第747話 2014/07/19

冶金学と漢字学の古代史

 本日の関西例会に参加された方は果報者です。冶金学と漢字学の講義を聴けたのですから。
 最初の報告者の服部さん(『古田史学会報』次期編集担当者)から、「わたしの専門は冶金です」という挨拶で切り出された弥生時代の製鉄や出土鉄器の報告はまさに冶金学の講義そのものでした。鉄固有の個体相での相変化など、冶金学による「焼き入れ」「焼きなまし」の解説は勉強になりました。
 そして報告の結論は、倭国の中心は北部九州であり、奈良県(畿内)は全弥生時代を通して「鉄器真空地帯」というものでした。発見されているすべての弥生時代の鉄器出土分布図や製鉄遺跡のデータを示され、北部九州の圧倒的濃密分布と畿内の空白を示す分布図は「邪馬台国」畿内説なるものが全く成立の余地の無 いことを明白に示すものでした。わかりやすく見事な報告でしたので、『古田史学会報』に投稿されるよう要請しました。
 次の講義は出野さんによる漢字の成立・発展史でした。冒頭、中国で入手された「骨卜」の高価で精密なレプリカや内側に金文がほどこされた青銅器のレプリ カを見せていただきました。甲骨文字から始まった漢字が、金文・篆書・隷書へと進化する様子について説明はわかりやすく有意義でした。
 わたしからの次の質問にも興味深い回答がなされました。邪馬壹国・卑弥呼の時代に中国と倭国で交わされた詔書や上表文の字体は何だったかという質問に対して、おそらく隷書だったとのことで、根拠としてはその時代の文字遺物の主流が隷書だということでした。
 次に、後漢代に成立した『説文解字』により、当時の音韻復元は可能かという質問に対しても、音韻復元はできないと明快な回答がなされました。現在残され ている『説文解字』は後代(宋)の解説が付けられており、その解説中の「反切」(音韻表記)を『説文解字』原文と勘違いしている人も多いとのことでした。
 最後に、「室見川の銘版」についての出野さんの見解をたずねたところ、銘文の完成度の高さや、国内で同様のものが6~7世紀の墓誌が出現するまで発見さ れていないことから、同銘版は中国で製造され、倭国へ贈られたものと考えるのが妥当とのことでした。古田先生の見解(倭国産説)とは異なっており、今後の 検討や議論の展開が楽しみです。
 この他にも優れた研究発表がありましたので、改めて紹介したいと考えています。懇親会では中国曲阜から一時帰国されている青木英利さんから、中国のインターネット状況(国家による検閲など)について、横田さん(古田史学の会・全国世話人、インターネット担当)とともにお聞きすることができ、とても参考になりました。「古田史学の会」HPの中国語版「史乃路」の運営に役立てたいと思います。
 7月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
1). 鉄の歴史と九州王朝(八尾市・服部静尚)
2). 二倍年齢の検討(八尾市・服部静尚)
3). 「唐軍進駐」への素朴な疑問(芦屋市・安随俊昌)
4). 「景初」鏡と「正始」鏡はいつ何のために作られたか(京都市・岡下英男)
5). 卑弥呼は新羅に使者を派遣したか?(姫路市・野田利郎)
6). 漢字の誕生と変遷(奈良市・出野正)
7). 『魏志倭人伝』と邪馬壹国への道(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(論文執筆中「村岡典嗣との対話」他、10/24松本深志高校で講演、11/08八王子大学セミナー)・『古代は輝いていたⅢ』発刊・『古 代に真実を求めて』17集編集中・森田悌『長屋王の謎 北宮木簡は語る』を読む・寺西貞弘『近世紀州文化史雑考』を読む・石川邦一氏提供「祢軍墓誌」関係文献・水野氏の祖父、邦次郎氏が関わられたJR中央線笹子トンネル工事・その他


