第793話 2014/09/27

佐藤優『いま生きる「資本論」』を読む

 最近、佐藤優さんの著書に興味を持ち、『いま生きる「資本論」』(新潮社・2014年7月)を読みました。佐藤さんは同志社大学神学部卒の元外交官で、2002年に背任などの容疑で逮捕され有罪となったことでも有名です。かなりの博覧強記の知識人で、なかなか尊敬できる人物のようです。
 『いま生きる「資本論」』は宇野弘蔵学派の立場からマルクスの『資本論』を講義した記録です。たいへんわかりやすく、かつ広く深い教養が随所に散りばめられた快書でした。わたしは学生時代にマルクス経済学の講義を半年だけ受けましたが、当時、母校(久留米高専)の図書館にはマルクス経済学の書籍は向坂逸郎さんの『マルクス経済学入門』(だったと思う)の1冊しかなく、その本を読んで自習しました。いくら理工系の学校とはいえ、マルクス関連書籍が図書館に 1冊しかなかったというのも驚きですが、下火になっていた学生運動の影響もあり、学生が「左傾化」するのを警戒されていたのかもしれません。
 二十歳前の若造だったころですから、ほとんど深く理解はできませんでしたが、社会の不平等や恐慌・貧困が資本主義という経済システムに原因するという指摘はとても新鮮でした。今回あらためて佐藤さんによる『資本論』解説を読み、年を重ねたこともありますが、学生時代とはかなり違った新鮮さを感じました。 こんなところが古典の魅力なのだと思います。ちなみに『資本論』の発刊は1867年、明治維新の前年です。日本人がちょんまげを結い刀をさしていた時代 に、マルクスはこの名著を書いたのです。これもすごいことですね。ちなみに、古田先生もわたしもマルクス主義者ではありませんが、マルクスを優れた思想家 の一人として尊敬しています。
 『いま生きる「資本論」』に『太平記』について次のような解説がありましたので紹介します。

 「日本でいうと室町より前の文献は、実証できない語り方になっています。室町以降は実証的になる。そんな時代の分水嶺が『太平記』です。『太平記』というのはハイブリッドなのです。現代人に繋がるところもあれば、古の神々の世界に繋がるところもある。(中略)
 一六世紀にフランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちが日本へたくさん来ました。あの人たちは『太平記』を読んで、日本語を勉強していた。マカオで日本語版の『太平記』が印刷されていたんです。(中略)『源氏物語』や『平家物語』の日本語では通用しないけれども、『太平記』の日本語はそのまま使えたから、宣教師たちはこの本で勉強したのです。」(114頁)

 わたしは始めて知るエピソードです。古代史研究で『平家物語』は読みましたが、『太平記』はまだ読んだことがありません。大著ですが、時間が許せば読んでみたくなりました。


第792話 2014/09/25

所功『年号の歴史』を読んで(4)

 所さんは『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」(九州年号)を信頼できないとして、鎌倉時代末期の僧侶等による偽作とされたのですが、信頼できないとする理由は次のようなことでした。
 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号記事の末尾に次の記述があり、その「只有人伝言」を「九州年号はただ人が言い伝えている」と解し、九州年号は確かな出典や根拠が不明な言い伝えにすぎず、信頼できないとされたのです。

 「已上百八十四年、年号卅一。代〃不記年号。只有人伝言。自大宝始立年号而已。」(句読点は所さんによる。17頁)

 この末尾の一行を所さんは「公式の年号は大宝よりはじめて立てられた」と理解されたのです。和風漢文ですので、こうした訓みも不可能ではありませ んが、逆に「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みも考えられるのです。したがって、どちらの訓みが妥当かは 『二中歴』全体から編者の認識を読みとる必要があります。
 たとえば『二中歴』「第一 人代歴」の継体天皇の細注に「此時年号始」(この時に年号が始まる)とあり、「年代歴」に記されている最初の古代年号「継体」が継体天皇の時代に始まったと記しているのです。古代年号の最初の「継体」は元年干支が丁酉と記されており、その年は西暦517年で継体天皇の11年にあたり、まさに継体天皇の時代に相当します。
 『二中歴』「第七 官職歴」冒頭にも「孝徳天皇大化五年始置百官八省」とあり、『日本書紀』の「大化」年号が記されています。ここでも『二中歴』編者は「大宝」以前に年号があったと認識しているのです。
 このように『二中歴』編者は、「大宝」以前に「年代歴」の古代年号が実在したと認識しているのです。ですから、「只有人伝言。自大宝始立年号而已。」は 「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みのほうが『二中歴』編者の認識に対応した訓みとなるのです。(つづく)


