第1696話 2018/06/23

観世音寺古図の史料性格

 「洛中洛外日記」1694話の「観世音寺古図の五重塔『二重基壇』」で触れた「観世音寺古図」の史料性格については、拙稿「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」(『古田史学会報』No.50所収。2002年6月1日)で次のように説明していますので、転載します。

【以下転載】
養老絵図と大宝四年縁起
 古の観世音寺の姿を伝える大永六年(一五二六)写の観世音寺古図というものがある。法隆寺移築論を発表された米田良三氏はその著書『法隆寺は移築された』において、同古図を紹介され、古図と現法隆寺との伽藍配置等の一致から、法隆寺の移築元として観世音寺説を発表された。これに対して、同古図が創建当時の観世音寺かどうか不明であり、観世音寺移築説の根拠とすることに対して疑義が寄せられていた。
 既に観世音寺移築説が困難であることは述べて来たとおりであるが、同古図について言うならば、これは創建時の観世音寺が描かれたものと考えざるを得ない。何故なら、本稿で紹介したように、観世音寺の五重塔は康平七年に焼亡しており、以後、再建された記録はない。また、考古学的発掘調査でも金堂は新旧の基壇が検出されているが、五重塔は再建の痕跡が発見されていない。従って、五重塔が描かれている同古図は創建時の観世音寺の姿と考えられるのである。
 このことを支持する史料がある。観世音寺は度重なる火災や大風被害のため貧窮し、もはや独力での復興は困難となった。そのため、保安元年(一一二〇)に東大寺の末寺となったのであるが、そのおり、東大寺に提出した観世音寺の文書案文(写し)の目録が存在する。それは「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」という文書で、その中に「養老繪圖一巻」という記事が見える。その名称から判断すれば、養老年間(七一七〜七二四)に描かれた観世音寺の絵図と見るべきものであり、それが一一二〇年時点で現存していたことを意味する。同目録には「養老繪圖一巻」の右横に「雖入目録不進」と書き込まれていることから、この養老絵図の写しは、この時、東大寺には行かなかったようである。
 こうした養老絵図が十二世紀に現存していたことを考えると、大永六年に写された観世音寺古図はこの養老絵図を写した可能性が高いのである。考古学的発掘調査の結果も、古図と同じ伽藍配置を示しており、この点からも同古図が創建観世音寺の姿を伝えていると見るべきである。
 そうなると、いよいよもって観世音寺を法隆寺の移築元とすることは困難となる。というのも、観世音寺古図と現法隆寺は伽藍配置は類似していても、描かれた建物と法隆寺の特徴的な建築様式とは著しく異なるからである。一例だけあげれば、中門の構造が現法隆寺は二層四間であり、中央に柱が存在するが、観世音寺古図の中門は一層五間であり、一致しない。従って、米田氏の思惑とは真反対に、同古図は法隆寺の移築元は観世音寺ではない証拠だったのである。
 同目録中には今ひとつ注目すべき書名がある。それは「大宝四年縁起」である。大宝四年(七〇四)成立の観世音寺縁起が一一二〇年時点には存在していたことになるのだが、先に紹介した『本朝世紀』康治二年(一一四三)の太宰府解文に記された、百済渡来の阿弥陀如来像の事などがこの「大宝四年縁起」には記されていたのではあるまいか。従って、『本朝世紀』の本尊百済渡来記事は信頼できると思われるのだ。
 なお現在、観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものでは延喜五年(九〇五)成立の「観世音寺資財帳」がある。九州王朝の中心的寺院であった観世音寺の縁起も近畿天皇家一元史観によって書き直され、あるいは破棄されたのであろう。
【転載終わり】

 観世音寺古図に描かれた五重塔の「二重基壇」と考古学的出土状況による「二重基壇」の可能性との一致は、この古図が創建観世音寺を描いた「養老絵図」を書写したものとする理解を支持しています。
 また、観世音寺の「大宝四年縁起」が存在していたということは、大宝四年(704)以前に観世音寺は創建されていたことになり、一元史観の通説のように観世音寺創建を8世紀前半とする見解よりも、九州年号史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)に見えるように白鳳10年(670)創建説を支持するようです。


