第986話 2015/06/23

「肥後の翁」と「加賀の翁」の特産品

 筑紫舞を代表する翁の舞で最も古いタイプとされる「三人立」は「都の翁」(都は筑紫)と「肥後の翁」「加賀の翁」により舞われます。筑紫舞ですから「都の翁」(筑紫)は当然ですが、何故「肥後」と「加賀」から翁が来たのでしょうか。あるいは選ばれたのでしょうか。その理由がようやくわかりかけてきました。
 まず「肥後の翁」ですが、「洛中洛外日記」第948話「肥後の翁」の考古学で紹介しましたように、弥生時代の後期・末期になると福岡県を抜いて、熊本県の鉄器出土点数がダントツで一位になります。これは阿蘇山付近から「鉄」が産出されるようになったことが背景にあります。従って、それまで主に朝鮮半島から鉄を得ていた倭国は自前の鉄供給が可能になったと思われます。すなわち、「肥後の翁」の特産品「鉄」が「都」に献上されたのでしょう。
 次に「加賀の翁」ですが、これも「洛中洛外日記」第942話の筑紫舞「加賀の翁」考で紹介しましたように、米田敏幸さんの研究により、古墳時代初頭を代表する布留式土器の産地が加賀(小松市近辺)であることと関係していると思われます。しかし、土器であれば布留式土器よりも古い庄内式土器の発生地である播磨地方などもありますから、よく考えると今一つ「加賀の土器」では、「翁の舞」に選ばれるにしてはインパクトに欠けるのです。
ところがこの疑問が晴れたのです。先日の「古田史学の会」記念講演会で講演していただいた米田さんと懇親会で隣席になりましたので、そこでしつこくお聞きしたことが、加賀の土器が全国各地や韓国の釜山まで運ばれているとのことだが、中には何が入っていたのですかという質問です。
 わたしはてっきり土器だから液体を入れて運んだと考えていたのですが、米田さんはきっぱりと否定され、布留式甕(かめ)では液体は漏れるので運べないとされ、液体を入れるのは甕ではなく壷(つぼ)だが、壷はそれほど移動していないとのことなのです。
 そこでわたしは更に質問を続け、液体でなければ何が入っていたのですかとお聞きしたところ、麻袋ではなく、わざわざ甕に入れて運ぶのだから貴重なものと考えられるとのこと。わたしは更に食い下がり、貴重なものとは何ですかと問うたところ、「グリーンタフだと思います」とのこと。「グリーンタフ? 何ですかそれは」とお聞きしますと、緑色凝灰岩(green tuff)という緑色をした「宝石」で、小松市から産出するとのことです。
これを聞いて、「加賀の翁」が「三人立」の翁の一人に選ばれた疑問が氷解したのです。「加賀の翁」は緑色の「宝石」の原石を加賀の特産品として「都の翁」に献上したのです。
 「肥後の翁」は「鉄」を、「加賀の翁」はグリーンタフを布留式土器に詰めて都(筑紫)に上り、倭王に献上したので、その伝承が背景となり筑紫舞を代表する「翁の舞」の登場人物として現代まで舞い続けられているのです。こうなると、次なるテーマは「五人立」「七人立」に登場する他の翁についても、その特産品(献上品)が気になります。引き続き、調べてみたいと思います。とりあえずは、米田先生に感謝です。


第985話 2015/06/21

未完成山城「見せる城」説への疑問

 「洛中洛外日記」983話で紹介しました亀田修一さんの好論文「古代山城は完成していたのか」(『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』熊本県教育委員会、2014年)に、未完成に終わった神籠石山城について、未完成の理由として当初から街道などから見える部分のみの造営であったとする「見せる城」説なるものが紹介されていました。この「見せる城」説は「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」(『月刊地図中心』453、2010年)で向井一雄さんが提唱されたもので、今回はこの説について考察します。
 亀田さんは先の論文で次のような興味深い考察を示されています。