第791話 2014/09/24

所功『年号の歴史』を読んで(3)

 所さんは『二中歴』の成立時期に対する誤解から、九州年号の「出揃い(偽作)」時期を鎌倉末期とされ、平安時代の史料には存在しないとされています。しかし、「洛中洛外日記」618話「『赤渕神社縁起』の九州年号」などにおいて、わたしは平安時代に成立した『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市赤淵神社蔵)に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることを紹介しました。こうした史料の存在も所さんはご存じなかったようです。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。
 なお、古田先生が紹介された『続日本紀』神亀元年十月条(724)の聖武天皇詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」を所さんは九州年号とは見なされていません。「白鳳」「朱雀」も『二中歴』に見える「古代年号」に含まれているのですから、九州年号が成立の早い史料に見えないとするのは不当です。(つづく)


第790話 2014/09/23

所功『年号の歴史』を読んで(2)

 所さんは『年号の歴史』において、九州年号を仏教僧侶・関係者による偽作とし、その時期は鎌倉時代末期には出揃ったとされています。次の通りです。

 「私は、「善記」以下三十あまりの「古代年号」が出揃った時期は、もう少し古く鎌倉末期ころとみて差し支えない(けれどもそれ以上に遡ることはむずかしい)と考えている。」(16頁)
 「“古代年号”の創作者は、おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係が深い人物と推測して大過ないと思われる。」(27頁)

 このような所さんの見解の根拠は、『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」が最も成立が古いとされ、その『二中歴』の成立を鎌倉末期と理解されたことによるようです。

 「周知のごとく、『二中歴』は、平安後期(天治~大治〔一一二四~三〇〕ごろ)成立の『掌中歴』と『懐中歴』とをもとにしながら、新しく大幅に増訂した類聚辞典で、文中に後醍醐天皇を「今上」と記しているから、一応その在位年間(文保二年〔一三一八〕から延元四年〔一三三九〕まで)に成立したとみてよいが、その後数代約一世紀の追記が認められる。」(16頁)

 しかし、これは所さんの誤解で、現存『二中歴』には後代における追記をともなう再写の痕跡があり、その再写時期の一つである鎌倉末期を成立時期と勘違いされているのです。現存最古の『二中歴』写本のコロタイプ本解説(尊経閣文庫)にも、『二中歴』の成立を鎌倉初頭としています。
 したがって「年代歴」に収録されている「古代年号」(九州年号)は遅くとも鎌倉初期あるいは平安時代には「出揃った」と言わなければならないはずなので す。このような所さんの史料理解の誤りが、九州年号偽作説の「根拠」の一つとなり、その他の九州年号偽作説論者は所さんの誤解に基づき古田説を批判する、 あるいは無視するという学界の悲しむべき現状を招いているのです。


第789話 2014/09/22

所功『年号の歴史』を読んで(1)

「洛中洛外日記」775話で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、 古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・1990年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。

 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当 然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(26頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(1983年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(699)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(688)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。

 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見に より、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史 観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。

 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。


第788話 2014/09/21

『論語』の二倍年暦

 昨日の関西例会で服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者)と古代中国の二倍年暦についての論争をして、改めてわたしの論拠を丁寧に説明する必要を感じました。
 わたしは周代の史料に見える二倍年暦による年齢記事について、ただ単に高齢だから二倍年暦だと理解したわけでなく、その文脈や内容からして二倍年暦と考えざるを得ないという例を根拠としました。単に高齢だというだけでは、古代といえども超高齢者がいたかもしれないという反論が予想されたので、その点、論証の根拠とする記事は慎重に選ぶことにしたのです。
 たとえば『論語』からの例としては、「子罕第九」にある次の記事です。

