕さん。演題:倭国の半島進出 -倭の五王の正体(2)。
◆5/14 「和泉史談会」講演会。(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費300円)。
 講師:正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)。演題:失われた古代年号。
◆5/21 13:00〜 五代友厚展での講演(辰野ひらのギャラリー)
 ①講師:服部静尚さん。演題:「盗まれた天皇陵」。
 ②講師:正木 裕さん。演題:「薩摩と南の島々の古代史」。
◆5/21 18:45〜20:15 「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 講師:正木 裕さん。演題:徹底解説-邪馬「台」国九州説。


第1878話 2019/04/18

『失われた倭国年号』増刷決定

 山形出張を終え、東京での仕事もすみました。京都に帰る前に東京駅近くの丸善によりました。もちろん『倭国古伝』の売れ行きのチェックが目的です。丸善も八重洲ブックセンターと同様に書棚に「面置き」されており、良い取り扱いでした。
 京都に戻ると、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から吉報メールが届いていました。書店での在庫が無くなっていた『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店、2017年)の増刷が決まったとのこと。おりからの新元号「令和」ブームが出版社の決断を促したようです。「古田史学の会」でも販売協力したいと考えています。


第1877話 2019/04/17

米沢の古代史

 昨晩、山形新幹線で米沢市に到着しました。米沢は初めてでしたので、駅の観光案内所で観光マップをいただき、米沢で最も古い寺社はどこかとたずねたところ、上杉神社と白子(しろこ)神社とのことでした。スマホで調べてみると、白子神社の創建は和銅5年(712)、ご祭神は火産霊命と埴山姫命とありました。
 山形市まで北上すれば羽黒山修験道関連の伝承(「洛中洛外日記」266話「東北の九州年号」を参照)に九州年号「端政」(589〜593年)が見えるのですが、米沢市には九州年号は未発見です。本格的調査ではありませんから断定はできませんが、山形県地方への九州王朝の影響や九州年号の伝播は日本海側ルートだったのかもしれません。そのため、米沢市を経由せずに越後から日本海沿いに山形方面に伝わった可能性があるようです。
 ただ、米沢市内には前方後円墳が散見されますので、遅くとも古墳時代には前方後円墳を築造する勢力や文明が伝わっていたわけですから、この勢力と九州王朝との関係などがこれからの多元的米沢市(置賜地方)古代史研究の課題です。


第1876話 2019/04/16

『倭国古伝』のマーケットリサーチ

 今朝は東京に向かう新幹線車中で書いています。今年初めての東京・山形出張です。わたしが開発した、ナイロン繊維染色の新技術のプレゼンを各地で行います。
 専門的になりますが、この新技術はナイロンポリマーの非結晶領域内で色素と複数の金属をキレート(配位結合による金属錯体化)させるというもので、それにより世界最高水準の湿潤堅牢度(高性能液体洗剤で洗濯しても色落ちしない)が発現します。また、同時に複数の金属の配位結合比をコントロールすることにより、染色色相を赤味から緑味まで意図的に変化させたり、更には太陽光発熱機能を持たせたり、逆に太陽光中の近赤外線の反射率を高めることが容易にできるという優れものです。
 昨年から有名フィットネスインナーや女性用タイツに採用されていますが、おそらくこの新技術開発が、ケミストとしてのわたしの最後の仕事になると思います。もっと若ければ、この技術を応用して消臭・抗菌機能も発現させる技術を開発できたかもしれませんが、もう時間がありません。来年夏にはリタイアしますので、それからは古代史研究に専念できます。今から楽しみにしています。

 東京駅でのランチタイムを利用して、八重洲ブックセンターの古代史コーナーをのぞいてみました。もちろん、先月発行した『倭国古伝』(古田史学の会編・明石書店)の取り扱い状況のチェックが目的です。エスカレーターで4階の古代史コーナーに上がると、なんと平積み台の一番端(売れ筋の本が置かれる〝特等席〟です)に平積みにされていました。結構売れているようで三冊しか残っていませんでした。また、目に入りやすい高さである書棚の最上段には古田先生のコーナーがおかれ、そこにも『倭国古伝』が並んでいました。というわけで、八重洲ブックセンターの取り扱いはかなり良いものでした。
 「古田史学の会」発行の他の本を探すと、「邪馬台国」コーナーには『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)があり、これは狙い通りです。残念ながら「聖徳太子」コーナーには『盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店)は並んでいませんでした。また、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)は「古代九州」のコーナーに置かれており、「地方史」扱いでした。おかれてないよりはましですが、本のネーミングとしては〝失敗〟と言わざるを得ません。新元号「令和」ブームで「年号」コーナーが特設されているにもかかわらず九州年号関連の本は一冊も置かれていません。この点、対策が必要です。
 以上、八重洲ブックセンターでのマーケットリサーチでした。これから代理店との面談で、その後は米沢市に向かいます。


第1875話 2019/04/14

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)

 『法隆寺縁起』に記された献納品に付記された「丈六分」や「佛分」について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から貴重なご意見をいただきました。それは次のような内容でした。

① 「丈六分」とあるからには、高さが丈六の佛像と考えるべきで、釈迦三尊像では寸法があわない。丈六佛が当時は存在していたのではないか。
② 経典に釈迦のことを「佛」と記す例は多く、「佛分」とあるのが釈迦三尊像を指すのではないか。
③ 光明皇后による「二月廿二日」の施入の目的や法隆寺の性格は古賀説(多利思北孤鎮魂の寺)でよい。

 この加藤さんのご意見は有力で、わたしも同様の可能性について考えました。しかし『法隆寺縁起』の他、当時の史料から法隆寺に丈六佛があったとする痕跡が見つからないことと、伝染病(天然痘)の猛威という国家的災難に対して、「二月廿二日」に施入していることから、法興32年(622)「二月廿二日」に崩御した上宮法皇をモデルとした「等身佛(尺寸の王身)」との銘文を持つ釈迦三尊像こそ施入対象の冒頭に記された「丈六分」と解さざるを得ないと考えたからです。
 そこで問題となるのが、加藤さんも指摘されたように「丈六」という仏像の高さを示す表記をどのように考えるのかということでした。当初、わたしは「丈六」というのは釈迦の身長を意味し、「丈六」という言葉そのものに「釈迦像」という意味を有していたと考えました。ところが、正木さんから釈迦三尊像は「丈六佛」ではなく「等身佛」であるとのご指摘を受けて深く考え、改めて調査したところ、同釈迦像は「周半丈六佛」であることに気づきました。
 佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。
 以上のようにわたしは考えていますが、この場合、「周半丈六」という言葉や概念が7世紀前半頃に存在していたことを証明しなければなりませんが、今のところ史料根拠を発見できていません。ですから、このわたしの仮説は不安定なものです。先の加藤さんのご意見とどちらが良いのか、あるいはもっと優れた仮説があるのかを考えたいと思います。なお、同釈迦像を「周丈六像」とする見解を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のホームページ「sanmaoの暦歴徒然草」(2019.04.12)で詳しく発表しておられましたので、意を強くしました。(つづく)