第1262話 2016/08/24

「阿志岐城跡」調査報告書を読む

 今朝は東京に向かう新幹線車中で『阿志岐城跡』確認調査報告書(筑紫野市教育委員会、2008年)を読みました。小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からいただいたものです。小林さんは考古学に詳しく、全国の主要遺跡や有名古墳はほとんど実見されており、「古田史学の会・関西」では「古墳の小林」と呼ばれています。わたしも古墳についてわからないことがあれば、小林さんから教えていただいています。
 「阿志岐城跡」調査報告書はカラー写真や地図が収録されており、同遺跡の全体像や太宰府・大野城・水城・基肄城との位置関係がよくわかります。説明では「阿志岐城」山頂から、北は太宰府や水城・大野城、南は基肄城・高良山神籠石山城が見えるとのこと。防衛に適した位置にあることもよくわかります。
 神籠石山城には城内に谷などの水源を有しており、多くの人の長期に及ぶ「籠城戦」を想定して造営されています。唐や新羅の軍隊に水城を突破され、太宰府が陥落した場合、大野城や神籠石山城に住民も含めて籠城し、眼下の敵陣に「夜討ち朝駆け」を続け、延びきった兵站を寸断し、侵略軍を殲滅するという持久戦を想定したものと思われます。隋や唐による侵略の恐怖にさらされた倭国では、首都の住民も守るという設計思想の山城を築城したのですから、住民の協力も得やすかったのではないでしょうか。
 ここの神籠石列石は高良山神籠石のような直方体の一段列石ではなく、四角に整形された積石による列石のようです。しかも耐震強度を高めるために「切り欠き加工」が施されています(わたしのfacebookに写真を掲載していますので、ご参照ください)。素人判断では高良山神籠石よりも技術的に高度であり、時代も新しいように思われました。
 この「阿志岐山城」について、「洛中洛外日記」で触れたことがあります。以下、再録します。

古賀達也の洛中洛外日記
第815話 2014/11/01
三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。


第1261話 2016/08/23

『二中歴』明治17年写本の調査

 「洛中洛外日記」で紹介してきました『二中歴』国会図書館本(小杉氏写本、明治10年)は、「古田史学の会」関西例会でカラーコピーを杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)からいただき、その存在を知りました。このことが契機となり、『二中歴』の他の写本についても調査したところ、国立公文書館に明治17年書写の『二中歴』があることをつきとめました。同写本はネットでは公開されていないため、いつも史料調査にご協力いただいている斎藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)にご相談したところ、早速、国立公文書館の『二中歴』の「年代歴」部分などの写真を撮影され、送っていただきました。
 現在、精査中ですので最終結論ではありませんが、同写本は前田家尊経閣文庫所蔵「新写本(実暁本)」、すなわち興福寺の実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した「新写本」を明治17年に書写したもののようです。この国立公文書館本には次の奥書があり、明治17年に前田家所蔵『二中歴』を書写したことがわかります。

 「明治十七年二月一日華族前田利嗣蔵書ヲ寫ス
            三級寫字生松本寛茂
  明治十七年四月 五等掌記樹下茂国校 印」

 また別のページにも次のようにあります。

 「明治十七年十二月十日校〔前田利嗣 蔵書ニ拠ル〕
             御用掛前田利鬯 印」

 ※一部、旧字を新字体に改めました。〔〕内は二行の朱書き細注。(古賀)

 これらの内容から前田家蔵書の『二中歴』を書写したことは疑えませんが、前田家にある「古写本」と「新写本(実暁本)」のどちらを書写したのかを更に調べてみたところ、次の理由から国立公文書館本は「新写本(実暁本)」の写本と考えられます。

1.「弘治三年十二月六七両日」に書写したとする実暁による「奥書」が書写されている。
2.「古写本」では虫食いで読めない部分(「不記年号」「明要十二年」の一部分)も、虫食前の字が書写されており、これは「新写本(実暁本)」からの書写でなければ不可能。
3.国立公文書館本を実見された斎藤政利さんの報告によれば、第一巻が「上」「下」の二巻に分けられている。第一巻を「上」「下」で分けているのは「新写本(実暁本)」であり、「古写本」は第一巻としてまとめられている。