 「子曰く、後生畏る可(べ)し。いづくんぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦畏るるに足らざるのみ。」

 「後生畏るべし」の出典としても有名な孔子の言葉です。その意味するところは、40歳50歳になっても有名になれなければ、たいした人間ではなく畏れることはない、ということです。しかし、これは当時(紀元前6~5世紀頃)としては大変奇妙な発言です。
 『三国志』の時代(3世紀)でも、『三国志』に記されている寿命は平均年齢50歳ほどで、多くは40代50代で亡くなっています。それよりも700年も昔の中国人の寿命は更に短かったことはあっても、それよりも長いとは考えにくく、従って、孔子のこの発言が一倍年暦であれば、多くの人が物故する年齢(40歳50歳)になって有名にならなければ畏れるに足らないという主張はナンセンスです。それでは遅すぎます。
 しかし、これが二倍年暦であれば20歳25歳ということになり、「若者」が頭角を現し、世に知られ始める年齢として、とても自然な主張となります。すなわち、孔子の時代は二倍年暦が使用されていたと考えざるを得ない例として、わたしはこの記事を取り上げました。


第787話 2014/09/19

「観世音寺」「崇福寺」不記載の理由

 本日の関西例会では服部さんから古代中国の二倍年暦について、周代以後は二倍年暦とする明確な痕跡が見られないとの報告がなされ、わたしや西村秀己さんと大論争になりました。互いの根拠や方法論を明示しながらの論争で、関西例会らしい学問論争でした。わたし自身も服部さんが紹介された考古学的史料(西周の金文)など、たいへん勉強になりました。
 常連報告者の正木裕さんが欠席されるとのことで、昨晩、西村さんから発表要請があり、急遽、現在研究しているテーマ「なぜ『日本書紀』には観世音寺・崇福寺の造営記事がないのか」について意見を開陳しました。その結論は、観世音寺も崇福寺(滋賀県大津市)も九州王朝の天子・薩夜麻の「勅願寺」だったため、『日本書紀』には掲載されなかったとするものですが、様々なご批判をいただきました。
 観世音寺創建は各種史料によれば白鳳10年(670)で、崇福寺造営開始は『扶桑略記』によれば天智7年(668、白鳳8年)とされ、両寺院の創建は同時期であり、ともに「複弁蓮華文」の同笵瓦が出土していることも、このアイデアを支持する傍証であるとしました。
 出野さんからは古代史とは無関係ですが、誰もが関心を持っている「少食」による健康法について、ご自身の体験を交えた発表があり、こちらもまた勉強になりました。結論として、みんな健康で長生きして研究活動を続けようということになりました。
 9月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 中国古代の二倍年暦について(八尾市・服部静尚)
2). 納音の追加報告(八尾市・服部静尚)
3). 観世音寺・崇福寺『日本書紀』不記載の理由(京都市・古賀達也)
4). 食べるために生きるのか、生きるために食べるのか・・・少食について・・・(奈良市・出野正)
5). 二人の天照大神と大国主連、そしてその裔(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10/04松本深志高校で講演「九州王朝説は深志からはじまった」、11/08八王子大学セミナー、岩波文庫『コモンセンス』)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説」の紹介・大塚初重『装飾古墳の世界をさぐる』に誤り発見・坂本太郎『史書を読む』の誤字・中村通敏『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を読む。『三国志』斐松之注の文字数は本文よりも少ない・聖徳太子関連書籍調査・その他


