第945話 2015/05/04

「秦王国」の多利思北孤

今回も「肥後の翁」考の続きで、いよいよ核心部分の考察に入ります。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」に記された国名で、その所在地について古田学派内でも意見が分かれており、具体的な有力説が出されていない「秦王国」についての考察です。
秦王国は竹斯国の東と記されていますから、単純に考えれば福岡県の東部、あるいは更に東の瀬戸内海沿岸にあったとする理解も不当ではありません。しかし、 その後に「更に十余国進んで海岸に至った」とありますから、秦王国は内陸部にあったと考えなければなりません。そうすると豊前や瀬戸内海沿岸に秦王国が あったとする説は成立しません。従って、筑豊地方(飯塚市・田川市など)であればこの点はクリアできますが、ただ筑豊からは阿蘇山の噴火は見えません。
このように、秦王国を竹斯国(博多湾岸・太宰府付近)の真東とする理解よりも、古代官道の西海道を東南に進み、杷木付近で筑後川を渡河した先にある筑後地 方説が相対的に有力な説と考えられるのです。「九州王朝の筑後遷宮」という説をわたしは発表していますが、今の久留米市・うきは市に九州王朝が遷宮してい た、「倭の五王」時代から条坊都市太宰府造営(倭京元年、618年)までの期間に、『隋書』に記された多利思北孤の時代(600年頃)は入っていますか ら、そのとき都は筑後にあり、秦王国と称されていたことになるのです。
そして、真の問題はここから発生します。古田先生はこの「秦王」につい て、『隋書』には「隋の天子の弟」のこととして表れていると紹介されています。もしこの用例が倭国でも同様(模倣)であれば、多利思北孤は「日出ずる処の 天子」であると同時に「天子の弟」でもあることになってしまいます。この矛盾した「天子」概念が九州王朝ではあり得ることが、『隋書』「イ妥(たい)国 伝」に次のように記されています。

「(開皇20年、600年)使者言う。イ妥王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴くに跏趺して坐す。日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

このように九州王朝では国王兄弟で夜と昼に分けて統治していたとあるのです。従って、「日出ずる」天子・多利思北孤は昼間の政治を担当していた「弟」と考 えられ、このことは既に古田先生も言及されておられたことです。従って、天子であり、弟でもある多利思北孤が秦王国(天子の弟の国)に居たとする理解は決 して荒唐無稽なものではないのです。なお、古田先生によれば、九州年号の「兄弟」(558年)も、こうした倭国における兄弟統治を背景に成立した年号とさ れています。(つづく)


第944話 2015/05/04

隋使行程記事と西海道

前話に続いて「肥後の翁」問題を考えます。隋使はどのような行程で「肥後の翁」に接見し、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。この問題を考えるために『隋書』「イ妥(タイ)国伝」を見直しました。そこには、隋使の倭国への行程記事として次のように記されています。

1.百済を渡り竹島に至り、南にタンラ国を望み、
2.都斯麻国(対馬)を経、はるかに大海の中に在り。
3.又東して一支国(壱岐)に至る。
4.又竹斯国(筑紫)に至る。
5.又東して秦王国に至る。
6.又十余国を経て海岸に達す。

()内はわたしが付したものですが、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、筑紫(博多湾岸から太宰府付近)までははっきりしているのですが、秦王国や「十余国を経て海岸に達す」については論者によって見解が分かれますし、この記事からは断定しにくいところです。
この行程記事では方角を「東」と記されていますが、実際には「東南」方向ですから、秦王国の位置は、二日市市・小郡市あたりから朝倉街道(西海道)を東南 方向に向かい、杷木付近で筑後川を渡河し、その先の筑後地方(うきは市・久留米市)ではないかと、わたしは考えています。もちろん、太宰府条坊都市の成立 (倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝の都は筑後にあった時期です。
問題は「十余国を経て海岸に達す」です。方角が記されていませんから、この記事だけでは判断できませ。しかし、隋使が阿蘇山の噴火を見ていますから、肥後方面に向かったと考えるのが、史料事実にそった理解と思われます。
従来、わたしは「十余国を経て海岸に達す」を久留米市から柳川市・大牟田市方面に向かい、有明海に達したという意味に理解すべきと考えてきましたが、近 年、熊本県和水町とのご縁ができたこともあって、土地勘が少しずつですがついてきましたので、この行程も古代の官道「西海道」を隋使は進んだと考えたほう が良いと思うようになりました。それは次の理由からです。

