第1839話 2019/02/17

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(補)

 「洛中洛外日記」で連載した表題のテーマについて、学術論文とするために加筆削除修正などを行い、『古田史学会報』に投稿しました。特に論証上必要な次の「注」を加えましたので、ご参考までに転載します。

【以下、転載】
③『難波宮址の研究 研究予察報告第四』掲載須恵器「35」と『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』掲載須恵器[7]が同じ土器であると判断したのは次の資料事実等による。
(a)それぞれの図版を比較すると、両土器のサイズや形態が近似している。
(b)『研究予察報告第四』には発掘調査地区名(出土地)を「第十二次北地区」としている。他方、『研究予察報告第五』では「第十四次東地区(第十二次北地区)」と併記されており、「第十二次北地区」と「第十四次東地区」が同じ場所であることを示している。
(c)『研究予察報告第四』には須恵器「35」以外に子持勾玉「37」が掲載されているが、その勾玉と同型同サイズで破損箇所も同じ子持勾玉「6」が『研究予察報告第五』に掲載解説されている。このことから、『研究予察報告第四』では解説無しで実測図に掲載された出土物が『研究予察報告第五』で再録解説されていることがわかる。同様の再録遺物はこの他にも見える。
 このように『研究予察報告第四』の実測図に解説無しで掲載された須恵器「35」などを、次号の『研究予察報告第五』で再録解説した事情について、両報告書の執筆者である中尾芳治氏に確認したいと考えている。


第1838話 2019/02/16

本日の二大テーマ「大化改新詔」と「磐井の乱」

 本日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催します。6月16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です。会員の皆様のご出席をお願いします。
 今回の関西例会では服部静尚さんと正木裕さんから古代史の重要テーマ「大化改新詔」と「磐井の乱」についての研究発表がなされました。いずれも九州王朝説や古田説に密接に関わるテーマで、論争や質疑が活発になされました。
 服部さんは、『日本書紀』孝徳紀に記された一連の「大化改新詔」について、『大宝律令』に基づく詔勅を孝徳期にずらしたものか、実際に孝徳期に出されたものかという古代史学界で永年にわたり論争が続いているテーマをとりあげられました。そして、各詔を個別に検証し、7世紀半ば(孝徳期)に出されたものとしても問題なく、逆に『大宝律令』の頃としなければならない例はないとされました。それに対して、西村秀己さんから、『日本書紀』では九州年号の「大化」が50年ずらして転用されており、その目的は「大化改新詔」を「大化」年号ごと移動させたとする立場から反論がなされました。この論争は関西例会では数年前から続けられているもので、まだまだ決着がつきそうにありません。引き続き、新たな視点からの検討や論争が必要と思われました。双方の主張に一理あり、わたし自身まだ判断できませんが、どちらかというと西村さんの意見に近いような気がします。
 正木さんからは、古田学派内でも諸説あるテーマ「磐井の乱」の実態について、史料に基づいた丁寧な検証が必要と訴えられ、その第一回目として『日本書紀』継体紀の検証結果を中間報告されました。旧古田説では「磐井の乱」ではなく「継体の反乱」とされましたが、その後、新古田説として「乱」そのものがなかったとされました。この問題について、一定の決着をつけようとする今回の正木さんの試みについて、これからの展開が楽しみです。
 正木さんによる事務局長報告では、毎週のように関西各地(大阪市・豊中市・和泉市・京都市)で開催される研究会・講演会の報告があり、関西で古田史学の影響力が着実に広まっていることが実感されました。各取り組みにおける会員の皆様の物心両面にわたるご協力に心から感謝いたします。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①「筑紫天皇家」という新しい概念について(茨木市・満田正賢)
②古代人の神へのアプローチの普遍性(京都府大山崎町・大原重雄)
③「肥後の翁」は誰か 住吉神社の神領についての補足(奈良市・原 幸子)
④大化改新・大化の詔 分析(八尾市・服部静尚)
⑤水曜研究会での論議紹介「大化改新」(八尾市・服部静尚)
⑥「帝王本紀」の理解(東大阪市・萩野秀公)
⑦「磐井の乱」とは何か(1)(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
◆新入会員、会費納入状況の報告。
◆『古代に真実を求めて』22集「倭国古伝」編集状況(服部静尚編集長)。
◆2/01 「続日本紀研究会」服部さん発表の報告。
◆2/03 新春古代史講演会(大阪府立ドーンセンター)の報告。
◆2/15 「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター)の報告。講師:正木裕さん。演題:三々九度の起源を求める三千年の旅。
◆2/19 「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。講師:服部静尚さん。演題:聖徳太子と四天王寺。毎月第三火曜日18:30〜20:00(会場:キャンパスプラザ京都)。
◆2/22 「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木裕さん主宰)。講師:正木裕さん。演題:羽衣伝承の真実。
◆3/05 「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館)。講師:正木裕さん。演題:よみがえる日本の神話と伝承。
◆3/11 「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター)
◆3/25 五代友厚展での講演案内(会場:辰野ひらのまちギャラリー)講師:服部静尚さん、正木裕さん。
◆4/19 『古代に真実を求めて』出版記念講演会。「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催(会場:奈良県立情報図書館)。講師:正木裕さん、服部静尚さん、古賀。
◆6/16 「古田史学の会」会員総会と懇親会(会場:I-siteなんば)。
◆「水曜研究会」の案内(最終水曜日に開催。会場:豊中倶楽部自治会館)連絡先:服部静尚さん。
◆「古田史学の会」関西例会の会場。3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催。
◆その他。


