第1502話 2017/09/17

「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理

 昨日の「古田史学の会」関西例会で、田原さんと大下さんから発表された宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について考察しました。「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌鉄剣を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないでしょうか。
 この「龍」銀象眼鉄刀を知り、真っ先に思い浮かべたのが同じ九州から出土した江田船山古墳(熊本県和水町。5世紀末〜6世紀初頭)出土の「馬」「水鳥」「魚」「菊花文」が銀象嵌さたれ鉄刀(国宝)でした。おそらくは被葬者は九州王朝の有力武人と思われますが、金象嵌ではなく銀象嵌であることなどから九州王朝の倭王ではなく、その配下の肥後の有力豪族と推測したものです。
 ところがえびの市の島内114号地下式横穴墓出土の鉄刀は同じ銀象嵌ですが、天子のシンボルである「龍」が象嵌されていることから、位取り的には江田船山古墳の被葬者よりも「上位」と考えざるを得ません。他方、その墓制を比較すると、江田船山古墳は墳丘長62mの前方後円墳で、墳丘を持たない島内114号地下式横穴墓とは様相が全く異なります。すなわち、南九州特有の墓制である地下式横穴墓には墳丘により被葬者の権威を誇るという思想性は見られず、むしろ盗掘を恐れて目立たないように埋葬したのではないかとさえ思われるのです。
 この現象は墓制に関する思想性の差かもしれませんが、古代における権力者間の衝突という側面もあったのではないかと考えています。おそらく、北から前方後円墳のような大型古墳の築造勢力(九州王朝か)が南下し、その侵攻と支配に備えて、盗掘から逃れるために地下式横穴墓が採用されたのではないでしょうか。それでは侵攻を受けた南九州の勢力とは何だったのでしょうか。通説では「熊襲」「隼人」と呼ばれた勢力ですが、その実体についての解明は不十分なようです。(つづく)


第1501話 2017/09/16

南九州と北九州の古代

 本日の「古田史学の会」関西例会は8月に続いてI-siteナンバで開催されました。10月・11月・12月はドーンセンターになりますので、お間違えなきよう。
 今回は偶然ですが、南九州をテーマとした発表と北九州をテーマとした発表がそれぞれ二件ありました。関西例会デビューとなった田原さんからは南九州古代史旅行の報告があり、宮崎県の地下式横穴墓などについて詳細な報告がなされました。中でも島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した龍を銀象眼した大刀には驚きました。龍は天子のシンボルであり、その龍の銀象眼鉄剣を持つ被葬者は何者なのか興味を覚えました。ただ残念なことに当地の考古学者の解説は、大刀や鏡などの豪華な副葬品を「ヤマト朝廷からの配布物」「朝鮮半島製」などと徹底的な一元史観でなされていることです。多元史観による研究解明が待たれます。
 同じく南九州の遺跡について、大下さんから研究報告がなされ、弥生時代から飛鳥時代に至る同地域の遺跡や遺物の変遷を知ることができました。大下さんは久しぶりの例会発表でした。南九州の研究は「古田史学の会」では珍しいこともあり、『古田史学会報』への投稿をお願いしました。
 続いて服部さんと正木さんからは、これも偶然ですが、大野城築造年代についての研究報告がなされました。服部さんからは大野城出土軒丸瓦(素弁蓮華文)を根拠に大野城造営年代を7世紀初頭まで遡る可能性について論究され、この軒丸瓦編年についての井上信正さん(太宰府市教育委員会)とのメールによる意見交換についても報告されました。正木さんは大野城出土木柱の理化学的年代測定等を根拠に、大野城造営年代を650年頃とする研究を報告されました。いずれも、有力な説と思われました。
 9月例会の発表は次の通りでした。初参加の方もあり、盛況でした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔9月度関西例会の内容〕
①隋書国伝に関する仮説の検証(茨木市・満田正賢)
②南九州地下式横穴墓群の見学旅行を終えて(神戸市・田原康男)
③古代の南九州-熊襲と隼人-(豊中市・大下隆司)
④百済の瓦と大宰府(大野城)の瓦(八尾市・服部静尚)
⑤大野城の築城年代-赤司善彦「大宰府と古代山城の誕生」を読んで-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念大阪講演会(9/09)の報告。続いて福岡(10/08)、東京(10/15)、松本(11/14)で開催・新入会員情報・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(9/29「南の島々の古代史《大和朝廷以前》」正木裕さん)・会費納入状況・「古田史学の会」関西例会の会場、10月・11月・12月(ドーンセンター)の連絡・友好団体(東京)での研究状況・青木さん(会員)から中国の大学の博士論文記念書籍贈呈される・その他


