第853話 2015/01/17

久しぶりの『三国志』

     短里論争

 本日の関西例会では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)やわたしから批判されていた「関」と「畿内」の設立についての自説の訂正と反論が行われました。
 討議では、『日本書紀』が九州年号「大化」を何故5年間だけ盗用し、九州年号「白雉」を2年ずらして、これも5年間だけ盗用したのかという疑問について意見が交わされました。合計を10年にしたのは孝徳即位期間の10年にあわせたためと思われますが、『日本書紀』が「大化5年+白雉5年」にした理由がよくわかりません。「大化7年+白雉3年」であれば、白雉元年を2年ずらさずにすむのに、不思議です(九州年号「白雉元年」は652年。『日本書紀』の「白雉元年」は650年)。
 また、『日本書紀』大化2年(646)の改新詔は九州年号の大化2年(696)に藤原宮で出されたとする説と、7世紀中頃とする服部説とで論争が続きましたが、両者相譲らず、結論は今回も持ち越されました。
 正木さん(古田史学の会・全国世話人)からは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。
 魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が出され、西村秀己さんから、暦法を周制に変更した明帝ではないかとする見解が示されました。関西例会も久しぶりの『三国志』短里問題で盛り上がりました。
 出野さんからは稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土大刀銘の訓みについての研究が発表されました。稲荷山鉄剣銘に見える「斯鬼」をシキと訓むことについて疑問を呈され、「鬼」を記紀や万葉集・推古朝遺文の万葉仮名で「キ」と訓んだ例はないとされました(百済人の人名「鬼室」は万葉仮名ではない)。万葉仮名(万葉集)では「鬼」を「マ」と訓まれており、「魔」の省略体と紹介されました。そして「斯鬼」を「シマ」あるいは「シクィ」「シクワィ」(二重母音)と訓む可能性を示唆されたのです。少なくとも「シキ」と断定的に訓むべきではないとされました。
 わたしにはまだ出野説の当否はわかりませんが、根拠を提示しての新説ですし、「鬼」は万葉仮名で「キ」と訓まれていないという指摘には、虚を突かれた気持ちです。
 稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土大刀銘の文意や被葬者の位置づけについても興味深い見解を発表されました。『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 いずれも素晴らしい発表で、新年も快調な滑り出しとなりました。1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 「関」と「畿内」と「改新の詔」の検証2(八尾市・服部静尚)
2). 「魏・西晋朝短里」は揺るがない(川西市・正木裕)
3). 稲荷山古墳出土鉄剣銘、江田船山古墳出土大刀銘についての解釈(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(新年賀詞交換会 2015.1.10、ギリシア旅行 2015.4.1〜4.8 33人参加)・古田先生購入依頼図書(『真宗聖教全書』昭和15年版掲載の「教行信証」には「主上」の二字が消されている)購入・春日大社に初詣・塚本青史『煬帝』を読む・2月22日「難波宮シンポ」開催・帝塚山大学考古研市民講座「奈良時代の製塩土器」・その他


第852話 2015/01/15

『三国志』のフィロロギー

    「陳寿の認識」

 魏王朝が周の時代の古制を王朝の大義名分として引き継ぎ、その里単位として周代の短里(約78m)を漢代の長里(約435m)に替えて公認したことが古田先生の研究で明らかとなっています。従って、『三国志』の著者陳寿自身は青年時代を「長里の時代の蜀地方」で過ごしているようですが、その後、『三国志』の編纂にあたっては魏・西晋朝の大義名分にそって正史に短里を採用するのは当然です。
 また、長里から短里への変更という歴史時間帯を生きてきたことから、正史に記載する里単位に無関心であったとは到底考えられません。作者(陳寿)の立場(気持ち)になってその史料を再認識するというフィロロギーの学問の方法論をご理解いただいている読者であれば、このことに御賛同いただけることと思います。これは学問の方法論の基礎的な問題でもありますから。(つづく)