第1837話 2019/02/15

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(3)

『大宰府の研究』には優れた考古学論文がいくつも収録されていますが、太宰府以外に肥後の鞠智城に関する論文もあり、編集者の意図がうかがわれます。たとえば木村龍生さんの「鞠智城の築城とその背景」(367〜376頁)は、鞠智城が筑後・肥後・豊後などを結ぶ交通の要衝にあることや、鉄や米の生産地との関わりなどについて解説された好論です。その末尾には次のような一節があり、木村さんの問題意識が示されています。

 「なお、鞠智城と同じように、成立時期が文献に出てこない重要施設として大宰府がある。大宰府も政庁が成立する以前には古墳時代の集落が形成されていたものと考えられる。それがいつの段階かに、大宰府として成立していたということになる。大宰府についても、政庁が成立する以前は、既存施設の改修が行われ、何らかの拠点あるいは施設として使用されていたのではないかと、個人的には考えている。そういう点からして、鞠智城と大宰府はその成立過程が似ているように感じているし、成立後の変遷はお互い連動するように変遷していくという特徴がある[小田 二〇一二、西住・矢野・木村 二〇一二]。このような点から、鞠智城の研究は大宰府の研究と連動して行っていく必要がある。今後の大宰府の研究成果からも、鞠智城の新たな研究視点・検討課題も出てくるものと考えられる。」(376頁)

 この木村さんの「鞠智城と大宰府はその成立過程が似ているように感じているし、成立後の変遷はお互い連動するように変遷していくという特徴がある。このような点から、鞠智城の研究は大宰府の研究と連動して行っていく必要がある。」という指摘は貴重です。この視点こそ、九州王朝の都城「太宰府」とその防衛拠点「鞠智城」という九州王朝説による研究課題に他ならないからです。
 鞠智城造営年代については6世紀末〜7世紀初頭頃とする考察を「洛中洛外日記」の1206話「大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営」、1207話「鞠智城7世紀前半造営開始説の登場」、1272話「『季刊考古学』136号を読む」で発表していますので、ご照覧いただければ幸いです。
 なお、2016年5月にわたしが鞠智城を訪問したとき、同遺跡付属の温故創生館が休館日にもかかわらず、木村さんに鞠智城のご案内と出土物の解説をしていただきました。改めて感謝いたします。(つづく)


第1836話 2019/02/13

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(2)

