第1334話 2017/02/11

三浦九段冤罪事件の実証と論証

 昨年、将棋界に激震をもたらした、棋士(三浦九段)が対局中にスマホで将棋ソフトを使用したという事件がありましたが、第三者委員会による調査の結果、将棋ソフトを用いたとする明確な証拠はなく、冤罪だったようです。しかし、疑われた三浦九段は決定していたタイトル戦(竜王戦)への挑戦権を奪われ、対局も禁止されるという将棋連盟による処分がなされ、週刊誌(文春)やマスコミ報道により、ご家族も含めて三浦九段は著しい人権侵害・名誉毀損を受けられました。わたしはSTAP報道事件のときの小保方さんや笹井さんへのバッシングを思い起こしました。
 なぜ将棋連盟やマスコミはこの冤罪を見抜けず、三浦九段の不正使用と決めつける過ちを犯したのでしょうか。報道によれば三浦九段の勝利した対局での指し手と将棋ソフトの指し手の一致率が70%、ときに90%のケースがあることと、対局中の離席時間か長いことなどが不正の証拠とされました。
 わたしがこの事件をニュースで知ったとき、将棋ソフトがプロ棋士よりも強くなったのかという驚きと共に、指し手の一致率が高いことが将棋ソフト使用の証拠になるのだろうかと疑問を感じました。学問的に表現するならば、指し手の一致率の高さという「実証(状況証拠)」を根拠とする、将棋ソフトを使用したとする「判断(仮説)」は、「論証」を経ていないと感じたのです。具体的に言いますと、指し手の一致率の高さは将棋ソフトを使用したケース以外にも、プロ棋士の実力レベルまで進化した将棋ソフトの指し手はトップクラスの棋士の指し手と一致するというケースも当然のこととしてありうることから、後者のケースを否定できなければ前者のケース(将棋ソフト使用)と論理的に断定できないのです。
 学問において、ある仮説を正しいとするとき、それ以外の仮説が存在しない、あるいはそれ以外の仮説が合理的に成立し得ないことを論証しなければなりません。ところが今回の事件では指し手の一致率が高いという「実証(状況証拠)」を根拠に、三浦九段が将棋ソフトを不正使用したと、将棋連盟も週刊誌も断定してしまったようです。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉にならうのであれば、三浦九段の指し手が将棋ソフトによるものであるという論証が重要だったのではないでしょうか。
 今回のような誤断は学問研究の世界でもときおり見かけます。すなわち相関関係と因果関係の区別が無視されるというケースが少なくないのです。将棋ソフトと三浦九段の指し手の一致率が高く、両者に相関関係が認められるということと、その相関関係は因果関係なのか、それともデータの選び方や比較の方法により偶然に生じたものなのかという検証(論証)が不可欠にもかかわらず、それを怠ったのではないでしょうか。
 見かけの相関関係を「実証(状況証拠)」とみなしてしまい、それが因果関係なのかそうではないのかを論理的に考証する力(論証力)が現代の日本社会は失われてきているようにも思えます。わたしも古代史研究でこうした短絡的な批判や意見を聞くことがありますが、そのたびに「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉が思い浮かびます。今回の事件にあたり、古田先生から学んだ学問における論証の重要性を改めて訴えていかなければならないと思いました。


第1333話 2017/02/11

同人誌『飛行船』に古田説登場

 徳島市の「飛行船の会」(代表:竹内菊世さん)が発行されている同人誌『飛行船』第20号(平成28年11月)のコピーが合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、「古田史学の会・四国」事務局長)から送られてきました。古田史学の会・四国の白石恭子さんから頂いたものとのこと。
 同誌に掲載されている大北恭宏さんの「大知識人・坂口安吾」というエッセイ中に古田先生の九州王朝説が紹介されていました。そこには「ここで登場していただく先生がいる。古田武彦先生だ。古田先生は、日本の古代史の大学者だ。私は、今も、古田先生の本を、貪るように読み続けている。」と紹介され、多元史観・九州王朝説を正しく説明されています。
 日本各地の様々な分野で活躍されている人々の間に古田説が静かに確実に広がっていることが見てとれました。