 これらの点から、明治17年書写の国立公文書館本は尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」を書写したものと考えられます。同写本の全体を精査したわけではありませんから、現時点での所見として報告しておきます。
 国立公文書館本の「年代歴」部分を見て、次のような感想を持ちました。

1.「古写本」では虫食いにより現在では読めない字があるが、実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したときはあまり虫食いが進んでいなかったようで、そのためその「新写本」を書写した国立公文書館本の「年代歴」もほとんどの文字が書写されている。
2,従来、論点となっていた「年代歴」末尾の「不記年号」の文字もはっきりと書写されており、「古写本」の虫食い前の文字をそのまま書写したと思われる。

 以上のようなことが、国立公文書館本の史料事実から推定されます。こうなると、是非とも尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」も見てみたいと思います。尊経閣文庫に閲覧を申し入れるか、「新写本(実暁本)」の一部を影印本に収録した八木書店にその版元となった「新写本(実暁本)」の写真を見せていただけないか、頼んでみることにします。
 調査にご協力いただきました斎藤さんに改めて感謝申し上げます。


第1260話 2016/08/21

神稲(くましろ)と高良神社

 多元的「信州」研究の全国的な研究者ネットワークの形成を進めていますが、久留米市の研究者、犬塚幹夫さんから貴重な調査報告メールをいただきました。淡路島にも高良神社があったというもので、信州以外にもこうした分布があったことを、わたしは初めて知りました。犬塚さんのご了解を得て、転載します。

〔犬塚さんからのメール〕

古賀様
 
 洛洛メール便第438号で長野県下伊那郡豊丘村の「神稲(くましろ)」という地名が紹介されていました。
 わが久留米市でも「神代(くましろ)」の地名は「山川神代(やまかわくましろ)」や「神代橋(くましろばし)」として残っています。そこで久留米の「神代(くましろ)」について、「大日本地名辞書」と「太宰管内志」で調べてみたところ次のことがわかりました。

1.和名抄に御井郡「神氏」とあるのは「神代」の誤りである。
2.「神代」は「神稲」であり、高良神へ稲を供える里の意味である。
3.神代は久麻志呂(くましろ)と読む。
4.淡路国三原郡の「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
 
 淡路国にも「神稲」があることがわかりましたので、「大日本地名辞書」で「淡路国三原郡神稲郷」を見ると次のことがわかりました。

1.「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
2.「神稲」は久萬之禰(くましね)と読むべきであるが久萬之呂に転じたものであろう。
3.神稲は、神に供える稲を作る田の意味である。

 淡路国三原郡神稲郷は、現在南あわじ市となり神代社家、神代地頭方、神代国衙などの地名として残っているようですが、神代の読みは(じんだい)に変わっています。
 神稲が神に供える田であれば、神社が周囲にあるはずです。ネットで調べたところ南あわじ市に次のような高良系神社が見つかりました。

高良神社(南あわじ市八木国分)
高良神社(南あわじ市広田広田)
高良神社(南あわじ市賀集八幡南)
上田八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代社家)
神代八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代地頭方)
亀岡八幡神社境内社松浦高良神社(南あわじ市阿万上町)

 この神稲郷という地域の周辺になぜ高良神社が集中しているのか、神代国衙にあったと推測される淡路国府は関連があるのか、なかなか興味があるところです。
 南あわじ市の「神稲」の周辺に高良系神社があるということは、長野県下伊那郡豊丘村の「神稲」の周辺にも高良系神社がある可能性があります。洛中洛外日記第1246話で明らかにされた下伊那郡泰阜村の筑紫神社以外にも高良系神社が存在するかもしれません。これらのことも九州とどのように関係するのか興味あるところです。

久留米市 犬塚幹夫


第1259話 2016/08/20

『続日本紀』の中の多元史観
    (もう一つのONライン)

 本日の「古田史学の会」関西例会では、学問の方法論に関する茂山さんの発表など重要な報告が続きました。中でも、西村さんと正木さんからの『続日本紀』に見える「もう一つのONライン」とでもいうべき痕跡についての報告は興味深いものでした。古代官道の南海道が四国内の阿波国府から土佐国府のルートが変更されており、その変更が九州王朝から大和朝廷への王朝交代によるものという、西村さんの発見は画期的でした。
 南海道旧道は阿波国府・讃岐国府・伊予国府・土佐国府(333km)でした。新道は阿波国府・土佐国府(148km)へと短縮されたのですが(『続日本紀』養老2年5月条〔718年〕)、この変更は中心王朝から出発して土佐国府への最短ルートとしたもので、その中心王朝が九州から大和へ変更になったためとされたのです。素晴らしい発見です。なお、古代南海道のルートが変更されているという指摘は今井久さん(古田史学の会・会員、西条市)からなされており、今回の西村さんの発見の契機になったとのことです。