「このように神籠石系山城に未完成のものが多いという意識で古代山城全体を見てみると、以前から検討されてきた築城時期の問題に関しては、朝鮮式山城より古い城で未熟であったため工事が止まったという考えも成立するように思われるし、逆に7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止したとも考えられ、やはり答えは簡単に出そうにない。」(35頁)
「まず、完成した山城の場所はそれぞれの地域の中に重要な場所であることが改めてわかる。そしてやはり記録にもあるように古い段階から築城され始めたのではないかと推測される。
未完成の山城は、意図的な未完成なのか、それとも否応なしの未完成なのか。「見せる城」という意識は当然存在したと思われる。ただ、それによって当初から、たとえば一部しか造ることを考えていなかったのか、それとも工程の関係で停止し、そのままになったのか、などによって築城時の様子が推測できそうである。そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」(37頁)

 このように亀田さんは未完成山城の「未完成」理由として「見せる城」説を紹介しながら、他方、「そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」とのするどい指摘をされています。この亀田さんの指摘に答えたものが、「洛中洛外日記」983話で記した「ONライン(701年)」による未完成とする考えでした。7世紀末に発生した九州王朝から大和朝廷への列島内権力交代が、未完成山城の発生理由としたものです。これこそ、亀田さんが言われるように「7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止した」事情なのです。
 しかし大和朝廷一元史観ではこのような「政治・社会情勢」を想定しない(できない)ため、「見せる城」という「無理筋」の仮説を提起せざるをえないという状況に陥いるのではないでしょうか。
 現在わたしが再読中のクラウゼヴィッツの『戦争論』には、「第六篇 防御」で「山地防御」について次のように考察されています。
 クラウゼヴィッツによれば、山地防御は歩兵火器の進歩などにより経験的に見てもそれほど効果的な防御ではないとのこと。その理由は攻撃側が防御ラインを迂回して攻撃するので、それを防ぐために防御側は防御ラインを横へ横へと広げなければならず、その結果、防御側の兵員が分散配置で手薄になった防御ライン正面に対して、攻撃側が兵力を集中させ一点突破をはかるので、山地の地形を利用した防御ラインもそれぼと効果的ではなくなるとされています。
 そのため、山地防御をより効果的にするために要塞化するという防御思想が形成され、古代山城はまさにその典型と思われます。この要塞化とは攻撃側の迂回攻撃を無意味にするために、山の周囲に防塁を造るわけですが、これこそ神籠石山城や大野城の姿なのです。従って、街道から見えるところだけに「防塁(見せる城)」を造営するというのは、本来の意味での防御の体をなしていません。せいぜい虚仮威しの「防御施設」のようなものでしかないのです。
 このような虚仮威しに屈する侵略者がいるのかどうかは知りませんが、虚仮威しにしては神籠石山城はその巨石の運搬や築城の技術、さらにその上に盛る版築技術など、かなりの労力と高度な築城技術が必要であり、そこまで労力をつぎ込んで防御の役に立たない虚仮威しのための施設(当初から「未完成」を前提とした山城・見せる城)を造る古代権力者を、わたしにはちょっと想像できません。
 こうしたことから、未完成山城の未完成の理由は、やはり亀田さんが言われるように「途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したもの」であり、その政治・社会情勢こそ九州王朝から大和朝廷への権力交代政変「701年王朝交代(ONライン)」にあったと考えられるのです。
 なお、わたしは「見せる城」説を提起された向井一雄さんの「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」を未見ですので、拝読した上で改めて意見を述べたいと思います(インターネット上に掲載されている向井さんの説は拝見しました)。向井さんは学界を代表する古代山城の専門家にふさわしく、多くの研究論文を発表されており、それらはとても勉強になりますし、刺激も受けています。たとえば、「西日本の古代山城遺跡 -類型化と編年についての試論-」(1991年、『古代学研究』第125号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しをのべられているとのことです。非常に興味深い視点です。こちらの論文も是非拝読したいと思います。


