第1735話 2018/08/28

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (3)

 杉本直治郞博士とベークの学問を日本で継承された村岡典嗣先生との接点はなかったのかを調査するため、杉本博士が「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)の冒頭に、昭和15年に公刊した著書『阿倍仲麻呂傳研究』(東京、育芳社)に「天の原」の歌についての新説を提唱しておいたと記されているので、その『阿倍仲麻呂傳研究』を京都府立大学図書館(歴彩館2F)で閲覧しました。

 調査の結果、1968年に『文学』掲載の「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」で提唱された「天の原」歌に関する新説が『阿倍仲麻呂傳研究』の「朝衡の離唐」(343-389頁)に既に記されていたことを確認しました。従って、わたしがフィロロギーの方法論に立脚したものではないかと感じた杉本博士の「天の原」歌の新説は昭和15年(1940)には発表されていたことになります。1940年といえば村岡先生が東北帝国大学法文学部教授として日本思想史科で活躍されていた頃です。ちなみに、村岡先生が6歳年長です。

 そこで杉本博士と村岡先生の略歴を調べてみました。そうすると両氏の接点らしきものが見えてきました。それは「広島高等師範学校」です。東京出身の村岡先生は明治44年(1911年、27歳)に名著『本居宣長』を上梓され、その業績により大正9年(1920)に広島高等師範学校教授に就任され、大正13年(1924)には東北帝国大学教授になっておられます。

 一方、滋賀県出身の杉本博士は滋賀師範学校(現滋賀大学教育学部)で学ばれ、その後、広島高等師範学校に入学、大正7年(1918)に卒業されています。このように両氏は広島高等師範学校に教師と学生として関わっておられるのですが、その時期は重なっていません。その後、杉本博士は大正14年〜昭和4年(1925-1929)の間、旧制広島高校の教授に、昭和4年(1929)には広島文理科大学の助教授に就任されています。

 広島には古田先生の恩師で旧制広島高校の教師だった岡田甫先生もおられました。この広島の地に村岡先生・岡田先生そして杉本博士の接点があったのではないかと推定しています。機会があれば、引き続き調査したいと思います。

【杉本直治郞博士の略歴】
明治23年(1890)3月、滋賀県で誕生。
滋賀師範学校(現滋賀大学教育学部)で学ぶ。その後、広島高等師範学校で山下寅次教授のもとで東洋史・漢文を学ぶ。
大正7年(1918)卒業。
大阪府立北野中学(現府立北野高校)で教壇に立つ。
大正9年(1920)京都帝国大学に30歳で入学、東洋史を本格的に学ぶ。主任教授は内藤湖南。
卒業後しばらくは大学で副手となる。
大正14年〜昭和4年(1925-1929)旧制広島高校教授。
昭和4年(1929)広島文理科大学の助教授に就任。フランス・イギリス・インドシナ留学。
帰国後、昭和15年(1940)に『阿倍仲麻呂傳研究』を上梓。
戦後、広島大学文学部に籍を移す。
昭和22年(1947)『阿倍仲麻呂傳研究』により京都大学で文学博士号を取得。その審査委員に宮崎市定教授の名前が見える。
昭和30年(1955)退官。その後広島商科大学教授に就任。
昭和48年(1973)9月、京都市一乗寺で逝去。享年83歳。

【村岡典嗣先生の略歴】
明治17年(1884)9月18日東京で誕生。
明治39年(1906)早稲田大学哲学科卒業。
明治41年(1908)独逸新教神学校卒業。
明治44年(1911)『本居宣長』上梓。
大正9年(1920)広島高等師範学校教授に就任。
大正13年(1924)東北帝国大学法文学部教授となり、日本思想史科を開設。
昭和20年(1945)古田武彦先生が東北帝国大学法文学部日本思想史科に入学(岡田先生の薦めによる)。
昭和21年(1946)定年退官。
昭和21年(1946)4月13日没。享年61歳。


第1734話 2018/08/28

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (2)

 杉本直治郞氏の論稿「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)がフィロロギーの方法論に立脚しているのではないかと考えたのですが、何かそのことを示す証拠はないだろうかと、わたしは同論稿を再読しました。そうすると論稿末尾の次の記事に気づきました。

 「(前略)文字通りのアルバイト(労働)の積み重ねによって、できるだけ厳密な、文献的批判的方法(Philologische=Kritische Methode)により、確実なる歴史事実を把握し、自由なる想像よりも、史実を前提とする推理によって、あくまで真実に肉薄しなければならない。」(1289頁)