 わたしからは「評」系図の史料批判として系図を史料根拠に使用する難しさについて報告し、「異本阿蘇氏系図」などを根拠に評制の開始時期を7世紀初頭以前にまで引き上げることはできないとしました。また、以前から問題となっていた『二中歴』「年代歴」の虫喰部分を「不記年号」とする明治10年書写の国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』小杉写本を紹介しました。
 この他にも、茂山さんからの最新の論理学による「実証」と「論証」の解説など、普段はなかなか聞くことができない貴重な報告がありました。
 8月例会の発表は次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
①土左への交通路(南海道)の変更(高松市・西村秀己)
②巨大古墳は大和朝廷の政治的統一を表すものなのか(八尾市・服部静尚)
③定策禁中(その3)(京都市・岡下英男)
④記紀の真実3 神武東征は無った(大阪市・西井健一郎)
⑤岩波日本書紀の注に一つの疑問(相模原市・冨川ケイ子)
⑥前期難波宮造営の年代について(川西市・正木裕)
⑦古田先生の肉筆草稿新発見報告(奈良市・水野孝夫)
⑧「学問の方法」を整理して今後の「古田史学」を考える 〜パースの論理学をめぐって〜
 ※添付資料:『議論パターン』について(吹田市・茂山憲史)
⑨『二中歴』の「不記年号」問題の新史料(京都市・古賀達也)
⑩「評」系図の史料批判(京都市・古賀達也)
⑪『続日本紀』もう一つのONライン(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 7/23『邪馬壹国の歴史学』出版記念東京講演会の報告・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の案内・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の案内・その他


第1258話 2016/08/19

『二中歴』尊経閣文庫の「古写本」と「新写本」

 現存「九州年号群史料」として最も古く、九州年号の原型をよく留めているのが有名な『二中歴』(鎌倉時代成立)です。ただ残念ながら前田家の尊経閣文庫蔵「古写本」(室町時代の写本と見られています)のみが残っており、その他の写本はその「古写本」を再写したものですから、「天下の稀覯本」と称されています。尊経閣文庫には「古写本」と、その「古写本」を興福寺の実暁が弘治3年(1557)に書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した、いわゆる「新写本(実暁本)」が蔵されています。
 最近、わたしが注目した国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』(「国会図書館本」という)は明治10年(1877)に小杉榲邨氏が「影写」したものですが、その底本は尊経閣文庫の「古写本」でした。ただし、「古写本」には一部に欠失があり、その失われた箇所は「新写本(実暁本)」から「影写」されています。
 問題の九州年号が記された「年代歴」は「古写本」に残っており、小杉氏も「古写本」から「影写」されています。たとえば「古写本」に欠失している「侍中歴」の一部分は「新写本」から「影写」されているのですが、その部分は字体やレイアウト(段組)が「新写本」のものに変化しています。これは「影写」(底本の上に薄い紙を置き、底本の字をなぞってそっくりに模写する)ですから当然です。
 この小杉氏の「影写」による「古写本」から「新写本」への字体の変化は、国会図書館本の「侍中歴」部分にも現れており、ネットで閲覧可能です。それは「国会図書館デジタルコレクション」の『二中歴』第1冊のコマ番号72です。その右ページが「古写本」からの「影写」で、左のページは「新写本(実暁本)」からの「影写」です。全く字体もレイアウトも異なっていることがわかるでしょう。左ページ冒頭に、朱筆で「新写本」から写したことを小杉氏は注記しています。
 この国会図書館本の「侍中歴」部分が書き分けられていることは、八木書房『二中歴』からも判明します。というのも、八木書房の『二中歴』も底本は尊経閣文庫の「古写本」で、同じく欠失部分を「新写本」から収録しています。従って、「古写本」と「新写本」の両方の字体を八木書房版により確認することができます。先の国会図書館本の「侍中歴」の当該ページに対応するページも収録されていますので、比較しますと、小杉氏はそれぞれを「影写」しており、そのため字体もレイアウトもあえて統一せず、異なったまま国会図書館本を作成したことがわかります。
 上記の当該ページの写真をわたしのFacebookに掲載していますので、ご覧ください。小杉氏の丁寧な「影写」により、「古写本」と「新写本」の字体の違いなどがよく見て取れます。「新写本」の方が清端な字体とされています。