太宰府に関する最先端研究の集大成『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)は九州王朝説・古田学派の研究者も謙虚に学ぶべき一冊です。一元史観の考古学者や研究者の言うことは信用できない、信用しなくてよいとして、頭から拒絶される方もおられるようですが、たとえ一元史観によっていたとしても歴史学における「先行研究」ですから、学ぶべき知見は少なくないとわたしは考えています。批判するのであれば、なおさらその対象論文を正確に読み取り検討する必要があります。
 わたしは遺跡や遺物を研究対象とされている考古学者からはこれまでも多くのことを教えられてきましたし、画期的な業績や研究も数多くありました。その優れた考古学的業績の一つが井上信正さん(太宰府市教育委員会)の太宰府条坊研究です。これまでも「洛中洛外日記」で何度も紹介してきたところです。
 『大宰府の研究』にも井上さんの論文「大宰府条坊論」(461〜481頁)が収録されており、わたしは真っ先に読みました。これまでの太宰府条坊研究史を紹介され、後半は自らが発見された90m四方の太宰府条坊が政庁や観世音寺に先行して造営され、その時期は藤原京条坊と同時期の7世紀末頃とする説を解説された論文です。その多くは既に発表された井上論文により知っていた内容でしたが、従来の自説を更に一歩進められた注目すべき予察が「(3)当初の条坊区画、範囲、そして変遷に関する予察」と論文末尾の「註」に記されていました。それは政庁Ⅰ期時代の初期条坊の範囲とその中央宮殿の位置に関する次のような記述です。

 「四条路と二十二条路は、水城の東西各門を通る官道との接続が想定される政庁Ⅱ期当初からの重要道である。この間は政庁Ⅱ期当初から条坊範囲と認識されていたことは間違いない。ここには十八区画(坪)あるが、これを坊と同様、二区画(坪)をもって一条とみると、範囲は九条となる。これも宮都と同じ条数となる。」(478頁)

 「註(28) 条坊の東西軸の設計について考察する中で、官道が接続する南北十八坪(九条)の規格と政庁・広場・朱雀門の配置関係に注目し、Ⅰ期条坊を利用したが故の特徴がⅡ期整備に表出していると考えるものである。これに右郭四坊路ラインをⅠ期の条坊の南北基準線とする想定〔井上二〇〇九a〕を加味すると、Ⅰ期条坊は通古賀地区を中心とした九条九坊(十八坪×十八坪)だった可能性もでてくるが、後考を待ちたい。」(480頁)

 太宰府条坊図がないと文章だけではわかりにくいのですが、ここでの井上さんの予察は次のようなものです。

①水城の東西の門に繋がる官道の位置などから、太宰府条坊創建当時(政庁Ⅰ期と同時期)の条坊の範囲は、現在の条坊都市よりも狭く、九条九坊の範囲であった(二区画を一条、一坊とする)。
②この「九条九坊」の条坊数は「宮都(平安京など)」と同様である。
③当初(Ⅰ期)の条坊都市の南北中心線は扇神社がある通古賀地区の現右郭4坊路となる。

 井上さんは以前の論文でも政庁Ⅰ期当初の条坊の中心を通古賀の扇神社付近とされ、その根拠として扇神社付近からは7世紀の土器が出土し、その真南線上に基肄城山頂があることから、それをランドマークとして、条坊の南北中心軸が設定されたのではないかと推察されていました。
 この井上さんの「註」で示された予察こそ、7世紀前半頃に多利思北孤が造営した九州王朝の都「倭京」としての太宰府条坊都市の本来の規模と様式(条坊都市の中央に宮殿が位置する「周礼型」)ではないでしょうか。そして、7世紀後半頃(670年頃)に政庁Ⅱ期の宮殿と朱雀大路(Ⅱ期)を増設し、北闕型(条坊都市の北側に宮殿を置く)の都市にしたものと思われます。このように、井上さんの研究や仮説は九州王朝研究にとって、多利思北孤や筑紫君薩野馬の都「倭京」を復元研究するうえでも重要なものなのです。この井上論文は『大宰府の研究』の中でも出色の研究ではないでしょうか。(つづく)


