第1610話 2018/02/21

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(3)

 福岡市比恵遺跡群から出土したすずりの編年が新聞記事によれぱ3世紀後半とされ、「邪馬台国の時代」と紹介し、それを「古墳時代」としています。従来は「邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)」は弥生時代とされてきたにもかかわらず、今回の記事では「古墳時代」とされたのですが、そこには性格が異なる二つの学問上の重要な問題があります。そのことについて説明します。
 まず一つ目は、「邪馬台国」畿内説成立のために古墳の編年を変更するという問題です。『三国志』倭人伝によれば、倭国の女王、卑弥呼は3世紀前半に没しているようですから、3世紀後半であれば卑弥呼の次代の壹与が女王に共立された時期に相当します。もちろん従来の古代史学では両者とも弥生時代と認識されてきました。他方、畿内には弥生時代の倭国を代表するような王者にふさわしい墳丘墓がありませんでした。学界の多数説となっている「邪馬台国」畿内説論者にとって、この考古学的事実が自説に「不都合な真実」だったことは容易に想像できます。そこで彼らが目を付けたのが、初期の前方後円墳である箸墓古墳です。その編年を従来説の4世紀前半から3世紀前半〜中頃とすることで、箸墓古墳を卑弥呼あるいは壹与(台与)の墓と見なしました。
 そもそも「邪馬台国」畿内説というものは、日本列島の代表王朝(権力者)は弥生時代の昔から大和の天皇家であるというイデオロギー(戦後型皇国史観)を論証抜きで「是」と定め、それに合うように倭人伝の原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、南→東、壹与→台与、など)を行ったり、考古学的事実を恣意的に解釈するという、学問的には禁じ手の乱発で「成立」した学説です。このことは拙論「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房に収録。初出「洛中洛外日記」737〜744話)で詳述していますので、是非ご覧ください。
 こうして「古墳時代」の代表的初期前方後円墳の一つである箸墓古墳を「邪馬台国」の卑弥呼か壹与の墓と見なしたいがため、その時代を「古墳時代」としなければならなくなったのです。そして、各新聞社はそうした古代史学界・考古学界の「空気」を「忖度」して、3世紀後半と編年されたすずりの時代を「古墳時代」「邪馬台国の時代」とする、実に奇妙な新聞記事の出現となったのです。(つづく)


第1609話 2018/02/20

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(2)

 犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきた朝日新聞(2月17日)には、「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しですずり出土が報じられていました。読者の興味をひくための見出しと思われますが、それであれば本文中に何を書いたのかの解説があってしかるべきです。ところが、古代の博多にあった奴国が文字を使用していたと述べるにとどまる中途半端な記事となっています。
 朝日新聞社と言えば古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(初期三部作)を発刊し、日本古代史学界や古代史ファンに激震を走らせた会社です。その新聞記事の内容がこのレベルでは、朝日新聞も「地に落ちた」と言わざるを得ず、とても残念です。
 『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)でも紹介しましたように、古代日本列島において筑前中域(糸島博多湾岸)は、文字文化の先進地域です。『三国志』「魏志倭人伝」には次のように倭国の文字文化をうかがわせる記述が見えます。

「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」

 このように倭国やその中心国の邪馬壹国では「文書」による外交や政治を行っていると明確に記されているのです。福岡市の文化欄担当記者であれば、この程度の知識は持っていてほしいと思うのですが、無理な期待でしょうか。
 更に同記事では出土した福岡市を「奴国」としていますが、もしそうであれば「奴国」よりも上位で大国でもある邪馬壹国の地はどこだとするのでしょうか。この「奴国」とされた糸島博多湾岸よりも大量のすずりが出土した弥生時代や古墳時代の遺跡は他にあるのでしょうか。たとえば「邪馬台国」畿内説によれば奈良県の弥生時代の遺跡からもっと多くのすずりが出土し、文字文化の痕跡を示していなければなりませんが、同地の弥生遺跡からすずりの出土はありません。
 「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しで読者の興味を引くのであれば、こうした「答え」も記事に盛り込み、読者の知識の幅やレベルを高めることができます。そうした真の教養に裏打ちされた記事こそ、「クオリティーペーパー」と呼ばれるに相応しいものと思います。なお、公平を期すために言えば、このニュースを掲載した他の新聞も、その内容は朝日新聞と五十歩百歩です。(つづく)


第1608話 2018/02/19

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(1)

