第1463話 2017/07/25

『丹哥府志』の古伝承(2)

京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から紹介された『丹哥府志』に記された古伝承で、河良須神社以外にも興味深いものがありました。それは7世紀に遡る可能性がある「国分寺」に関する伝承です。『丹哥府志』「巻之六 丹波郡 三重の庄 五十河村(いかが村)」に次のような記事が見えます。

【観音堂】(内山)
観音堂は元高雄山妙法寺の寺跡なり、文武天皇大寶二年府中國分寺より此地に移すといふ棟札あり、開山詳ならず。

森さんからのメールでは「府中国分寺(天橋立の近く)は741年以降だと思いますので702年にはこの地名はないはずです。後世の地名によって記述したものとは思いますが。」とのこと。
森さんのご意見のように、この大寶二年の国分寺記事は「後世の地名によって記述したもの」とするのが従来の考え方でした。しかし、わたしたち古田学派では多元的「国分寺」という視点により、九州王朝が7世紀に国分寺(国府寺)を大和朝廷に先だって創建していたという仮説に基づき、7世紀に遡る国分寺遺跡の調査を進めています。もしかするとこの「大寶二年府中國分寺」も九州王朝時代の国分寺のことかもしれません。そうした仮説に基づいて、丹後の国分寺遺跡の考古学的調査結果などを調べてみたいと思います。


第1462話 2017/07/23

『丹哥府志』の古伝承(1)

 「洛中洛外日記」1436話と1437話において、舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が『丹哥府志』の記録などを根拠に白鳳元年(661)創建であったことを論じました。その「洛中洛外日記」を読まれた京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から『丹哥府志』に記された興味深い伝承記録についての情報が寄せられましたので、ご紹介します。

 『丹哥府志』「巻之八 加佐郡第一 志楽の庄 小倉村」の項に、河良須神社の勧請が「天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日」とされているのですが、この「九月三日」が先の朝代神社の創建日と同じなのです。『丹哥府志』には朝代神社の創建記事が次のように記されています。

 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」

 ともに白鳳年間の創建であり「九月三日」の日次が同じなのは偶然とは考えにくく、両神社には何か関係があったのではないかと思います。『丹哥府志』の河良須神社の記事は次の通りです。

◎小倉村(市場村の次、若狭街道、古名春日部)
【河良須神社】(延喜式)
社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受大神宮なり、神名帳に所謂河良須神社是なり、今正一位一宮大明神と稱す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、(後略)

 ここに見える「天智天皇白鳳十年辛未」の表記ですが、九州年号の白鳳十年の干支は庚午で670年に当たります。辛未は天智十年(671)のことであり、『日本書紀』の紀年と九州年号が一年ずれて「合成」された姿を示しています。従って、本来の伝承が九州年号の「白鳳十年」であれば、「天智天皇」「辛未」は後世において『日本書紀』の影響を受けて付加されたものと考えられます。

 「明年高市皇子故ありて丹波に遁る」という伝承も興味深いものです。天智十年の明年であれば「壬申の乱」の年(672)に相当しますから、その年に高市皇子が丹波国に逃れたという伝承が真実か否かはわかりませんが、何らかの歴史事実を反映したものではないでしょうか。なお、ネット検索によると「河良須神社」ではなく「阿良須神社」とあり、森さんから送っていただいた『丹哥府志』活字本の誤植のようです。(つづく)


第1461話 2017/07/22

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(10)

 前期難波宮九州王朝副都説への批判・対案として出された「天武朝」造営説が、文献史学でも考古学でも成立困難であることを説明してきました。一元史観の古代史学界でも考古学界でも前期難波宮「孝徳期」造営説が事実上の定説となっていることも、それだけ合理的な根拠があるからです。それにもかかわらず、なぜ古田学派内から、どう考えても「無理筋」の「天武朝」造営説が出されてきたのでしょうか。
 わたしはその理由について、ほぼ見当がついています。このテーマについては古田先生との10年にわたる意見交換や間接的な「論争」がありました。古田先生は前期難波宮を『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿ではないかと考えておられましたが、ついにそのことを論文に書かれることはありませんでした。そして、2013年の八王子セミナーにて「検討しなければならない」との発言に至ったのですが、それもかなわないままお亡くなりになられました。
 古田先生との本件に関する応答や背景について、いずれ稿を改めて論じたいと思います。それは7世紀における九州王朝の実体に関する認識(諸仮説)の是非にかかわる問題でした。(完)