第1500話 2017/09/15

大型前方後円墳と多元史観の論理(5)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《一の矢》「日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。」に対する多元史観・九州王朝説での反証をなすべく、前方後円墳について集中的に勉強しています。中でも青木敬著『古墳築造の研究 -墳丘からみた古墳の地域性-』(六一書房、2003年)は特に勉強になった一冊で、今も熟読を重ねているところです。優れた考古学者による論文は、たとえ一元史観に基づいていても基礎データが明示されていますので、理系論文を読んでいるような錯覚にとらわれるときがあります。この青木さんの論文もそうした考古学者による優れた研究で、とても勉強になります。
 同書などを読んでいて、九州地方最大の前方後円墳である宮崎県西都市の女狭穂塚古墳についていくつかの重要な視点が得られました。その内の二つを紹介します。
 一つは、隣接する男狭穂塚古墳との関係です。両古墳は同時期(5世紀前半中頃)に計画性を持って隣接する位置に築造されたとする説明もあるようですが、男狭穂塚古墳の方が古いとする説や逆に女狭穂塚古墳が先とする説などもあるようです。わたしの見るところでは、男狭穂塚古墳の前方部の外周部分を破壊し、重ねるように女狭穂塚古墳の後円部外周が築造されていますから、単純に考えると男狭穂塚古墳の方が先に築造されたと理解すべきと思われます。
 この理解が正しければ、両古墳の築造主体は異なる時期の異なる権力者と考えるべきではないでしょうか。すなわち、女狭穂塚古墳の築造者は男狭穂塚古墳の外周を破壊していることから、男狭穂塚古墳の被葬者に敬意を払っていないと考えざるをえないからです。すなわち、西都原古墳群を築造した当地の権力者には男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の間で断絶が発生していた可能性があるのです。
 これが一つ目の視点です。『日本書紀』や現地伝承にそうした権力者の断絶・交代の痕跡があるのか、考古学的実証から文献史学での論証へと展開するテーマが惹起されるのです。
 二つ目は近畿の前方後円墳との関係性です。九州地方の前方後円墳には珍しい「造り出し」と呼ばれている前方部と後円部の間のくびれ部分にある方形の突起台地が女狭穂塚古墳にはその左側にあるのです。この「造り出し」は近畿の前方後円墳で発生し、発展したと理解されており、その「造り出し」を持つことを根拠に、女狭穂塚古墳は近畿型前方後円墳と説明されています。この考古学的事実は大和朝廷一元史観を実証する現象の一つとして、古墳時代には大和朝廷が全国支配を進めたとする有力な根拠(実証)とされています。
 この女狭穂塚古墳が近畿の前方後円墳の影響を受けているという考古学的事実(実証)を多元史観・九州王朝説からどのように説明(論証)するのかが問われているのです。(つづく)


第1499話 2017/09/11

ゲルマン語に二倍年暦の痕跡発見

 山口県周南市の大竹義則さんからメールをいただきました。大竹さんは1980年頃からの古田先生の著作の愛読者で、わたしの「洛中洛外日記」も読んでおられるとのこと。メールにはゲルマン語系言語の中に二倍年暦らしき記述のあることが紹介されていました。これまで、アイヌ民族以外の北方系民族に二倍年暦が使用されていたとの史料を知りませんでしたので驚きました。
 紹介していただいた史料は浜崎長寿著『ゲルマン語の話』(大学書林、1976年。233頁)で、ドイツ語を中心としたゲルマン語系言語の文字や音韻、語彙、文法上の特性などを記述した小冊子とのこと。その中の「Ⅵ章・意味の実態、その2・四季」に、「ゲルマン人にとって、1年は元来、夏と冬を二大軸として構成された」とあり、また、古代ゲルマンの英雄詩『ヒルデブラントの歌“Hildebrandslied”』の中に「夏と冬あわせて60」とあり、これが現在の30年に相当すると記されています。大竹さんによると「このほかには二倍年暦に関連する記述はありません」とのことです。
 更に大竹さんから次のようなメールも届きました。
 「(前略)これまでの古田さんや古賀さんの記述、そして気候的に雨季乾季の明瞭な熱帯〜亜熱帯に広がるサバナ気候帯(1年を2期に分けやすい)が頭にあったからです。
 ゲルマン人の認識では、四季ではなく冬夏の2分が明瞭であるとのことですが、このことで思い出すのは、ある気候学者(名前は忘れました)の随筆に、『カナダのような高緯度地方では、夏冬の感覚は、気温の高低よりも、昼の長い明るい季節と夜の長い暗い季節としてとらえている』いうような記述があったことです。この感覚が冬夏2期の区分につながるのかなと思いました。」