第1332話 2017/02/05

1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 1月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/01/04 本年7月に久留米大学で講演
2017/01/10 服部静尚さんが異業種交流会で講演
2017/01/12 古田先生の「年号」観
2017/01/17 『九州倭国通信』No.184のご紹介
2017/01/26 荒金卓也さんの訃報に接して
2017/01/28 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』再校


第1331話 2017/02/05

「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が主催されている「誰も知らなかった古代史」セッションの2月3月(13回14回)のご案内です。場所・申し込み方法等は前回どおりです(定数が30名に増えています)。
 2月は近世文書研究の第一人者である笠谷和比古さん(国際日本文化センター名誉教授)が講演されます。わたしも和田家文書研究のおり、お会いしたことがあります。貴重な講演ですので、お誘い合わせの上、ご参加ください。

「誰も知らなかった古代史」

第13回 2月23日(木)18時30分〜20時
「大坂の陣はなぜおこったか」
【カタリスト】笠谷和比古さん(国際日本文化センター名誉教授)

第14回 3月27日(月)18時30分〜20時
「王朝交代―倭国から日本国へ」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会事務局長)
(場所)森之宮キューズモール(大阪市中央区森ノ宮中央二丁目一番
 JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩五分)の二階「まちライブラリー」
定員30名(参加費ドリンク代五百円)

※申し込みは森之宮まちライブラリー事務局まで
 ℡ 06―6949―9222
 受付は11時〜19時。定休日は火曜日

 笠谷先生は日本における近世文書研究の第一人者で、「関ケ原」(講談社選書)、「関ケ原合戦と大坂の陣」(吉川弘文館)、「歴史の虚像を衝く」(教育出版)など御著書を多数出されています。
 笠谷和比古国際日本文化センター名誉教授が、全く新たな視点で徳川家康の実像を明らかにする「徳川家康」(ミネルヴァ書房)の出版を記念して、大坂の陣開戦に至る驚きの経緯をお話しいただきます。


第1330話 2017/02/04

正木さんと服部さんが久留米大学で講演

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が今月25日に久留米大学公開講座で講演されることが決まりました。お近くの方は是非ご参加ください。なお、わたしも7月に講演依頼をいただいています。こちらも詳細が決まり次第、ご紹介します。

〔久留米大学公開講座〕
【日時】2017年2月25日(土)12:30〜16:30
【会場】久留米大学御井学舎(久留米市御井町1635 )500号館51A教室
【参加費】無料 (申し込み無くとも当日参加で可)
【テーマと講師】
1、天皇系図に使われた九州年号(九州王朝と天皇家の関係) 講師:服部 静尚
2、全盛期の九州王朝を担った筑後勢力(筑後は倭国の首府だった) 講師:正木 裕


第1329話 2017/01/28

水戸藩と新井白石と九州年号

 今日、放送されたNHKの番組「ブラタモリ」で水戸藩や水戸光圀の業績が紹介されていました。弘道館や偕楽園などとともに、中でも光圀が編纂させた『大日本史』約400巻が250年かけて完成したことなどが紹介され、勉強になる番組でした。
 『大日本史』で思い出したのですが、江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻518頁)

 また新井白石は九州年号のことを知っていて、やはり水戸藩の友人の安積澹泊に次のような手紙を出しています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻284頁)

 この手紙に対する返事は『新井白石全集』には収録されていませんので、水戸藩の学者が九州年号に対してどのような見解を持っていたのかはわかりません。『大日本史』に九州年号が記されているか、一度読んでみることにします。新井白石は諸史料に見える九州年号を実在していたと考えており、さすがは江戸時代を代表する学者だと思いました。
 この新井白石の九州年号に対する認識を示した書簡については、拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で紹介し、日本思想史学会(京都大学)でも発表したことがあります。同論文は『「九州年号」の研究』や「古田史学の会」HPに収録していますのでご覧いただければ幸いです。なお、『新井白石全集』は京都大学文学部の図書館で閲覧させていただきました。