第984話 2015/06/20

九州王朝の御子孫が例会参加

 本日の関西例会には大阪市在住の隈(くま)さんが初参加されました。そのお名前が気になり、どちらのご出身ですかとお聞きしたところ、久留米市大善寺とのこと。やはりそうだったのかと思いました。というのも、九州王朝の王族と思われる高良玉垂命の9人の皇子(九躰皇子)の「長男」シレカシ命の御子孫が大善寺玉垂宮の神官の隈家とされており、その御一族のようです。隈さんのお話でも、久留米市大善寺には隈を名乗る家が多いとのことです。
 大善寺玉垂宮の史料には端政元年(589年)に玉垂命が崩御されたとあります。その次代の天子が有名な「日出ずる処の天子」阿毎多利思北孤ですから、隈さんは九州王朝の天子の一族の御子孫ということになります。関西例会で九州王朝の御子孫にお会いでき、とても驚きました。ちなみに、隈さんは「古田史学の会」ホームページに掲載されたわたしの「九州王朝の筑後遷宮」にある大善寺玉垂宮の隈氏に関する記事を読まれ、関西例会に参加されたとのことでした。
 6月例会の発表は次の通りでした。

〔6月度関西例会の内容〕
①元嘉暦が11年ずれたとしたら(高松市・西村秀己)
②再び、日本列島の「倭人」国と朝鮮半島の内の「倭」について(奈良市・出野正)
③中国の王朝は二倍年暦か?(奈良市・出野正)
④再び「倭人貢暢」論議(奈良市・出野正)
⑤相撲の起源(京都市・岡下秀男)
⑥推古紀が明かす近畿朝の真統譜(大阪市・西井健一郎)
⑦大化改新の論点を整理する(八尾市・服部静尚)(八尾市・服部静尚)
⑧「神武東征譚」はリアルか、また、ニギハヤヒ王朝からの「譲位・譲国」ではなかった?(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(『三国志』短里問題の論文執筆。『古代に真実を求めて』次号に掲載予定、『隋書』「犬を跨ぐ」が原文、「志賀島の金印」出土地に疑義、神社の狛犬はライオンか犬か、来日した最初の僧はインドから?)・新年度の会役員人事・5/17会計監査実施・5/23「古田史学の会・四国」と大阪で懇親会・「船の科学館」で南極観測船宗谷を見学・テレビ視聴(NHK歴史ヒストリア「古代日本の愛の力」)・その他


第983話 2015/06/17

神籠石山城のONライン(701年)

 「洛中洛外日記」981話で鞠智城の8世紀初頭の一時廃絶とその理由について述べましたが、神籠石山城でも似たような現象があることに気づきました。
 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』(熊本県教育委員会、2014年)に掲載されている亀田修一「古代山城は完成していたのか」によれば、『日本書紀』などの史料に記されている「朝鮮式山城」6遺跡と記録に見えない「神籠石山城」16遺跡中、外壁・城門などが完成しているものは大野城・基肄城・金田城・鞠智城・鬼ノ城・御所ケ谷神籠石の6遺跡で、明確に未完成と見られるものは唐原山城跡・阿志岐城跡・鹿毛馬神籠石・女山神籠石・おつぼ山神籠石・播磨城山城跡など6遺跡以上とのことです。
 いわゆる「朝鮮式山城」に比べて「神籠石山城」の方が未完成のものが多いことがわかります。九州王朝説から見れば、首都太宰府防衛を目的とした主要山城である大野城・基肄城、そして朝鮮半島との中継基地でもある対馬の金田城が完成形であることは当然でもあります。他方、唐との戦いに備えて急いで造営されたと思われる神籠石山城に未完成のものが多いというのも、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したONライン(701年)の存在からすれば、造営主体である九州王朝の滅亡により、完成を待たずして放置されたと考えることができます。すなわち、近畿天皇家という「親唐政権」が列島の代表権力者になったため、神籠石山城の必要性も減少したのではないでしょうか。
 ここで注目されるのが鬼ノ城です。鬼ノ城は神籠石一段列石と積石タイプの石垣とが併用された山城ですが、太宰府から遠く離れているにもかかわらず、完成形の山城です。九州王朝の首都太宰府を防衛する大野城・基肄城と同様に完成した山城ということですので、太宰府に準ずるような防衛すべき都市や重要人物が近隣にいたためではないでしょうか。
 そうした視点で鬼ノ城を見たとき、『日本書紀』天武8年条(679年)に見える「吉備大宰」の石川王の記事が注目されます。九州王朝の高官と同じ「大宰」と称された石川王が吉備にいたのですから、完成した山城の鬼ノ城と無関係とは考えられません。この「吉備大宰」も九州王朝説により研究が必要です。(つづく)


