第1022話 2015/08/13

告貴元年の「国分寺」建立詔

 「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)において、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の次の「国分寺(国府寺)建立」記事を紹介しました。

「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 そして、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事が九州王朝による「国府(分)寺」建立詔の反映ではないかと指摘しました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 以上の考察は後代史料に基づいたものですが、今回、検討を続けている「武蔵国分寺」についていえば、「七重の塔」の造営を7世紀後半と考えると、告貴元年(594)より半世紀以上遅れてしまいます。そうすると、九州王朝による「武蔵国分寺」建立とする仮説は、文献(史料事実)と遺跡(考古学的事実)とが「不一致」となり、ことはそれほど単純ではなかったのかもしれません。

 もちろん、全国の「国分寺」が一斉に同時期に造営されたとも思えませんから、武蔵国は遅れたという理解もできないことはありません。しかし、そうであっても半世紀以上遅れるというのは、ちょっと無理がありそうです。「武蔵国分寺」の多元的建立説そのものは穏当なものと思われますが、あまり単純に早急に「結論」を急がない方がよさそうです。(つづく)


第1021話 2015/08/12

「武蔵国分寺」の設計思想

 「武蔵国分寺」の異常な伽藍配置は九州王朝による「国分寺」建立多元説によっても説明や理解が難しい問題が残されています。たとえば次のような点です。

1.最初に「七重の塔」が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。
2,金堂や講堂などの主要伽藍は回廊内に造営されているが、なぜそのときに回廊内に「塔」も新たに造営されなかったのか不明。
3.既にあった「七重の塔」が立派だったので、回廊内には「塔」を造営しなかったとするのであれば、なぜその立派な「七重の塔」の側に主要伽藍を造営し、共に回廊で囲まなかったのか、その理由が不明。
4.もし「七重の塔」とは無関係に別の国分寺を造営したとするのであれば、南門を含む外郭が主要伽藍から離れた位置にある「七重の塔」の地域をもいびつな四角形(厳密に観察すると四角形ともいえないようです)で囲んだのか不明。

 以上のような疑問だらけの「武蔵国分寺」なのですが、その状況から推測すると、次のような「設計思想」がうかがいしれます。

(A)金堂など主要伽藍造営者は「七重の塔」や東山道武蔵路のような南北方向に主軸を持つ築造物と同一の主軸方位とすることを「拒否」した。「受け入れることはしない」という主張(思想)を自他共に明確にしたかったと考えられる。
(B)それでいながら、回廊内に「塔」は「新築」せず、既に存在していた「七重の塔」を存続、代用した。すなわち、「七重の塔」の「権威」を完全には否定(破壊・移築)できなかった。
(C)その後、「七重の塔」の「権威」を取り込むかのように外郭を定め、その外郭に「南門」を造営した。すなわち、「七重の塔」の「権威」をいびつな外郭で取り込んだ。

 以上、いずれも論理的推測に過ぎませんが、南北軸から意図的に西にふった主要伽藍の主軸の延長線上に何が見えるのか、9月5日の現地調査で確かめたいと思います。なお、現地調査には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)も同行していただけることになりました。楽しみです。(つづく)


第1020話 2015/08/11

「武蔵国分寺跡」の多元性

 武蔵国分寺資料館の「解説」が不可解なものにならざるを得ない主原因はやはり大和朝廷一元史観にありそうです。一元史観であるために次の二つの「呪縛」から逃れられないのです。

呪縛1:建設主体者は一人だけ(近畿天皇家支配下にある当地の有力者)
呪縛2:創建時期は聖武天皇による「国分寺建立」の詔(天平13年、741年)以後

 このため、誰が見ても不可解な伽藍配置の矛盾、すなわち塔(七重)だけが南北方向の方位で、しかも金堂などの主要伽藍から離れた位置に造営されているという遺跡の状況がうまく説明できないのです。しかし、九州王朝による「国分寺」建立という多元史観に立ったとき、次のような理解が可能となります。