第851話 2015/01/14

 『三国志』のフィロロギー

     「短里の論理」

 賀詞交換会において古田先生が『三国志』の短里や行程について触れられました ので、近年の短里に関する諸論稿にざっと目を通しました。すべての論稿を読んだわけではありませんが、その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました。そこで、わたし自身の認識の整理見直しも含めて、『三国志』の短里問題について、フィロロギーの視点から見解を述べてみます。
 まず文献史学における研究の手続きとして、史料批判や史料性格の分析が不可欠ですが、『三国志』は古田先生が繰り返し指摘されてきたように、魏王朝の歴史を綴った「正史」であり、かつ三国時代の呉や蜀の歴史も綴られています。『三国志』と命名されたゆえんです。しかも魏を継いだ次王朝の西晋により編纂さ れており、同時代史料とみなされ、信頼性の高い史書です。著者の陳寿も歴史官僚としての高い能力や品性の持ち主であったことが、古田先生により紹介されて います。
 王朝にとって度量衡の統一や施行は、収税や調達、他国との交渉・戦争などにとっても不可欠な行政課題です。ですから魏王朝も当然のこととして、長里であれ短里であれ「里単位」を決定し、その使用を国内(国家官僚・地方役人)に指示したはずです。『三国志』にそうした「里単位」の制定記事がないことをもっ て、里単位の制定・統一はされなかったとする論者もおられるようですが、こうした理解は王朝(権力者)の支配意志を軽視したものであり、学問の方法論上でも誤りがあります。
 すなわち、史料などに「ある事物」の記載があれば、史料事実としてその事物が「存在した」とする根拠に使えますが、不記載・無記載をもって、「存在しない」という根拠には使えないのです。「存在」証明は史料中に一つでも証拠(記載)があればとりあえず可能ですが、「不存在」証明はよほど好条件に恵まれない限りできません。この理屈は自然科学でも同様です。これは学問の基本的な考え方なのです。
 従って、『三国志』に「里単位の制定」記事がないことをもって、魏王朝が統一した里単位を公認制定しなかったとは論理の問題としてできないのです。どうしても存在しなかったことにしたい論者は、「史料に記載が無いことはその時代に存在しなかった」という証明が必要です。逆から言えば、三国時代に存在した制度や事物は全て『三国志』に記載されている、という証明が要求されるのですが、そのようなことがあるはずがなく、証明できるとも思われません。むしろ、王朝(国家権力者)である以上、里単位の公認制定を行ったと考えるのが、国家や歴史に対する真っ当な理解なのです。くりかえしますが、たとえば現代の百科事典に記載されていない事物は現在の世界に存在しない、などという理屈は通用せず、そのような主張は学問的ではありません。(つづく)


第850話 2015/01/10

平成27年、賀詞交換会のご報告

断念  古田武彦
(『ギリシャ行き』2015.2.13)

お詫びと訂正

 「洛中洛外日記」850話に収録しました賀詞交換会における古田先生の「講演概要」に不正確な内容がありました。河西良浩様、寺坂国之様にお詫び申し上げ、当該部分を削除いたします。なお、当「講演概要」の文責はわたしにあります。

                古賀達也(2015.01.23)

 今日は古田先生とご子息の光河(こうが)さんをI-siteなんばにお迎えして、新年賀詞交換会を開催しました。竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)にご自宅までクルマで古田先生を送迎していただきました。

 杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)の司会で賀詞交換会は始まりました。冒頭に水野代表から新年の挨拶があり、「古田史学の会・東海」の竹内強会長(古田史学の会・全国世話人)、中国曲阜市から一時帰国されている青木英利さん(古田史学の会・会員)からご 挨拶をいただきました。その後、服部静尚さんから『古代に真実を求めて』の発刊予定や特集テーマについての報告がありました。
 以下、古田先生の講演の概要を紹介します。(文責:古賀達也)

【古田先生講演】
 本日はこのような場を作っていただき、ありがとうございます。昨年11月に長野県の松本深志高校で講演したばかりなので、それと同じ内容になるのかと思っておりましたが、新たなテーマが続出しましたので、それをお話ししたいと思います。

 まず九州年号の問題ですが、『二中歴』に載っている九州年号が画期的であると思っています。『二中歴』では 九州年号が700年に終わり、701年に文武天皇の年号(大宝)に続いていますが、この701年こそ、「評」が終わり「郡」に変わった年であり、これは偶 然の一致ではなく、『二中歴』が示した内容が真実であり、九州年号は歴史事実である。従って、九州年号を制定した九州王朝もリアルである。これは確定論証である。九州王朝が存在しなかったことにしている『古事記』『日本書紀』こそ間違っていたことになる。

 神籠石についても、山城説が発掘調査により明らかとなっており、単なる霊域てはなく軍事施設である。堀や木柵が発見されており、山城であることは間違いない。その分布も福岡県・佐賀県などが中心であり、近畿が中心ではない。この神籠石山城の分布の中心に権力者 がいたことになる。この防衛施設が『日本書紀』には全く書かれていない。書き忘れたのではなく、実在した九州王朝をなかったことにする近畿天皇家側の御用 史書である。