 わざわざドイツ語の「アルバイト(労働)」や「文献的批判的方法(Philologische=Kritische Methode)」を用いて説明されているところを見ると、杉本博士はドイツでアウグスト・ベークが提唱したフィロロギーを知っていたのではないかと思われました。そこで、「古田史学の会・関西例会」でベークのフィロロギーを講義された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)のご意見を聞いてみたところ、次のような感想をいただきました。

 「Philologische=Kritische Methodeはドイツ語の一般的な単語で、フィロロギー特有の用語ではない。〝確実なる歴史事実を把握し、自由なる想像よりも、史実を前提とする推理によって、あくまで真実に肉薄しなければならない。〟という考え方はフィロロギーとは異なる。フィロロギーにとって〝確実なる歴史事実を把握〟は前提ではなく、むしろ結果である。」

 このように述べられ、この部分はベークのフィロロギーとは異なるとのご意見でした。ただベークには何人かの後継者が細い糸で繋がっており、その影響を間接的に杉本氏が受けた可能性は否定できないとのこと。そこでわたしはベークの学問を日本において〝細い糸〟として継承された村岡典嗣先生と杉本直治郞博士に接点があったのではないかと考え、調査することにしました。(つづく)


第1733話 2018/08/27

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (1)

 あまの原 ふりさけ見れば かすがなるみかさの山にいでし月かも(『古今和歌集』巻九)

 延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂のこの歌は有名です。古田先生がこの「みかさの山」が奈良の御蓋山(みかさ山、標高約二八三m)ではなく、福岡県の三笠山(宝満山、標高八六九m)であるとされたことは古田ファンにはよく知られています。

 その研究に取り組んでいたとき、わたしは杉本直治郞氏の論稿「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)を見つけました。同論稿には、仲麻呂の歌の原型が「みかさの山に」ではなく、「みかさの山を」であると論証されており、このことは古田説が正しかったことを決定的にしました。すなわち、奈良の御蓋山では低すぎて、月はその後の春日山連峰から出るため、「みかさの山をいでし月」はありえず、福岡の三笠山なら太宰府から見れば月はそこから出るので、極めてリーズナブルな表現となるのです。

 『古今和歌集』には貫之による自筆原本いわゆる「三証本」や、貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)があったとされていますが、残念ながらいずれも現存しません。しかし、二つの古写本の存在が知られています。一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)です。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた「に」の横に「ヲ」と新院御本による校合を付記しています。また、教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されています。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えていると杉本直治郞氏は先の論稿で紹介されています。
こうした『古今和歌集』古写本の分析に基づき、流布本の「みかさの山に」よりも「みかさの山を」の方が原型であり、仲麻呂の望郷の気持ちをよく現していると杉本博士は解説されています。こうした仲麻呂の気持ちになってその歌を解釈し、古写本の史料事実を根拠とされた論稿を読んで、これはフィロロギーの方法論に立脚しているのではないかとの印象をわたしは抱いたのです。(つづく)


第1732話 2018/08/26

『日本書紀』に見える「采女竹良」

 「采女氏塋域碑」に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、『日本書紀』にも「采女竹羅」「采女筑羅」として見えます。次の記事です。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には「小錦下」として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には「朝臣」の姓をもらい、天武崩御の際には「直大肆」として誅しています。没年は不明ですが、「采女氏塋域碑」によれば持統三年己丑(689)までには「直大弐」となり没しているようです。
 このような『日本書紀』の記事を信用する限り、采女竹良が「直大弐」として仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありません。そうすると那須国造碑にある「永昌元年己丑(689年)」に那須直韋提に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」も近畿天皇家のこととなります。太宰府の「戸籍」木簡に見える同類の冠位「進大弐」を持つ「建ア成」(「ア」は「部」の異体字)も近畿天皇家から叙位されたということになります。
 しかし、ONライン(王朝交代)以前のこの時期において、片方では九州年号が関東から九州まで使用される中、冠位は近畿天皇家が関東から九州まで叙位したということになります。このような理解は果たして正しいのでしょうか。他の可能性は考えられないのでしょうか。(「那須国造碑『永昌元年』の論理(7)」につづく)