(1)筑紫(福岡市)から小郡、そして東へ朝倉街道(西海道)を進み、筑後川を渡り、久留米に到着してたとすれば、これは古代西海道のコースである。
(2)十余国を経て海岸に到着していることから、久留米市から大牟田市までの間にしては国の数が多すぎるように思われる。
(3)これが内陸部を通る西海道に沿って十余国であれば、久留米市から肥後に向かい、菊池川下流か熊本市付近の海岸に達したとするほうが、国の数が妥当のように思われる。

以上のような理解から、わたしは筑後(秦王国か)に着いた隋使は古代官道の西海道を通って、鞠智城や江田舟山古墳方面に行ったのではないかと、今では考え ています。こうした理解から、この地域(菊池市・玉名郡・熊本市など)で隋使は「肥後の翁」と接見し、阿蘇山の噴火も見たのではないでしょうか。更にこの ルートを支持する『隋書』の記事として、「鵜飼」があります。筑後川や矢部川は鵜飼が盛んな所でした。(つづく)


第943話 2015/05/03

筑紫舞「肥後の翁」考

前話に続いて筑紫舞がテーマです。筑紫舞の代表作「翁(おきな)」には「都の翁」が必ず登場するのですが、西山村光寿斉さんの説明では、舞の中心人物は「肥後の翁」とのこと。筑紫舞でありながら、「都の翁」(九州王朝の都、太宰府か)が「主役」ではなく、「肥後の翁」が中心であることも、不思議な ことでした。
実は、九州王朝研究において、肥後は重要な地域であるにもかからず、筑前・筑後地方に比べると研究が進んでいませんでした。そうし た事情もあって、この筑紫舞における「肥後の翁」の立ち位置は研究課題として残されてきたのです。ところが幸いにも、昨年から「納音付き九州年号」史料の 発見により、玉名郡和水町を訪れる機会があり、肥後地方の地勢や歴史背景などに触れることができ、わたし自身もより深く考えることとなりました。その結 果、様々な作業仮説(思いつき)に恵まれることとなりました。そこで、今回はこの「肥後の翁」について考えてみました。
古代史上、「肥後」関連 記事が中国史書に出現したのは管見では『隋書』の「阿蘇山」記事です。筑紫に至った隋使たちは何故か阿蘇山の噴火を見に行っています。隋使は何のために肥 後まで行き、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。観光が目的とは考えにくいので、この疑問が解けずにいました。そこで考えたのですが、隋使は筑紫舞に登場す る「肥後の翁」に接見するために肥後へ行ったのではないでしょうか。
それでは肥後にそのような人物がいた痕跡あるでしょうか。わたしの知るとこ ろでは次のような例があります。ひとつは肥後地方に多い「天子宮」です。当地に「天子」として祀られるような人物がいた痕跡ではないでしょうか。二つは鞠 智城内の地名「長者原」です。筑後地方(浮羽郡)には「天の長者」伝説というものがあり、その「天の長者」は九州王朝の天子のことではないかと、わたしは 考えていますが、恐らく九州王朝が造営した鞠智城内にある「長者原」という地名も、同様に九州王朝の天子、あるいはその王族の一人ではないでしょうか。
筑紫舞の「翁」において、中心人物とされる「肥後の翁」を九州王朝の天子、あるいは九州王朝の有力者とする理解は穏当なものと思われるのです。