1.塔とその他の主要伽藍(金堂・講堂・回廊など)とは異なった時期に異なった権力者により造営された。
2.南北方向に主軸を持つ塔(その西側から発見された「塔2」も)はすぐ側を走る東山道武蔵路と方位を同一としていることから、両者の造営は同一の権力者(九州王朝あるいはその配下の有力者)の意志のもとに行われたと考えられる。
3.東山道武蔵路からは7世紀中頃の須恵器が出土していることから、その造営は7世紀中頃以前にまで遡る可能性がある。
4.東山道武蔵路とほぼ同一方位により造営された塔は東山道造営と同時期か、その後の7世紀後半頃の造営と見なしても問題ない。
5.その塔が文献によれば「七重」という巨大な規模であることを考慮するなら、より「小規模」な塔である法隆寺や四天王寺よりも後の造営と見なしたほうが自然である。このことからも7世紀後半頃の造営とする理解は穏当である。
6.こうした理解が妥当であれば、九州王朝系権力者が塔だけを造営したとは考えにくいことから、塔の周辺に金堂などの主要伽藍が造営されていたのではないか。
7.そうであれば、七重の塔の西側約55mの位置から発見された「塔2」とされた遺構は、この九州王朝時代の主要伽藍の一つではないかとする視点が必要である。
8.同様に、塔と同じくその方位を南北とする国分尼寺(東山道を挟んで国分寺の反対側の西側にある)も九州王朝系のものではないかという可能性をもうかがわせる。

 以上のような作業仮説(思いつき)を論理的に展開できるのですが、ここまでくればあとは現地調査が必要です。そこで、9月6日に開催される『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会の前日の5日に東京に入り、「武蔵国分寺跡」を訪問しようと考えています。関東の会員の皆さんの参加や共同調査を歓迎します。集合場所・時間は下記の通りです。事前にメールなどで参加申し込みをお願いします。(つづく)

「武蔵国分寺跡」現地調査企画
目的:「武蔵国分寺」多元的建立説の当否を確かめる。
集合日時:9月5日(土)12:00
集合場所:JR中央線 国分寺駅改札前
必要経費:タクシー代(割り勘)と武蔵国分寺資料館入館料。気候が良ければ徒歩20分とのことですので、駅から歩くかもしれません。

※ 当日12時に集合した後、駅付近で昼食をとり、その後に資料館・遺跡へ向かいたいと思います。
当日の夜は国分寺市内のホテルでの宿泊を検討しています。お時間のある方は夕食もご一緒しませんか。


第1019話 2015/08/10

「武蔵国分寺跡」の不可解

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた「武蔵国分寺」の不思議な遺構について、調査検討を進めています。今回、特に参考になったのが国分寺市のホームページ中の武蔵国分寺資料館のコーナーでした。その中のコンテンツ「武蔵国分寺の建立」(武蔵国分寺資料館解説シートNo.4)によれば、次のように創建過程を解説されています。

 まず、「3種の区画の変遷があったことなどがわかりました。」として、次のように記されています。

区画1:塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍
区画2:区画1の西側の溝を埋め、中心を西へ200m移動させ西へ範囲を拡大、尼寺の区画も整備
区画3:寺院地区画を東山道まで延長する拡充整備

 以上のように区画の段階を示し、次のように造営時期の編年をされています。

創建期(8世紀中頃〜)
国分寺建立の詔によって造営が開始される時期
○区画1の寺院地が定められ、中心付近に塔を造立

僧・尼寺創建期(〜8世紀末)
僧・尼寺の主要な建築物が造られる時期
○区画2もしくは区画3で、僧・尼寺の創建期および僧尼寺造寺計画の変更
○区画2もしくは区画3で、造寺事業完了

整備拡充期(9世紀代)
承和12年(845)を上限とする整備拡充期で、塔が再建されるもっとも整備されていた時期
(以下、省略します)