 次のテーマは阿蘇山である。『隋書』イ妥国伝には「阿蘇山あり」と書かれている。この7世紀前半の時代が近畿天皇家中心であれば、近畿・奈良県までの道程が書かれていなければならない。ところが、瀬戸内海領域や、あるいは日本海岸からのコースなど全く書かれて いない。一切ない。うっかりミスで書かれていないとするのは、歴史学の方法ではない。ということは、『隋書』イ妥国伝に記された権力者は近畿中心ではなく、筑紫・山口県中心の権力者である。中国の西安から見て、阿蘇山があり、その手前に神籠石がある。これを『隋書』イ妥国伝は描写している。これを否定するのは勝手だが、それは御用史学である。
 有名な「日出ずる処の天子」は近畿の推古天皇(女性)でも聖徳太子(皇子)でもなく、九州王朝の多利思北孤(男性・天子)である。『隋書』は同時代の史料に基づいて編纂された史書である。ところが、「日出ずる処の天子」を近畿天皇家の人物として教科書は作られており、今日まで謝りもせずに間違ったままで ある。

 『隋書』イ妥国伝の記事「婦、夫の家に入るや、必ず先ず犬(火)を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。」と岩波文庫では原文の「犬」に「(火)」を付記している。確かに日本には「火」をまたぐ風習があったとされているが、「犬」も古くから人間とのつきあいがあり、『隋書』 の原文通り「犬」でもよいのではないか。旧石器時代から犬と人間は共存してきたのであり、「犬をまたぐ」とは、犬が新しい仲間と認めたという「儀式」では ないか。
 インターネットに面白い記事がありました。「犬神の由来」という記事によると、犬を埋めて首だけ出しておき、その後に犬の首を切るというような嫌な話しです。「犬神」という姓がありますが、姓にするほどですから「犬神」とはそんな嫌らしい説話から付けられたものではなく、犬との共存共栄の歴史から、神聖視されたのではないか。
 昨日気づいたことだが、『三国志』に狗奴国とありますが、狗奴国の「狗」は犬のことであり、神聖な種族だから狗奴国という国名が付けられたのではない か。倭人伝にある対海国・一大国の長官が「卑狗」とされており、この「狗」も神聖な犬が背景にあるのではないか。
 さらに志賀島の金印の「委奴国」も訓みは「いぬ国」であり、「犬(いぬ)」と関係するのではないか。漢が「いぬ」を神聖視した集団に与えたのが「漢委奴国王」印ではなかったか。というようなところまで話しが進んできました。昨日考えた話しなので断言はしませんが、そういうテーマに遭遇しました。

 最後に申し上げたいテーマがあります。一つは『東日流外三郡誌』という『古事記』『日本書紀』に匹敵する本がありますが、これの寛政原本がまだ「発掘」されていませんので、公的な組織(五所川原市など)で調査「発掘」する必要がある。そのための国立の歴史研究 所を作るべきである。本来の持ち主である安倍家(安倍総理)で調査保管してほしい。

 秋田孝季が言っているように、この世の中のものには始まりがあります。宗教も国家も始まりがあり、現在に至っている。宗教や国家に「人間を殺す権限」を与えたのが諸悪の根元である。人間が国家・宗教を作ったのであり、その国家・宗教にばかばかしいほどの権限を与えている。そんな権限は断固拒否すべきである。この問題が現代の最大の問題である。人間が作った国家・宗教に人間を殺す権利を与えてはならない。
 さらに言えば、神と悪魔は同一体ではないか。前が神で後ろが悪魔であり、同一体ではないか。そのような虚像で引っ張り回される時代はもう過ぎたのではないか。

 補足としてギリシアの話しをしておきたい。ギリシア神話をわれわれは知っているが、よく見てみると不思議なことがあります。アポロの神はオリンポスの山に帰るとされていますが、オリンポスはギリシアの北側にあり、南のアテネから北へ太陽神アポロが帰るというの はおかしい。アポロはオリンポスの真東にあるトルコのトロイから出発したのではないか。そうであれば、ギリシア神話ではなくトロイ神話となる。
 『古事記』『日本書紀』が九州王朝神話を取り込んで自らの神話としてすり替えたのと同様に、ギリシア神話もトロイ神話の盗作ではないか。そのトロイ神話をわれわれはギリシア神話として覚えさせられている。滅ぼされた古い王朝の歴史や神話を取り込んで利用するという手法が日本でもギリシアでも使われているのである。
 バイブル冒頭の長寿年齢記事も異なる暦を使用していた古い文明の説話を盗用した痕跡である。
 こうしたことを調べるためにも、ギリシアを訪問して史料調査を行いたい。わたしは反キリスト教でも反イスラム教でもない。イエスもマホメットも親鸞もすばらしい人物であり、わたしは尊敬しているが、尊敬されている人物に対する余計な侮辱が、はたして「表現の自由」なのか。襲撃されたパリの新聞社のことをよく知らないが、わたしは疑問に感じる。
 わたしはもう永くはない。後はみなさんによろしくお願いしたい。(拍手)