第942話 2015/05/02

筑紫舞「加賀の翁」考

 古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)に、筑紫舞の伝承者、西山村光寿斉さんとの出会いと筑紫舞について紹介されています。古代九州王朝の宮廷舞楽である筑紫舞が今日まで伝 承されていたという驚愕すべき内容です。その筑紫舞を代表する舞とされる「翁」について詳しく紹介されているのですが、その内容についてずっと気になっていた問題がありました。
筑紫舞の「翁」には三人立・五人立・七人立・十三人立があり、十三人立は伝承されていません。三人立は都の翁・肥後の 翁・加賀の翁の三人で、古田先生はこの三人立が最も成立が古く、弥生時代の倭国の勢力範囲に対応しているとされました。ちなみに都の翁とは筑紫の翁のことですが、なぜ「越の国」を代表する地域が「加賀」なのかが今一つわかりませんでした。
ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から教えていただいた、次の考古学的事実を知り、古代における加賀の重要性を示しているのではないかと思いました。
庄内式土器研究会の米田敏幸さんらの研究によると、布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする定説は誤りで、胎土観察の 結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかったというのです。しかも北陸の土器 の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現するとのこと。日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきたので す。
この考古学的研究成果を知ったとき、わたしは筑紫舞の三人立に「加賀の翁」が登場することと関係があるのではないかと考えたのです。古田先 生の見解でもこの三人立は弥生時代にまで遡る淵源を持つとされており、この加賀南部で発生し各地に伝播した布留式土器の時代に近く、偶然とは思えない対応 なのです。絶対に正しいとまでは言いませんが、筑紫舞に「加賀の翁」が登場する理由を説明できる有力説であり、少なくともわたしの疑問に応えてくれる考古学的事実です。
なお、6月21日(日)午後1時からの「古田史学の会」記念講演会で米田敏幸さんが講演されます。とても楽しみです。(会場 i-siteなんば)


第941話 2015/05/02

続・九州王朝滅亡の一因を考える

 九州王朝から大和朝廷への権力交替にあたって、九州王朝の首都太宰府は「無血開城」されたかのように、宮殿は破壊されず、巨大な防衛施設の水城も 健在のままでした。すなわち、九州王朝はその滅亡期において、「首都決戦」を行った痕跡が文献史料的にも考古学的にも見あたらないのです。この事実は、九州王朝の滅亡がどのようなものであったのかを考える上で重要なヒントになるように思われます。
 九州王朝が白村江の敗戦以後、実質的にも名聞的に も権威と実力を急速に失っていったと思われますが、7世紀末頃から8世紀初頭にかけて、列島内で「一大決戦」ともいうべき大きな戦争が2度行われました。
 一つは有名な「壬申の大乱」(672年)、もう一つは『続日本紀』にその痕跡が残されている「隼人の大乱」(712年、九州年号最終年の大長9年)です
(「続・最後の九州年号」『「九州年号」の研究』所収をご参照下さい)。

 わたしはこの二つの「一大決戦」こそ、九州王朝滅亡期の姿を考える上で、重要な事件だと推察しています。 「壬申の大乱」は近江朝廷の大友皇子と大海皇子(天武天皇)の争いとして『日本書紀』には特筆大書されていますが、わたしは「九州王朝の近江遷都」が白鳳元年(661年、『海東諸国記』の遷都記事による)になされたと考えていますから、大友皇子は父の天智天皇が定めた「不改常典」により九州王朝の権威を継承した、あるいは九州王朝の対唐徹底抗戦派を支持した人物ではなかったかと推察しています。とすれば、「壬申の大乱」は近江京などを中心とした九州王朝の 「首都決戦」だったと言えるかもしれません。
 もう一つは南九州での「隼人の大乱」で、これは最後の九州年号である「大長」の最末年「大長九年」 (712年)に起こっていますから、九州王朝の最終年の「大乱」であり、これも九州王朝の対大和朝廷徹底抗戦派による「一大決戦」と考えざるを得ません。
 この二つの「一大決戦」がともに九州王朝の首都太宰府から遠く離れた地で行われたことが、太宰府「無血開城」の遠因になったのではないでしょうか。
 さらにもう一つの理由、これは全くの想像ですが、九州王朝の天子は首都太宰府の有力氏族や人民からの信頼を決定的に失っていたのではなかったでしょうか。 白村江戦に先立ち、唐の脅威から逃げるように、難波副都や近江京を造営し、天子や百官百僚たちは首都の人民を見捨てて「遷都」したとき、残された太宰府の人々からの信頼を決定的に失ったのではないでしょうか。ですから「首都決戦」などできる条件を九州王朝は既に失っていたものと思われるのです。
 以上、今回の帰省で大野城(大城山)の遠景を見ながら考えたことでした。