第746話 2014/07/16

「二倍年暦」論争勃発

 今、「古田史学の会」の役員間でeメールによる論争が活発になされています。通常、「古田史学の会」役員間ではeメールで連絡や確認をとりあっているのですが、そのメールのやりとりで「二倍年暦」論争が勃発しましたので、ちょっとだけご紹介します。
 当初は服部静尚さん(『古代に真実を求めて』次期編集担当者)が仕掛け人で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当、『古田史学会報』編集 担当)が応戦されていましたが、今や正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)らも巻き込んでの活発で学問的な論争が続けられています。恐らくは、今月19 日の関西例会でリアルな論争へと発展するものと期待しています。
 主な論点は『古事記』『日本書紀』や倭人伝の年齢や年次記事が、「二倍年暦」によるものか、年齢だけが二倍と計算される「二倍年齢」なのかという問題 や、そもそも「二倍年暦」の実体はどのようなものなのかという、極めて本質に迫る、かつ古田学派内でも見解が分かれる難しいテーマです。
 こうした論争がメールで自由闊達に行えるのも、なかなかよいものです。「古田史学の会」会員のみが参加できるネット(SNS)なども面白い試みかもしれ ません。ただ、学問は時間をかけてしっかりと丁寧に行うのが基本ですので、ネットのような素早いレスポンスが要求されるツールが本当に適切なのかは、もう 少し検討が必要でしょう。
 かなり以前のことですが、パソコン通信で「古田史学研究会」というサイトがあり、わたしも参加したのですが、結論としては問題の多い試みでした。わたし は学問研究には適していないと判断し、最終的には離れましたが、その理由は「ハンドルネーム」を使った匿名による応酬は無責任発言を誘発助長することと、 返事が遅いと、そのことをとがめられるということでした(わたしは実名で参加しました)。学問論争の基本は、やはり口頭発表と論文発表がよいと思います。 自らの見解を正確に表現できますし、相手の主張も正確に確認できますから。その上でメールを補助的な意見交換のツールとして使用するのが良いのではないで しょうか。
 それにしても、関西例会での「二倍年暦」「二倍年齢」論争が、今から楽しみです。



第745話 2014/07/13

復刻『古代は輝いていた III』

 ミネルヴァ書房より古田先生の『古代は輝いていた III 』が復刻されました。これで同シリーズ全三巻の復刻が完結しました。同書は九州王朝の輝ける時代と滅亡の時代、6~7世紀が対象です。わたしの研究テーマ の一つである「九州年号」の時代ですので、今回読み直してみて、古田先生の研究の深さと広さを再認識でき、とても触発されました。
 7世紀末には大和朝廷との王朝交代の時期を迎えますので、九州王朝研究にとってもスリリングなテーマが続出します。また、第三部にある「出現した出雲の金石文」で取り上げられた岡田山1号墳出土の鉄刀銘文「各田卩臣」(額田部臣)の「臣」に注目された論稿は、列島内に実在した多元的王朝(九州王朝、出雲王朝、関東王朝、近畿天皇家)や「臣」の痕跡を改めて明確にされたものです。
 九州王朝の輝ける天子、多利思北孤の活躍など同書は九州王朝史研究にとって最も重要な一冊です。皆さんに強くお勧めします。


第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第743話 2014/07/12

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(6)

 今週は東京から埼玉・新潟・石川・福井をぐるっと出張しました。心配していた台風8号の影響もそれほど受けずに、無事、仕事を終えることができました。京都に戻り、今日は自宅でくつろいでいますが、京都は祇園祭の準備が町中で進められています。今年は山鉾巡行が二回行われます(「前祭」と「後祭」で巡行されます)。

 「邪馬台国」畿内説が学説の体をなしていないことは、これまでの説明でご理解いただけたものと思いますが、文献史学では 成立しない畿内説に対して、物(出土物・遺跡)を研究対象とする、ある意味では「理系」に近い考古学の分野では、どういうわけか畿内説論者が少なくありま せん。これは一体どういうことでしょうか。
 『三国志』倭人伝を基礎史料とする文献史学の結論として、畿内説は学説として成立しない場合でも、考古学的に畿内説が成立するケースが無いわけではありません。それは、倭人伝に記された倭国の文物の考古学的出土分布が畿内が中心となっていれば、畿内を倭国の中心とする理解は考古学的には成立します。この ケースに限り、考古学者が畿内説に立つのは理解できますが、考古学的事実はどうでしょうか。
 まず倭人伝に記された倭国の文物には次のようなものがあります。

