第3113話 2023/09/14

〝興国の大津波〟は元年か二年か

 津軽を襲った〝興国の大津波〟を「東日流外三郡誌」には「興国二年」(1341年)の事件と、くり返し記されています。しかし、ごく少数ですが「興国元年」(1340年)あるいは同年を指す「暦応庚辰年」(「暦応」は北朝年号)とも記されています。管見では下記の記事です(注①)。

(1)「高楯城略史
(中略)
依て、安東氏は興国元年の大津浪以来要途を失せる飯積の領なる玄武砦を付して施領せり。(中略)
元禄十年五月  藤井伊予記」 (「東日流外三郡誌」七三巻、同①478頁) ※元禄十年は1697年。

(2)「十三湊大津浪之事
暦応庚辰年八月四日、十三湊の西海に大震超(ママ)りて、波濤二丈余の大津波一挙にして十三湊を呑み、その浪中に死したる人々十三万六千人なり。(後略)」 (「東日流外三郡誌」七五巻、同①488頁) ※「暦応」は北朝の年号。「庚辰年」は暦応三年に当たり、興国元年と同年(1340年)。

(3)「津軽安東一族之四散(原漢書)
十三湊は興国元年八月、同二年二月に起れし大津波に安東一族の没落、水軍の諸国に四散せることと相成りぬ。(中略)
寛政五年九月七日  秋田孝季」 (「東日流六郡篇」、同①514頁) ※寛政五年は1793年。本記事は興国の大津波が、元年と二年の二回発生したとする。

 この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。次の記事です。

(4)「建武中興史と東日流
(中略)
亦、奥州東日流に於は(ママ)、興国己卯年十三湊の大津浪に依る水軍を壊滅せる安倍氏と、埋土に依れる廃湊の十三浦は(中略)
寛政庚申天  秋田之住 秋田孝季」 (「総序篇第弐巻」、同①426頁) ※「寛政庚申天」は寛政十二年(1800年)。

(5)「高楯城興亡抄
(中略)
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日  秋田重季 花押
右ハ外三郡誌追記ニシテ付書ス。」 (「三一巻付書」、同①426頁) ※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。

 この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。この二説併存現象は先に紹介した「津軽系図略」(注②)や津軽家文書(注③)の史料情況と対応しているようで注目されます。
〝興国の大津波〟が元年なのか二年なのかは、これらの史料情況からは判断しづらいのですが、津軽家文書の編者らは元年説を重視し、「東日流外三郡誌」編纂者(秋田孝季、和田吉次)は二年説を妥当として採用し、元年説史料もそのまま採用したということになります。更には(3)に見えるように、秋田孝季自身の認識としては、元年と二年の二回発生説であることもうかがえそうです。このような両編纂者の認識まではたどれそうですが、どちらが史実なのかについては、史料調査と考察を続けます。

(注)
①八幡書店版『東日流外三郡誌2 中世編(一)』によった。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
同「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明(文化九年とする説がある)。


第3112話 2023/09/13

〝興国の大津波〟の

     伝承史料「前代御系譜」

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した『津軽系図略』(注②)、『津軽古系譜類聚 全』(注③)は、いずれも国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」にあるものですが、〝興国の大津波〟についての記事はその「前代御系譜」(注④)にも見えます。残念ながら編纂年次は不明ですが、冒頭に「先年御布告 前代御系譜」、末尾に「口達」「四月」「御家老」という記載がありますので、江戸期成立と推定されます(注⑤)。同系図の初代は「秀郷」で、「大織冠藤原鎌足之裔左大臣魚名第四男伊豫守藤成之曾孫」との説明が記されています。〝興国の大津波〟記事は、十四代目「秀光」の次の傍注に見えます。

 「左衛門尉、或左衛門佐、従五位上、又左馬頭。小字藤太。時有海嘯、大圯外濱之地。十三ノ城、亦壊。故城于大光寺居之。正平四年十二月五日卒、年五十五、葬于宮舘」〔句読点は古賀による〕

〔釈文〕左衛門の尉(じょう)、或いは左衛門の佐(すけ)、従五位上、又、左馬頭。小字は藤太。時に海嘯有りて、外濱之地を大いに圯(こぼ)つ。十三ノ城、亦壊れる。故にここ大光寺を城とし、之に居す。正平四年(1350年)十二月五日卒、年五十五、ここ宮舘に葬る。〔古賀による〕