第1460話 2017/07/21

『記紀九州』第三号を拝読する

 昨日、福島雅彦さんから『記紀九州』第三号をお贈りいただき、ありがたく拝読しました。同誌は久留米大学の大矢野栄次教授が発行されているもので、今号には福島さんの「倭の源流を探る」が掲載されています。
 巻頭に大矢野さんの「はじめに」があり、とても興味深く拝読しました。その内容は、昨年六月に物故された鳩山邦夫代議士(衆議院議員・福岡六区)の「追悼文」ともいうべきものでした。久留米市が鳩山邦夫さんの故郷だったことなど、わたしが初めて触れるようなことが紹介されています。たとえば次の鳩山さんの言葉には驚き、惜しい人物を失ったものだと思いました。

 「文部科学省の連中にも言っている。この九州王朝説が正しい。だから、まともに調べなさい。そして、やがて教科書を書き直さなければならない時が来ると言っているのですよ」

 大矢野先生のご尽力により、わたしや正木裕さん服部静尚さんは久留米大学公開講座の講師としてお招きいただいています。『記紀九州』がこれからも永く広く読み続けられることを祈念しています。


第1459話 2017/07/20

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(9)

 前期難波宮と藤原宮には出土土器の年代や都城様式に差があることを紹介しましたが、特に都城様式の差(北闕型と周礼型)は同時代の同一王朝のものとは考えにくいものです。このことを更に裏付ける考古学的事実が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から指摘されています。それは竜田関の位置の問題です。
 大和国と河内国の間に置かれた竜田関は、大和朝廷の都(飛鳥宮・藤原宮)への西側からの侵入を防ぐ目的で設置されたものと、一元史観の歴史学界では考えられてきました。ところがその竜田関が置かれたとされる場所が峠を境としてその東(大和)側にあり、これは地勢的にも東側(大和)から西側(河内・摂津)への侵入を防ぐのに適した位置であると、服部さんは指摘されました。
 他の有名な古代の関も同様に守るべき場所から峠を越えた相手側に置かれていることも服部さんの指摘が正当であることを裏付けています。すなわち、敵の軍勢が狭隘な峠の登り口に殺到することを想定して、関はその登り口側に設けられているのです。そうすることにより、峠に至る坂の上から敵軍を見下ろして三方から攻撃できますから、この関の位置は軍事的に理にかなっています。
 このような位置にある竜田関は大和(近畿天皇家)を守っているのではなく、東側からの侵入に対してその西側にある前期難波宮を防衛するために置かれたとする説を服部さんは発表されました。このことは、前期難波宮の勢力と大和の飛鳥の勢力とは別であることを意味していると考えざる得ません。従って竜田関を造営したのは前期難波宮を防衛しようとする勢力であることになります。この服部説は前期難波宮九州王朝副都説を支持するものです。
 服部さんはこの説を「関から見た九州王朝」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年)で発表されましたが、未だに前期難波宮九州王朝副都説反対論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1458話 2017/07/16

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(8)

 前期難波宮と藤原宮の差は出土土器の年代だけではありません。それは一元史観の学界でも論争が続いた都城様式差という問題です。
 倭国(九州王朝)も大和朝廷も王宮や王都の設計にあたり、中国の様式を取り入れているのですが、王宮には律令官制を前提とした左右対称の朝堂院様式が前期難波宮に最初に採用されています。王都(都城)についても条坊制の街区を太宰府や前期難波宮(後期難波宮からとする説もあります)、藤原京(『日本書紀』は新益京とする)、更には平城京・平安京に採用されています。そして、条坊都市の北側に王宮を置く「北闕型」と条坊都市の中央に置く「周礼型」が採用されています。
 この王宮を条坊都市の北に置くのか中央に置くのかは、その造営者の政治思想が反映していると考えられており、古田先生は「北闕型」を北を尊しとする「北朝様式」と見なされていました。本テーマで問題としている前期難波宮は上町台地の北端に位置し、「北闕型」の王都ですが、藤原宮は中央に王宮を置く「周礼型」で、この違いは両者の政治思想の差を反映していると考えざるを得ません。
 したがって、前期難波宮「天武朝」造営説では、同時期に政治思想が異なる都城、前期難波宮と藤原宮を天武は造営したことになり、そのことの合理的な説明ができません。このように、前期難波宮(京)と藤原宮(京)の都城様式の違いを、前期難波宮「天武朝」造営説では説明できないのです。このこともわたしは指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1457話 2017/07/15