第786話 2014/09/18

倭国(九州王朝)遺産・遺跡編

 今回の「倭国(九州王朝)遺産」は遺跡編です。すでに失われた遺跡も含めて、九州王朝にとって重要な遺跡を認定してみたいと思います。

〔第1〕太宰府条坊都市と「政庁」(紫宸殿)
 太宰府に条坊があったかどうか不明とされてきた時代もありましたが、現在では考古学的発掘調査により条坊跡がいくつも発見されており、疑問の余地はありません。その上で、条坊がいつ頃造営されたのかが検討されてきましたが、井上信正さんの研究により7世紀末頃には既に存在していたとする説が地元の考古学 者の間では有力視されています。さらに井上さんの緻密な研究の結果、大宰府政庁2期遺構や観世音寺創建よりも条坊の造営の方が早いということも判明しまし た。
 こうした一元史観に基づいた研究でも太宰府条坊都市の成立が藤原京と同時期かそれよりも早いという結論になっているのですが、わたしたち古田学派の研究によれば太宰府条坊都市の成立は7世紀初頭(618年、九州年号の倭京元年)まで遡ります。従って、わが国初の条坊都市は通説の藤原京ではなく、九州王朝の首都太宰府となります。
 大宰府政庁遺跡は3期に区分されていますが、2期が九州王朝の紫宸殿と思われます。「紫宸殿」や「大裏(内裏)」という字地名が残っており、同地はいわゆる「政庁」ではなく、九州王朝の天子の宮殿と見なすべきです。ただ、規模が王宮にしては小さいので、天子が日常的に生活する館は別にあった可能性もあり ます。
 2期の造営年代は使用されている瓦が主に老司2式とされるもので、観世音寺の造営と同時期かやや遅れた頃と推定されます。観世音寺の創建年を九州年号の白鳳十年(670)とする史料が複数発見されたことから、政庁2期の造営もその頃と考えられます。九州王朝の首都遺構ではありますが、まだまだ研究途上ですので、古田学派内での論議と解明が期待されます。

 *考古学的報告書などの用語は「大宰府」が使用されていますので、考古学的遺跡名としての「大宰府政庁」などについては、現地名や九州王朝の役所名の「太宰府」ではなく、「大宰府」を使用し、使い分けています。

〔第2〕水城(大水城・小水城・上津荒木水城)
 九州王朝の首都太宰府を防衛する国内最大規模の防塁施設が水城です。『日本書紀』天智三年条(664年)の記事により、水城は白村江戦(663年)後の 造営と通説では理解されていますが、理科学的年代測定(14C同位体測定)によれば、それよりもかなり早くから造営が開始されていたことが判明していま す。
 通常知られている水城(大水城)以外にも太宰府方面への侵入を防衛するために小水城も造営されています。さらには有明海側からの侵入を防ぐための上津荒木(こうだらき)水城が久留米市にあります。これら水城は「倭国(九州王朝)遺産」に認定するに値する規模で、現在でもその偉容を見ることができます(上津荒木水城は今ではほとんど残っていません)。
 ちなみに、この水城は鎌倉時代の元寇でも太宰府防衛に役だったことが知られています。

〔第3〕神籠石山城群
 水城と共に、九州王朝の首都太宰府や近隣の筑後国府・肥前国府を囲繞するような防衛施設(水源を内部に持ち、住民の収容も可能な大規模施設)としての神籠石山城群は九州王朝を代表する遺跡です。直方体の切石が山の中腹を取り囲む列石遺構は同じ規格で造営されていることから、統一権力者によるものと、一元史観の研究者からも指摘されてきました。瀬戸内海方面にも神籠石山城がいくつか点在しており、九州王朝の勢力範囲がうかがえます。
 水城や神籠石山城群の造営という超大規模土木事業は九州王朝の実力を推し量ることができます。文句なしの「倭国(九州王朝)遺産」です。

〔第4〕大野城
 太宰府の真北にある大野城は、首都防衛と水城が敵勢力に突破された場合、「逃げ城」としての機能も併せ持っています。大規模で頑強な「百間石垣」はその代表的な遺構ですが、山内にある豊富な水源や倉庫遺構群は長期の籠城戦にも耐えうる規模と構造になっています。首都太宰府の人々にとっては水城や神籠石山城とともに心強い防衛施設だったことを疑えません。逆から考えれば、当時の九州王朝や「都民」にとって恐るべき外敵の存在(隋や新羅、あるいは近畿天皇家)もうかがえます。
 近年の発掘や研究成果よれば、出土した木柱の年輪年代測定の結果、大野城が白村江戦(663年)以前に造営されていたことは確実です。このことは同時に 大野城が防衛すべき条坊都市太宰府もまた白村江戦以前から存在していたという論理的帰結へと至ります。従って、一元史観の通説で日本初の条坊都市とされてきた藤原京(694年遷都)よりも太宰府条坊都市の方が早いということになるのです。このことも多元史観・九州王朝説でなければ合理的で論理的な説明はできません。

