第1403話 2017/05/20

南方熊楠生誕150年

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつものi-siteナンバではなくドーンセンターで開催されました。7月まではドーンセンターで開催されますので、お間違えなきよう。
 今年は和歌山県が生んだ世界的天才学者、南方熊楠の生誕150年とのことで、岡下さんから南方熊楠の著作や学問研究スタイルについて報告がありました。鶴見和子さんの著書『南方熊楠』から引用された「南方の強みは、自分の経験及び自分で調べた資料にてらしあわせて、命題の妥当性をたしかめてみる、権威によって、たやすく信じることをしない、という点にあった。」という論評は、わたしが20代の頃読んだ「南方熊楠選集」の読後感と通じるところがあり、懐かしく思いました。
 わたしも久しぶりに「『副都詔』(天武紀)の史料批判」を発表させていただきました。その内容は「洛中洛外日記」1398話「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)話」をベースに、副都建設・遷都の手順や、水城築造などについても論究しました。
 5月例会の発表は次の通りでした。和泉史談会の矢野会長様にもご参加いただきました。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。

〔5月度関西例会の内容〕
①カグツチ神と「夏来にけらし」歌(大阪市・西井健一郎)
②「倭国」「日本国」認識の系譜(八尾市・服部静尚)
③日羅に関する考察(茨木市・満田正賢)
④皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武・元明天皇の考察(犬山市・掛布広行)
⑤「副都詔」(天武紀)の史料批判(京都市・古賀達也)
⑥「南方熊楠」生誕150年(京都市・岡下英男)
⑦フィロロギーと古田史学【その2】(吹田市・茂山憲史)
⑧ニギハヤヒの正体(東大阪市・萩野秀公)
⑨佐賀なる吉野に行幸した天子とは誰か(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 和泉史談会矢野会長様からご挨拶・会費入金状況・年間活動報告・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)で5/12西川寿勝氏(狭山池博物館)、中尾智行氏(弥生文化博物館)が講演「大阪の歴史資産を現代に活かす -学芸員の取り組み-」、5/26古賀が講演予定「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」・『古代に真実を求めて』21集企画案検討中・『古田史学会報』投稿要請・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会と懇親会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会5~7月会場変更の件(ドーンセンター、京阪天満橋駅近く)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)・東京(10/15)で開催・沖ノ島世界遺産認定の件・その他


第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第1401話 2017/05/19

前期難波宮副都説反対論者への問い(5)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮副都説」にわたしが決定的に傾いた瞬間(発見)がありました。それは上記の問4の「答え」に気づいたときのことでした。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650)二月条の大規模な白雉改元の儀式が行われた7世紀中頃の宮殿遺構候補が見つからず、永く考え込んでいた時期がありました。この白雉改元記事に関して、わたしは次のように論理展開していました。もちろん、実際は考察において右往左往しており、思考の順番は必ずしも一貫性があったわけではありません。

1.「白雉」は九州年号だから、この改元の儀式は九州王朝の宮殿で行われたはず。
2,その様子が『日本書紀』白雉元年(650)二月条に記載(盗用か)された。
3.その大規模な儀式を行うためにはかなり大規模な宮殿や「庭(朝廷)」が必要。
4.太宰府政庁Ⅱ期の宮殿では狭すぎて、白雉改元儀式の舞台とするには苦しい。
5,その点、7世紀中頃に造営された前期難波宮であれば、規模や様式(大規模な朝廷)は候補地として問題ない。
6.しかし、前期難波宮の造営は孝徳紀白雉三年(652)であり、まだ完成していない。
7.『日本書紀』白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿遺構がない。なぜだろう。