第1835話 2019/02/10

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(1)

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りした『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)は太宰府に関する最先端研究の集大成ともいうべきもので、古田学派の研究者にとっても学ぶべき知見が多数紹介されています。今後、太宰府研究に当たっては先行説を知る上でも必読の一冊です。同書は歴史学や考古学の専門書ですから、読む機会のない方も少なくないと思われますので、「洛中洛外日記」で重要な点や興味深いテーマに絞って、九州王朝説の視点から紹介することにします。
 とは言っても、全43論文700頁以上の大作ですから、わたしも精査や理解に時間がかかりますので、どのようなペースでいつまで続けられるかわかりません。途中で挫折するかもしれませんが、読者の皆さんには気長にお付き合いしていただければ幸いです。(つづく)


第1834話 2019/02/09

『古田史学会報』150号のご案内

 『古田史学会報』150号が発行されました。冒頭の服部論稿を筆頭に谷本稿など注目すべき仮説が掲載されています。

 服部さんは、太宰府条坊都市の規模が平城京などの律令官僚九千人以上とその家族が居住できる首都レベルであることを明らかにされ、太宰府が首都であった証拠とされました。この論理性は骨太でシンプルであり強固なものです。管見では古田学派による太宰府都城研究において五指に入る優れた論稿と思います。

 谷本さんの論稿は、『後漢書』に見える「倭国之極南界也」の古田説に対する疑義を提起されたもので、これからの論議が期待されます。わたしは「『論語』二倍年暦説の史料根拠」と「〈年頭のご挨拶に代えて〉二〇一九年の読書」の二編を発表しました。後者は古田先生の学問の方法にもかかわるソクラテス・プラトンの学問についての考察です。これもご批判をいただければ幸いです。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』150号の内容
○太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する 八尾市 服部静尚
○『後漢書』「倭国之極南界也」の再検討 神戸市 谷本 茂
○『論語』二倍年暦説の史料根拠 京都市 古賀達也
○新・万葉の覚醒(Ⅱ)
-万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」- 川西市 正木 裕
○稲荷山鉄剣象嵌の金純度-蛍光X線分析で二成分発見- 東村山市 肥沼孝治
○〈年頭のご挨拶に代えて〉二〇一九年の読書 古田史学の会・代表 古賀達也
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1833話 2019/02/03

「実証主義」から「論理実証主義」へ(2)

 今朝は大阪へ向かう京阪特急の車内で書いています。本日、大阪市のドーンセンターで開催する「古田史学の会」新春古代史講演会の講師、山田春廣さんを宿泊ホテルまでお迎えに行きます。山田さんは昨日のうちに千葉県鴨川市から来阪されています。『日本書紀』景行紀の謎の記事「東山道十五国都督」について解明された山田さんの新説を講演していただくことになっており、わたしも楽しみにしています。

 今回、「洛中洛外日記」で新たに取り上げようとしている、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉や思想の由来についてですが、20世紀前半にヨーロッパ(ウィーン学団など)で行われた哲学における「実証主義」批判と「実証主義」の対案として出された「論理実証主義」の影響を村岡先生は受けられたのではないかと、わたしは推察しています。というのも、村岡先生は早稲田大学で波多野精一教授の下で西洋哲学を専攻されており、当時のヨーロッパでのこうした哲学論争のことをご存じなかったとは考えられないからです。
 ウィキペディアなどによると、19世紀フランスの思想家オーギュスト・コントが提唱したとされる「実証主義」に対して、その限界が問題視された1920年頃から新たに「論理実証主義」(論理経験主義)が「ウィーン学団」と称される研究者たちから論議・提案されてきました。瞬く間に「論理実証主義」は西洋の哲学界や科学界に広まりました。その最中に村岡先生は欧州遊学されているのです。村岡典嗣著「日本學者としての故チャンブレン教授」(昭和10年。『続日本思想史学』〔昭和14年、1939年〕所収)によれば、次のようにスイス・ジュネーブでのチャンブレン教授との出会いが記されており、村岡先生がヨーロッパを訪問されていたことがわかります。

