第1137話 2016/02/11

『古田史学会報』132号のご紹介

『古田史学会報』132号が発行されましたので、ご紹介します。西条市の今井さんの力作が掲載されています。「古田史学の会」会員の肥沼孝治さんが今井稿をホームページ“多元的「国分寺」研究サークル”で要領よく紹介されていますので、転載させていただきます。なお、掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』132号の内容
○『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝 川西市 正木裕
○伊予国分寺と白鳳瓦 -最初に国分寺制度を作ったのは誰か(伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)- 西条市 今井 久
○「皇極」と「斉明」についての一考察 -古田先生を偲びつつ-  松山市 合田洋一
○追憶・古田武彦先生(2)
池田大作氏の書評「批判と研究」 古田史学の会・代表 古賀達也
○古田武彦先生追悼会の報告 八尾市 服部静尚
○二〇一五年の回顧と年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 古賀達也
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

【転載】「今井久さんの論文から学ぶ」 肥沼孝治

今井久さんの論文から学ぶために,「見出し」の書き出しをしてみる。つまり「構成」から学ぼうというワケである。
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一.「国分寺建立」は聖武天皇が始めた,その実態の検討
イ.「国分寺」創建の詔の寺の「名称」
ロ.聖武天皇の詔の前にすでに国分寺が存在している事を示す記録があること
ハ.『続日本紀』は詔勅の「金光明寺・法華寺」の寺名を抹消した

二.聖武天皇の詔の前に全国に国が統制する寺院が存在
イ.「詔」以前の文献にあらわれる国分寺と推定される寺院の存在
ロ.聖武天皇の詔の百年前.七世紀に寺院数が激増
ハ.九州地方には左記の初期寺院が,小田富士雄氏に仍って列挙されている

三.国分寺遺跡出土の遺構・遺物が示す疑問点
1.国分寺遺跡出土の伽藍配置が大きく二つにわかれている(塔が回廊内か回廊外か。前者が古式)
2.全国の国分寺遺跡から出土する国分寺の伽藍配置が分裂(古式からは白鳳瓦が出土)

四.伊予の国分寺の考察(古式の伽藍配置で白鳳瓦が出土)

五.国分寺制度を最初に創ったのは倭国九州王朝である

六.「国分寺制度創設」を開始した倭国王は誰か

まとめ
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なるほど,構成がすっきりしていてわかりやすい。統計的に分類し,しっかりとした結論を導き出している。天国の(もしかしたらご希望だった地獄の)古田先生にも喜んでいただけるのではないかと思った。


第1136話 2016/02/09

一元史観からの多層的「国分寺」の考察

 肥沼孝治さん宮崎宇史さんと立ち上げた多元的「国分寺」研究サークルですが、肥沼さんが開設された同サークルのホームページは順調にアクセス件数が増えているとのこと。

 そのホームページで肥沼さんが梶原義実さんの「国分寺成立の様相」(『考古学ジャーナル』2月号所収)という論文を紹介されました。同論文の存在は宮崎さんから教えていただいていたのですが、わたしはまだ入手できずにいます。

 肥沼さんの紹介によれば、大和朝廷一元史観に立った国分寺研究ですが、一元史観では説明しきれない様々な考古学的知見が記されているとのこと。わたしも同論文を読んだ上で、改めて論評したいと思います。取り急ぎ、肥沼さんによる紹介文を転載させていただきます。多元的「国分寺」研究はいよいよ面白くなってきました。

〔追記〕本稿執筆後に図書館で梶原義実さんの「国分寺成立の様相」を閲覧しました(最新号のためコピー不可)。各地の国分寺遺跡には白鳳時代の瓦が出土していたり、その下層に堀立柱の遺構があるものがあり、古い寺院があった場所に新たに国分寺が建てられたとする説が紹介されています。しかし、梶原さんの結論としてはそれらは7世紀に遡るようなものではないとする見解でした。従って、わたしたちの多元的「国分寺」説とは真っ向から対立する立場のようです。

