第1519話 2017/10/18

五戸弁護士からの贈り物

 青森市の弁護士、五戸雅彰さんから思いがけない贈り物が届きました。五戸さんが古田先生からいただいたという書籍『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』藤原岩市著です。
 五戸さんは和田家文書裁判のとき、和田喜八郎さんを弁護された方で、20年来のお付き合いがあります。添えられた御手紙には、自分が持っているよりも古賀さんが持っていたほうがよいだろうとありました。古田先生の三回忌にあたり、冥界の先生が五戸さんを通してわたしに送って下さったのではないかと思いました。学恩への感謝、無限です。五戸さんと古田先生に深謝します。
 『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』の末尾には「一九九五、二月 古田武彦蔵書」と、見慣れた古田先生の筆跡で記されています。ところが、内表紙には「贈呈 和田喜八郎様 1996.4.4 古田」と記されており、当初は和田喜八郎さんに贈呈予定だったようです。念のため、五戸さんに電話で確認したところ、同書は古田先生から直接いただいたとのことで、何らかの事情で和田さんではなく、五戸さんに進呈されたようです。
 こうして、同書は古田蔵書から不思議な縁で、五戸さんからわたしへと届いたことがわかりました。更に同書には産経新聞のコピーが挟み込まれていました。これにも古田先生の筆跡で「産経新聞 平成8年4月3日(水)朝刊」と書き込みがあり、連載コラム「教科書が教えない歴史 41 勇気と友情の物語⑭ インド独立を助けようとした日本軍」が緑色のラインマーカーで縁どられています。
 この平成8年4月3日は『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』内表紙の書込み年次「1996.4.4」の前日ですから、古田先生は産経新聞の同コラム記事を読んで、その翌日に和田喜八郎さんへの蔵書贈呈の書き込みを、同じ緑色のラインマーカーで書かれたことがわかります。すなわち、産経新聞のコラム記事と同書を和田さんへ贈呈しようとされたのです。
 産経新聞の同コラム記事の筆者は「横浜市六つ川小教諭・安達弘=自由主義史観研究会会員」とあり、戦時中の日本軍とインド国民軍によるインド独立運動の経緯が紹介されています。その中にインド独立運動のリーダー、チャンドラ・ボーズと藤原岩市氏が顔写真付きで紹介されていることから、和田さんにこのコラム記事とチャンドラ・ボーズと親交があった藤原岩市氏の著書を贈呈することを思いつかれたのではないでしょうか。
 実は和田喜八郎氏は若い頃、チャンドラ・ボーズの子供の替え玉役として徴用されたと話しておられたとのこと。それで、古田先生はコラム記事と同書を和田さんに贈呈されようとしたものと推察されます。しかし、どういうわけかこの本は和田さんにはわたらずに、五戸さんに進呈されました。その間の事情は今となっては不明です。先生と喜八郎氏との間で何があったのでしょうか。
 ※同書や産経新聞コラムのコピー等の写真は、わたしのfacebookに掲載しています。


第1518話 2017/10/16

九州年号「大化」の原型論(3)

 九州年号原型論に関する『二中歴』と「丸山モデル」との論争において、丸山さんの主張は次のようなものでした。

(a)『二中歴』以外の九州年号群史料には「大長」があり、「大長」がない『二中歴』は孤立している。従って、「大長」は実在したと考えるべき。
(b)六八六年(丙戌)を「朱鳥元年」とする『二中歴』に対して、同年を「大化元年」とする諸史料がある。後代の九州年号群史料編纂時において、『日本書紀』で公認されている「朱鳥」が消される理由はない。しかし「朱鳥」がない史料があることから、元々「朱鳥」は九州年号ではないと考えるのが論理的である。従って「朱鳥」がある『二中歴』は『日本書紀』の影響を受けて「朱鳥」が追記されたものと考えられ、その史料としての信頼性は劣る。
(c)『二中歴』には最初の年号として「継躰」がある。これは近畿天皇家の天皇の諡号「継躰」が年号と誤解されたもので、『二中歴』は信頼性が劣る。
(d)『二中歴』以外の多くの九州年号群史料を総合的に比較検討して作成した「丸山モデル」に比べて、史料的に孤立している『二中歴』一つだけを史料根拠とする方法は不適切であり、説得力がない。
(e)鎌倉時代初頭に成立した『二中歴』が九州年号群史料としては現存最古だが、室町時代に成立した他の九州年号群史料(「丸山モデル」型)もあり、両者はそれほど時代的に離れてない。従って、成立が早いという理由で『二中歴』が優れるというのはそれほど説得力はない。