(金属)「銅鏡百枚」「兵には矛・盾」「鉄鏃」
(シルク)「倭錦」「異文雑錦」

 遺物として残りやすい金属器として、中国から贈られた「銅鏡百枚」について、弥生時代の遺跡からの銅鏡の出土分布の中心 は糸島・博多湾岸です。「鉄鏃」を含む鉄器や製鉄遺構も弥生時代では北部九州が分布の中心です。畿内(奈良県)の弥生時代の遺跡からはこれらの金属器はほとんど出土が知られていません。シルクの出土も弥生時代の出土は北部九州が中心です。
 このように考古学的事実も畿内説は成立しないのです。「邪馬台国」論争の基礎史料である倭人伝の記述と考古学的出土事実が畿内説では一致しないのに、畿内説を支持する考古学者が少なくないという考古学界の状況は全く理解に苦しみます。物(遺物・遺跡)を研究対象とする考古学は、近畿天皇家一元史観(戦後 型皇国史観)ではなく、「自然科学」としての観測事実や出土事実にのみ忠実であるべきだと思うのですが、畿内説を支持しなければならない、何か特別な事情でもあるのでしょうか。わたしは、それを学問的態度とは思いません。(つづく)


第742話 2014/07/10

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(5)

 今朝は長岡から金沢・小松・福井へと向かっていますが、雨の影響で列車が遅れており、お客様との約束の時間に間に合うだろうかとひやひやしています。

 『三国志』倭人伝には行程記事・総里程記事以外にも女王国の所在地を推定できる記事があります。この記事も畿内説論者は知ってか知らずか、古田先生からの指摘があるにもかかわらず無視しています。こうした無視も学問的態度とは言い難いものです。
 倭人伝冒頭には畿内説を否定する記事がいきなり記されています。次の記事です。

 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

 倭人の国、倭国は帯方(ソウル付近とされる)の東南の大海の中にある島国であると記されています。中国人は倭国を島国と認識していたのですが、九州島は文字通り「山島」でぴったりですが、本州島はこの時代には島なのか半島なのかを認識されていた痕跡はありません。本州島を島と認識するためには津軽海峡の存在を知っていることが不可欠ですが、『三国志』の時代に中国人が津軽海峡を認識していた痕跡はないのです。
 従って、倭人伝冒頭のこの記事を素直に理解すれば、倭国の中心国である女王国(邪馬壹国)が九州島内にあったとされていることは明白です。ですから、倭人伝は冒頭から畿内説が成立しないことを示しているのです。畿内説論者は自説の成立を否定するこの記事の存在を、古田先生が指摘してきたにもかかわらず、 無視してきました。こうした態度も学問的とは言えません。ですから、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではないことを、倭人伝冒頭の記事も指し示しているのです。(つづく)


第741話 2014/07/09

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(4)

 今日の新潟地方は大雨・雷・土砂崩れと難儀な出張になりました。各地で被害が出ているようで心配です。

 「邪馬台国」畿内説論者による、『三国志』倭人伝の行程記事の改竄(研究不正)について説明を続けてきましたが、彼らの 研究不正は他にもあります。それは自説にとって決定的に不利な記事(基礎データ)を無視(拒絶)するという研究不正です。この方法が許されると、たとえば 裁判などでは冤罪が続出することでしょう。学問としては絶対にとってはならない手法です。理系論文で自説を否定する実験データを故意に無視したり、隠したりしたら、これも即アウト、レッドカード(退場)ですが、日本古代史学界では集団で研究不正を黙認していますから、「古代史村」から追放される心配はなさそうです。
 倭人伝には行程記事以外にも女王国の所在地を示す総里程記事(距離情報)が明確に記されています。次の通りです。

 「郡より女王国に至る万二千余里」

 「郡」とは帯方郡(ソウル付近と考えられています)のこと、女王国は邪馬壹国のことですが、その距離が12000里余りとありますから、1里が何メートルかわかれば、単純計算で女王国の位置の検討がつきます。少なくとも、北部九州か奈良県のどちらであるかはわかります。 「古代中国の里」の研究によれば、倭人伝の「里」は漢代の約435mとする「長里」説と、周代の約77mとする「短里」説の二説があり、それ以外の有力説はありません。それでは倭人伝の記事(基礎データ)に基づいて単純計算してみましょう。

短里 77m×12000里=924000m=924km
長里 435m×12000里=5220000m=5220km

 短里の場合は北部九州(博多湾岸付近)となりますが、長里の場合は博多湾岸はおろか奈良県(畿内)もはるかに通り越し、 太平洋の彼方に女王国はあることになってしまいます。従いまして、倭人伝の総里程記事(基礎データ)に基づくのであれば、倭人伝は短里を採用しており、女王国の位置は北部九州(博多湾岸付近)と見なさざるを得ません。短里であろうと長里であろうと、間違っても奈良県(畿内)ではありません。
 この基礎データに基づく小学生でもできるかけ算が、少なくとも義務教育を終えたはずの畿内説論者にできないはずはありませんから、彼らは自説を否定する 基礎データ(12000余里)を無視・拒絶するという、非学問的な態度をとっていることは明白です。これは研究不正であり、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではない証拠の一つなのです。(つづく)