 古田先生も二倍年暦の淵源を、たとえば「春耕秋収」のような農耕に由来するケース、熱帯地域の雨期・乾期に由来するケース、海洋地域の西風・東風で季節を二分するケースなどを想定されていました。今回の大竹さんの調査によれば、高緯度地域の夏と冬における昼間の長さの大きな変動により、一年を二分するというケースが新たに付け加わったことになります。
 わたしが「二倍年暦の世界」「続・二倍年暦の世界」(『新・古代学』7集、8集、新泉社。2004年、2005年)を発表したときは、主に日本語訳の書籍が入手しやすい中国・インドそしてローマやギリシアなどの古典調査に重点を置きましたが、今回のように北方系民族にも二倍年暦の痕跡があるのですから、古代ゲルマン神話やアイスランドエッダなどの北欧伝承を調査する必要を感じました。登場人物の年齢表記などに二倍年暦が発見できるかもしれません。
 貴重な情報を提供していただいた大竹さんに感謝いたします。「洛中洛外日記」読者からこうしたメールをいただけることは、研究者としてとてもありがたいことです。


第1498話 2017/09/09

大型前方後円墳と多元史観の論理(4)

 宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳であり、九州王朝の倭王磐井の岩戸山古墳よりも大きくても、一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしい大和朝廷の巨大前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能としましたが、これこそ「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 この《一の矢》に対して、近畿の大型前方後円墳は近畿天皇家の墳墓ではないとする仮説で挑戦を試みられているのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)ですが、それとは異なった仮説で挑まれた著作がありました。吉田舜著『九州王朝一元論』(葦書房刊、1993年)です。その概要と論理的根幹は次のようなものでした。

①古代日本列島の代表王朝は九州王朝である。
②九州王朝は代表王朝としてふさわしい規模の墳墓を築造したはずである。
③日本列島中最大の巨大前方後円墳を擁するのは近畿(河内や大和など)の前方後円墳群である。
④従って、近畿(河内や大和など)の前方後円墳群は九州王朝の歴代国王の墳墓である。

 このような「骨太」な論理展開により、近畿の巨大前方後円墳は九州王朝の墳墓とする仮説を提起されたのです。御著書を吉田さんからいただいたときは、この問題の重要性にわたしはまだ気づいていませんでした。その後、一元史観支持の研究者との論議において、《一の矢》への九州王朝説からの回答の一つとして吉田さんの仮説を研究史の中で位置づける必要に気づきました。
 わたしは今でもこの吉田仮説に賛成はできませんが、《一の矢》への問題意識を早くから持っておられたことは、研究者として敬意を表したいと思います。なお、わたしが吉田仮説に賛成できない理由は次のようなことです。

(1)九州王朝が遠く離れた近畿に墳墓を築造しなければならなかった理由が不明。
(2)5世紀の古墳時代は各地に王権(九州王朝・出雲王朝・関東王朝・東北王朝など)が併存していた時代であり、日本列島を代表する九州王朝(倭国)とは別の王権が近畿にあった可能性を否定できず、その地の巨大古墳はその地の王権の墳墓とする、多元史観の基本的な考え方と相容れない。
(3)5世紀末頃から6世紀初頭の九州王朝・倭王の墳墓として岩戸山古墳などが八女丘陵から三潴地方に点在しており、近畿の巨大古墳群との「連続性」がうかがわれない。

 大型前方後円墳(考古学的事実・実証)について多元史観による論理(合理的な説明)を構築(論証)することが古田学派にとって重要な課題であることを改めて訴えたいと思います。(つづく)


第1497話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(3)