 以上のような点を上げられて、丸山さんは自説の正当性を主張されました。わたしも(b)の理由から、当初はこの「丸山モデル」が妥当と考えていました。(つづく)


第1517話 2017/10/14

九州年号「大化」の原型論(2)

 古田先生を始め、従来の九州年号研究では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国・注②)への王朝交代(七〇一年)に伴って、九州年号(倭国年号)も大化六年(七〇〇)で終わり、大和朝廷の「大寶」年号建元(七〇一)に至ったと理解されてきました。他方、最後の九州年号を『二中歴』にあるように「大化」とするのか、『二中歴』以外の史料にある「大長」とするのかで、長く論争が続いてきました。九州年号原型論に関する『二中歴』と「丸山モデル」との論争でした。
 古田先生が名著『失われた九州王朝』で九州年号の存在を明らかにされ、その後、陸続と九州年号研究者が生まれ(注③)、各地の九州年号史料の発掘が行われました。そして、初期の九州年号研究を牽引されたのが丸山晋司さん(市民の古代研究会、八尾市)でした。丸山さんは現存する年代記などに残された九州年号群史料を収集され、その最大公約数的な九州年号原型案「丸山モデル」を提唱されました(注④)。わたしも三十代の頃、丸山さんの研究に触発され、九州年号研究を自らの古代史研究テーマの一つとしました。
 その丸山モデルの特徴は次のような点でした。

(1)最後の九州年号を「大長」(六九二〜七〇〇年)とする。
(2)その直前を「大化」(六八六〜六九一年)とする。
(3)『二中歴』に見える「朱鳥」(六八六〜六九四年)はなかったとする。あるいは九州年号ではないとする。
(4)最初の九州年号を「善記」(五二二〜五二五年)とする。
(5)『二中歴』には見えず、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(六二九〜六三四年)を九州年号とする。

 この丸山モデルと『二中歴』のどちらを九州年号の原型とするのかの論争が始まりました。(つづく)

(注)
②七〇一年以後の列島の代表者となった近畿天皇家を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であり、「近畿天皇家」と呼ぶべきとする意見があります。
 この件については別途詳述する予定ですが、「九州王朝(倭国)」の対語として「近畿天皇家(日本国)」ではバランスがとれません。何故なら、片や倭国の学術名「九州王朝」(古田先生命名)、片や日本国の「王族」の学術名「近畿天皇家」なのですから。もし、「近畿天皇家」と表記するのなら、「九州王朝(倭国)」側の対語は「筑紫王家」のようなものになります。
 本稿のケースでは、「大和朝廷」以外では「近畿王朝」という表記が適切かもしれません。「大和朝廷」では長岡京や平安遷都した時代が含まれませんから。他方、近畿天皇家が大和の「朝廷(朝堂院を有す宮殿)」に居して全国統治した藤原京・平城京の時代に限定する用語としては「大和朝廷」が明確です。その認識に立った場合、「大和朝廷以前」という表記が七〇〇年以前の九州王朝(倭国)の時代を表すことになります。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』という書名に用いた「大和朝廷以前」はこの認識に立ったものです。
 これまでわたし自身もそれほど深く考えることなく慣習として使用してきた学術用語について、多元史観・九州王朝説に立った厳密な理解や選考を古田学派で検討すべき時期が来ているのかもしれません。もちろん、どの学術用語を使用するかは研究者個人の学問の自由です。そして、その選択を支持するか否かも読者個々人の学問の自由です。
③『市民の古代』十一集(市民の古代研究会編、新泉社刊。一九八九年)は九州年号が特集され、各地で発見された「九州年号史料」の一覧等が掲載されている。
④丸山晋司『古代逸年号の研究 古写本「九州年号」の原像を求めて』アイビーシー出版、一九九二年。