 今朝は仕事で岐阜に向かっています。好天に恵まれ、JRの車窓から金華山城(岐阜城)が美しく映えています。

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 肥後から「兄弟」年号史料を発見された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、福岡市博多区の比恵遺跡群で「邪馬台国」時代のすずりが出土していたことを報じる地元紙(西日本新聞、朝日新聞。2月17日)の切り抜きがメールにて送られて来ました。
 報道によると、この遺跡は3世紀後半と編年されており、「古墳時代」のすずりとしては初めての出土とのこと。記事では「邪馬台国」時代のすずりなどと紹介されていますが、その「3世紀後半」を「古墳時代」と記されています。もともと「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は弥生時代とされてきたのですが、近年の傾向として「古墳時代」と表記される例が見られるようになりました。新聞社もその学界の状況(空気)を「忖度」したものと思われます。この点、後述します。
 弥生時代のすずりは既に糸島市や筑前町など4遺跡から出土しており、この糸島博多湾岸が弥生時代の倭国の中心領域であり、女王俾弥呼(ひみか。『三国志』帝紀には「俾弥呼」。倭人伝には「卑弥呼」と表記)が統治した邪馬壹国の所在地であったことは古田武彦先生が指摘されてきた通りです。その地からすずりが出土したのですから、文字文化の先進地域であった直接証拠と言えます。この一点から見ても、「邪馬台国」論争は学問的には決着しています。このことをわたしは『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)で次のように指摘しました。当該部分を引用します。(つづく)

 文字文化が発展した「女王国」の中心部

 『魏志倭人伝』には、女王国の場所がある程度推定できる記述がいくつもあります。(中略)
 また『魏志倭人伝』には、朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸を経由して「邪馬壹国(女王国)」に至ったことが記されていますが、その最後に「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記述があります。しかし、畿内説を唱える人たちは、「ここで出てくる『南』は誤りで、本当は東だった」と『倭人伝』の記述に誤りがあったと主張しています。南だと都合が悪いから東に変えたわけですが、これも元々のデータを改ざんしたルール違反「研究不正」です。(中略)
 他にも、古田氏は北部九州で痕跡が見られる倭国の「文字文化」にも注目していました。『魏志倭人伝』には、「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」など、「女王国」が文字を使って外交や政治を展開したことをうかがわせる記述があります。そのため、弥生時代の遺跡や遺物からもっとも「文字」の痕跡が出土する地域が、「女王国(邪馬壹国)」の候補地だったと考えるのが妥当であると、古田氏は主張しました。
 そうした文字文化が出現する地域がどこかというと、北部九州や糸島博多湾岸(筑前中域)です。この地域からは志賀島の金印や室見川の銘板、最近では弥生時代の硯なども出土しており、『魏志倭人伝』の記述の裏付けにもなっています。(以下、略)


第1607話 2018/02/18

九州年号「兄弟」2例めを発見

 九州年号「兄弟」(558年)は、一年しか続いていないことや、「兄弟」という言葉が年号と認識されず、書写の際に消される可能性もあり、その実用例はわたしが発見した熊本市の健軍神社の創建史料などに見えるくらいでした(「洛中洛外日記」979話「健軍神社『兄弟元年創建』史料」1215話「健軍神社縁起の九州年号『兄弟』」)。ところが、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、健軍神社とは別の新たな「兄弟」年号発見のメールが届きました。
 「熊本市史関係資料集第4集肥後古記集覧」に山鹿郡西牧村(現山鹿市西牧)の妙寛寺の釈迦堂草創を「三十代欽明天皇の御宇兄弟元戊寅年」とするものです。熊本市最古の健軍神社創建と共に、肥後(山鹿)に「兄弟」年号が残っていたことは示唆的です。九州王朝の「兄弟統治」に由来すると思われる「兄弟」年号は、筑前・筑後にいた倭王(兄・筑紫の翁)と肥後にいた弟(肥後の翁)の痕跡として、肥後地方に残っていたのではないでしょうか。
 肥後地方は古代から製鉄や馬の飼育が盛んであったことを示す考古学的遺物も数多く出土しています。その鉄と馬による軍事力・生産力を背景として、九州王朝(倭国)では倭王の弟を肥後の「国主」として配置していたのではないかと、わたしは推測しています。
 新たな「兄弟」年号を発見報告していただいた犬塚さんに感謝いたします。