【ホームページ・多元的「国分寺」研究サークルより転載】
梶原義実さんの「国分寺成立の様相」論文

宮崎さんのアドバイスもあり,
通説のおさらいにと思って買った『考古学ジャーナル』2月号。
(たった30数ページなのに薄いのに,1700円もする!)
ところが,それに掲載されていた上記の論文がとても刺激的なので,
このサイトで紹介しようと思った次第である。
もちろん通説の立場であるから,九州王朝なんて言葉は出てこないが,
しかしそれだからこそ,「雑念」が入らず読めるのではないかと。

(1)小田富士雄氏によると,西海道の国分寺には,
国分寺の造営にあたって大宰府の影響がきわめて大きかったと論じた。

(2)山崎信二氏は,平城京と国分寺との瓦の同はん関係は,
いまだに確認されていないと指摘した。

(3)1970年台以降,とくに80年代から90年代にかけて,
武蔵・上総・下総・上野・下野など,関東地方の国分二寺を中心に,
伽藍の中枢域(伽藍地)ばかりでなく,周辺域(寺院地)も含めた
広域的な調査がおこなわれるようになった。
須田勉氏は,それらの調査を受け,関東地方の多くの国分寺の造営計画について,
方位の異なる2時期の遺構が検出されることに注目した。(上総国分寺の伽藍変遷図)
さらに造営においては金堂より塔が先行する例が多いこと,
本格的な礎石建の伽藍の下層に,掘立柱建物の遺構が先行
してみられる例が存在することなどから,国分寺の造営計画に変更があったことを指摘した。

これまで多元的「国分寺」研究サークルが考えてきたことに,
まさにぴったり重なる発掘結果というべきではないだろうか。
しかし,この謎は大和一元史観では解けない。
7世紀末までは九州王朝が,8世紀以降は大和政権が,
我が国を代表する主権国家だったとする多元史観をもってして,
初めて解き得る謎(=歴史的真実)なのではないだろうか。

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上記は,朝の忙しい時に入力したもので,電車の中で「これも入れたかった」というものを見つけた。半日立ったが,補足しておきたい。

追伸

(4) 八賀晋氏は,出土瓦について,白鳳期の瓦が一定以上出土する国分寺が多いこと,美濃国分寺などの国分寺の伽藍の下層に,掘立柱建物が確認される事例があることなどを示しつつ,これら古相を示す伽藍配置については,白鳳期以前の氏寺(前身寺院)を改作・拡充整備したものとの見解を著わした。


第1135話 2016/02/07

大善寺の十二弁菊花紋の御神像

「洛中洛外日記」1130話で肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究を紹介したところ、鳥栖市のTさんから久留米市大善寺にも十二弁菊花紋を持つ祠があることをお知らせいただきました。メールで送信していただいた写真には確かに石の祠に十二弁菊花紋があり、御神像が安置されていました。
 そこで、久留米市の研究者で威光理神や筑後国府のことをお調べいただいた犬塚幹夫さんにその祠のことをお伝えし、調査協力をお願いしたところ、早速次のメールが届きました。
 なんと十二弁菊花紋の祠の神様は女性の恵比寿様とのこと。恵比寿様といえば男性と思いこんでいたのですが、これには驚きました。ちなみに、筑後地方には恵比寿信仰が濃密に残っており、その淵源は九州王朝や高良大社とも関係がありそうです。楽しみな研究テーマがまた一つ増えました。当情報をお知らせいただいたTさんと犬塚さんに感謝いたします。
 以下、犬塚さんのメールをご了解の上、転載します。

古賀達也様
十二弁菊花の祠について

 先だっては、貴重なお話を聞かせていただき大変刺激になりました。ありがとうございました。
 さて、遅くなりましたが、十二弁菊花の祠について現在までに判明したことをお知らせします。