第1516話 2017/10/13

九州年号「大化」の原型論(1)

 わたしは九州年号の「大化」が、古田先生のいうONライン(西暦七〇一年)をまたいで存在し、「大長」がそれに続いたとする説を発表してきました。「大化」年間を六九五〜七〇三年の九年間、「大長」年間を七〇四〜七一二年の九年間とする仮説です。更に「大長」年号を最後の九州年号とする論稿も発表してきました(注①)。それらに対して、谷本茂さんより「古田史学の会」関西例会(二〇一七年六月)や『古田史学会報』一四一号(二〇一七年八月)掲載の「倭国年号の史料批判・展開方法について」にて、「大化」「大長」の年次や期間について古賀説とは異なるものが諸史料中にあることから、古賀説の根拠に対して疑義が示されました。
 これは文献史学における史料批判と学問の方法に関わる重要なテーマを含んでいますので、谷本さんからの疑問に答えながら、改めて拙論を説明したいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「最後の九州年号 『大長』年号の史料批判」『古田史学会報』七七号所収、二〇〇六年十二月(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房〔二〇一二年一月〕に収録)。
 古賀達也「続・最後の九州年号 消された隼人征討記事」『古田史学会報』七八号所収、二〇〇七年二月(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房〔二〇一二年一月〕に収録)。
 古賀達也「九州年号『大長』の考察」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房所収。


第1515話 2017/10/11

『古田史学会報』142号のご案内

『古田史学会報』142号が発行されましたので、ご紹介します。

 拙稿では本年六月に開催した井上信正さんの「古田史学の会」記念講演会での質疑応答について論じました。太宰府条坊都市の成立を大和朝廷の藤原京と同時期とする井上説は古代史学界に激震をもたらしました。更に研究が進めば、太宰府の方が藤原京よりも成立が早いことも判明すると思われます。そうなると、九州王朝説でなければ説明がつかないことになります。太宰府現地の考古学者の研究と勇気に期待したいと思います。

 別役(べっちゃく)さんと久冨(くどみ)さんは会報デビューです。お二人とも熱心な会員さんで、これからの活躍が期待されます。久冨さんには先日の福岡講演会のお手伝い(書籍販売)もしていただきました。あらためて御礼申し上げます。

 このところ優れた投稿原稿が多く、中には1年待ちのものもあります。採用稿は必ず掲載しますので、申し訳ありませんがお待ちください。今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』142号の内容
○井上信正さんへの三つの質問 京都市 古賀達也
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(下) 川西市 正木裕
○古代官道 -南海道研究の最先端(土佐国の場合)- 高知市 別役政光
○気づきと疑問からの出発 相模原市 冨川ケイ子
○古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(2の上) 瀬戸市 林伸禧
○「壱」から始める古田史学(12)
古田説を踏まえた卑弥呼のエピソードの解釈① 古田史学の会・事務局長 正木裕
○大阪講演会の報告 京都市 久冨直子
○松本市講演会のお知らせ
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○『古代に真実を求めて』21集 投稿募集
○編集後記 西村秀己