第1731話 2018/08/26

「采女氏塋域碑」拓本の混乱

 〝那須国造碑「永昌元年」の論理〟ということで、理屈っぽい「洛中洛外日記」が続いていますが、ここで話題を少し変えて「息抜き」することにします。もっとも学問的には重要なテーマですから、しっかりと論じます。
 それは「釆女氏塋域碑」拓本の文字の異同についての問題です。同碑の「飛鳥浄原大朝庭」という表記について、わたしは「飛鳥浄原大朝庭」と記した拓本の他に、「飛鳥浄御原大朝庭」あるいは「飛鳥浄原大朝廷」と記した拓本や訳文が入り交じって存在していることに気づきました。わたしの「洛中洛外日記」原稿中にも同様の混乱があり、校正・チェックをお願いしている加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からそのご指摘を受け、この問題の存在にはっきりと気づきました。
 わたしは「釆女氏塋域碑」の碑文については主に「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本に基づいた訳文を採用していたのですが、ネットなどで見る拓本やそれらの訳文に微妙な差があることが気になっていました。そこで、京都府立歴彩館の総合資料館で先行研究論文や拓本が掲載された書籍を片っ端から閲覧しました。そして「釆女氏塋域碑」拓本についての近江昌司さんの研究論文「釆女氏塋域碑について」(『日本歴史』431号、1984.04)に巡り会いました。
 この「釆女氏塋域碑」は実物が存在しないため、研究は拓本によらざるを得ません。ところがその拓本間に文字の異同があったり、拓本から読み取られた訳文間にも文字の異同があるのです。そのことを近江昌司さんは「釆女氏塋域碑について」にて明らかにされ、複数ある拓本の中で「真拓」として現存するのは「小杉文庫蔵拓本」(静岡県立博物館蔵)だけであるとされたのです。そしてその他の拓本のほとんどは「真拓」ではなく、後世に造られた模造品の拓本であったり、印刷用の木製彫版によって摺られた「摺本」であるとのことなのです。
 幸い、わたしが依拠した「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本は「真拓」とされていました。ただし現在は行方不明とのこと。また、拓本作成時期はその碑文のひび割れの進み具合の差から、「小杉文庫蔵拓本」の方が古いとされています。結果としてわたしが採用した「拓本」は〝セーフ〟でしたが、まさか模造品の拓本やら印刷用の木版摺本が「拓本」として世の中に出回っているとは思いもしませんでした。
 文献史学における「史料批判」がいかに重要か、改めて思い知らされた一件で、まさに冷や汗ものでした。従って、「釆女氏塋域碑」の碑文は「飛鳥浄原大朝庭」であり、「飛鳥浄御原」と「御」を付記したり、「大朝庭」の「庭」を「廷」としている論稿は要注意です。なお、付言すればこれらの文字以外にも、碑文のキズなのか、本来の文字の一部なのかで論争されている字(「十」か「千」か)もありますが、こちらは碑文そのものを見つけ出さないと決着がつかないかもしれません。


第1730話 2018/08/24

那須国造碑「永昌元年」の論理(6)

 「直大弐」(11番目)の冠位が記された「釆女氏榮域碑」には次の表記があり、わたしは以前から注目してきました。それは「飛鳥浄原大朝庭」という王朝名が7世紀末(己丑年、689年)の「評制」の時代に存在していたことです。
 この「飛鳥浄原大朝庭」と記された「釆女氏榮域碑」について、古田先生は実物が存在しないことなどを理由に懐疑的でした。おそらく「飛鳥浄御原」を福岡県小郡市付近とする古田説にとって、河内から出土した「釆女氏榮域碑」に「飛鳥浄原大朝庭」とあることは納得できなかったものと思われます。しかし、江戸時代の拓本が現存することから、自説に都合がよくないという理由で無視することはできませんので、古田先生もこの碑文の扱いに苦慮されていたのではないでしょうか。
 「飛鳥浄原大朝庭」という表記に苦慮していたのはわたしも同様でした。この「飛鳥浄原」が奈良の飛鳥であろうと、筑紫の飛鳥であろうと、「大朝庭」と表現するにふさわしい宮殿遺構が発見されていないからです。「大朝庭」というからには「朝庭」を有す朝堂院様式の宮殿であり、「大」がつくほどの規模が必要です。しかし、奈良の飛鳥宮(飛鳥浄御原宮)は朝堂院様式ではありませんし、それほど大規模でもありません。「筑紫の飛鳥」に至っては遺跡そのものが未発見です。
 藤原宮であれば「飛鳥」の「大朝庭」にふさわしいのですが、「釆女氏榮域碑」に記されている年次「己丑年」(689年)時点では『日本書紀』に記された持統天皇の藤原宮遷都(694年)よりも前ですから、藤原宮を「大朝廷」の候補とすることができません。また、藤原宮が「飛鳥浄原」と呼ばれていた史料的痕跡もありません。
 しかし、采女氏(采女竹良)は「飛鳥浄原大朝庭大弁官」と記されており、「飛鳥浄原大朝庭」から「直大弐」を叙位されたと考えざるを得ません。従って、この「飛鳥浄原大朝庭」と那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」は同じと考えるのが真っ当な史料理解でしょう。そうするとこの「飛鳥浄御原」とは、「釆女氏榮域碑」が出土した河内の隣国である「大和の飛鳥」の方が遠く離れた「筑紫の飛鳥」よりも有力ということになります。
 このように、わたしの「思考実験」は堂々巡りをしながらも、那須直韋堤に「追大壹」を叙位したのは「大和の飛鳥」にいた権力者という結論に近づいてきました。(つづく)