1  現地調査
 祠は西鉄大善寺駅の近く、明正寺という浄土真宗のお寺の脇にあります。祠自体にご祭神の情報がなかったため、お寺の方に聞いてみたところ、ご祭神は恵比須様であること、毎年七月下旬に町内の子どもが集まってお祭りをすること、祠がいつの時代からあるのかはわからないことなどを聞かせていただきました。

2  文献調査
 この祠と神像について、「久留米市史第5巻」では、「大善寺町には、明正寺前の祠にも木彫の恵比須(女形)が祭られている」とあり、ご祭神は恵比須様の女神であることがわかります。
 また、加藤栄「史料とはなし 鄕土大善寺」では、「恵比須さん 明正寺の道端にある町祠。明治初年からの木像がある。」とあるます。明治になって木像が補修されたのでしょうか。
 坂田健一「恵比須の中の筑後」で、次のように述べています。
 「恵比寿を単体で祭祀する場合、抱鯛型通相の神像がほとんどであるが、時に女神だけの事例もある。」として、久留米市大善寺にある二例の女神だけの恵比寿神像について説明しています。
 一つは、大善寺藤吉の称名院前の石祠にある神像で、「筑後秘鑑」によれば日本最初の市蛭子ということです。現地で確認したところ、神紋は「十二弁の菊花紋」ではなく「三つ蔓柏」でした。
 もう一つが大善寺宮本の恵比寿像です。坂田氏はこれについて、「石祠は大型の入母屋平入りの堂々たる構えで破風面に十二花弁の菊花が彫り出されているのが特徴的で珍しかった。『享和元年(一八〇一)酉年十月吉馬焉』の銘の外に、『上野町願主 江口吉右衛門』や庄屋の江口小右衛門、別当の田川儀七などの刻銘がある。
 内部の神像は高さ約二五センチほどの木彫で、頭頂部分が欠失しているが、明らかに垂髪の女神像である。目は線状に彫りくぼめ、鼻は三角形の小さな突起をつくり、両手を膝上に組んで何かを捧げている態様であるが、詳細は不明。小袖・袿・長袴姿を着た平安期の正装女性を感じさせるが、着衣の袖が左右に大きく張り出し、全体の形が三角形を呈しているのが出色である。
 神像の周囲に素焼きの恵比須・大黒像が置かれていて、この女神像が恵比須として祭祀されていることは明らかである。」としていますが、十二弁の菊花紋が使用されている理由などについては特に触れていません。

3  御廟塚
 大善寺町から約2キロメートル離れた三潴町高三潴にある高良玉垂命の墓と伝えられる御廟塚に祠がありますが、「三潴町文化財探訪」に「正面鳥居の前に小さな石祠がある。恵比須神の石祠である。」とされています。
 また、坂田氏の「恵比須の中の筑後」では、「三潴町の恵比須  塚崎の高良廟の境内に石祠がある。もとは古い石祠だったと思われるが、現在の祠は奥壁の一枚を保存して再建したものと推測される。この奥壁は平石の中央を彫りくぼめ、左右の縁部を前方に突出した形になっている。半肉彫に表現された恵比須は、高さ三二センチほどあり、両手で大鯛をがっちり抱え込む珍しい様式のものである。再建石祠の向かって右側面に『文政五年(一八二二)六月吉日 昭和七年十月再建』の銘がある。」とされています。
 念のため現地で確認したところ、大善寺藤吉の神像と同じく「三つ蔓柏」の神紋を使用していました。

4  十二弁菊花の神紋について
 十二弁菊花の神紋については、どの文献も触れていなかったため、神社に関するサイト「玄松子の記憶」を参照しました。玄松子さんが自ら調査した神社という制約はあるもののかなりの数の例が挙げられていますので大変参考になります。
 菊花の神紋を持つ254社のうち
十二弁       3社
    宇佐神宮  大分県宇佐市
    明治神宮  東京都渋谷区
        荏原神社  東京都品川区
 八弁       4社
十四弁       5社
十五弁       1社
十六弁その他    241社
(分類・集計は犬塚による)