 この記事では「秀光」の没年齢を「五十五」としており、「五十一」とする他史料(『津軽系図略』『津軽古系譜類聚 全』)とは異なります。また、海嘯の発生により、「外濱之地」(津軽半島の北東部)も大きな被害があったとしています。これも他史料(同前)には見えません。

 更に微妙な問題として、海嘯の発生年次が記されていないことがあります。「東日流外三郡誌」の場合はほとんどが「興国二年(1341)」、『津軽系図略』には「興国元年(1340)」とされています。そして、『津軽古系譜類聚 全』には「秀光」の治世中を意味する「此時」とあり、具体的な年次は記されていません。もしかすると、それら史料の編纂時には、海嘯発生を興国元年とする史料と興国二年とする史料が併存していたため、どちらが正しいのか不明なため、具体的年次を記さない系図が成立したのではないでしょうか。他方、秀光の没年は「正平四年」と具体的に書いていることを考えると、年次に複数説があり、どちらが正しいのか判断できない場合は、「此時」という幅のある表記を採用したのではないかと思います。

 なお、秀光の没年齢が「五十五」であり、他史料の「五十一」とは異なっていますが、その理由が誤記誤伝なのか、もし誤記誤伝ならば、なぜそうしたことが発生したのかは未詳です。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
④「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。
⑤長谷川成一「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」(『季刊 邪馬臺国』53号、梓書院、1994年)では、「『前代御系譜』は文化九年の写であると推察される。」とする。


第3111話 2023/09/12

〝興国の大津波〟の伝承史料

       「津軽古系譜類聚」

 津軽を襲った〝興国の大津波〟については、「東日流外三郡誌」の他にも、明治十年(1867年)に刊行された『津軽系図略』(注①)があります。更に江戸時代(文化九年、1812年)に成立した『津軽古系譜類聚 全』(注②)にも見えます。両書の当該部分(「秀光」の傍注)を転載します。

 「興国元年八月海嘯大ニ起津波津軽大半覆没シテ死者十万余人十三城壊ル自是平賀郡大光寺ニ城築之ニ居ル(後略)」(『津軽系図略』)
〔釈文〕興国元年(1340)八月、海嘯大いに津波を起こし、津軽の大半が覆没し、死者十万余人、十三城が壊れる。これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。〔古賀による〕

 「此時、海嘯大起リ、津輕之地悉被覆没、人民多死亡、十三城亦壊ル。故築干大光寺、居之。丗人或称大光寺氏。正平四年十二月五日卒五十一」(小山内建本撰「御系譜要綱」『津軽古系譜類聚 全』)〔句読点は古賀による〕

 「此時、海風大起、津軽之地悉覆没、人民多死亡、十三城亦壊。故築干大光寺、居之。世人或称大光寺氏。正平四年己丑十二月五日卒五十一、葬干宮舘」(小山内建本撰「近衛殿御當家 両統系譜全圖」『津軽古系譜類聚 全』)〔句読点は古賀による〕

 これらの系図・系譜に見える「秀光」(没年は正平四年・1350年)の治世期は興国年間(1340~1346年)を含んでおり、系譜に記された「此時」の「海嘯」「海風」を〝興国の大津波〟と考えて何の矛盾もありません。
また、今回紹介した『津軽古系譜類聚 全』は文化九年(1812年)の成立とされており、秋田孝季らが「東日流外三郡誌」を編纂した寛政年間(1789~1801年)とほぼ同時期です。当時、それぞれの編者が津軽の史料や伝承を採集し、〝大津波〟を記録していることから、津軽を襲った興国の大津波伝承が巷間に遺っていたことと思われます。

 以上のように、江戸時代に〝興国の大津波〟が伝承されていたことを考えても、「起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要などない」と言わざるを得ません。

 これは法隆寺再建論争で、〝燃えてもいない寺院を、燃えて無くなったなどと、『日本書紀』編者が書く必要はない〟と喝破した喜田貞吉の再建論が正しかったことを想起させます。いずれも、史料事実に基づく論証という文献史学の学問の方法に導かれた考察です。いずれは、発掘調査という考古学的出土事実に基づく実証によっても、証明されるものと確信しています。