 以上のような解説がなされているのですが、わたしには不可解極まりない説明に見えます。それは次のような点です。

疑問1.武蔵国分寺の塔は回廊の外側(東側)にある。普通、塔は金堂や講堂などと共に回廊内にあるものである。
疑問2.区画1の説明として「塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍」とあるが、その中心に建てられた塔はほぼ南北方向に主軸を持ち、その西隣に近年発見された「塔2」も同様に南北方向であり、その方位は「真北から約7度西に傾く伽藍」配置との整合性が無い。
疑問3.寺院建立にあたり、最初に「塔」を造営するというのも不自然である。しかも、金堂とは別に回廊の外側に方位も異なって造営したりするだろうか。
疑問4,仮にこの順番と編年が正しいとした場合、塔を造営してから50年近く後に、金堂などの主要伽藍が造営されるというのも奇妙である。普通、金堂と塔は同時期に造るものではないのか。

 ざっと読んだだけでもこれだけの疑問点が出てきます。失礼ながら同資料館の「解説」は不可解極まりないと言わざるを得ないのです。こうした不思議な状況は、肥沼さんが指摘されたように、九州王朝による多元的「国分寺」建立説という仮説を導入する必要がありそうです。(つづく)


第1018話 2015/08/09

「武蔵国分寺」の多元論

 「洛中洛外日記」1016話で九州王朝の「国分寺」建立説を紹介したところ、読者の方からメールをいただきました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)からは、『二中歴』に見える経典渡来記事に基づいてのご意見をいただき、メール交信を行いました。その内容については「洛中洛外日記【号外】」で紹介したところです。
所沢市の肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)からは、武蔵国分寺(国分寺市)についての興味深い情報が寄せられました。その概要は、武蔵国分寺の遺構の主軸が近くを通っていた古代官道「東山道武蔵路」の方位(ほぼ南北方向)とずれているが、塔の礎石だけは「東山道武蔵路」とほぼ方位が一致しているというのです。

 肥沼さんの研究によれば「東山道武蔵路」は九州王朝により造営されたものであり、その方位とずれている武蔵国分寺の主要伽藍と、方位が一致している塔は聖武天皇が建立を命じた8世紀の国分寺と、それに先行した九州王朝による国分寺という多元的「国分寺」建立説により説明できるのではないかという仮説を提起されたのです。

 かなり面白い仮説だと思います。わたしは関東の古代寺院などについてはほとんど知識がありませんので、肥沼さんのメールにはとても驚きました。これから勉強したいと思います。会員や読者からの素早い反応や情報提供はインターネット時代ならではですね。肥沼さん、ありがとうございました。


第1017話 2015/08/08

『古田史学会報』129号のご紹介

 今日、8月8日は古田先生89歳のお誕生日です。ちょうどできたばかりの『古田史学会報』129号が送られてきましたのでご紹介します。
 正木さんからは会員総会記念講演会で発表されたテーマ「孫権と俾弥呼 -俾弥呼の「魏」への遣使と「呉」の孫権の脅威-」を寄稿していただきました。三国時代の魏と呉の対立の影響により、日本列島内でも倭国と狗奴国(銅鐸圏)との対立という連動した構図になったことが述べられています。
 清水さんは会報初登場です。わたしからは今年から研究をスタートさせた鞠智城問題と、「みょう」地名に関する考察を報告しました。
 最近、新入会員が増加していることもあり、古田史学の初心者向けに「『壹』から始める古田史学」の新連載が正木事務局長により開始されました。本シリーズがまとまった量になれば、古田史学入門用のパンフレットとしても使用できるのではないかと期待しています。掲載稿は次の通りです。

 『古田史学会報』129号の内容
○孫権と俾弥呼 -俾弥呼の「魏」への遣使と「呉」の孫権の脅威-  川西市 正木裕
○鞠智城と神籠石山城の考察  京都市 古賀達也
○四国・香川県の史跡巡り  神戸市 清水誠一
○大化改新論争  八尾市 服部静尚
○「相撲の起源」説話を記載する目的  京都市 岡下英男
○九州・四国に多い「みょう」地名  京都市 古賀達也
○『古代に真実を求めて』第19集 原稿募集
○古田史学の会 第21回会員総会の報告
○会代表退任のご挨拶  水野孝夫
○代表就任のご挨拶  古賀達也
○「壹」から始める古田史学1  古田史学の会事務局長 正木裕
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1016話 2015/08/05