第982話 2015/06/16

大宰府政庁遺構の字地名「大裏」

 「洛中洛外日記」971話などで、近畿天皇家の宮殿遺構の「権力者地名」について考察しました。その結論は「大極殿」や「大宮」などの権力者に由来する地名は残っていたり無かったりと一様ではなく、他方「天皇号地名」は付けられていた痕跡がないことを述べました。それでは九州王朝ではどうだったのでしょうか。今回はこの問題について考えてみることにします。
 九州王朝の王宮として「大宰府政庁」遺構について見てみますと、その地の字名「大裏」が注目されます。このほかにも「紫宸殿」という地名があったこともわかっています。ところが、大宰府政庁Ⅱ期の遺構は朝堂院様式の「政治の場」ではありますが、天子の生活の場としての「内裏」遺構が無いのです。あるいは「貧弱」なのです。このことは伊東義彰さん(古田史学の会・前会計監査)から指摘されてきたところでした。
 他方、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されており、字地名「内裏」の位置が現在の政庁遺跡とは異なっているのです。
 この問題がずっと気になっていたのですが、改めて地図を精査すると、「大裏」という字地名はかなり広範囲に広がっており、田中政喜さんの指摘のように、蔵司の丘陵の北側もこの「大裏」に含まれているのです。しかも、発掘調査報告書によれば蔵司の北側に「政庁後背地区」遺跡があり、規模も位置も「内裏」にふさわしいものです。すなわち、字地名「大裏(内裏)」の本来の場所は「政庁後背地区」であり、後に「政庁」もこの字地名内になったのではないでしょうか。なぜなら、「政庁」は「政庁」であり、場所も規模も「内裏」とするには不適切だからです。
 以上の結論から、「大宰府政庁Ⅱ期」遺構はいわゆる「朝堂」(政治の場)であり、天子が生活していた「内裏」は蔵司丘陵の北側に広がる「政庁後背地区」(本来の字地名「内裏」の淵源の地)だったとすることが可能です。すなわち、薩夜麻が帰国後に住んだところが「政庁後背地区」であり、政治の舞台が「政庁Ⅱ期」の宮殿だったのではないでしょうか。この仮説の当否は「政庁後背地区」遺構の編年などを調査してから判断することになりますが、天子が住むには「大宰府政庁」遺跡は狭すぎると伊東さんから指摘されていた課題については、一つの解決案になるかもしれません。
 このように九州王朝の宮殿であった「大宰府政庁」には権力者に由来する地名「大裏(内裏)」などは遺存していますが、九州王朝の天子号(多利思北孤・薩夜麻、あるいは一字名称の讃・珍・済・興・武など)らしきものは見つかりません。この現象は、近畿天皇家の宮殿(藤原宮・難波宮・平城宮・長岡宮)と同様と言えそうです。


第981話 2015/06/14

鞠智城のONライン(701年)

 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集などを精読していますが、次から次へと発見があり、興味が尽きません。今回は鞠智城の編年に関して大きな問題に気づきましたので、ご紹介します。
 現在までの研究によると、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期〜7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末〜8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半〜8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期〜9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期〜10世紀第3四半期

※貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第一号』(熊本県教育委員会、2013年)による。

 貞清さんの解説によれば、Ⅰ期は鞠智城草創期にあたり、663年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
 Ⅱ期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形建物が建てられ、『続日本紀』文武2年(698)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
 Ⅲ期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。
 Ⅳ期では、Ⅱ・Ⅲ期の「管理棟的建物群」が消失しており、城の機能が大きく変容したと考えられています。礎石建物群が大型化しており、食料備蓄施設としての機能が主体になったとされています。
 Ⅴ期は終末期で、場内の建物数が減少しつつ大型礎石建物が建てられ、食料備蓄機能は維持されるが、10世紀第3四半期には城の機能が停止します。
 以上のように鞠智城の変遷が編年されていますが、土器による相対編年の暦年とのリンクが、主には『日本書紀』や『続日本紀』に依っていることがわかります。特に築城を『日本書紀』天智4年(665)条に見える大野城・基肄城築城記事と同時期とみなし、665年頃とされているようです。更に隆盛期のⅡ期を『続日本紀』文武2年(698)条の「繕治」記事の頃とリンクさせています。
 通説とは異なり、大野城築城は白村江戦以前ですし、修理が必要な時期を「隆盛期」とするのもうなづけません。既に何度も指摘してきたところですが、太宰府条坊都市や太宰府政庁Ⅰ・Ⅱ期の造営は通説より30〜50年ほど古いことが、わたしたちの研究や出土木注の年輪年代測定法により判明しています。すなわち須恵器などの7世紀の土器編年が、九州では『日本書紀』の記事などを根拠に新しく編年されているのです。この「誤差」を修正すると、先の鞠智城編年のⅠ・Ⅱ・Ⅲ期は少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなるのです。
 このように理解すると、土器の出土が皆無となるⅢ期は7世紀第4四半期後半から8世紀第2四半期となり、古田先生が指摘されたONライン(701年)の頃にピッタリと一致するのです。すなわち、九州王朝の滅亡により鞠智城は「土器無出土(無人)」の城と化したのです。これは九州王朝説であれば当然のことです。九州王朝の滅亡に伴い九州王朝の鞠智城は「開城」放棄されたのです。一元史観では、この鞠智城の「無土器化(無人化)」の理由を説明できません。
 そしてそのタイミングで大和朝廷は文武2年(698)に放棄された大野城・基肄城・鞠智城の占拠と修理を命じたのです。このように多元史観・九州王朝説による土器編年とのリンクと王朝交代という歴史背景により、鞠智城の謎の「Ⅲ期の無土器化(無人化)」現象がうまく説明できるのです。なお、鞠智城の編年問題については引き続き論じる予定です。

〔参考資料〕鞠智城出土土器数の変化
年代          出土土器個体数
7世紀第2四半期    10
7世紀第3四半期    23(鞠智城の築城)
7世紀第4四半期〜8世紀第1四半期 181
8世紀第2、3四半期   0
8世紀第4四半期    40
9世紀第1四半期     5
9世紀第2四半期     4
9世紀第3四半期    88
9世紀第4四半期    30
10世紀第1四半期    0
10世紀第2四半期    0
10世紀第3四半期    8(鞠智城の終末)

出典:柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第二号』(熊本県教育委員会、2014年)による。