【質疑応答】
(問)日本の縄文宗教には「地獄の思想」はないと何かの本で読んだことがあるが、本当でしょうか。
(古田)親鸞の思想には地獄があります。親鸞はその地獄思想をさらに高い立場から乗り越えている。これがすばらしい。「地獄思想」に騙されないということが大事ではないか。
(問)仏教以前の宗教には「地獄の思想」がないとされているが、どうか。
(古田)仏教以前としては『祝詞』があり、そこには味方が犯した罪や敵の罪を「水に流し」て乗り越えるという思想が記されている。原爆投下というアメリカの戦争犯罪を忘れるのではなく、罪を明確に認めた上でそれを乗り越える思想が大切である。

 質疑応答の最後に古賀から、『三国志』における長里と短里の混在という主張に対して、『三国志』を編纂した 西晋の陳寿は、長里から短里に変更した王朝の歴史官僚であり、「短里」に変更した大義名分にそって『三国志』を編纂したはずであり、その陳寿や晋王朝が短 里と長里の混在に気づかない、あるいは気にしないとは考えられないと指摘しました。

 講演終了後に、古田先生と光河さんと共に参加者全員で記念写真を撮り、閉会となりました。先生と光河さんを竹村さんがご自宅まで送り、残った希望者により懇親会を開催しました。今日は今宮戎のお祭り(十日戎)で、会場周辺は夜遅くまで賑やかでした。今年も「古 田史学の会」にとって良い一年となりそうです。


断念  古田武彦

   一
 「『ギリシャ行き』を断念した。」
 今年(二〇一五)の二月一日(日曜日)、日本人二名(湯川遥菜・後藤健二氏)殺害の報道が発表された、その瞬間だった。
 わたしはすでに「ギリシャ行き」にO.Kの立場をとっていた。「もし、余命があるならば」の要望だった。直ちに和田マサミ(多元)さんから反応があり、 東京古田会・古田史学会等からも加わり、すでに三十数名を越えていた。しかし「人のいのちには代えられない。」わたしには迷いはなかった。

   二
 昨年の八月十八日(月) わたしは妻(泠子)を失った。午後一時四十分、桂病院である。長男(光河)と共に住むこととなった。余命のある限り、研究と執筆に全力で朝夕をすごしている。

  二〇一五、二月八日(日曜日)筆了


第849話 2015/01/04

古代と幕末の「禁書」

 今日からスタートした大河ドラマ「花燃ゆ」は、なかなか面白い滑り出しで次も見てみようという気にさせる内容でした。今回のキーアイテムは徳川幕府が所持を禁止した「禁書」(『海防憶測』)で、その「禁書」を通じて少女時代の杉文が兄の吉田松陰(寅次郎)と小田村伊之助を引き合わせるという展開です。松陰や文が『孟子』の言葉をたびたび口にする場面があったのが印象的でした(例: 至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり)。
 「禁書」といえば、古田ファンや古田学派の研究者にはよくご存じのことと思いますが、『続日本紀』に記された次の記事が有名です。

 「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、また罪(つみな)ふこと初の如くせよ。」『続日本紀』元明天皇和銅元年(708)正月条