 東北地方最大の前方後円墳である雷神山古墳(名取市、墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)が九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半)よりも大きいことを知り、九州地方の大型前方後円墳についても調べてみました。その結果、宮崎県の西都原古墳群にある女狭穂塚古墳(西都市、墳丘長180m、5世紀前半中頃)が九州地方最大の墳丘長を持つことがわかりました。近くにある男狭穂塚古墳(西都市、墳丘長175m、5世紀前半中頃)も岩戸山古墳より巨大で、帆立貝形古墳としては日本最大とのこと。
 九州王朝説に立つわたしとしては、九州王朝(倭国)の王墓は中枢領域の筑前や筑後にあったと考えており、そうであれば倭王にふさわしい最大規模の古墳が同地にあったと考えたいのですが、考古学的事実としては宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳なのです。なぜ筑前や筑後から離れた日向国にこうした巨大古墳群があるのか、九州王朝説・多元史観からはどのように考えるべきなのかが問われることでしょう。
 なお一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしいもっと巨大な近畿天皇家の前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能です。(つづく)


第1496話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(2)

 一元史観では、近畿の巨大前方後円墳(大和朝廷)の影響が九州や東北にまで及び、各地で前方後円墳が築造されたと理解し、古墳時代には大和朝廷が唯一最大の列島の代表王朝であった証拠とします。この一元史観による多元史観・九州王朝説否定の根拠と論理に対して、果敢に挑戦されたのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による、河内などの巨大前方後円墳は近畿天皇家の祖先の墓ではないとする仮説です。
 この服部説の当否は今後の研究や論争を待ちたいと思いますが、仮にこの服部説が正しくても九州王朝説の論拠とはなりません。すなわち服部説だけでは、畿内の近畿天皇家とは別の勢力が河内などに割拠し、巨大前方後円墳を築造したというに留まるからです。従って、古墳時代には各地に王権や王朝が並立していたとする多元史観の論拠の一例とはできますが、九州王朝存在の直接的な論拠とはできないのです。
 そこで注目されるのが冨川ケイ子さんの「河内戦争」論です(『盗まれた「聖徳太子」伝承』に収録。古田史学の会編、明石書店刊)。『日本書紀』用明紀に見える「河内戦争」記事の史料批判により、摂津や河内など八国を領する王権が存在し、九州王朝との「河内戦争」により滅亡したとする仮説です。この滅ぼされた勢力を仮に「河内王権」と呼びますと、この冨川説の延長線上に、河内などに分布する巨大前方後円墳の被葬者は「河内王権」の歴代王者だったという仮説が発生します。これは「仮説の重構」ではなく、連動する「仮説の系」と言えそうです。しかも、先の服部説との整合が可能です。
 さらに言うならば、服部説と冨川説も連動した「仮説の系」と考えざるを得ないように思われます。なぜなら、服部説によれば河内などの巨大前方後円墳を築造した、近畿天皇家とは別勢力の存在が『日本書紀』の記述には見えず、その勢力がその後どのようになったのかも、冨川説以外では説明されていないからです。したがって、服部説を「是」とするのであれば、冨川説も「是」とせざるを得ないのです。その逆も同様で、冨川説を「是」とするのなら服部説も「是」となります。他に有力な仮説があれば別ですが、管見では冨川説以外に納得できる仮説を知りません。
 この連動する仮説群、すなわち「仮説の系」という概念を古代史の論証において明示されたのは他ならぬ古田先生でしたが、この「仮説の系」と「仮説の重構」とを区別せずに、両者共に否定する論者が見かけられます。もちろん「系」と「重構」のいずれであるのかは仮説ごとに判断しなければならないことは言うまでもありません。(つづく)


第1495話 2017/09/04

大型前方後円墳と多元史観の論理(1)

 初期須恵器窯跡の勉強を通じて、仙台地方に初期須恵器釜跡の大蓮寺窯跡、東北地方最大の前方後円墳である雷神山古墳(名取市、墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)や遠見塚古墳(仙台市、墳丘長110m、4世紀末〜5世紀初頭)が築造されていること知りました。このことから仙台平野や名取平野が古墳時代において、東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえるのですが、この雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半)よりも墳丘長が大きいのです。
 一元史観ではこのことをもって、近畿の巨大前方後円墳(大和朝廷)の影響がこの時期に九州や東北にまで及んでいた根拠とします。この一元史観による九州王朝説否定の論理はかなり手強く、これに対して理詰めで反論し、「他流試合」に勝つことは大変です。わたしの経験でも、一元史観を支持する理系の某教授との論争が2時間近くに及んだことがあり、巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその教授からは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。理系の人間なら客観的エビデンス(実証)を示せ」と強硬に主張され、ついに彼を説得することができませんでした。
 なお、その教授は理由もなく一元史観に固執する頑迷な人間ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ優れた研究者です。その彼を理詰めで説得するためにも、古田学派は戦後実証史学で理論武装した一元史観(戦後型皇国史観)との「他流試合」に勝てる論証を更に構築しなければならないと強く思いました。(つづく)