〔第5〕基肄城(基山)
 太宰府の北にある大野城に対して、南方には基肄城(基山)があり、首都を防衛しています。基肄城は交通の要衝の地に位置し、現代でも麓を国道3号線と JR鹿児島本線が走っています。山頂からの眺めもよく、北は太宰府や博多湾方面、南は筑後や有明海方面、東は甘木や朝倉方面が望めます。また、太宰府条坊 都市の中心部の扇神社(王城神社)がある「通古賀(とおのこが)」は、真北(北極星)と基山山頂を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基肄城 は「ランドマーク」の役割を果たした可能性もあります。九州王朝にとって重要な山城であったこと、これを疑えません。

〔第6〕筑後国府跡(含む曲水宴遺構・久留米市)
 倭の五王の時代、九州王朝は筑後に遷宮していたとする研究をわたしは発表したことがあります。筑後国府は3期にわたり位置を変えながら長期間存続していたことが判明しています。中でも「曲水宴」遺構は珍しく、九州王朝の中枢にふさわしい遺構です。高良山神籠石や高良大社なども、九州王朝中枢にふさわしいものでしょう。ちなみに高良大社の御祭神の玉垂命を祖先に持つ稻員家が九州王朝の王族の末裔であることは既に述べてきたとおりです。

〔第7〕鞠智城
 九州王朝研究で検証がまだ進んでいないのが鞠智城です。おそらく九州王朝による造営と思うのですが、古田学派内での調査検討はこれからです。あえて認定することにより、今後の研究を促したいと思います。

〔第8〕岩戸山古墳(八女古墳群)
 現在異論のない九州王朝の王(筑紫君磐井)の墓が岩戸山古墳です。おそらく八女丘陵に点在する石人山古墳・鶴見山古墳などは九州王朝の歴代の王の墓であることは確実と思われます。さらには三潴地方の御塚古墳なども倭の五王の墓ではないかと考えています。これらも含めて認定します。

〔第9〕装飾壁画古墳(珍塚古墳・竹原古墳・他)
 北部九州の装飾壁画古墳も九州王朝を代表する遺跡です。中でも珍塚古墳や竹原古墳の壁画は古田先生の研究により、その謎が解き明かされつつあり、貴重なものです。

〔第10〕宮地嶽古墳
 巨大な横穴式石室を持つ宮地嶽古墳は、その超豪華な副葬品(金銅製馬具・他)と共にダブル認定です。これも異論はないと思います。その石室内で九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞が舞われていたことも「倭国(九州王朝)遺産」にふさわしいエピソードです。

 以上の他にも認定するにふさわしい遺跡は数多くありますが、とりあえず「遺跡編」はここまでとします。なお、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮も候補の対象ですが、検証過程の仮説ですので、今回は認定しませんでした。(つづく)


第785話 2014/09/14

倭国(九州王朝)遺産

・文字史料編

前話に続いて「倭国(九州王朝)遺産」です。今回は文字史料について「認定」します。もちろんわたしの個人的見解であることは、前話と同様です。九州王朝の実体を知る上で、文字史料はとても貴重です。それではご紹介します。

〔第1〕法隆寺釈迦三尊像・後背銘
九州王朝の天子、阿毎多利思北孤がモデルとされる「飛鳥仏」を代表する仏像です。従来は大和朝廷の聖徳太子のこととされてきましたが、古田先生の研究により九州王朝の天子の仏像であることが判明しました。後背銘にある「法興」が九州年号(正木裕説では多利思北孤の法号)であることも注目されています。

〔第2〕法華義疏
皇室御物である「法華義疏」を古田先生は京都御所で実見し、調査されました。その結果、九州王朝の上宮王が収集した文書であることをつきとめられました。冒頭部分に記された「大委国上宮王」は多利思北孤であるとされ、本来所蔵されていた寺院名が書かれていた箇所が切り取られていることも発見されていま す。