(注)
①下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
②陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。国文学研究資料館のデジタルアーカイブで閲覧できる。
https://archives.nijl.ac.jp/G000000200300/data/00147


第3110話 2023/09/11

興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)に、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が紹介されています。この〝興国の大津波〟については、他の史料にも記されています。和田家文書「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンには、〝興国の大津波〟は「東日流外三郡誌」のみに見られる記事であり、史実ではないとする主張もあるようです。しかし、管見では〝興国の大津波〟は他の史料中にも見えます。その一つ、「津軽系図略」(注②)を紹介します。

 「津軽系図略」は明治十年に編集発行された津軽氏の系図です。初代を藤原秀榮(ヒデヒサ。同系図には藤原基衡の第三子秀衡の舎弟とあります)とし、弘前津軽家の大浦為信(津軽為信)を経て、明治九年に没した昭徳(アキヨシ)まで記されています。冒頭の8代は次のようです。

○秀榮 ― 秀元 ― 秀直 ― 頼秀 ― 秀行 ― 秀季 ― 秀光 ― 秀信 ―(以下略)

 7代目の秀光の傍注に次の記事が見えます。

 「興国元年八月海嘯大ニ起津波津軽大半覆没シテ死者十万余人十三城壊ル自是平賀郡大光寺ニ城築之ニ居ル(後略)」

〔釈文〕興国元年(1340)八月、海嘯大いに津波を起こし、津軽の大半が覆没し、死者十万余人、十三城が壊れた。これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。〔古賀による〕

 海嘯(かいしょう)とは、地震による津波、あるいは満潮の影響で河口に入る潮波が河を逆流する現象です。「十三城が壊る」とあるのは、13の城が壊れたということではなく、十三湊にあった居城(十三城・トサ城)が壊れたと解されます。というのも、初代秀榮の傍注に「康和中陸奥國津軽、江流澗郡、十三ノ港城ヲ築テ是ニ住ム」とあり、その後、秀光が平賀郡の大光寺に築城するまで、居城が代わったという記事が同系図には見えないからです。

 同系図の傍注記事で注目されるのは、〝興国の大津波〟が「東日流外三郡誌」に見える興国二年(1431)ではなく、興国元年(1430)とされていることと、「八月」や「これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。」と、内容が具体的であることです。津軽藩主の遠祖からの系図ですから、いわば〝津軽家公認〟の史料に基づく系図と思われ、民間で成立した「東日流外三郡誌」とは史料性格が異なっています。そうした双方の史料中に〝興国の大津波〟が伝承されていることから、興国年間に津軽が大津波に襲われたことは史実と考えざるを得ません。起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要など考えにくいのです。

 以上の考察から、「東日流外三郡誌」は津軽の貴重な伝承史料集成であり、研究に値する史料であると考えられます。常軌を逸した偽作キャンペーンにより、学界がこうした史料群の研究を避けている状況は残念と言うほかありません。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。


第3109話 2023/09/10

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (3)

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)には、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が引用されています。次の通りです。

〝3.津波の史料・伝承
「東日流外三郡誌」は全6巻の活字体で刊行されており(八幡書院(ママ)、東京大崎)、十三湊の津波に関する史料はその一部分である。都司(1989)は詳しく検討し、「人為的な虚構で補われたとみられる記事が、本来の伝承と渾然一体となって記され、史料の価値を低下させている」と論評した。史料の一つとして、安部水軍四散録には次のようにある。
「興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安部水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く、(中略)波浪に亡命生存のあてもなく惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や亦、鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さなが(ママ)の生地獄なり」(注②)とある。後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。(中略)
そのほか、水戸口での地変の記事が注目される。地震による地殻変動または津波で起こされた漂砂か、近年の津波でも港口付近でときどき起こる現象である。
中世には、十三湊の集落は地盤高2m前後の低地にあったことが検証され、現在よりも津波災害を受けやすい状態であったようだ。壇臨寺は、津波で流出したと伝えられている。湖面を基準にハンドレベルで測ると、跡地の地盤高は約1.5mである。津波の高さが4m程度に達すれば、流出の可能性があろう。〟