九州王朝の「国分寺」建立

 最近、服部静尚さんが熱心に研究されている「最勝会」問題に関連して、先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、九州王朝の「国分寺」建立問題について検討しました。

 国分寺は聖武天皇の命により8世紀に諸国に建立されたものですが、それ以前に九州王朝が「国分寺」を建立したとする説が、わたしの記憶では20年以上前に提起されていたと思います。国家鎮護の法会を営むために諸国に「国分寺」が建立されたと、わたしも考えるのですが、その時期はいつ頃だろうかと正木さんにたずねたところ、「九州王朝により66ヶ国に分国された頃ではないか。分国された諸国の寺だから国分寺という名称になったのではないか。」との見解を述べられました。まことにもっともな意見です。したがって、九州王朝の「国分寺」建立は多利思北孤の時代と考えてもよさそうです。

 各地に「聖徳太子」創建伝承を持つ寺院がありますから、それらを九州王朝「国分寺」の候補として、今後調査研究してみたいと思います。たとえば東近江の石馬寺なども創建当時のものとされる扁額が残っていますから、科学的年代測定が可能です。まずは各地の「聖徳太子」創建伝承寺院の分布図作りから始めてはどうかと思います。どなたか研究していただければ、ありがたいのですが。


第1015話 2015/08/04

「還暦」の想い出

 今日は仕事で名古屋に来ています。明日も当地で仕事ですのでホテルに泊まるのですが、明日、わたしは還暦(60歳、「還暦」の正確な定義は本稿末尾の西村注をご参照ください)を迎えます。還暦を迎えるのにふさわしい一日を過ごしたいと考えていますが、この「還暦」の想い出をご紹介します。
 今から29年前、わたしは初めて古田先生にお会いしました。「市民の古代研究会」主催の茨木市での講演会で初めて先生の謦咳に接したのです。
 その年、古田先生の名著『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版)を伏見の書店で偶然見つけ、夜を徹して読み続けました。わたしが真実の古代史を知った瞬間でした。その後、次々と古田先生の著作を買い求め、その日のうちに読破するという日々が続きました。学問とはこのようにするのかという感動に打ち震えながら、この古田武彦という人物に会ってみたいという願望が日増しに高まったのです。
 そうしたとき「市民の古代研究会」という古田先生を支持する研究会の存在を知り、当時、同会事務局長だった藤田友治さん(故人)に電話で入会を申し込みました。そうして古田先生の講演会に参加する機会を得ました。残念ながら講演の内容は全く覚えていませんが、講演後の懇親会の様子は今でも鮮明に記憶しています。
 著書の内容から素晴らしい人物だと思ってはいたのですが、同時に熱狂的なファンに囲まれていましたので、ちょっと用心深く観察していました。懇親会は古田先生の還暦のお祝いも兼ねており、赤い頭巾やちゃんちゃんこが古田先生にプレゼントされ、先生もにこやかに着ておられました。その後、参加者との質疑応答が始まり、初心者のわたしからの低レベルの質問に対しても懇切丁寧に答えられ、本当に「腰が低い」人物であることがわかりました。以来、わたしはこの人を学問の師とすることを決め、今日に至っています。
 わたしが古田先生に初めてお会いしたときの先生の年齢(還暦)を、明日、自分が迎えるのですが、感慨無量というほかありません。未だ先生の足下にも及びませんが、わたしの人生最大の決断は間違っていなかったと深く確信しています。

(西村秀己さんからのご注意〉
 「還暦」の解釈は大いに問題です。古賀さんの生まれた1955年は乙未でこの干支に還ることを「還暦」と言います。従って全ての人は自分の誕生日ではなくその年の「元旦」を迎えた時が還暦になります。この問題は「還暦」だけではなく「古稀」「喜寿」など全てに相当します。