 政権を奪取したばかりの大和朝廷にとっての「禁書」ですから、自らの正統性を脅かす文書であることに間違いはないでしょ う。おそらくは「九州王朝史」や「九州王朝律令」などではないかと推定しています。自らが制定したばかりの「大宝律令」にとって、「九州王朝律令」など統治の邪魔になったでしょうし、おそらくは編纂作業中の『古事記』『日本書紀』の大義名分(神代の昔から近畿天皇家が日本列島の代表者であり、九州王朝など 存在しなかったことにする)に抵触する「九州王朝史」などもってのほかです。
 この「九州王朝史」「九州王朝律令」の類は各地の国司や国造、有力豪族には九州王朝から公布(周知徹底)され、国内のいたるところに存在していたはずで す。もちろん、近畿天皇家も持っていたことでしょう(西村秀己説)。それらを回収隠滅することは新たな権力者にとって不可欠の仕事です。だから「禁書」を提出せず、山沢(神籠石山城か)に亡命した者に百日以内に自首せよと命令したのが、先の『続日本紀』の記事だったのです。こうした命令を出さなければならない状況は、九州王朝説(701年の王朝交代)がもっともうまく説明できるのです。
 なお、九州王朝関連行政文書のうち、「庚午年籍」(670年に造籍された初めての全国的戸籍と考えられています)は、統治行政にとって必要ですから、これだけは没収隠滅されることなく、大和朝廷は書写・保管を全国の国司に命令しています。
 わたしはこの「禁書」についての論文(「『禁書』考 -禁じられた南朝系史書-」『古田史学会報』67号2005年4月)を書いたことがあります。その末尾の一文をここに紹介します。

 「『禁書』は、古代も現代も真実の歴史に対する権力者の怯えの産物なのである。」

 古田先生の著作や論説が日本古代史学界にあって、現代の「禁書」扱いとなっていることこそ、歴史の真実を国民に知られたくない権力者や御用学者の怯えの産物なのです。そうしたなか、陸続と古田先生の著作を復刊されているミネルヴァ書房の至誠に敬意を表したいと思います。

(雑話)わたしが二十代の頃、勤務先の労組書記長をしていたときの思い出ですが、会社主催の社員旅行で山口県萩市に行くことになりました。ところがなんと、毛利氏の菩提寺は見学したのですが、見学コースに松下村塾が入らなかったのです。
 「萩まで行って、松下村塾を見学しないとは何事か」と、親子ほど歳の離れた労務課長のKさんにどなりこんだところ、Kさんも「わたしも同感だ。会社はけしからん」と一緒になって怒り、その夜、二人で祇園に繰り出し気炎を上げました。懐かしい青春の思い出です。


第848話 2015/01/03

金光元年(570)の「天下熱病」

 「洛中洛外日記」843話と844話で紹介した『王代記』の金光元年(570年、九州年号)に記された次の記事について、正木裕さんとメールで意見交換を続けています。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 当初、この記事の意味がよくわからなかったのですが、『善光寺縁起』に同様の記事があり、その大幅な「要約」であることに気づいたのです。
 概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする、仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたのですが、全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話しが、『善光寺縁起』では続きます。
 金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀には見えないこの事件や、発端となった「天下熱病」が歴史事実かどうか、正木さんとのメールのやりとりの中で気になり、考えてみました。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 他方、近畿天皇家では「天下熱病」に対して、百済からの如来像がもたらした災いとして鋳潰そうとしました。ともに金光元年の出来事ですから、この二つの事件を偶然の一致とするよりは、「天下熱病」という国家的災難の発生という共通の背景がもたらしたものとする理解、すなわち「天下熱病」を史実とするのが穏当と思われるのです。
 さらにここからは論証抜きの思いつき(作業仮説)ですが、百済からの如来像はたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝から送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、こうした事件が一因となって九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。
 以上の考察からも九州王朝と善光寺、そして難波・河内が「九州年号」や「聖徳太子」伝承とも関わり合いながら、密接な繋がりのあることがうかがえるのです。


第847話 2015/01/02

吉田松陰書簡の思い出

 今年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹、杉文(すぎ・ふみ)を主人公とした「花燃ゆ」で、女優の井上真央さんが演じられます。大河ドラマも幕末や戦国時代ばかりではなく、いつの日かは古代や近代も取り上げてもらいたいものです。
 吉田松陰は歴史上の偉人として尊敬する人物の一人ですが、20年ほど前に、わたしは吉田松陰書簡など江戸時代の史料を集中して読んだことがありました。 それは和田家文書偽作キャンペーンに対抗するのに、江戸時代研究の必要があったためで、具体的には江戸時代の「藩」表記についての調査が目的でした。
 当時、和田家文書偽作論者から、和田家文書には「藩」という表記があるが、江戸時代に「藩」という行政単位名は無く、従って和田家文書は現代人が書いた偽作であるという批判がなされました。松田弘洲氏の『歴史読本別冊 古史古伝論争』所収「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」(1993年12月)や『季刊邪馬台国』55号誌に掲載された「やはり『古田史学』は崩壊する」という論文です。
 松田氏は「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」において、「江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者は手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と表記したか確認したらよろしい。」として、和田家文書を偽作とされたのですが、わたしはこの「批判」に接したとき、「はあ?」というのが第一印象でした。というのも、わたしの乏しい江戸期史料の知識でも、「藩」表記は頻繁に目にしていたからです。そこで、持っていた『吉田松陰書簡』 などにある「藩」表記を再確認し、「藩」表記は江戸時代成立の文書にいくらでもあると反論したのです。本ホームページ掲載の下記の拙稿をご参照ください。