第1729話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(5)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の影響下にあったため、「永昌元年(689年)」という唐の年号を用いた叙位「任命書」を発行したとするわたしの仮説は、その権力者を九州王朝の天子としても近畿天皇家(持統天皇)としても、それを支持する史料根拠が見当たらず、逆に唐の影響下にはなかったと考えざるを得ないこととなりました。このままではわたしの「思考実験」は袋小路に迷い込んでしまいそうです。そこで、今回は検討の目先を変えて、「追大壹」という冠位について考察を進めてみることにします。

 『日本書紀』によれば「追大壹」という冠位は天武14年(685年)に制定記事があり、48階の33番目に相当します。従って、碑文にある「永昌元年(689年)」の年次と矛盾しません。この点についての『日本書紀』の記述は正確と言えそうです。この冠位48階制度に含まれる「進大弐」が太宰府出土「戸籍」木簡に記されています。更に河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土した「釆女氏榮域碑」(己丑年、689年)にも「直大弐」が見えます。
それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649〜685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664〜685年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 以上のような史料事実から、「追大壹」(33番目)・「進大弐」(43番目)・「直大弐」(11番目)などの冠位48階制度が7世紀後半の天武・持統期に採用されていたことは疑えず、その範囲が関東(那須)・近畿(河内・大和)・北部九州(筑前国嶋評)の広範囲であることもまた確かです。だとすると、そうした冠位制度が当時の日本列島の統一権力者により施行されていたということになります。これは九州王朝説にとって重要な問題です。なぜなら、関東の那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が、太宰府出土木簡に見える「進大弐」を北部九州(筑前国嶋評)在住の人物に叙位したことになるからです。(つづく)

《太宰府出土「戸籍」木簡》

「木簡表側」
嶋評   戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[ ? ]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[ ? ] 川ア里 占ア赤足□□□□[ ? ]
少子之母 占ア真□女   老女の子 得  [ ? ]
穴□ア加奈代 戸 附有

注記:ア=部

「木簡裏側」
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建   [ ? ]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[ ? ]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女   丁女 同里□[ ? ]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[ ? ]

 (□=判読不能文字、 [ ? ]=破損で欠如)

《釆女氏榮域碑》※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。

飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。


第1728話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(4)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が九州王朝ではないとすれば、通説の近畿天皇家(持統天皇)による叙位となりますが、それでは当時の近畿天皇家が唐の影響下にあったと考えてもよいでしょうか。この可能性の是非についても考察します。
 まず、否定的な史料根拠や論理性について紹介します。それは次のような点です。

①「永昌元年(689年)」当時の近畿天皇家が唐の影響下にあったとする史料根拠がない。
②『日本書紀』に記された三年号「大化」「白雉」「朱鳥」はいずれも九州年号からの転用であり、中国(唐)の年号を使用した痕跡は見えない。
③『続日本紀』の聖武天皇の詔報にも「白鳳以来、朱雀以前」(661〜683年、684〜685年)という九州年号が見え、近畿天皇家が公的に九州年号を使用(借用か)していた痕跡と思われる。この姿勢、すなわち九州王朝の存在は隠すが、その年号は必ずしも隠さず、必要に応じて記すという編纂方針は『日本書紀』と同様である。他方、『続日本紀』に中国(唐)の年号を使用した痕跡は見えない。
④近畿天皇家の藤原宮や飛鳥池などからの出土木簡には700年以前の年次表記として「干支」が用いられており、九州年号や唐の年号が用いられているケースは皆無である。
⑤中国の年号をその周囲の国が公的に使用するというケースは、その国が中国の冊封体制に入っていることを意味する。しかし、近畿天皇家が中国の冊封を受けていたとする痕跡は中国側史料にも日本側史料にも見えない。