〔第3〕「十七条憲法」(『日本書紀』所収)
古田先生の研究によれば、『日本書紀』に聖徳太子によるとされている「十七条憲法」は九州王朝史書からの盗作とされています。『日本書紀』には九州王朝の事績が盗用されていることは知られていましたが、「十七条憲法」も九州王朝の「憲法」であれば、その研究により九州王朝の政治体制や実体解明にとって有効な史料となります。

〔第4〕芦屋市出土「元壬子年」木簡
芦屋市三条九の坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、当初「三壬子年」と判読され、『日本書紀』に見える「白雉三年壬子」(652年)のことと理解されてきました。ところがわたしたちの調査(赤外線撮影、光学顕微鏡観察)により、「元壬子年」であることが確認され、『二中歴』などに見える九州年号の 「白雉元年壬子」(652年)を示していることが明らかとなりました。この発見により、九州年号実在の直接的な証拠となる同時代の木簡であることがわかりました。この史料事実に対して、大和朝廷一元史観の学界や九州王朝説反対論者は今も沈黙を続けています。卑怯というほかありません。

〔第5〕「年代歴」(『二中歴』所収)
九州年号群史料として最も原型に近いとされているのが、『二中歴』に収録されている「年代歴」です。特にその細注に記された記事は九州王朝系史料に基づいていることが判明しており、とても貴重な史料です。

〔第6〕太宰府市出土「嶋評戸籍木簡」
2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域であるこの地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせるもので、その内容は九州王朝の実体解明を進める上で貴重なものでした。正倉院文書の大宝二年『筑前国川辺里戸籍断簡』などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていましたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなりました。

〔第7〕倭王武の「上表文」(『宋書』倭国伝所収)
九州王朝(倭国)と中国南朝との交流において、『宋書』に収録された貴重な倭王武の「上表文」は倭国の歴史や文化、文字使用の伝統などを知る上で貴重な史料です。史料そのものは中国史書ですが、その「上表文」部分は倭国遺産に認定したいと思います。

〔第8〕「君が代」(『古今和歌集』他所収)
日本国国歌「君が代」の歌詞も「文化遺産」として認定したいと思います。古田先生の研究により、その歌詞には糸島博多湾岸の地名・神名などが読み込まれており、同地域で弥生時代に成立したとされています。ちなみに、次の地名・神名などが読み込まれています。
「千代」福岡市千代
「さざれいし」糸島市細石神社
「いわお(ほ)」糸島市井原(いわら)山水無鍾乳洞
「こけのむすまで」糸島市志摩町桜谷神社祭神「古計牟須姫命」「苔牟須売神」

〔第9〕祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓」
「六月の晦(つごもり)の大祓」の祝詞も文化遺産として認定したいと思います。古田先生の著書『まぼろしの祝詞誕生』(古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、1988年)によれば、「六月の晦(つごもり)の大祓」は「天孫降臨」当時(弥生時代前半期)に糸島博多湾岸(高祖山連峰近辺)で成立したとされています。

〔第10〕稻員家系図(福岡県八女市、広川町、他)
筑後国一宮である高良大社の神官であり、同社祭神の高良玉垂命を祖先とする稻員氏が九州王朝の王族の末裔であることが、古田先生の研究で明らかとなりました。同家の系図には7世紀以前の人物に「天皇」や「天子」の称号を持つものがあり、同系図が九州王朝系図であることもわかってきました。九州王朝王族にはいくつもの支流があるようで、その全体像はまだ不明ですが、稻員家系図や他家の系図の史料批判により、今後解明が進むことと思います。

以上の史料を「倭国(九州王朝)遺産」に認定したいと思います。いずれも、九州王朝研究にとって貴重な史料です。(つづく)


第784話 2014/09/13

倭国(九州王朝) 遺産10選

 書店で世界遺産を特集した本をよく見かけるようになりました。それにヒントを 得て、いつか「古田史学の会」でも『倭国(九州王朝)遺産』のような写真で紹介する九州王朝の遺跡や文物を紹介した本を出してみたいと思うようになりまし た。そこで、もし選ぶとしたら「倭国(九州王朝)遺産」として何がふさわしいだろうかと考えてみました。個人的見解ですが、ご紹介したいと思います。まず は金石文・出土品10選です。(順不同)

