第1010話 2015/07/31

古田武彦著

『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』復刊

 1993年に原書房から刊行された古田先生の著作『古代史をゆるがす — 真実への7つの鍵』が、この度ミネルヴァ書房から復刊されました。
 同書巻頭には美しいカラー写真が収録されており、印象深く記憶に残っている一冊でした。今回、改めて読み直しましたが、7つの重要な論点がそれぞれ独立していながらも、九州王朝という概念を明確に浮かび上がらせるという見事な構成となっています。その7つの論点は次の通りですが、古田史学や九州王朝説が初学者にとっても興味深く理解できる好著です。お持ちでない方は、この機会に是非書架に揃えていただきたい本です。

『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』の論点

第1の鍵 足摺に古代巨石文明があった
第2の鍵 宮殿群跡の発見と邪馬一国
第3の鍵 祝詞が語る九州王朝
第4の鍵 「縄文以前」の神事
第5の鍵 立法を行っていた「筑紫の君」磐井
第6の鍵 「十七条憲法」を作ったのは誰か
第7の鍵 もうひとつの万葉集


第1009話 2015/07/28

九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補に

 今日は出張で高松市に来ています。三年越しのビジネスが成立したこともあり、高松市にお住まいの西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)と夕食をご一緒し、祝杯につきあっていただきました。もちろん話題は最近の古代史研究についてと「古田史学の会」のこれからの展開についてでした。
 夜遅くホテルに戻りますと、テレビニュースで玄界灘の孤島「沖ノ島」が世界遺産候補になったと報道されていました。「海の正倉院」とも呼ばれている「沖ノ島」は島全体が古代祭祀遺跡ともいうべきもので、出土した遺物数万点は国宝に指定されています。
 女人禁制の島としても有名ですが、九州王朝の聖地でもあります。古田先生の『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房より復刊)で詳しく論証されていますが、記紀の建国神話(国生み神話)に登場する「天両屋(あまのふたや)」は「沖ノ島」であると指摘されています。その決め手となった根拠は「沖ノ島」の傍らにある小さな島の名前が「小屋島」ですから、「沖ノ島」の本来の名前は「大屋島」となり、この大小二つの「屋島」が「天両屋」と呼ばれていたと考えられることです。「沖ノ島」という名前は宗像から見て沖にある島だからそう呼ばれたと思われます。
 九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補になったことは九州王朝説論者としては喜ばしいことであり、これを機会に更に「沖ノ島」の多元史観による研究の深化が期待されます。

『ここに古代王朝ありき』第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 沖の島の探究


第1008話 2015/07/27

米團治さんとの京の一夕

 昨日、落語家の桂米團治さんと夕食をご一緒しました。とても上品で誠実な方でした。加えて、関西落語界のホープと目されるだけあって、「花」がある方でした。
 米團治さんと知り合うきっかけは、米團治さんのブログで四天王寺に関するわたしの説を紹介されたことでした。地名は「天王寺」なのに何故そこにあるお寺は「四天王寺」なのかということを「洛中洛外日記」で論じたことがあるのですが、そのことを知った米團治さんがご自身のブログで触れられたのです。今年になって、そのお礼として『盗まれた「聖徳太子」伝承』をお贈りし、昨日の食事会となったわけです。
 たまたまご近所に米團治さんのお父様の米朝師匠と親しかったご婦人がおられ、家族でおつき合いをしていたこともあって、米團治さんの連絡先を教えてもらえたことも幸いでした。
 米團治さんとはもちろん古代史の話で盛り上がったのですが、古代史関係の本を実にたくさん読んでおられたのには驚きました。わたしが知らない著者の本もお持ちでした。また、共通の知人に上岡龍太郎さんがおられることもわかり、上岡さんが古田ファンであることもご存じでした。わたしからは、古田学派による最先端研究の状況を説明させていただきました。
 前日に古田先生から『古代に真実を求めて』17集に米團治さん宛のサインを書いていただいていましたので、その本も進呈させていただきました。ちなみに、古田先生の奥様は米朝師匠のファンだったそうです。
 これをご縁に、これからも古代史談義の場を持てることとなりそうです。とても素敵な京の一夕でした。