【以下、犬塚さんからのメールを転載】
古賀様
 以前洛中洛外日記で熊本市の健軍神社の縁起に見える九州年号「兄弟」について紹介がありましたが、これとは別の史料に九州年号「兄弟」の記録がありましたのでお知らせします。
 「熊本市史関係資料集第4集肥後古記集覧」という史料集があります。これは熊本藩士であった大石真麿が文政四〜五年(1821-2)に、肥後に関する軍記・系図・地誌等55種を書写編集したものですが、この中に収録されている山鹿郡西牧村(現山鹿市西牧)の妙寛寺という寺院に関する記録のなかに「兄弟」年号が見られます。

 巻二十 中原雑記 山鹿郡西牧村
一、遠き事ハ委しらず近くして能知たる事計を少つゝ書記ス、西牧村小屋敷妙寛寺の釈迦堂は聞伝三十代欽明天皇の御宇兄弟元戊寅年の草創と云伝、末の世にて七十一代後三条院延久三辛亥ノ暦御再興、此時春日の作とやらん本尊釈迦像を立給ふと也(後略)
 寛文十三年癸丑年六月六日 中原氏記之

 この史料集にもう一つ、妙寛寺に関する同内容の記録が収録されています。

 巻十六 昔噺聞書
一、山鹿郡西牧村ノ妙寛寺ノ釈迦堂ハ釈迦堂は三十代欽明帝元年戊寅ノ御草創、七十一代後三条院延久三辛亥年御再興、此時春日ノ作本尊釈迦像ヲ立給ヘリ(後略)

 巻二十中原雑記と巻十六昔噺聞書の関係は不明ですが、ほぼ同内容の記録であることから共通の原史料から書写されたことが考えられます。
 同内容であるとすれば、巻十六昔噺聞書の「欽明帝元年」の干支は庚辰であって戊寅ではないことから、おそらく、この記録の書写の段階で原史料にあったと思われる「兄弟」だけが意味不明として削除され、干支がそのまま残されたのではないでしょうか。
 さらに「肥後国誌」には、西牧村の項で中原雑記を引用した形で紹介されています。しかし中原雑記を引用ているにもかかわらず、昔噺聞書と同様に九州年号「兄弟」を削除した形での表記となっています。

 妙寛寺跡 同書(中原雑記のこと)云山鹿郡西牧村字小屋敷ニ妙寛寺ト云ル寺アリ人皇卅代 欽明天皇元年戊寅ノ御草創(後略)

 これも「兄弟」がなければ干支は戊寅になりません。こちらも単純な削除のようです。
 ところで中原雑記によれば、その後妙寛寺は戦国時代庇護者であった隈部氏が没落したことから廃寺となったとされていますが、その廃寺跡はどうなったのでしょうか。山鹿市史別巻によれば、

 肥後国山鹿郡西牧村
 古迹 妙勧寺迹 本村の東字屋敷ニアリ欽明天皇戊寅年草創ト云フ 延久三年辛亥再興春日作ノ釈迦木像ヲ安ス(中略)今畑ト成リ石祠ニ釈迦ノ石造ヲ安ス
(山鹿郡誌抄)

 西牧釈迦如来坐像 浮彫。上津留の共同墓地の一画、石祠内に祀る。台石正面に「明寛寺」と横堀する。国郡一統志の「西牧妙寛寺釈迦」と符合するものがある。凝灰岩製、全高九〇。
 (山鹿市の石造物)

と、廃寺跡には共同墓地と釈迦如来坐像を収めた石祠あるということですから場所の特定は可能かと思われます。
 最後に、「国郡一統志」を確認したところ、「国郡寺社総録名蹟附 山鹿郡」の西牧の項に次のような記事がありました。

 西牧 天子森 妙観寺釈迦 阿弥陀 蓮照寺真宗

 天子森(又は天子)は山鹿郡の項に計6カ所出てきますが、森が杜であるとすればこれは天子宮のことなのでしょうか。天子宮が同じ地域にあるというのは実に興味深いところです。
 以上、山鹿市の九州年号「兄弟」に関するとりあえずの報告です。なお、肥後古記集覧と国郡一統志の該当部分を添付ファイルとしてお送りします。
   久留米市 犬塚幹夫