 以上現在まで判明した事項についてお知らせしました。今後、私も十二弁、十三弁の神紋について探していきたいと思っております。

参考文献
加藤栄「史料とはなし 郷土大善寺」 1977
久留米市史編さん委員会「久留米市史 第5巻」 1986
坂田健一「恵比須の中の筑後」 1998

犬塚幹夫


第1134話 2016/02/06

難波宮と真田丸

 今年は一大決心の末、NHK大河ドラマ「真田丸」を見ないことにしました。主役の堺雅人さんは好きな俳優さんなのですが、「古田史学の会」運営と古代史研究・原稿執筆のための時間を確保するため、日曜日の夜の貴重な約1時間をテレビに費やすことをやめることにしたのです。とはいえ、歴史ドラマは興味がありますから「真田丸」については上町台地の遺構として注目しています。
 というのも、昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんから教えていただいたことなのですが、難波宮がある上町台地北端は歴史的に見ても要害の地であり、たとえば大阪城は三方を海や川に囲まれており、南側からの侵入に備えればよい難攻不落の地であるとされています。わたしも全く同意見であり、そのことは「洛中洛外日記」680話でも指摘してきたところです。ですから豊臣秀吉はこの地に大阪城を築城したのであり、摂津石山本願寺との戦争(石山合戦)では織田信長をしても本願寺を落とすことがてきませんでした。そのような地だからこと、聖武天皇も後期難波宮を造営したのでしょう。こうした史実から、前期難波宮は近くに神籠石山城などがないことをもって防衛上に難点があるとする考えは妥当ではないことがわかります。
 今年の大河ドラマの「真田丸」ですが、大阪城の南側に位置し、南からの侵入に備えると同時に、南方面の敵を攻撃できる要塞でもあると説明されています。このことから思い起こされるのが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える次の記事です。

 「初めて関を龍田山、大坂山に置く。よりて難波に羅城を築く。」

 前期難波宮を防衛する「羅城」築造の記事ですが、李さんに「羅城」遺構は発見されていますかとお聞きしたところ、細工谷遺跡付近から「羅城」と思われる遺構が発見されているが、まだ断定はできないとのことでした。細工谷遺跡といえば、前期難波宮の南方にあり、「真田丸」付近に相当します。ネットで検索したところ、黒田慶一さん(大阪文化財研究所)の「難波京の防衛システム -細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽-」という論文がヒットしました。おそらく、李さんが言われていたのはこの黒田さんの説のようです。
 服部静尚さんの竜田関が大和方面の敵から難波を防衛する位置にあるとの説からも、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮が関や羅城で防衛された要害の地に造営されたことを疑えません。大河ドラマの「真田丸」もそのことを証明しているように思われるのです。


第1133話 2016/02/03

多元的「国分寺」の考古学

 大阪と東京で古田先生の追悼会・お別れ会が二週連続で続くという1月が過ぎ、ようやく落ち着いて研究に取り組める環境に戻りました。もっとも肥沼孝治さんや宮崎宇史さんと多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げたり、『古代に真実を求めて』の古田先生追悼特集号の追加原稿執筆など、忙しい日々は当分続きそうです。

 国分寺遺跡に7世紀に遡るものがあることが濃厚となっているのですが、昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんにこのことを説明し、7世紀の国分寺遺構と8世紀の遺構との見分け方について意見交換しました。
瓦による編年については地域差が大きく、簡単ではないとの見方で意見が一致しました。そこで古代建築を専門とされている李さんから、塔の心柱の構造から一定の判断が可能と教えていただきました。