第1007話 2015/07/25

古田先生へのご挨拶

 本日、JR桂川駅のイオンモール2階の食堂で、古田先生と「古田史学の会」役員とで昼食をご一緒し、役員交代のご挨拶をしました。「古田史学の会」からは水野顧問・正木事務局長・竹村事務局次長・服部編集責任者とわたしが出席し、古田先生のご子息の古田光河(ふるたこうが)さんも同席されました。2時間ほど懇談したり、古田先生の新発見テーマなどをお聞かせいただき、楽しい昼食会となりました。
 服部さんからは、ミネルヴァ書房から発行予定の『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の企画概要が説明され、古田先生のメッセージ執筆依頼を行いました。
 わたしからは、最近取り組んでいる鞠智城や熊本県あさぎり町才園古墳出土の鍍金鏡について報告し、古田先生のご見解を求めました。先生も関心を持っておられたようで、まず鍍金鏡の実物を見ることが重要とのご指摘をいただきました。
 この8月8日で古田先生は89歳になられますが、研究や執筆意欲は旺盛なご様子でした。足腰が弱られているようで、光河さんが車椅子で先生をご自宅まで送られました。皆で記念写真をとり、お別れの際、先生は車椅子から立ち上がられ、丁重にお辞儀をされました。わたしたちは先生のご長寿を祈り、古田史学の継承・発展を心に誓いました。

古田史学会役員交代挨拶

向かって左から水野前代表、正木事務局長、古賀代表、古田光河氏、服部編集長、中央が古田武彦氏


第1006話 2015/07/22

「愛知サマーセミナー」の反省点

 7月19日に開催された「愛知サマーセミナー」の私自身の反省点についても考えてみたいと思います。思いつくだけでも次の技術上の反省点があります。

1.どのような参加者層なのかの事前調査が不十分だった。そのため、中学生の参加という想定外の事態が発生し、講義途中に反応を見ながら、説明の内容やレベルを修正する事態となった。マーケットリサーチの欠如との批判を免れません。企業活動では絶対に許されないミスでした。

2.高校生を対象としてパワーポイントの映像を作成したつもりだったのですが、ビジュアル化が不十分であり、印象に残るような画像演出ができていなかった。ただし、これは改善が容易です。既に技術的には解決策が確立されていますので、事前の準備時間をどれだけ確保できるかという問題です。

3.講演者間の事前打ち合わせがなされていなかった。そのため、当日になって他者のレジュメを見て、内容の重複を知り、これも講義内容を変更して対応するという事態が発生しました。事前打ち合わせを今後は徹底的に行う必要があります。あるいは講演者を一人とするという解決方法もあります。

4.レジュメも中高生向けのテキストとしてパンフレット様式で作成したほうが効果的でした。パンフレットの方が、その後の保管や利用にあたり便利だからです。これは講演者個人の課題ではなく、「古田史学の会」の事業として作成すべきと思われました。

 他にも演出上の工夫、テーマの選定など、様々な克服すべき課題がありましたが、逆にこれらの対策を確立できれば、来年以降はもっと素晴らしいセミナーとすることが可能ですし、未来の古田学派研究者の輩出も期待できます。「古田史学の会・東海」のみなさんとも相談して、ぜひ、戦略的に取り組んでみたいと思います。


第1005話 2015/07/22

「愛知サマーセミナー」の成果と特長

 7月19日に開催された「愛知サマーセミナー」はとても有意義でした。参加者が高校生だけではなく、中学生も熱心に聴講されており、「感想文」を読むと中学生とは思えないほどの意識の高さがうかがわれました。同感想文は「洛中洛外日記【号外】」で紹介しましたが、概ね好評のようでした。そこで、今後のために成果と特長について、わたしの感想を述べてみたいと思います。
 今回のサマーセミナーには開催校の愛知淑徳高校だけではなく、愛知県各地の高校生や中学生が参加されていました。中には大型観光バスで団体参加されている高校もあったほどです。したがって、マーケティングとしてはターゲットが最初から絞り込まれており、セグメンテーションが明確かつ容易でした。すなわち、古代史に関心があるまじめで優秀な中高生が、こちらが集めなくても向こうから集まってくれるというメリットが大きいのです。このことは当サマーセミナーの第一の特長でしょう。もちろん一般参加の社会人も少なくないのですが、今回の目的からすれば主要ターゲットではありませんから、申し訳ありませんが、それほど気にする必要はありません。
 次に会場が愛知淑徳中学の教室であったことは幸いでした。講義用のプロジェクターが常備されていますし、廊下にはベンチもあり休憩や待機もできます。もちろん空調もあり快適な受講環境です。ドアや窓を閉めれば、外部の雑音も入らないとても良い教室でした。しかも施設の使用が無料で、主催者が宣伝広報活動(パンフレット・広報紙・ホームページ)までしてくれますから、まさに「至れり尽くせり」です。このようなイベントに今後も参加しない手はありません。「古田史学の会」としての戦略的イベントとして位置づけ、取り組みたい事業です。