第940話 2015/05/01

九州王朝滅亡の一因を考える

 このゴールデンウィークを利用して、家族で実家の久留米市に帰りました。今回は、博多から久留米までは鹿児島本線の在来線快速を利用しましたので、今までよりもしっかりと沿線の風景を眺めることができました。
 宝満山(御笠山)や大野城がある大城山の懐かしい遠景ですが、今回は今までにない視点で大野城を凝視しました。というのも、正木裕さんにより、大野城が 『日本書紀』斉明紀2年条に見える「田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。復た嶺の上の両の槻の樹の辺に観(楼閣・たかどの)を起つ。号(なづ)けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。」の「田身嶺」であるとする新説が発表されていたからです。たしかに大野城はその規模といい、内部の施設や水源の豊富さなどから、太宰府(倭京)の住民が籠城できるように造営されています。
 今回の帰省で改めて実見したのですが、そうした視点で大野城をとらえたとき、確かにその規模は尋常ではありません。恐らく、隋や唐からの侵略に備え、「国家総動員」で造営されたことを疑えません。そのとき、造営に参加した多くの住民も、この城があれば大丈夫と信じ、九州王朝の天子の命に従ったはずです。「いやいや」では、あれだけの防衛施設を長期にわたり造れないと思うのです。
 侵略者が博多湾に上陸し、水城を突破し、太宰府に侵攻できたとしても、住民ともども大野城に籠城され、その後、夜討ち朝駆けといった九州王朝軍の反撃に対して、見知らぬ地域に侵攻した他国の軍隊は兵站も延びきっており、長期戦に耐えられるとは到底思えません。しかも、安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)の研究によれば、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍2000名の内、その多くは船団を操る「送使団」であり、実戦部隊としての軍隊は600名ほどではなかったかとのこと。敵地で戦い続け、軍事制圧するにはあまりにも少人数と言わざるを得ません。
 しかし、歴史事実として九州王朝は滅びました。何故でしょうか。このことを車窓から大野城を眺めながら、わたしは考え続けました。九州王朝を滅ぼした主体が唐であれ、近畿天皇家であれ、なぜ九州王朝は水城や神籠石山城、そして大野城に立てこもって徹底抗戦しなかったのでしょうか。水城も壊されていませんし、太宰府政庁2期の宮殿も701年の 王朝交替期に焼かれていません。明治維新の江戸城と同様に「無血開城」したかのようです。(つづく)


第939話 2015/04/30

古田武彦著

『古田武彦の古代史百問百答』が復刊

ミネルヴァ書房から古田先生の『古田武彦の古代史百問百答』が復刊されました。同書は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊されたものです。
同書冒頭の藤沢徹さん(東京古田会・会長)による「はしがき」に「敗戦後、節操なき『思想の裏切り』に絶望した旧制高校生が、老年に至るまで反骨の『心理の探求』に没頭した」とあるとおり、古田先生の古代史研究から思想史研究に至る、「百問百答」の名に偽りのない質疑応答が展開された一冊に仕上がっていま す。東京古田会による優れた業績として、後世に残る本です。
同書は古田先生の近年の研究成果と、それに基づいた問題意識が、「百問」に答えるという形式をとって、縦横無尽に展開されています。かつ、その「百答」は「結論」ではなく、新たな問題意識の出発点ともいうべき性格を有しています。古田学 派の研究者にとって、古田先生から与えられた「課題」「宿題」としてとらえ、そこから新たなる「百問」が生まれる、というべきものです。同書を企画編纂された東京古田会の皆様に敬意を表したいと思います。