第1695話 2018/06/20

安部龍太郎さん『平城京』を上梓

 今朝は梅雨前線の中、東京行き新幹線車中で書いています。京都でも昨日までは余震が続いていましたが、このまま収束してくれることを願っています。また、地震の前日に開催された「古田史学の会」全国世話人会や会員総会・記念講演会出席のため、各地から来阪されていた皆さんのご無事を祈っています。
 昨日、奈良新聞記者の竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長、facebookや「洛洛メール便」配信担当)から奈良新聞(6/14付)が送られてきました。直木賞作家の安部龍太郎さんが奈良県庁を訪問した記事が掲載されていました。それによると安部さんは本年五月に新著『平城京』を上梓され、更に「粟田真人」「阿倍仲麻呂」と三部作を目指されているとのことです。
 実は安部さんとわたしは遠い昔に少しだけご縁がありました。二人は国立久留米高専の同級生(安部さんは機械工学科、わたしは工業化学科。11期、1976年卒)で、しかも共に文芸部員だったのです。竹村さんはこのことを知っておられ、奈良新聞を送ってくれたのでした。
 わたしは文芸部に入部したものの、あまりの文才のなさにより、部員不足で困っていた新聞部に「出向」となりました。もちろん新聞部でも文才のないことが先輩にばれてしまい、「古賀君の書いたものは記事ではない。メモだ」と叱られ、記事は書かせてもらえず、広告取りとその集金担当になりました。久留米市内の書店や文具店などへ『久留米高専新聞』の広告募集に回りました。その広告収入はおそらく先輩たちの飲み代か学生運動用のヘルメット代に消えたような気がします。
 若き日のこうした情けない体験がトラウマとなり、未だに文才はないままです。この「洛中洛外日記」も複数の方から誤字脱字、文法チェックをしていただいているほどですし、「古田史学の会」役員からは内容もチェックしていただいています。他方、優れた文才に恵まれた安部さんは作家になるという夢を追い続け、大変な努力と苦労をしながらも見事に直木賞作家となられました。文才の有無が二人の少年の人生を分けたようです。
 安部龍太郎事務所のHPなどを拝見しますと、月刊『潮』で来月から連載スタートされるとのことで、大活躍のご様子。安部さんは京都市内にもお住まいを持っておられるようで、一度連絡を差し上げてみようかと思います。直木賞作家による「俾弥呼(ひみか)」「多利思北孤(たりしほこ)」「薩夜麻(さちやま)」の「九州王朝」三部作がいつの日か世に出されることを夢見て。


第1694話 2018/06/19

観世音寺古図の五重塔「二重基壇」

 5月25日に開催された東京古田会の講演会で、大越邦生さんが「よみがえる創建観世音寺」というテーマで、いくつかの重要な仮説を発表されました。その中でわたしが最も注目したのが、観世音寺の五重塔にはⅠ期とⅡ期の二つがあり、発掘調査で発見された礎石はⅠ期の上に再建されたⅡ期のものであり、Ⅰ期は更に大きな規模であったとされました。
 これは基壇の一辺が15mもあるのに、建物は一辺6mであり、両者のバランスがとれていないという構造上の問題点を根拠とした仮説で、考古学的出土事実に基づいた合理的な推定と思われました。他方、観世音寺の五重塔が再建されたとする史料はなく、発掘調査からも礎石などに再建の痕跡は発見されていません。すなわち、大越さんが提起された仮説を積極的に実証できる史料や出土遺構が見あたらないという問題がありました。
 ところがこの問題を解決できるかもしれない発見を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で発表されました。山田さんは、有名な「観世音寺古図」に描かれた五重塔を拡大して見ると、塔の基壇が「二重基壇」として描かれていると指摘されたのです。
 わたしもこの「観世音寺古図」を幾度となく凝視し、論文でも取り上げた経験があるのですが、この塔の「二重基壇」には気づきませんでした。正確に言えば、気づいていてもその持つ意味を理解していなかったのです。ところが、基壇と建物の規模のアンバランスという大越さんの指摘を講演会で詳しく知ることになり、「二重基壇」の持つ意味に気づいたのでした。
 塔の基壇が二重であれば、下部の一辺15.0mの基壇の上に一回り小さな基壇があり、塔の建物はその上部の小さな基壇の上に建てられたことになり、面積規模のアンバランスは発生しません。従って、大越さんが指摘された疑問はこの「二重基壇」構造により説明可能となるのです。そうであれば、出土事実や文献との整合性も問題ありません。
 そこで、近年の観世音寺研究の成果をまとめた九州歴史資料館発行の『観世音寺 考察編』を読み直してみると、なんとこの「二重基壇」の可能性について記されていました。