第1328話 2017/01/26

NHKカルチャー神戸教室で谷本茂さんが講義

 「古田史学の会」会員で関西屈指の論客、谷本茂さんがNHKカルチャー神戸教室の冬期特別一日講座で講義されることとなりました。テーマは「神話となった聖徳太子の幻像 〜『遣隋使』の謎を解く〜」で、とても面白そうな内容です。詳細は下記の通りです。ふるってご参加ください。古代史にご興味をお持ちの知り合いの方々にお知らせ・お勧めいただければ幸いです。

□日時
2017年2月22日 13:00〜15:00(1回)
□会場
NHKカルチャー神戸教室
 電話078-360-6198 FAX:078-360-6189
 兵庫県神戸市中央区東川崎町1-2-2 HDC神戸6F
 ※JR神戸駅前すぐ、阪急・阪神・山陽 高速神戸駅から徒歩4分

□上記電話・FAXの受付時間:月〜土 9:30〜15:00
□受講料(税込):会員2,808円 一般(入会)不要3,369円
※筆記用具を持参してください。資料は講師が準備します。


第1327話 2017/01/23

研究論文の進歩性と新規性

 「洛中洛外日記」1315話「2016年の回顧『研究』編」でわたしが紹介した、2016年の『古田史学会報』に発表された特に印象に残った優れた論文の「選考基準」についての質問が、先日の「古田史学の会」関西例会の参加者から出されました。良い機会ですので、わたしが選考に当たって重視している「研究論文の進歩性と新規性」という問題についてご説明することにします。
 わたしは次の論文を特に優れていると判断し、「洛中洛外日記」で紹介しました。

①「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕(133号)
②古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚(136号)
③盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚(137号)
④南海道の付け替え 高松市 西村秀己(136号)
⑤隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂(134号)

 これらの論文はいずれも研究論文としての「進歩性」と「新規性」が他の論文よりも際だっていました。
 特許出願に関わられた経験のある方ならよくご存じのことですが、特許庁による特許審査では、その特許申請の内容が社会の役に立つのかという「進歩性」の有無と、まだ誰もやったことのない初めての事例であるのかという「新規性」の有無が厳しく審査されます。そして進歩性と新規性が認められると、それが事実に基づいているかどうかという「実施例」と「実施データ」がこれまた厳しくチェックされます。ここに虚偽データや虚偽記述があると拒絶査定されますし、特許が成立した後で発覚すれば厳しい罰則(企業倒産するケースもあります)が課せられるほどです。
 わたしも勤務先での特許申請においては、特許事務所の専門家と何度も打ち合わせを行い、最後は胃が痛くなるような決断をして特許出願します。場合によっては担当審査官の個人的「性格」まで勘案して文言やデータの修正を行うこともあるほどです。
 学術論文でも同様に「進歩性」と「新規性」が学術誌への採否で厳しく審査(査読)されます。その研究が学問や研究に役立つ進歩性があるのか、まだ誰も行ったことがない、あるいは未発見という「新規性」があるのかをその分野の第一人者とされる研究者が査読します。権威のある学術誌ほど採用のハードルは高いのですが、世界中の研究者はそうした権威ある学術誌(ネイチャー誌は有名)への採用を目指して切磋琢磨しています。従って、投稿されたほとんどの論文は「没」になる運命が待っているのです。
 『古田史学会報』では通常の学会誌ほど厳しくは査定しませんが、進歩性・新規性の有無、そして論証の成立の有無や史料根拠の妥当性は重要視しています。念のため付け加えますが、採否にあたり、わたしの説とあっているかどうかは判断基準とはしませんし、更にいうならば個別の古田説にあっているか異なっているかも採否には無関係です。この点、誤解が生じやすいのではっきりと断言しておきます。
 また、投稿論文の採否検討にあたり、わたしが不得意な分野は、そのことをよくご存じの方に意見を求めることもあります。わたしが「採用」と判断しても、西村秀己さんから「不採用」とされるケースも極めて希ですがありました。掲載後に会員読者から「なぜこのような原稿を採用するのか」という厳しいご指摘が届いたことも一度や二度ではありません。ちなみに最も厳しい意見を寄せられたのは古田先生でした。そのときは、採用理由や経緯を詳しく説明し、その論文に対する反論をわたしが書くことでご了解いただいたこともありました。懐かしい思い出です。
 以上のことを「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。他の論稿②③④⑤も同様です。皆さんも「進歩性」「新規性」という視点でそれらの論文を再読していただければと思います。なお、わたしが紹介しなかったこの他の論文も、『古田史学会報』に掲載されたという点に於いて、いずれも優れた論稿であることは言うまでもありません。この点も誤解の無いようにお願いします。