第1004話 2015/07/21

猪垣(ししがき)と神籠石

 今日は久しぶりの北陸出張です。特急サンダーバードの車窓から湖西線沿いに電気柵が設置されているのが見えました。静岡県で鹿除けの電気柵で感電死事故が発生するという痛ましいニュースが流れたばかりでしたので、特に目に付いたのかもしれません。
 湖西線沿線や比叡山付近にはお猿さんが出没し、農作物被害を受けているとの話を聞いたことがあります。日枝神社ではお猿さんを神様の使いとしていますから、周辺住民も駆除しにくいのかもしれません。日本の信仰では動物が神様の使いとされたり、神様の化身とされるケースが少なくなく、たとえば奈良の春日大社の鹿なども有名です。もっとも現在は「神様のお使い」としての役割以上に「観光資源」として鹿さんたちは役立っていますから、少々の被害は目をつぶることになります。また、アイヌの「熊」も同様の例と言えるでしょう。
 現在は電気柵で獣害から農作物を守っていますが、昔は石積みの「猪垣(ししがき)」を巡らしてイノシシによる作物被害を防いでいました。今でも和歌山県熊野地方には長蛇の猪垣が山中や人里に連なっています。以前、古田先生や小林副代表らと熊野山中の猪垣を見学に行ったことがあります。古田先生はこの猪垣を神籠石のような山城の防壁跡ではないかと考えられ、現地見学となったものですが、実際に見てみますと高さも低く、石積みも堅牢とは言い難いもので、これでは敵の侵入を防げるものではないことがわかりました。やはり、ずっと昔から農家が累々とイノシシ除けに築造した「猪垣」だと思われました。小林さんも同意見だったようです。
 猪垣は山から降りてくるイノシシの田畑への侵入防御施設ですから、平地から攻めてくる敵軍の山城への侵入防御を目的としている神籠石とはその構造が全く異なります。すなわち、防御する向きと、「敵」がイノシシなのか武装集団なのかという防御対象も全く異なりますから、その構造が異なるのは当然です。
神籠石は大きな列石とその上に築かれた版築土塁、更にその上には柵が巡らされており、下からの侵入が困難な構造です。対して猪垣は山から降りてくるイノシシが超えられない程度の高さの積石による石垣と、山側にはイノシシを捕まえるための「落とし穴」が設けられています。
 「猪垣」調査のときは私自身の不勉強もあって、その差を十分には理解できていませんでしたが、最近の古代山城の研究により、こうした認識にまでようやくたどり着けました。引き続き、勉強していきたいと思います。なお、小林副代表は「猪垣」調査時点で既にこうした差異に気づかれていたようです。


第1003話 2015/07/19

『二中歴』九州年号の「最勝会」

 最近、「古田史学の会」役員間のメールでのやりとりで、『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号の「白雉」の細注記事の「最勝会」が話題となっています。次の記事です。

  「白雉九年壬子 国〃最勝会始行之」

 大意は、白雉という年号は九年間続き、元年干支は壬子(652年)。国々で最勝会を始めて行う。」ということですが、この「最勝会」とは国家鎮護の経典「金光明最勝王経」を読経する法会です。
 ところが、この記事について服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)より、「金光明最勝王経」が日本に渡来するのは早くても8世紀初頭であることから、この白雉年間(652〜660年)に倭国で「最勝会」は行えないとの指摘がありました。従って、この記事は後代になって書き換えられたものではないかとされたのです。
 これに対して、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)より次のような反論がなされました。白雉年間以前に成立している漢訳「金光明経」内には「最勝」という表現があり、この経典による法会が九州王朝において「最勝会」と表現されていた可能性を否定できないという反論です。
 本格的な史料批判に関する論争であり、なかなか興味深いものです。今のところ判断は保留したいと思いますが、ことの当否は「年代歴」全体の史料批判に基づいて考える必要があり、他の細注記事の性格から判断して、西村さんが言われるように、九州王朝内で「最勝会」と呼ばれる法会がなされていたと考えるのがよいように今のところ思います。「年代歴」編者が元史料にあった法会の名称を書き換える必要が感じられないからです。
 いずれにしましても、白雉年間といえば白村江戦の直前ですし、九州王朝下の諸国で国家的危機を前にして国家鎮護の法会が催されたと思われますので、『二中歴』「年代歴」細注記事は九州王朝史を復元する上で貴重な史料であることは間違いないと思います。
 この件、引き続き論争が深化することが期待されます。