第740話 2014/07/08

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(3)

 今朝は新幹線で東京に向かっています。午後、さいたま市で仕事をした後、夜は新潟県長岡市に入ります。週末まで出張が続きますので、帰りに大型の台風8号と遭遇しそうです。
 先日の四国講演では、能島(のしま)上陸・クルージングを楽しんだり、阿部誠一さん(古田史学の会・四国の新会長、今治市)の彫刻アトリエを見せていただいたりと貴重な体験をさせていただきました。瀬戸内海の海流の速さや、小島・岩礁の多さも瀬戸内海の特徴ですが、自分の目で見ることにより瀬戸内海航行が難しいことを実感しました。
 阿部さんのアトリエには多数のブロンズ像や塑像が所狭しと並べられており、芸術家の情熱とその作品の迫力に圧倒されました。少女像や裸婦像を得意とされておられ、高松市の公園にも阿部さんの作品が立てられているほどの著名な彫刻家です。今まで造った作品は500点以上とのことで、近年は古田史学の勉強や活動に時間がとられ、作品製作のペースが落ちたそうです。古田先生の銅像も造りたいので、先生の写真をたくさん撮っておいてほしいと頼まれました。

 「邪馬台国」畿内説論者が『三国志』倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心 である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。今回は この研究不正の動機について解説します。
 既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のよう なものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)
(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)
(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)
(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)
(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)
(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。
(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)
(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。
(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)

 これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。ですから、畿内説は学説ではありません。学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
 ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする古田武彦という歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。(つづく)


第739話 2014/07/06

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(2)

 一昨日は愛知県一宮市で開催された繊維機械学会記念講演会で「機能性色素」を テーマに講演し、昨日は「古田史学の会・四国」主催の講演を行いました。テーマは「九州年号史料の出現と展望」で、その後の懇親会も含めて活発な質疑応答がなされました。「古田史学の会・四国」での講演はこれまで何回もさせていただきましたが、質問内容などが年毎に深く鋭いものになっており、「古田史学の 会・四国」が発展している様子を感じとれました。
 今日は合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会・事務局長)のご案内で能島(のしま)上陸・潮流クルージングに参加します。能島は村上水軍の拠点で、「海城」として唯一国の史跡に指定されています。今回、特別に能島上陸・潮流クルージングが企画されたとのことで、合田さんのおすすめもあり参加することにしました。

 さて、「邪馬台国」畿内説が「研究不正」の上で成り立っていることを「洛中洛外日記」738話で指摘しましたが、畿内説 論者が何故『三国志』倭人伝の「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記事の「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄(研究不正)したのか、そ の「動機」について解説したいと思います。
 倭人伝には邪馬壹国の位置情報としていくつかの記述がありますが、行程記事の概要は朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸と進み、その南、邪馬壹国に至るとあります。したがって、どのように考えても邪馬壹国(女王国)は博多湾岸の南方向にあることは明確ですから、「南」を「東」に改竄しなければ、方角的に奈良県に邪馬壹国を比定することは不可能です。そこで、「南」を「東」とする改竄(研究不正)に走ったのです。
 しかし、それだけでは畿内説にとっては不十分です。というのも、改竄(研究不正)により、邪馬壹国を博多湾岸よりも「東」方向にできても、それだけでは 四国や本州島全域が対象地域となってしまい、「畿内」(奈良県)に限定することはできないからです。そこで、畿内説論者はもう一つの改竄(研究不正)を強 行しました。(つづく)


第738話 2014/07/05

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(1)

 今日は早朝の新幹線と特急を乗り継いでで松山市へ向かっています。「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演するためです。移動時間を利用して、前々から書きたかったテーマ、「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」の執筆を始めたいと思います。