「偽書説と真実 真偽論争以前の基礎的研究のために」『古田史学会報』創刊号(1994年6月)
「知的犯罪の構造 『偽作』論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集(新泉社、1996年)

 こうした論争を経験していましたので、今年の大河が吉田松陰の妹を主人公にしたことを知って、わたしは20年前に読み返 した『吉田松陰書簡』のことを思い出したのです。ちなみに、わたしからの史料根拠を提示しての具体的な反論に対して、松田氏も『季刊邪馬台国』編集部(安本美典責任編集)も「だんまり」を決め込み、某新聞社のように、論文(誤論・誤解)の撤回も訂正も謝罪も行わないまま、その後も延々と偽作キャンペーン (個人攻撃・人格攻撃)を続けました。それは、およそ学問的態度とは言い難いものでした。
なお、ご参考までに江戸期史料に見える「藩」表記の例をご紹介します。

○「吉田松陰書簡」嘉永四・五年、兄の杉梅太郎宛書簡
「肥後藩」「御藩之人」「本藩」
○根岸鎮衛(1737-1815)『耳嚢』
「会津の藩中」「尾州藩中」「佐竹の藩中」
○新井白石『折たく芝の記』(1716年成立、自筆原本現存)
「藩邸」
○「新井白石書簡」(『新井白石全集』より)
「賢藩」「加藩」※いずれも加賀藩のこと。
○杉田玄白『蘭東事始』(1815年成立)
「藩邸」「我藩」「藩士」「藩医」


第846話 2015/01/01

京都御所の三種宝物

 元日朝のテレビ番組で京都御所が特集されていました。紫宸殿内にある三種神器 (『日本書紀』では「三種宝物」)の内の剣と勾玉を保管していた部屋が紹介されていました。これは初めてのテレビ放映とのことでした。鏡だけは伊勢神宮にあり、その「分身」(レプリカか)が京都御所にあったそうで、その「分身」を保管する建物もありました。現在では剣・勾玉とともに鏡の「分身」も東京の皇居にあるとのことでした。
 歴代の天皇の皇位継承の正統性の証明のため、この三種神器は歴史上に度々登場しますが、多元史観・九州王朝説からみたとき、この三種神器はどのように位置づけられるのかという問題があります。それは九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への権力交代が放伐だったのか、禅譲だったのかというテーマに密接に関わる問題です。
 中国の例を調べなければわかりませんが、王朝が禅譲さたれ場合、その「天子」としての権威だけではなく、その王朝の文物や権威を象徴する重宝も引き継ぐのではないでしようか。もしそうであれば、近畿天皇家は九州王朝の三種神器を引き継いでいてもよさそうですが、九州王朝の存在そのものを隠していることもあり、『日本書紀』などにはそうした気配はありません。たとえば事実として、王朝の権威の証明でもある重宝の類は引き継いでいません。具体的には「漢委奴 国王」の金印(いわゆる「志賀島の金印」)、卑弥呼がもらった「親魏倭王」の金印(未出土)は引き継いでいませんし、七支刀も石上神社が引き継いでおり、持ち主は近畿天皇家ではありません。
 こうした視点から見れば、近畿天皇家は九州王朝からの禅譲王朝ではないということになりそうです。『古事記』や『日本書紀』の記述から見れば、近畿天皇家は弥生時代のアマテラスやニニギにまで遡って、その権威を引き継いでいると主張していますから、いわゆる前王朝(九州王朝)からの禅譲を大和朝廷の正統性の根拠とはしていません。もっとも、史書に書かれた「史料事実」と実際に起こった「歴史事実」とが同じであるかどうかは学問的論証の対象ですから、多元 史観・九州王朝説の立場からの研究が不可欠です。「三種宝物」(三種神器)の多元史観による研究の深化が期待されます。