 以上のように、7世紀末頃の近畿天皇家が唐の年号を使用していたことを示す史料はありません。こうした史料状況は那須国造碑の「永昌元年(689年)」が近畿天皇家発行の公文書(任命書)からの転用とする仮説には不利と言わざるを得ません。(つづく)


第1727話 2018/08/22

那須国造碑「永昌元年」の論理(3)

 那須国造碑に唐の年号「永昌元年」が記された理由として、那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の年号を使用して「任命書」を発行したとする仮説を考えたのですが、その論理展開には続きがあります。それでは「飛鳥浄御原大宮」の権力者とは近畿天皇家(持統天皇)なのか、あるいは古田説の筑紫小郡の「飛鳥浄御原大宮」にいた九州王朝の天子(薩野馬か)なのかという問題です。このことについて考察します。
 まず、九州王朝の天子とすることは困難と思われます。その理由は次の点です。

①「永昌元年(689年)」時点での九州王朝の天子が唐の影響下にあったとする史料根拠がない。唐軍がいつ頃まで筑紫に進駐していたのかを示す史料もない。
②「永昌元年(689年)」時点では、九州年号は23年間続いた白鳳から朱雀へ改元(684年)され、更に朱鳥に改元(686年)されており、「永昌元年(689年)」は朱鳥四年に相当する。九州王朝が唐軍の影響下にあったとすれば、こうした九州年号の改元ができるとは考えにくい。
③従って、朱鳥四年の叙位「任命書」に年号を記すのであれば、九州王朝は「朱鳥四年」と記したはずである。たとえば滋賀県日野町には九州年号「朱鳥三年戊子(688年)」と記した鬼室集斯墓碑が現存しており、当時の倭国では九州年号が使用されていたことを疑えない。

 以上の理由から「永昌元年(689年)」という唐の年号が九州王朝の公式文書(任命書)に使用されたとは考えにくく、また、使用しなければならない積極的理由が見当たらないのです。(つづく)


第1726話 2018/08/21

那須国造碑「永昌元年」の論理(2)

 「古田史学の会」関西の八月度例会で発表された谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)に、関東の地の那須国造碑になぜ「永昌元年」(689年)という唐の年号が使用されたと考えますかとたずねたところ、「唐の影響下にあったため」との回答でした。谷本さんらしいシャープな見解です。
 その回答にわたしは納得できなかったので、さらに次の見解を述べました。

①7世紀末頃の関東地方が唐の影響下にあったとする痕跡が見当たらない。茨城県坂東市からは九州年号が記された金石文「大化五子年(699年)」土器が出土しており、むしろ九州王朝の影響が及んでいたと考えられる。
②従って、唐の影響下にあったのは同碑文に記されている、那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者ではないか。
③その場合、「飛鳥浄御原大宮」の権力者が「追大壹」の「任命書」の日付に「永昌元年己丑四月」と唐の年号を採用していたことになる。
④その「任命書」に記された「永昌元年己丑四月」を転載して、那須国造碑に叙位記事が記録されたと考えられる。
⑤他方、那須直韋堤の没年(700年)については当時の慣例に従って干支表記「歳次康子年正月二壬子日」とした。

以上のようなケースであれば、唐の年号「永昌」が遠く離れた関東地方の石碑に記されたことを説明できるとの意見を谷本さんに述べました。谷本さんもその可能性を否定されませんでしたが、これはこれで新たな問題が惹起され、谷本さんとの論議検討は続きました。(つづく)


第1725話 2018/08/20

那須国造碑「永昌元年」の論理(1)

 「古田史学の会・関西」の八月例会で谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)から、那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年、永昌は唐の年号)の「追大壹」叙位記事は『日本書紀』持統四年四月条(690年)の叙位記事しかその付近に対応記事がないことから、那須国造碑の紀年と持統紀の紀年には一年のずれがあるとする仮説が発表されました。
 確かに茨城県坂東市(旧・岩井市)出土「大化五子年」(699年)など、7世紀末頃の史料に干支が一年ずれているものがあり、そのことについては拙論(「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』所収)でも論じたことがあります。そうした認識がありましたので、この谷本説も理解できるのですが、そうすると別の問題も発生するため、判断に悩むものでした。
 そこでこの那須国造碑の「永昌元年」「追大壹」を手がかりに、7世紀末の九州王朝から大和朝廷(近畿天皇家)への王朝交代の実相を探るべく論理を展開させてみることにしました。まだ結論は出ていませんから、連載途中で見解が変わるかもしれません。古代史研究における「思考実験」の現在進行形としてご覧いただければ幸いです。(つづく)