第980話 2015/06/13

35年ぶりに『戦争論』を読む

 先日、京都駅新幹線ホーム内にある本屋で川村康之著『60分で名著快読 クラウゼヴィッツ「戦争論」』(日経ビジネス人文庫)が目にとまり、パラパラと立ち読みしたのですが内容が良いので購入し、出張の新幹線車内などで読んでいます。著者は防衛大学を卒業され自衛隊に任官、その後、同大学教授などを歴任され、昨年亡くなられたとのこと。日本クラウゼヴィッツ学会前会長とのことですので、どうりで『戦争論』をわかりやすく解説されているわけで、納得できました。
 クラウゼヴィッツの『戦争論』は古典的名著で、わたしも20代の頃、岩波文庫(全3冊)で読みましたが、当時のわたしの学力では表面的な理解しかできず、その難解な表現に苦しんだ記憶があります。集団的自衛権や安保法制、そして中国の海洋侵略やアメリカとイスラム国との戦争など、世界は大戦前夜のような時代に突入していますから、川村さんの解説に触発されて、書棚から35年前に読んだ『戦争論』を引っ張り出し、再読しています。
若い頃読んで重要と感じた部分には傍線を引いており、当時の自分が『戦争論』のどの部分に関心を示していたのかを知ることができます。傍線は主に「第一篇 戦争の本性について」「第二篇 戦争の理論について」「第三篇 戦略一般について」の部分に集中していることから、実践的な面よりも戦争理論や哲学性に興味をもって読んでいたようです。
 今回は「第六篇 防御」を読んでいます。その理由は、古代九州王朝における水城や大野城山城・神籠石山城がどの程度対唐戦争に効果的であったのかの参考になりそうだからです。というのも「第六篇」には「要塞」「防御陣地」「山地防御」「河川防御」といった章があり、防御側と攻撃側のそれぞれのメリット・デメリットが考察されており、九州王朝の防衛戦略を考察する上でとても参考になります。
 通常、攻撃よりも防御の方が戦術的には有利で、攻撃側は防御側の3倍の戦力が必要とされています。したがって、九州王朝は九州本土決戦で防御戦略を採用していれば唐に負けていなかったと思われます。もちろん「防御」ですから、戦力の極限行使による絶対的戦争の勝利は得られませんが、とりあえず国が滅亡することは避けられます。しかし、九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。現代の経営戦略理論でも同盟(アライアンス)は重視されますが、「行動は共にするが、運命は共にしない」というのが鉄則です。九州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。この点、日露戦争や大東亜戦争の開戦動機との比較なども、今後の九州王朝研究のテーマの一つとなりそうです。
 他方、朝鮮半島で勝利をおさめた唐は賢明でした。倭国本土での絶対戦争ではなく、薩夜麻を生かして帰国させ、日本列島に「親唐政権」を樹立するという政治目的を自らの軍事力を直接的に行使することなく成功させました。やはり、軍事力でも戦争理論でも唐は九州王朝よりも一枚上手だったということでしょう。『戦争論』の再読が完了したら、これらのテーマについて深く考察したいと思います。


第979話 2015/06/13

健軍神社「兄弟元年創建」史料

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市最古の神社とされる「健軍神社」の創建年がウィキペディアには「欽明19年(558年)」とされていることをご紹介しました。この年が九州年号「兄弟」元年に相当するので、史料根拠を探してみたところ、『田代之宝光寺古年代記』に次のように記されていることを発見しました。

(前略)
「戊刀兄弟 天下芒(暁)ト言健軍社作始也 老人皆死去云々」
「己卯蔵知」
(以下略)
※「戊刀」は「戊寅」のこと。「暁」は金偏に「堯」。「蔵知」は『二中歴』には「蔵和」とある。(古賀注)

 田代之宝光寺は「鹿児島県肝属郡田代村」にあったお寺のようで、わたしが持っている活字本コピーの解説によれば「島津図書館にあった本を写したものである」とされています。このコピーはかなり以前に入手したもので、残念ながら出典は不明です。『田代之宝光寺古年代記』は九州年号の「善記元年」(522)から延寶六年(1678)まで記されており、それ以後は切れていて残っていないとのことです。
 兄弟元年戊寅(558年)に「健軍社作始也」とありますから、九州年号により健軍神社の創建年が記された貴重な史料であり、九州王朝下により創建されたことがうかがわれます。
 「天下芒(暁)ト言」の意味はまだわかりません。ご存じの方があればご教示ください。
 「老人皆死去云々」は『二中歴』など他の九州年号群史料には「蔵和」の位置にありますが、『田代之宝光寺古年代記』には「兄弟」の位置に記されているようです。ただし、年代記の類は狭いスペースに記事が書き込まれているケースが多く、位置がずれたり混乱することもありますので、やはり他の九州年号群史料に従って、本来は「蔵和」にあったと考えた方がよいように思われます。
 老人が「皆死去」したというのですから、流行病でも発生したのかもしれません。また、「云々」とありますから、引用した元史料にはその様子がもっと詳しく書かれていたのでしょう。
 林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)の説によれば、「老人死」を老人星が見えなくなるという意味であり、国家に内乱が発生したことの暗喩であるとされています。しかし、「皆死去」とありますから、老人星なるものが「皆」というほど天空にたくさんあったとも思われませんから、やはりここは「老人が大勢亡くなった」と文章通り普通に理解したほうが良いように思います。
 いずれにしましても、健軍神社の縁起や伝承記録を引き続き調査し、九州王朝との関係を更に調べることにします。熊本市現地の方のご協力をお願いいたします。