第1326話 2017/01/22

新春講演会でのご挨拶

 「古田史学の会」を代表し、新年のご挨拶を申し上げます。昨年、わたしたちは友好団体と共に、この大阪府立大学なんばサテライト(i-siteなんば)で古田先生の追悼講演会を執り行いました。その後、追悼論文集『古田武彦は死なず』(明石書店)、『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)を上梓しました。この出版記念講演会を東京家政学院大学千代田キャンパスや久留米大学福岡サテライトをお借りして開催しました。

 今年は九州年号の「継躰」が517年に建元されてから1500年に当たります。報道によれば今上陛下の御譲位に伴い、数年後には「平成」が改元されるとのことです。これからわが国では年号や改元が注目されることでしょう。
 「古田史学の会」は『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』を明石書店から今春発行します。『続日本紀』に記された大和朝廷にとって初めての年号「大寶建元」記事と『日本書紀』に記された九州年号の「大化・白雉・朱鳥の改元」記事などに焦点を当てた研究論文などが収録されています。「平成」の改元にあたりタイムリーな一冊となることでしょう。

 考古学の分野でも太宰府条坊都市の成立が「日本最古」とする井上信正説(太宰府市教育委員会)が注目されています。その太宰府を防衛する羅城と思われる巨大土塁遺跡も昨年末に筑紫野市で発見されました。国内最大規模の大野城山城や基肄城・水城など、太宰府は日本列島内最大の巨大防衛施設で守られており、九州王朝(倭国)の首都に相応しいことが一層明確となりました。
 他方、7世紀の同時代史料である『隋書』には倭国が北部九州にあることを示唆する記述があり、阿蘇山の噴火の様子まで記録しています。その次の『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)が別国(日本は倭の別種)として表記されており、その王朝交代が8世紀初頭に起こったことをうかがわせる記述があります。これは8世紀初頭における九州年号の終了と大和朝廷の年号開始(大寶建元、701年)や、出土木簡に記された地方行政単位の「評」から「郡」への全国一斉変化と時期的にピッタリと対応しています。
 このように古田先生の多元史観・九州王朝説は日本古代史における最有力説といわざるをえません。他方、わたしたち古田学派には文献史学の研究者が多いこともあり、考古学や自然科学の研究成果に対しての知見が十分とはいえません。わたしたちは、そうした学問分野に謙虚に学ぶ姿勢が必要です。
 そのため本日の講演会には大阪の考古学の第一人者であられる大阪府文化財センターの江浦先生と理化学的年代測定の新分野を切り開かれた総合地球環境学研究所(地球研、京都市)の中塚先生をお招きしました。お二方のご講演をとても楽しみにしています。

 本日は、古田史学の会・東海の竹内会長、古田史学の会・四国の合田事務局長にもお越しいただいています。関東からは「古田史学の会」関東地区窓口担当の冨川ケイ子さん、東京古田会の平松健さんもお見えになっています。遠くからお越しいただき、ありがとうございます。
 昨日開催した「古田史学の会」役員会では、古田史学に基づいた合田洋一さんの論文が愛媛県内最大の歴史研究会で注目されていることなどが報告されました。
 「古田史学の会・北海道」では古田先生の著書の図書館への寄贈や今井会長による古田説普及のセッションを千歳市で開催されています。このセッションは大阪で正木事務局長が続けられてきた「誰も知らなかった古代史」セッションが北の大地へ波及したものです。
 「古田史学の会・仙台」では東北という地の利を活かして和田家文書研究が続けられています。
 「古田史学の会・東海」では、名古屋市で毎年開催される愛知サマーセミナーに参画され、愛知県下の高校生への古田史学普及活動を続けられています。
 「古田史学の会・関西」では活発な例会活動・遺跡巡りが催され、そうした活動は「古田史学の会」ホームページ(新古代学の扉)やfacebookを通じて全国の古代史ファンから注目されているところです。