第1606話 2018/02/17

縄文土器の「イザナギ・イザナミ」神話

 本日、「古田史学の会」関西例会が大阪市福島区民センターで開催されました。関西例会としては初めて使用した会場です。今回は10名の発表があるため、冒頭に司会の西村秀己さんから「発表は質疑応答を含めて30分で行うこと。質問も長くなるものや余計なものはしないこと」と釘が刺されて例会が始まりました。これはいつも論議を長引かせるわたしへの「牽制」と思われました(苦笑)。
 今月発行の『古田史学会報』144号で会報デビューされたばかりの大原さんから驚愕の研究が報告されました。記紀に記されたイザナギとイザナミの神話の淵源が縄文時代に遡り、その痕跡が縄文土器にあったとするものです。新潟県井の上遺跡出土の「人体文土器」(縄文中期〜後期)にある男性と女性の図柄がイザナギとイザナミの神話を示しているとされました。驚くべき仮説ですが、根拠も論理性も明瞭な研究でしたので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。それにしても、すごい研究が現れたものだと驚きました。
 2月例会の発表は次の通りでした。発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①『日本書紀』の中の百姓(八尾市・服部静尚)
②住吉神社は「一大率」であった。の補足(奈良市・原幸子)
③短里の使用に関する一考察(茨木市・満田正賢)
④縄文にいたイザナミ・イザナギ(大山崎町・大原重雄)
⑤黒塚古墳と椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡(京都市・岡下英男)
⑥倭人伝・二十一国のありか(宝塚市・藤田 敦)
⑦伊都国の「世有王」の再考(姫路市・野田利郎)
⑧フィロロギーと古田史学【その9】(吹田市・茂山憲史)
⑨「アタ」の地の特定(東大阪市・萩野秀公)
⑩倭国(九州王朝)の新羅への白村江前の対応(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 1/21新春古代史講演会の報告・3/18久留米大学講演会の決定(講師派遣:正木、服部、古賀)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内、2/23安村俊史柏原市歴史資料館館長「七世紀の難波から飛鳥への道」・『古田史学会報』144号発行・会費入金状況・新入会員の紹介・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の編集状況・服部さんが和泉史談会で講演・1/28京都地名研究会(龍谷大学)で沖村由香さん(九州古代史の会・会員)講演・「古田史学の会」関西例会の会場3月はエル大阪(京阪天満橋駅西300m)・その他


第1605話 2018/02/15

『古田史学会報』144号のご案内

 『古田史学会報』144号が発行されましたので、ご紹介します。

 今号には出色の論文、正木さんの「多元史観と『不改の常典』」が一面を飾りました。古代史学界で永く論争が続き、未だ定説の出現を見ないテーマ、「不改の常典」を九州王朝説(九州王朝系近江朝説)から論じたもので、『日本書紀』や『続日本紀』に見える「定策禁中」をキーワードに、優れた仮説の提起に成功されています。今後、古田学派内で「不改の常典」を論じる際、この正木論文を避けては通れないでしょう。

 奈良市の原さん、大山崎町の大原さんは会報初登場です。いずれも「関西例会」での発表を投稿していただいたものです。これからも例会の常連や新人の投稿をお待ちしています。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』144号の内容
○多元史観と『不改の常典』 川西市 正木裕
○須恵器窯跡群の多元史観 -大和朝廷一元史観への挑戦- 京都市 古賀達也
○住吉神社は一大率であった 奈良市 原 幸子
○隋書国伝「犬を跨ぐ」について 乙訓郡大山崎町 大原重雄
○四国の高良神社 -見えてきた大宝元年の神社再編- 高知市 別役政光
○「壱」から始める古田史学(14)
「倭国大乱」-范曄の『後漢書』と陳寿の『魏志倭人伝』
- 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○平成三〇年(二〇一八)新年のご挨拶
古田先生三回忌を終え、再加速の年に 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1604話 2018/02/12

須恵器の「打欠き」儀礼

 先日購入した『季刊考古学』142号を熟読しています。同書の特集「古墳からみた須恵器の変容」で「朝鮮半島」を執筆担当された高田寛太さん(国立歴史民俗博物館・準教授)と中久保辰夫さん(大阪大学・助教)により、朝鮮半島南端での須恵器の「打欠き」儀礼というものが紹介されていました。次の通りです。