 「二月十五日、瑞西のジュネエヴで、八十五歳の高齢で永眠したチャンブレン教授については、我國でも十七日の諸新聞に訃が報ぜられて、すでに紙上に、ゆかりある追悼者によっての傳記、閲歴の紹介などを見た。吾人も亦、一九二三年の五月、獨逸遊學中伊太利に旅した途次ジュネエヴを訪うた時、恰かも教授の住まへるレエマン湖畔のホテル・リッチモンドに宿り合せ、二十一日の午後、日本風にいはば三階の、第三十六號の教授の居室を訪ねて、面談する幸ひを得た些かの機縁を有する。」(『続日本思想史学』357頁、岩波書店)

 この翌年の大正13年(1924)には、村岡先生は広島高等師範から東北帝国大学(法文学部教授、日本思想史科を開設)に移られるのですが、この「獨逸遊學」中に「論理実証主義」に触れられたのではないでしょうか。むしろ、ヨーロッパを席巻し始めた新たな思想潮流を学ぶために「獨逸遊學」されたのではないかとさえ思われるのです。そして、この「論理実証主義」との出会いが刺激となって、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という言葉が生まれたのではないかと、わたしは推定しています。(つづく)

《ウィキペディアでの解説(抜粋)》
○「実証主義」(じっしょうしゅぎ、英: positivism、仏: positivisme、独: Positivismus)は、狭い意味では実証主義を初めて標榜したコント自身の哲学を指し、広い意味では、経験的事実に基づいて理論や仮説、命題を検証し、超越的なものの存在を否定しようとする立場である。

○「論理実証主義」(ろんりじっしょうしゅぎ、英: Logical positivism)とは、20世紀前半の哲学史の中で、特に科学哲学、言語哲学において重要な役割を果たした思想ないし運動。論理経験主義(英: Logical Empiricism)、科学経験主義とも言う。
 1920年代後半のウィーンでエルンスト・マッハの経験主義哲学の薫陶を受けたモーリッツ・シュリックを中心に結成したウィーン学団が提唱した。経験論の手法を現代に適合させ、形而上学を否定し、諸科学の統一を目的に、オットー・ノイラート、ルドルフ・カルナップなどのメンバーで活動したウィーンを中心とした運動である。その特徴は、哲学を数学、論理学を基礎とした確固たる方法論を基盤に実験や言語分析に科学的な厳正さを求める点にあり、その後の認識論及び科学論に重大な影響を与えた。


第1832話 2019/02/01

「実証主義」から「論理実証主義」へ(1)

 先月、多元的古代研究会の安藤哲朗会長と電話でお話しする機会がありました。年始のご挨拶を兼ねて、多くの意見交換を行うことができました。その中で〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡典嗣先生の言葉も話題となりました。安藤さんのお話によれば、〝このような言葉は古田先生の著書にも書かれておらず、古田先生から聞いたというのは古賀の嘘だ〟と信じておられる方がいるとのこと。このような虚偽情報を真に受けている方が未だにおられることに驚きました。と同時に、わたしの説明(反論)が不十分だったことを反省しました。
 今から三十数年前に古田先生の門を叩いて以来、わたしはこの〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉を古田先生から何度もお聞きしましたし、古くからの古田ファンや支持者(不二井伸平さん、西村秀己さん他)も聞いておられますから、まさか〝古賀の嘘〟と言われるとは夢にも思いませんでした。また、この言葉は古田先生の著作にも記されており、〝古田先生の著作に書かれていない〟と言われる方は、古田先生の著作を全て読んでおられないようです。多元的古代研究会の機関紙『多元』142号(2017年11月)の一面に掲載された拙稿「論証は学問の命(古田武彦)」でも次の古田先生の著書にこの言葉が記されていることを紹介しています。