〔第1〕志賀島の金印
 やはり最初に認定したいのはこれです。倭国が中国の王朝に認定された記念碑的文物ですから。『後漢書』によれば光武帝が西暦57年に倭王に贈ったもので す。「倭国が南海(南米か)を極めた」ことに対する報償です。印文の「漢委奴国王」は、「かんのいのこくおう」あるいは「かんのいぬこくおう」と訓んでく ださい。「かんのわのなのこくおう」と「三段細切れ国名」として訓むのは誤りです。

〔第2〕室見川の銘板
 倭国産の銘板で、これも外せません。後漢の年号「延光4年」(125)が記されています。吉武高木遺跡の宮殿造営(王作永宮齊鬲)を記したものとして、これも九州王朝の記念碑的文物です。

〔第3〕日田市出土「金銀象嵌鉄鏡」
 国内では唯一の出土と思われる見事な象嵌で飾られた鉄鏡です。九州王朝内の有力者の所持品と思われます。金銀象嵌(竜)の他に赤や緑の玉もはめ込まれた見事な鏡です。中国製(漢代)のようです。

〔第4〕平原出土の大型「内行花文鏡」(複数)
 この圧倒的な量と大きさも「遺産」認定に値します。

〔第5〕七支刀
 今は石上神宮にありますが、百済王が倭王旨に贈った古代を代表する異形の名刀(剣)です。「旨」は倭王の中国風一字名称です。

〔第6〕福岡市元岡古墳出土「四寅剣」
 倭国産の、これも珍しい「四寅剣」を忘れてはなりません。九州王朝内の有力氏族に与えたものと思われます。九州年号「金光」改元の年(570)に造られたものです。

〔第7〕糸島市一貴山銚子塚古墳出土「黄金鏡」
 国内でも数例しかないという鍍金された鏡です。邪馬壹国の卑弥呼が中国からもらった「金八両」が使用されたのではないかと、古田先生は推測されていま す。なお、同じ鍍金鏡として熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳出土の鏡もセットで認定したいと思います。

〔第8〕江田船山古墳出土「銀象嵌鉄刀」
 これを認定しないと本年五月にお世話になった和水町の皆様にしかられます。九州王朝の有力豪族に与えられた有名な刀です。馬だけでなく魚や鵜飼いの鵜と思われる水鳥の象嵌も貴重です。

〔第9〕隅田八幡人物画像鏡(和歌山県橋本市)
 百済の斯麻王(武寧王)から倭王「日十(ひと)大王年」に贈られた鏡です。この「年」は倭王の中国風一字名称です。岡下秀男さん(古田史学の会・会員、 京都市)の研究によれば、倭王への贈呈品とするには文様の質があまり良くないという課題もあります。

〔第10〕宮地嶽古墳出土の金銅製馬具・他
 この圧倒的に豪華な副葬品は文句なしの認定ですが、北部九州からはこの他にも王塚古墳(桂川町)などからも素晴らしい副葬品が出土しており、それらもセットで認定したいと思います。

 以上、とりあえず「10選」ということで絞りましたが、この他にも認定したいものが数多くあります。また、卑弥呼がもらった金印も発見されれば間違いなく認定です。今回漏れたものは続編か番外編にでも紹介できればと思います。(つづく)