第1514話 2017/10/09

久留米市田主丸で「積石水門」発見

 昨日の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡講演会(共催:久留米大学比較文化研究会・九州古代史の会・古田史学の会)は最後まで活発な質疑応答が続くなど、学問的にも盛況でした。遠くは宮崎県・長崎県・熊本県から参加された方もおられ、九州での古田史学(九州王朝説)への関心の高さがうかがわれました。更に筑紫野市の前畑筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生(福岡女学院大学講師)も見えられ、ご挨拶していただきました。
 九州での講演会ではいつも期待以上の学問的成果に恵まれます。今回も吉田正一さん(菊池市、久米八幡神社宮司)から久留米市田主丸石垣で神籠石山城の水門に似た「石垣高尾遺跡」が発見されていたとの情報が伝えられ、講演会受付を協力していただいた犬塚幹夫さん(古田史学の会会員、久留米市)からは同遺跡の報告書コピーをいただきました。
 犬塚さんからいただいた『石垣高尾遺跡 田主丸町文化財調査報告書第22集』(2003年、田主丸町教育委員会)によると、平成13年に三日谷川砂防ダム工事に伴う調査で発見され、記録保存のための緊急発掘調査の後、取り壊されたとのこと。
 地理的には高良山神籠石と杷木神籠石の中間地点にあり、軍事的要衝の地ではないようです。標高は100mの位置で、その石積みによる谷の水門遺構は神籠石山城の水門によく似ています。花崗岩の長方形石で8段積み上げられており、長さ11.4m(推定20m)、残存高3.8m、提体下部に吐水口があります。他方、山を取り囲むような列石は発見されておらず、その性格は不明と言わざるを得ません。積石から出土した須恵器が8世紀のものと編年されており、造営時期が古代まで遡る可能性が高いと思われます。なお、石積み中央部の石材上面と前面に星形(五芒星)が刻まれており、このような古代の刻印石材の存在は初めて知りました。他に同様例があれば、ご教示ください。
 当地の字地名「石垣」は、この積石水門と関係がありそうな気もしますが、今のところこれ以上のことはわかりません。遺跡が取り壊されたことは残念ですが、同地域の踏査が期待されます。
 なお、犬塚さんからの情報では、同遺跡を『続日本紀』文武3年(699)12月条に見える「三野城」(みののき)ではないかとする見解が研究者から示されているようです。
 「大宰府をして三野、稲積の二城を修らしむ。」『続日本紀』
 水縄(耳納)連山の「みのう」を三野(みの)と考える説ですが、当水門が山城の一部であることの考古学的証明がまず必要です。


第1513話 2017/10/07

すみません。鷲尾愛宕神社の海抜26mを海抜68mに訂正

福岡市西区の愛宕神社初参拝

 明日の久留米大学福岡サテライト教室での講演会のために、今日から福岡入りしました。時間があったので、福岡市西区姪浜の鷲尾愛宕神社を初参拝しました。博多湾や福岡市街を一望できるスポットです。急峻な参道を登ると博多湾に浮かぶ能古島や志賀島が眼前に広がります。山頂に愛宕神社社殿があり、そこはそれほど広い場所ではなく、社殿と社務所と展望台という感じでした。
 古田先生によれば『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」はこの愛宕神社の地とされています。そこで、その愛宕神社を実見したいと願っていました。今日、当地を初めて訪れて、思っていたよりも標高(海抜68m)があり、急峻で、頂上の社殿スペースが狭いということがわかりました。従って、博多湾岸を見下ろす小規模な「砦」、あるいは「物見台」には適地ですが、7世紀中頃の九州王朝(倭国)の天子の宮殿にふさわしい所とはとても思えませんでした。何よりも九州王朝の天子の宮殿を建てられるようなスペースがなく、少なくとも数百人には及ぶであろう、天子家族と衛兵・従者・側用人らの生活に必要な水源もないようです。それとも、衛兵や従者らは水と食料を持参し、山中に野営でもしたとするのでしょうか。戦場であればともかく、『日本書紀』に記されるほどの天子の宮殿に対して、わたしにはそうした光景は想像不可能です。
 また、この海岸に接した位置に天子の宮殿を造営しなければならない理由も不明です。もし造るのなら、より安全な水城の内側ではないでしょうか。当地は白雉改元の儀式や全国を評制支配する政治拠点には不適で、『日本書紀』にわざわざ「難波長柄豊碕宮」と記されるような場所とは思われませんでした(この点については古田先生も気づいておられたようで、そのことについては別途紹介します)。更に7世紀中頃の有力者(九州王朝の天子)が居したとするような現地伝承も見あたりません。
 古田先生が自説の根拠とされた地名の「類似」(那の津、名柄川、豊浜)にしても、愛宕神社の北側の地名が「豊浜」ですから、神社がある愛宕山(旧名:鷲尾山)を「豊碕」と推定する根拠は穏当と思います。しかし「長柄(ながら)」の根拠とされた名柄川は約1.5kmほど西側ですし、「ながら野」は南西方向へ約2.5kmの所にあり、神社のある「愛宕」とは別の場所です。「難波」地名も同地域には見あたりません。ですから、地名の「類似」という根拠もあまり学問的説得力を感じられません。
 もっとも、現存地名やその位置・範囲が7世紀中頃と同じかどうか不明ですから、「類似」地名による論証成立の是非は判断し難いと言わざるを得ません。やはり「決め手」は7世紀中頃の宮殿遺構の出土、あるいはその考古学的痕跡の発見です。これが明確になれば「一発逆転」が可能かもしれません。
 以上が現地訪問の感想ですが、結論を急がず、引き続き調査検討を進めたいと思います。