 「(前略)基壇外縁から建物までの距離が4.5mと想定されることから基壇一辺の長さが15.0mという数値は、一重基壇にしては大きすぎるきらいがあり、二重基壇であった可能性を指摘しておきたい。」(小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代について」1頁。『観世音寺 考察編』九州歴史資料館編。2007年)

 小田さんのこの論文は何度も読んでいたのですが、「二重基壇」の可能性に触れたこの記事の持つ意味に気づいていませんでした。ですから、大越説との出会いにより、多くの知見を得るとともに認識を深めることができたのです。大越さん、山田さんに感謝したいと思います。
 古代寺院における「二重基壇」は、現存するものでは法隆寺の五重塔・金堂に採用されています。従って、九州王朝は法隆寺や観世音寺に「二重基壇」を採用したことになるのですが、「観世音寺古図」の金堂も塔ほど明確ではありませんが、「二重基壇」として描かれているように見えます。この点、引き続き調査したいと思います。
 なお本稿の当否にかかわらず、大越説は仮説として成立(基壇と建物の規模の不対応を説明できる)しており、今後の研究の進展(新史料や考古学的新知見の発見など)によっては最有力説となる可能性も有していることを付言しておきます。


第1693話 2018/06/17

谷川清隆氏「七世紀のふたつの権力共存」

 講演報告

 本日開催した「古田史学の会」会員総会記念講演会では国立天文台の谷川清隆先生をお招きして、「七世紀のふたつの権力共存の論証に向けて」というテーマで御講演いただきました。
 谷川先生とのご縁は10年ほど前に遡ります。谷川先生から「七世紀の日本天文学」(国立天文台報、2008年)が送られてきたのですが、当時、毎日のように各地から原稿や論文、著書などがわたしのところへ送られてきており、その中に谷川先生からの郵便物が紛れ込んでしまい、中身を確認したのが2〜3ヶ月後になってしまいました。
 国立天文台からの郵便物でしたので、「一体何だろう」と遅ればせながら開封すると、古天文学による九州王朝説を支持する内容でした。これはすごい研究だと、急いで古田先生に電話でお知らせし、論文を転送しました。谷川先生とはそれ以来のおつき合いで、今回、ようやく「古田史学の会」の講演会にお招きすることができました。
 今回の谷川先生の講演の根幹は、『日本書紀』の7世紀における天体観測記事の内容を分析した結果、観測記録を行った「天群」の勢力と、観測しなかった「地群」の勢力が併存しているというものです。その結論として、「天群」とは倭国(九州王朝)であり、「地群」は日本国(近畿天皇家)とされました。『日本書紀』の記述を最新の天文学により検証され、7世紀には二つの権力が存在したとする谷川先生の講演は論理的であり、すばらしい内容でした。
 講演会後も夜遅くまで懇親会におつき合いいただき、親睦を深めました。また御講演の機会を持ちたいと願っています。