 以上のように、羽鳥さんは「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の描写を「後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。」と、伝承すべき貴重な史料と捉えています。地震学者のこの警鐘を、和田家文書偽作説により埋もれさせてはならないと思います。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②この記事の出所を調べたところ、『東日流外三郡誌2』(八幡書店版)の「安倍水軍四散禄」(509~510頁)であった。若干の文字の異同・脱字があるため、八幡書店版の記事を転載する。
「安倍水軍四散禄
興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安倍水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木と埋土に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く再びその安住地を求め何処へか去りにけり。
亦、波浪に亡命生存のあてもなき惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や、亦鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さながらの生地獄なり。
安倍一族が栄えし十三湊、今は昔に復すこと叶ふ術もなし。」


第3108話 2023/09/09

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (2)

 地震学者の羽鳥徳太郎さん(1922~2015年)はフィールドワークや地方の津波伝承などを重視するという研究者で、「いつ起こるかわからない自然災害の備えには、まず、先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史を知り、教訓を引き出し、これを伝承することだ」(注①)との〝格言〟を遺しました。この格言を自ら実行し、「先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史」の一つとして、『東日流外三郡誌』を論文に紹介しています。それは、「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注②)という論文です。論文冒頭の「1.はじめに」には、次のように記されています。

 〝青森県北津軽郡市浦村の十三湖周辺には、縄文時代の石器土器のほか、中世のころの国内各地の陶器や韓国・中国製の清(ママ)磁・白磁の器が大量に出土し、城跡や社寺の史跡が点在する。十三湊(とさみなと)は、鎌倉時代から室町時代にかけて地方豪族安藤(安東)氏が支配し、貿易都市として繁栄していたという。それが「地震と津波で消滅」という伝承が、地元で根強く語り伝えられている。十三湖口には、1983年日本海中部地震を記念する「津波の塔」が建てられ、興国の津波で死亡十万余人の文字が刻まれている。
(中略)最近、歴史民族(ママ)博物館・富山大学による発掘調査では、集落跡の遺構に津波の痕跡が見当たらず、津波説を否定した。
一方、筆者らは(羽鳥・片山、1977)日本海沿岸での津波調査の一環として、初めて興国津波を取り上げた。出典は、江戸中期に津軽地方の歴史・地誌を収録した「東日流外三郡誌」によったのである。同誌は明治時代に創作が加えられ、都司(1989、1994-5)は歴史家の評価と同じく偽書と断定し、津波を疑問視している。(中略)
本稿では十三湖近海に波源域を想定して津波の挙動を検討し、問題点を整理してみる。〟

 このあとの「3.津波の史料・伝承」で、「東日流外三郡誌」に記された興国2年の大津波の記事が紹介されます。(つづく)

(注)
①「思則有備」(https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-715)では、羽鳥氏の格言の出典を、読売新聞(1993(平成5)年8月7日夕刊)の記事「高角鏡:『歴史津波』に学ぶ」と紹介している。
②羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。


第3107話 2023/09/08

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)

 今回は古代史から離れて、地震学者の羽鳥徳太郎さんについて紹介します。羽鳥徳太郎さん(1922~2015年)は東京大学地震研究所で活躍された歴史地震学者で、古田先生と同世代の方です(注①)。専門は歴史津波・津波工学とのこと。和田家文書の研究をしていて、偶然、羽鳥さんのことを知りました。
なお、東大の地震研究所とは、少々御縁があります。古田先生が立ち上げた国際人間観察学会(注②)の会報「Phoenix」No.1(2007)を、同研究所に所属する津波歴史地震研究室で発行していただいたことがあります。同誌には拙論「A study on the long lives described in the classics」を掲載していただきました。同稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する研究で、「古田史学の会」ホームページに採録されていますので、ご覧下さい。

 羽鳥徳太郎さんは、フィールドワークや地方の津波伝承などを重視するという学風で、それは古田先生の研究スタイルと同じです。その羽鳥さんの格言がWEB上の「思則有備」(同①)で紹介されていましたので、転載します。

 羽鳥徳太郎(1922~2015 / 歴史地震学者・元東京大学地震研究所)の「歴史津波に学ぶ」記事の名言 [今週の防災格言554]
「いつ起こるかわからない自然災害の備えには、まず、先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史を知り、教訓を引き出し、これを伝承することだ」(注③)