 昨年からは、福岡市を拠点に活動されている「九州古代史の会」とも友好団体として交流をスタートしました。また6〜7世紀の古代寺院(国分寺)の編年を再検討するため、多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げ、主に関東の研究者(肥沼孝治さんら)たちが全国の国分寺遺跡の調査研究を開始しています。その成果はインターネットで見ることができます。
 福岡県の久留米大学からは今年も正木事務局長や服部編集長、わたしへ公開講座での講義要請をいただいています。また江田船山古墳で有名な熊本県和水町では、当地から九州年号史料が発見されたことをご縁に、わたしや正木さんが毎年講演をさせていただいています。

 最後に、フランス・パリ在住の会員、奥中清二さんが昨年秋、一時帰国され、そのとき記念に絵画をいただきました。奥中さんはパリ市公認の画家でモンマルトルのアトリエで絵をかいておられます。長年の古田ファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフにした抽象画をいただきました。額に入れ、しかるべきところで保管展示したいと思います。

 「古田史学の会」は全国の古田学派の研究者、古田ファンの皆様と手を携えて今年も前進してまいります。会員の皆様の力強いご指導とご協力をお願い申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。


第1325話 2017/01/21

九州年号「継躰」建元の追号説

 本日の「古田史学の会」関西例会では偶然にも九州年号「継躰」建元について二件の研究が報告されました。
 一つは西村さんによるもので、『二中歴』にのみ最初の九州年号「継躰」が見える理由として、九州王朝が梁の冊封から離脱して「善記」という年号を公布したとき、それ以前に「継躰」という年号も遡って「公布」、すなわち追号したとする仮説(アイデア)です。追号という事情により『二中歴』以外の史料には「善記」を「最初の年号」と記されることになったとされました。この仮説の成立や論証過程は西村さんから論文として発表されることと思いますが、単なるアイデアとは思えない説得力もあり、今後の論争が期待されます。
 二つ目は正木さんからの研究報告です。『聖徳太子伝暦』に見える「遷都予言記事」(九州王朝の多利思北孤の記事と思われます)の中に、「聖徳太子」46歳のとき(617年)から100年前(517年)に都を置いたというような記事があるのですが、この517年が九州年号の「継躰」建元の年に一致します。このことから、正木さんは筑後のある場所に筑紫君磐井が遷都し、それを記念して「継躰」建元した史料痕跡ではないかとされました。また、617年の翌年には九州年号が「倭京」と改元されるのですが、この年が太宰府遷都の年とする仮説をわたしは発表したことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号 2002年、「『太宰府』建都年代に関する考察」『古田史学会報』65号 2004年)。今回の正木さんの報告は「継躰」建元年にも遷都の痕跡を発見されたものです。この『聖徳太子伝暦』の「遷都予言記事」は、九州王朝の遷都関連記事を「聖徳太子」の事績としてまとめて記録したものとする理解が可能となり、とても興味深い発表でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
①『別府の風土と人のあゆみ』の宣伝(奈良市・水野孝夫)
②倭国年号建元を考える(高松市・西村秀己)
③古代九州の国の変遷(茨木市・満田正賢)
④倭国と狗奴国の紛争(相模原市・冨川ケイ子)
⑤出野正・張莉著『倭人とはなにか』-漢字から読み解く日本人の源流-(奈良市・出野正)
⑥洛陽発見の三角縁神獣鏡の銘文から(八尾市・服部静尚)
⑦文字伝来と北朝認識(八尾市・服部静尚)
⑧井上信正氏講演会の報告「大宰府 古代都市と迎賓施設」(京都市・古賀達也)
⑨九州王朝の王都の変遷と筑後勢力(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の準備・02.16 「大阪さくら会」で服部氏が講演・02.25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7月久留米大学で古賀が講演・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・その他