第783話 2014/09/12

最古の「銅鐸出土」記録

 9月10日のテレビニュースで、岡山県総社市の集落跡の神明遺跡から弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸1個が出土したと報道されていました。同集落遺跡は弥生後期(紀元前後頃)とのことですから、その銅鐸は造られてから200年ほどして埋納されたことになります。古田説によって考えると、神武東侵により侵攻された銅鐸圏の人々によって埋納されたのかもしれません。学術発掘による出土ですから今後の調査検討が待たれます。
 銅鐸の出土記録としては、古くは『続日本紀』の和銅六年条(713)に大倭国宇太郡から出土した銅鐸が献上された記事が見えます。この時代、銅鐸は献上品とされるほど珍しく貴重なものだったことがうかがえます。
 更に古くは『扶桑略記』の天智七年(668)正月条に滋賀県の崇福寺建立時に高さ五尺五寸の「宝鐸」が出土したという記事があり、この記事をもって最古の「銅鐸出土」記録とする見解もあります。ちなみに『扶桑略記』にも『続日本紀』和銅六年条の銅鐸出土献上記事が記載されています。
 『扶桑略記』の銅鐸出土記事が歴史事実とすれば、それでは何故その記事が『日本書紀』に収録されなかったのかという疑問が残されます。この点、わたしが提起してきた「九州王朝の近江遷都」説に立てば、九州王朝による崇福寺建立と銅鐸(宝鐸)出土事件ということになり、大津市から出土した穴太廃寺や南滋賀廃寺建立記事と同様に、『日本書紀』には採用されなかったという理屈で説明できるのではないでしょうか。そして、もしこの推定が正しければ、『扶桑略記』 には九州王朝系史料に基づく記事が他にもあるかもしれません。今後の楽しみな研究テーマです。


第782話 2014/09/10

再読

『昭和天皇独白録』

 『昭和天皇実録』が完成したこともあって、20年ほど前に読んだ『昭和天皇独白録』(文春文庫、1995年)を再読しました。同書は敗戦後の昭和21年に昭和天皇が側近らに語った発言を寺崎英成御用掛が記録したものです。
 敗戦直後の米軍占領下で、昭和天皇が側近に語った言葉ですから、「事後の感想、発言」という史料性格を有していますが、大日本帝国の開戦の「正義」が次のように記されています。

 「〔大東亜戦争の遠因〕この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条件の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。
 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない。」(24~25頁)

 このような昭和天皇の発言が記されています。そして同書編集部による次の〔注〕が付されています。

 「大正八年(一九一九)、第一次大戦が終ると、平和会議が招集されて、連合国二十八カ国がパリに集まった。日本全権は西園寺公望。このとき各国の人種差別的移民政策に苦しんできた日本は、有色人種の立場から二月十三日に“人種差別撤廃”案を提出した。しかし、さまざまな外交努力にもかかわらず、日本案は四月十一日に正式に否決された。日本の世論は、この報に一致して猛反対でわき上がった。
 さらに大正十三年(一九二四)五月、アメリカはいわゆる「排日移民法」を決定する。それは日本にとって「一つの軍事的挑戦」であり、「深い永続的怨念を日本人の間に残した」ものとなった。日本の世論は憤慨以外のなにものでもなくなった。「アメリカをやっつけろ」「宣戦を布告せよ」の怒号と熱気に国じゅうがうまったといっていい。日本人の反米感情はこうして決定的となった。」(25~26頁)

 戦後の占領政策に基づく「戦後民主教育」により、日本国民はアメリカの「正義」と大日本帝国の「軍部の暴走」という「不正義」を「歴史」教育で学んできましたが、ことはそれほど単純ではなかったことが昭和天皇の独白録からもうかがえます。
 戦争は国家間の「正義」と「正義」の衝突であるという古田先生の定義から見れば、第一次大戦後の日本の「正義」(人種差別撤廃)と欧米の「正義」(人種差別)、中でもアメリカの「正義」(排日移民法)の衝突が太平洋戦争への布石の一つとなったことが見えてきます。同時に世界で有色人種を代表して日本のみが「列国」(白人帝国主義列強)と国際舞台で論戦していた歴史事実を、「戦後民主教育」では「なかった」ことにして日本国民には伏せられてきたこともわかります。
 歴史研究や歴史教育は自国の「正義」を超えた真実に基づかなければ、その国民は自国の「正義」のみに基づき、同じ誤りや失敗を繰り返し、「歴史は繰り返す」こととなりかねません。多元史観・フィロロギーは人類の未来の為に、真実の歴史に肉薄し、明らかにするという「学問の方法」「学問分野」です。わたしたち古田学派の真価が問われる時代なのです。