 7世紀の五重塔などは心柱が版築基台を掘りこんで埋められた形式だが、8世紀以降は心柱は基台上に乗っている形式が主流になるので、一応の目安になるとのことでした。たしかに7世紀初頭の造営で8世紀初頭に移築されたと考えられる法隆寺の五重塔の心柱は版築基台に埋め込んだ形式です。更に、8世紀の国分寺には七重塔が造営されるが、7世紀前半にはせいぜい五重塔なので、その差も判断材料に使えるのではないかとのことでした。

 伽藍配置などの南北軸の振れの他にも、こうした考古学的判断も多元的「国分寺」研究に役立つように思われます。


第1132話 2016/02/02

1月配信「洛中洛外日記【号外】」のタイトル

 1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 1月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/01/08 5月に正木さんと久留米大学で講演予定
2016/01/13 近畿化学協会で講演しました
2016/01/21 『九州王朝の都城』(仮称)の検討
2016/01/24 古田先生追悼号のタイトル『古田武彦は死なず』(試案)
2016/01/30 小保方晴子著『あの日』を読む


第1131話 2016/01/31

正木さんが「誰も知らなかった古代史」開催

 古田史学の会・事務局長の正木裕さんが「誰も知らなかった古代史」というテーマで懇談と発表の会を開催されることになりました。もちろん古田史学に基づく内容で、講師(カタリスト)も「古田史学の会」会員のお名前が並んでいます。わたしもカタリストとして参加したいと考えています。
 とても楽しそうな企画です。聴講したい方や発表したい方は正木さんまでご一報ください。正木さんから送られてきた案内を下記に転載します。

 まちライブラリー@もりのみやキューズモールで「誰も知らなかった古代史」シリーズを正木裕(古田史学の会・事務局長)主催で月1回程度の頻度で開催します。
 テーマごとにカタリストを変え、「当たり前のように言われてきたけれど考えてみれば不思議だな」と思われる古代の歴史について、外国史書・遺跡遺物・化学分析など様々な観点から見直し、「知られていなかった」日本の古代の姿を探り話し合います。

 第1回は2月19日(金)18:30-20:00。テーマは「天王寺と四天王寺」。カタリストは服部静尚(古田史学の会・会員)

 第2回は3月25日(金)18:30-20:00。テーマは「現代日本の”儀礼”は中国殷・周に由来する」カタリストは正木裕(同、事務局長)

 第3回は4月22日(金)18:30-20:00。テーマは「縄文・弥生人は南米に渡った」カタリストは大下隆司(古田史学の会・会員)…

 ◆定員は20名、参加費500円(ドリンク付)当日は歴史関係・時代小説・読み物など本を1冊持参ください。冒頭で本を用いて自己紹介の時間があります。(可能であれば本をまちライブラリーに寄贈頂ればと思います)
 申し込みは正木Email:babdc106@jttk.zaq.ne.jpまで。若しくはフェイスブック(FB)をお開きの方は正木裕のFBにコメントしていただくか、「まちライブラリー」FBのイベント案内から申し込んでください。


第1130話 2016/01/30

肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究

 多元的「国分寺」研究サークルを一緒に立ち上げた肥沼孝治さん(東京都・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ(中社)」は古田史学のことも頻繁に取り上げられていることもあって、古田ファンからも人気のサイトです。そのブログで最近面白いテーマ「十二弁の菊花紋」についての論稿が報告されていますので、ご許可をいただいて「洛中洛外日記」に転載させていただきます。
 九州王朝の家紋は「十三弁の菊」とする説を九州王朝のご子孫のMさんから以前お聞きしたことがありますが、「十二弁の菊」も江田船山古墳から出土した大刀に銀象嵌されており、十三弁と十二弁の関係なども興味深い問題です。「十三弁の菊」については「洛中洛外日記」第24話や「天の長者伝説と狂心の渠」などをご参照ください。

「肥さんの夢ブログ(中社)」から転載
 2016年1月25日 (月)
「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地