 この格言を羽鳥さんは自ら実行し、「先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史」の一つとして『東日流外三郡誌』を論文に紹介されました。(つづく)

(注)
①羽鳥徳太郎氏の研究業績と略歴(「思則有備」より。https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-715)。

 津波規模階級mを提案するなど、生涯にわたり一貫して歴史津波と津波被害の調査・研究を行った人物。特に、北海道の奥尻島に20mの大津波が襲い、対岸の渡島半島の町村にも津波が襲来し、230人が亡くなった北海道南西沖地震(1993年)の発生前となる1984(昭和59)年に、過去に日本海側で起きた津波の発生年や地理的分布や規模を元にその危険性を指摘。また、東北の太平洋沿岸を襲った歴史津波である貞観地震(869年)や慶長三陸地震(1611年)が、東日本大震災(2011年)に匹敵するほどの「最大級の大津波だった」ことを1975(昭和50)年に初めて論文で報告したことでも知られる。

 1922(大正11)年東京生まれ。

 1941(昭和16)年、東京大学地震研究所に入り、高橋竜太郎研究室で津波研究に従事。

 1944(昭和19)年、旧制東京高等工業学校機械科(夜間)を卒業。戦時召集され近衛歩兵第三連隊で終戦を迎え、戦後は地震研究所に戻り研究を続けた。昭和南海地震(1946年)、チリ地震津波(1960年)、新潟地震(1964年)、十勝沖地震(1968年)など各地をまわって津波の現地調査を行い、日本各地の津波の到達時間や波源域図をまとめた。

 1954(昭和29)年技官、1964(昭和39)年助手、1974(昭和49)年講師となり

 1983(昭和58)年東京大学地震研究所を停年退官。退官後も歴史地震の津波調査を続け、亡くなるまで研究を続けた。

 2015(平成27)年12月6日、埼玉県川口市で逝去。93歳。

②国際人間観察学会は古田先生による命名で、会長は百瀬伸夫氏、副会長は荻上紘一氏、特別顧問が都司嘉宣氏。

③「思則有備」に〝格言は読売新聞(1993(平成5)年8月7日夕刊)の記事「高角鏡:『歴史津波』に学ぶ」より〟と紹介されている。


第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3105話 2023/09/05

好太王碑文の「從抜城」の訓み (2)

 好太王碑文中の「從抜城」の訓みについて、通説では固有の城名と見られているようで、『好太王碑論争の解明』(注)でも同様の釈文が採用されています。碑文第二面の次の文です(便宜的に句読点を付し、改行しました)。

十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。

 文法的には「任那加羅の從拔城に至れば、城はすぐに歸服した。」と読めますので、「從拔城」を固有名とする理解が成立します。他方、「從」を「より」、「拔城」を「城を抜く」の意味もあり、その場合、どのように読めばよいのか難しいところです。文法的には固有名として読む方が穏当ですが、城の名前として「從拔城」などとネガティブな命名をするだろうかとの疑問も抱きました。そこで、碑文中の全ての城名を確認したところ、「敦拔城」「□拔城」(第二面)という名前の城がありました。したがって、「從拔城」も同様に固有名と考えてもよいようです。

 なお、城名にネガティブな漢字(卑字)が使用されていることについては、攻略した百済などの城に対して卑字使用が高句麗側によりなされたと考えることもできそうです。なぜなら次のように卑字の「奴」を持つ城名があり、あるいは「仇天城」などという物騒な城名も碑文にあるからです。ちなみに、碑文では百済のことを「百殘」「奴客」と記しており、あきらかに高句麗側による卑字使用(書き変え)が認められます。

○「豆奴城」(第一面)
○「閨奴城」「貫奴城」(第二面)
○「巴奴城」(第三面)
○「豆奴城」「閏奴城」(第四面) ※第一、二面の「豆奴城」「閨奴城」と同じ城と思われる。

 以上の考察から、「從拔城」は固有名と考えた方が妥当との結論に至りました。「多元の会」のリモート研究会では〝固有名とは考えにくいのではないか〟と発言しましたので、ここに訂正させていただきます。