第1692話 2018/06/16

「千字文」熟語の記・紀・三国志検索

 本日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。7〜10月もi-siteなんば会場です。翌日の「古田史学の会」会員総会出席も兼ねて、常連参加の冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の他にも「古田史学の会・四国」の合田洋一事務局長(全国世話人)、「古田史学の会・東海」の竹内強会長(全国世話人)も見えられました。
 今回の関西例会では様々なジャンルの研究が発表され、いずれも面白いものでした。参加者の評価は分かれましたが、わたしが特に興味深かったのが神戸市の田原さんの「『千字文』熟語と記・紀・三国志について」でした。デジタルデータベースを利用して、『千字文』の二文字熟語の、記紀や三国志での使用比率や各巻の傾向分布を調べるという、かなり労力が必要な基礎データ作成の報告です。その結果は、『古事記』での「熟語」使用比率が『三国志』『日本書紀』に比べてかなり低いこと、『日本書紀』各巻の傾向として孝徳紀の使用比率が高く、斉明紀・天智紀・天武紀が低いという傾向でした。
 このことが何を意味するのか、どのような仮説の根拠に使用できるのかという点をわたしは注目しました。他方、『千字文』の熟語は同じ字を一回しか使用しないという制約から一般的でないものが多いので、そうした熟語による検索データは信頼性が落ちるという批判が西村秀己さん(全国世話人、会計)から出されました。そうした限界はあるものの相対的な傾向分析には有効とわたしは思うのですが、この点、意見が分かれました。
 たとえば『古事記』は熟語使用比率が低いという傾向は、編纂にあたり稗田阿禮が誦習(しょうしゅう)したことの反映とも考えることができるのではないでしょうか。すなわち、稗田阿禮が倭語で誦習した場合、それを口述筆記した部分は中国語による熟語が少なくなると思われるからです。たとえば「しかく」という熟語を口述した場合、「四角」「資格」「視覚」「死角」「刺客」など何種類もの意味から適切なものを選ばなければなりませんから、熟語は口述筆記には不向きなのです。そのため自ずと倭語による誦習と口述筆記にならざるをえず、その結果として『古事記』の熟語使用率が『日本書紀』よりもかなり低いものになったとする仮説が成立するように思われます。
 いずれにしても、こうした多大な労力を必要とする基礎研究がデジタルデータ処理を駆使して発表される時代を迎えたことは、古代史研究における新たな史料批判の時代の本格的幕開けを古田学派も迎えたということです。この分野での更なる発展が期待されます。
 6月例会の発表は次の通りでした。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①「邪馬台国と火の国(1〜3)」の紹介(茨木市・満田正賢)
②周髀による距離測定について(茨木市・満田正賢)
③古墳の分布状況より(大山崎町・大原重雄)
④森博達説の検証-谷川清隆氏の講演をひかえて-(八尾市・服部静尚)
⑤「俾弥呼と『倭国大乱』の真相」(川西市・正木裕)
⑥「千字文」熟語と記・紀・三国志について(神戸市・田原康男)
⑦九州年号が消された理由
 聖徳太子の伝記の中の九州年号(その2)(京都市・岡下英夫)
⑧「誦習」の理解について(東大阪市・萩野秀公)
⑨伊予(越智国)における「斉明」「紫宸殿」「天皇」地名の意味するもの(松山市・合田洋一)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 6/17「古田史学の会」会員総会と記念講演会(講師:東京天文台の谷川清隆氏)・新会員の報告・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、10/13久留米大学)の案内、5/25プレ記念セッション(森ノ宮)の報告・7/03奈良中央図書館で「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん「よみがえる日本の神話と伝承 天孫降臨の真実」)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」発表者募集・7/07史跡巡りハイキング(整備なった唐古鍵遺跡と鏡作神社)・合田洋一さん新著『葬られた驚愕の古代史』紹介・7/27「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、7〜10月はi-siteなんば、11月は福島区民センター・その他


第1691話 2018/06/14

熊野古道の「九十九王子」

 一昨日訪れた海南駅の駅前広場に海南市観光案内の大きな看板があり、一瞥して、やたらと「○○王子」という表記が多いことに気づきました。「熊野古道」沿いに分布しているようですが、次のような「○○王子」がありました。

 「松坂王子」「松代王子」「菩提房王子」「祓戸王子」「藤白王子」「藤代塔下王子」「所坂王子」「一壷王子」

 これらたくさんの王子は近畿天皇家や九州王朝の王子名でもなさそうで、いったい何者だろうかと不思議に思いスマホでネット検索したところ、中世における熊野詣での「休憩場所」が「○○王子」と称され(「○○」は地名のようです)、それらを併せて「九十九王子」と呼ばれているとのこと。その淵源や実体については諸説あるようです。それほど著名な「王子」が熊野詣でをしたことが背景であれば、その「王子」の個人名や伝承が伝わっていてもよさそうに思うのですが、それもはっきりしていないようです。それにしても不思議な現象です。
 九州王朝でも高良大社の御祭神高良玉垂命の九人の子供が「九躰の皇子」として神社に祀られていますが、こちらはそれぞれに「個人(神)名」(注①)があり、「王子」ではなく多くは「皇子」と表記されます。まさに九州王朝の天子(天皇)の子供にふさわしい表記です。ところが海南市などの「九十九王子」は「王子」表記で、「個人(神)名」も不明です。
 似たような例に、愛媛県の西条市などに散見される「○○天皇」地名があります(合田洋一さんのご教示による。注②)。こちらも「○○」部分は個人名とは思われませんし、九州王朝にも近畿天皇家にもそうした天皇名は無いようです。当地を著名な某天皇が行幸か滞在したことを反映した表記かもしれませんが、今のところよくわかりません。
 また、熊本県を中心に多数分布する「天子宮」もその「天子」は九州王朝の天子ではないかと推定はしていますが、具体的に誰のことかは未詳です。
 いずれの例も多元史観による解明が待たれています。これからも調査研究したいと思います。