第1494話 2017/09/03

須恵器窯跡群の多元史観(5)

 初期須恵器窯跡の分布から判断して、東北の仙台市にある大蓮寺窯跡を蝦夷国の中枢領域への須恵器供給のためのものと推定していますが、同地域に東北地方最大の前方後円墳があることも何か関係がありそうです。
 東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡は、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と編年されていますが、それよりも半世紀ほど前に仙台市内最大の前方後円墳である遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末〜5世紀初頭)が築造されていますし、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)もあります。このことから仙台平野や名取平野が古墳時代において、東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。
 一元史観ではこのことをもって、大和朝廷の影響がこの時期に仙台地方まで及んでいた根拠としますが、古田史学・多元史観から考えると、九州王朝の影響が直接的あるいは間接的に当地に及んだということになります。とすれば、蝦夷国が初期須恵器や前方後円墳などの墓制を受容したか、九州王朝系勢力が当地にまで進出していたということになりそうです。そうしますと、蝦夷国に対して抱いていた従来の印象が大きく変化するのではないでしょうか。(つづく)


第1493話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(4)

 朝鮮半島から陶質土器がもたらされ、初期須恵器が国内各地で造られたました。その初期須恵器窯跡の分布を見て、不思議なことに気づきました。初期須恵器窯は福岡県朝倉を筆頭に大阪府の陶邑窯や吹田窯、そして名古屋の東山窯など西日本に主に分布しているのですが、東日本には関東を飛び越えて仙台の大蓮寺窯が発見されています。これは実に不思議な分布状況ではないでしょうか。
 この大蓮寺窯跡は東北地方最古の須恵器窯跡とされ、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と編年されています。今後は関東からも初期須恵器窯跡が発見されるかもしれませんが、大蓮寺窯跡は陶邑窯跡の流れとする説や朝鮮半島から直接この地にもたらされた可能性を指摘する説があります。いずれにしても、大和朝廷一元史観による従来の解釈、すなわち陶邑に伝わった須恵器製造技術が日本各地に伝播したとする一元説では説明しにくく、多元的に国内各地に初期須恵器窯が成立したとする理解が有力説として登場しているようです。
 しかし、わたしの目から見るとこの初期須恵器窯多元説でも、なぜ東北地方の仙台にいち早く伝わったのかという説明がなされておらず、大和朝廷一元史観に基づく解釈を常とする考古学界の限界を感じます。古田史学・多元史観によりこの分布状況を解釈すれば、古墳時代中期において列島各地に多元的に王朝・王権が存在しており、まず九州王朝に伝わった須恵器製造技術が各地の王権に伝播したと理解するのが穏当と思われます。そのように考えると、近畿の王権(近畿天皇家あるいは冨川ケイ子さんが提唱された「河内王朝」)へ伝わったのが陶邑窯跡群であり、蝦夷国に伝わったのが仙台市の大蓮寺窯跡ではないでしょうか。
 この考えを更に敷衍すると、その論理展開として埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘等に代表される関東王朝の地からも初期須恵器窯跡が発見されるのではないかと考えています。すなわち初期須恵器窯多元説とは多元史観(多元的王朝の成立)を前提とした考古学的理解なのです。(つづく)


第1492話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(3)

 須恵器は古墳時代中期に朝鮮半島の陶質土器がもたらされ、その製造技術や工人が渡来し初期須恵器が国内各地で造られたと考えられています。そしてその初期須恵器が最初に造られたのが福岡県の小隈窯跡とする見解があることを紹介しました。
 従来は堺市の陶邑窯跡群が国内最古とされてきましたが、さすがに朝鮮半島から瀬戸内海を通過して、その間の他地域には目もくれず一直線に畿内に向かい、陶邑窯跡群が造営されたとするのは言いにくくなったようです。しかし強固な一元史観論者からは様々な解釈(いいわけ)が試みられているようです。いわく、「中央政権(大和朝廷)と朝鮮半島諸国の太いパイプにより、直接的に陶邑に須恵器製造技術がもたらされた」というような解釈です。ものは言いようと、わたしは感じました。その一例を紹介します。