○「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」1982年(昭和57年)、東北大学文学部『文芸研究』100〜101号所収。
 同論文はこの翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録。
【以下、当該部分を引用】わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。(村岡典嗣)』と。
○『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)巻末の「日本の生きた歴史(十八)」2013年。
【以下、当該部分を引用】わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。「実証より論証の方が重要です。」と。

 このように、先生は著作中でも30年の永きにわたり、この言葉を綴っておられるのです。古くからの古田先生の支持者や近年の「日本の生きた歴史」の読者であればこの事実を知らないはずはありません。
 しかし、今回「洛中洛外日記」で新たに取り上げたいのは、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉や思想の由来についてです。安藤さんとの会話の中で、「この言葉の意味について関西ではどのような検討や論議が行われているのか知りたい」とのご要望をいただき、わたしは「今年になって面白い問題に気づきましたので、もう少し勉強してからご説明することにします」と返答しました。その面白い問題とは20世紀前半にヨーロッパ(ウィーン学団など)で行われた「実証主義」批判と「実証主義」の対案として出された「論理実証主義」の研究経緯についてでした。(つづく)


第1831話 2019/02/01

1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。1月はインフルエンザに感染し、会社を一週間も休んでしまいましたが、症状が軽かったおかげで難波宮出土須恵器の調査やカール・ポパーの反証主義について勉強することができました。しかもそれぞれのテーマで研究成果を得ることができました。
 たとえば、前期難波宮天武朝造営説の根拠とされてきた「前期」難波宮整地層出土とされた須恵器坏Bが実は「後期」難波宮整地層出土であったことが判明し、前期難波宮天武朝造営説が発掘報告書の誤読による誤論であったことを突き止めることができました。
 また、反証主義が発表されたヨーロッパの論理哲学の歴史的経緯(19世紀後半〜20世紀前半)を少しだけ勉強したのですが、ちょうどそのころヨーロッパに行かれた村岡典嗣先生が当時の論理哲学の趨勢(ウィーン学団の論争)に触れられたことが、「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉に繋がった可能性に気づくことができました。このテーマは未発表ですので、これからもっと勉強してから紹介したいと考えています。

 「洛中洛外日記【号外】」配信を希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《1月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2019/01/04 新年のご挨拶と熊本地震のお見舞い
2019/01/16 『九州倭国通信』No.193のご紹介
2019/01/28 正木事務局長との新春京都懇談
2019/01/31 『東京古田会ニュース』184号のご紹介


第1830話 2019/01/26

難波から出土した「筑紫」の土器(2)

 大阪府歴史博物館の寺井誠さんの論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)によれば、福岡市早良平野から糸島東部にかけて多く見られる「平行文当て具痕」のある須恵器が難波から出土していることが確認され、七世紀前半頃に筑紫と難波との交流があったことの痕跡とされました。紹介された須恵器はいずれも破片であり、その数もそれほど多くはありませんでした。ところが、後期難波宮の瓦堆積層出土坏Bが報告されていた『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。

 「5.その生産地について
 これまで、難波宮下層遺跡出土の土器について、若干その編年的位相について述べたが、ここでは須恵器の生産地について述べてみたい。いうまでもなく、難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。ただ、(B)の杯身中に際立った特徴をもつ一群があり、それらは他のものと生産地を異にすると考えられる。それは、158〜163で、たちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものである。これらは、個体数こそ少ないが稀有な例ではない。さらにそのうち、162・163は色調が灰白色を呈し、胎土も非常によく似ている。その色調・胎土の特徴は、(B)の坏蓋や、SK9343出土土器中の65・67にもみられ、特異な一群を形成している。
 杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(186頁)※(B):黒灰色粘質土層

 このように慎重な筆致ですが、難波宮下層遺跡から出土した九州地方の須恵器と類似する特徴的な須恵器の一群の存在を指摘され、「その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。」とされ、「難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」と締めくくられています。ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。

○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』1977年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』1979年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』1972年