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(7)

 前期難波宮「天武朝」造営説が考古学からも文献史学からも成立し難いことを説明してきましたが、もし「天武朝」の造営であれば多くの矛盾が噴出します。この矛盾について更に詳述します。
 たとえば藤原宮に持統天皇が694年に遷都したことが『日本書紀』に記されていますが、その造営は天武朝の頃から開始されていたことが出土干支木簡(680年代)から判明しています。ですから、前期難波宮を天武朝の造営とするならば、天武は藤原宮(京)と前期難波宮(京)を同時期に造営していたこととなります。
 ところが、前期難波宮整地層から出土する須恵器は坏Hと坏Gが主流ですが、藤原宮整地層から出土する主流須恵器は坏Bで、明らかに両者の出土土器の様相が異なるのです。相対編年では坏Bが新しく、坏Hが古いとされ、その中間が坏Gです。従って、前期難波宮と藤原宮では整地層出土土器は前期難波宮の方が1〜2様式古いのです。この考古学事実は前期難波宮の造営が藤原宮よりも早いことを示し、仮に1様式の年代差を20年とするのなら、前期難波宮の方が30年ほど古いということになります。従って、藤原宮の造営時期を680年頃とするならば、前期難波宮の造営時期は650年頃となり、それは「孝徳期」に相当します。
 このように、前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式の違いは、前期難波宮「天武朝」造営説を否定するのです。このことをわたしは早くから指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1456話 2017/07/15

河姆渡遺跡の井戸

 本日の「古田史学の会」関西例会も先月に続いてドーンセンターで開催されました。なお8月、9月はI-siteナンバです。これからも会場が変更されることがありますので、お間違えなきよう。
 今日の発表内容はバラエティーに富んでいました。中でも初めて例会発表された藤田敦さんの「河姆渡遺跡で考えたこと・・井戸の原姿を探る・・」は中国の研究者の論文紹介や「井戸」の字義に関する諸説の紹介など、現地旅行の体験談と中国語を交えての報告でした。藤田さんが海外旅行を頻繁になされていることはfacebookなどを拝見して知っていましたが、中国語を喋れることを初めて知りました。
 この他、正木裕さんの『赤渕神社文書』の九州年号に関する報告も興味深く、写真を多用されたレジュメは貴重な史料でした。
 7月例会の発表は次の通りでした。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんに発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①隋書国傳「東西五月行南北三月行」石田説批判(高松市・西村秀己)
②触覚知について(奈良市・出野正)
③国分寺の名称と鐙瓦(八尾市・服部静尚)
④「江田船山古墳出土銀象嵌銘太刀」の考察(犬山市・掛布広行)
⑤河姆渡遺跡で考えたこと・・井戸の原姿を探る・・(宝塚市・藤田敦)
⑥フィロロギーと古田史学【その4】(吹田市・茂山憲史)
⑦ニギハヤヒを考える「絶対年代」の考察(東大阪市・萩野秀公)
⑧『赤渕神社文書』の九州年号について(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 6/18第23回会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会の報告・5〜7月の新入会員・7/08久留米大学公開講座の報告(古賀)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(7/23「盗まれた天皇陵」服部静尚さん)・『古代に真実を求めて』21集企画とタイトル案の説明・『古田史学会報』投稿要請・「古田史学の会」関西例会8月、9月会場の連絡(I-siteナンバ)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)、福岡(10/08)、東京(10/15)で開催・「古田史学の会」新春講演会(2018.01.21、I-siteナンバ)の案内・メールでの「[身冉]牟羅(たんむら)国」論争・その他


第1455話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(6)

 前期難波宮を「天武朝」の造営とする説の史料根拠として、天武紀の有名な「複都詔」をあげる論者もありますので、この「複都詔」についても解説しておきましょう。
 『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)に関係する次の記事が見えます。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名の「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。
 たとえば①の難波羅城造営記事は羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」も、天武らとは異なる禮法を用いている朝廷が難波に先在していたことを意味しています。③が「複都詔」で、「天武朝」造営説の根拠とされています。しかし、その二年後の朱鳥元年に前期難波宮は焼失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能です。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していますから、「複都詔」を「天武朝」造営説の根拠にはできないのです。なお、前期難波宮は完成年に白雉改元、焼失年に朱鳥改元がなされており、九州年号と深い関係があることも前期難波宮九州王朝副都説の傍証といえます。
 なお、岩波『日本書紀』の訳文では「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」と訳されていますが、これは不適切です。原文の「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としていますが、原文では、百寮は難波に行って(難波の権力者かその代理者に)家地を請求しろと言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮「天武朝」造営説の史料根拠とされてきた「複都詔」も、その原文の意味することは前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示しています。(つづく)