(注)
①筑後の「九躰の皇子」の神名は次の通り。
「斯礼賀志命」「朝日豊盛命」「暮日豊盛命」「渕志命」「渓上命」「那男美命」「坂本命」「安志奇命」「安楽應寶秘命」
②「長沢天皇」ほか。同地域には字地名「紫宸殿」「天皇」もあり、合田さんは7世紀後半に九州王朝の都がこの地に置かれた痕跡とされています。


第1690話 2018/06/13

『古田史学会報』146号のご案内

 『古田史学会報』146号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号冒頭には松山市の合田洋一さん(古田史学の会・四国事務局長、全国世話人)から寄せられた竹田覚さんの訃報が掲載されました。竹田さんは「古田史学の会・四国」の会長や全国世話人を務められた功労者で、4月9日に93歳で亡くなられました。古田先生と同い年だったとのことです。

 先日も「古田史学の会」創立時からの古参会員で関西例会の功労者でもある藤岡実さんの訃報が入り、心が痛みます。亡くなられた諸先輩のご遺志を継いで、残されたわたしたちは古田史学発展のため一層の努力を傾けたいと思います。
今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』146号の内容
○訃報 竹田覚氏ご逝去 松山市 合田洋一
○九州王朝の都市計画 -前期難波宮と難波大道- 京都市 古賀達也
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2) 川西市 正木裕
○実在した土佐の九州年号
小村神社の鎮座は「勝照二年」 高知市 別役政光
○書評『発見された倭京 太宰府都城と官道』 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学 十五
俾弥呼・壹與と倭の五王を繋ぐもの 古田史学の会事務局長 正木 裕
○コンピラさんと豊玉姫 高松市 西村秀己
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学論集『古代に真実を求めて』第22集原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1689話 2018/06/12

「長柄の国分寺」の寺伝

 「洛中洛外日記」に連載中のテーマ『九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔』の執筆に当たり、摂津の国分寺として現存している「真言宗国分寺派 大本山 国分寺(摂津之国 国分寺)」のホームページを拝見しました。同寺は大阪市北区国分寺にあり、その地は「長柄」と呼ばれていたことから「長柄の国分寺」とも称されています。ホームページには同寺の歴史として次のように説明されています。

【以下、転載】
寺伝によると、大化元年(645年)末に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営するも、崩御の後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮へ遷都される。その後、入唐大阿闍梨道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。そして、仏教に深く帰依した聖武天皇により天平十三年(741年)一国一寺の「国分寺建立の詔」を公布されると、既存の「長柄寺」を摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定める。世俗「長柄の国分寺」と称され、今日まで歴代天皇十四帝の勅願道場として由緒ある法灯を伝燈してきた。古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。

 しかし、長い歴史の中幾度も戦火に晒され、中でも豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣、元和元年(1615年)には全焼、その後約百年余り荒廃の極みであった。

 そして江戸時代、享保三年(1718年)に中興の祖律師快圓により再建され文献に登場する。

『摂津名所圖會』巻三 秋里籬島
寛政10年(1798)
國分寺
○國分寺村にあり。正國山金剛院と號す。眞言律宗。
○本尊阿彌陀佛 聖徳太子御作。坐像三尺五寸計り。
○赤不動尊 弘法大師作。初めは高野山に安置しけるなり。
○敷石地藏尊 初め玉造鍵屋坂にありしなり。

 當寺は國毎の國分寺の其一箇寺にして、本願は聖武帝、開基は行基僧正なり。荒蕪の後、快圓比丘中興して律院となる。國分寺料むかしは一萬五千束、其外施料の事〔延喜式〕あるいは〔文徳實録〕にも見えたり。又東生郡にも國分寺あり。何れ一箇寺は國分尼寺の跡ならん。後考あるべし。
【以下略。転載おわり】