第1512話 2017/10/05

今月の読書、榎村寛之著『斎宮』

 九月に発刊された榎村寛之著『斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)を読み始めました。古代日本における「斎宮」「斎王」という制度には以前から関心を抱いていたのですが、本格的な勉強はしないままでした。天皇の娘を伊勢神宮の祭祀役(斎王)として派遣するという制度が大和朝廷で初めて行われたのか、前王朝である九州王朝(倭国)にその淵源があったのかについて研究してみたいと思っていました。その答えやヒントが同書から得られるのではないかという予感を抱いて「今月の読書」の一冊にしました。
 著者の榎村さんのお名前は知らなかったのですが、同書に記された「著者紹介」によれば、日本古代史を専攻され伊勢神宮や斎宮・斎王の研究者のようです。現在は三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長とのこと。もし、九州王朝の「伊勢神宮」「倭姫命」があれば、斎宮・斎王制度もあったかもしれません。どなたか多元史観・古田史学で「九州王朝の斎宮・斎王」を研究されませんか。


第1511話 2017/09/30

9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《9月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/09/06 『多元』141号のご紹介
2017/09/17 アウグスト・ベークに学ぶ
2017/09/18 優れた論証は学問を牽引する
2017/09/22 岩手大学の岡崎教授から来信


第1510話 2017/09/30

『戦後型皇国史観』に抗する学問

           をHPに転載

 「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」を担当されている横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)からの要請により、拙稿「『戦後型皇国史観』に抗する学問」を転載することになりました。同論稿は『季報 唯物論研究』の編集部より依頼されて執筆したもので、「中間総括・市民の日本古代史研究」を特集した138号(2017年2月)に収録されました。
 同誌は「古田史学の会」を一緒に立ち上げた藤田友治さん(故人、元・市民の古代研究会々長)も関わっておられた、立命館大学関係者が中心となって発行されているマルクス主義系の雑誌のようです。そうしたこともあり、「古田史学の会」役員会でも執筆依頼を受けるかどうか意見が分かれました。最終的には、わたしの意見を受け入れていただき、執筆することになりました。同特集には執筆予定者リストに反「古田武彦」、反「古田史学の会」の人物の名前が数名見られ、わたしが執筆しなければ、誤った古田史学の解説や古田先生への罵詈雑言が書かれた論稿のみとなりかねないと危惧していましたので、そのことを役員会でも理解していただきました。ですから、執筆した原稿を役員の皆さんに校正・チェックしていただきました。
 そうして書き上げた「『戦後型皇国史観』に抗する学問」は古田史学と「古田史学の会」の歴史的位置づけや使命を改めて表明したもので、古田先生を追悼する記念碑的論稿となりました。ホームページに転載されることにより、多くの皆さんに読んでいただけることを願っています。


第1509話 2017/09/28

王朝交代―倭国から日本国へ

松本市講演会

期日 2017年11月14日(火)
13時50分~17時
場所

於:長野県松本市中央図書館第一視聴覚室

(松本市蟻ケ崎二丁目4-40、JR松本駅から約1.5㎞、北松本駅から1㎞)

連絡先:鈴岡潤一さん ℡026-332-7402

講演

13時50分~14時 
開会あいさつ 邪馬壹国研究会・松本 
代表 鈴岡潤一

14時~14時50分 
古賀達也「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」

15時~16時30分
正木 裕「王朝交代-倭国から日本国へ」

以後質疑応答 17時終了

「邪馬壹国研究会・松本」
「古田史学の会」      共催

参加費

資料代1000円

10月、11月のイベントご案内

○誰も知らなかった古代史(21回)
日時:10月27日(金)18時30分〜20時
テーマ:「難波宮の官衙に官僚約8千人」
【カタリスト】服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)

○誰も知らなかった古代史(22回)
日時:11月24日(金)18時30分〜20時
テーマ:「大宰府に来ていたペルシャの姫」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