第1002話 2015/07/19

愛知サマーセミナーで講義

 「古田史学の会」ではフェースブックを立ち上げることになりました。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)の提案で、ホームーページだけではなく写真を中心にしたフェースブックで「古田史学の会」を発信することにしたのですが、ITやデジタル化時代ですから様々な成果や効果が期待されます。
 わたしは新しいものも好きで、このところPerfumeのライブビデオにはまっています。    Perfumeは広島県出身の女性三人組テクノポップユニットで、2006年に「ポリリズム」の大ヒットでブレークし、今では世界的な人気グループとなりました。メンバーがわたしの娘と同じくらいの年齢ということもあって、ファンの一人として注目しています。3Dやプロジェクションマッピングなどの最先端技術を駆使したライブパフォーマンスはそのダンスとともに高く評価されています。
 そんなこともあって、わたしも古代史の講演にプロジェクターを使用するようになりました。仕事のプレゼンや学会発表では早くから使用していましたが、遅ればせながら古代史講演でも使い始めました。ちなみに、「古田史学の会」では正木裕さんは一足早く使用されています。
 本日、愛知淑徳中学で開催された「愛知サマーセミナー2015」でもプロジェクターを使用しました。高校生をターゲットとした内容を話しましたが、思っていたよりも高校生は熱心に聴講されていました。質問も「卑弥呼と多利思北孤は同じ王朝ですか」という本質的なものもあり、とても感心しました。受講アンケートもまじめなもので、こうした高校生がこれからの日本を支えていくのではないでしょうか。
 講義の締めくくりとして、次の文を映し、わたしたちの志を高校生に訴えましたので、ご紹介します。

【最後のメッセージ】
わたしたちの考えと志(こころざし)

 歴史学は未来のための学問です。
 子供たちや子孫にどのような日本を残すのかを正しく考えるための学問です。
 その考える力と知識を歴史から学ぶための学問です。
 子供たちの未来よりも、子孫の幸福よりも、「お金」や「利権」の方が大切な「大人」と戦うために、真実を隠し、ウソをつく「大人」と戦うために、わたしたちは20年前に「古田史学の会」を創立しました。
 今日の「講義」もそのためのものです。


第1001話 2015/07/18

鋳型の神「天糠戸命・石凝姥命」

 わたしが「古田史学の会」代表に就任して最初の関西例会が開催されました。今回も服部さんと西村さん正木さんとの間で「大化改新」論争における「乙巳の変」を『日本書紀』通り645年とするのか7世紀末の事件とするのかで論争が展開されました。どちらも相譲らず論争はこれからも継続しそうです。
わたしが興味深く拝聴したのが、出野さんの発表で、奈良に点在する鏡作神社の祭神「天糠戸命(あまのぬかど)・石凝姥命(いしごりどめ)」は銅の鋳造にかかわる神で、銅鐸圏の銅鐸製造工人集団に淵源するとされました。その根拠として、鋳造に使用する鋳型の材料として「米ぬか」「石」があり、神の名前にある「ぬか」「いし」がそれを表しているとされました。なかなか面白い仮説だと思います。
 なお、御祭神はこの二神の他に「天照国照大神」もあり、これは本来は「ニギハヤヒ」ではなかったかとされ、出野さんは銅鐸圏の神とされました。この銅鐸圏の銅鐸製造技術者が鏡を祭祀する天孫族に取り込まれ、後に鏡造集団となり、その神々が鏡作神社に祀られたとのことでした。
わたしは「天照国照大神」もその名前から、「天」や「国」を照らす「鏡」に関わる神と考えても良いように思いますが、これからの研究テーマでしょう。さらなる展開が期待される研究発表でした。
 お昼休みに開催した「古田史学の会」役員会では、竹村順弘さん(事務局次長)から提案されていたフェースブックの新設について審議し、「古田史学の会」としてフェースブックに参入することを決定しました。具体的な立ち上げ準備は竹村さんが進められますが、掲載するコンテンツなどは引き続き検討したいと思います。
 7月例会の発表は次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
①讃岐の豊玉姫伝説(高松市・西村秀己)
②歴史学における論証(奈良市・出野正)
③銅鐸祭祀から鏡祭祀へ①(奈良市・出野正)
④乙巳の変 695年説についての考察(八尾市・服部静尚)
⑤九州王朝の天子の系列と伊予行幸(川西市・正木裕)
⑥「日本正史『日本書紀』」上における「神武紀」の役割及びニギハヤヒの位置付け(東大阪市・萩野秀公)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『古代史をゆるがす真実への七つの謎』ミネルヴァ版出荷開始・青森のホテルに「和田家文書」の展示・他)・7/25古田先生への役員交代の挨拶・下鴨神社〜京都大学博物館ハイキング・テレビ視聴(「郡山城天守台の発掘と金箔瓦」「飛鳥の古墳を考える」)・『二中歴』白雉年間の「最勝会」の研究・その他