第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)


第1256話 2016/08/16

難波朝廷の官僚7000人

 難波宮址からは次々と考古学的発見が続いています。正木裕さんの説明によると、前期難波宮の宮域北西の谷から7世紀代の漆容器が3000点以上出土しているとのこと。しかも驚いたことに、平安京では宮域の北西地区に大蔵省があり、その管轄である「漆室」が隣接していました。前期難波宮においても宮域北西地区に「大蔵」と推定される遺構が出土しており、その北側の谷に大量の漆容器が廃棄されていたのです。この出土事実によれば、前期難波宮と平安京において律令官制に基づいた宮域内の同じ位置に同じ役所(大蔵省・漆室)が存在していたこととなります。
 こうした説明を聞き、わたしは驚愕しました。もし前期難波宮の時代の「九州王朝律令」と大和朝廷の『養老律令』(その基となった『大宝律令』)が類似していたとすれば、前期難波宮の宮域で勤務する律令官僚は7000人(服部静尚さんの調査による)ほどとなるからです。これほどの官僚群が勤務し、その家族も含めて居住できる宮殿・官衙と都市は、7世紀において大和朝廷の藤原宮(藤原京)と前期難波宮(難波京)しかなく、飛鳥清御原宮や大宰府政庁では規模が小さく、大官僚群とその家族を収容できません。
 論理と考古学事実から、こうした理解へと進まざるを得なくなるのですが、そうすると前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都と考えなければなりません。この問題は重要ですので、引き続き慎重に検討したいと思います。なお、前期難波宮出土の木柱や漆容器について、8月20日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さんから詳細な報告がなされる予定です。


第1255話 2016/08/15

前期難波宮出土木柱は羅城跡か

 最近、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が精力的に取り組まれている「難波京の羅城」調査ですが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える「難波の羅城」造営記事は考古学的には未発見であったことから、記事の信憑性が疑われてきました。ところが「難波京羅城」が存在していた可能性が高まりつつあるようなのです。
 服部さんは「難波京羅城」の存在を、これまで地名や文献からその痕跡を関西例会で報告されてきたのですが、過日のミーティングでは、大阪府文化財センターの江浦洋さんから聞かれた前期難波宮出土木柱の出土状況について、次のような興味深い考古学的事実について、正木裕さんから説明がありました。

1.同木柱は年輪セルロース酸素同位体比年代測定により、7世紀前半のものであり、前期難波宮の北側の東西柵列から出土したものである。
2.直径は約30cmと太く、単なる柵ではなく、土塀の柱と考えられる。
3.柵列は高低差のある地表に沿って並んでいる。言わば万里の長城のよう。

 以上のような考古学出土事実から、この東西柵列こそ羅城の跡ではないかと正木さんは考えられるとのことなのです。しかも、柵列の外側(北側)は谷となっており、前期難波宮を防衛する羅城にふさわしい位置にあります。なお、服部さんは宮域を区画する柵の可能性もあるとされています。
 服部さんが調査された「羅城」地名といい、今回の考古学的痕跡といい、難波京に羅城があったとする有力な証拠が着々と発見されています。なお、正木説によれば、天武8年条(679)の羅城造営記事は34年遡り、実際は645年のこととなり、まさに前期難波宮完成(652年)の前となります。服部さんの研究の進展が期待されます。


第1254話 2016/08/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(15)

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)は、「古田史学の会」関西例会で発表されてきた研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を正しく認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が聞こえてきたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
 冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
 こうして6世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起されている新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
 このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる段階ではないと、わたしとしては考えていますが、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
 最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。(了)