 このようにわたしの思考は展開(右往左往)していたのですが、四国の松山市(古田史学の会・四国の講演会)に向かう特急列車の中で、九州年号の白雉元年(652)は『日本書紀』の白雉元年(650)とは二年ずれているのだから、九州年号「白雉」改元儀式が行われたのは『日本書紀』にある650年ではなく652年。この年であれば前期難波宮はほぼ完成しているのではないかということに気づいたのです。そこで、松山駅に到着して迎えに来ていただいた合田洋一さん(「古田史学の会・四国」事務局長)にお願いして市内の大型書店に直行し、『日本書紀』を購入し「前期難波宮造営」記事の年次が652年であることを確認したのでした。その後、孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元記事が同三年二月条から切り貼りされたものである痕跡を発見し、「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」(『古田史学会報』76号2006年10月。『「九州年号」の研究』に収録)として発表しました。
 この瞬間、わたしは「前期難波宮九州王朝副都説」の論証は成立するのではないかとの思いを強くしました。そして論理展開は更に進み、九州王朝の副都前期難波宮で行われた白雉改元儀式に近畿天皇家の孝徳(あるいはその代理者)は参列したのではないか。だからこそ白雉改元の儀式の内容を正確に把握でき、『日本書紀』孝徳紀に儀式の詳細を記載することができたと考えたのです。
 『日本書紀』によれば当時の孝徳の宮は「難波長柄豊碕宮」(大阪市北区長柄豊崎と推定)とされており、前期難波宮がある大阪市中央区法円坂とは地下鉄で5駅ほどの場所ですから、改元儀式に参列可能な距離です(通説では前期難波宮を「難波長柄豊碕宮」としていますが、地名が異なります)。
 『日本書紀』に記された九州年号「大化」「朱鳥」については改元儀式記事の記載がないことから、この二つの年号の改元儀式に近畿天皇家の天皇は参列していなかったのではないでしょうか。というのも、前期難波宮は686年に焼失しており、「朱鳥」改元はその後になされていますし、九州年号「大化」は元年が695年ですから、どちらも前期難波宮が焼失後のことで、おそらくこの二年号の改元儀式は太宰府で行われたと思われます。ですから近畿天皇家は遠く離れた太宰府での改元儀式の詳細がわからず、『日本書紀』に記載できなかったとも考えられるのです。(つづく)


第1400話 2017/05/18

前期難波宮副都説反対論者への問い(4)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮造営を天武期とする際の根拠である飛鳥編年に対して、大阪歴博等の考古学者による干支木簡や年輪年代測定、理化学的年代測定による実証的反論を紹介してきましたが、それとは別に論理的な批判が西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から寄せられましたので、紹介します。次の通りです。

 「日本書紀を正しいとして創られた飛鳥編年によって導き出された難波宮の造営時期が日本書紀の内容と矛盾する。これは飛鳥編年そのものが間違っている証拠。」(西村秀己)

 骨太の論証スタイルを好む西村さんらしいシャープな論断です。もちろん、わたしも同意見です。古田学派の研究者であれば、『日本書紀』の記事の暦年を無批判に信用できないとするのは当然のはずです。
 たとえば孝徳紀の「大化」についても九州年号「大化」と50年のずれがありますし、「白雉」も九州年号「白雉」と2年のずれがあることは古田学派であれば周知のことです。持統紀の「吉野」関連記事が34年移動されていることも古田先生が論証されたところです。ですから、『日本書紀』暦年記事を「是」として成立している飛鳥編年やそれに基づく緒論を無批判に支持、依拠することもまた、古田学派ではありえないと思うのです。(つづく)


第1399話 2017/05/17

塔心柱による古代寺院編年方法

  今日、出張先の書店で別冊宝島『古代日本の伝統技術』を購入しました。わたし自身も業界誌『月刊加工技術』に「古代のジャパンクオリティー」という古代日本の各種技術を紹介するコラムを連載したこともあって、同書の内容に興味をそそられました。

 中でも「古代からの建築技術に隠された制振システム」に記された古代寺院の塔の制振構造の図に注目しました。ご存じのように寺院建築において五重塔などの優れた制振構造により、日本のような地震国にあっても寺院の塔が地震で倒れたという例はほとんどありません。その基本技術は中心の心柱とそれを囲む四天柱(してんばしら)と外側の側柱(がわばしら)の組み合わせにあるとされています。とりわけ、心柱の構造は制振技術のキーテクノロジーと見なされています。

 わたしは古代寺院の編年基準として瓦の様式編年の他に、この心柱の構造も編年基準の参考になると考えています。それは、7世紀頃(飛鳥時代)の心柱は基壇の地中に埋め込まれている「堀立型」であり、8世紀頃(白鳳時代〜奈良時代)になると基壇上の礎石の上に心柱が乗る形式(心礎上型)が主流となります。このことを大阪歴博の考古学者で古代建築の専門家、李陽浩さんから教えていただきました。

 わたしがこのことに興味を持った理由は、多元的「国分寺」研究において、7世紀に九州王朝の命により建立された寺院(国府寺)と、8世紀中頃に聖武天皇の命により建立された国分寺の遺構を区別する判断基準として、瓦の編年以外にも何かないものかと考えていたからでした。

 たとえば法隆寺は心柱の下に礎石はなく、地下空洞があり、今では地下部分の心柱は朽ち果てていますが、元々は心柱が地中に埋まっていたと見られています。他方、太宰府の観世音寺は心柱や側柱の礎石が残っており、基壇上の礎石に心柱などが乗せられていたことがわかっています。しかも、観世音寺の場合、心柱の礎石上面が他の側柱礎石上面よりもやや高い位置にあったようです。ちなみに、鎌倉時代以降になりますと、心柱の位置は更に上昇することが知られています。それは「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。