第938話 2015/04/29

教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事

 九州年号研究をしていると思わぬ発見や成果が得られることがあります。たとえば『二中歴』「年代歴」の九州年号「教到」(531〜535年)の細注に「舞遊始」(舞遊が始まる)という変な記事があり、かねてから不審に思っていました。「舞遊」など、それこそ縄文時代からあったはずで、それが6世紀 の教到年間に始まったとする細注の記事はナンセンスなものと映っていたからです。
ところがその謎を解く鍵が本居宣長の『玉勝間』にありました。この情報は冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員、横浜市)から教えていただいたのですが、『玉勝間』に九州年号の教到が記されているのです。

「東遊の起り
同書(『體源抄』豊原統秋:古賀注)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれ ゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわ ち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、」
(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

このように教到年間の「舞遊始」(舞遊が始まる)とは「東遊(アズマアソビ)」の起源記事だったのです。こうした九州年号による記事が本居宣長の『玉勝間』に記されていたとは思いもよりませんでした。
しかも、普通九州年号群史料によれば「教到」は5年間で終わり、翌年は改元され「僧聴元年」となっており、教到六年丙辰ではなく僧聴元年丙辰とされるべき ところです。しかし教到六年丙辰とあるのは、その年の内の「僧聴」に改元される前に記された記事に基づいていると考えられるので、元史料を後世の認識で 「僧聴元年」などと改訂していない、いわば一次史料を正確に引用している記事であることがわかります。従って、この「東遊」関連記事の史料価値は高いと判 断できるのです。
このような九州王朝系史料の、しかも史料批判により、原文に近いと判断できる記事に遭遇できたことは、まさに学問研究の醍醐味 です。ちなみに、江戸時代のバリバリの一元史観論者である本居宣長はこの「教到六年」という近畿天皇家にない年号をどのような気持ちで自著に引用したの か、興味深いところです。
なお、当研究の詳細は『古田史学会報』64号(2004.10.12)所収の「本居宣長『玉勝間』の九州年号 -「年代歴」細注の比較史料-」をご参照下さい。


第937話 2015/04/28

「年代歴」編纂過程の考察(3)

 「年代歴」の九州年号群は「年号一覧」ともいうべき史料性格ですから、その元史料は「九州年号群」史料である、いわゆる「年代記」あるいは「年表」であり、それらに記された九州年号を抜粋して「年代歴」は作成されたものと思われます。それら以外に代々の九州年号が記された史料の存在をわたしは知りませんし、想定もできないからです。
 そうした九州年号が記された「年表」はおよそ次のようなことが記されていたはずです。「九州年号」「年次」「干支」「その年に起きた事件」といった構成です。具体例をあげれば次のようなかたちです。

法清元年甲戌「記事」二年乙亥「記事」三年丙子「記事」四年丁丑「記事」兄弟元年戊寅「記事」蔵和元年己卯「記事」二年庚辰「記事」三年辛巳「記事」四年壬午「記事」五年癸未「記事」〜

 このような年代記(年表)から「年代歴」に必要な「年号」「継続年」「元年干支」を抜き取る作業となるわけですから、編者は次の手順で「年代歴」を作成するはずです。

(1)年号を抜粋する。
(2)その年号の最末尾の「年数」を抜粋する。
(3)元年干支を抜粋する。
(4)その年間の代表的記事を抜粋する。なければ書かない。

以上の作業を、上記の例で行うと次のような内容となります。

「法清・四年・甲戌 (記事)」
「兄弟・元年・戊寅 (記事)」
「蔵和・五年・己卯 (記事)」

 このように、記された文字をそのまま抜粋すると、元年しかない「兄弟」は「元年」とそのまま書き写す可能性が発生するのです。その結果、書写が繰り返された『二中歴』「年代歴」のどこかの書写段階で、「元」が「六」に誤写されたと、わたしは現存する『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年」とある史料事実から判断するに至ったのです。今のところ、この編纂過程以外に、この誤写が発生する状況をわたしには想定できません。もし、もっと合理的な誤写過程があれば賛成するにやぶさかではありませんが、いかがでしょうか。
 また、「年代歴」の九州年号の下に細注があり、その年間の事件が記されているという史料事実も、これら九州年号の元史料が年代記(年表)の類であったとする、わたしの推定を支持します。
 以上、3回にわたり、『二中歴』「年代歴」の編纂過程について考察してきました。史料批判とはこうした考察の集大成であり、その結果、当該史料がどの程度信頼してよいのかが推定できます。こうした作業、すなわち史料批判は文献史学における学問の方法の基本ですから、私自身の勉強も兼ねて、これからも機会があれば繰り返しご紹介したいと思います。