 このように九州王朝の中枢領域の須恵器と類似していることは、先の寺井さんが報告した「平行文当て具痕」のある須恵器と同様です。難波宮下層遺跡からの出土ですから、7世紀前半頃には難波と筑紫とは交流があったことを疑えません。
 文献史学の研究によれば、『二中歴』に記された「難波天王寺」建立記事の他に、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)が「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』、『古代に真実を求めて』18集)で、九州王朝が河内の支配者(捕鳥部萬・ととりべのよろず)を滅ぼしたとする仮説を発表されています。これらによれば、九州王朝の天子・多利思北孤の時代に九州王朝は河内や難波を自らの支配領域とし、倭京二年(619)に「難波天王寺」を建立、白雉元年(652)には前期難波宮を造営したことになります。このように文献史学と考古学の成果が共に前期難波宮九州王朝副都説を支持する方向に向かっています。引き続き考古学の面からの調査研究を続け、古田先生からの宿題に答えていきたいと考えています。


第1829話 2019/01/25

難波から出土した「筑紫」の土器(1)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって超えなければならない〝壁〟があります。この仮説を古田先生に最初に報告したとき、九州王朝の副都であれば神籠石山城など九州王朝との関係を裏付ける考古学的証拠が必要とのご指摘をいただきました。それ以来、古田先生の指摘はわたしにとっての宿題となり、今日まで続いています。更に、難波に九州王朝が副都を置くと言うことは、その地が九州王朝にとっての安定した支配領域であることが必要ですが、そのことについては文献史学の研究により既にいくつかの根拠が見つかっています。
 一例をあげれば、『二中歴』年代歴に見える九州年号「倭京」の細注の「倭京二年、難波天王寺を聖徳が建てる」という記事があります。九州王朝が倭京二年(619)に聖徳(利歌彌多弗利か)という人物が難波に天王寺を建立したという記事ですが、大阪歴博の調査により創建四天王寺の造営年が出土瓦の編年により『日本書紀』の記述とは異なり、620〜630年頃と編年されており、これが『二中歴』の細注記事と対応しています。このことから七世紀前半の難波は九州王朝が天王寺を建立できるほどの深い繫がりがあることを示しています。
 他方、考古学的痕跡として難波から「筑紫の須恵器」が出土していることが大阪歴博の寺井誠さんにより報告されています。そのことを下記の「洛中洛外日記」で紹介しました。抜粋して転載します。(つづく)

第224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
(前略)
 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。
 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないでしょうか。」と好意的に記されていました。(後略)

第243話 2010/02/06
前期難波宮と番匠の初め
(前略)
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。(後略)


第1828話 2019/01/23

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(5)

 前期難波宮天武朝造営説を提唱された小森俊寬さんが著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、「難波宮址整地層出土の土器」(91頁)として掲示された須恵器坏B「35」が、その出典調査により後期難波宮整地層出土であったことを明らかにしてきました。それ以外にも「51」「52」という坏Bも掲載されており、今回はその出典調査を行いました。
 その須恵器坏B「51」「52」は『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)で報告されていました。出土地は「MP-1区」と命名された「森ノ宮ランプ」の場所です。「難波宮跡」として報告された層位から出土しており、「Fig.44 難波宮整地層内出土須恵器」(94頁)にその断面図が「51」「52」として掲載されています。いずれも底部に高台を持ち、坏Bで間違いありません。この「51」「52」の出土地や出土状況について、次のように説明されています。

 「今回報告する調査地区は、難波宮跡の中枢部を断続的に横断しており、その内容は多岐にわたるので、瓦塼類の出土地点建物との関係については表4に示した。瓦塼類の総量はコンテナバットに約100箱で、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・熨斗瓦・面戸瓦・塼がある。軒丸瓦は9型式47点のうち新型式が1、軒平瓦は10型式45点のうち新型式が2ある。
 内裏地域の瓦塼類の出土は瓦堆積や掘立柱抜き取り穴など後期難波宮の遺構に伴っている。MP-1区出土の瓦類は、掘立柱建物SB10021の柱抜取り穴とその直上層の瓦包含層からその大半が出土しており、それらは建物SB10021に葺かれた屋瓦と考えることができる。」(81頁)