 わたしの研究では観世音寺の創建年は白鳳十年(670)ですから、九州王朝でも7世紀後半の白鳳時代には、塔の心柱は「堀立柱」方式から「礎石」方式に変わっていたと思われます。こうした塔の心柱の時代変遷が『古代日本の伝統技術』には描かれており、改めて多元的「国分寺」の編年研究に役立つことを確認できました。

 なお、現・法隆寺の移築元を創建・観世音寺とする説がありましたが、塔心柱の様式(礎石の有無)や柱間の距離が両者では全く異なっており、時代も規模も別物であることは一目瞭然です。学問研究の自由、学説発表の自由は尊重されなければなりません。ですから、このように「実証」とは大きくくい違う説が出てくることもあるものです。


第1398話 2017/05/14

前期難波宮副都説反対論者への問い(3)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 「前期難波宮九州王朝副都説」に反対し、前期難波宮造営を天武期とする意見があるのですが、それでは『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)についてどのような記事があるのかを見てみましょう。難波宮に関係する記事は次の通りです。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名としての「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」平定以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。天武が前期難波宮を造営させたというような記事は皆無です。
 たとえば①の難波に羅城を造営させたという記事は、羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」という表現も、自らとは異なる禮法を用いている王朝が難波に先在していたことを意味しています。③の記事は「副都詔」と呼ばれている有名な記事で、この記事を根拠に天武が前期難波宮を造営したとする見解がありますが、二年後の朱鳥元年に前期難波宮は消失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能という批判が考古学者からはなされています。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していることから、孝徳紀にあるように「白雉三年(652)」の造営とする見解が有力です。
 今回、この「洛中洛外日記」を執筆するにあたり、この「副都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。こうした発見ができるのも、学問論争の成果といえます。(つづく)


第1397話 2017/05/14

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(2)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮九州王朝副都説に対して、前期難波宮造営時期を天武期とする批判があります。その根拠は『日本書紀』の暦年記事を「是」として成立している一元史観の飛鳥編年です。その飛鳥編年の根拠が脆弱であり基礎データも間違っているとする服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論文(「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」『古代に真実を求めて』17集)が出されていることは既に紹介してきましたが、それ以外にも天武期造営説には次のような問題があることも指摘してきました。
 それは、もし天武が前期難波宮を造営したのであれば、なぜ『日本書紀』の天武紀に書かれずに、孝徳紀に書かれたのかという素朴な疑問に答えられないのです。『日本書紀』を編纂したのは天武の子や孫たちの世代であり、『日本書紀』で最も詳しく立派な人物として記されているのが天武であるにもかかわらず、国内最大規模で初めての朝堂院様式の前期難波宮の造営を天武紀に書かれていない理由を全く説明できません。
 一元史観の飛鳥編年が脆弱であることや、『日本書紀』の史料事実を副都説反対論者は説明できないまま、前期難波宮天武期造営説を主張するのは学問的に真摯な論争とは言い難いものです。(つづく)


第1396話 2017/05/13

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(1)

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから10年近くの歳月が流れました。主に「古田史学の会」関西例会で口頭発表し、『古田史学会報』に論文として発表してきたのですが、多くの賛成意見が示され、その立場から研究される論者も現れ、論証や史料根拠・傍証も多岐にわたりました。
 他方、少数ですが反対意見も出されています。わたしは、学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深めると考えていますから、賛否両論が出されたことに感謝しています。しかしながら、「前期難波宮九州王朝副都説」反対論者に繰り返し求めた次の四つの問いに対して、一人として明確な返答はなされませんでした。なかには、古賀の質問などに答える必要はないとされた論者もありました。

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 これらの質問に対して、近畿天皇家一元史観の論者であれば答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した前期難波宮である、と答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。
 七世紀中頃としては国内最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と比較しても遜色ありません。藤原宮や平城宮が「郡制による全国支配」のために必要な規模と律令官制に対応した朝堂院様式を持つ近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「評制による全国支配」のための九州王朝の宮殿と考えるべきというのが、九州王朝説に立った理解です。
 このような考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が前期難波宮九州王朝副都説なのです。(つづく)


第1395話 2017/05/13

「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田説紹介

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)からのメールで、歌手でタレントの武田鉄矢さんがラジオ番組「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を紹介されているとことをご連絡いただきました。下記のyoutubeで聞くことができます。かなり好意的な紹介でした。

https://www.youtube.com/watch?v=dGwnzDs2ckI

 武田鉄矢さんは博多のご出身でもあり、古田説に衝撃を受けたとのことです。思わぬところに古田ファンがおられるものだと、嬉しくなりました。わたしも学生時代にフォークバンドでリードギターを担当していたこともあり、武田鉄矢さん率いる「海援隊」のファンでした。まだそれほど有名になる前に開催された久留米市でのコンサートに行ったこともあります。機会があれば武田鉄矢さんにお礼のメールでも差し上げたいと思います。