第1014話 2015/08/03

九州王朝説への「一撃」

 先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、最勝会の開始時期を『二中歴』「年代歴」の記事にあるように白雉年間とするのか、通説のように「金光明最勝王経」が渡来した8世紀以降とするのかという服部さんの研究テーマについて意見交換しました。そのおり、仏教史研究において、九州王朝説への「一撃」とも言える重要な問題があることを指摘しました。
 九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。
 同様の問題が宮殿遺構においても、九州王朝説への「一撃」として存在していました。すなわち7世紀中頃としては列島内最大規模で初の朝堂院様式を持つ前期難波宮の存在でした。通説通り、これを孝徳天皇の宮殿とすれば、この時期に評制施行した「難波朝廷」は近畿天皇家となってしまい、九州王朝説が瓦解するかもしれなかったのです。この問題にわたしは何年も悩み続け、その末に前期難波宮九州王朝副都説に至り、この「一撃」をかわすことができたのでした。
 これと同様の「一撃」こそ、7世紀初頭の寺院分布問題なのです。このことを正木さん服部さんに紹介し、三人で論議検討しました。この検討結果については、これから少しずつ紹介したいと考えていますが、こうした問題意識から、わたしは『古代に真実を求めて』20集の特集テーマとして「九州王朝仏教史の研究」を提案しました。今後、編集部で検討することとなりますが、この九州王朝説への「一撃」を古田学派は逃げることなく、真正面から受けて立たなければなりません。


第1013話 2015/08/02

新入会員、急増中!

 このところ新入会の会員が急増していると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から報告がありました。入会申し込みされた方に対して、正木さんは電話などで入会受付したことを連絡し、入会動機などを聞かれているのですが、その中には「洛洛メール便」配信希望が理由の方もおられ、「洛中洛外日記【号外】」を読みたい為とのこと。「洛中洛外日記」を書いているわたしとしては大変ありがたく、うれしいことです。
 最近、「洛洛メール便」で配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次のようです。会員の皆さんの配信申し込みを受け付けていますので、この機会にお申し込みください。配信担当者は竹村順弘事務局次長です。

「洛中洛外日記【号外】」(2015/07/11〜08/01) タイトル
2015/07/11 『月刊 加工技術』連載コラム
太宰府防衛の巨大要塞「水城」
2015/07/13 『「邪馬台国」論争を超えて』の目次(案)
2015/07/14 『古代に真実を求めて』19集のタイトル検討
2015/07/19 愛知サマーセミナー受講者の感想文
2015/07/22 ユーチューブで「古田史学解説」企画中
2015/07/29 KBS京都ラジオ「本日、米團治日和」に出演依頼
2015/08/01 9月6日、東京講演会の打ち合わせ


第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。


第1011話 2015/08/01

宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝

 7月29日(水)の読売新聞朝刊に不思議な記事が掲載されていました。「大和王権と続縄文 交流と軋轢」という大和朝廷一元史観丸出しの見出しで紹介された宮城県栗原市・入の沢遺跡の記事です。
 記事によれば、宮城県栗原市の入の沢遺跡で発見された、古墳時代前期(4世紀)の集落跡から銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土したとのこと。集落は標高49mの丘陵上にあり、環濠で囲まれており山城のような防御遺構とされています。
 わたしが注目したのは建物跡から出土した珠文鏡などの銅鏡です。銅鏡をシンボルとする文明圏に属する集落と思われますから、いわゆる「蝦夷国」ではなく、九州王朝系に属する遺構と思われるのですが、その時期が4世紀と編年されていますから、邪馬壹国の卑弥呼と「倭の五王」の間の時間帯です。わたしのこれまでの認識では、倭王武の伝承と思われる『常陸国風土記』の倭武天皇伝承によれば、5世紀段階でも九州王朝の勢力範囲は北関東・福島県付近までと考えていたのですが、入の沢遺跡の発見により4世紀段階で宮城県北部まで「銅鏡文明」が進出していたこととなり、九州王朝説の立場からも再検討が必要と思われます。
 また、「洛中洛外日記」515話で紹介した新潟県胎内市の城の山古墳(4世紀前半と編年されている)から出土した盤龍鏡とともに、この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです。現地の古田学派研究者による調査検討が期待されます。