 「全羅道出土須恵器には、いくつか口縁部を打欠いた事例がある(図3:紫龍里例)。打欠き儀礼は、浅岡俊夫によって日本列島で弥生時代にさかのぼる事例も紹介されており、例えば大阪府久宝寺1号墳供献土器に口縁部を打欠いた例があるなど、古墳時代前期にも確認できる。(中略)
 したがって、栄山江流域にみる須恵器供献例のなかには、土器そのものの入手と使用に意味があっただけではなく、〔瓦泉〕の体部を手に持ち、口縁部の一部あるいは頸部を含めて破損するという所作の共有を見出すことができる。ただし、口縁部打欠きについては、日本列島各地のすべての〔瓦泉〕出土古墳で認めることはできない。」(69〜70頁)
 ※〔瓦泉〕は偏が「瓦」で、その右に「泉」。

 この指摘はとても示唆的です。朝鮮半島南部の須恵器と日本列島の弥生時代の土器や古墳時代の須恵器に頸部の打欠き儀礼が共通して見られるとのことです。4世紀末頃に須恵器が朝鮮半島から倭国(九州王朝・筑前)に伝わっているのですが、打欠き儀礼は須恵器伝来以前の弥生時代の日本列島に見られるということですから、この打欠き儀礼は日本列島発の可能性も考えてみる必要があります。
 同論文には打欠き儀礼の意味については触れられていませんが、葬儀において現代日本でも故人が使用したお茶碗を出棺時に割るという儀礼があり、この淵源が古代の土器「打欠き」儀礼にまで遡るのかもしれません。また、九州年号金石文として注目される「大化五子年」土器も、煮炊きに使用した後に頸部を打ち欠いて骨壺に転用されています。この土器転用は出土した茨城県地方の風習と、地元の考古学者からお聞きしました。これも土器の打欠き儀礼の一形態と思われます。
 土器の頸部を打ち欠いて骨壺に再利用する例は平安時代(10世紀)にも見られ、「洛中洛外日記」1536話で紹介しました。ご参考までに転載します。

「洛中洛外日記」第1536話 2017/11/05
古代の土器リサイクル(再利用)

 ちょっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器が骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。


第1603話 2018/02/11

前期難波宮と藤原宮の「尺」

 先月、東京古田会の皆さんが大阪文化財研究所を見学されたとき、同所の高橋工先生に前期難波宮などについて解説していただきました。そのとき、「前期難波宮造営を孝徳期と編年された一番の根拠は何ですか。年輪年代ですか。干支木簡ですか。」と質問したところ、高橋さんのご返答は「土器編年です」とのことでした。
 前期難波宮を天武朝造営とされる論者から、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対して、「大阪歴博の考古学者の意見は信用できない」「大阪歴博の見解を盲信している古賀は間違っている」と批判されることがあるのですが、この批判方法は学問的とは言えません。大阪歴博の考古学者の研究や編年のどこがどのような理由により間違っているのかを、根拠を示して具体的に批判するのが学問論争です。たとえば服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は、飛鳥編年の基礎データを具体的に検証され、その結果を根拠に「間違っている」と批判されています。これが学問的批判というものです。こうした批判であれば、具体的な再反論が可能ですから、互いの仮説を検証深化させることができ、学問研究にとって有益です。
 わたしは前期難波宮の造営は孝徳期であり、天武期ではありえない理由をいくつも指摘(論証)してきましたが、「論証よりも実証」という方々にも納得していただけるような実証的根拠も示してきました。そこで、改めて考古学的事実に基づいた実証的説明として前期難波宮の造営「尺」と天武朝により造営された藤原宮の「尺」について説明することにします。
 前期難波宮の遺構についてはその規模が大きく、測定データも膨大であり、その結果、造営に使用された「尺」についても判明しています。植木久『難波宮跡』(同成社。2009年)によれば、1尺29.2cmの「尺」で前期難波宮は設計されているとのことです。
 天武朝で造営された藤原宮は出土したモノサシにより、1尺29.5cmであることが明らかになっています。下記のように、造営「尺」は時代とともに1尺が長くなる傾向を示しています。

○前期難波宮 652年 29.2cm
○藤原宮   694年 29.5cm
○後期難波宮 726年 29.8cm

 この数値から、前期難波宮と藤原宮の設計は異なった「尺」が使用されており、両宮殿の造営時期や造営主体が異なっていると考えざるを得ません。両宮殿はその規模から考えても王朝の代表的宮殿ですので、設計にはその王朝が公認した「尺」を用いたはずです。従って、この使用「尺」の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する実証的根拠となります。この説明であれば特段の論証は不要ですから、「論証よりも実証」という方にもご理解いただけるのではないでしょうか。
 なお、わたしは太宰府条坊や政庁の造営「尺」についても調査を進めています。というのも、3月18日(日)に開催予定の久留米大学での講演で、「九州王朝の都市計画 太宰府と難波京」というテーマをお話ししますので、九州王朝の設計「尺」について調べています。研究が進展しましたら、報告したいと思います。