《那須国造碑文》
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固


第1724話 2018/08/19

鬼面「鬼瓦」のONライン

 9月9日(日)の大阪市(i-siteなんば)での『発見された倭京』出版記念講演会で、新たにわたしが取り上げるテーマに〝鬼面「鬼瓦」のONライン〟があります。古代において異彩を放つ大宰府政庁出土の鬼面「鬼瓦」(大宰府式鬼瓦)の変遷と近畿天皇家(大和朝廷)の藤原宮・平城宮の「鬼瓦」の変遷に、701年(ONライン)における王朝交代の痕跡が見て取れるというテーマです。
 大宰府式鬼瓦と呼ばれている国内最古の鬼面「鬼瓦」は、その立体的で迫力のある鬼の顔が九州歴史資料館の「展示解説シート」では次のように紹介されています。

 「眉は炎のように吹き上がり、つり上がった大きな眼は飛び出さんばかりで、鼻は眉間にしわを寄せ小鼻を丸くふくらませながら、どっしりと構えていて、咆哮するように開いた口には、鋭い牙と四角い歯が並んでいます。そしてこの忿怒の相においては、骨格や筋肉の動き、皮膚の伸縮までが意識されて、各部分が有機的に連動しながら、ひとつの表情をつくり上げています。この立体感や迫真性は、平面的図案的な同時代の鬼瓦とは異質で、むしろ忿怒形の仏像の面部に通じています。原型の制作には、仏工の関与が想定されます。」

 このように紹介され、「迫力ある大宰府式鬼瓦の造形は、古今東西の鬼瓦の中にあって孤高のものです。」と指摘されています。
 この大宰府式鬼瓦はⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式と区分され、Ⅰ式が最も古く、Ⅲ式が新しいと編年されています。いずれも奈良時代のものとされていますが、Ⅰ式が最もその芸術性が高く、新しくなるに従い次第に洗練が失われていきます(編年については九州王朝説に基づく再検討が必要)。Ⅰ式は主に大宰府政庁や水城・大野城・筑前国分寺・筑前国分尼寺・怡土城などの遺跡から出土しています。大宰府式鬼瓦は北部九州を代表する鬼瓦であり、筑前以外からも出土例があります。
 他方、近畿天皇家の王宮である藤原宮の鬼瓦は鬼面ではなく、曲線の文様があるだけです。平城宮では初期の鬼瓦は鬼の身体全体が平面的に表されており、大宰府式鬼瓦とは比較にならないほど迫力のないものです。その後、時代が下がるにつれて「鬼面」となり、徐々に立体的な表現に発展するのですが、それでも大宰府式鬼瓦ほどの芸術性や迫力は見られません。
 これらの鬼瓦は王朝を代表する宮殿の屋根を飾るものであり、太宰府と大和の鬼瓦の迫力の差は従来の近畿天皇家一元史観では説明が困難です。ところが九州王朝説の視点からこの状況を考えると、次のようなことが言えるのではないでしょうか。

①670年頃に造営された大宰府政庁Ⅱ期の宮殿の鬼瓦は倭国を代表する九州王朝にふさわしい芸術性あふれるものである。当時の太宰府にはそうした王朝文化を体現できる優れた芸術家や瓦職人がいた。
②他方、7世紀末頃には事実上の日本列島ナンバーワンの実力を持つに至った近畿天皇家は、大規模な藤原宮を造営できたが、王朝文化はまだ花開いてはいなかったため、貧素な鬼瓦しか作れなかった。
③王朝交代した701年以降の近畿天皇家は九州王朝文化を徐々に吸収し、「鬼」を表現した鬼瓦を造れるようになったが、その芸術性が高まるのには数十年を要した。
④王朝交代後の太宰府や九州においては、その繁栄に陰りが見え、大宰府式鬼瓦も次第に洗練度が失われていった。

 以上のように九州王朝から大和朝廷への王朝交代という多元史観によれば、鬼面「鬼瓦」の変遷がうまく説明できるのです。このことを講演会ではパワーポイント画像を交えて説明します。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。