第1000話 2015/07/17

九州王朝説から見た鍍金鏡

 台風11号の接近で開催が危ぶまれていた京都祇園祭の山鉾巡行は決行されることになったようです。本当かどうかはわかりませんが、山鉾巡行は「小雨は決行。大雨なら強行」という方針らしく、今回は台風ですので、どうなるのか興味津々でした。なお、わたしは仕事で大阪出張のため、いずれにしても見ることはできません。

 おかげさまで「洛中洛外日記」も今回で1000話となりました。早いもので開始して10年が経ってしまいました。少しずつでも成長できていれば良いのですが、近年、視力や記憶力が低下しているようで、昔に書いた論文の内容や存在そのものを忘れていることも少なくありません。そんなとき、「古田史学の会」のホームページで検索して思い出せますので、ありがたいことです。
 最近、気になってしかたがないテーマとして、古墳出土の鍍金鏡があります。国内出土鍍金鏡は数枚ほどと言われており、とても珍しく貴重な遺物です。有名なものでは、福岡県糸島市一貴山銚子塚古墳(4世紀)出土の鍍金方画規矩四神鏡と熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳(6〜7世紀)出土の鍍金獣帯鏡があります。この他にも岐阜県揖斐郡大野町城塚古墳出土の鍍金獣帯鏡が知られています(五島美術館所蔵)。
 これら鍍金鏡はいずれも中国製とされているようですが、一貴山銚子塚古墳は年代も比較的古く、糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝内でも高位の人物の墓であり、鍍金鏡は有数の宝物の一つと言えそうです。この鏡が国産なのか中国製なのか、鍍金も中国で行われたのか国内で行われたのかというテーマがあります。
 以前、古田先生は卑弥呼がもらった「黄金八両」がこの鏡の鍍金に用いられたのではないかと指摘されましたが、この時代の倭国に鍍金技術(水銀アマルガム法か)が果たしてあったのかという問題もあります。
 才園古墳の鍍金鏡については、その出土地が熊本県南部の「山中」ということも気になります。なぜ肥後国内でもこのような奥地から出土したのかという疑問があるのですが、やはり現地の土地勘がなければ何とも判断できません。中国南部の呉国との関係を指摘する見解もあるようですが、「呉鏡」とすれば九州王朝と「呉」との関係も検討が必要です。
 以上のように鍍金鏡については疑問だらけです。これから勉強したいと思いますが、どなたか詳しい方がおられればご教示いただきたいと願っています。


第999話 2015/07/16

JTCC近畿「フェスタ’15」で講演

 染料合成化学の大先輩である今田邦彦先生(元住友化学)からのご依頼により、JTCC(日本繊維技術士センター)近畿主催の「フェスタ’15」(2015/10/31、大阪市)で古代史の講演をさせていただくことになりました。わたしの他に東洋紡会長の坂元龍三さんも講演されるとのことです。
 今田先生とは学会の理事会などで懇意にさせていただいており、わたしが古代史研究をしていることもよく御存じて、今回の講演依頼になりました。
 わたしが研究開発にいたころ、近赤外線吸収色素開発で壁にぶつかり悩んでいたとき、今田先生のご自宅までうかがいアドバイスをいただいたこともありました。若い頃は今田先生が執筆された本や論文で染料合成化学を勉強しましたので、その大先輩から講演依頼をいただき光栄ですし、不思議なご縁を感じます。
 先日、講演の演題と概要が決まりましたので、ご紹介します。なお、一般参加が可能なようであれば、「洛中洛外日記」で改めて詳細をお知らせします。

講師:古賀達也(古田史学の会・代表)
演題:理系が読む「倭人伝」-女王卑弥呼の末裔-
概要:『三国志』倭人伝に記録された「邪馬台国」の位置について、畿内説と九州説があり、今も論争が続いているが、理系の視点で倭人伝を読んだとき、その結論は既についている。最先端研究は「邪馬台国」の後継王朝や女王卑弥呼の御子孫の発見にまで進んでいるが、マスコミは報じない。