第1454話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(5)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」の基礎データそのものに問題があり、仮説として誤りであることを説明しましたが、考古学だけではなく文献史学の面からも脆弱な仮説であることを指摘してきました。
 それは、「もし前期難波宮を天武が造営したのなら、何故そのことが孝徳紀ではなく天武紀に書かれていないのか」という単純かつ本質的な疑問に答えられないという問題です。この理屈は白石さんの「天智朝」造営説でも同様です。
 『日本書紀』は天武の子供や孫たちにより編纂されており、天武を賞賛することが主目的の一つであることは、天武紀のみを「前編」「後編」に分けて記すという破格の待遇であることからも明らかです。もし、国内初の朝堂院様式でそれまでの王宮よりもはるかに大規模な前期難波宮を天武が造営したのなら、そのことを天武紀には書かずに孝徳紀に書くなどということは考えられないのです。
 孝徳紀には前期難波宮「孝徳朝」造営説の史料根拠とされる次の有名な記事があります。
 「秋九月、宮を造りおわる。その宮殿の状、ことごとくに論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年と同年)
 いうこともできないほどの宮殿が完成したという記事で、まさに前期難波宮完成にふさわしい表現です。おそらく、前期難波宮の造営を記念して九州年号はこの年に常色から白雉に改元され、『日本書紀』白雉元年条(650年)に転用された大々的な白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われたと思われます。
 もし、前期難波宮が「天武朝」で造営されたのであれば、なぜ『日本書紀』は先の孝徳紀の記事を天武紀に記さなかったのでしょうか。この問いかけに対しても前期難波宮「天武朝」造営説論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1453話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(4)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石説は正しくは「天智朝」造営説なのですが、その白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(『近つ飛鳥博物館館報16』2012年)の基礎データそのものに問題があることも服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)により明らかにされています。そのことについて服部さんからわたしのfacebookに次のようなコメントが寄せられましたのでご紹介します。

【服部さんからのコメント】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 白石説を批判された服部さんの論稿「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」は『古代に真実を求めて』17集(古田史学の会編、明石書店。2014年)に収録されています。服部さんは金属工学がご専門で、データ解析処理なども得意とされています。同論文では飛鳥編年の根拠とされた須恵器の外径の測定値が誤っていることや、サンプル母集団の問題点などが具体的に指摘されています。あわせて『日本書紀』の暦年記事の年代の問題点も古田説など多元史観に基づいて批判されています。
 同論文に先立ち、服部さんはその研究報告を「古田史学の会・関西例会」でも発表されていました。しかしその後も、前期難波宮「天武朝」造営説論者からは賛否も意見もないまま、飛鳥編年を「是」とする意見が出されています。なぜでしょうか。(つづく)


第1452話 2017/07/13

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(3)

 前期難波宮「天武朝」造営説の主な論拠として次の三点を紹介しました。

1.天武朝の頃であれば九州王朝は弱体化しており、近畿天皇家の天武が国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮を造営したとしても問題ない。
2.従って、前期難波宮は天武による天武の宮殿と古賀の質問に対して答えることができる。
3.飛鳥編年(白石説)によって前期難波宮整地層出土土器が天武朝の頃と判断できる。

 この中で「天武朝」とする根拠として、3の飛鳥編年(白石説)が正しいとされているのですが、実はこの主張は錯覚ではないかと、わたしは疑っています。というのも、一元史観に基づく白石太一郎さんの飛鳥編年によれば、前期難波宮の成立年代を「早くても660年代の早い時期」で「天武朝までは下らない」とされているからです。従って白石説は「天武朝」造営説ではなく、正しくは「天智朝」造営説なのです。ですから、前期難波宮「天武朝」造営説論者が白石さんの飛鳥編年を自説の根拠とされているのは、失礼ながら錯覚か勝手な思いこみによるものではないでしょうか。それとも白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(『近つ飛鳥博物館館報16』2012年)そのものを読んでおられないのかもしれません。
 白石説によれば前期難波宮が「天智朝」造営であることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は2014年から指摘されてきたのですが、残念ながら前期難波宮「天武朝」造営説論者から応答や反論はありません。なぜでしょうか。(つづく)