第1602話 2018/02/10

【緊急告知】3/18久留米大学で講演

 3月18日(日)午後、久留米大学(御井キャンパス)で講演会の企画が進んでいます。「古田史学の会」からは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしの三人が講演します。演題は次の通りです。詳細が決まりましたら、ご案内します。

①古賀達也「九州王朝の都市計画 ここまでわかった太宰府と難波京」
②服部静尚「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」
③正木 裕 「太宰府にきたペルシャの姫と薩摩に帰ったチクシの姫」


第1601話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(8)

 中村さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」において、50歳を越える古代人が20%以上いたとされた考古学的根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが引用されていますので、転載します。

【以下、転載】
注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 一九九四・二 祥伝社
p一六九〜p一七二 死亡時年齢の推定 要旨
【骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、十五歳くらいまでは一歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。

注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 二〇〇五・一
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】

 そして、中村さんは根拠とされたグラフに次のような説明を付されています。
 「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」

 わたしはこの「注」の解説を読み、中村稿に掲載された「生存者の年齢推移図」グラフを仮説の根拠に用いるのは危険と感じました。わたしの本職は有機合成化学ですが、研究開発などでデータ処理と解析を行う際、データが示す数値からの実証的な判断だけではなく、そのデータは何を意味するのかということを論理的に深く考える訓練を受けてきました。その経験から、同グラフに対して違和感を覚えたのです。理由を説明します。

①松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。この点はわたしも同意見。
②そして、「壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
③弥生の出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法も理解できる。
④しかし、その三段階の年齢は何を根拠に(二〇〜四〇)(四〇〜六〇)(六〇〜 )と設定されたのかが不明。
⑤出土人骨の相対的な年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定が困難であることは、①の記事からもうかがえる。寡聞にして、出土人骨の年齢を的確に測定できる技術の存在をわたしは知らない。
⑥従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢設定が現代とは異なり、仮に(十五〜三〇)(三〇〜四〇)(四〇〜)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判断によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
⑦他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、最も信頼性が高い。これによれば、倭人の一般的寿命は一倍年暦に換算すると40〜50歳である。
⑧また、周代の中国人の寿命を記す史料として、たとえば『列子』の次の記事がある。
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
 百年(一倍年暦の50歳)に達する者は千人に一人もいないとの当時の人間の寿命について述べた記事である。
⑨これら文字記録による一次史料と考古学による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の方である。
⑩中村さんが依拠したグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
⑪また、50歳と60歳の区別がつくほどの人骨年齢測定精度があるのか不審とせざるを得ない。

 以上のように考えています。しかしながら、わたしは人骨年齢測定の専門家でもありませんので、専門家の意見を直接聞いてみたいと願っています。こうした理由により、このグラフを仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんのご意見にも賛成できないのです。さらに指摘すれば、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを判断材料に用いる方法論にも問題なしとは言えません。
 以上、多岐にわたり論じましたが、拙論を批判していただいた中村さんに感謝申し上げ、最初のご指摘から9年も経っての応答となったことをお詫びします。(おわり)


第1600話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(7)

 本シリーズも佳境に入ってきました。残された中村さんからの最大のご批判ご指摘にお答えします。これまでは文献史学の範囲内での応答でしたが、今回は考古学と文献史学の双方に関わる問題です。
 中村さんからの最大の指摘は、『論語』の時代の人間の寿命は50歳が限界ではなく、考古学的知見によれば日本列島の弥生人の寿命は「弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています」(中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号。2009年6月)という点でした。もちろん、50歳を越える古代人がいたことはあり得るとわたしも考えていますし、「仏陀の二倍年暦」でもそのことを示す記事を紹介してきました。たとえば次の記事などです。

○「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二)
○「昔、此の斯波醯の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」(『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三)
○(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。)

 わたしと中村さんのご意見との最大の相違点は、この二倍年暦で100歳(一倍年暦の50歳)を越える古代人の存在を希(まれ)と考えるのか、20%はいたとするのかにあるようです。もちろん、わたしには50歳を越える長寿古代人がどのくらいの比率で存在したのかはわかりませんが、中村さんが依拠したデータや研究に疑問を抱いていましたので、数年前にお会いしたときに「グラフというものは必ずしも実態に合っているとも言えない」と中村さんにお答えしたものです。(つづく)