第1324話 2017/01/24

筑後市の奇祭「久富盆綱引」と

    こうやの宮の御祭神

 先日、久留米市に帰省したとき、JR久留米駅の売店に展示されていた筑後市のパンフレットを見たのですが、8月14日に行われる奇祭「久富盆綱引」(久富熊野神社)の写真が掲載されていました。墨で体中真っ黒に塗られた子供たちが腰ミノと角をつけて綱を引くというお祭りです。「盆綱引」という行事は県内各地で行われているようですが、墨で真っ黒に塗られた子供たちによるものはここだけではないでしょうか。
 この子供たちの姿に、わたしはある神社の御祭神を思い出しました。それは筑後市の南に隣接するみやま市瀬高町にある小祠「こうやの宮」の御祭神です。そこの御祭神は五体の人形なのですが、中でも七支刀を持った人形は有名です。他に南国から来た人物と思われる茶褐色の肌で腰ミノのようなものを身につけた人形があるのですが、その姿が「久富盆綱引」の子供たちに似ているように思ったのです。
 偶然の一致かもしれませんが、筑後市とみやま市という隣接した地にある神社ですから、もしかすると関係があるのではないでしょうか。機会があれば調査してみたいものです。わたしのfacebookに写真を掲載していますので、ご覧ください。


第1323話 2017/01/16

井上信正さんの謦咳に接す

 昨日は「九州古代の会」主催の井上信正さん(太宰府市教育委員会)の講演会に参加しました(於:ももち文化センター)。「大宰府-古代都市と迎賓施設」というテーマで、太宰府条坊の発掘調査にたずさわられている条坊研究の第一人者である井上信正さんの講演を是非ともお聞きしたいと、前日から実家のある久留米に戻っていました。講演会当日は大雪により新幹線ダイヤが乱れましたので、正解でした。
 初めてお聞きするような新発見や新説が次から次へと発表され、2時間では説明しきれないようでした。発表された新説の中でも特に驚いたのが、大宰府政庁の西に位置する「蔵司(くらのつかさ)」の礎石造りの大型建物が倉庫ではなく、唐長安城の麟徳殿に相当する「饗宴施設」とされたことです。その根拠は礎石配列や礎石が自然石ではなく加工されていることなどでした(大野城や奈良の正倉院など、倉の礎石は自然石をそのまま使用するのが普通で、蔵司の礎石は丸い柱に対応した加工が施されている。礎石配列も政庁正殿と同じ)。それではなぜ「蔵司」という地名が遺存しているのかという問題は残りますが、出土事実からの判断としては納得できるものでした。
 太宰府条坊都市が完成した後に大宰府政庁Ⅱ期と朱雀大路が造営されたことを井上さんは発見されたのですが、なぜその位置に造営されたのかという点についても明らかにされました。それは都城の南に位置する南山を「闕」とみなす秦始皇帝以来の中国都城の伝統を受け継いだ(模倣)ためと説明されました。大宰府政庁から南へ延びる朱雀大路の延長線上には基肄城の「東北門」があり、その位置関係が唐の乾陵(高宗・則天武后陵)に類似しているとのことでした。
 井上さんとは講演会後の懇親会でも隣の席に座らせていただき、太宰府や飛鳥・難波編年についてかなり突っ込んだ意見交換をさせていただき、とても有意義でした。「古田史学の会」の講演会へ講師として来ていただくことを了承していただきましたので、日程などが決まりましたらお知らせします。わたしは井上さんのお名前とその太宰府条坊研究は日本古代史学の研究史に残るものと確信しています。
 なお、1月21日の「古田史学の会」関西例会で、井上講演の概要をわたしから報告する予定です。