第978話 2015/06/12

「兄弟」年号と筑紫君兄弟

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市の「最古の神社」とされる健軍神社が「欽明19年(558年)」の創建で、この年こそ九州年号の「兄弟」元年に相当することから、「兄弟統治」を記念して「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないかと述べました。
 この「兄弟」年号に関して興味深い論稿が林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)から発表されました。「『二中歴』年代歴の「兄弟、蔵和」年号について(追加)」(『東海の古代』第178号、2015年6月。「古田史学の会・東海」発行)という論文で、「兄弟」年号は6年間継続したとする新説が主テーマです。その中で『日本書紀』欽明17年条(556)に見える、筑紫君の二人の子供「火中君」(兄)と「筑紫火君」(弟)こそ、九州王朝の兄弟統治の当事者ではないかとされました。欽明17年の2年後が九州年号「兄弟」元年(558)ですから、その可能性は高そうです。わたしもこの兄弟のことは知っていましたし、論文でもふれたことがありますが、九州年号の「兄弟」と時代的に関係するものとは気づきませんでした。さすがは九州年号研究を永く続けられてきた林さんならではの慧眼です。
 わたしは九州王朝の兄弟統治における兄弟の一人が「肥後の翁」ではないかと考えてきましたが、筑紫君の兄弟の名前が共に「火」の字を持っていることから、「火国」=「肥国」と考えられ、どちらかが「肥後の翁」ではないでしょうか。肥後の古代史が九州王朝との関係から、ますます目が離せなくなってきました。


第977話 2015/06/12

「洛洛メール便」好評配信中

「古田史学の会」会員向け無料サービスとして「洛洛メール便」を配信しています。ホームページ掲載の「洛中洛外日記」の他に、「洛中洛外日記【号外】」も配信しています。この【号外】は会員限定情報ですので、ホームページには掲載されません。
【号外】としてこれまで次のようなテーマを配信しました。タイトルのみご紹介します。まだ、配信申し込みをされていない会員の皆様もこの機会に是非お申し込みされてはいかがでしょうか。申し込み先はホームページに掲載していますので、ご参照ください。会員番号が不明の場合は、その旨をご記入ください。

「洛中洛外日記【号外】」日付 タイトル

2015/04/27 久留米大学公開講座レジュメ
2015/04/30 「シルクをまとった女王たち」
2015/05/06 愛知サマーセミナーでの講義依頼
2015/05/10 明石書店が朝日新聞に広告
2015/05/13 『盗まれた「聖徳太子」伝承』再々読
2015/05/17 「万葉集の中の紫外線漂白」
2015/05/22 「事務局」体制復活へ
2015/05/27 愛知淑徳高校でサマーセミナー開催
2015/05/28 2015年度の事業計画
2015/06/06 2015年度の役員体制案
2015/06/09 「戦う!書店ガールズ」最終回を見る


第976話 2015/06/11

禁止された地名への天皇名使用

 「洛中洛外日記」971話「『天皇号』地名成立過程の考察」において、近畿天皇家の王宮(後期難波宮・藤原宮・平城宮・長岡京)跡地に天皇名が地名として遺存していないことを述べました。もともと付けられなかったのか、付いていたけども残らなかったのかは不明ですが、最高権力者(天皇)の名前を地名に使用するのははばかられたのではないかと考えてきました。
 そうしたら「洛中洛外日記」を読まれた正木裕さんから次のようなメールをいただきました。