(補記)「師安一年」というように1年しかない年号の場合は「元年」ではなく、「一年」と記すのが『二中歴』「年代歴」の九州年号部分の「表記ルール」と紹介しましたが、「年代歴」の近畿天皇家の年号部分には、1年しかない年号「正長」が「正長元」 (1428年)と表記されています(正確には翌二年の九月に永享と改元。従って年表上では元年のみの表記となります)。『二中歴』そのものが複数の編者により書写・追記されていますから、上記のような「表記ルール」が全てに厳密に採用されているわけではありません。この点、『二中歴』の全体像をご存知ない方も多いと思いますので、補足しておきます。


第936話 2015/04/27

「年代歴」編纂過程の考察(2)

 林さんのご指摘のように、『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年 戊寅」は「師安一年」のように「一年」とあるのが、九州年号部分の表記ルールという ことについては、わたしも賛成です。しかし、史料事実が物語っているように、「年代歴」成立過程で「兄弟元年」という表記が存在したことを想定せざるを得ないことは、935話で説明した通りです。そうすると、なぜ表記ルールとは異なった「兄弟元年」という表記が出現したのかが、次の問題となります。今回は この点について説明したいと思います。
 実は『二中歴』の九州年号部分は、他の九州年号史料と比べ、かなり異質な史料状況なのです。通常、寺社縁起などのように、ある特定時点の事件を説明するために個別の九州年号が現れるのが一般的な九州年号史料の状況です。これに対して、九州年号が多数記された史料は「九州年号群」史料と呼ばれ、一般的な九州年号史料と区別しています。それら「九州年号群」史料としては、いわゆる「年代歴」と呼ばれるタイプのものが多数あります。すなわち、九州年号を使って代々の歴史を記録されたものです。「年表」と称してもよいかもしれません。
 この「年表」にもいくつかのタイプがあるのですが、九州年号で年代を特定しながら、歴史事実を長文の記事として記録するタイプと、縦横のグリットの中に干支や年号を書き込み、 そのグリットの余白部分にメモ程度の単文記事を書き込むタイプが見られます。昨年、熊本県和水町で発見された「納音付き九州年号」史料は後者のグリットタイプの「九州年号群」史料です。
 ところが『二中歴』「年代歴」はこれら「九州年号群」史料とは全く異なり、「年表」としての歴史事実の記録機能を本来の目的とはしていないのです。それは『二中歴』の史料性格が歴史事典のようなものであり、その中の「年代歴」はどのような年号がいつ頃存在したのか記した「年号一覧」という史料性格を有しており、年号の知識を必要とする当時のインテリ向けに作成された「年号辞典」だからです。
 したがって、 「大寶」以降の近畿天皇家の年号部分は「年号・年数・元年干支」が中心で、それに天皇名等が付記されているといった様相を示しています。それに比べて、冒頭の九州年号部分にはその年号の時代に起こった記事が細注として付記されており、一見すると「年代歴」風の様式も兼ねています。実は、このことが「兄弟六年」という誤写の原因となっていると考えられるのです。(つづく)


第935話 2015/04/26

「年代歴」編纂過程の考察(1)

 先日、瀬戸市の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)からお電話をいただき、「洛中洛外日記」924話「『二中歴』九州年号校訂跡の証言」についてご質問をいただきました。
わたしが、『二中歴』「年代歴」にある「兄弟六年 戊寅」の「六」は誤りであり、正しくは「兄弟元年」とあるべきところを、「元年」の「元」の字を「六」 と読み間違えた書写者がいたとしました。このことに対して林さんからのご指摘は、「年代歴」には「師安一年」(564年)という表記があるように、年号が1年しか続かない場合は「一年」とあるべきで、「元年」とは記さないということでした。ちなみに、林さんは「兄弟六年」のままで正しいというご意見のようでした。
 確かに「年代歴」の九州年号部分の表記としては、一年限りの九州年号は「師安一年」の例と、「兄弟六年」の傍注の「一イ」のみがあるだけですから、林さんのご指摘はもっともなものです。そこで、わたしは次のような論理展開であることを説明しました。