 ここで記された「寺伝」の史料根拠は示されていませんので、正確な判断は困難ですが、少なくとも同寺としては自らの出自を次のように理解しているようです。

①道昭、勅を奉じて先帝(孝徳)の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。従って創建は7世紀後半。
②創建の地を「難波長柄豊碕宮の旧址」とすることから、その地に孝徳の「難波長柄豊碕宮」があったとしている。従って前期難波宮跡は「難波長柄豊碕宮」ではないとされている。この立場は近隣にある豊崎神社社殿と同じ。
③聖武天皇による「国分寺建立」詔により、「長柄寺」が摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定められた。
④世俗では「長柄の国分寺」と称された。
⑤大坂夏の陣、元和元年(1615)で全焼し、その後約百年余り荒廃した。
⑥古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。
⑦江戸時代、享保三年(1718)に中興の祖律師快圓により再建され、文献に登場するようになった。
⑧その文献として『摂津名所圖會』などがある。

 これらの中で注目されるのが、①の道昭による創建とする伝承です。『続日本紀』「道昭卒伝」によれば、道昭が唐から帰国したのは660年ですから、「長柄寺」の建立はそれ以後となります。従って、九州王朝による「国府寺」とするには遅すぎます。

 ④の、世俗では「長柄の国分寺」と称された、という記事も貴重です。摂津には「長柄」以外にも国分寺があったという歴史的背景を前提とした「俗称」だからです。この点、同寺ホームページに紹介されている『摂津名所圖會』には、摂津には二つの国分寺があり、そのどちらかが国分寺でありもう一つが国分尼寺ではないかとし、「後考あるべし」と後の研究に委ねるとしています。
この「長柄の国分寺」の寺伝が確かであれば、多元的「国分寺」研究にとって重要な進展をもたらすかもしれません。引き続き、調査したいと思います。


第1688話 2018/06/11

九州王朝の「分国」と

   「国府寺」建立詔(5)

 『聖徳太子伝記』や『日本書紀』推古2年条などの史料の他に、わたしが注目しているのが摂津と大和の「二つの国分寺」という現象です。実は九州王朝による多元的「国分寺(国府寺)」説を支持する次の三つの論点があり、その一つが摂津と大和の「二つの国分寺」です。

〔多元的「国分寺」研究の三論点〕

(1)諸国の国分寺遺跡から出土する瓦に7世紀前半頃に遡るものが散見され、聖武天皇による国分寺よりも古い。また、武蔵国分寺遺跡のように、方位が異なる遺構が併存しており(肥沼孝治さんの指摘)、それぞれが異なる時代に建立された痕跡を示すものもある。更には伽藍配置の分類・比較という視点でも肥沼孝治さん山田春廣さんらにより研究が進められている。

(2)『聖徳太子伝記』などの九州王朝系史料に基づいたと思われる史料に、「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」と、多利思北孤の時代に「国分寺(国府寺)」が建立された記事がある。謡曲などに見える六十六ヶ国分国記事に関する研究も正木裕さんにより進められている。

(3)摂津と大和には二つの国分寺あるいは国分寺遺構が異なる場所にあり、それらは九州王朝と大和朝廷によるものと思われる。特に大和国分寺を称する寺院は橿原市に現存しており、これは聖武天皇の王宮(平城京)から離れているが、7世紀前半頃であれば飛鳥に近畿天皇家の宮殿があり、橿原市の国分寺はその近傍であり7世紀前半頃の「国府寺」として妥当な位置である。
摂津の国分寺跡とされる上町台地(天王寺区国分町)の遺構からは7世紀前半頃の軒丸瓦が出土していることも、これが九州王朝による「国府寺」であり、大阪市北区に現存する国分寺(真言宗)は聖武天皇による8世紀の国分寺と思われる。

 今のところ、上記の三論点を根拠として多元的「国分寺」研究は進められています。(1)と(2)は考古学的出土事実や九州王朝系史料事実に基づく主に実証的論点ですが、(3)は一国に二つの国分寺存在の痕跡に基づく論理的考察、すなわち論証による展開に大きくよっています。そこで、この「二つの国分寺の痕跡」というテーマについて詳しく説明します。(つづく)


第1687話 2018/06/08

『大戴礼記』の「二倍年齢」

 先日、岡崎の京都府立図書館で『論衡』を閲覧したとき、『大戴礼記』(明治書院、新釈漢文大系)も斜め読みしました。というのも、『論衡』は後漢の王充の著作であり後漢代の知識人の認識を調べる上で参考になりましたが、前漢代の知識人の認識についても調べようと思い、『大戴礼記』も閲覧したものです。なお、『大戴礼記』は「だたいらいき」と訓まれています。
 『大戴礼記』は前漢の人、戴徳(生没年未詳)が撰したもので、周末、秦・漢の礼の制度や礼家の説を集めたものと同書解題には紹介されています。もと八十篇あったが、現在は四十篇が残されています。同書でわたしが注目したのが、古今の人の人生について述べた次の記事でした。