場所:まちライブラリー@森ノ宮キューズモール。
   〒540-0003 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2丁目1-70
・地下鉄中央線/長堀鶴見緑地線森ノ宮駅より徒歩約1分
・JR環状線 森ノ宮駅より徒歩約3分
 http://machi-library.org/where/detail/563/

定員30名(参加費ドリンク代500円)。

※「誰も知らなかった古代史」の申し込みは「森ノ宮まちライブラリー」まで
  TEL06-6949-9222 定休日=火曜日 受付=11:00〜19:00

○松本市講演会
 長野県松本市で「王朝交代―倭国から日本国へ」と題し、「邪馬壹国研究会・松本」と「古田史学の会」の共催で古代史講演会を開催します。ふるってご参加ください。

日時:11月14日(火)14時開会
14時〜14時50分 古賀達也「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
15時〜16時30分 正木 裕「王朝交代-倭国から日本国へ」
以後質疑応答 17時終了

会場:松本市中央図書館第一視聴覚室(松本市蟻ケ崎二丁目4-40、JR松本駅から約1.5㎞、北松本駅から1㎞)

参加費:1000円

連絡先:鈴岡潤一さん ℡026-332-7402


第1508話 2017/09/25

九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫

 九州王朝史研究の一テーマとして、九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫の調査があり、その研究成果については何度か説明してきました。「倭の五王」から筑紫君磐井たちは筑後地方に盤踞してきたと考えており、阿毎多利思北孤の時代、7世紀初頭になって筑前太宰府に遷宮します(倭京元年〔618年〕が有力候補)。そのとき、筑後に残った一族は稲員家(高良大社大祝の家系)を中心として現代まで御子孫が筑後地方や熊本におられます。ところが、太宰府に遷宮した多利思北孤の御子孫の行方がよくわからないままでした。
 かすかにその痕跡と思われる、戦国武将の筑紫広門を筑紫君の末裔とする史料が散見されるのですが、筑後の稲員家とは異なり、その系図などで確認することができていません。そこで今後の研究者のために筑紫広門を古代の筑紫君の子孫とする史料をご紹介することにします。
 その一つは、安政6年(1859)に対馬の中川延良により記された『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)です。平凡社東洋文庫版によれば次のような記事が見えます。

 「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞えたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子供をつれて黒田長政殿にも嫁し由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上。」平凡社東洋文庫『楽郊紀聞2』229頁

 東洋文庫編集者による次の解説が付されています。
 「筑紫広門。惟門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。再度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」

 ところが『太宰管内志』の「筑前国御笠郡筑紫神社」の項には次のように記されています。

 「さて此社の神官は筑紫氏にして初は社邊に居りたりしを後に兵革を業として天正ノ比武威を振ひし筑紫上野介廣門は此神官の後裔なり、(中略)又〔筑後志四巻〕に筑紫上野介藤原廣門入道宗薫は大職冠鎌足公の後胤にして藤太秀郷の末裔なり下野守尚門は少弐ノ一族にして筑前國御笠郡筑紫村を領じ筑紫を家ノ號とす其子秀門・其子正門・其子惟門・其子廣門なり天正年中惟門肥前國二上山の城より筑後國鷹取の城にうつれり」『太宰管内志』(上)668頁

 『太宰管内志』引用の「筑後國志」によれば、廣門の先祖は少弐氏で筑紫村を領地にしてから筑紫氏を名乗ったとあります。この記事が正しければ、筑紫廣門は古代の筑紫君の子孫ではないかもしれません。少弐氏の出自が不明ですので、今のところこれ以上のことはわかりません。
 筑紫氏といえばニュースキャスターの筑紫哲也さんが有名です。筑紫さんは大分県日田市のご出身とのこと。日田市に筑紫氏がいたことは不思議ですが、日田市出土の金銀象嵌鉄鏡と筑紫さんのご先祖と何か関係があるのでしょうか。ちなみに筑紫哲也さんは古田先生の九州王朝説をご存じで、生前、わたしもお葉書をいただきました。おそらく、自らの出自を九州王朝の筑紫君だったと思っておられたのではないでしょうか。