 世にいう「邪馬台国」論争は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているはずですが、マスコミや一元史観の学者・研究者では、あいもかわらず「邪馬台国」論争が続けられています。中でも困ったものが「邪馬台国」畿内説という非学問的な「臆説」「珍説」です。そもそも畿内説というものが学問的仮説、すなわち「学説」と言うに値するでしょうか。わたしは畿内説は学説ではないと考えていますが、なぜ学説ではないかということを「洛中洛外日記」で数回に分けて説明することにします。
 たとえば理系の新発見や研究について、新たな仮説を発表する場合、実験データや観測データ、測定データ等の提示が不可欠です。さらにそれらの再現性を担保するために、実験方法や測定・分析方法も開示します。
 企業研究の場合は、それらデータも含めて「発見・発明」そのものを隠します。そもそも企業が自らの経営資源(ヒト・モノ・カネ)を投入して得た新知見を発表(無償で教える)して公知にすることは普通しません(特許出願は例外)。
 しかし、学者や研究者は人類の幸福や社会の発展のために自らの発見や仮説・アイデアを公知(論文発表など)にします。そしてその仮説が他の研究者による追試や利用(コピペもOKです。理系論文には著作権が発生しません)されながら、広く公知となり、真理であればやがて安定した学説として認められます。
 その際、各種データの改竄や捏造は「研究不正」としてやがては明らかとなり、そのような学者・研究者は省みられなくなり学界から淘汰されます。意図的な改竄や捏造ではなく、単純ミスやデータの取り違えは、残念ながら完全には無くなりませんので、その場合は訂正するか、訂正により仮説そのものが成立しなくなった場合は仮説が撤回されます。悪意のないミスであれば、信頼感は揺らぎますが、学界はそのこと自体をそれほど神経質にとがめることはありませんでし た。それよりも、少々不完全・未熟であっても様々な仮説やアイデアを自由に発表しあえる環境のほうが科学の発展にプラスと受け止められてきたものです。で すから、学生や若い研究者の不慣れで未熟な発表でも、温かい目で許容し、ほめたり、励ましたり、助言を与えたりしたものです。こうした研究環境の中で、若 い研究者は成長し、荒削りだけども若さゆえの既成概念にとらわれない画期的な仮説が発表され、そうした青年からの刺激を受けて科学は発展してきたのです。ノーベル賞受賞研究の多くが20代30代の頃の研究成果であることも、このこと裏付けています。
 ところが、近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究するという変な時代になってしまいましたので、「お金」「出世」「地位」に目がくらんで、研究不正(悪意のある意図的なデータ改竄・捏造)を行うケースが発生するようになりました。その結果、科学や研究は大きく傷つきまし た。それに追い打ちをかけたのがマスコミによる無分別なバッシング報道です。悪意のない単純ミスまでもを「研究不正」としてバッシングし始めたのです。小保方さんはその犠牲者だと、わたしは思います。先日も、ある化学系学会の集まりでご年輩の化学者(その分野では日本を代表する方。わたしは若い頃、その方が書いた本や論文で有機合成化学を学びました)が、「あんなにマスコミや理研がバッシングしたら、若い研究者が育たない。才能を潰してしまう」と嘆いておられました。わたしも同感です。
 それでは「邪馬台国」論争のような文献史学ではどうでしょうか。『三国志』倭人伝を基礎史料(データ)として仮説や論理を組み立て、その優劣を競うわけですが、その場合でも学問としては理系と同様ですから、必要にして十分な調査・証明なしでの史料(データ)の意図的な改竄・捏造は許されません。結論その ものに影響する改竄などもってのほかです。このことは容易にご理解いただけることでしょう。
 ところが、「邪馬台国」畿内説はこのデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。たとえば、 倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即アウト、レッドカード(退場)です。それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか「不思議」ですね。(つづく)