 「中古は男は三十にして娶(めと)り、女は二十にして嫁ぎ五に合するなり。中節なり。太古は男は五十にして室あり。女は三十にして嫁ぐ。」(「本命 第八十」『大戴礼記』514頁)

 前漢代ですから一倍年暦による「一倍年齢」が使用されていたことは『大戴礼記』の他の文章からも明らかですが、ここでいう「中古」と「太古」における男女の結婚年齢は注目されます。「中古」の男30歳、女20歳という結婚年齢は「一倍年齢」としては男の30歳が遅すぎるように思われますが、かといって「二倍年齢」とすれば女の20歳は「一倍年齢」では10歳となり、逆に若すぎます。
 ところが、「太古」の男50歳、女30歳の結婚年齢は「二倍年齢」表記とすれば、「一倍年齢」の男25歳、女15歳となり、とてもリーズナブルです。従って、『大戴礼記』にいう「太古」とは二倍年暦による「二倍年齢」が採用されていた時代であり、その痕跡がこの記事に残ったものと思われます。従って、この記事の文脈からは『大戴礼記』を篇した戴徳は二倍年暦や「二倍年齢」についての認識がなかったものと思われます。この推定によれば、前漢代の知識人には二倍年暦についての認識が既に失われていたことになりますから、二倍年暦から一倍年暦に変わったのは前漢代よりもかなり昔のことではないでしょうか。漢王朝成立により、その変化が発生したのであれば前漢代の知識人、戴徳がそのことを知らなかったとは考えにくいからです。
 そうすると、次に調べるべきは周代と前漢代の間に成立した中国古典となります。機会があればまた京都府立図書館にこもって、「新釈漢文大系」を渉猟(斜め読み)したいと思います。


第1686話 2018/06/06

『論衡』の「二倍年齢」(5)

 今回初めて『論衡』全文に触れて感じたのが、その行間から強烈な個性がにじみ出ていることでした。おそらく王充自身も強烈な個性の持ち主であったことを疑えません。たとえば孔子や儒家への容赦のない批判、しかも理屈っぽいと思うほど理詰めの論理展開。後漢代という古代中国にこれほど論理的に理詰めで物事を説明しようとする人は珍しいように思います。ある意味ではとても魅力的な人物です。
 他方、周代史料などに記された人の寿命「百歳」を王充は額面通り受けとり、「人は百歳(正命)まで生きる」と繰り返し主張するものの、後漢代の一般的な寿命「五十歳(随命)」との落差についての説明は論理的とは言えません。もちろんこの「論理的とは言えません」という批評は、現代日本のわたしの感想ですから、古代中国では別の感覚で受け止められていたことと思います。
 それでは、周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と認識していた王充その人は、何歳まで生きたのでしょうか。『論衡』末尾にある「自紀第八十五」に王充の略歴が王充自身により記されています。

 「建武三年、充生る。」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1806頁)

 とありますから、王充が生まれたのは建武三年(27)です。没年は『論衡』には記されていませんが、『後漢書』王充伝には永元年間(89〜104)に没したとありますから、没年齢は単純計算で63歳から78歳の間となります。還暦を超えており、当時としてはかなり長生きしたことになります。更に『論衡』「自紀第八十五」には次の記事が見え、これが誤記誤伝でなければ、70歳は越えていたことになります。

 「章和二年(88)、州を罷(や)め、家居す。年漸く七十」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1839頁)

 ようやく70歳になったと記されていますが、章和二年(88)では62歳ですから、文脈からすると不自然です。
 この最晩年の自らを綴った文章は更に続きます。難解な漢文ですので、わかりやすい〔通釈〕を引用します。
 「頭髪は白く歯は抜け、月日はどんどんゆき、仲間もいよいよいなくなり、頼みになる者も少なくなった。貧乏で食べてゆけなくなり、愉快な気持ちにもなれない。こよみの数もだんだん進み、庚寅の年(和帝永元二年、西紀九〇)と辛卯の年(永元三年、西紀九一)の界になった。死ぬのはこわいが、わが身はまだ元気にあふれている。そこで『養性の書』十六篇を書いた。気力を養って自分の身体を大切にし、食事を適量にし酒をほどほどにし、眼をつぶり耳をふさいで外界との接触を絶ち、精力を惜しんで気持ちを安定させ、ただ薬を飲んだり、導引法を補助としたりして、生命を延ばせるように、しばらくでも老いないようにと切望している。だがもう手後れで引き返しもならず、書物の中にそのことを書き、後世の者に示すことにした。ただ人の生命だけは、長短の差はあるにしても一定の期間があるし、人間も動物だから、生死に一定の時間がある。年暦が尽きてしまえば、だれがこれを引き留められようか。やはりあの世へいって、消えて土灰となろう。」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、〔通釈〕1840〜1841頁)