(1)九州年号の「兄弟」は他の史料でも元年だけの1年で終わり、翌年は「蔵和」と改元されている。
(2)「年代歴」の傍注にも「一イ」と校訂がなされていることも、この史料状況に対応している。また、翌年に「蔵和」と改元されている。
(3)従って、「兄弟六年」とあるのは、傍注通り「兄弟一年」とあるべきだった。
(4)それでは何故「六」と誤ったのかを考えたとき、本来、元史料に「一」と書かれていた字を「六」に読み間違えることは考えにくい。
(5)その点、「元年」とあったのなら、「元」と字形が似ている「六」に読み間違える可能性がある。
(6)従って、本来「兄弟元年」と表記されたものがあり、数次に及ぶ「年代歴」書写のどこかの段階で「兄弟六年」と誤写されたと考えれば、このケースの説明が可能である。
(7)このような誤写発生過程以外に「一」を「六」に誤写するケースは考えにくい。

 以上のようにわたしは判断し、先の「洛中洛外日記」を書いたのでした。そして、この誤写発生過程の可能性以外に「六」と誤写するケースを、わたしには考えられないと林さんに説明したのです。(つづく)


第934話 2015/04/25

『二中歴』九州年号細注の史料批判(2)

「洛中洛外日記」932話に続いての『二中歴』「年代歴」に見える九州年号細注の考察です。
『古事記』や『日本書紀』とは異なって、 『二中歴』は「尊経閣文庫本」と称される古写本とその系列の新写本しか現存しないため、異なる系統の写本による比較や校訂ができません。また、「尊経閣文 庫本」自体も数次の書写や追記が繰り返された末に成立していることが、その内容から明らかです。ですから、それら書写や追記時点における書写者や追記者による原文改訂や誤写の可能性を排除できないという史料性格を帯びています。
このことは「年代歴」の九州年号細注についても同様であり、留意が必要です。たとえば、各九州年号の元年干支表記部分だけでも、次のような史料状況を示しています。
「年代歴」冒頭の第1ベージから九州年号は記されていますが、その1ページ目には「継躰」「善記」「正和」「教倒」「僧聴」「明要」「貴楽」「法清」の8年号が並んでいます。2ページ目には「兄弟」以降の年号が続き、3ページ目の「大化」で九州年号部分は終わります。4ページ目からは近畿天皇家の「大寶」 が始まります。このうち1ページ目にある8年号については元年干支表記が「元○○」という表記になっています。具体的には「継躰五年 元丁酉」のように、 「継躰は五年間続くが、その元年干支は丁酉」とわかるような表記となっています。ところが2ページ目からは「元」の字がなくなり干支だけとなります。「兄 弟六年 戊寅」というようになっており、そのため「兄弟六年の干支が戊寅」と間違って受け取られるような表記に変わっているのです。実際にそのように勘違いして論文を書かれた古田学派の研究者もおられました。すなわち「元」の字がないので、年号と年数の下に付記された干支が元年のことかどうか、一見すると わかりにくい表記に省略されています。
このような表記様式の変化が発生した理由は何でしょうか。次の二つのケースが考えられるのではないでしょうか。

(1)編纂時使用した元史料に表記が異なるものがあり、その表記を統一せず、そのまま採用した。
(2)編纂者あるいは書写者が2ページ以降は「元」の字を省略してしまった。

この二つのケースの可能性が考えられますが、どちらのケースだったのかは、今のところよくわかりません。引き続き検討したいと思います。
このように「年代歴」九州年号部分だけでも、表記方法などが統一されておらず、論証の根拠にこれらの記事を利用する場合は、よくよく注意しなければなりま せん。史料批判という基礎的な学問作業はこうした考察の集大成とも言うべきものなのです。史料批判を抜きにして、その史料を研究や論証の根拠に無条件に使うことがいかに危険かということを強調しておきたいと思います。