第1394話 2017/05/12

前期難波宮出土百済土器の史的背景を問う

 今週、四国出張で高松市のホテルに宿泊しました。そのおり、高松市在住の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)と夕食をご一緒しました。話題は多岐にわたりましたが、特に前期難波宮九州王朝副都説への批判意見が脆弱すぎて、学問論争の体を為していないということで意見の一致をみました。
 確かに、わたしからの指摘や反論に答えないまま、前期難波宮九州王朝副都説の批判を続けるという姿勢はあまり学問的に誠実とは言えません。たとえば四年前に発表した下記の「洛中洛外日記」での指摘に対しても、無視されたままです。
 太宰府や北部九州ではなく、難波に百済や新羅の土器が濃密に出土しているという考古学的事実は、九州王朝説に立てば、前期難波宮九州王朝副都説以外ではうまく説明できないのではないでしょうか。
 学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深めると、わたしは考えています。是非、この指摘についてもご批判いただきたいと願っています。

【再録】古賀達也の洛中洛外日記
第562話 2013/05/26
難波宮出土の百済土器

 先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
 その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。

 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1〜2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(18頁)

 百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
 古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですか、近畿天皇家の「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をもっとも無理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることはご理解いただけるのではないでしょうか。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、同整地層から百済土器が出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝副都説の考古学的傍証として百済土器を位置づけることが可能となるのです。


第1393話 2017/05/12

『二中歴』研究の思い出(6)

 『二中歴』九州年号細注には仏教に関する記事が多いのですが、その中で最も印象に残ったものが、次の一切経受容記事でした。

「僧要」自唐一切経三千余巻渡

 九州年号の僧要年間(635〜639)に唐より一切経三千余巻が渡ったという記事です。一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピタカ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を総集したものです。総集目録として最も早いものは、前秦の道安(314〜385)による『綜理衆経目録』(六三九部八八六巻)とされ、その後も漢訳仏典の訳出の増加により次々と衆経目録が編纂され、唐代以前のものだけでも二十種に及ぶといわれています。
 そこで、この細注の「三千余巻」に相当する一切経を調査したところ、隋代(開皇17年、597)に費長房により撰述された『歴代三宝紀入蔵録』(一〇七六部、三二九二巻)が時期的にも巻数においても相応していることを発見したのです。そのことを『古田史学会報』12号(1996年2月)に「九州王朝への一切経伝来 『二中歴』一切経伝来記事の考察」として発表しました(『「九州年号」の研究』に収録)。
 このことから、『二中歴』細注が九州王朝史や九州王朝仏教受容史の復元研究にとって貴重な史料であることがわかりました。細注記事にはまだ意味不明なものがあり、これからの研究が待たれています。そしてそれらが判明したとき、九州王朝研究は更に進展することを疑えません。全国の古田学派の研究者に共に『二中歴』細注記事の研究に取り組んでいただきたいと願っています。


第1392話 2017/05/11

『二中歴』研究の思い出(5)

 『二中歴』九州年号細注の二つの寺院建立記事のもう一つが太宰府の観世音寺創建です。

「白鳳」(661〜683年)「対馬銀採観世音寺東院造」

 白鳳年間に観世音寺を東院が造ったという内容ですが、倭京二年の「難波天王寺」のように地名が付けられていませんから、九州王朝の人々であれば観世音寺だけでそれとわかる有名寺院ということと解さざるを得ませんから、九州王朝の都の代表的寺院の筑紫の観世音寺と思われます。
 『続日本紀』にも天智天皇がお母さんの斉明天皇のために造らせたとありますから、天智期に建立されたという細注記事そのものに矛盾はありません。ところが、飛鳥編年に基づく一元史観の通説によれば観世音寺の創建は8世紀初頭頃とされており、細注記事とは異なっていました。
 一方、考古学的には観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、7世紀後半に編年されてきたもので、これは細注記事と整合していました。ただ、近年は、この老司Ⅰ式を藤原宮の瓦の新式と類似しており、7世紀末頃から8世紀初頭へと新しく編年する論稿が出されています。この点は当該論文を精査したうえで、別に論じたいと思います。
 白鳳は23年間続いていることもあり、『二中歴』細注記事では創建年に幅がありました。そのため、より詳しく観世音寺創建年を記した史料を探していたところ、『勝山記』『日本帝皇年代記』に「白鳳十年」(670)と具体的年次が記されていたことが発見されました。このように、『二中歴』細注による観世音寺造営記事が他の史料や考古学編年と対応していることが明らかとなったわけです。(つづく)