第1253話 2016/08/12

『古田史学会報』135号のご案内

 『古田史学会報』135号が発行されましたので、ご紹介します。本号は九州王朝研究の最新課題などの重要論文が掲載されています。

 正木さんからは、龍田神社の風の祭りは本来は九州王朝における阿蘇地方のものであったとする新説が発表されました。

 わたしからは九州王朝説にとって不利な三つの考古学的事実を「九州王朝説に刺さった三本の矢」として紹介、解説しました。また、熊本県の鞠智城創建年代を通説よりも早い6世紀末から7世紀初頭の多利思北孤の時代とする新説を報告しました。

 西村さんからは『別冊宝島 「邪馬台国」とは何か』に収録された渡邉義浩氏の『三国志』に関する論稿への批判論文が発表されました。

135号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』135号の内容
○盗まれた風の神の祭り 川西市 正木裕
○九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) 京都市 古賀達也
○古田先生が坂本太郎氏に与えた影響について 福岡市 中村通敏
○『別冊宝島 古代史再検証「邪馬台国とは何か」』の検証 高松市 西村秀己
○古田史学の会 第22回会員総会の報告
○鞠智城創建年代の再検討-六世紀末〜七世紀初頭、多利思北孤造営説- 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案①
黎明の九州王朝 古田史学の会・事務局長 正木裕
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○「邪馬壹国の歴史学」出版記念講演会の報告 八尾市 服部静尚
○古田史学の会・関西例会のご案内
○大阪府立狭山池博物館見学と講演のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第1252話 2016/08/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(14)

わたしが、九州王朝と摂津難波とは歴史的に関係が深いのではないかと気づいたのには、前期難波宮九州王朝副都説(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年4月)とは無関係に、次のような研究経緯があったからです。
2008年6月15日の「古田史学の会」関西例会で、わたしは「近江朝廷の正体 -壬申の乱の『符』-」という研究を発表しました。その目的は、2004年に『古田史学会報』61号で「九州王朝の近江遷都 -『海東諸国記』の史料批判-」という論文で、九州王朝が白鳳元年(661)に近江に遷都したとする仮説を発表したのですが、その仮説を傍証することでした。
『日本書紀』の「壬申の乱」の記事中に、近江朝廷側から「符(おしてふみ)」という上位者から下位者へ出す「命令書」が吉備や筑紫に発行されていることから、近江朝廷には筑紫や吉備よりも上位者がいたことになり、九州王朝説の立場からすれば、近江朝廷に九州王朝の有力者(筑紫や吉備よりも上位者)がいたことになり、この「符」という史料事実は九州王朝の近江遷都の傍証となり得るという研究発表でした。
その史料調査のとき、『日本書紀』中には「壬申の乱」以外には崇峻紀のみに「符」が現れることを知ったのです。それは「蘇我・物部戦争」の後に、河内で抵抗した捕鳥部萬(よろず)の遺骸を八つに斬れという何とも残酷な命令を「朝廷」が河内国司に出すという一連の記事中に「符」が現れます。先の近江朝廷の「符」が九州王朝からのものとすれば、この崇峻紀に見える「符」も九州王朝からのものとするのが、論理的一貫性と考えられ、いわゆる「蘇我・物部」戦争は九州王朝の命令により行われたのではないかと考えていました。
こうした研究経緯により、6世紀末頃に九州王朝は難波を制圧し、後に自らの直轄支配領域として天王寺を造営(倭京2年、619年)するに至ったと理解しました。そうした歴史的背景のもとに前期難波宮が副都として白雉元年(652)に造営されたものと思われます。このわたしの理解を強力に裏付ける衝撃的な論文が発表されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)です。(つづく)


第1251話 2016/08/12

『二中歴』国会図書館本の旧蔵者

 『二中歴』国会図書館本(小杉榲邨氏影写本)の旧蔵者が著名な蒐集家の大島雅太郎氏だったことがわかりました。昭和12年の尊経閣文庫『二中歴』出版の解説によると「大島雅太郎氏蔵小杉榲邨博士自筆本」と紹介されています。その頃までは大島氏が所蔵しており、戦後の財閥解体により散逸したようです。国会図書館本に押されている丸印が大島氏と関係するものかどうかは、まだ不明です。知られている大島氏の蔵書印とは異なるようです。
 下記はウィキペディアの「大島雅太郎」の解説です(一部修正しました)。

 大島 雅太郎【おおしま まさたろう、新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年/明治元年1月1日) – 1948年(昭和23年)6月9日】は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。
 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。