 「51・52はこれらの蓋に伴う高台をもつ坏で、51は75次調査南トレンチ3区の瓦堆積出土、52は75次調査中央トレンチ11区難波宮整地層上堆積層出土である。」(93頁)

 このように坏Bの「51」「52」が出土した遺構と当該層位は、瓦がコンテナバットに約100箱も出土した瓦葺きの後期難波宮の「堆積層」であることが示されています。「52」に至っては「難波宮整地層上堆積層出土」と整地層の上の堆積層からの出土と説明されています。小森さんはこれらの説明を全て見落とし、両坏Bを前期難波宮整地層からの出土と誤解され、前期難波宮天武朝造営説を唱えられていたのです。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対する批判の根拠として小森さんの天武朝造営説が利用されてきたのですが、この小森説が出土事実に対する誤解の産物(誤論)であったことがわかり、あの長期にわたったわたしへの批判や論争は何だったんだろうと残念な気持ちです。しかし、この経験により〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が正しかったことを改めて確信することができました。この批判のおかげで、わたしは七世紀の須恵器編年を本格的に勉強することができ、考古学に関する知見を深めることができました。批判していただいた方々に感謝したいと思います。
 最後に、小森さんの誤解を誘発した『難波宮址の研究 第七』での「難波宮整地層出土」という表記ですが、このことについて、大阪歴博学芸員の松尾信裕さんにその事情をお聞きすることができました。およそ、次のような理由により「前期難波宮整地層」や「後期難波宮整地層」ではなく「難波宮整地層」という表記を採用されたことがわかりました。

①整地層からは様々な時代の土器が出土するために、整地層造営時の編年が出土土器からは困難なケースが多い。
②難波宮整地層の上には前期難波宮と後期難波宮が造営されており、その遺構や遺物が重層的に出土する。そのため、前・後どちらの造営時か不明な場合は、「難波宮整地層」という表現に留めるのが学問的に正確である。
③その「整地層」出土遺物の編年は個別の出土状況や共伴遺物から前期難波宮時代のものか後期難波宮時代のものかを判断しなければならない。
④今回の坏Bの出土状況や層位については、報告書に後期難波宮時代の「瓦堆積層」からのものとわかるように明確に記している。

 以上のように、考古学的に正確な表記を採用されていることがわかりました。こうした学問的に厳密な配慮により報告書が書かれているにもかかわらず、小森さんは考古学者としての当然の学問的配慮を理解されないまま、天武朝造営説を提起されたと言わざるを得ません。
 付言しますと、難波宮整地層上に「焼土」などが堆積していた場合は、それを『日本書紀』朱鳥元年(686)に見える前期難波宮火災の痕跡と見なすことができ、その「焼土」の下の整地層は686年以前に存在した前期難波宮整地層と判断できます。しかしながら、その整地層内からは様々な時代の土器が出土しますから、その土器を根拠に整地層造営年代の特定は困難です。
 結果として前期難波宮造営年代の最大の根拠となったのは、井戸がなかった前期難波宮の水利施設が宮殿近くの谷から出土し、その水利施設造営時期の層位から大量に出土した須恵器坏Hと坏Gが根拠となって、前期難波宮造営を七世紀中頃と編年することができました。更に、その水利施設から出土した桶の木枠の年輪年代測定が634年であることや前期難波宮のゴミ捨て場の谷から出土した「戊申年(648年)」木簡、前期難波宮北側の柵跡から出土した木柱の年輪セルロース酸素同位体年代測定による最外層年輪の年代(七世紀前半)などが土器編年とのクロスチェックとなり、ほとんどの考古学者の支持を得て、前期難波宮孝徳期造営説が通説となったことは、これまでも説明してきた通りです。(つづく)