 上記の無文銀銭について,先ほど今村啓爾著『富本銭と謎の銀銭〜貨幣誕生の真相』(小学館)で確認したところ,出土地が判明した。摂津国天王寺村の眞實院という字名の畑の中からである。
 摂津国天王寺村といえば,どんぴしゃり!古賀さんが「九州王朝の副都」として論証を進めているまさにその場所で,その九州王朝の発行したと思しき「12弁の菊花紋」入り無文銀銭が発見されたのだ。まさにキャッチャーの構えたミットにズバッと直球が投げ込まれたようなものである。しかもその発見場所の名前が「眞實(真実)院」というわけだから,まさに人生の不思議この上ない。
 なお,無文銀銭が最初に発見されたのも,この眞實院である。(100枚ほど。このうち1枚が現存で,2枚が拓本と図がある)無紋銀銭というと滋賀県の崇福寺が有名だが,あちらは昭和15年と新しい発見で,こちらは1761(宝暦)年10月7日というのだから,桁違いに古い発見なのだ。


第1129話 2016/01/28

多元的「国分寺」研究サークル

       のホームページ開設

 多元的「国分寺」研究サークル(愛称:タブンケン)のメンバーはまだ三人しかいませんが、その内のお一人、肥沼孝治さんがホームページを開設されました。肥沼さんといえば「肥さんの夢ブログ」というご自身のホームページもお持ちで、古田ファンにも人気のブログです。

 まだアクセス件数が少ないためか、検索しにくいそうですが、「洛中洛外日記」で書いた国分寺関係の記事を転載していただいています。これからは書き下ろしの論文も掲載する予定ですので、関心のある方は是非のぞいて見てください。多元的「国分寺」研究サークルへの参加も大歓迎です。特に入会条件などありませんから、ホームページに何かコメントしていただければ勝手にメンバーとなれます。
掲載論文やコメントが増えれば、本として出版することも考えていますので、皆さんのご参加をお待ちしています。


第1128話 2016/01/24

「多元的国分寺」研究サークルを結成

 昨日は東京新聞の小寺勝美さんとお会いし、3時間にわたり対談しました。小寺さんは古田先生の訃報を扱ったコラム記事(邪馬「壹」国の人。東京新聞12月1日付朝刊「こちら編集委員室」)を書かれた方です。とても誠実で正確な内容の記事でしたので、是非お会いしたいと思い、東京での邂逅となりました。

 小寺さんは学生時代に古田先生の著作に出会われたとのことです。佐賀市のご出身で、フクニチ新聞社に勤務された後に東京新聞に入られたとのこと。今春、「古田史学の会」編集の『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)と『古田武彦は死なず』(仮称。『古代に真実を求めて』19集、明石書店)の発刊記念講演の東京開催を検討していますが、そのときに取材を受けることになりました。

 夕方からは埼玉県の肥沼孝治さんと神奈川県の宮崎宇史さんと夕食をご一緒しました。話題は昨年から急進展を見せた「多元的国分寺」論、すなわち九州王朝の多利思北孤による国分寺建立の詔勅が6世紀末頃に出され、その古い国分寺の痕跡が各地に見られるというテーマです。肥沼さんからは近年発見された上野国国分寺の伽藍跡について報告されました。宮崎さんからは橿原市にある「大和国国分寺」の現地調査報告がなされました。わたしからは『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事と、大和と摂津に国分寺が二つあることの論理性(王朝交代における権力中枢地に発生しうる現象であること)について説明しました。

 そして、わたしからの提案で「多元的国分寺」研究サークルを三人で立ち上げ、ホームページの開設と全国の国分寺研究者に「多元的国分寺」研究(略称「多分研」?)への参加を呼びかけることになりました。ホームページが開設されましたら、ご報告します。

 三人の古代史論議は3時間以上に及びました。天気予報では夜から雪になるといわれていましたが、東京は比較的暖かく雪は降りませんでした。わたしは近くのホテルに帰るだけでしたが、お二人は遠くに帰られるので、夜遅くまで引き留めることになって申し訳ないことをしてしまいました。
これから古田先生の追悼会(文京シビックセンター)に向かいます。