 なお、通説の読みでも「至任那加羅從拔城」は難解です。なぜなら、「從拔城」が任那にあるのか加羅にあるのか、わかりにくいからです。この点、今後の課題です。

(注)藤田友治『好太王碑論争の解明』新泉社、1986年。314頁。


第3104話 2023/09/04

『古代に真実を求めて』CiNii認定の重み

 昨日は和田家文書研究のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)と宇治に行きました。約40年ぶりの宇治でしたので、懐かしさとともに、京阪宇治駅や宇治橋付近の光景が一変しており、時の流れを感じました。
日野さんとは、学問研究や古田史学の会についての話に終始しました。その中で日野さんから、今まで意識してこなかった重要な問題を指摘されました。それは「古田史学の会」の論集『古代に真実を求めて』が、国立情報学研究所が運営している「CiNii Research」に学術誌として認定登録されているということでした。CiNii(サイニィ)に登録されているということは、学術研究誌として日本国家の認定を受けていることを意味し、それは得がたい待遇であるとのこと。たしかに、研究者や学生が自らの研究分野の関連研究や先行論文を検索する際、CiNiiを利用するのは、そのような国立情報学研究所のお墨付きを得ている書籍・論文であるからです。

 日野さんの指摘は更に続きます。〝したがって、『古代に真実を求めて』の掲載論文はCiNiiの登録認定を維持するために、それにふさわしい学問研究水準を維持し続けなければならず、もし認定取り消しとなったら、古田学派にとって大きな損失であり、社会科学系出版社としての評価を得ている明石書店にも迷惑(ブランド毀損)をかけることになる〟とのこと。

 今まで、そのような視点や意識で『古代に真実を求めて』を編集してこなかったのですが、言われてみればそのとおりです。日野さんのような、大学で国史を専攻した研究者にとっては、そうした認識でCiNiiを利用してきたのですから、常識だったのでしょう。日野さんの指摘には、深く考えさせられました。

 ウィキペディア(Wikipedia)によれば、CiNiiには次の三つの分類があり、『古代に真実を求めて』は最も権威が高いとされる「CiNii Research」に登録されています。なお、この認定は『古代に真実を求めて』掲載論文にも適用されており、CiNii Researchにより検索できます。

【ウィキペディアから抜粋】
CiNii(サイニィ、NII学術情報ナビゲータ、Citation Information by NII)は、国立情報学研究所(NII、National institute of informatics)が運営するデータベース群。各種文献に加えて研究データやプロジェクトを検索できる「CiNii Research」、大学図書館の総合目録データベース「CiNii Books」、博士論文データベース「CiNii Dissertations」の3つからなる。
○CiNii Research 日本国内の雑誌・大学紀要の記事情報、研究データ、プロジェクト等の情報
○CiNii Books 主に日本国内の大学図書館等の蔵書の書誌情報・所蔵情報
○CiNii Dissertations 日本国内の博士論文
【転載終わり】

 国立情報学研究所(NII)のサイトには、CiNiiについて次の解説があります。

〝CiNiiについて
CiNii(NII学術情報ナビゲータ[サイニィ])は、論文、図書・雑誌や博士論文などの学術情報で検索できるデータベース・サービスです。どなたでもご利用いただけます。
「CiNii Research」では、文献だけでなく研究データやプロジェクト情報など、研究活動に関わる多くの情報を検索できます。
「CiNii Articles – 日本の論文をさがす」は、2022/4/18にCiNii Researchに統合されました。
「CiNii Books – 大学図書館の本をさがす」では、全国の大学図書館等が所蔵する本(図書・雑誌)の情報を検索できます。
「CiNii Dissertations – 日本の博士論文をさがす」では、国内の大学および独立行政法人大学評価・学位授与機構が授与した博士論文の情報を検索できます。〟【転載終わり】

 わたしの学生時代とは比較にならないほど、研究環境が進化しています。企業研究時代(化学分野)でも、30年ほど前は紙の特許明細や先行論文を書庫から引っ張り出して、人海戦術で読んだものです。

 近年は、古代史研究に〝素人〟でも参入しやすくなったと同時に、市場にあふれ出した玉石混淆の書籍や論文を見極める力量も必要となりました。そうした中で、古田史学・古田学派を代表する論文集『古代に真実を求めて』を編集・発行したいと思います。


第3103話 2023/09/02

好太王碑文の「從抜城」の訓み (1)