第845話 2015/01/01

百済武寧王陵墓碑が出展

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 実家の久留米に帰省し、毎日のんびりとテレビを見ています。さすがに地元だけあって、HKT48が頻繁にテレビ出演しています。更に元日から開催される九州国立博物館の「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の告知コマーシャルもよく目にします。特別展示として七支刀(期間限定 1/15~2/15)や百済武寧王陵墓碑が出展されるとのこと。3月まで開催されるようですので、是非、拝見したいものです。
 特に武寧王陵墓碑は見てみたいと願っています。というのも、墓碑に記された武寧王の没年干支を確認したいのです。通常、同碑文の没年干支は「癸卯」 (523年)と紹介されることが多いのですが、実は古田先生等が1998年に同碑文を実見されたところ、干支部分は改刻されて「癸卯」とされていますが、 本来の原刻は「甲辰」であることを発見されたのです。すなわち、干支が一年ずれているのです。このことについて、わたしは『古田史学会報』31号 (1999年4月)において、「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」として報告しました。本ホームページに掲載していますので、ご覧ください。
 韓国国宝の同墓碑が国内で見られるとは思ってもいませんでしたので、何とか展示期間中に九州国立博物館を訪れ、この目で見てみたいものです。

(後記)JR久留米駅で入手した観光案内パンフレット「太宰府天満宮&九州国立博物館」に「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の紹介があり、そこに「武寧王墓誌」の写真が掲載されていました。その写真をよく見ると、「癸卯」の二字部分が少し 削られて、へこんでいることがわかります。もちろん、このことを知らなければ気づかない程度ですが、写真でもわかるのですから、実物を直接見れば、削られ た原刻の「甲辰」という字の痕跡を確認できると思います。


第844話 2014/12/29

『王代記』の善光寺関連記事

 「洛中洛外日記」843話で紹介した『王代記』の「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事ですが、「物部遠許志」は『日本書紀』には「物部尾輿」とあり、その違いが気になっていました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 調べてみると、この「物部遠許志」とするのは『善光寺縁起』などの善光寺関連史料に見える用字でした。そこで『王代記』にある善光寺関連記事を調べてみると、次のようなものがありました。

○善記四年(525)善光寺建立
 「帝王廿七代継躰天王之御代廿五年。善記四年ニ改易ス。元年ハ壬寅也。斯年号ノ始成。此時善光寺ハ建立ス」

○貴楽元年(552)善光寺如来が百済より渡来
 「貴楽二年、元年壬申年、善光寺如来始来リ。自百済国二人使内裏進上攬居」(『王代記』部分)
 「壬申釼金 貴楽 善光寺如来始テ百済ヨリ来玉フ。十月十三日辛酉日也。内裏ハ大和国山部郡。」(「年代記」部分)

 この貴楽元年の記事は『日本書紀』欽明紀に依ったものと思われますが、善記四年記事は当の『善光寺縁起』にも見えない記事です。おそらくこれも「天下熱病」記事と同様に九州王朝系史料に基づいたものではないでしょうか。これからの『王代記』研究が楽しみです。

 本稿が2014年最後の「洛中洛外日記」となります。一年間のご愛読、ありがとうございました。それではみなさま良いお年をお迎えください。

(追記)先ほど、明石書店から『古代に真実を求めて』18集の初校用ゲラが送られてきました。特集企画「盗まれた『聖徳太子』伝承」用の拙稿の校正を正月休みに行います。来春の出版が楽しみです。


第843話 2014/12/28

もう一つの納音(なっちん)付き九州年号史料

熊本県和水町の石原家文書から発見された納音(なっちん)付き九州年号史料のことを「洛中洛外日記」で何回か紹介してきましたが、納音(なっちん)付九州年号史料をもう一つ「発見」しましたので、ご紹介します。
この年末の休みを利用して、机の上や下に山積みになっている各地から送られてきた書籍や郵便物を整理していましたら、山梨県の井上肇さんからの『王代記』のコピーが出てきました。日付を見ると昨年の10月19日となっていますから、一年以上放置していたことになります。一度は目を通した記憶はあるのですが、他の郵便物と一緒にそのままにしておいたようです。
井上さんからは以前にも『勝山記』コピーをご送付いただき、その中にあった「白鳳十年(670)に鎮西観音寺をつくる」という記事により、太宰府の観世音寺創建年が白鳳10年であったことが明確になったということがありました。本日、改めて『王代記』を読み直したところ、九州年号による「年代記」に部分的ですが納音が記されていることに気づきました。
解題によればこの『王代記』は山梨市の窪八幡神社の別当上之坊普賢寺に伝わったもので、書写年代は「大永四年甲申(1524)」とされています。今回送っていただいたものは「甲斐戦国史料叢書 第二冊」(文林堂書店)に収録されている影印本のコピーです。
前半は天神七代から始まる歴代天皇の事績が『王代記』として九州年号とともに記されています。後半は「年代記」と称された「表」で、九州年号の善記元年(522)から始まり、最上段には干支と五行説の「木・火・土・金・水」の組み合わせと、一部に納音が付記されています。所々に天皇の事績やその他の事件が書き込まれており、この点、石原家文書の納音史料とは異なり、年代記の形式をとっています。しかし、ともに九州年号の善記から始まっていることは注目されます。すなわち、納音と九州年号に何らかの関連性をうかがわせるのです。
個別の記事で注目されるのが、「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事です。