第1599話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(6)

 ここまで『論語』二倍年暦説における史料根拠とそれに基づく論証方法などの論理展開について解説してきました。次に中村通敏さんの論稿「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない-『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」(『東京古田会ニュース』No.178)での、『論語』二倍年暦説へのご批判に対してお答えすることにします。
 今回の中村稿でわたしが最も注目したのは、『論語』の「託孤寄命章」と称される次の記事を一倍年暦の根拠とされたことです。わたしはこれまで『論語』を10回近くは読みましたが、同記事が二倍年暦や一倍年暦に関係するものとは全く捉えていなかっただけに、中村さんのご指摘を興味深く拝読しました。

 「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人與、君子人也」(『論語』泰伯第八)
 【訳文】曾子曰く、「以て六尺(りくせき)の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可し。大節に臨みて奪ふ可からざるなり。君子人か、君子人なり」と。
 【大意】曾子曰く、「小さなみなしごの幼君を(あんしんして)あずけることができ、一国の運命をまかせ(ても、りっぱに政治を処理す)ることができる。国家の大事に当たっても、(その人の節操を)奪うことはできない。(そういう人物は)君子人であろうか、(そういう人こそ、ほんとうの)君子人である」と。

 この一節を中村さんは一倍年暦の根拠とされました。その論旨は次の通りです。

①『新釈漢文大系1論語』(吉田賢抗著。明治書院)の語句説明に【「六尺」は十五、六歳以下のことで、身長で年齢を示した。周制の一尺は七寸二分(二十一センチ半)ぐらいだから、六尺は四尺二寸強(一メートル三十センチ弱)である。又年齢の二歳半を一尺という。】とある。
②『学研漢和大字典』(藤堂明保)には【六尺(ロクセキ):年齢が十四、五歳の者。戦国・秦・漢の一尺は二十三センチで、二歳半にあてる。六尺之孤(ロクセキノコ):十四、五歳で父に死別したみなしご】とある。
③六尺の子供(十四歳)の背丈は、日本人のデータでは一六二・八センチとされる(文科省の2015年度のデータ)。
④これを『論語』の世界は「二倍年暦」であったとすると、約七歳でありながら身長は一六〇センチ強であったということになり、これは常識外れの値である。
⑤結論として、『論語』の世界では「一倍年暦」で叙述されている。

 以上のような論理展開により、『論語』は一倍年暦で記されているとされました。しかしながら、この中村さんの説明は、失礼ですが学問的論証の体をなしていません。その理由は次の通りです。

(a)「六尺」を①「十五、六歳以下」、②「十四、五歳の者」とするのは、後代の学者の解釈です。『論語』そのものには、身長「六尺」の子供の年齢について何も記されていません。
(b)もし周代において、身長「六尺」という表記が「14歳」という年齢表記の代用だとされるのなら、『論語』か周代の史料にそうした用例があることを提示する必要があります。この学問的証明がなされていません。
(c)現代日本人の14歳の子供の身長(160cm)を、周代の身長「六尺」の子供の年齢を14歳とする根拠とはできず、その証明にも無関係な数値です。
(d)『論語』の当該記事は、身長「六尺」の「孤」(孤児)を託せる「君子」について述べたもので、その記述からは、『論語』が「一倍年暦」か「二倍年暦」かの判断はできません。

 なお、「中国古代度量衡史の概説」(丘 光明、楊 平。『計量史研究』18、1996年)によれば、殷の墓から出土した牙尺は1尺約16cm。戦国時代から漢代の出土尺は1尺約23cmとあります。殷代と漢代の間にある周代(春秋時代)は、『説文解字』「夫部」の記事「周制以八寸為尺」を信用すれば、漢代の1尺の0.8倍ですから約18.4cmとなり、時代と共に長くなる1尺の数値としては穏当です。そうすると『論語』の「六尺」は18.4×6=約110cmとなります。
 すなわち、当該記事は「六尺(身長約110cm)」と表記することにより、その孤児が幼い子供であることを示しているに過ぎず、そうした孤児を託せる人物こそ君子であると主張している記事なのです。この記事自体は、一倍年暦とも二倍年暦とも論証上は無関係です。(つづく)