 「地理的要因とは別に、こうした生産工人集団は東をめざし、大阪湾に直進している。そして生産を開始した。この事実は、北部九州のあり方とは基本的に異なる。瀬戸内海の東端を目的地として目指したのであり、不目的な漂流の結果ではない。恐らく、中央政権ないしは関連する中央豪族と深く関係していたことは、先学の説くところであり、そのあり方は、陶邑窯における後の展開に大きく現れてくる。」(226頁)
 「窯成立のルートとして、北部九州→三谷三郎池西岸窯→吹田32号窯→陶邑窯・一須賀2号窯と藤原氏は描くが、筆者は前述したように、第1に朝鮮半島→陶邑窯の太いルートを前提として考えたい。その過程で三谷三郎池西岸窯・吹田32号窯・一須賀2号窯への同時到着、あるいは折り返しを想定する。もちろん漂着等による偶発的な開窯も否定できないが、各港々にそうした偶然は不自然である。」(227頁)
 植野浩三「日本における初期須恵器生産の開始と展開」『奈良大学紀要』第21号(1993年)

 こうした植野さんの理解は、わたしたち多元史観・九州王朝説論者からは強引な解釈と見えますが、現在の古代史学界の通説“大和朝廷一元史観”に従えばこのように解釈せざるを得ず、考古学者の植野さん一人を責めるのは酷のようにも思えます。大和朝廷一元史観という日本古代史学界の「岩盤規制」を打ち破ることは、古田学派にしか成し遂げられない歴史的使命だとわたしは考えています。(つづく)


第1491話 2017/09/01

須恵器窯跡群の多元史観(2)

 一元史観によれば畿内の陶邑窯跡群(堺市・他)から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようですが、須恵器の勉強を続けていると面白い事実を発見しました。それは国内最古の須恵器生産地は九州の窯跡のようなのです。
 九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したのではないかと考えられ、初期の須恵器窯跡遺跡について文献調査したところ、次のような記述がありました。

 「北九州地域では、初期須恵器か陶質土器かで議論を呼んでいた古寺・池の上墳墓群(朝倉市:古賀注)出土の遺物がまず注目される。初期須恵器と陶質土器(朝鮮半島産の土器:古賀注)が混在する状況があり、その評価をめぐって見解が分かれていた。すなわち舶載の可能性を含めたものと、すべて国産とするものであり、後者は、さらにその前後関係をも問題にしている。
 しかし、これらの遺物のうち、陶質土器は、近接して所在する小隈・山隈・八並窯跡群で生産されたものと考えられるにいたり、やがて、この点の決着もつくものと期待されている。
 またこのほか、筑紫野市内でも窯跡が相次いで見つかっている。これらから、従来の初期須恵器あるいは陶質土器の産地および流通などに関して再検討が必要となってきている。
 したがってこの点、結論を出すには早計であるが、九州地域の初期須恵器あるいは陶質土器の流通は、必ずしも畿内とのかかわりを考慮しないで考えるほうがよいかもしれない。今後は、当該地域における生産活動が、いったいいつ畿内の体制に組み込まれるのか、あるいは、組み込まれないのかなど問題が発展していくものと考えられる。」中村浩『須恵器』34〜35頁(1990年、柏書房)

 北部九州の朝倉市の初期須恵器窯跡群が畿内の陶邑窯跡群とは無関係に成立していたと考えたほうがよいとする記述ですが、いまひとつ何が言いたいのか素人にはよくわかりません。そこで、更に文献調査したところ、次の記述を見つけました。

 「ところで、福岡県小隈窯跡については、最近の調査によって『窯跡の範囲を把むことができ、その数は、さらに数基に及ぶことが想定』されるにいたっている。また灰原から池の上Ⅱ、Ⅲに相当する遺物が『灰原から一括遺物として取り上げ』られている。従来これらの遺物は、陶質土器と呼称されており、国産品であることが明らかとなった上は、報告者が『これらの遺物を須恵器として報告』したことに賛意を表する。
 さらにこれらの製品が供給されていたと見られる古寺・池の上墳墓群の調査報告から判断すると、この確認によって当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている。しかし当該墳墓群出土遺物についても必ずしも一致しておらず、問題を残している。」中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』67〜69頁(1993年、柏書房)

 須恵器研究の第一人者である中村浩さんによる、朝倉市出土の「当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている」という指摘は貴重です。朝鮮半島からもたらされた須恵器生産技術が距離的に近い北部九州でまず受容されるのは、多元史観・一元史観を問わず普通に納得できることですが、それでも一元史観の論者には「不都合な真実」かもしれません。ご紹介した両書は今から20年ほど前の発行ですから、引き続き最新情報についても調査と勉強を進めます。(つづく)