 昨日、リモート参加した多元的古代研究会主催の研究会で、高句麗好太王碑(注①)碑文中の「從抜城」の訓みについて議論が交わされました。同碑文には多くの城名が記されていますが、『好太王碑論争の解明』(注②)によれば、碑文中の頻出文字は次のようです。

  文字 出現数 全文字中の率
1  城  108 6.61%
2  烟   71 4.35%
3  看   47 2.88%
4  王   32 1.96%
5  國   27 1.65%

 出現数の根拠や計算方法について、著者(藤田友治さん・故人)が次のように説明しています。

 「王健軍氏の釈文を基にすれば、全文字は一七七五文字である。そのうち欠け落ちてしまって判読できない文字一四一を引いた文字中に占める頻出文字」

 著者の藤田さんは、1985年に吉林省集安の好太王碑を古田先生らとともに現地調査しており、この数値の信頼性は高いと思います。その碑文の第二面末に次の文があります。便宜的に句読点を付し、改行しました。

十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。

 この部分は、通常、次のように読まれています。

 「十年庚子(340年)。のりて、步騎五萬を遣わし、往って新羅を救わせる。男居城より新羅城に至る。倭はその中に満ちていた。官軍(步騎五萬)がまさに至ると、倭賊は退いた。[□□□□□□□□□背急追]任那加羅の從拔城に至れば、城はすぐに歸服した。」

 同碑文の用例としては、「從」は「~より」の意味で使用されており、「抜城」は『三国史記』では「城を抜く」(城を攻略する)の意味で使用されています。例えば次の用例があります。

○跪王、自誓、從今以後、永為奴客 (王にひざまずき、みずから「今より以後、永く奴客となる」と誓う)《碑文第一面》
○從男居城至新羅城 (男居城より新羅城に至る)《碑文第二面》

○南伐百済抜十城 (南、百済を伐ち、十城を抜く)『三国史記』高句麗本紀第六 広開土王

 しかし、通説ではこの記事中の「從拔城」を城の固有名としているようです。(つづく)

(注)
①好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑。広開土王碑とも言われる。中国吉林省集安市に存在し、高さ約6.3m・幅約1.5mの石碑で、四面に計1802文字が刻まれている。
②藤田友治『好太王碑論争の解明』新泉社、1986年。291頁


第3102話 2023/09/01

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (6)

 喜田貞吉の、明治から昭和にかけての次の三大論争は、その当否とは別に重要な学問的意義を持っています。

Ⅰ《明治~昭和の論争》 法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》    「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》 藤原宮「長谷田土壇」説

 喜田の三大論争のうち、真の意味で決着がついたのは、古田先生が参画したⅡ「教行信証」論争だけのように、わたしには見えます。それらの概略は次の通りです。

Ⅰ. 法隆寺論争は、昭和14年の若草伽藍の発掘調査で火災跡が発見されて、喜田の再建説が通説となった。再建問題では喜田指摘の「勝利」だが、西院伽藍が古いとする建築史学の指摘は、五重塔心柱の年輪年代で復活。真の決着はついていない。米田説(移築説)が有力。

Ⅱ.『教行信証』は親鸞自筆坂東本(東本願寺蔵)の筆跡調査により、親鸞真作が確かめられた。「今上」問題での喜田指摘は有効だったが、古田先生の科学的筆跡調査(デンシトメーター)により、親鸞〝無学の坊主〟説は「惨敗」。

Ⅲ. 藤原宮論争は大宮土壇説(出土事実)で決着したわけではない。真の論争はこれから。なぜなら〝大宮土壇では京域の南東部が大きく香久山丘陵に重なり、条坊都市がいびつな形となる〟とする喜田の指摘は今でも合理的だからだ。

 それぞれの論争に深い学問的意義、特に「学問の方法」において示唆や教訓が含まれています。何よりも喜田の文献(執筆者の意図・認識)を尊重する史学者の良心と、文献を軽視する姿勢(注)への批判精神は、古田先生の学問精神に通じるものを感じます。(つづく)

(注)たとえば「偽書説」など、その主観的な定義を含めて〝文献を軽視する姿勢〟の一種と見なしうる。これは文献史学における重要な問題であり、別に詳述する機会を得たい。