古賀様、各位
『日本書紀』に天皇名を軽々しく地名に使ってはならないという趣旨の詔があります。

■大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)
(略)王者(きみ)の児(みこ)、相続ぎて御寓せば、信(まこと)に時の帝と祖皇の名と、世に忘れべからざることを知る。而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者の号(みな)は、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は天地と共に長く往くべし。

これは九州年号大化期のもので近畿天皇家が九州王朝の天子名を消すためにだした詔勅(或は服部説なら九州王朝が自らの王名の尊厳を図るための詔勅を出した可能性もある)と思いますが、天皇地名がないのはこれとの整合をとる為なのかも知れませんね。
正木拝

 『日本書紀』の大化二年条(646)に天皇名を地名などに使用することを禁止するという趣旨の詔勅があるというご指摘です。この「大化2年」の詔勅が646年なのか、九州年号の大化2年(696)なのかという問題と、この詔勅が九州王朝のものなのか近畿天皇家のものなのかという検討課題がありますが、いずれにしても7世紀中頃から末にかけて、このような命令が出されたことは間違いないと思われます。
 従って、古代において最高権力者の名前を地名につけることがはばかられたという事実は動きませんが、同時に詔勅で禁止しなければならなかったということですから、最高権力者と同じ名前の地名が少なからずあったということもまた事実ということになります。そうでなければ詔勅まで出して禁止する必要はありませんから。
 次に考えなければならないことに、その天皇名とは生前に使用されていた名前か、没後におくられた諡号なのかという問題があります。『日本書紀』に付加された「漢風諡号」は8世紀に成立しますから、その対象から外れます。近畿天皇家の「和風諡号」も同時代(各天皇の没後すぐ)に成立したのものか、『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に成立したものかによりますが、『日本書紀』編纂時に「和風諡号」が成立したのであれば、これもまた対象から外れることになります。従って、論理的に可能性が最も高いものとしては生前の名前ということになりそうです。
 そして最も重要な検討課題は、この詔勅が禁止した名前とは九州王朝の天子の名前なのか、近畿天皇家の天皇の名前なのかということです。おそらくは九州王朝の天子や王族の名前と思いますが、近畿天皇家が701年以後に日本列島の最高権力者となった後は、九州王朝と同様にみずからの「天皇名」を地名に付けることは禁止したと思います。正木さんも指摘されたように、こうした詔勅が出されたことと、難波宮や藤原宮、平城宮、長岡京に「天皇名」地名が無いこととは対応しているのではないでしょうか。(つづく)


第975話 2015/06/10

一人に二つの「諡号(おくりな)」の謎

『日本書紀』の「諡号(没後のおくりな)」について先行研究を勉強していますが、多くの論文があり、目を通すだけでも大変です。通説では淡海三船(722〜785年)が「漢風諡号」を『日本書紀』成立(720年)後に作ったとされていますが、その淡海三船が活躍した時代が、ちょうど「漢風諡号」(正確には生前の尊号)を二つ持つ孝謙・称徳天皇(聖武天皇の娘、阿倍内親王。718〜770年)の時代です。
この「漢風諡号」のような「尊号(孝謙・称徳)」を一人の天皇が二つ持つという実例を、同時代を生きた淡海三船は知悉していたはずです。したがって『日本書紀』の「漢風諡号」を作るときに、「孝謙・称徳」の例にならって、二度即位した宝皇女に「皇極・斉明」という二つの「漢風諡号」を付けることになったのではないでしょうか。このように考えれば、同一人物に二つの「漢風諡号」を付けるという奇妙な状況が説明できます。
こうした仮説が正しければ、『日本書紀』編纂時には一人の「天皇」に対して一つの「和風諡号」を付けるという『日本書紀』編纂者と、後世になって淡海三船が付けた「漢風諡号」とは編纂方針が異なっていることになります。