第1127話 2016/01/23

百済王亡命地が南郷村の理由

 1126話で韓国南部と宮崎県に前「三角錐」後円墳が存在していることを述べましたが、これが偶然ではなく両地域の被葬者に深い関係があるのではないかと考えています。
 宮崎県の前「三角錐」後円墳が分布する西都市の近隣に百済王伝説で有名な南郷村があります。白村江戦などで滅亡した百済王族が南郷村まで漂着逃亡したという伝承ですが、なぜ亡命地に宮崎県が選ばれた理由がわたしにはわかりませんでした。唐軍による追跡から逃れるのであれば、多くの百済亡命人が逃げた摂津難波や近江などの遠隔地こそ相応しいと思われるのですが、ところが宮崎県南郷村を百済王族が亡命地に選んだ理由が不明だったのです。
 この疑問を解く鍵が両地域(韓国南部と宮崎県)に共通して存在する前「三角錐」後円墳ではないでしょうか。すなわち、韓国南部(百済)で前「三角錐」後円墳を造営した倭国の豪族と宮崎県西都市に前「三角錐」後円墳を造営した勢力は深い関係を持っていたと考えると、亡命百済王族はその勢力の庇護のもとに南郷村に亡命したとする仮説が成立すると思われるのです。


第1126話 2016/01/22

韓国と南九州の前「三角錐」後円墳

 昨日から仕事で東京に来ています。東京駅に着いてちょっと時間があったので八重洲ブックセンターに寄り、吉村靖徳著『九州の古墳』(海鳥社。2015年12月発行)を購入しました。同書の解説は典型的な大和朝廷一元史観によっており、あまり学問的に有益ではありませんが、九州の代表的な古墳約120カ所がカラー写真で紹介されていることが気に入りました。
 その中で興味深い古墳がありました。近年、韓国で発見が続いている「前方後円」墳によく似たものがあったのです。韓国の「前方後円」墳は正確に表現すると、前方部の形状が三角錐に近く、それを「前」から見ると、前方部の形が「台形」ではなく、上部が尖った「三角形」なのです。ですから立体的には「三角錐」が後円部に繋がっているような形状をしています。いわば前「三角錐」後円墳とでも言うべき形状です。これは日本列島の前方後円墳には見られない珍しい形状ですので、韓国内で独自に発展した形状かと思っていました。ところがその韓国の前「三角錐」後円墳によく似た古墳の写真が『九州の古墳』に掲載されていたのです。
 最終的には正式な調査報告書を見てからでなければ断定はできませんが、次の三つの古墳の形状が写真では前「三角錐」後円墳に似ているように見えました。一つは宮崎県西都市の松本塚古墳で墳長104mで5世紀末から6世紀初頭の頃の前方後円墳と説明されています。
 二つ目は熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳で、墳長102mの前方後円墳で5世紀中頃の築造と説明されています。
 三つ目は写真からはやや不確かですが、宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳で、墳長94mの6世紀代の前方後円墳とされています。
 『祇園原古墳群1』(1998年、新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ています。

 ○百足塚古墳 墳長76.4m
 ○機織塚古墳 墳長49.6m
 ○新田原52号墳 墳長54.8m
 ○水神塚古墳 墳長49.4m
 ○新田原68号墳 墳長60.4m
 ○大久保塚古墳 墳長84.0m

 韓国独特の前「三角錐」後円墳に似た古墳が宮崎に多数あることは九州王朝(南九州)と古代韓国の関係を考えるうえで興味深い現象です。もちろん、九州以外にもこの前「三角錐」後円墳があるかもしれませんので、引き続き慎重に調査したいと思います。この他の前「三角錐」後円墳についてご存じの方がおられればご教示ください。