「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

なお、この記事は『王代記』本文には見えませんから、別の史料、おそらくは九州王朝系史料からの転載と思われます。ちなみに、「天下熱病」により、九州年号が金光に改元されたのではないかと正木裕さんは指摘されており、そのことを「洛中洛外日記」340話でも紹介してきたところです。
引き続き、『王代記』の研究を進めたいと思います。ご提供いただいた井上肇さんに御礼申し上げます。


第842話 2014/12/27

日本思想史学会の使命

 日本思想史学会の「News Letter No.21(冬季号)」(2014.12.22)が届きました。わたしは古田先生のお勧めで同学会に加入していますが、年次総会で2度ほど研究発表をしたことがあります。筑波大学(2003年)で「二倍年暦」、京都大学(2004年)で「九州年号」について報告しました。
 日本思想史学会は古田先生の恩師、村岡典嗣(むらおか・つねつぐ)先生が東北大学で始められた日本思想史研究を淵源として創立された伝統ある学会で、人文系の様々な分野の研究者約700名が加入しています。しかしながら近年これほど日本の倫理や思想が大きな問題となっているにもかかわらず、現在を生きている人間やその未来に貢献できるような研究や発表が見られないことを不満に思い、同学会へ積極的には関わらず、一会員として外から眺めていました。
 そうしたとき、今回送られてきた「News Letter No.21(冬季号)」に掲載されていた東北大学の佐藤弘夫さんの「会長退任にあたってのご挨拶」に次の一文に目がとまり、わたしと同様の思いを抱いておられていることを知り、ちょっと嬉しくなりましたので紹介します。

 「日本社会ではいま、地球温暖化や原発問題に加え、ヘイトスピーチやネットでの誹謗中傷など、心の劣化ともいうべき現象が深く静かに進行しています。これらの問題の深刻さは、これが近代化と文明化の深化に伴って浮上したものだということです。いまそこにある危機が近代化の深まりのなかで顕在化したものであれば、人間中心主義としての近代ヒューマニズムを相対化できる長いスパンのなかで、文化や文明のあり方を再考していくことが必要でしょう。
 人類が直面している課題と危機を直視しつつ、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化によって失われたものを含めて発掘していくこと、それこそがいま日本思想史を含めた人文科学に求められている任務であると私は考えています。今後、人類の課題と将来を見据えたこうした議論もぜひ深めていきたいものです。」

 冒頭の「地球温暖化」を除けば(この17年間、地球は温暖化していない)、佐藤さんのご意見は大変もっともなものです。佐藤さんとは古田先生のご紹介で日本思想史学会でお会いしたことがあるのですが、実はそれよりもかなり前から佐藤さんのことをわたしは知っていました。日蓮遺文に関する佐藤さんの論文を京都府立総合資料館で読んだことがあり、その論証の方法が古田先生に似ているので、興味を引かれ、お名前が記憶に残っていました。古田先生にそのことをお話ししたところ、佐藤さんは東北大学の後輩にあたり、日本思想史学会で活躍されていることを教えていただきました。
 その後も佐藤さんは活躍され、わたしも佐藤さんの著書『アマテラスの変貌』(法蔵館、2000年)と共著『日蓮大聖人の思想と生涯』(第三文明社、1997年)を読ませていただきました。いずれも好著でした。その佐藤さんは日本思想史学会の会長を歴任され、今年、退任されました。村岡典嗣先生が切り開かれた日本思想史学という学問が、東北大学で今も受け継がれていること、そして佐藤さんのような優れた研究者が支えておられることに、学問の持つ真実の力を見たような気がしました。「古田史学の会」からも日本思想史を研究される方が出られることを願っています。