第737話 2014/06/29

好太王碑文の罫線

 「洛中洛外日記」735話の「『広開土王碑』改竄論争の終焉」において、古典研究会編『汲古』第65号掲載の武田幸男氏「広開土王碑『多胡碑記念館本』の調査報告」を紹介しましたが、同論稿はとても勉強になりました。
 たとえば、同碑文の行間や天地に罫線があることを初めて知りました。好太王碑文の拓本はほぼ全面が石灰塗布により字形を「復元」したものが多く、その石 灰塗布により罫線が埋められたため、拓本には罫線が消えているので、わたしは同碑文に罫線があることを知りませんでした。金石文研究においては「実物を見 る」という作業が重要であることを改めて認識させられました。
 もう一つ勉強になったことに、好太王碑文拓本の種類についての現在の研究状況についてでした。わたしは石灰塗布による拓本ぐらいしか知らなかったのです が、武田稿によれば「石灰拓本」以外にも石灰塗布以前の「原石拓本」(水谷悌二郎本)、そしてその「原石拓本」によって釈文し、全て手で書き上げた「墨水 廓填本」(酒勾景信本)があるとのことです。「石灰拓本」は何種類もあるようで、塗布した石灰の一部が剥離し、その程度により各「石灰拓本」の文字に異同 が発生します。その違いに着目して、各拓本の成立時期の先後関係を考察したのが武田稿です。
 特にわたしが驚いたのは酒勾景信本が手書きの「墨水廓填本」とされていることでした。酒勾大尉が持ち帰った好太王碑文は「石灰拓本」(「双鈎」本:ふちどり文字。石碑の面に紙をあて、字の輪郭を墨でふちどって字形を作るやり方。)と聞いていましたので、「墨水廓填」の定義も含めて再勉強の必要を感じてい ます。
 今回この「洛中洛外日記」を書くにあたり、古田先生の『失われた九州王朝』を始め、藤田友治さんの『好太王碑論争の解明』(1986年、新泉社)などを 再読しました。わたしが古田史学に出会った頃の書籍ですので、とても懐かしく思いました。1985年に中国の集安まで行き、好太王碑を現地調査されている 古田先生や藤田友治さん(故人)高田かつ子さん(故人)の写真などもあり、感慨深いものがありました。


第736話 2014/06/28

若き親鸞を失ったであろう

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の呼びかけで高松市在住の古田史学の会・会員による月例会が企画されているとのことで、先日、四国出張のおり当地の会員さんにお会いし、夕食をご一緒させていただきました。
 そのときに「古田史学の会」や古田学派からの一元史観への厳しい批判や態度などが話題にのぼりました。わたしは、古田史学を学ぶ覚悟として、次のエピ ソードを紹介しました。昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争シンポジウムでのことで、司会をされていた山田宗睦さんから次のような発言がありました。

 「古田さんが孤立している一つの原因は、論争的言辞の過剰にある。私はそう見ています。」

 山田さんは古田先生のことを思っての発言でしたが、それに対して古田先生は次のように答えられたのです。

 「山田さんの前では面はゆいんですが、ソクラテスが周辺から注目されるわけですね。『あなたは露骨に刺激的なことを言い過ぎる』と。だから憎まれて死刑になりそうになったのだと。もっとうまくやりなさい、と。ソクラテスは、いや、私はもう老人だと。こんな死を前にした老人が、なんで死を恐れる必要があろうか、と言って拒絶するわけですね。そして見事に死刑になって死んでいくわけです。(中略)
 同じ例は日本でもあります。法然が晩年に、門弟の中の長老から諫められるわけです。『あなたは専修念仏ということを言って、朝廷や貴族から憎まれる。露骨に言い過ぎる。もっと表面は旧仏教なみの穏やかな、模糊としたやり方にしておいて、内々で専修念仏を我々だけでやるようにしましょう。そうしてほしい』と。法然のためを思って言うんです。すると、いつもは穏やかな法然が断乎、その時はノウ、と拒絶するわけです。それはできないと。たとえ首を斬られても、 専修念仏をみんなの前で今まで通り言い続けます、と言うんですね。おそらくあの時、長老はじめ弟子たちは辟易したと思うんです。せっかく法然先生のことを思って私たち言ったのに、しょうもない、やっぱり性格というものは直らないなあと。
 しかし、私は思うんですが、あそこで、もし法然が長老の意見を取り入れて、穏健、ほのめかしの法然になっていたら、親鸞を失ったと思います。若き親鸞は去って行ったと思います。私はあの法然が正しかったと思っているわけです。」(『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(東方史学会/古田武彦編。新泉社、 1992年)104頁「ソクラテスと法然の場合」に収録)

 このときの古田先生の発言を、わたしは運営協力者の一人(市民の古代研究会・事務局長)として、感動に震えながら聞いていました。古田先生の発言は表面的には山田さんへの返答だったのですが、その実、会場に来ていた多くの古田学派への強烈なメッセージだったのです。「若き『親鸞』よ、出よ」というわたしたちへの呼びかけだったと私は受け止めたのです。このとき30歳代半ばだったわたしは、古田先生を支持し古田史学に半生を捧げる覚悟を決めました。 しかし、ちようどその頃勃発した和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングの嵐により、会場に来ていた「兄弟子」たちの少なくない人々は、その後、古田先生のもとを去りました。
 「若き親鸞を失ったであろう」という先生の言葉は、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。あのときから四半世紀がたちましたが、この「古田史学を学ぶ覚悟」は、わたしたち「古田史学の会」に今も脈打っているのです。