 「七十歳」記事の後に「庚寅の年(和帝永元二年、西紀九〇)と辛卯の年(永元三年、西紀九一)の界になった」という記事が続きます。この年、王充は64〜65歳に相当することから、先の「七十歳」記事はやはり不自然で、誤記誤伝の可能性がうかがわれます。こうした記事から判断すると、王充の没年齢は60歳代後半と見てよいようです。
 この最晩年の王充の記事には、自らの寿命が100歳(正命)に至りそうにないことへの王充らしい「解説」が記されています。その場合、自らの「性」が「正」ではないことになりますが、そのことには触れず、「人の生命だけは、長短の差はあるにしても一定の期間があるし、人間も動物だから、生死に一定の時間がある。年暦が尽きてしまえば、だれがこれを引き留められようか」と述べるにとどまっています。人の寿命として「百歳(正命)」を一貫して主張した王充でしたが、その寿命(65〜70歳)は、周代史料に見える「百歳」が「二倍年齢」によることを結果として証明したようです。これからも王充の思想に迫るために『論衡』を再読三読したいと思います。
 『論衡』の最後を締めくくった王充の次の言葉を紹介し、本テーマを一旦終わります。

 「命以不延、吁嘆悲哉。」〔命以(すで)に延びず、吁嘆(ああ)悲しいか哉(かな)〕(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1840頁)


第1685話 2018/06/05

『論衡』の「二倍年齢」(4)

 周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と王充が誤認していたことを説明しましたが、それでは後漢時代の他の人々は周代史料などに見える「二倍年齢」表記の「百歳」をどのように認識していたのでしょうか。そのことをうかがわせる記事も『論衡』にありましたので、紹介します。

 「語に称す、『上世の人は、(イ同)長佼好にして、堅強老寿、百歳左右なるも、下世の人は、短小陋醜にして、夭折早死す。何となれば則ち、上世は和気純渥にして、婚姻時を以てし、人民は善気を稟(う)けて生れ、生れて又傷(そこな)はれず、骨節堅定、故に長大老寿にして、状貌美好なり。下世は此に反す、故に短小夭折し、形面醜悪なり』と。此の言は妄なり。」(「斉世第五十六」『論衡』中巻、1207頁)

 世間の人が「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」などというのは妄言であると王充が批判した記事です。この後、王充は延々と反論を述べ、後世の人の身長が低いということには根拠がなく、また百歳まで生きると主張しています。その反論には論理的な面もありますが、「百歳」まで生きることの理由については説得力ある反論になっていません。
 この記事でわたしが注目したのは「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」という当時の人々の認識です。既に説明したように、当時の人の一般的な寿命は五十歳(随命)と推定されますから、周代史料などに記された「二倍年齢」の「百歳」表記を一倍年齢で理解してしまうと、大昔の人よりも後世(後漢時代)の人の方が「夭折早死」となってしまうわけです。
 更に身長も低くなっていると認識されていることも、殷代や周代と後漢代の「尺」単位が変化していることによると思われます。殷の牙尺は一尺約16cm、周代の1尺は約18.4cm、後漢・前漢代は約23cmでとされていることから(異説あり)、たとえば身長160cmの表記は殷代では約「十尺」、周代では約「九尺」、前漢代・後漢代では約「七尺」と表記されますから、「尺」単位の歴史的変遷を知らなければ、大昔(殷代・周代)の人よりも今(後漢代)の人の方が「短小」と誤解されてしまうわけです。
 以上のことから、後漢代の人々(知識人)には「二倍年暦」やそれに基づく「二倍年齢」、そして「尺」単位の変化が忘れ去られていたことがうかがえます。周代史料の多くが漢代に集録・編纂されていることを考えると、この誤解と、その結果引き起こされる周代史料への誤解釈や改変が発生しうることに留意した史料批判が必要です。(つづく)